第69話「再びあかつき」アーユルヴェーダ小説HEALERS

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 二〇二三年、五月。この物語の冒頭に戻ってきた。
 話はここから一年前にさかのぼり、一人の女性が、アーユルヴェーダの癒しの旅を続ける様子を描いてきた。
 どのような経緯だったか、お分かりいただけただろうか。
 話はようやく、この物語が始まりの時点に追いついた。
 一人のクライアントが、あかつきを訪ねようとしている。

 寛子は電車に揺られている間、ほとんど寝られなかった。日本でアーユルヴェーダの宿泊施設に滞在するのは、今回が初めてだ。
 駅で、寛子はタクシーを探した。外に出ると、田舎らしい、青っぽいにおいのする空気に包まれた。
 足込町は山深いところにあると聞いていたので、寒がりな寛子は、半袖の服の上から長袖のパーカーを羽織ってきた。
 滞在先であるアーユルヴェーダトータルヒーリングセンター・あかつきは、駅から車でニ十分かからないくらい。
 明神山という山の麓にあった。
 なまりのある運転手と少し会話しながら、寛子は初めて訪れる足込町の風景に目をやっていた。山間の町と聞いていたが、長野県の高原リゾートなどとはまた、異なる趣である。
 あかつきに到着すると、若い女性が門まで出迎えてくれた。
「どうぞ」
 短い挨拶を交わすと、女性に案内されるまま、中に入った。
 スリランカやインドのアーユルヴェーダ治療院は、リゾートとしての素質を備えていると聞いていた。しかし、あかつきは見た感じ、大きな田舎の一軒家である。庭には畑があり、竹笠をかぶった女性とおじいさんが、農作業をしていた。
 寛子の部屋は、二階の奥の和室。旅館の一部屋のようであった。部屋にはトイレがなく、廊下を渡ったところに、共同トイレがあった。客間のすぐ隣が施術室。そのあと、一階も一通り案内された。
 カウンセリングの時間まで、寛子は客間で荷解きをした。
 押し入れの他に吊り収納があり、そこに服が収納できるようになっている。座卓の上には大きなポットに白湯が入っていた。
 窓を開けると、背後に聳える明神山の、青々とした葉をつけた木々が視界に入った。付近に民家はない。
 もわっとした湿った空気を、肌に感じた。

「ここにいる間は、ディナチャリヤに沿った生活をしていただきます」
 カウンセリングが始まると、若い女性のスタッフから、滞在中の過ごし方についての説明があった。
 スタッフは名前を杏奈といった。事前カウンセリングで、一時間弱話をしたことがあるので顔は知っていたが、思っていたより、小柄な人だった。
 ここでは、基本的には太陽の運行に沿った生活をするらしい。単純に、朝早く起きて、夜は早めに寝る。規則的な食事、アーユルヴェーダのトリートメント、アーユルヴェーダのハーブの服用、ヨガなどを行う。
 アーユルヴェーダの言葉(サンスクリット語)で、生活習慣のことをヴィハーラといった。本来の活き活きとした自然な自分を取り戻すために、生活習慣を整えること。起床、就寝、食事の時間、日課といった基本的なことや、運動・プラクティス(練習)、セルフケアなどの習慣を含む。
「朝起きたら、舌の状態を確認して、できたらスマホで写真を撮ってください」
 寛子は説明書きに視線を落としながら、杏奈の説明を聞いた。
「ディナチャリヤと、ご自身の生活習慣とのズレを見つけてください」
 冷徹な作業マシーンのように、ただ無心に型にはまったタスクをこなすのではなく、普段の生活ではなかった気づきや、心身の変化に気づくことが重要なのだという。
「ちなみに、私の体質って、結局なんだったんでしょうか?」
 寛子は、気になっていることを聞いた。
 今後、寛子はアーユルヴェーダのセラピストの仕事をしていく。アーユルヴェーダのことは少し勉強したが、自分はどのタイプにもあてはまるようで、自分の体質への理解が難しかった。
 ドーシャのバランスを整えるためには、ドーシャの特徴を知り、生まれ持ったドーシャバランス(プラクリティ)と可変的な現在のドーシャバランス(ヴィクリティ)を知ることが、前提として必要である。それから、乱れていると考えられるドーシャにアプローチする。
「寛子さんのプラクリティは、ピッタです。けれど今は、精神的にはヴァータ・ピッタ、身体的にはピッタ・カパが強いですね」
 つまり、全体的に整えていかなければならないということだ。
「複数のドーシャの特徴が見られる場合、自分の体質を把握しにくいですよね」
 杏奈は共感を示した上で、次のようなことを話した。
 診断結果は、それをする時期によって異なるかもしれない。本質は変わらないが、体調や、自分のことを把握する力(知覚)が変化するからだ。でもそれは、誰もがよく感じることである。
 体質のタイプの考え方は単純に思えるが、単純ではない。全ての個人は他とはまったく異なる体とマインドをもっている。ドーシャはたった三つだが、実際には無限の組み合わせがある。
 だからその瞬間瞬間の自分の傾向を、捉えることが重要なのだと。
「ライフステージや季節、住んでいる地域の気候によって、複数のドーシャが自然に上昇する可能性があります」
 環境的な要因によっても、ドーシャは増減する。
「天候を変えることはできませんが、自分の習慣やライフスタイルを天候に合わせることはできます」
 つまり、周りの環境に適応できるかどうかは、自分次第ということだ。
「どのくらいで、体調が良くなっていくものなんでしょうか」
 長い間、様々な不調を経験した寛子は、漠然と気になっていることを訊いた。
 杏奈は、個人差や、もともと抱えている不調により、確実な日数は分からないと言った。
「少なくとも九十日はリバランスのために必要ですが、六カ月もあれば、なおよいと思います」
 より強い、あるいは長期的なアンバランスがある場合、変化を定着させるためには、もっと時間がかかる。
「まずは滞在期間中に、アグニを強化することが大事ですね」
 ドーシャのバランスを整えるのと同じく重要なのは、アグニを強い状態に保つこと。
 寛子は事前コンサルの時点で、アグニを強化するための提案をいくつかもらっていたが、この一か月の間、特に目立った変化を起こせていなかった。
 最初の頃は、よく噛めと言われ、よく噛むことを心がけていたけれど、それも数日のうちに、意識から消えた。
「アグニが弱まると、体内毒素(アーマ)が蓄積し、その人の身体の弱いところに、病気の種を蒔きます」
 また、ドーシャに影響を与え、悪化させる。
「逆もまた然りで、ドーシャのバランスが崩れても、アグニが影響を受け、弱くなります」
 杏奈は何かを勧めるたびに、しきりに、その背景にある原理を説明しようとした。
「食べ物、感情、人生経験、すべての次元において、きちんと消化できていることが重要です」
 寛子は客間で、サロンに着替えた。
「寛子さん、アビヤンガからですね」
 施術を担当するのは、沙羅という名前のセラピストだった。
 保温器には、オイルの入ったボトルがいくつも温められている。
 体にオイルを塗布するアビヤンガという施術が終わると、ヒートマットにくるまり、汗を流した。その後、シャワーを浴び、源氏襖で隔てられた隣のメイクルームで、髪を乾かしたり着替えをしたりし、一息ついてから、下へ降りた。
 ハーブティーを飲みながら、アフターカウンセリング。
 施術後の感覚など、いくつか質問を受けたり、測定器の結果が報告されたりして、十分ほどで、カウンセリングは終わった。
 昼食は応接間で摂った。
 事前コンサルでは、おすすめの食材、避けた方がよい食材など、ざっくりとした食事の方針が提案された。しかし、寛子は食事を変えることも、間食を避けることもしてこなかった。
 初めてのあかつきの料理を食べている間、寛子は、普段食べているものと、これほど違うものを食べなければ、浄化は達成されないのかとドキドキした。
 パラパラとしたごはんに、野菜がたっぷり入った豆の煮込み。濃い緑色のペースト。時々香ばしいプチプチとした何かを噛んだ。
─野菜や繊維質のものを、よく食べるようにしてください。食事の前にお腹が空く感覚が戻ってきたら、穀物は全粒のものにするとお通じがよくなります。よく噛むことが前提ですが…
 事前コンサルで杏奈がそんな話をしていたことを思い出した。
─あの人が勧めていた料理って、こういうものを指すのか。
 寛子はそう思ったが、実際、アーユルヴェーダ料理には、使う食材、調理法に決まりはなかった。それを食べる人によって、ベストな食事は千差万別。どのように食べるかによっては、理想的な料理であっても毒素に代わり、逆に不完全な料理でもより良く消化吸収できる。
「寛子さん」
 ふいに呼ばれて、寛子は目を丸くした。杏奈がそこにいたことを忘れていた。
「食事が終わったら、午後のカウンセリングまで、三十分ほどありますから、十分程度、外をお散歩されても良いと思いますよ」
「はい」
 寛子は外の様子を見て返事をした。寒くはなさそうだ。
 アーユルヴェーダでは、食後十分程度の軽い散歩は、消化を促すと教えているらしい。
 散歩を終えると、午後二時前に沙羅が迎えに来て、午後の施術が始まった。

 杏奈が栗原神社へ散歩に出たのは、この午後の施術が始まった後だった。
─ずっと昔見た、その夢にいつかは辿り着ける。
 無機質な空間に佇む母子がこちらを振り向こうとしたのを捉えた瞬間、視界がぼやけ、何も見えなくなった。
 代わりに、青々とした竹林と、栗原稲荷社の燃えるような朱色の鳥居を背景に、赤子を抱く母親が杏奈を振り返るのが見えた。
 杏奈はやっと、自分が呼吸をしているのに気が付いた。
「おーい」
 神社のほうから、男の人の声が聞こえる。その男性は手を上げて、小走りに母子に近寄った。
「そろそろ行こうか」
 この女性の夫のようだ。今気が付いたが、女性は着物姿で、赤子には、祝着(のしめ)が掛かっている。
─お宮参り、か。
 杏奈は鳥居の中に一人佇み、ぼんやりと親子を目で追った。
 自分はひどく、遠回りをしている気がする。
 杏奈はとぼとぼと稲荷社に近づいたが、賽銭を投げるでも、手を合わせるでもなく、ただそこに立っていた。
─簡単なことだ。
 今すぐにでも、行動を目標につなげれば良い。
 でも、もう依存したくはないし、自分の幸せを外部に委ねたくはない。人の感情は頼りにならないものだ。一時は愛されても、愛されなくなったら、どうなるのか?
 ずっと手の中にあるかどうか分からないものに縋り切ってしまっていたら、それがなくなった時、自分には何もなくなってしまう。
─まだ、早い。
 なによりもまず、ゆるぎない自己を確立したい。そうでなければ、本懐は果たせないのだ。
─今私が見るべきは…
 目の前のクライアント。
 
 杏奈は合間を見つけて、積極的に寛子と会話をした。
 寛子は、身体的な不調が山ほどあったが、精神的な不調も目立つクライアントである。
 人と比べては落ち込む、人にイライラした後に罪悪感に見舞われるなど、他者と自分の関わりの中で、ネガティヴな感情を抱くことが多い。
 杏奈は会話を通して、正しく自己認識できるよう、誘導しようとした。
 寛子は、他者に能力を認められることこそ、自己が存在する意義だという、固定観念をもっている。彼女の自己評価の基準は、常に、他者から評価されるか、認めてもらえるか、というところにある。そのため、何においても成果を出すこと、人の期待に応えることに執着していた。
「目線がご自身の外側に向くことがあるんですね」
 杏奈は、話にくいようなことでも、どこまで率直に言っていいか図りにくいようなことでも、努めて寛子に伝えるようにした。
 出来事に対する見方に、寛子は癖をもっている。
「でも、自分への評価や幸せが、自分以外のものに委ねられているって、少し…不安定だと思いませんか?」
 寛子は、「ああ…」と言って、頷いた。杏奈と寛子は年齢が近い。それが良いのか悪いのか分からないが、寛子は杏奈に対し、苛立った様子を見せたりはしなかった。
 杏奈は努めて明るい様子で話をつづけた。
「人は自分にとって都合のいいことを言ったり、してくれたりする人を、評価するものじゃないですか。でも、それに合わせていくのが最も良いとは限りません」
 周りからどう言われようと、自分がよくやったと納得できるよう、最善を尽くすだけで良い。何よりも自分が満足することが大事だ。
「時には自分の良い所に目を向けて、自分を褒め、自分に向かってにっこり微笑んであげてください」
 人によってその塩梅は難しいのだが、寛子の場合は、もっと自分に優しくしていいのだと、杏奈は言った。
「子供の頃から、負けず嫌いだったと言っていましたね」
 杏奈は、事前コンサルの時に、寛子の子供時代のことについても質問をしていた。小学校低学年までの頃の寛子は、今ほど内省的ではなく、むしろ活発で、細かいことはあまり気にしないタイプだったという。しかし、中高学年になると、深く考えたり、負けず嫌いになったりすることが多く、人と接しにくいと感じるようになった。
「考え方の癖があることは、自分でも気づいているんです」
 と、寛子は言った。
 杏奈には、寛子の負けず嫌いなところも、人に認められたいという気持ちも、分からなくはない。誰にでもそういう気持ちはあるもの。しかし、何事も程度が過ぎれば、何にも良いことは起こらない。
「他者と自分を比較しがちだってことは分かっていたんですが…」
「…ご自身の傾向に気付けただけでも、素晴らしいことです」
 杏奈は、寛子の小さな気づきを、盛り立てて賞賛した。
「自分の傾向を認識してさえいれば、自分がまさにその思考に陥っている時に、ちょっと離れたところから気づくことができます」
 それがヨガのいう、傍観者の立場を取る、ということだ。自分で、自分の手綱を引くのである。
 そしてその時、別の見方ができることにもまた、気付くかもしれない。
 
 風呂から出た後、まだ書斎でパソコンに向かっている杏奈を見て、
「何をしているの?」
 美津子は体の前面にかかった髪を後ろに流しながら尋ねた。
「…」
 杏奈は顔を美津子に向けた。ちょうど、美津子と話をしたかった。寛子のコンサルをする中で感じたことについて、相談がしたかった。
「寛子さんは、事前コンサルで私が言ったことを、あまり実践していませんでした」
 寛子への推奨事項は、杏奈が原案を考えたが、美津子にも目を通してもらった。結果的に二人の案が、寛子に送られた。こちらとしては、そう無理なことを提案したつもりもないのだが、どうして実践しなかったのだろう。
「私たちはアーユルヴェーダの目線からアドバイスをするけれど」
 美津子は、小声で、けれどしっかり杏奈に伝わる声で話した。
「結局、他人事。クライアントが行動しやすいよう、配慮はするけれど、行動しないなら、それはクライアントの責任」
「でも、クライアントが望んでいないのに、こちらから積極的にアプローチをかけることもありますよね」
「そうなの?」
「いや…美津子さんはそうだったんじゃないかっていう…推測です」
 杏奈の目に、自分はそんなにクライアントと関わっているように見えたのか。
「…全員に対しそうではないわ」
 美津子はふう、と息を吐いた。
「クライアントには決して言えないけれど、実際、コンサルティショナーを本気にさせられるクライアントと、そうでないクライアントがいる」
 それに影響するのは、クライアントの姿勢かもしれない。
 が、コンサルティショナーのほうの、個人的な感情によるものも大きい。たとえば、そのクライアントが抱いている希望や問題が、コンサルティショナーにとって興味深いものである時、解決したいようなものである時、積極的に介入しようとするかもしれない。
「自分のことは、自分が一番よく知っている」
 美津子は、窓の外を見た。が、外は真っ暗で、映るのは自分の顔ばかり。
「アドバイスを実行した結果、うまくいかなくても、なにがいけなかったのか、どうすればうまくいくのか、自分にしか分からない」
 コンサルティショナーがすべきことは、クライアントがトライアンドエラーを繰り返し、自分に合った方法を見つけるまで、モチベーションを上げてやること。それしかできないとさえ思える。
「こうした方が良いのではないですか、と提案することはできる。でも、その語尾にはいつも、結果は知らないが、が続いているの。声には出さないけれど」
 もちろん、そこには悪意はない。
 アーユルヴェーダは、自分が自分の医者となることを教えるものだ。コンサルティショナーは、その最初のヒントを教えるに過ぎない。
「クライアントが行動に移せない理由に、納得がいかないとか、信じられない、っていうのがあったら、それは、アドバイスした人の責任ですか?」
「なるべく納得できるように、説明を尽くすことはできる。でも、最終的に、受け入れるか受け入れないかは、クライアントの自由だし、クライアントの責任だわ。私たちは結果を保証できる提案だけをするわけではない」
 そうやって割り切らないと、自分を守れない。美津子は警告するように、そう付け足した。
 杏奈の表情は曇っていた。そうはいっても、美津子は最終的には、クライアントの心を動かすではないか。
「同じことをクライアントにアドバイスしても、美津子さんが言うのと、私が言うのとでは、影響力が全く違うように思えます」
 美津子は頷きもしなかったが、否定もしなかった。
「どうして、美津子さんはクライアントを本気にさせる力をもっているんですか?」
 どうしたらその力が養われるか?
 外はすっかり暗い。
 美津子は、開けっ放しになっているドレープカーテンを閉めた。ソファに座り直すと、美津子は真剣なまなざしを杏奈に向ける。
「近道はないの」
 美津子は真面目な顔で言い放った。
「急がなくていいの。それは経験を経て身につくものなの」
「その間に私が担当するクライアントは…ババを引いたことになりますね」
 いったいいつまで、何人ものクライアントに、ババを引かせればいいのか。
「そんなことはないわ」
 美津子は柔らかく言った。
「経験っていうのはね、杏奈。なにも、何人のクライアントのコンサルをしたか、という経験ではないの」
「…」
「日々、あなたが何を食べるか、どんな生活をするか。それによって、あなたの心と身体は作られる」
 健全なエネルギーが満たされる時、オージャスが形成される。オージャスはオーラを形成する。
「その心と身体でもって、あなたが何を考えるか。何に意識を向けるか。それが、あなたの言葉や、態度、他者からの見え方に影響するの。分かるかしら?あなた自身が健全でいることが、何より大事なの。あなたが考えることや行動、日々のこの些細な経験の積み重ねで、説得力というものはできてくるものなの」
 杏奈は驚いたような、困ったような表情をして、美津子を見つめた。
 美津子は、ようやく微笑んで、杏奈のノートパソコンに触れた。
「でも、ずっと考えてなさいってことじゃないのよ」
「…」
「あなたは、やりすぎてしまう」
 杏奈は、信じたことなら、それのみをとことんやり続けてしまう。
 美津子は、今自分が言ったことを忠実に守ろうとするゆえに、杏奈自身が苦しくならないよう、釘を刺しておく必要があると感じた。
 美津子は杏奈のノートパソコンに手をかけたまま、そっと、それを閉じた。

 翌日はヨガレッスンから始まった。
 開始前、杏奈は寛子の状態を今一度鞍馬に報告すると、
「大丈夫ですって」
 鞍馬は迷惑そうな表情をして、
「ちゃんと彼女の状態に合わせたシークエンスにしてきましたから」
 と言って、ウォーミングアップに入った。
─まったく。信用してないのか。
 鞍馬は杏奈の再三の念押しを、腹立たしく思った。
 寛子は、自分に厳しい。なんでも本気で取り組んだことには、完璧を求めようとする。そのため、チャレンジングなポーズよりも、自分の内面に潜り込むような穏やかなポーズや、足のむくみに良いポーズを取り入れてほしい。
 その要望は、事前コンサルが終わった時点で、すでに鞍馬に伝えられていた。
─一回言えば、分かってるっていうのに。
 鞍馬は、最初に行うプラーナヤーマに、ナディショーダナと、シータリー呼吸を取り入れた。シータリー呼吸は、身体の余分な熱を取るので、ピッタをバランスしたい時に適している。呼吸は「鼻から吸って鼻から吐く」のが基本だが、シータリー呼吸は「口から吸って鼻から吐く」。
「舌を遠くに伸ばし、舌を横から丸めてチューブのようにします」
 ヨガレッスンに参加しているのは寛子、美津子、杏奈の三人。鞍馬は寛子の様子に注意を向ける。シータリー呼吸はしたことがないと言っていた。
「チューブを通して息を吸い、舌を口の中に戻して鼻から吐く…」
 そして、舌と口の上が涼しくなるのを感じる。
 活発すぎる、そわそわした心を鎮めるのに適した呼吸法で、マインドをクールにし、平静さや安定をもたらす。
 ポーズに入ってからは、杏奈もまた、寛子の様子を時々観察した。ただ自分が楽しみ、リラックスするために、ヨガをしてほしかった。
 寛子はヨガを日常的に実践しておらず、完璧を求めようにも、鞍馬の指導についていくのがやっとのようだった。
 ヨガの最後のポーズは、通常シャヴァーサナだが、鞍馬はこの日、壁を使った足を上げるポーズ(ヴィパリタカラーニ)を最後にもってきた。このポーズは、月経中はあまりしない方が良いが、そうでない場合、足のむくみの改善のために良い。
「ヨガができなかったとしても、このポーズを行うだけでも、疲労が軽減されます」
 鞍馬の言う通り、ちゃんと寛子に合ったポーズが考えられていた。杏奈は鞍馬のガイダンスを聞きながら、鞍馬にあれこれ注文をして申し訳なかったと反省した。
 寛子は二泊三日の滞在。
 二日目の施術は、アビヤンガとシロ・ピチュ、フットマッサージ。
 施術の合間に、杏奈は寛子を栗原神社、紫陽花の小径へと連れて行き、自然に触れさせた。紫陽花の小径は、去年、杏奈が優香を連れて行った場所だ。
 寛子は、精神的にはヴァータ、ピッタの性質が優位である。そのため、心がリラックスし、土に足をつける行動が推奨された。畑の野菜の収穫も、手伝ってもらった。
 翌日はシロダーラが控えているので、食事は全体的に消化に優しいものにし、夜は再び、キッチャリーにする。キッチャリーは寛子と一緒に作った。作り方を覚えてもらい、自宅でも実践してほしかったからだ。
「キッチャリーは、持ち運びもできますか?」
 夕食は、杏奈と美津子、寛子の三人で摂った。セラピストになってからは、寛子はシフト勤務で、昼食または夕食を、サロンの中で食べることになるらしい。
「はい。保温ジャーに入れて持ち運ぶこともできますよ」
 杏奈もアーユルヴェーダを学んで間もない頃、会社に持っていったことがある。
 おすすめのスパイスを訊かれたので、杏奈は寛子の状態を思い出しながら、いくつかのスパイスを提案した。
 ガス、膨満感を抑えるためには、クミン、アジョワン、ヒング。
 精神を安定させるためには、カルダモン、ナツメグ。
 豆の消化を良くするには、ターメリック。
 体を温め、循環をよくするには、生姜、シナモン、胡椒、マスタードシード。
 今回は、寛子一人を見ればよいからいいものの…
─複数人のクライアントを同時に見ていたら、誰がどんな状況か把握するだけでも一苦労だ…
 と、杏奈は思った。
「今まで仕事をいろいろ変えてきたみたいですが、どういう動機でだったんですか?」
 あっけなく食事が終わると、杏奈は寛子に追加の質問をした。
「接客の時は、自分では一生懸命仕事をしていても、評価基準が曖昧で、評価されてないな…と感じることが多くて」
 それで、売上など数字で評価される仕事に転職した。
「でも、営業の仕事は、ハードすぎて、ついていけなかったんです」
 それでまた、接客業に戻った。
「仕事は好きですか?」
「はい、好きだと思います」
 寛子はまだ結婚して間もなく、夫との関係は良好だが、すぐに子供をもつことは考えていないらしい。それよりも、新しい仕事をうまく動かすことに、意識が向いている。あかつきに来たのも、半分は他社研究…といったところだろう。
「寛子さんにとって、仕事は何のためにするものですか?」
 杏奈は、単純に興味があるといった様子を見せながら、真剣過ぎない声色で訊いた。
「何のために…ええと、自分の場所の確認…ですかね」
 やっぱり寛子は、他者から認められることによって、自分の生きる意味を見出すようだ。
─他者から認められる、か…。
 もうとうに食事を終えている美津子は、しかし、今回はほとんど会話に参加してこなかった。
 美津子の脳裏には、療育センターで、それぞれのペースで成長する子供や、自分では動くこともでいない、チューブに繋がれた小さな赤ちゃんが浮かんでいた。
─周りを良くして、認められることが、人の存在価値なのか…。
 それは、間違ってはいない。けれど、それが全てでは決してない、と、美津子は思う。
「自分の生きがいのために、仕事をしてきました。でも、不調でつらかった経験があるので、今度は人のために仕事ができたらいいなと思ってます」
「新しい仕事は、どんな感じですか?」
 寛子は、事前コンサルから滞在までの間に、新しい職場に変わった。
「今までの会社と比べて、福利厚生がいいとはいえないんですが、アーユルヴェーダを通して人をよくしていけたらっていう思いが叶えられるかどうかの方が大事なので…」
 しかし、その点が叶うかどうかも、今の時点では判断できないらしい。
「シフト制でしたよね」
「はい。九時から二十一時までの間で」
 シフト制の仕事は、生活のリズムが日によってズレるため、ヴァータが悪化しやすい。生活の中に規則性を持たせること。これが、滞在後の寛子が相対する、最初の課題となりそうだ。
「私も杏奈さんみたいなことがやりたいです」
「えっ?」
 杏奈は目を丸くした。
「アーユルヴェーダの目線でアドバイスをして、食事や生活のアドバイスもできるようになって」
「…そうですか」
 杏奈はクライアントに対し、自分はまだ未熟だと言うわけにもいかず、閉口するわけにもいかず、ありていな返事をした。
 人にアドバイスをしたいというのならば、まず、自分がそれをできていないといけない。昨日の美津子との会話からすれば、そういうことになるのだろう。
─まずは、自分を整えるところからっすね。
 小須賀のキャラクターを借りて、軽い感じでそう伝えたらいいのに。

 その夜も、杏奈は書斎のソファに座って、まだパソコンとにらめっこしていた。
 美津子は再び、その対面に座る。
「もう、九時になるわよ」
「はい。もうやめます」
 杏奈はパソコンを閉じた。アーユルヴェーダの目線でアドバイスをするなら、まず自分がアーユルヴェーダに沿った生活をしなければ。これは杏奈にも言えること。
「美津子さん」
「なに?」
「事前コンサルからカウンセリングの間、クライアントの進捗を追うツールを持ちたいと思います」
 昨日とは別の相談、というより提案だった。
 杏奈は、「健康日記」を互いに編集可能な形で、クラウド上で共有し、ラインでコミュニケーションを取る案を話した。
「そうすれば、あかつきに来る前に、もう少し、ご自身で浄化を進めてもらうことができるかもしれません」
「…」
 今度は、美津子が黙った。
 確かに、原因と結果を可視化するのに役立つツールにはなるだろうが、そんなことをしたら、コンサルティショナーの負担が大きくなる。
 そのツールや機会を、まるまる利用するクライアントばかりとは限らない。積極的に、毎日でもコンサルティショナーと話をしたい者もいれば、できる限り接触を持ちたくないという者もいる。が、たとえ一人だけでも、その人の日々の暮らしや心情に、何かしらのコメントや提言を入れるというのは大変な作業である。
 今の値段では、割に合わない。数字に関しては、割とおおらかな美津子でさえ、そう思った。
 杏奈は、もしかしたら、そういったサポートが充実すればクライアントが変化を起こすと思っているのかもしないし、クライアントの信頼感を得たいのかもしれなかった。信頼している相手の言うことなら、聞くようになる。
「…一晩、寝かせましょう」
 寝かせたところで、杏奈はこの考えを実行するように思えてならなかったが。
「…はぁ」
 杏奈はすとん、とソファに背中をもたげた。
─ほら、疲れてるじゃない。
 一本気な性格を知っているだけに、美津子は少し心配になっている。
「クライアントがいる間は、くたくたになるでしょ」
「…はい」
 杏奈は正直に答えた。
「あなたは今、事前コンサルやカウンセリングを通して、クライアントの全貌が見えるようになった。見えたからこそ、あんなアプローチもある、こんなことも言えると、案が思い浮かんでくるのよ」
 クライアントのことを考え、より知識を与えよう、より結果を出させようとすればするほど、調べものはキリがないし、伝えるべき言葉を考えるだけでも、あっという間に時は過ぎていく。
 しかし、自分が考えたことを、ただ単にクライアントに伝えても意味がない。伝えれば済むなら、楽だ。けれど、クライアントの心を動かし、かつ実際の行動に出られるような、絶妙な働きかけをしなければならない。アドバイスを渡す順番や、前回のアドバイスからどのくらい時間が立っているかも大事だ。一度にいろいろなことを言われても、クライアントは実践できない。その塩梅について作戦を考えていると、これもキリがない。
 そして、その間も、定常業務を途絶えさせるわけにはいかない。
「こんなことをよく、今まで美津子さん一人でやってきましたね」
 杏奈はもう、今日は何も考えられそうにないほど、頭を使い果たした。体ももう休息を求めていた。
「アーユルヴェーダは医療芸術」
 美津子は、いつか口に出した言葉を、再び放った。
「芸術家は命を削って、創作物に魂を吹き込む」
 杏奈は、目を閉じて頷いた。その言葉の意味を、ようやく、身をもって知った。
 クライアントに本気で臨めば臨むほど、まさに、魂が吸い取られるような疲労感を覚えた。

 

 


 

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