上沢市の最南端、明神山をはさんで足込町と隣接する桜台地区の花宿には、朝から代わる代わる人が押し寄せている。花宿の軒下に切り草を飾り、庭にテントを張り、臨時駐車場を案内する立て看板を立てかける。
午後十八時の祭り開始間際になると、大勢の人が祭りの始まりを見ようと、土間に詰めかけた。桜台地区に住む中学一年生、蓮こと、蓮太郎もその一人である。
「蓮太郎」
今年の花宿の男の子が、蓮太郎に声をかけた。祭りの青い装束を着て、頭にはちまきを巻いている。一つ年上の、蓮の幼馴染だ。
「お前今年は踊らないのか」
四月には中三になるその男子の声は、蓮よりも低く、落ち着いていた。
「宮渡り(祭りの始まりの演目)の荷担ぎ、出たかったら出なよ」
「いいよ」
もう間もなく始まるのに、着替えが間に合わない。
花祭の時だけ地元に帰って来る者の中には、
─年に一度、色んな友達に会える。
これを、花祭の良い点に挙げる。気心の知れた仲間とともに、安心して踊り、語ることが花祭の魅力だと。
しかし、今の蓮にとっては、これが花祭に参加しかねる理由になっていた。祭りに参加する大人の顔も、子供の顔も、蓮は知っていた。一緒に踊る子供たちはみんな知り合いである。仲違いしている子もいる。
ヒュオ‥‥
笛の音とともに、塩をまく者が土間へ出て来て、祭りが始まった。
最初は演目は、舞ではなく、神事である。観客は「おおぉ…」と歓声を挙げて、祭りの始まりの演目「宮渡り」に見入っている。中の様子を見ようと、足の指一本分だけでも前に出ようとする観客とは対照的に、蓮はくるりと踵を返し、土間を出ようとした。
「うわ」
自分より少し背が低い誰かとぶつかりそうになり、蓮は足を止めた。そこにあった顔は、昔からよく知る顔であるのに、蓮は狼狽した。
「莉子」
毎日のように学校で顔を合わせている同級生の女子がそこに立っていた。
その女子、莉子の今日の服装は、黒いダウンに、ジーパン。ベリーショートヘアと相まって、ぱっと見たら男の子のようである。
─何か、変だ。
最近の莉子について、蓮はそう思う。
あれは確か年が明けた頃。莉子はいきなり髪をベリーショートにして、学校へやって来た。もともと、髪の毛は長くしていなかったが、これほどまでに髪の毛を短くした莉子は、今までに見たことがなかった。
それに、特定の友人との関わりを避けるようになったかに見えた。今日も、祭りなのに全然楽しそうにしておらず、逆に眉根に皺を寄せていた。
「なにあんた、祭り見ないの」
「ああ。どいてくれる?」
が、莉子は脇に退いて蓮を通すのではなく、自分も後ろに下がって、蓮と共に人だかりから抜け出す形となった。
「髪めっちゃ短くなったよね」
「うん」
無愛想に、莉子は答えた。唇をつんと尖らせて、不機嫌な様子である。
「どうしたの?」
「別に」
「祭り、見てかんの?」
莉子は首を振った。
奏者も演者も、男たちばかりだった。男であったなら、自分も参加したかった。女も今は参加できるが、物珍しい目で見られるし、必ず一言ある。
─女の子はやっぱり、舞がうまいねえ。
とか、
─女の子は、舞い方が優美だよ。
とか。
善意に満ちた評価である。が、今の莉子には、そういう言葉をもらうことは我慢がならない。自分が女であることを思い知らされることは、なんでも。
「じゃあな」
小さな地区の、数少ない同級生。蓮は莉子の家がどこにあるのか知っていた。分かれ道まで無言で歩いていた二人だが、蓮はそこでひとこと言った。
「バイバイ」
莉子は蓮を振り返りもせずに、一人で帰途についた。
蓮は家に帰ると、台所で夕ご飯の支度─蓮の母・すみれが作っていったものを電子レンジで温めるだけ─をし、祖母・うめを呼びに行った。すみれは今日も夜勤だった。
うめは一人で歩くことができない。蓮はその手を引きながら、台所まで歩かせる。最近は体調が悪くて、うまく歩けないこともある。そういう時は寝処で食事をさせることもあった。うめからは、高齢者特有の体臭がした。
「花祭の日でねぇか?」
いつもは独り言をブツブツ言っているだけのうめだが、急に、流暢に喋った。
「そうだよ」
老人ホームで何か聞いたのだろうか。
「連れてってくろぅ」
思いがけないほどの力強い声で、うめは言った。近頃聞いたことがなかったような声だ。
「だめだよ、ばあちゃん。歩けないじゃん」
が、車椅子を使えば、連れていけないことはなかった。蓮がそれをしないのは、単純に面倒臭いから。それに、うめの独り言は、寝言のようなものであって、はっきりした感情や意志があるわけではないと、蓮は認識している。
「連れてってくろぅ…」
しかし、今日のうめは、どこか嘆願しているように見えた。
─おばあちゃんは、若い頃はお転婆で、花祭に参加したがったんだって。
そういえばいつか、すみれがそう喋っていた気がする。
女性は舞うどころか見ることすら許されなかった時代だ。花祭の前には、切り草などの飾りを作る。これらは、専門家ではなく慣れた人がやるようだったが、近代になって女性も作るようになった。うめは、切り草や草鞋づくりの名人だったそうである。
が、蓮が物心ついたころには、うめはもう倒れた後で、すみれの口から聞く「お転婆な女の子」の面影は、どこにもなかった。
「食ってよ」
うめはもう、箸を使えない。こぼしそうなおかずを食べる時には、蓮が介助し、スプーンですくったものを、口に入れてあげた。
「ふぅ…」
蓮の口からは、介助をする度に、小さなため息が漏れる。
すみれがうめを車に乗せて家を出る時、車から降ろして家へ入る時、すみれはよく、ため息をついていた。それが今は、怒号に変わっている。すみれは仕事と介護、それにおそらく、自分(蓮)のことが気がかりで…日々のストレスが溜まっていて、いつ噴火してもおかしくない。
蓮がうめの帰宅時間帯、家にいないようにしているのは、なるべくすみれの怒号を聞かないためであった。
栗原花祭も同時刻から始まった。
「杏奈、祭り見たことないでしょ?」
杏奈と小須賀は神社の参集所の奥にある炊事場で、いなり寿司を陳列用木製バットに並べているところだった。
「見て来ていいよ」
「本当ですか?」
「うん。ここ一人で足りるし」
「じゃあ…」
町外出身の杏奈は、花祭を生涯で一度も見たことがなかった。手を洗うと、小須賀の言葉に甘えて、後は任せて外に出る。
─というか、小須賀さん、今日は仕事じゃなかったんだ…
夕方以降はいつも、本職のレストランか夜の店へ勤めに出るのだが、今日は炊き出しの手伝いに残った。そうならそうと最初っから言ってくれれば、仕事と登山の合間を縫って、いなり寿司の仕込みを一人でしなくてもよかったのに。
だが、炊き出しをするにも、小須賀がいるなら心強い。しかも、祭りを垣間見ることさえ許された。
杏奈が炊事場を出て行ってからも、小須賀はいなり寿司をこつこつ並べた。普通のいなり寿司ではなかった。スパイシーな香りのするいなり寿司と、ゆかり(杏奈曰く、ゆかりではなくスマック)と薄いピンク色の漬物が入ったいなり寿司。
─奇妙なもん作るな。
小須賀は普段かぎ慣れているスパイスのにおいに、あまりそそられない。
「お疲れさまです」
後ろで若い女の子の声がして、小須賀は急に背筋を伸ばしたが、
「ええと…名前なんだっけ」
小須賀の背は急に縮んだ。
「小夜です」
ややふくよかな若い巫女は、活き活きと答えた。巫女スタイルの女の子はレアなので、好みのタイプの巫女であれば、小須賀のテンションはうなぎのぼりなのだが…。
「うわ、なに?おいしそうないなり寿司ですね」
「そう?食べてみる?」
小夜は身を乗り出して、カレー風味の方を一つつかみ、ぱーくっと口に入れた。顔は好みではないが、業務中でも好奇心に任せて、やんちゃなことができるところは好ましかった。
その頃、杏奈は神社の境内を小走りで横切り、本殿の前まで向かった。本殿の扉は開け放たれ、本殿へ登る石段の下に、半円を描くように平面な祭場ができていた。大勢の観客がいるが、奏者・演者たちの様子が見られないほどではない。祭場の中心に据えられた湯釜を周回するように、演者たちが歩いている。彼らは青いはっぴを着て、はちまきを巻いている。面箱を持つ者、何も持たない者、太鼓を担ぐ者、笛を吹く者。そして、何かしらの荷を担いだ子供たち。思ったよりも多くの人が踊っている。子供の中には数人、女の子の姿があった。本殿の中では、笛の奏者が六人ほどいて、高い音色の笛を鳴らしている。神社といえば雅楽。本殿から笙や篳篥(ひちりき)、龍笛でない笛の音が聞こえるのは、何か特殊な感じがした。
しばらくすると、本殿から紫色の袴を履いた神職が現れ、祝詞を述べ始めた。
「杏奈、見てる?」
「美津子さん」
後ろから声を掛けられた。あかつきに残っていた美津子だが、祭りを見にやって来たらしい。
「こうやって、演目に神職さまが登場するのは冒頭だけなのよ」
「そうなんですか」
花祭は、場所は神社であったとしても、あくまで町民が主体の祭礼。
神事より後の舞いでは、神社の中に、別世界ができたかのようになった。
午後九時。ハイウォールのグループラインに、いくつかの写真が共有された。
蓮は自宅の居間でテレビを見ていたが、その様子を見てちょっと心が揺れた。
─みんなも踊りに来てるんだ。
桜台に住む藤野の関係者…ということで、出ているようだった。
蓮はうめの寝室を覗きに行った。うめはこちら側に背を向けて、すやすやと寝入っている。蓮はそっと寝室の戸を閉めると、上着を羽織って外へ出た。
満月が近い。春の夜道はそこはかとなく明るく、蓮は花宿へ向かって走った。
花宿の土間の入り口にはかがり火が炊かれ、笛の音だけが聞えてくる。遅い時間となってきたこともあり、観客はまばらになっていたが、演目は途切れることなく続いているようだ。花祭は深夜を通じて、二十四時間かけ、二十四曲を続けてやるのが通常。
祭場を清めて神々を迎える「神寄せ」が終わる頃。
「おう、蓮」
花宿の庭に運び込まれている折り畳み椅子に座って、常連たちと談笑していた藤野が蓮に声をかけた。思った通り、ジムの常連たちが集って楽しそうにしている写真を見て、蓮はやって来た。
藤野の他に、君塚、田沼とその息子二人がいる。
「前原さんは?」
クライミングシューズを買いに長久手のショップまで連れていってもらってからも、前原とは何度かジムで顔を合わせていた。結局、前原はその時に購入したシューズ代を、蓮から受け取ることはなかった。
「今日は仕事だって」
「そっか」
蓮はちょっと残念そうにつぶやいた。
「別の先輩は来てるよ」
君塚がもったいぶって言った。田沼は、いつも通りのおどけた表情をして、縁側の方を指さす。蓮は小走りに、田沼が指差したほうへ向かった。
母屋の仏間、仏間とつながる畳の部屋の襖は取り払われ、演者や奏者たちが着付けをしたり、休憩したりする場所になっている。花祭では、こうした支度部屋は単に「部屋」と呼ばれ、部屋番が舞い手の着付けや鬼の面付けなどを担当する。
桜台花祭保存会の役員たちは白いはっぴを着て、場を仕切っていた。そのうちの一人と話をしている上背のある男に、蓮の視線は吸い寄せられた。
─柴崎さん。
蓮は縁側の引き戸を開けた。しかし、順正は老人と話をしていて、後ろを振り向くことはない。
「あんた、藤野さんの知り合いか」
老人は名簿を見ながら、目を細めた。蓮は戸を閉め、部屋の隅で遊んでいる、小学校低学年の子供たちに紛れ込んだ。
「踊れるんなら式三番(しきさんば)から出てもらえると助かるけど。舞手の一人がさっきから出ずっぱでバテとる」
「最後に踊ってから十年以上経ってると思いますけど」
「まあ、大丈夫だって…だいたいは体が覚えとるっちゅうもんだろう」
老人は別に、意に介した様子はない。
「でもまあ、ちょっと練習してみるか」
老人はそう言って、そのあたりにたむろしている男衆から、壮年の二人を引っ張って来た。
「お前手拍子で音頭取れや。で、お前踊ったって。この人久しぶりだとよ」
老人と男たちはごにょごにょ言いながら、道具の扇と、鈴代わりの棒切れを持ってきて、練習の段取りをしてくれている。
トントトトン
トントトトン
「ちょい待て」
老人は手拍子を打っていた男を手で制してから、順正に向き直った。
「あんた、出身は?」
「菊の手」
老人と男たちは顔を見合った。同じ系統でも、地区によって微妙に所作が異なっている。ちょっとした部分であれば問題ないのだが…
「あんた、裏で踊っとるよ」
遠巻きに様子を見ていた蓮には、それが何のことだか分からなかったが、
「ああ…」
順正は、そのことに今気が付いた。
トントトトン、だったら普通、トントトのところで膝を折るのだが、トトトンのところで膝を折っている。これが「裏」だ。
「河代の花祭でよく踊ってましたから」
「河代…善光寺か」
「ほいだでか」
「裏で踊るゆうのは限られとるでな」
男たちは口々に納得したかのように頷きあった。
「表でも踊れます」
「ほうか。そしたらもう一度…」
老人は手拍子を打つ男に目配せした。
「せーのっ」
桴(ばち)の舞という、老齢の舞い手一人が舞う演目の頃。杏奈は炊き出しのテントの下で、小須賀と共にいなり寿司を配っていた。ちらほらと、演者や観客がもらいに来るが、暇である。
小須賀は体を揺り動かしながら、指で机を叩いて、流行のジェーポップを歌い出した。暇そうにしていても上機嫌に見える小須賀を横目に、
「雑談って、どうすればうまくなるんですか?」
「はあ?」
ぼそっと言った杏奈に対して、小須賀はオーバーリアクション。
「小須賀さん、得意じゃないですか。雑談」
「そんなことないよ」
歌は止んだが、体でリズムを取ったままだ。
「美津子さんが、コンサル前にアイスブレイクを挟んだほうがいいって」
「仕事の話か」
小須賀は、苦々しい表情をした。
「彼氏作るためとかじゃないんだ」
「彼女さんとどういう会話してるんですか?」
「バカが」
ちょっと聞いてみただけなのに、ひどい返しである。
「お客さんに対して雑談するのに、おれと彼女がしてるような会話が参考になるわけないっしょ」
もっともな意見だが。
「雑談というか、まず相手をよく見て、褒めとけばいいんじゃない?」
「褒める?」
「そうだよ。あかつきに滞在して、いい気持ちになって、いいレビュー書いてもらわないといけないっしょ」
「はぁ」
「最初っからとにかく気が付いたところは褒めるんだよ。そうすればいい気持ちになって、心も開いてくれる」
「そんな戦略的にするんですか、雑談」
「仕事上の必要性で雑談練習しなきゃって言ってるやつが、何言ってんの」
呆れ返ってものが言えません、とばかりに、小須賀は両肩を上げた。
「雑談なんて、普段から楽しいことしてれば、自然に出てくるもんだよ」
「普段から楽しいこと」
「うん。何してる時が一番楽しいの?」
杏奈はうーんと唸った。長らく、爆笑するような楽しさというものを、味わっていない。楽しさは、知的好奇心が満たされた時に起こる。と言えば、また小須賀はイヤーな顔をするだろうか。
「料理ですかね」
そこで、杏奈は無難な答えを出したが、
「よし。料理はなしでいこう」
ばっさり斬られる。
「え~」
杏奈は机に両手をついて、ちょっと前かがみになってしばらく考えた。
「リラックスしたい時、音楽聴きながら散歩するのも好きですけど」
「どういう音楽聞いてるの?」
「それが、大学時代からあまり更新されてなくて…」
「だめじゃん」
小須賀はがくっと膝を折った。こういう派手なリアクションとかも見習ったほうがいいのだろうか。
「自分が語れない話題出してどーすんだよ」
「基本は、相手に話させたほうがいいんじゃないですか?」
「そうとも限んないよ」
「そうかぁ…」
杏奈は遠い目をした。小須賀からすれば、どうしてこんなことでそんなに悩むのか分からない。
「そんな難しいことじゃないって」
「そうですか?」
「試しに、あの人見て、なんか褒めるところ見つけてみなよ」
「どの人です?」
小須賀は、巫女からお神酒をもらっている、骨格のしっかりとした男性を指さした。
「えーっと、がたいがいいですね。何かスポーツされてるんですか?」
「がたいがいいって、悪い言い方じゃないけど、もっと気持ちよくなる言い方あるっしょ」
筋肉質ですねーとか、マッチョでかっこいいですね!とか。
「あー、やめたやめた。お客さんは女が多いんだ。男を例にしてもしょうがない」
「えーっと、じゃあ、たとえばあのピンク色の鞄を持った、巻き髪の女の人がお客さんだったとしたら?」
「その鞄、差し色になってていいっすね~。こういう色が似あう方って、なかなかいないと思ってたけど…〇〇さんは、似合ってるなァ」
言いながら小須賀は、なんで自分が褒める番に回ってるんだと思った。杏奈の練習のはずなのに。
「はあ~、恥ずかしい」
その杏奈は、苦笑いを浮かべて俯いた。
「なんだでよ」
小須賀はちっと舌打ちした。
「そういうことばっかり言ってるから、話すのが上手くならないんだよ」
「うぅ…」
「だいたい、杏奈は遊びが少なすぎるの。あそこの爺さんたち見てみな?」
祭場で踊る花太夫。その舞に合わせて、踊ったり、掛け声を出したりしている老齢の観客。
「杏奈もあんな風に、踊り狂ってれば…」
と、言って小須賀は、
「あ、何気に親父ギャグになっちゃったじゃん」
ということに気が付いた。
「ふぁ…」
杏奈はあくびをした。今日の早朝、薫と一緒に明神山に登ったのが遠い昔のように感じる。朝早かったこともあり、眠気が押し寄せてくる。
小須賀からしてみれば、せっかく人が相談に乗ってやっているのにこの態度。
─本当にかわいくない。
小須賀は目を細めて、
「帰って寝れば?」
隣の眠たげにしている人に言ってやった。
「ここは一人でも足りるし、第一、これやるのも義務じゃないんだから」
ボランティアでやっている炊き出しである。
杏奈としては、せっかくの祭りを、なるべく長く見ていたい気もした。しかし、正直なところ、解説がなく、流れが分からないまま見ても、よく分からなかった。
─今日は早く寝て、早朝また見に来た方がいいかもな…。
その方が健康的だ。
「こちらでは、踊っている人や観客に向けて、炊き出しも行われています…」
テレビの取材も時折入っている。リポーターと照明、カメラがこちらを向いたのを遠目に発見し、
「小須賀さん、じゃあ、あとお願いします…!」
杏奈は鞄を持って立ち去ろうとした。
「待て」
小須賀もカメラの存在に気が付いているのか、杏奈の腕を引いて立ち止まらせる。
「ちょっと、トイレ行ってくるわ」
「え?ちょ、ちょっと待ってください」
小須賀と杏奈はすったもんだしながら、テントから我先にと抜け出した。
神事の後、桴の舞から舞が始まる。式三番は、その二番目の演目である。笛と太鼓の音と共に、壮年の男三人が扇と鈴を持って舞う。舞は桴の舞と同様。
順正は踊り手の中でもひと際背が高く、模様のある紺色の衣装の上に、白い羽織、白い鉢巻きをして悠然と舞う姿は、観客の目を引いた。
踊りに覚えのある観客の中には、掛け声とともに、体を動かしている者もある。田沼もその一人だった。蓮は、じいっと踊りに見入っていたが、田沼が動かす手が時々頭にぶつかった。
「おい蓮、お前も地固めから出ろ」
藤野が掛け声の合間に、強く勧めた。
「お前も桜台の男なら、踊る資格はある」
「というか、むしろ踊れ」
田沼は蓮の方を見もせずに、その場でステップを踏みながら言った。
今までは気が進まなかった蓮だが、順正が躍っている姿を見て、ちょっとやる気になっている。だいたい、順正がこんな風に悠然と踊れる人だとは思っていなかった。無口で朴訥で、人前で声を張り上げることなどないと思っていたのに。順正は観客の中に、ハイウォールの常連たちがいるのに気付いているのかいないのか、ただ無心に踊っているようだった。
舞は太鼓のリズムの強拍で一歩ずつ歩くのが基本ステップ。しかしその太鼓のリズムは、いくつかのパターンが不特定に繰り返されている。笛のメロディには当然、パターンがあった。しかし、平均律にはなっておらず、複数の笛の奏者が完全にピッチを合わせていない。祭りの音楽は、特別に楽譜なんかがあるわけではない。あったとしても分からない。人のを見て、聞いて、覚えるのだ。だからこそ、ズレが生じる。だとしても、誰も、なんにも気にしない。それがこの祭りの素朴さであり、おおらかさであった。これが口伝性というものである。こういう特性は、演目だけでなく、祭りの全ての面において現れている。
「地固めは真夜中なんじゃない」
蓮は起きていられるか、自信がなかった。
「そしたら飛び入りの舞で踊ろう」
田沼は蓮の顔を覗き込んで、
「願主の舞をよく復習しておけよ…」
言いながら田沼もあくびをした。その田沼の息子たちは、花笠を被って、湯の舞に出た。しゃがむ、進む、まわるを繰り返す動作で、小学生が出る演目らしい軽快さがあった。浅黄色の上下に、派手な模様の羽織が人目を引く。蓮は笛と太鼓の音に合わせて動き、声を出した。湯の舞は蓮も小学生の頃、幼馴染たちと一緒に踊った。今も、踊ろうと思えば踊れる。
日付が変わろうとしている。
深夜になると、観客は一人、また一人といなくなる。花宿の空いている部屋を借りて、そのまま寝息を立てる者も出始めた。
太鼓と笛の奏者は、演目によって違えど、だいたい五から七人はいる。それも、眠くなったら散り散りに抜けていく。真夜中にはたった二人の奏者になることもある。それでも祭りは続く。
田沼の息子たちに混じって、蓮は花宿の和室でうたた寝してしまった。けたたましい音と歓声がして起き上がると、蓮は目をこすりつつ、土間のほうへ急いだ。
ちょうど、松明を持った先導役に導かれて、鬼面の舞い手が一人登場したところであった。赤い鬼の面をして、等身大の榊の木を右手に持っている。笛の音に合わせて、鬼はすっと移動すると、その場で小刻みに足を動かし、止まる。それから腰に手をあて、もう片方の手では肘を伸ばして斧を斜めに持ち、その淵を足に当てる。観客の顔をなぞるように、ぐるっと顔を動かした。大きな鼻、太い眉毛、金色の目、口は大きく開き、歯を見せている。金色の二本のヒゲに、ツノ。人の顔よりもずっと大きな鬼面は、迫力があった。まだ起きていた子供たちが、きゃあっと悲鳴を上げる。
踊りの途中で、観客が祭場へ上がる。笛と太鼓のテンポが速くなり、釜の周りを何周も回る。
蓮の目の前に、鬼が榊を突き出した。気が付くと、蓮は榊の木に引っ掛けられるようにして、釜の周りの男たちの輪に入っている。
「踊れ!踊れ!」
よぼよぼな爺さんたちも、どこからそんなに威勢のいい声を出せるのかという声で、掛け声を出している。
テーホヘ、テホヘ
テーホヘ、テホヘ
「鬼は藤野さんだ」
いつの間にか、隣で踊っていた順正が蓮に声をかけた。蓮はびっくりして、順正を見上げる。
「柴崎さん、ずっと踊ってたの?」
「さっき起きた」
踊りながら、蓮はがくっと膝が折れそうになる。
テンポはさらに速く、先ほどの二倍くらいになる。観客は少ない。だからこそ、踊っている者たちには不思議な連帯感が生まれる。
「おい、蓮~」
これもいつの間にか隣で踊っていた田沼が、ドスの効いた、鬼のような声を出した。
「お前、テンポが遅れとるゾ!」
眠くなると寝る。誰も見ていなくても舞う人は舞う。花祭は、人に見せるためでなく、自分たちのためにやるもの。だからできるのだ。
─なんのために?
生まれた時から花祭の文化圏で育った蓮は、今まで祭りの意味などに思いを馳せることはなかったが、眠気を押して踊りながら、ふとそんなことが気になった。
五穀豊穣、無病息災を祈って、続けられてきた祭り。だが、物が豊かになって、医療の発達した今、この踊りはどんな祈りで行われているのか。
蓮は踊りながら、自分は今健やかに踊れていても、そうでない人もいることに意識がいった。
─ばあちゃんは今…。
安らかに寝息を立てているだろうか。夢の中では、お転婆に足を動かして、男に混ざって、自分も踊っているのだろうか。
蓮は無我夢中で体を動かした。踊りながら、健康だった昔を顧みて、来世の幸せを祈るだけの余生とは、なんて悲しいことだろうと思った。
─なんて悲しい…
娘と孫と暮らすあの老婆の、残りの命が燃え尽きるまでには、もう何の楽しみもないのだろうか。いや、自分があの老婆に、楽しい思いをさせられることは…
突如として誰かに腕を掴まれ、蓮の思考は途切れた。蓮の舞が他とズレて遅れてきたのを見咎めて、順正はその腕をつかんで、祭場の外へ追い出そうとするかのように放ったのだ。蓮は前につんのめりながら、なんとか壁に両手をついて、激突を免れた。
─ひっでぇ…
蓮は腕をさすりながら、順正の自分の扱いの雑さにほとほと舌を巻いた。その場に座り込むと、
「今の世の中は勝手な人が多くなってきたが」
踊り狂う男たちを傍で見ていた保存会の老人たちが、口々に話しているのが聞えて来た。
「やっぱり花祭は、勝手にはできんもんだなぁ」
過疎は人を密接にする。
蓮は乱れた呼吸を整えながら、踊り続ける鬼と、ハイウォールの先輩たちに視線を向けた。
蓮が次に目を覚ました時、外は白み始めていた。
土間の片隅ではなく、北の和室で寝かされており、藤野や君塚、田沼、順正もそこで寝ていた。田沼の息子たちは、さすがに田沼の妻が迎えにきたのか、すでにいなかった。
それにしても、花宿になると、そこの家の者たちはこの二日だけは、プライベートも日常もあったものではない。土間のほうからは未だに、ゆるゆると笛の音が聞こえてくる。
蓮はしばらくぼーっとしていたが、
─やべ!
大急ぎでスマホを取り出した。が、まだ帰ってきていないのか、すみれからは何の連絡も来ていない。蓮はふーっと吐息をし、胸をなでおろした。
どうやら、法被が駆け布団代わりにされていたようで、脚の上に何枚も重なっている。
動こうとしたが、蓮の脚に田沼の脚が乗っている。よいしょっと田沼の脚を動かすと、田沼が「うー」と呻いた。法被を田沼の脚にかけ直してやりつつ、ふと顔を上げると、目を覚ましているらしい順正と目が合った。横寝になって、肘を畳について、手を枕代わりにもたれかかるような体勢になっている。紺色の上下を着たままだが、その襟元がはだけ、彫刻のような鎖骨が見えた。寝起きでも美しいというべき順正に、蓮は無意識に憧憬のまなざしを向けていたが、
「どうした」
と、咎めるような声を出されて、慌てて瞬きした。
「柴崎さん、ずっと踊ってたのかと思った」
順正は身動きはしないまま、目線だけを畳の上に落とした。
日ごろは、助産師から体力オバケと影でからかわれている順正だったが、休み明けは執刀することを思うと、昔のようにそう踊り狂ってもいられなかったのである。休み休みじゃないと持たない。
「柴崎さん、菊の手に住んでるの?」
「そうだよ」
「菊の手には、出るの?」
順正は手に頭を置いた状態で首を振った。
菊の手というのは地区の名前で、松下医師の地元でもある。地元の花祭は、松下に譲った。代わりに、今日はオンコール体制を免れている。
蓮のお腹がぐ~と鳴った。後ろから、誰かに背中を小突かれた。振り返ると、藤野も目を覚ましたところらしい。
「あ~、腹減ったなァ」
ふあぁ…と間抜けたあくびをしながら、藤野は起き上がった。隣の隣に寝ていた君塚も目を覚ます。
「同時開催している栗原地区は、炊き出しが多くて賑わってるみたいですよ」
君塚はポケットから眼鏡ケースを取り出し、黒縁眼鏡をかけた。
「なんでそんなこと分かるの?」
「ネットニュースになってた」
「へぇ…いいなぁ。おれもなんか食いもん食いてぇ」
地元なのだから、家から何か持って来いという話ではあるが。
斧と鉾を持って、観客が入り乱れて即興で踊る演目に、田沼を除く全員が参加した。田沼はまだ、寝息を立てていた。
炊き出しのおにぎりが振舞われたのはその後のことなので、まさに朝飯前の踊りとなった。おにぎりは、わずかに塩気を感じるだけの白飯である。
順正は、あかつきで美津子と杏奈が、いろいろと工夫を凝らしたいなり寿司を作るとかなんとか言っていたのを思い出した。しかし、こういうシンプルなおにぎりも、殊の外うまいものである。
蓮は三つ舞に出た。十代半ばの男が三人出る。舞い手はお互い顔見知りだったが、特にそのうち一人は、同学年の男の子で、クラスメイトだった。
蓮が控室に戻った時には、順正と君塚は願主の舞に出るということで、それぞれ面を被っていた。順正は赤鬼で、榊をもつ。君塚は赤天狗で、鍬をもつ。舞手のうちもう一人は、緑鬼の面をつけ、鍬を持つ。面をかぶる者は、タオルで頭をぐるぐる巻きにされる。固く締め付けた上で、面をつけるのだ。そうしないと、舞っている間にズレてしまう。
「痛い?」
「痛いよ…」
蓮の問いに、君塚は素直にそう答えたが、順正は無言だった。
─やせ我慢だな。
傍で見ていた藤野はそう思った。自分も面をつけるから分かる。これは痛いのだ。そして、倒れてしまいそうなくらい苦しい。だからこそ、体力があって飛び回れる人が、面をつけるのだ。藤野も、若い時は今よりもっと鬼役をやらされた。
「痛い?」
蓮がまた訊いた。順正が痛いと言うまで訊くつもりだった。
「しつこい」
しまいには、足蹴にされていた。藤野は、順正はたとえ痛くとも涼しい顔をしていることだろうと思う(見えないが)。この男はいつもそうだ。
願主の舞は度々出てくる演目で、音楽は同じである。が、今度の演目では、面を付けた舞手はそれぞれに、怒ったように、釜の薪を荒らす。そして同様に踊る。
タオルで顔を巻かれているため、呼吸が苦しい。そんな中でも、順正は呼吸とともに体を動かし、榊を振った。振りながら考えていることは何もない。それはまさしく、明神山の森と、栗原神社の杜の狭間の、あのアカガシの木にもたれて、ただ呼吸するのと同じであった。
蓮はそんな順正たち舞手の姿を見ながら、自分もいつか鬼をやってみたいと思った。
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