「ねえねえ、彼氏とは仲良くやってる?」
「…まあ」
桜台中学校、二年一組の教室の片隅で、数人の女子生徒がひそひそ話を始めた。
尋ねられた女子学生は、努めてそっけない返事をしながらも、まんざらでもない様子で、口元を綻ばせた。
「へーそれは良かったねぇ」
取り囲む他の女子学生たちも、にやにやと笑みを浮かべる。
「ゴールデンウィーク、ふたりでどっか遊びに行くの?」
「たぶん」
「そっか。じゃあさ…」
そこで、彼女たちの話し声は、いっそう小さくなる。
「どこまで許すの?」
「は!?なに、いきなり…」
「彼氏と一緒にいたら、手をつないだり、キスしたりしたいな~と思うの、普通じゃん」
いかにも、そんなのなんでもないことだ、というような、大人びた言い方だった。
「自然な流れで、あれしたいな~と思ったりするかもね」
「ばかっ、やめてよ」
「だから、どこまで許すかって聞いてんじゃん」
ガタッ。
莉子は席を立った。
─わずらわしい。
友人たちは、聞こえるように話している。莉子は、けれど、何も言わずに教室から出て行った。
莉子の姿を目で追っていた女子学生たちは、莉子が視界から消えると、再び円を小さくして、こそこそと話をした。
「なに。この前まで、自分ものってきてたのにね」
「仕方ないよ。莉子のお母さん、新しい男と子供作っちゃったんだってさ」
「えっ、マジ?」
「うん。うちのお母さんが、莉子のお母さんとスーパーで会って、マタニティマークつけてるのに気付いてさ…」
「マジ?やだ~、いい年して、節操なくない?」
「親がそういうことしてるって考えると、気持ち悪いわ~」
女子学生たちの声は次第に大きくなっていたが、本人たちには自覚がなかった。それを聞いていた男子学生たちも、ひそひそと、同じような話題を始める。
─はぁ…。
窓際の席に片肘ついて座っていた蓮は、校庭のほうを見ながらため息をついた。
生徒数の少ない桜台中学校は、一学年一クラス。新学期を迎えても、クラス編成は変わらなかった。
前年度の後半から、徐々に、こういった話題が出始めた。誰がやった、やらないの話でもちきりのクラスメイト。もちろん、そういった事実はありはしないだろうが…中学二年生というのは、多感な時期だ。
そういう話をしたがるのは、スクールカーストでいうと上位の者ばかり。話の輪に入らない学生もいたが、そういう学生たちを、カースト上位の学生たちは見下している。そんな連中と、卒業まで一緒のクラス。
過疎地域の中学校というとのんびりと穏やかな印象を受けがちだが、なじめないと逃げ場がない。そういう難しさがあった。
─見下すのは勝手だけど…
蓮は、ちらと莉子の席を見やった。
─勝手に噂話するんじゃねえよ。
カースト上位の女子グループから、莉子は離脱した。
年が明けた頃だった。莉子は髪をベリーショートにし、先ほど女子生徒たちがしていたような話題を、避けるようになった。そうすると、徐々に仲の良かったグループから外されるようになり、かといって、別のグループにも属さず、孤立している。
─莉子の母さんと新しい父さんの子…。
蓮も母のすみれから、莉子の母が再婚し、新しい夫との子供を妊娠したことは聞いていた。狭い町なので、噂は広がる。
莉子は廊下の窓から、ぼんやりと外を眺めていた。何もかもが、今までと違って見えるようになっていた。それがどうしてなのか、けれど、莉子には分からないのだった。
莉子はなるべくゆっくりと廊下を歩いて、靴箱からおもむろにスニーカーを取り出し、履き替えた。
─今日も六時間ならよかったのに。
五時間授業で部活をしない場合は、下校時刻が三時半になる。四時には家についてしまう。
─授業がもっと長ければいいのにと思うようになるなんて…
半年前には思いもしなかったことである。
─ゴールデンウィークか。
もうすぐ、長期休暇がやってくる。これも、以前なら楽しみにしていた。家族で旅行したり、友達と遠くまで足を伸ばして映画を見たり、家で好きな漫画を読んだり。けれど、今年は全然楽しみではない。友達とは連れ合わなくなり、部活は休むようになり、行くところはない。家で長い時間を過ごさなければならないのは苦痛だ。
莉子は花壇の前にしゃがみこんだ。
母・美穂の再婚相手は、入籍する何ヶ月も前から紹介されていた。
莉子は理解力のある娘でいようと努めた。新しく父親になる人は母よりも若く、どこか頼りないところもあるけれど、優しい、いい人に思えていた。籍を入れてからも、莉子はなるべく親しくしようと努めた。
しかし、美穂が妊娠をすると、莉子の目に、新しい父親は一人の男として映るようになり、お母さんだった人が、一人の女性であることを知らされることになった。
─気持ち悪い!
莉子の素の感覚は、教室で色気づいたことを喋っていた、女子学生たちと変わらない。
色気づいたネタには、それまで戸惑いながらも付き合えていた莉子だったが、他人事ではなくなると、急に嫌悪感を抱くようになった。
それと同時に、空虚感をも抱くようになった。
しかし、莉子には自分が抱いている感情を言葉では表現できないし、なぜその感情が発生するのかも分からなかった。
自分の心に浮かび上がることが、いちいち、説明できない。正体が分からないものは、恐ろしかった。
莉子は子供ができる仕組みを知ってはいるが、まだ理解していない。子供を作る行動の、素晴らしい側面は分からず、ただ汚らわしいものという印象が濃くなった。
─親のことを思い浮かべるのが、いや。
そして莉子の嫌悪感は、被害妄想になった。
─自分にも手を出されたら…
莉子は、自分が女であることに、否定的な感情を抱くようになった。
女であると自覚させるようなものは─性別で参加可否が決まる花祭であれ、体格が浮き彫りになる服装であれ、髪型であれ─遠ざけたかった。
しかし、どうしようもなく、自分が女であることを知らされるものがある。
月経。
無月経になった時、莉子はほっとしていた。月に一度、自分が女であることを自覚させるもの。
─来なくていい。
が、美穂に連れられ、産婦人科で処方された薬を飲むと、その数週間後に、月経がまた来るようになった。
月経が来ないことを、大人たちはひどく問題視した。莉子は、それがなぜなのかも、まだ完全には分かっていない…。
莉子は、立ち上がった。学生や先生がうろうろしている校舎前で時間を潰すのは、限界があった。
「きゃあああっ」
門の方へ進むと、部活のためか、体操着になっているクラスの女子学生たちが、ホースから出る水を浴びていた。
─なにやってんの。
莉子は白けた表情で彼女たちを見た。
何かを洗っていた拍子に水がかかったのか、そのままやけくそになって、お互いに水を浴びせあっているようだ。黒い下着をつけている子などは、体操着から透けて見えてしまう…
「きゃあっ」
右の頬に水圧と冷たさを感じて、莉子は思わず声をあげる。咄嗟に瞑った目を開いた時には、ひんやりとした感覚を覚え、体の前面が水に濡れていた。
「気持ちいいでしょ、莉子も水浴びしなよ」
「なにすんの」
莉子はスカートのポケットからハンカチを取り出し、顔を拭いた。それだけで、薄いハンカチはぐっしょりと水を含み、使い物にならなくなった。
「なにしてんの、ばっかじゃない」
莉子の罵りに、女子学生たちはムッとした表情になる。
「なにしてんのはこっちのセリフ」
そのうちの一人が、腕組みをして、莉子に歩み寄った。
「態度悪くない?親が再婚して、母親が妊娠して、寂しいの?」
女子学生は莉子を睨みつけた。莉子も負けじと睨み返す。
「不幸ヅラして、部活も来なくなっちゃってさ」
「…」
しかし、莉子は言い返せなかった。豹変したのは、自分のほうなのだから。周りがその変化についていけないのは、無理もない…
「おーい、なにやっとる!」
ここから近い職員室にも騒ぎ声が聞こえていたのが、女性の教員が注意しに来た。
莉子はリュックを体の前に背負い直すと、その場を走り去った。
南門の前でしゃがみこみ、蓮はスマホを指でなぞっていた。
─よし!
良い知らせである。今夜、前原はハイウォールを訪れるらしい。松下クリニックは、水曜午後は休診。もしかしたら順正にも会えるかも。
─ゴールデンウィークの約束しておかなきゃ。
また外岩に連れて行ってくれと、頼むつもりだった。
蓮は立ち上がった。
去年、あんなにも「服に着られている」と母親からバカにされていた学ランも、近頃では、やっと体になじんできた。その学ランも、始業式の頃までは羽織っていたのに、もうこのところでは、シャツすら長袖は必要なくなった。したがって蓮は半袖のシャツに、夏用のズボンを履いている。これでも暑いくらいだった。
タッタッタッタ
けたたましい足音がして、蓮は門の中を振り返った。リュックを前に抱える格好で、莉子が走って来る。莉子はほんの一瞬、門の前に立つ蓮を見たが、すぐに視線を逸らして、走り去った。
─そりゃ、暑いけど…
莉子の髪は、しとどに濡れていた。莉子が走り抜けていくと、水滴がぽたぽたと落ちて、道に跡を作った。さすがに、汗が玉になって落ちるほどの暑さではない…
─って…
そうではない。蓮は莉子を追いかけた。
ばっさばっさと、プリーツスカートが脚に当たるし、水を吸ったセーラー服は重いしで、莉子はこれでも、全速力を出せていなかった。しかし、蓮が追い付くのに苦労するほど、莉子の足は早い。
─さすが、バスケ部のエース。
莉子は女子の中でも背が高く、運動神経が良く、女子バスケ部期待の星だった。もっとも、今はほぼ幽霊部員だが。
「待て、莉子」
この同級生の名前を呼んだのは久しぶりだった。小学校五年生くらいまでは、よく近所の公園で遊んでいたのに。
「待てって」
蓮は莉子の左腕をつかんだ。莉子は汚いものでも見るような目で、蓮を見、手を振り払った。
「やめてよ…!」
蓮はその反動で、後ろに倒れそうになった。
─すげぇ力だな。
しかし、それで莉子は足を止めた。前髪が束になって、莉子の眉にかかっている。
「お前…どうしたの?」
セーラー服の紺色の襟が、より濃い紺色になっている。リュックで隠れてはいるが、体の前側がひどく濡れている。
「誰かにやられたのか」
蓮の頭には、莉子がいじめられている絵が浮かんだ。
自分も人のことは言えないが、最近の莉子は、いついじめられておかしくないくらい、浮いている存在である。
莉子はフーフーと息を切らしていた。
蓮は、リュックの中から半袖の黒いティーシャツを出し、莉子に渡した。ジムで着ている服だった。
「上から着ろよ」
「いらない。そんなの変でしょ」
莉子は、再び蓮の手を払った。
─いってぇ…
と、声が出かかったが、歯を食いしばって声を押さえた。この当たりのやせ我慢は、ジムの連中とつるんでいる間にうつった。
「その恰好よりは、マシだと思うけど」
リュックを前に背負った格好よりは。
莉子は気づいていないが…セーラー服の後ろ側まで濡れてしまっていて、幾分透けている。でもそれは、絶対莉子に言ってはならない。ほとんど直感的に蓮はそう判断した。
並んで立つと、やっぱり二人は同じくらいの背丈だった。体格も、今の時点でそれほど変わらない。セーラー服の上から、自分の体格と比べてそう大きくないティーシャツを着たら不格好だろうが、それでも透けた部分をカバーできる。
蓮はきょろきょろとあたりを見回す。上沢も、足込町と負けず劣らずの田舎。もともと人通りは少ないし、誰も通りがかって来なさそうだった。
「ほら、今がチャンスだ。鞄貸せよ」
蓮は問答無用でリュックをつかみ、前に引き抜いた。こんな状況を誰かに見られでもしたら、圧倒的に蓮が不利だ。
蓮は精一杯の眼圧を送り、莉子に早くティーシャツを着るよう促した。莉子はさすがに蓮の形相に真剣さを感じ、自分もきょろきょろと周囲を見渡したあとで、急いでティーシャツを着た。セーラー服の輪郭が浮かび上がって、すっごく変だ。
「返して」
「返すよ」
蓮はリュックを突き返した。言われなくても、莉子のリュックなんか持っててもしょうがない。
莉子はリュックを背負うと、細い田舎道を駆け抜けていった。道路と歩道を仕切る垣根には、ピンク色のつつじがいっぱい咲いていた。
母・美穂の車があるのを見て、莉子は落胆した。
─やっぱり、家にいる、か。
莉子は玄関に入ると、一目散に風呂場へ直行した。物音を聞きつけた美穂が、お風呂場へ入る。
「莉子、帰ったの?どうしたの?」
「汗かいたからお風呂」
扉一枚を隔てて、シャワーの音とともに莉子の声が聞こえた。
スカートは脱衣かごに掛けられ、セーラー服は、洗濯機の上に広げて置かれていた。
美穂は胸騒ぎを覚えながらも、言葉がつかえた。最近、娘に対し、思っていることをきちんと伝えられない美穂なのであった。
莉子は風呂場で、蓮から借りたティーシャツを洗った。風呂から出て、ドライヤーで髪を乾かしている間に、洗濯機で脱水させる。それから、ティーシャツにも、制服にも軽くドライヤーをかける。荷物を持って部屋へ入ると、ティーシャツと制服をハンガーに引っ掛けて、ベランダに出して乾かした。
─どうしてこんなものを持っているんだろう。
と、莉子は今更ながら不思議に思った。中学の体操着ではない。蓮は、これを着てどこかに行くつもりだったのか。なんにしても、厄介な代物だ。学校でこっそりこれを返す時に、誰かに見られたら面倒くさいことになる。
「莉子、どこへ行くの?」
しばらくして、美穂は玄関で靴を履いている莉子に問いかけた。
ティーシャツに、黒いジャージ。手には適当な鞄をひっかけている。年頃の娘とも思えない格好で、どこへ行くというのか。それももうすぐ、日が暮れるというのに。
「ちょっと友達に借りてるものあるから、帰してくるよ」
莉子は自転車にまたがって、蓮の家へと向かった。自転車なら、ここから五分程度である。
蓮の家には車が停まっていた。
─おばさん、いるのかな。
蓮の母・すみれは、看護師をしていて、勤怠が不規則。家にいないことも多いということを、莉子は知っていた。
「わっ」
玄関に歩み寄ったところで急に扉が開き、中から蓮が出て来た。半袖のティーシャツにジャージという、莉子とほぼ変わらない出で立ちだ。蓮も驚いたようで、急いで扉を閉めた。中には電気が灯ったままだ。
「なに?」
「こ…これを返しにきたの」
莉子はビニール袋を蓮に渡した。
「ちゃんと洗ったから」
そんなところに、しっかり者の莉子の性格が垣間見れた。
─別に急いで返さなくてもよかったのに。
と思いながら、蓮は莉子に貸した服をリュックの中に押し込んだ。また家に戻るのも面倒くさかった。
蓮が家の中に入らず、庭に停めてあるクロスバイクにまたがるのを見て、莉子は目を丸くした。もう夕ご飯時だが…
「どこかに行くの?」
考えるより先に、声が出ていた。
蓮はクロスバイクにまたがったまま、足で地面を蹴って、家の外に出た。垣根の前には、莉子の自転車が停まっていた。
「ハイウォールだよ」
「ハイウォール?」
「うん。クライミングジム」
大人たちが来るのは夜の時間帯。蓮はそれに合わせて家を出たのだ。
莉子の脳裏に、ある期待がよぎった。
─ついていけば…
今日は親たちと、顔を合わせなくて済む。何かあったのだと感づかれているだろう。詮索されることを思うと、帰るのが億劫だった。
その瞬間、蓮と並んで自転車をこいでいる場面を誰かに見られたら、それこそ面倒くさいことになるなどという考えは、浮かびもしなかった。
「どこにあるの?」
蓮はペダルに足を置いたが、前方に莉子が立ちはだかったので、足を踏み出すことができなかった。
「…お前も来る?」
新生児室に入ると、順正はコット(新生児用の可動式ベッド)に寝かされている新生児たちの様子を見て回った。
松下クリニックの助産師と看護師を、順正は信頼している。口には出さないが…。新生児たちの状態は、彼女たちがつきっきりで見ているから、特に心配していない。
それでも、順正は一台の保育器の前で、足を止めた。昨日生まれたばかりの新生児が寝ている。三十九週で、自然分娩で生まれた。しかし、もともと低体重気味で、出生体重も、ぎりぎり二千五百グラムに届かなかった。
この子の母親は、すでに産後鬱らしき兆候が出始めている。
─私のせいで、低体重で生まれてしまったんですか?
二千五百グラムを切っていても、今のところ異常はなかった。しかし、保育器の中に入っている小さな我が子を見た瞬間、母親はしくしくと泣き始めた。母親の目に、あまりにも弱弱しく、今にも死んでしまいそうに見えたのだ。
─つわりがひどかったから。
─ちゃんと栄養を与えられなかったから。
─私のせいで…
─この子はちゃんと育つんですか?
この子より、もっともっと低体重で生まれた赤ちゃんをたくさん見ている順正としては、この子にそう大きな問題があるとは思わない。
しかし、母親は我が子の発育上の不安と自責の念を感じ、食べ物をあまり受け付けない。赤ちゃんの姿を見ると、泣いてしまうからといって、見にも来ない。
「あら、柴崎先生」
新生児室に入って来たのは、助産師の岡本だった。
「まだお帰りにならないんですか」
順正はそれには答えず、岡本が持っている哺乳瓶を見た。聡い岡本は、順正の視線から、彼が気にかけていることに気づく。
「お母さん、搾乳は頑張っておられて」
「そうか」
岡本は保育器に歩み寄った。
「会いにきてほしいですね」
「そうだな」
せめて良いお乳を出すためにも、食事はちゃんと摂ってほしいのだが。
「母親は、寝たか」
「いえ。まだだと思います」
順正はそれを聞くと、保育器から離れた。
「それをやったら、一緒に来てくれ」
「お母さんのところにですか?」
「ああ」
順正は新生児室の扉の前で、後ろを振り返った。
「その子の状態を説明しに行こう」
どこに行くのかと思ったら、行きついた先は、トタン材を外壁に使った大きなガレージのような施設。
─クライミングジム・ハイウォール。
数台の車が停まっている。二人は裏に自転車を停め、入り口へ回った。
「いらっしゃい」
藤野は蓮をちらっと見て、それから二度見した。蓮の後ろに、同い年くらいの女の子がいるのが目に入ったからである。
「…いらっしゃい」
蓮に対するより柔らかい声で、藤野は声をかけた。
薄暗い受付スペースの向こうに、異様な空間が広がっている。莉子はそれを見て、呆気にとられていた。そそり立つ高い壁、その壁を埋め尽くす色とりどりの石、その石をつかみ、壁を登っている人たち。
莉子が中の様子を眺めている間に、蓮は受付を済ませた。
「あの子は登るの?」
蓮は訊かれたが、答えられなかった。莉子はこんなところに連れて来られるとは、思っていなかっただろう。莉子は、二人のやり取りに気が付き、受付カウンターに歩み寄った。
「初めて?」
「はい」
藤野はさりげなく莉子を見て、頷いた。
「初回は登録料がかかるんですよ」
莉子は藤野が指差す、ラミネート加工された料金表に視線を落とした。登録料が五百円。
「学生さんは、一回千円です」
それが、施設使用料。他に、シューズやチョークバックのレンタル料も取られるらしい。
─お金がかかるのか。
莉子は、お金をそんなに持っていなかった。
「見学にしとけば?」
蓮の声がロッカーのほうから聞こえた。ロッカーといっても、扉も鍵もついていない、ただの棚だが。
蓮はリュックを開け、袋の中からシューズとチョークバックを取り出す。
莉子は見学にすると決め、階段下の壁に背を預けて体操座りし、登っている人たちを眺めた。
施設の中には、ラジオがかかっている。外はもう薄暗いけれど、ジムの中はこうこうと光に満ちている。奥にある、オーバーハングした壁には、ところどころ小さな穴が開いていて、そこから光が漏れ出し、きらきらと、まるで宝石のようであった。
「…彼女?」
「ちがうよ」
受付スペースでストレッチする蓮に、藤野はさりげなく訊いたが、蓮は即座に否定した。
「友達か」
「…ただの同級性だよ」
「でもお前、あの子を連れて来たんだろう」
連れて来たというか、連れて来させられたというか…
「ちゃんと登り方教えてやれよ」
それは藤野の仕事ではないのだろうか。しかし、お金を払っていない以上、莉子はハイウォールの客ではなく、自分の連れということになり、面倒を見るべきなのは自分ということになるのか。
「お前、母さんに外に出るって言ってきたの?」
蓮は莉子に尋ねた。
「…うん」
─嘘くせぇ。
蓮は頭を掻いた。
「少ししたら、帰れよ」
時刻はもう、六時を過ぎていた。莉子の家ではもう、夕食の時間ではないのか。
「うるさいなぁ」
莉子は蓮を追い払うように、手を振った。
「さっさと登りなさいよ」
─かわいくねぇ。
順正は松下クリニックを出ると、すぐ近くの松下邸まで、微動した。
前原から、時間があるならジムに来るように連絡があったのだが、珍しく、松下が宅飲みに誘ってきた。どちらを優先すべきか、自明であった。
「あら~!順ちゃん」
順正が玄関に入るや否や、松下の妻・敬子が両手を振りながら近寄って来た。春らしいふんわりとした黄色のブラウスに、白いズボンを合わせている。順正を順ちゃん呼ばわりするのは、後にも先にも、この夫人くらいだろう。
「お疲れさま~。主人は今お風呂に入ってるから、上がって待っててね」
松下宅は、フローリングの板材の色が濃く、家具も重厚感のある深い色合いのものが多くて、どことなくあかつきと似ている。
この家の居間で圧倒的な存在感を放っているのが、ビルトイン暖炉。周りを耐火レンガが覆い、これも重厚感のある雰囲気を作り出している。もちろん、今は火は燃えていない。けれど、暖炉に面する形でダイニングスペースが設けられていることもあり、順正の足は自然とそちらへ吸い寄せられた。
大きなシェードが印象的なフロアライトに灯りを灯すと、敬子はソファに座る順正を盗み見た。白シャツにグレーのスラックスという姿。シンプルな服装だが、なにせ体格がいいので、見栄えがする。
─目の保養だわ。
敬子はにやにやと笑みがこぼれてしまうのをどうしようもできない。
盗み見ているつもりでも、順正には痛いほどの視線が感じられ、居心地が悪い。
ほどなくしてリビングに現れた松下は、順正の向かいに座った。灰色のスウェットズボンに生成りのトレーナーという恰好である。
「おう、待たせたね」
ソファに背をもたげ、テーブルを見ると、まだ何も並んでいない。
「メシ、まだだろ」
「はい」
「おーい」
松下はダイニングに向かって声を張り上げた。
「分かってますよ」
壁に隠れて見えないが、キッチンから敬子の声が小さく聞こえた。
「酒呑む?」
「車です」
「そうか。泊まっていけば?」
順正は首を振った。
「吞みたいんですか?」
「ん?まあ、たまにはな」
「呑みたくても、代わってあげませんよ」
「うぐっ」
ならばなぜ訊いた。松下は心の中で突っ込まずにいられない。じゃあ代わってあげますと言ってくれれば、かわいげがあるものを。順正は不敵な笑みすら浮かべている。意地悪なヤツだ。
今日は松下がオンコール体制。酒は呑めないが、もし呑めたとしても、松下は別に一人で飲みたいとは思わなかった。本当は順正と呑みたいのである。
「どうぞ~」
敬子が持ってきた平たい大皿には、一口大の料理が上品に並べられていた。ピンチョスのようなものや、小さなサンドイッチ。
─完全に酒のつまみだな。
誰も飲まないというのに。けれど、普段大した量の夕食を食べない順正にとっては、ちょうど良かった。
「何飲む?お茶、炭酸水、ジュースもあるわよ」
「お茶ください」
松下は敬子のはしゃぎぶりを見て、やれやれと思った。
─ジュースって…
順正を子供扱いできるのは、順正が赤ん坊だった頃のことを知る、敬子くらいだ。
松下と順正の父・細川は、研修医時代からの付き合いであり、細川に子供が生まれると、家族ぐるみで付き合った。敬子は赤子だったころの順正を、とても可愛がっていた。自分にも、こんな子供ができたらと言っていたが…
結局、松下と敬子の間には、子ができなかった。
ジムのドアがさっと開いて、外から少しひんやりとした風が入って来る。日中は暑いくらいだったのだが、朝晩は冷え込む。
莉子は、受付スペースのベンチに座って、漫画を読んでいた。
風が頬を撫でると、入口の方に顔を向ける。一人の大人の男が来店した。若い女の子がベンチに座っているのを見ると、男は一瞬、珍しい、と言わんばかりに目を見開いた。莉子はふう、と息を吐きながら、再び漫画を読み始めた。
「あ、前原さん。やっと来た」
受付スペースの入り口近くに備え付けられたフィンガーボードにぶら下がりながら、蓮が来店した男に声をかけた。
前原と呼ばれた男は、カードを藤野に渡しながら、
「おう」
と声をかけた。
蓮は受付スペースに入ったが、そこに莉子がいるので、いつものように前原とからむのははばかられた。
中学校では、ぶっきらぼうで無口な男子学生を通している蓮。それを知るクラスメイトに、もともとの陽気さを見せつけるのは小恥ずかしい気がして、気が咎めた。
「お前、そろそろ帰れば」
それで、蓮は前原にからむ代わりに、莉子にそう言った。
「お前、アホだなぁ」
藤野が、カウンターに両肘をついて、片方の手でやれやれとこめかみを覆った。
「女の子には優しく接しなさい」
「そうだぞ~、モテないぞ」
先ほど蓮がやったようにフィンガーボードにぶら下がりながら、からかうように声をかけたのは、田沼。今日は息子たちは連れていない。
「何、蓮彼女連れてきてんの?」
いつも彼女のことでからかわれているのは、前原のほうだ。前原は仕返しとばかりに、蓮を冷やかした。
莉子は、頭がカーッと熱くなるのを感じた。
─バカッ。
蓮はマジでやめろと心の中で叫びながら、前原と、田沼を交互に見やった。しかし、二人には蓮の心の叫びが聞こえない。
「お前が送っていけよ」
追い打ちをかけるように、藤野。
「ばっ、おれはまだ登ってくよ」
「送って戻ってきてから登れ」
「そうだぞ、蓮。女の子なんだから、一人で帰したら危ない─」
ぴしゃっ。
莉子は勢いよく漫画を閉じて、立ち上がった。大人たちも、蓮も、莉子の殺気立った空気を感じて、閉口する。
莉子はカウンターに近づき、財布を出した。
「登ります」
「えっ?」
藤野は肘をつくのをやめて、背筋を伸ばした。莉子からは、有無を言わせないという意思を感じる。
「シューズのレンタル料は、サービスしておきますよ」
「ありがとうございます」
「チョークは、こいつから借りれば…」
と、言いかけたが、莉子が嫌そうな顔をしたので、
「チョークバックもサービスしとくよ」
と、藤野は急いで付け加えた。
─なんだよ、あいつ…
蓮は頭をぽりぽりとかいた。
時刻は七時。
─まいったなぁ。
シューズを履く莉子に念押しで尋ねると、莉子は親には連絡を取ったと言った。
莉子から視線を逸らしつつ、蓮は、莉子の家庭で起こっていることを思い出した。
─帰りたくないのか…
「いた…」
莉子は片足だけシューズを履いたが、戸惑ったような表情である。
「これ、サイズ合ってるのかな?すごく痛いんだけど…」
「そんなもんだよ」
蓮は、莉子の隣でシューズを履いた。
「きついから、ずっとは履いていられない。みんな休んでいる時は、靴脱いでんじゃん?」
言われてみると、確かに、みんな登り終わるとすぐに靴を脱いでいる。
「登ったことあるの?」
「公園とかショッピングモールで、小さい頃ね」
莉子はもう片足にもシューズを履くと、立ち上がった。マットの上にあがり、壁と向き合って、莉子は初めて、登り方が分からないことに気が付いた。
「一番簡単なのは十級。赤テープだよ」
蓮は自分もマットにあがり、莉子の隣に立って、登り方を教えた。
「赤いテープをたどるんだ。たとえば、四角だったら、四角だけ」
莉子は四角い赤テープを目で追った。テープはホールドの傍の壁に貼られている。たくさんの種類があり、お目当てのテープを見つけるのも困難だった。
「テープがないホールドは使ったらかんよ」
「足は?」
「足は自由。グレードが上がれば足指定になる」
莉子はだいたいのルートを把握すると、すぐに最初のホールドを両手でつかんだ。肘が曲がっている。傍からみている蓮には、莉子が腕に力を入れているのが分かる。
蓮は後ずさりして、マットから降りた。莉子の初めてのトライを、そこから見守る。さすがは、運動神経のいい莉子だけあって、一番簡単な課題は、難なく登れた。ほとんど力で登っていたが。
「いえ~い」
田沼が、拳を突き出して莉子に向けた。莉子は面喰った様子で、マットの端に突っ立ったまま目を丸くした。
「こうすんだよ」
面倒くさいなあと思いながら、蓮は莉子の代わりに、田沼の拳に、自分の拳を合わせた。
それから田沼は、にこっとして、莉子に向かって拳を突き出したままにする。莉子は、ちょっと恥じらった様子を見せながらも、その拳に、こつんと自分の拳を合わせた。
「かわいい子じゃないか」
ウォーミングアップをしている前原の傍に蓮が歩み寄ると、藤野がこそっと言った。
「気が強そうだけど」
声のボリュームを落として、さらに一言。
「やけにボーイッシュだな」
開脚をして脚を伸ばしながら、今度は前原が言った。
─知るかよ。
莉子がどう見えているかを自分に話すのはやめてほしい。自宅にいたくないという莉子に、自分はいいように利用されているだけなのだから。
「前原さん、ゴールデンウィーク、また外岩連れてってよ」
「なんだよ。お前ゴールデンウィークは彼女と…」
「わああぁっ、もう、分かってんでしょう。冷やかさんといてよ」
蓮は前原の肩に両手を置いて、ぐらぐらと激しく揺さぶった。
「そういえば」
最近の分娩やら、スタッフの話─主にアドバンス助産師・草壁と看護師長との最近のいさかい─やら、クリニック内の話がひと段落ついたところで、松下は話を変えた。
「この前、昔うちにかかってたある患者さんの家にお邪魔したよ」
順正は湯呑をテーブルに置いた。
「進行子宮体癌の患者さんなんだ」
子宮より外にがんが広がっているⅢ期、Ⅳ期の子宮体癌を進行子宮体癌と呼ぶ。その患者は、Ⅳ期である。がん細胞が広範囲に広がり、五年生存率は二十五パーセント程度。
「大きな病院で治療をしていたんだが、今回が最後と思って、自宅に戻っていたそうだ」
松下は湯呑の中の液体を飲み干した。しかし、入っているのはお茶である。思考回路を適度に麻痺させてはくれない。松下にとって、酒の力なしにこの話を切り出すのは難儀なことだった。
「彼女は僕が別の病院にいる頃、感動的なお産をした人でね。同郷だったこともあって、印象に残っていたんだ」
そう言って松下は、困ったような笑みを浮かべた。
「その人の衰弱した体を見た時、ちょっとその思いが強くなってしまった」
「その思い…?」
「ああ。これからは、緩和医療と、地域を支える在宅医療にも専念していきたいってね」
キッチンで洗い物をしていた敬子は蛇口をひねって、水の勢いを少し弱くした。
順正は、驚いた様子も見せず、涼やかな目で、松下を見つめる。
「いつからそう思っていたんです?」
その患者は、思いを強くするきっかけになったのだろうが、その思い自体はいつ頃から抱いていたのだろう。自分のクリニックに来ないかと順正に声を掛けた時には、ゆくゆくはそっちの道を歩もうと考えていたのだろうか。
松下は口元に微笑を浮かべた。
「こんな田舎にクリニックを開業することを考えた時には、いつか在宅医療も…と思っていたよ」
それは少子高齢化・過疎地域における、需要を考えた結果でもあるが…
「もう少し精神的なことを言うと、僕はたくさんの分娩に立ち当ってきて、どう人生の始まりを迎えるか、それをどうサポートしうるかっていうことを考えてきた。でも、自分も歳を取ったからか…」
松下は両膝に両肘をおき、両脚の間で手を揉んだ。
「今度は、人生の終わりに寄添える医療を行えればと考えるようになってきてね…」
進行がんの場合には治療は長い道のりとなる。治療の過程には、様々な身体的、精神的、社会的苦痛があらわれることが多々ある。松下は、この問題を少しでも和らげられるように、患者の隣で並走して支えたいと思っている。そのために、大学病院で緩和医療も学んだのだ。完治できれば理想だが、残念ながら、別のゴールとなることもある。その時を病院で迎えるのではなく、住み慣れた自宅で、家族に見守られながら人生の終わりを迎えたい。在宅医療を通し、そんな患者に寄添いたいとも思っている。
「でも、僕が緩和医療を意識するようになったのは、別の経験が大元でね…」
松下は、深淵な表情になって言った。
敬子が、新しいお茶を淹れた急須を持ってきて、静かにテーブルに置いて行った。
「お父さんの病気が、きっかけだよ」
そう言うと、松下はさりげなく順正の顔色を伺ったが、順正の瞳は揺らがなかった。お父さん、というのは、自分の父親のことを指しているのだと、順正には分かっていたが。
敬子はリビングダイニングの外に立ち、気遣わしげな目で二人を見てから、扉を閉めた。
「話にだけは聞いていると思うけど、お父さんは最期…」
「知っています」
順正は静かに言い放った。松下は、唇を舐めた。
順正の父は、末期の肝臓がんだった。
順正が常と変わらない無表情でいるため、その感情の動きは分かりかねたが、松下は続けた。
「僕は当時、専門知識はなかったけど、彼の最期の日々が少しでも安らかになるよう、寄添いたいと思ったんだ。友達として…」
「…」
「気分を悪くしたらすまない。でも…」
松下は顔を上げて、順正の顔を見やった。
「柴崎先生も気になってたんじゃないか?お父さんが最期、どんなふうに─」
「─知っています」
順正は静かに言った。普段から、表情が豊かではなかったが、この時は無表情すぎるというほどに無表情だった。
松下は眉をひそめた。
「知ってるの?」
順正はほんの少しだけ、頭を縦に振った。
「緩和医療を施されている頃の父と、会いました」
その時のことを、順正は今でも鮮明に思い出せる。今もあの時の感覚が、生々しく右の拳に残っている。
「そうか。あいつの口から聞いていたか」
「見た目から察しただけです」
「…?」
「言葉を交わさなかったので」
─…どういう?
松下は、二の句が継げなかった。
─ずっと会えなかった、最期の時を迎えようとしている父と会って、何も話していない?
それはどういうことだろう。二人が顔を合わせた時、何が起こったのだろう。
ズズ…と、松下はお茶を飲んだ。
順正に古い友人である細川のことを話すのは、いつも気を遣った。なぜなら順正の中で、細川の行動は未だに時効を迎えていないようだからだ。
それでも、自分や敬子は彼の人となりを話してあげられる数少ない人間の一人。情に厚く、仕事熱心で優秀だった。献身的に多くの患者と向き合ってきた友人の側面を伝えたくて、本当に時々、細川のことを話すようにしていた。でも今日は、触れてはいけない記憶に触れてしまった気がする。
けれど、順正の端正な、しかし感情の分からない顔を視界に入れながら、松下は少し罪悪感のようなものを感じる。細川の友人としては、友人を弁明したい気持ちがあったが、それは自分の気持ちの押し付けでしかない。
松下が緩和医療を大学病院で学んでいた頃、順正はすでにその病院の若い産婦人科医師だった。幼い頃の面影をその顔に見て、松下は懐かしさがこみ上げた。わずらわしいと思われるのを覚悟で、父親の古い友人だと明かした。幼い頃の順正を知っていることも。
意外にも順正は邪険にはしなかった。むしろ父のことを知る松下に、興味がありそうに見えた。
その時、少し話した。
松下は、古い友人の忘れ形見が、なぜ産婦人科医師になったのか気になった。話を聞いてみると、診療科を選択する段階で、彼に、特別な理由はなかったようである。彼はただ、「意外とイケそう」という客観的な適性に従ったまでだという。
幼い頃から医者になることは決めていたらしい。もしかしたら、幼い頃離れ離れになった父親を意識しているのではないかと思った。
順正の父親は、優秀な麻酔科の医師だった。
それから長い年月が経ち、松下は開業すると、順正をクリニックに誘った。本当に来てくれるとは思わなかった。順正が松下の元で働くことを決心するまで、そう単純ではない自問自答を重ねたことだろう。
結果的にその決心をする決め手になったのはなんなのだろうか。単に地元だからという理由では、キャリアを変更する理由にはならないだろう。
それを考えた時、松下は自分と細川との関係について思わずにはいられなかった。
─邪推か。
松下は、もう一度お茶を飲んだ。順正に理由を尋ねたことは度々あるが、いつも小首を傾げられ、大した理由はないのだと言われるばかりだった。
松下が思っていた以上に、順正は産婦人科医として優秀であった。
研修医時代、周りが何をもって、順正に適性があると言ったのか知らないが、順正は一生を左右する場面に医師として関わることに、大きなやりがいを感じているように見える。顔や態度にそれが出るわけではない。仕事に向き合う姿勢から、それを感じるのだ。
その熱意は時に、スタッフに対する厳しさや、傍若無人な振る舞いとなって現れる。けれども、一緒に働く仲間たちは、彼の責任感と努力を認めているし、徐々に彼の奥深い所にある純粋な心に気が付いていて、扱いにくそうにすることはあるけれども、信頼するようになっている。
それはむろん、松下も同じ。だからこそ、いつか順正の、父親に対する疑心を取り払ってやりたかった。
─でも、それは余計なおせっかいなのか?
「松下先生」
順正に呼ばれて、松下ははっと顔を上げた。
順正は話を元に戻した。それからしばらく、二人は在宅医療の展望について話し合った。
「もう、帰りますよ」
「ああ、もうこんな時間か」
時計を見ると、意外にも早く時間が過ぎていた。
「寝られる時に寝ましょう。お互い…」
「そうだな」
松下は湯呑を置いた。
「柴崎先生」
立ち上がろうとする順正を松下は呼び止めた。順正は前に傾けた上半身を、再び元の位置へ戻す。
「柴崎先生は、産婦人科以外に興味のある診療科はないの?」
自分が専門を増やそうとしているように、この男にもそういった願望があるのか、気になった。
─たとえば、麻酔科とか。
もし順正が父親を意識しているなら、同じ科を選びそうなものだとも思った。
順正は遠い昔を思い出そうとするかのように、目線を上に上げた。
「…さぁ、研修医の頃は、救命は少し、考えていたかもしれませんが」
しかし、順正はあっさりと別の科を言及した。
「…そうか。じゃあ産婦人科を選んだのはどうして?」
「…」
「はは。前にも聞いたけど、周りから勧められたなんてはぐらかすからさ」
順正は唇を結んだ。なぜ今になって、そんなことを聞くのか。今日の松下は、酒を呑んでもいないのに酔っているみたいだ。
順正は顎を引いた。考え事をする時の癖だった。目の前には、灰色がかった水色の、何体もの、何十体もの地蔵尊像が立ち並ぶ…そして、鬱蒼とした緑色の天井から垣間見れる、キラキラとした光。
「本当に…大した理由じゃないんですが」
しかし、理由というにはあまりにもバカバカしくて、順正はこの上司の期待を裏切ることになるのではという配慮から、口に出せない。
「強さが試される仕事だとは思いましたが」
代わりに、順正は違うことを言った。
「ん?」
松下は首を傾げた。
「これだけ人の感情が大きく動く場面に立ち合う仕事は少ないです。本人やその家族だけでなく、そこに立ち会う医療従事者も、感情が大きく揺り動かされる」
「え?」
「…ん?」
「…いや、柴崎先生の口から、感情が大きく動くとか言われると、なんかね…」
「…」
「…続けて」
「…いや…自分が何を言おうとしたのか忘れてしまいました」
松下はぶぶっと笑った。この男は、職場では無駄のない才気あふれる立ち振る舞いをするのだが、プライベートの時には、どことなく抜けている。
「ともかく、産婦人科医はハードな仕事ですよ…」
「…ハードな仕事だから、選んだの?」
松下がそう訊くと、順正はふっと笑った。
確かに、新しい生命を迎える過程には、時に大きな悲しみを伴う。あるいは、言葉にできないほどの喜びを感じられる瞬間がある。二つは、紙一重である。産科医は、人の天国と地獄を間近で目撃する。強靭な精神がないと、続かない。
「やれやれ。…またはぐらかしたな」
松下は目を細め、順正は微笑を浮かべた。
「本当に、大した理由なんてないんですよ」
一時間も登ると、莉子は両腕に今まで感じたことのない疲労感を覚えていた。こんなにも筋肉を使ったのは初めてのような気がした。
九級、八級の課題にもチャレンジした。運動神経の良い莉子は、それなりに登ることができたが、傾斜角の強い壁には手が出なかった。
「ガンバ」
男たちの声がひと際太く聞こえて、莉子はオーバーハングした壁のほうを見た。
蓮が登っている。右足のかかとをホールドにひっかけて、左手と左足で体を支えながら、今まさに、次のホールドを取ろうと右手を出したところだ。ドサッと音を立てて、蓮はマットの上に落ちた。
「おしいなぁ」
「ヒールうまくなったんだけどなぁ」
男たちは口々に感想のような、励ましのような言葉を蓮にかけた。
蓮はこのジムに来ている客のほとんどと、顔見知りのようである。それどころか、同級生たちよりも親しげに接している。
莉子よりも長く強度の高い課題を登っているはずなのに、自分ほどには疲れていないようだ。莉子は、それまで知らなかった蓮の一面を見た気がした。
ひゅうっ
風が出て来たのか、ジムの扉が開くと、風の音がした。
莉子はさっとジムの入り口のほうへ顔を向けた。さっきから、扉が開く度にこうだ。蓮は靴を脱ぎながら、莉子の様子を視界の隅で捉えて、大きく息を吐いた。
「柴崎さん来ないね」
前原は蓮の傍に立ち、時計を振り返った。もう午後八時になろうとしている。
「こりゃゴールデンウィークの予定は、立てられないな」
「まだ来るかもしれないじゃん」
ハイウォールは、午後十時まで開いている。残り一時間でも来店して、筋肉を使い果たすまで登る中野のようなクライマーもいる。
「っていうか、二人そろう必要はなくない?」
蓮は前回の外岩を思い出した。一人がビレイヤー、一人が登る。蓮はビレイの腕も上達している。もはや、大人二人は必要ない気がした。
しかし前原は、首を振った。蓮はいいかもしれないが、蓮のビレイはまだ信用ならないし、中学生と二人なんて、つまらない(順正がいたところで面白い話ができるわけではないのだけれど)。
「こりゃゴールデンウィークは、明神山登山トレーニングだな」
前原は遠回しに、蓮のお願いを蹴った。
「えー、せっかくマントル返し練習したのに」
食い下がったが、前原は返事をせずに取り組んでいる課題にとりついた。
「いいじゃん、蓮。明神山に登れるのも今のうちだぞ」
田沼がにやにやしながら励ますように言った。
「七月に入ったら、暑くて登れなくなる」
「そうだけど」
「毎日ハイウォールっていうのも、いいもんだよ」
と、カウンターから藤野。
「それじゃいつもと代わりませんよ」
先ほど来店したばかりの君塚が、黒縁眼鏡のブリッジを押し上げながら茶化した。
「間違いない」
田沼が同調し、つられて皆がわははと笑った。
莉子は一人押し黙って体操座りしながら、このジムの独特な雰囲気を、どういうわけか心地よく感じ始めていた。
ざっくばらんな、男のクライマーたち。お互い冷やかしたり茶化したりしてはいるが、悪意はない。登っている時は真剣に見えるけれど、休んでいる間はゆったりと談笑しあっていて、おおらかである。クライマーたちの、男らしいというか、さっぱりとした関係性や雰囲気が、莉子には好ましく思えた。
そして、蓮はそんなクライマーたちにおもちゃにされているというか、可愛がられているように見える。
その蓮が、自分の前を通り過ぎた。ちらっと自分の方を見た気はするが、何も話しかけてこない。
サアッ。
また入口の扉が開き、莉子は警戒する猫のように、背筋を伸ばしてそっちの方を見た。蓮はベンチに座ってスマホをいじっているところだったが、莉子のその様子に気付いた。
「おっ、中野さんじゃないですか」
来店したのは、逆三角形の上半身をもつ、ストイックなサラリーマンクライマー、中野だった。
「あと一時半で追い込みっすか」
「明日から出張なんで。ほどほどにしますよ」
莉子はほっと胸をなでおろして、視線を足元に落とした。
藤野は中野と喋るのに気を取られていて、外野に気が付かない。ふう、と吐息すると、蓮はさりげなく莉子の傍にしゃがんだ。
「大丈夫だよ」
「えっ?」
「ここには、うちの学校のやつは一人も来てないから」
「…」
莉子からは返事がない。蓮は少しの間そこに座っていたが、またベンチに戻っていった。
莉子は足を抱える腕の力を強めながら、唇を結んだ。同じ中学校に通う学生や、先生と会ったら、嫌だなと思っていた。蓮にはそれが、分かっていたらしい。
「お話終わったの?」
玄関先まで、夫婦二人で順正を見送った後で、敬子は尋ねた。
「細川さんのこと、話題に出してよかったの?」
「ああ」
そう答えたものの、良かったのかどうか、松下には確証がなかった。
思えば、順正はほとんど喋っていないのに、自分の頭の中でぐるぐると考えが展開してしまい、余計なことまで喋ってしまった。
酒もなしに二人で喋って、盛り上がるとは端から思っていなかったが、それでも、心安らぐ会にしようと思っていたのに…。
「順ちゃん、相変わらず綺麗ねぇ」
順正は男であるにも関わらず、敬子はそういう形容の仕方をした。うっとりとしている敬子を見て、松下は、この妻女の呑気さだけが救いのような気がした。
「でも、見た目ほど若くはないわよね」
敬子は何かを起点に、流れた年月を、指を折って数えた。
松下はやれやれと吐息した。敬子がこの手の切り口で話す時、だいたい話の行く先は決まっているのだ。
「あのルックスで恋人ができないはずはないでしょう。こっちは大学病院にいる時ほど忙しくないってようやく気が付いたところなんじゃない?お相手を探すなら今がチャンスだと思うんだけど…もうお目当ての女性がいるのかしら?あなた知ってる?」
ほら来た。
「ルックスが良い、恋人がいるっていう方程式は、成り立たんのじゃない?」
と、松下はひとまずはぐらかす。
「は?何言ってるのよ。」
敬子は、目を細めた。
「大前提としてその方程式が成り立つとすると…」
松下は、構わずうそぶいた。
「僕には、君という恋人がいた。ということは、僕は、ルックスが良いということに─」
「誰か紹介できないかしら」
敬子は、松下を大いに無視した。
「それともやっぱり、仕事が忙しくって、プライベートを充実させる時間がないんじゃないの?」
妻に非難がましい目を向けられて、
─おいおい。
松下は呆れた。
─僕のせいか。
「院内の女に手を出すのは、さすがに決まりが悪いのかしら?」
「手を出すって…」
「誰かいないの?雰囲気いいなぁって人…」
松下は苦笑いした。彼が院内恋愛などしだしたら、尋常でない波風が立ちそうだ。
松下は新聞を持ってきて、再びソファに座った。机の上のものを脇に寄せて、新聞を小さく広げる。
「お料理、これだけでよかった?」
敬子は松下の向かいに座る。
「あなたがあまり準備しなくていいって言うから…」
「うん。僕もちょっと減量しなくちゃね」
「あなたのことは聞いてないのよ。順ちゃんはもっと食べらたんじゃないの」
順正は上背もあるし、自分たちよりはずっと若い。
「そりゃ、食べようと思えばたくさん食べられるんじゃない?縦走登山の時とかは、朝だけでも一合は食べるって言ってたよ」
米の話だ。
「でも普段は、夜寝るだけだからあんまり食べないって言ってたからね」
「何言ってんの。そりゃ、用意してくれる人がいないからでしょ。あれば食べるでしょ」
にべもなく言い放つ妻に、松下はぐうの音も出ない。
「お嫁さんもらえば、そういうところも楽になるんじゃない」
「今は共働きが普通だからねぇ。そういうのを期待するような柴崎先生でもないと思うよ」
「女の子に興味がないのかしら…」
敬子はまだ食い下がってくる。夫の話はあまり聞いていない。
松下は誌面に視線を走らせながら、ほうと息を吐いた。
「家族をもつことに興味がないんじゃない?」
「え?…」
驚いたような声を発したあとで、敬子は顎を引き、肩をすくめた。松下の言っていることが、分からないではない気がしたのだ。順正の幼少期に起きたことを思えば、そういう思考になっても、おかしくはない。
それならば、女を作らないのも、うなずける。付き合えば、だいたいの女が、結婚し、子を望むようになるだろうから…
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