第29話「魔法の薬」アーユルヴェーダ小説HEALERS

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「はあ」
 土曜日の朝早く、沙羅はデシャップ台に両肘ついて、うなだれた。
「なんすか、朝っぱらから」
 調理台の奥から男の声がし、沙羅は顔を上げる。
「あれ、小須賀さん。いたんですか」
「ずいぶんな物言いですね」
 誰の研修のために、自分が弁当作りを一人で担う羽目になったと思っているのだろう。小須賀は、しかし、それは言わなかった。
「どうかしましたか?」
 沙羅は履物を変えて、調理台とコンロの間に立っている小須賀の傍に歩み寄り、そこでしゃがみこむ。
「明日亜美さんに送るヨガの提案書、やっと提出できたんです」
 沙羅と杏奈は、四十歳で体外受精を試みているクライアント・亜美に対し、それぞれヨガや呼吸法などのプラクティス、食事に関する提案を書くように課題を出されていたのだ。
「おめでとうございます」
 事情はよく分からない。が、小須賀はとりあえず明るく答える。
 沙羅は、はあ~っとため息を漏らした。
「何を落ち込んでいるんですか?」
「亜実さんへの、食に関する提案は、杏奈ちゃんがすることになっていたんです」
「はあ」
「提案書、すごかった…」
 沙羅は見てしまった。応接間に置かれていた、明日のコンサルに際しての資料を…
「そうなんすか。あいつ、口ベタだけど文才はありますよね」
 それは小須賀も、杏奈が雇われ始めた時から、なんとなく分かっている。
 そして、クライアントに提供する資料の完成度の差を見て、沙羅は落ち込んでいる。軽く返答をしながらも、小須賀はそのことを察した。
「あいつは暇なだけっすよ」
 小須賀はスマホをいじりながら、しゃあしゃあと言った。
「子供さん熱出して、お世話で仕事したくてもできなかったんでしょ」
「それはまあ、そうですけど…」
 先日、新規のクライアントが二名も来ていたというのに、沙羅は、どちらにも対応できなかった。美津子は急遽、永井を助っ人に呼んだ。機会を逃したのも悔しいが、沙羅は、出された課題にまともに取り組むことができなかったことも悔しかった。
 一晩考えて提出したレポートは、一旦美津子の添削を受けた上で返され、昨夜子供たちが寝てから再度書き直し、今日再び提出した。
「今日だって、午前中に研修がなければ、小須賀さんは一人でお弁当作りしなくて済んだのに…」
 午後は、預け先である親の都合がつかなかった。
「いいっすよ。どうせかかる人件費は変わらないっすから」
 小須賀は、やはり飄然として言う。杏奈が一人で弁当作りをしない限り、小須賀の拘束時間分、あかつきが支払うべき給料が発生する。
「落ち込んでると、研修に身が入りませんよ」
「分かってます」
 沙羅はゆっくりと立ち上がった。すでに正装に着替え、準備は万全だ。だがやはり、浮かない顔をしている。
「じゃあ今日は、沙羅さんの好きなものを作ってあげますよ」
 テキパキと調理の準備を進めながら、小須賀はさりげなく沙羅を励まそうとする。沙羅は首と手を横に振った。
「いいですよ、お弁当づくりだけでも忙しいのに」
「十二月から、納品数も減るんで」
「でも、私今日は、お昼はいただかずに帰るんです」
「じゃあお持ち帰りできるよう準備しますよ…何がいいですか?」
 小須賀に聞かれて、沙羅は思案顔になった。
「パスタがいいです」
「パスタ…」
 あかつきでは出ないような賄いである。スパゲッティやペンネなど、在庫があるはずもない。
─足込温泉に納品した帰りに、わかばで買ってこれば良いか…
 小須賀はこれからの行動を脳の中でシミュレーションした。
「どういうパスタがいいですか?」
「凝ったやつをお願いします」
「沙羅」
 キッチンに美津子が顔を出し、沙羅を呼んだ。沙羅は慌てて、キッチンから出て行った。

 シロダーラポットを杏奈の額に流し、左右にゆっくりと動かす沙羅の様子を見ながら、美津子は、沙羅は即興力のある子だと思う。
 沙羅が提出してきた、亜美へのプラクティスの指導案についてもそうだ。その指導案の作成にかけた時間がわずかであることは、見れば分かった。沙羅は一人で育児をしているのだから仕方がない。
 しかし、その内容はまったくおかしなものではなく、クライアントである亜美の悩みに適度に寄添い、実行できそうな内容であった。
 キッチンでの、小須賀と沙羅のやり取り。その一部始終を小耳に挟んだ美津子は、沙羅にきちんと話してやらねばと思った。杏奈も沙羅も、異なる見どころがあり、異なる弱点があるのだ。
 美津子は杏奈から、亜美への食に関する提案を受け取った時、思わず笑いを漏らした。
─杏奈、これではまるで論文じゃない。
 レポートには、妊活時から妊娠中までの食事方針について、アーユルヴェーダの見解と一般的な知識を交えてまとめられていた。
─亜美さんのライフスタイルは、問診票から分かったでしょう。
 亜美は忙しい人だ。複数の仕事を掛け持ちしており、弁当を作れる日はあるが、たいてい余裕がない。
─亜美さんに合ったピンポイントの提案だけをよこしなさい。
 だらだらと知識を連ねた杏奈のレポートは、提案書ではなく教科書だった。これでは読み込む前に諦めてしまう。結局、どうすればよいのか、要点を絞って伝えたいのだ。
 杏奈は恐縮した様子で、提出したレポートを引き下げようとした。
─待って。
 が、美津子はレポートを手元に引き寄せた。
─これはこれで、見させてもらう。 
 杏奈は用意周到だ。自分の言葉の足りなさと経験のなさを、事前準備で補おうとする。理論武装をしたがるのだ。しかし、その内容は、クライアントに臨む時には予備知識として持っておくものであって、実際に伝えるものではない。
 数日後、杏奈が再提出した提案書は、文字数が少なくなり、ずい分と分かりやすくなっていた。
─あとは亜美さんが、どういうタイプかによる…
 実践すべきことを、具体的に箇条書きにして連ね、一つひとつクリアしたい人もいる。一方、実践すべきことの大枠を示された後は、その中で、自分の自由にさせてほしい人もいる。亜美の人となりは、コンサルをするまでは分からなかった。亜美が前者のタイプであれば、沙羅の提案書を再度修正する必要があり、後者のタイプである場合は杏奈の提案書を直さなければならない。
 クライアントの個性は様々。ならば、スタッフの個性も様々であったほうが、都合が良い。
─自分と誰かを比較するなんて、らしくもないことを。
 美津子は、丁寧にシロダーラポットを動かす沙羅を見ながら、そう思った。

 小須賀が弁当の納品から帰って来たころ、キッチンの外では足音がしていた。施術が終わったらしい。その後は、片付けと反省会が始まる。
 耐熱皿に切ったかぼちゃ、玉ねぎ、鶏胸肉、塩こしょう、オリーブオイルを加えて混ぜると、オーブンで一気に焼いた。玉ねぎはあかつきでは滅多に使わない野菜なので、1個だけ買い、使い切った。
 野菜を焼いている間に、小麦粉と牛乳で、クリームソースを作る。それからブロッコリーを小さく切る。オーブンの焼き時間が残り15分になった頃、しめじを加え、そのままローストする。
 小須賀は思いつくがままに、料理をした。イタリアンは小須賀の最も得意とするジャンル。
 ペンネを茹でている間に、片付けもする。弁当の納品数が減っても、品数は変わらない。したがって、洗い物の数も繁忙期と比べて変わりなく多い。それでも小須賀は鼻歌を歌いながら、それらを片付け、同時に賄いを作る余裕があった。
 人がいると─それがたとえ、無口な杏奈であっても─つい話しかけてしまい、時間をロスするのだが、今日は一人作業のため、そのようなこともなかった。
「できた」
 ローストかぼちゃと鶏肉のクリーミーパスタ、という名前にでもしようか。断面に焼き色がついた玉ねぎのフォルムがかわいらしく、かぼちゃの黄色、ブロッコリーの緑、彩りもある。子供でも食べやすいようなクリーム系のパスタ。
 粗熱を取っている間、キッチンの外で再び足音がした。
 施術の練習と反省を終えたスタッフたちに賄いを食べさせるのも、今日の自分の仕事だ。
 小須賀は、食べさせるのが好きであった。
「小須賀さん」
 キッチンにひょっこり顔を出した沙羅は、すでに私服に着替えている。温かい施術室で研修に励んでいたためか、沙羅の頬はほんのりと赤く上気していた。
「メシできてますから、持ってっていいですよ」
 小須賀はさりげなく言った。
─完璧だ。
 と、小須賀は自分の振る舞いに、自己満足する。
 沙羅は履物を変えて、調理台の上に乗っている大きなタッパを覗き込んだ。
 火にかけていたやかんから蒸気が上がる音がして、小須賀は火を止めにいった。振り返って沙羅の表情を見ると、期待通り、沙羅は目をきらきらさせ、口角を引き上げていた。
「あちっ」
 沙羅の表情を確認するためによそをむいていた小須賀は、うっかりやかんに親指を振れてしまった。その声で、我に返った沙羅は、
「おいしそう」
「おいしいっすよ」
 小須賀は、さも当然、という風に言った。
「チーズを入れるともっと美味しいですけど、それはご自宅で自由にやってください」
 脂肪分の多いものを小さな娘たちに食べさせるのは抵抗があるかもしれないので、チーズは入れないでおいたのだ。
「大人の分は、黒胡椒を多めにかけるといいですよ」
 そうすると、一気にフレンチテイストになるのだ。
「娘たちの分まで。ありがとうございます」
「研修はうまくいきましたか?」
 沙羅は背筋を伸ばして、
「はい!」
 と元気よく答えた。ようやくいつもの沙羅の表情が見られて、小須賀はふう、と心の中で安堵のため息を吐いた。
「最近思うんですけど」
 ポットにお湯を足しながら、小須賀は沙羅に話しかける。
「杏奈って、一種の変態なんじゃないっすか?」
「はい?」
 小須賀からしてみると、杏奈の行動はかなり奇怪で、解せない。散歩と買い出しの他は、このあかつきから一歩も出ようとせず、ひきこもっている。いつもだいたい同じような服を着て、容姿に手をかけようという意識もなく、手当たり次第に新しい本を読み漁っては、しきりにパソコンに向かっている。いったい何をそんなに調べることがあるのかと思うほど。相当豆な性格で、インスタの投稿頻度は一日一回をキープし、フォロワーは、月に百人のペースで増えている。
「変態っすよ」
 少なくとも、小須賀が関わりを持ったことのある女性の中では、地味なほうに飛びぬけて妙な存在だった。
 沙羅は、小須賀の言いようにくすっと笑う。
「そういう極端さがなければ、この業界では残れないんですよ」
 沙羅はパスタの入った大きなタッパーの蓋を締め、手に持った。
「それにしたって、オタクとかマニアとか、もう少し違う言葉があると思いますけど」
 沙羅が代替として出した言葉とて、たいがいだと思うが。
「あ、そのパスタ、沙羅さんにしか作ってないんで、他のみんなには内緒っすよ」
 沙羅は再び履物を変え、小須賀を見やって、にっこり笑った。
「じゃあ私、これで失礼します」

 翌日曜、午前九時。
 順正と南天丸は、明神山の頂にいた。寒さが厳しくなってきているとはいえ、登っている間は寒さを感じない。けれども、山頂にて少し佇んでいると、にわかに冷える。時折、強い風が吹いた。順正は白いジャケットを羽織ると、襟を一番上まで締め、下あごをやや引き、立てた襟に口元を隠す。これが順正の癖だった。
 体を動かすのを止めると、今度は頭が動き出した。近頃クリニックで起きたこと、気がかりなこと、日常診療において勉強が必要だと感じたこと…無意識のうちに、思考がせめぎ合う。
 山頂の道標付近には岩がゴロゴロと転がっているが、座り心地はあまり良くない。それでも順正はしばしそこに座って、ただ呼吸をした。南天丸はその傍らに寄添うように座り、じっとしている。一緒に呼吸をしてくれているのだ。
 明神山の尾根に沿い、上沢と足込の境が引かれている。順正はその境で、吐く呼吸とともに雑念を捨てていった。
 主に仕事のことに関する雑念や懸念事項は、なるべく、足込町には持ち込まないと決めている。ある思考をした時、それをした場所と共に記憶に残る。再び同じ思考をした時に、場所のイメージまでもが蘇ってくる。あかつきと足込町の風景は、順正にとって休むための空間。日常である上沢でのこととは、遮断していたかった。
 しかし…
─今日はそうもいかないかもしれない…
 順正はゆっくりと立ち上がって、山頂を後にした。南天丸は彼の前へ進み、すべるように坂道を降りていく。
 彼らが下山する頃。
 クライミングジム・ハイウォールでは、開店時間と同時に一人の中学生が訪れた。
─あれ?
 蓮は、入り口付近をぱっと見て、首を傾げた。南天丸が不在である。
 ジムの裏に自転車を停めると、シューズとチョークバックの入った袋を持って、入り口に向かう。
─やっぱりそうだ。
 南天丸がいない。
「こんちはーす」
 ジムに入ると、蓮は大人たちの口調を真似て、藤野に挨拶をした。
「おう、蓮」
 藤野は空調設備の調整をしているところだった。ジムにはまだラジオは流れていない。
「早いな」
「うん」
「ストーブ入れていいぞ」
「藤野さん、柴崎さんもう来たの?」
 藤野はリモコンを壁に引っ掛けてから、
「ああ。朝からうちに来たと思ったら、南天丸を連れて登りに行ったよ」
「そうなんだ」
 蓮は肩を落とした。それなら、自分もついて行きたかったのに。
「蓮、どうした。お前、ずい分柴崎さんになついてるじゃないか」
 蓮はぷいと顔を横に向けた。
「別に」
 犬のような言い方はしないでほしい。
 藤野はカウンターの中に入って、蓮の定期カードを、先代のオーナーが手作りした木のオブジェにひっかけた。天然木に切り込みを入れて、カードを挟めるようになっている。
 蓮はその場で上着を脱いだ。すぐに登れるよう、運動着をすでに着て来ているのだ。
「よく南天丸を連れて登りに行ってるの?」
 別にといいつつ、蓮はやはり、順正のことが気になっているようだ。
「ああ。里親の鮎太郎さんが、思いがけずぽっくり逝っちまって、南天丸を遠出させてくれる人がいなくなっちゃったからな」
 藤野は登り場のほうのストーブをつけた。蓮は準備体操をしながら、首を傾げる。
「どういうこと?藤野さんが南天丸の飼い主じゃないの?」
「一応はそうなってる」
 藤野は苦笑した。
「寝床は与えてる、というくらいだけどな」
 南天丸の面倒は、このジムの皆で見ているようなものだ。
「鮎太郎さんが死んで間もなく、柴崎さんがふらっとジムに来てさ」
「登りに?」
「いや、南天丸を連れて明神山に登るって」
 それ以来、一定の頻度で、順正は南天丸を連れて行くようになった。
「ま、南天丸も時々山に登ったほうが、運動になっていいだろう」
「そうかな」
 蓮は足を伸ばして、軽く前屈する。
「犬にとっては、平地のほうがいいんじゃない」
 南天丸を山に連れていくのは、順正の趣味に付き合わせているだけのように思えた。
 藤野はストーブの前に手をかざしながら、片膝ついた状態で首を横に振った。
「南天丸は特別だからな」
「特別?」
「あいつは山岳救助犬だったんだ」
「まじで?」
 蓮は大きく目を見開いた。
「知らなかったのか」
 南天丸は、八歳を迎え、現役を引退した。その後、鮎太郎が里親(リタイアウォーカー)として南天丸を引き取り、時々登山やら釣りやらに同行させていたらしい。
「すっげえ」
 確かに南天丸は、よく躾けられた賢い犬だという印象はあった。
「今頃柴崎さんに連れられて、自分の庭のように山を駆け回ってるところだろうよ」
 藤野は、ジムの南に位置する明神山の麓の森に目をやりながら、そう言った。

 同じ頃、あかつきでは、杏奈と美津子が応接間のテーブルの上にテレビを乗せ、電源をつないでいるところだった。このテレビは、美津子の居室の前室から持って来たものである。
 変換アダプタをかまし、美津子のパソコンとケーブルでつなぎ、モニターとして使えるか今一度チェックをする。このケーブルと変換アダプタは、羽沼に教えてもらい、購入した。
 今度は杏奈のパソコンとテレビを繋いでみる。杏奈のパソコンを使う場合は変換アダプタは不要だった。
 こういうハード系の設備のことは、杏奈は苦手だったが、おそらく、美津子よりは勘がある。
 二人がその作業をしていたちょうどその時、あかつきの門が開いた。最初に敷地内の土を踏んだのは南天丸。その後に順正が続く。
 低山とはいえ、頂上へ登って下りてくるのに、大人の足で三時間近くかかる。けれども順正は持ち物らしい持ち物は何一つとして持っていなかった。
 リード(手綱)なしで歩いてきた南天丸は、あかつきの敷地内でもロープで繋がれることはなかった。順正が中に入っていくと、南天丸は自由にあかつきの敷地内を歩き回る。
「映った」
 杏奈は再び美津子のパソコンをテレビと繋ぐと、いつもの席に座った。
 この後、亜美の事前コンサルを行うのだ。亜美の問診票や、進捗確認シートなど、これから使うであろうファイルを開く。
 その時、玄関が開く音がして、杏奈の手は一瞬止まった。
─おかしいな。
 美津子は居室に戻ったはずなのだが。
 訝しく感じながら、議事録を取るためのワードを開く。今日も書記をするのだ。
 準備を進めながら、何げなく居間の方へ目を向けた瞬間、杏奈の心臓は早鐘を打った。慌てたが、極力音を立てずに、隠れるようにキッチンへと逃げ込む。
─なんで。
 別に悪いことはしていないのに、なんで隠れるのだろう、と杏奈は自問自答した。
─あの人が来た。
 プライドの高いアーユルヴェーダセラピストを送り出した日、初対面の杏奈に厳しい言葉を突き付け、夕闇を背中に帰っていった隣町の産婦人科医。
 杏奈の心は揺らいだ。あの時、彼から言われた言葉が、ぐわんぐわんと頭の中で鳴った。
─価値のある仕事ができないなら、さっさと辞めろ。
 自分の仕事の価値を確信していないままクライアントを取ることは詐欺も同じだと、吐き捨てるように言われた。
 杏奈は身震いするような思いだった。姿を、キッチンに逃げ込んだのを、見られただろう。しかし、今出て行って、彼と相対するのは怖かった。
「あ、順正」
 玄関の音が聞こえて応接間に入った美津子は、居間の掃き出し窓から外を見ている順正を見て、
「来てくれたの」
「犬の散歩に来ただけだよ」
 順正の声は落ち着いていて、穏やかだった。
「十時半から始まるの。最初はガイダンスだから外してもらってていいけど、その後は同席して話を聞いててね」
 順正は軽く頷いて、悠然と居間を出て行った。
 美津子は周囲を見渡し「おや」と思った。パソコンは開いているが、杏奈がいない。キッチンに来てみると、杏奈が急須にお湯を注いでいた。
「杏奈、今日、顧問医の柴崎先生が同席してくれるから。今いらっしゃったわ」
「そうですか」
 杏奈は、初めて知った、という顔をしてみせた。同席するということは、確かに、今初めて知ったのだが…
「会わなかった?」
 と訊かれ、杏奈は、ふるふるとかぶりを振った。
「そう。後でまたご挨拶してね」
 美津子はそう言いながら、お盆に湯呑が三つのっているのを見てしまった。応接間に戻りながら、美津子は、杏奈に対して少し申し訳ない気持ちになった。

 モニターに映った亜美は、写真よりも下瞼が腫れて、疲れて見えた。
 小柄な女性で、顔も小さく、目は大きい。小型犬のような愛くるしい顔つきだった。声は高く、可愛らしい。
「眠りが浅いということですが」
 事前コンサルではあらゆる質問をし、問診票からつかみきれなかった情報を引き出す。
「どのくらいの頻度で、いつ頃目が覚めますか?」
『二時から四時の間に目覚めることがあります』
 頻度は、月に二回程度。午前二時から四時といえば、ヴァータの時間帯の真っただ中だ。杏奈は素早くタイピングをしながらそう思った。
「ホルモン剤による影響があるのでしょうか?」
『医師から、そういうことは聞いたことがないです』
 そこは、後で順正に訊くべき用件だろう。
『少し前にホルモン剤はやめています。けれど、その後も夜間の尿意は変わらないです』
 美津子は頷いた。
「夜寝る前は、何をして過ごしますか?」
『えっと…』
 二十二時くらいにお風呂、空いた時間は、テレビ、スマホ、時々ゲーム。
「夕食後に、利尿作用のあるものを飲みますか?」
『いえ、ほとんど飲みません』
「食後、ガスやげっぷが出やすいということですが、常にですか?特定のものを食べた時にそう感じますか?」
『常にではないです。でも、どんな時にそうなるか、食べ物との関係は分かりません」
 胸から上の部分だけ映った亜美は、訊かれた質問から脱線することなく、割と明確に答えていた。
「発酵食品をよく召し上がるようですが、どんなものを食べますか?」
『問診票には書いたかもしれませんけど、言われてみると、そんなに発酵食品は食べてないかもしれないです』
「そうですか」
『でも、朝納豆を食べることはたまにあります』
 美津子は頷き、次の質問をする。あらかじめ、訊くことは決めてあるのか、流れるように口が動いた。
 果物はどういうタイミングで食べるか。
 ナッツを食べるか。
 食事中の飲み物は何をどのくらい飲むか…
「すみません、いったんミュートにします」
 美津子はこちら側の声を聞こえないようにした上で、自分のメモ書きを杏奈に見せた。走り書きしたいくつかの文言に、美津子は赤ペンで丸を打っていく。
・偏頭痛
・疲れやすい
・ぼやけて見える
「これはこの間の聡美さんの症状と同じね」
 美津子は早口に言った。
「この背景には何があると思う?」
「低血圧です。消化力の弱さにより栄養が不十分にしか吸収されていない。ヴァータの不均衡による循環の弱さがあります」
 聡美の事例研究をしたばかりなので、杏奈はすぐに答えられた。もっとも、他にも色々な要因はあるだろうが。
「次に、これに関連して…」
 美津子は先ほど亜美から聞き出した、より詳しい月経の状態についてメモ書きした箇所に下線を引っ張る。
「月経の特徴とドーシャの関連性を教えて」
 美津子はコンサルをしながら、杏奈の教育をもしようとしている。
「ええと…」
 杏奈は焦りつつ、美津子のメモ書きに目を走らせた。
「月経周期が中間からやや長いですが、長いのはヴァータの特徴です」
 亜美の周期は、三十日から三十五日であった。
「変動があるのもヴァータの特徴です。血液量が少ないのも…」
「月経血はどのダートゥの副産物?」
 ダートゥとは、体組織のことである。
「ラサダートゥです」
 ラサは、全ての体組織の中で、一番初めに形成される組織であり、あらゆる体液、血漿を指す。
「ラサダートゥが形成されず、ラクタも不足しています」
 美津子は頷いた。ダートゥとその副産物(ウパダートゥ)などという基本的なことは、杏奈は十分によく分かっている。ラクタはラサダートゥの次に形成される組織で、血液、赤血球のことだ。酸素、栄養素、プラーナ(気)、熱などの運搬を司っている。
「この後の質問から、彼女の消化力がどうなっているかよく考えて」
「はい」
 ミュートが解除され、再び美津子からいくつもの質問が飛んだ。

 順正は玄関先の石段に腰を下ろして、庭で遊ぶ南天丸を眺めていた。時々首を左右に傾けたり回したりして、首をほぐす。そんなことをしながら無心に佇んでいると、思いがけず時間が経っていたのか、美津子から催促のラインがあった。
 スマホをポケットにしまうと、静かに扉を開け、再び中に入る。ホールまで入ると、応接間から美津子の声が漏れ聞こえた。
「彼女のアグニはどのアグニだと思う?」
 アグニとは、消化力のこと。一口にアグニといっても、いろいろな特徴のアグニがあり、ドーシャの乱れと密接に関わりあっている。
 師匠と弟子が問答する場面がそこで繰り広げられているのが、順正の視界に入った。
「ヴィシュマグニだと思います」
 ヴィシュマグニは、ヴァータに関連したアグニで、不規則な消化力を示す。
「でも、マンダグニのようにも思えます」
 マンダグニは、カパに関連したアグニで、消化が遅い。
 答えながら杏奈は、順正がテーブルの短辺、お誕生日席にあたる位置に腰を下ろしたので、急に体が委縮するのを感じた。一方、順正は杏奈の存在など全く気にしていないらしく、見向きもしない。白いジャケットを脱いで、椅子に掛けた。ジャケットの下は、柔らかそうな黒いシャツを着ていた。
「アジェールナ(未消化物)の存在は?」
「あります」
「どういう点でそれが分かる?」
「空腹をあまり感じない、厚い舌苔、疲れやすい…」
「そうね。じゃあ、食事の提案をする時には、アグニとの関連性を強調して伝えてね」
「はい」
 美津子に返事をしながら、杏奈はおそるおそる、視線を斜め右に向けた。上背のある男の顔が、冷淡に映る。
─怖い…。
 杏奈はパソコンの画面に隠れるように身を縮めた。
 美津子はミュートを解除し、
「亜美さん、お待たせしました。今、産婦人科の先生がいらしてくださっているので、先ほど気になっていると仰っていたこと、遠慮なく聞いてください」
『はい』
 モニターを見ると、亜美は急にそわそわしだし、前髪を撫でつけたり、姿勢を整えたりしていた。杏奈と美津子が両端に写るのみだったのに、正面にいきなり端麗な男が映って、うろたえているようだった。
 亜美は主に、薬の副作用に関する質問をした。定常的に覚えている不調である、むくみ、肌荒れ、夜間の尿意は、ホルモン剤を使うことによる影響があったのか。杏奈は、この西洋医学的な問答の間も、タイピングを打つ手を止めなかった。
 順正は、無駄がなく、明確で、理路整然とした回答をした。話をしている順正の声色は、この間とはどこか違う。柔らかく、温かいとさえ感じる。
 しかし、杏奈は斜め右に座る順正から圧を感じ、画面から少しも目を離すまいとした。
『あのう、先生…』
 亜美は、ちょっと遠慮がちに、
『一回だけ、胚移植が成功したことがあるんですが…』
 それは、美津子も杏奈も、初耳だった。
『子宮外妊娠になってしまいました』
 杏奈はタイピングしながら、目を瞬いた。
─子宮外妊娠…
 子宮の外に受精卵があるということだろうか。それを子宮の中に戻して、正常な妊娠にすることはできなかったのだろうか。杏奈にはそういう知識が、ほとんどなかった。
『そして今回、十二月頭に、再び受精卵を移植したところなんです』
 それは、美津子も杏奈も聞いていた。
『体外受精だと、子宮外妊娠のリスクが上がってしまうんでしょうか』
「体外受精が、異所性妊娠の危険因子になるという研究や統計もありますが」
 順正は、ゆっくりと、諭すような口調で答えた。
「融解胚移植をするようになってからは、そうでもないと言われています」
『子宮外妊娠は、繰り返すことがあると聞いたので、不安で…』
 杏奈はタイピングしながら、モニターを見た。亜美は心細そうな表情をしていた。
『あの時、出産した女性がいっぱいいる産院で、自分だけひとりぼっちで…』
 手術した後、個室で一人、夫の迎えを待っている時だった。廊下では慌ただしく足音がしていた。他の妊婦が産気づいたのか…
─どうして私は、ここにいるんだろう。
 亜美は、荷物を抱えながら、ぽつりと涙を流した。
─赤ちゃんがほしかっただけなのに。
 子宮外妊娠を、正常妊娠に戻すことはできない。杏奈は議事を取る傍ら、ネットで子宮外妊娠について調べ、その事実を知った。
「自分だけではありません」
 男の低い声が聞え、杏奈は思わず順正の顔を見た。無表情だったが、前回抱いたのとはどこか異なる印象だった。どこがどう違うかは、分からないけれど。
「そういう方はたくさんいます」
 知らないだけで…
 杏奈は、心臓をつかまれた心地がした。
 一人だけではない。だけど、それがどんな慰めになるというのか。
『…そうですよね』
 しかし、亜美は崩れかけた表情を、けなげにも取り繕おうとした。
「受精卵がうまく着床すれば、妊娠した、ということになるのですね」
 美津子が、気まずい沈黙を破った。
「その結果は、いつ頃分かるのでしょう」
『次の水曜日です』
 では、もう間もなくだ。
『あのう、着床率を上げる方法って、アーユルヴェーダ的に…何かありませんか?』
 杏奈と美津子は、顔はモニターに向けながら、視線だけをお互いに向けた。
『着床率を上げるのに良い食べ物とか…』
 杏奈は、妊孕性に関するアーユルヴェーダ的知見を、この時点ではそれほど多く持っていなかった。にもかかわらず、
─今、それを言うのか。
 直感的に、時すでに遅しと感じた。胚移植した、その後で…
 自分だったらなんと答えるか…杏奈は、頭の中が真っ白になっていた。
 順正の視線が、ちらりとこちらに向いた。今まで気にも留めないようにそこに座っていたのに、なぜこう力量が試されるような質問をされた時に、こちらを向くのだろう。
 杏奈はますますうろたえた。順正は相変わらず無表情だったが、杏奈には、揶揄するような薄笑いを浮かべているように見えてしまうのである。
─価値のある仕事ができないなら、さっさと辞めろ。
 いつかの順正の言葉が、頭の中で反芻する。
─私の仕事は癒しになるのか、詐欺なのか…。
 杏奈の脳裏に雑念が浮かんだ、その時、
「心と身体は、密接に関わっています」
 緊張を破ったのは、またしても美津子だった。
「受精卵になった卵子は、子宮まで移動する必要がありますが、卵子は自分で動くことはできません」
 美津子の朗らかな声を聞いて、杏奈は我に返った。
「小さな毛のような構造が、卵子を運びます」
 卵子はリラックスして、音楽を聴きながら待つだけだ。
「体の動きを司るのはヴァータです。ヴァータを乱す行動の一切をやめ、整えることを意識してください」
『あ…はい。ヴァータ…』
「子宮は、血の海です。受精卵は、温かいほうへ向かうとも言われています」
『はい』
「体を冷やさないように」
 亜美は軽く頷くと、乾いた唇をぎゅっと結んだ。
『女性が母親になるかどうかを決めるのは何なのでしょう』
 ぽつりと、小さな声で問いかける。
『子供が欲しくても授からなかった女性や、子供が欲しくなくても授かった女性がいることを考えると、望むかどうかという意思の力ではコントロールできない要因があるように思えます』
 杏奈は顔を上げて、美津子を見、視界の端にいる順正を見た。順正は顎を引き、モニターを見るともなく見ていた。
「だからといって」
 美津子は亜美から視線をそらさず、よどみなく答える。
「自分ではどうしようもないと言い切ってしまうのは、もったいないです。多くのことが、私たちの力の及ぶ範囲にあります。自分でコントロールできることに集中し、あとは自然に任せましょう」
 亜美は唇を堅く結んでいる。今まで釈然とコンサルの質問に答えてきた亜美だが、ここに来て、何かを言いよどんでいるようだ。
「今、胸につかえている感情があるなら」
 美津子の言葉は、そのまま杏奈が、この女性にかけたいと思った言葉であった。
「仰ってください」
 亜美は、今にも泣き出しそうな目をしていた。
『いや…よく分からないです。子供を持てないのではないかと恐れているのか、子供を持てなかったとして、どんな不安や後ろめたさを抱えていくことになるのか…』
 不安、恐怖、プレッシャー…これらの感情が、亜美を苦しめている。
「亜美さんは、どうしてアーユルヴェーダのコンサルを受けようと思ったのでしょうか」
『妊娠に向く体づくりをしたいと思ったからです』
「そうでしたよね。けれど、私たちとしては、妊娠する方法をお伝えするのではなく、感情的にも身体的にも最も健康な自分になっていただきたいと思っています」
 美津子は私たちと言った。それが、妊活を望むクライアントに対するあかつきのスタンスなのだ。美津子は亜美に向かって話をしているのだが、やっぱり同時に、杏奈に教育をしている。
「アーユルヴェーダの知恵は、子供を望もうが望むまいが、結果的に子供を授かることができようができまいが、人生全体の幸福に寄与するものです。心の扱い方についても、そうです。どう扱っていいのか分からない感情があるのなら、コンサルを受けてくださった今こそ、それに向き合う時です」
 もし必要な時に向き合わなければ、それらはそのまま残り、人生の他の場面で現れ、「自分の決断は正しかったのだろうか」といつまでも自問することになる。
『私は…』
 亜美は、頭を垂れた。
『子供は、なんとなく、欲しいなと思っていました。一度妊娠が分かった時、すごく嬉しかった』
 思いがけないほどに。
 が、しかし、子宮外妊娠が分かり、手術をして、左の卵管ごと、受精卵は排除されてしまった。
『その後、とても悲しくて…』
 一度得られると思ったのに、得られなかったとなると、ますます、得たいという気持ちが強くなった。だから、自分にできることは、なんでもしたい…その時なぜか頭に浮かんできたのが、アーユルヴェーダだった。
「亜美さんはすでに子供が欲しいと決めているのですよね」
『はい』
「それならば、長い間眠っていた、あるいはブロックされていた能力を活性化させましょう」
 あと二回、チャンスはある。
「結果は分かりませんが、だからといって旅を始めるべきでないというわけではありません。それに…」
 美津子は、順正をちらっと見た。
「ありがたいことに、亜美さんがどのような経験をしたとしても、同じような経験をしたことのある女性はおそらく、たくさんいます」
 順正は声を出さず、ただ眉をひそめた。
「誰かがどこかで、あなたの物語を理解してくれるはずです」
 亜美は、充血した目をこすった。不安で歪んでいた亜美の表情が、決意を定めたかのように、強く引き締まった。
「ただし」
 美津子はまだ、続けた。
「もし亜美さんが、この取り組みの終わりに妊娠できるという保証や、飲めば魔法のように何でも手に入るというような薬を望んでいるのなら、その期待を打ち消していただく必要があります」
 結果は分からないけれど、やってみますか?それは、ビジネスとしてあまりにも頼りない。しかし、ダイエットやボディメイクで自己実現をするのとは次元が違う。妊娠できるかできないか。非常に繊細で、難しいことを扱っているのだ。
 美津子の表情からは、自信のなさや、後ろめたさのようなものは全く感じられなかった。
「けれど、得られるものは必ずあり、それが何であるかは、あなただけが知ることになります」
 杏奈はタイピングするのも忘れ、美津子が発する言葉を、心に刻み込んだ。

 


 

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