第68話「ツバメ」アーユルヴェーダ小説HEALERS

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「うわっ」
 杏奈はびっくりして後ろにのけぞった。危うく、後ろを歩いていた空楽にぶつかりそうになる。
「どうしたんですか?」
「なんか上から…」
 頭上を見上げると、軒下にツバメの巣があり、親鳥が雛に餌をやりに来ていた。雛たちは口を大きく開けて、親鳥から餌をもらおうとする。
 ということは、さっき落ちてきたのは…
「ツバメの糞ですね」
 空楽は事もなげに言った。
 公民館の入り口には、果たして、たくさん糞が落ちていた。
 杏奈と空楽は、糞が当たらないよう注意しながら公民館へ入った。中は賑やかである。襖が取り払われた、二間つづきの和室には、すでに何組かの親子がいてそれぞれに遊んでいた。
 今日はプログラムの日で、こども料理教室を開催する。先日、大鐘がこども料理教室で、杏奈のレシピを活用したいと言ってくれた。最近はアレルギーのある子も多く、それに対応できるレシピを持っていたからだ。そして、杏奈は子供たちの素の反応を見るために、調理補助を兼ねてやってきた。
「あらどうも~」
 二人が入って来たのに気付くと、大鐘がニコニコと笑顔を振りまきながら歩み寄って来た。
「今日は焼く時間がかかるから、あと十分くらいしたら始めようと思っていたところなの。さっそくだけど、支度の様子見てくれる?」
 大鐘は早口に杏奈に頼んだ。杏奈と空楽は、大鐘の後に従って廊下を歩く。
「あの、大鐘さん。ツバメの糞に当たりそうになったんですど…」
「あらやだ。大丈夫だった?」
「はい…あの、テープかなんかで、このエリアは頭上注意みたいな、注意書き出しといたほうがいいですか?」
 糞に当たったら、クレームになるのではないか。杏奈はそう思ったのだ。しかし、その意見に笑ったのは、空楽のほうだった。
「足込町に住んでいる人が、ツバメの糞に当たったくらいで騒ぐとは思えないですけど」
「そうね。ツバメはめでたい鳥と言われてるから、逆に幸が当たったくらいに思ってくれるんじゃない?」
 大鐘も空楽に同調した。
「めでたい鳥…そうなんですか?」
 杏奈は空楽を振り返った。
「農村部では、穀物や野菜に寄る害虫を食べてくれる鳥として、大切にされてきたんですよ」
 ツバメは害虫を食べるだけでなく、その糞は肥料として活用されたとか。人がいるところに、ツバメは巣をつくることがある。天敵であるカラスなどを、人間が追い払うからだ。ツバメの巣がある家は、人の出入りの多い安全な家ということであり、商売繁盛の証。糞落下の問題はあるが、積極的に巣を撤去しようとする人は少ない。むしろ、巣立った後の巣を大切に残しておくことも多いくらいである。
─そういうものなのか。
 杏奈は、足込町の人々のおおらかさに感心した。クレームにつながるなどという風に考えた自分が、狭量にさえ思える。
 
 杏奈が大鐘に伝えたのは、米粉のバナナマフィンのレシピだった。当初は、デーツパンを提案した。しかし、ベサン粉が手に入りにくいのと、ベサン粉やデーツを食べたことのない子供が多いだろうということで、デーツパンは却下となった。
「あなたたち、クッキングシート敷くのを手伝ってくれる?」
 杏奈と空楽にそう頼んだのは、背の低い、眼鏡をかけた白髪のおばあさんだった。
「クッキングシート?」
 おばあさんは、大きさも素材も不ぞろいの型にクッキングシートを敷こうとして、苦戦していた。
「今日はマフィンを作るんじゃなかったんですか?」
 空楽が訊いた。
「あのね、マフィン型なんて、持っていない家もあるでしょ?」
 おばあさんは、諭すように言った。
「それに、米粉のマフィンって、カップからはがれにくくって、専用のマフィンカップが必要だって言うじゃない」
 それはもちろん、杏奈も知っている。というか、杏奈が大鐘にそう伝えた。
「それじゃあ、家で再現してもらえないわよ」
 なるほど、それでスクエア型の耐熱容器と、クッキングシートを使うことにしたというわけか。これならどこの家にもありそうだし、足込町でも手に入りやすい。
「じゃあ、バナナマフィンじゃなくて、バナナケーキってことになりますね」
 空楽がぼそっと言った。
「この型は、どなたが用意してくださったんですか?」
「あたしたち婦人会のメンバーが持ち寄ったのよ」
 なぜかおばあさんは、恩着せがましく言った。大鐘は、おばあさんを追い払うように手を振った。
「ここは私たちがやっとくから」
「あら、そう」
 おばあさんはあっさりと去っていった。
「あの人、久保さんっていうんだけど、まあ嫌味ったらしいおばあさんなの」
 大鐘は、梅干しを食べたような顔をして、べーっと舌を出した。杏奈と空楽は顔を見合わせる。
「あなたがこのレシピを作った人だって知ってて、ああいう風に言ったのよ」
「そうなんですか…」
 でも確かに、どこの家にもありそうな道具を使うレシピにしていなかったのは、自分の反省点である。杏奈は、批判を受けたという風には受け取らず、次につなげるための声として、久保の言葉を受け取った。
 大きさがまちまちの耐熱容器に、杏奈と空楽は次々とクッキングシートを切り取り、型に敷いた。空楽は、この手の作業はやはり得意で、定規やメジャーを使わなくても、容器をあてがうだけで、ほとんど正確にクッキングシートを切り取った。杏奈も、もう何度となくクッキングシートを型にはめる作業をしているので、苦戦してはいなかった。大鐘はただにこにこしながら二人の様子を眺めていたが、決して手伝いはしない。自分にはお手上げだと思っているのが見え見えだ。
 焼き時間を加味して、少し早めにプログラムが開始された。
「じゃあみなさん、ボウルに入れたバナナを、ぎゅっぎゅっと潰してくださいな」
 指揮を執るのは久保だった。
 二組の親子が協力して、一つのケーキを作る。レシピ上ではバナナはマッシャーで潰すことになっていたが、みんなが使っているのはフォークである。
「やる~!」
「ねえ、もっとあそびたーい」
「つぶせない~」
「ああああん!」
 ただフォークでバナナを潰すというだけで、和室は大変な騒ぎになっている。親たちは自分の子供をなだめつつ、ペアになった親子の気を害さないよう、気を遣いながら作業をしている。こども料理教室とは、杏奈が開催しているような大人向けの料理教室のようにはいかない。
「はい、じゃあ次は、豆乳に砂糖を加えて混ぜ合わせてください」
 これも、本来のレシピではメープルシロップを使う予定だった。メープルシロップと砂糖とでは、糖度が違う。単純に型の大きさに合わせて分量を変えるだけだと、思っているような甘味が出ない。だから杏奈は、参加者に配るレシピの砂糖の分量を、先ほど急いで書き換えた。
「くるくるくる」
「くるくるくる」
「〇〇ちゃんもやる~!」
「ああああん!」
 泡だて器で何かを混ぜるという作業は、子供には至極楽しいらしい。そして、待っているほうの子供は、早くやりたいと駄々をこねる子もいれば、遠慮してわがままを言い出せない子もいる。個性とはいろいろだ。
「あっ」
 子供が机の上に置いてあった道具を投げてしまい、親子たちのサポートに入っていた空楽は、それを拾った。
「すみません」
 空楽は机の上に道具を戻しつつ、謝った母親に軽く会釈をして応えた。
 自分で作るよりも、三倍から五倍くらいの労力をかけて、子供に料理体験をさせている親たちを見て、空楽はただ偉いなと思うばかりだった。
「ここで油を加えて混ぜます。今日の油は、自然生活が出している安全な米油なので、安心してお使いいただけます」
 久保は、まるで演説するかのように工程の説明を続けた。
 ここにも、レシピの原案との差異がある。杏奈はココナッツオイルを使用したレシピにしていたが、米油にすり替わっている。どの油を使うか、そこにはちゃんと狙いがあったのだが…
─ココナッツオイルが、手に入らなかったのかな。
 杏奈はそう思った。価格の問題もあるだろう。しかし、それでよかったのかもしれない。ココナッツオイルは二十二~二十三度で凝固する。そのため、他の材料の温度や室温が低いと、混ぜている間にココナッツオイルが固まり、作業しにくくなる。ただでさえ作業に苦戦しているのに、作業性の悪いオイルを使っていたら、もっと大変なことになったに違いない。
 こども料理教室においてより重要なのは…
─作りやすさと、子供が楽しめるかどうか、なのかな。
 健康面への付加価値や知識の部分ではなくて。
─それにしても…
 久保は年老いて見えるが、堂々と、ハキハキと説明をするものだ。しかし、彼女は自然生活という生協の商品を大変信頼しているのか、話がその米油の精製過程に流れてしまい、親たちを困惑させていた。
「バナナを入れて混ぜたら、米粉、塩を加えて、今度はゴムベラで混ぜてくださいね」
 ガイダンスを待ちきれず、子供を抱えながらレシピを覗いている母親に、杏奈はさりげなく次の工程を伝えた。母親は男の子にゴムベラを持たせ、一緒に混ぜる。まだ二歳にならないかという小さな男の子は、手を動かしながら、杏奈のほうを向いてにた~っと笑った。
─人見知りしない子なんだな。
 杏奈は男の子に微笑み返して、他の組の進捗も確認して回った。進捗は様々だが、ほとんどの組がベースとなる生地を完成させるところまできた。
「最後に、ベーキングパウダー、重曹、レーズンを加えて混ぜます」
「あっ、重曹は今回、入れないことにしたので、みなさんの机の上にはありません」
 久保が原案通りの作り方を読み上げた後で、杏奈はフォローを入れた。
 マフィンのレシピだからこそ重曹を入れたが、今回は深めの型で焼く。そのため、重曹は要らないだろうと踏んで、材料から省いてもらったのだった。
「じゃあみなさん、型に注いで、輪切りにしたバナナとレーズンをトッピングしてくださいね。型にはクッキングシートをさっき敷いておきましたから」
─ふん。自分で敷いたんじゃないくせに、よく言うわね。
 大鐘は心の中で悪態を吐くのと、久保が大鐘のほうを見るのとが同時だった。大鐘はびっくりして、肩を上げたが、別に久保は大鐘を睨んだわけではなく、目配せをしたのだった。
「大鐘さん。予熱…」
「あ、そうだったわ」
 他の婦人会のメンバーに助け船を出されて、大鐘はオーブンの予熱を始めた。

 ケーキが焼け、粗熱が取れるのを待っている間、絵本朗読と、手遊びの時間となった。童謡が聞えてきて、杏奈はふと懐かしい気持ちになる。
「子供がいないと、童謡聴く機会ないですもんね~」
 ケーキが焼けるのを待っている間、杏奈と空楽は洗い物をした。マフィン型よりも大きな型で焼いているので、焼成にはより時間がかかる。さらに、マフィンなら切る必要はないが、ケーキだと切って小分けにしなければならず、切るにはある程度冷まさなければ形が崩れやすい。つまり、食べられる状態になるまでに時間を要する。
 絵本朗読と手遊びが終わり、婦人会の面々が配膳を始め、飲み物を用意する頃になると、杏奈はちょっと焦った。
「うちわであおぎますか?」
 その方が早く冷めるだろうと思って、空楽が言った。米粉の焼き菓子はそうでなくとも乾燥しやすい。杏奈はうちわであおぐ代わりに、大鐘に耳打ちした。
「今日の内容について、質問がないか聞いてみてください」
 大鐘は杏奈の提案をそのまま、久保に伝えた。
「いやよ」
 久保は、ぶすっとした顔で、大鐘と杏奈を見た。
「質問されても、私答えられないわ。あなたが作ったレシピなんだから、あなたが聞きなさい」
 久保の顔を立てるために、大鐘は久保に頼んだのだが、にべもなく断られた。確かに、レシピの意図は、作った者が一番分かっている。杏奈はおずおずと親子たちの前に立った。
「えっと、お菓子はもう少しで食べられるんですが、その前に、今日のお菓子づくりについてご質問はありませんか?」
 ほんの少しでも時間を稼ぐつもりで聞いてみると、のろのろと後ろのほうで手が上がった。
「うちの子じゃないんですけど、友達の子がバナナアレルギーなんです」
─マジ?
 体操座りをして、質疑応答の様子をキッチンから眺めていた空楽は、心の中で呻いた。
─そんなアレルギーもあるんだ…
 キッチンに入って来た久保は、どこかほっとした表情をしていた。確かに、予備知識もなく、こんな質問をされたら困ってしまう。
「バナナ以外のもので作ることはできますか?」
「マッシュしたさつまいもやかぼちゃを使うことができます」
 杏奈は粛々と答えた。
「ただ、バナナのペクチンが乳化を助けてくれるので、使わない場合は、少し乳化しにくくなるかもしれません。なので二番と三番の工程で、しっかり混ぜてください。乳化していないと、ベタベタとして重い感じになってしまうんです」
─なるほど。
 空楽は改めてレシピを見ながら、杏奈の説明を聞いた。だから、バナナは粉類を入れる前に、液体系の材料と一緒に混ぜるのか。
「他にはありますか?」
 今度は前に座っていた一人の母親が手を挙げた。
「今回重曹を使わなかったのはなぜですか?」
「重曹は、生地を横に膨らませたり、焼き色を濃くする働きがあります。今回のレシピは、実はもともとマフィン用だったので、重曹を使っていました。生地を横に膨らませると、キノコ型のおいしそうなマフィンになるからです。でも今回は、生地が横にはみ出さない、深い型を使ったので、重曹は省きました」
「家に重曹しかない場合は、重曹でできますか?」
「重曹だけにする場合は、ベーキングパウダーの半分の量を目安に入れてください。膨らみや色の感じが今回とは異なるかもしれませんが…それから、あまり入れすぎると風味を損なうので注意してください」
 重曹は掃除や食材のアク抜きなどにも使える。普段はお菓子作りをせず、ベーキングパウダーがない家にも、重曹ならありそうだった。
「レモン汁は入れなくていいですか?」
「マフィン型で作ることもできますか?」
 質疑応答は意外と盛り上がっていた。その間に、久保がケーキを切り、空楽はその補助をし、他の婦人会のメンバーがテーブルへ持っていった。
「はい。じゃあ質問がある方はまた後で。いただきましょう」
 いただきますの挨拶をする段階にくると、また久保が場を仕切った。
 杏奈は立ち退きながら、ようやくケーキにありつけた子供たちと、その親の様子を眺めた。先ほどの男の子と目が合って、男の子がまたもやにた~っと笑ってくれた。杏奈も自然と頬が崩れる。
─癒される…
 子供はそう得意ではない杏奈も、無邪気な子供の笑顔は、かわいいと思う。
「おいしいっす、杏奈さん」
 キッチンから親子の様子を眺めている空楽も、ケーキを一切れ食べていた。
「パサパサしてないですか?」
「まあ、水分はほしくなりますけど、食べにくいってほどじゃないですよ」
「よかった」
 杏奈はほっとした。子供たちはちゃんと食べてくれている。バナナをつなぎに使うと、米粉の焼き菓子もパサパサしすぎず、割としっとりと仕上がるという利点もあった。
「杏奈さんも食べてみたらいいんじゃないですか?」
 出来上がりが気になるんなら…と思って、空楽は言ったが、杏奈は首を振った。
「杏奈さん、そんなに喋れる方だったんですね」
 空楽は飄々とした様子で、いきなり話題を変える。杏奈は心臓を鈍くえぐられた心地がする。
「…まあ、業務上のことなら」
「…なるほど」
 ママたちの質問に、杏奈は非常に流暢にはきはきと答えていた。教室スイッチが入ると、驚くほど社交的にふるまえて、恐ろしいほどガンガン明るく喋れるけれども…
─スイッチが切れると、いつもの杏奈さんだ…
 至極大人しい人だ。いつもと違う場所が心地良くないのか、所在なさげに身を小さくしている。
 そんな杏奈の瞳は、まな板の上に残っているケーキの余りを捉えた。
「そういえば、レーズン、結構細かく刻まれてますね」
 杏奈はおやと思った。レシピにはその指示はなかったのだが。
「ええ。このくらい細かいと、存在感がなくなりますね」
 空楽はモゴモゴ言った。
「子供たちは、レーズンそのまま飲み込んじゃうことが多いからね」
 キッチンに戻って来た久保が、二人にそう教えた。
「すっかり忘れてたけど、ひ孫の様子を見に行った時にね、便にレーズンが混ざっているのを見て、思い出したの」
 空楽はむせて、危うく食べたものが口から出そうになっていた。
─なるほど…
 咀嚼し切れなかった大きな固形物は、腸管を傷つけながら排出されることになるだろう。食事中の空楽には可哀そうだが、杏奈は久保の配慮から、また一つの知識を得た。

 おやつの時間が終わると、そのまま解散となった。
 あの人見知りのない、かわいい男の子の姿を、杏奈は目で追い、
「バイバイ」
 彼が顔をこちらに向けた時、そう言って手を振ると、男の子は目を線にして、ふっくらした手を一生懸命振ってくれた。やはり、子供の笑顔は癒しである。
 見送りが終わると、婦人会の面々は会場の片付けに入り、杏奈と空楽は食器を洗った。水仕事は空楽が引き受けてくれた。杏奈がわざわざゴム手袋を持参しているのを見て、代わってくれたのだ。
 二人が並んで洗い物を進めていると、後ろから「失礼」と誰かの声がした。振り返ると久保がいた。シンク下の備品を取るために、二人に声をかけたのだ。
「あなたたち、大鐘さんのお知り合いなの?」
 今更のように、そう訊いた。
「はい」
「私は、一回会ったくらいです」
「あらそう」
 久保は聞いておきながら、それほど二人の答えに関心を示さなかった。
「あの人、若く見えるけど、三回もお腹切ってるから、大事にしてあげないと」
「そうなんですか」
「そうよ。あの人は二回も帝王切開をして、何かの病気でお腹を切ってたはずだから」
 あんなに細い体に、三回も大きくメスが入っているらしい。その大鐘のことを、大事にしろという。大鐘は久保を嫌味ったらしいとか言っていたが、本当は良い人なのではないだろうか。杏奈がそう思ったのも束の間、
「私はね、子供たちには、なるべく安心安全なものを食べさせたいの」
 と、シンク下から取り出した溶剤とボウルを持ったまま、久保は突然持論を展開した。
「大鐘さんなんかはね、もう死ぬばかりだから、どんなもの食べてもいいって思ってる。でも、子供たちはちがう」
 大鐘がそう思っているとは、大鐘本人から聞いたのだろうか。しかも、さっきは大事にしろと言ったくせに、「もう死ぬばかり」とは、なかなか痛烈。
「あの人は、旦那さんも亡くなってるしね、もう怖いものなしよ。私なんか、もし夫が死んだらと思うと、想像しただけで涙が出そう」
 久保はいきなりしおらしい表情をした。
「一日でも長生きしてもらわなきゃって、食事には、すごく気を使ってますよ」
「そうなんですね」
 久保の料理に対する考えは尊重すべきだが、
─胸に留めておけばいいのに…
 やはり、ちょっと面倒くさい人だ。杏奈も空楽も、ようやくそれに気づいた。
「あなたたち、独身?」
 久保は質問を重ねた。こういう詮索好きなところが、大鐘がこの人を毛嫌いする要素なのだろう。
「はい」
「はい」
 二人は口々に答えた。
「早く結婚しなさい。最近は、女も働くのが美徳みたいだけど、女に生まれたからには、結婚をして、子供を産むっていうのが、何よりの幸せ」
 まさかこんなところで、こういうことを聞くとは思わなかった。いろいろな事情を抱えてあかつきにやって来る女性の前では、口が裂けても言えないようなこと。
「早く産んでおくに越したことはないわ。産んだってねぇ…丈夫に育つとは、限らないんだから」
 そう言うと、今度は涙ぐんで、エプロンを眼鏡の下に差し込んで、そっと目頭を押さえた。表情の変化が激しいおばあさんだ。
「私の長女はね、交通事故で亡くなったのよ」
「そうなんですか…」
「本当にね、子供の一番の役割は、親よりも長生きすること…」
「久保さん、早くそれ持ってきて。いつまでも帰れなくなるわよ」
 大鐘の声がして、杏奈はほっとした。久保は二人にまだ何か聞かせたそうにしていたが、しずしずと和室へ向かった。
「あの人、すぐそれを話したがるの」
 大鐘は久保の背中を見送りながら、二人にこそっと伝えた。
「可哀そうだけれど、その前に話してたことは余計なお世話よねぇ」
 大鐘の耳は地獄耳のようだ。
「今生きている人にも、優しくしてもらいたいものね」

「わっ」
 ちゅん、ちゅぴちゅんという鳴き声とともに、ツバメが糞を落としていく。
「またやってるんですか?杏奈さん」
 空楽はツバメの巣の下をさりげなく避けつつ、危うく糞に当たりそうになって焦っている杏奈の姿を淡々と眺めた。
「杏奈さんって、しっかりしてるんだか抜けてるんだか、分かんないですねー」
 自転車を押して歩きながら、空楽は隣を歩く杏奈に行った。質疑応答の時には、しっかりした人に見えたのに、変なところで抜けている。
「たぶん、基本的にぼーっとしてるんだと思います…」
 杏奈は自嘲気味に笑った。
「ま、私もぼーっとしているし、人のことはいえないか…」
「空楽さんは、ぼーっとしてませんよ」
「うーん」
「ぼーっとしてたら、小須賀さんにそう言われているはずです」
「小須賀さん?」
 空楽は、あかつきのなんでも揃っているキッチンに立つ、陽気な料理人の姿を思い浮かべた。
「小須賀さんって、見た目よりもチャラいですよね」
「はい…」
 杏奈は項垂れた。フォローしようがなかった。
「彼女さんいるんですよね」
「そう聞いてます」
「彼女いるのに、人をデートに誘ったりします?」
「誘われたんですか」
「今度ドライブ行かない?って…誘われたことないですか?」
「ないです」
 誘われたくはないが。杏奈は愕然とした。
「…で、行くんですか?」
「行くわけないです」
「ですよね」
 空楽が普通の感覚がある人で良かった。
「誘われたことないんですか?」
「はい…小須賀さんは綺麗な大人の女の人が好みなので…」
「別に私も綺麗な大人の女じゃないですけど」
「そんなことはありませんよ…それに、あの人、私には当たりがきついんです…」
「当たりがきつい?」
 杏奈よりもやや前方を歩いていた空楽は、後ろを振り返って、やや首を傾げた。
「そうですか?私には、杏奈さんをかわいがっているように見えますが」
「…?」
 かわいがっている?どこが?杏奈は今度は、空楽の観察眼を疑った。
「そんなことないです」
「でも、小須賀さん前に言ってましたよ。杏奈さんのことは…信頼してるって」
「どのタイミングで?」
 にわかには信じがたかった。さんざん意地悪されているのに、自分の知らないところでそんなことを言っていたとは、本当だろうか。
「二人で作業してた時…」
 杏奈は少し混乱した。陰で悪口を言われていると聞いたら、動揺しただろうが、肯定的なことを言われていたと聞いても、やはり動揺した。
「冗談が通じないし、好みじゃないとも言ってましたけど…」
 しっかり、憎たらしいことも言っていたようである。杏奈は、わけのわからないことに、かえってその方が安心した。
「小須賀さんの話は、やめましょう…」
「なんですか。杏奈さんから持ち出してきたんでしょう」
 小須賀の名を出したのがいけなかったか。
 杏奈は話をすり替えた。
「空楽さん、この前いただいた、まこもオイルなんですけど」

 主要道に出る手前で、二人は自転車を停め、立ち話をした。この道から先、帰り道が分かれるためだった。
「まこもオイル、もっとほしいと言ったら、売っていただけますか?」
「売る…?」
 空楽は目を丸くした。
「あれは…私が趣味というか、暇つぶしで作ったものです」
 値段など、つけようがない。
「在庫がないんですか?」
「この間渡したものと同じものが、あと二本、そのうち一つは私が使ってますよ」
「そうかぁ…」
 杏奈はちょっと、残念そうに言った。
 杏奈の言っているまこもオイルは、杏奈がまこも畑に遊びに行った時に、空楽が譲ってくれたもの。
 昨年の収穫後のまこもの株から、ふさふさと出て来た新芽を摘み、ペーストにする。そして、新芽を水で煮出し、煎じ汁を作る。これらをキャリアオイルと混ぜてさらに煮出し、作られたものだという。
「そんなに量、できないんですか?」
「そりゃ、新芽を全部採ったら、育てるまこもがなくなっちゃいますよ」
 とはいえ、昔はそこらの湿原に自生していた植物。生育環境さえ整っていれば、余りあるほど生えてくるとも思うのだが。
「そうですよね~」
 杏奈はまだ残念そうにしている。
「化粧品登録されていないオイルをクライアントに使うのは難しいですが、施術の練習の時に使えればと、美津子さんたちと話していたんです」
 使用感が良ければ、オイル作りのワークショップを開くこともできそうだ。地元で取れたまこもを使う、と言えば、クライアントも喜ぶ。
 空楽は目を丸くして、瞬きをした。
「…いや、あれは私が暇つぶしに作ったものなので、体全体に使うのはやめてください」
「なぜですか?」
「危険です」
 安全性の心配をしているのか。
「私と沙羅さんで、テストしました。少量のまこもオイルを二週間塗ってみました」
 杏奈にも沙羅にも、皮膚に異常はなかった。
「まこも自体がやや冷性なので、オイルもそうだという仮定で頭皮にも塗りました」
 空楽は唇を結んで、杏奈を見つめながら、保温器の中に入っていた、たくさんのオイルを思い出した。
「あんなの使わなくても、あかつきには良いオイルがいっぱいあるじゃないですか」
「まあ、そうなんですが、諸事情ありまして…」
「諸事情って?」
「話せば長くなりますが…」
「端折ってください」
 どこから説明して良いやら。
 杏奈はスリランカ産のオイルが高くなっていて、もはや、練習の時にハーブオイルを使いにくくなっていることを話した。
「今も、普通の太白ごま油やココナッツオイルで練習することもあるのですが…それがなくても、地元のものを使った、新鮮なオイルを使ってみたいという興味もありまして…」
「冒険家ですね、杏奈さん」
「私だけでなく、沙羅さんも、美津子さんも…」
 実を言うと、杏奈よりもその二人の方がまこもオイルに興味を示していた。いろいろな薬草オイルを試してみたい。これは、セラピストならではの好奇心なのだ。一方、杏奈が気になったのは、まこもオイルよりも、むしろその作り手である。
─本当かなぁ。
 空楽は訝った。先日、栗原神社まで子供たちを遊ばせに行った時には、美津子はそんな話をしていなかったが。
「空楽さんは、農作物や植物を活用する術に長けているというか、センスがありますよね」
 上沢の自然に囲まれて育ったからなのか、空楽のもつ天性の才能なのか。
「アーユルヴェーダは、自然との調和を大切にします」
 アーユルヴェーダが生まれた時代─今から五千年も前─。進歩した医療設備はなく、人々は直感的な診断能力を養ってた。今よりも自然と近いところに住んでいたアーユルヴェーダの賢者(リシ)たちは、自然に依存するしかなかった。自然の言葉に耳を傾けさえすれば、植物、動物、ミネラルの薬効を知ることができる。
「空楽さんが身近な植物の薬効に意識を向けて、自分でオイルを作ったことは、この原始のアーユルヴェーダと何ら変わりがないと思えるんですよ」
 つらつらと説明をされ、空楽は頭がくらくらとした。とにかく、自分が原始的だと言われたことは分かったが。
「要するに、空楽さんは自然とアーユルヴェーダ的な発想をもち、行動をすることができる人ということです」
 空楽とアーユルヴェーダは、親和性が高い。それは杏奈が、空楽と接する中で発見したこと。
「その勘が活かされたオイルを使ってみたいって、美津子さんが」
「勘って…人を野生動物みたいな」
「…そういうわけではありませんけど。勘、と言えば、美津子さんだって、直感でそう思ったらしいですよ?」
 あかつきの人たちは大丈夫なのか?空楽は逆に心配になった。
「自分たちで作ればいいじゃないですか」
「そういう発想はなかったんですよ」
「そこらへんの水辺の耕作放棄地を買い取って、栽培すればいいんです」
 耕作放棄地ならいくらでもある。おそらく安値で手に入るだろう。
「管理する人がいません」
「まあ、そうですよね」
 オイルと、その原料まで自給自足できたら、それは素晴らしいことだが、今のあかつきの状態で現実的にそれは無理だった。
 空楽はちらっと並んで立つ杏奈の横顔を見やった。空楽の目に、杏奈は至極生真面目な人に映っている。年下の自分にも、未だに敬語を使うこともあるし。こども料理教室に活用されたレシピ一つとっても、いろいろな意図をもって、試行錯誤して作ったに違いない。その杏奈が、突発的に、まこもオイルを使いたい…と言ったとは思えなかった。本当にあかつきの人たちの間で議論があったのだろう。
「…ジュモエッセンスじゃなくて、乾燥した葉を使って、オイルを作ることならできそうですが」
 しめ縄やむしろ…まこもの葉も、様々な用途に使える。空楽はアクセサリー用に、まこもの葉を分けてもらっているので、その在庫があることも知っていた。
 杏奈は空楽を振り返った。その目に期待の色が浮かんでいたので、空楽は慌てて、
「期待しないでください。作ったことないんで分かりませんよ」
「試すことはできそうですか?」
「まあ…やってみますか」
 杏奈は大きく頷いた。空楽は唇を結び、鼻からふう~と息を吐いた。
「でも、乾燥した葉からエキスが取れるでしょうか?」
 杏奈は、茶色っぽくしなびた、元気のない葉っぱを思い浮かべてそう言った。
「まこもパウダーを使う用に乾燥させている葉っぱですよ」
 それなら、杏奈もこの前使った。青々とした粉末。確かにあれなら、エキスが取れそうだ。
「まこもパウダーにもならず、捨てるような葉っぱはたくさんあるでしょうから、今年はもっといっぱい乾燥させてもらいますよ。オイルづくりには、去年のものを…」
「ありがとうございます!」
 杏奈は目を輝かせて、空楽に笑顔を向けた。
─だから…
 期待するなと言っているのに。
 空楽は電動自転車のスタンドを上げた。それが、もう帰ろうという合図だった。杏奈もスタンドを上げたが、すぐには自転車にまたがらず、
「空楽さんは、アーユルヴェーダのセラピーに興味があるんですか?」
「どうしてですか?」
 空楽は後ろを振り返った。
「興味があるから、来てくれているのかなって思ったんです」
「いや…」
 空楽は自転車にまたがった。
「なんとなく面白そうなことしてるなーと思って、お邪魔してるだけです」
 後ろの杏奈を見ずにそう言うと、
「じゃ」
 と手を上げ、月のほうへ帰って行った。

 空楽はそのまま、姉夫婦が営む「彩」には向かわず、まこもの田んぼを見に行くことにした。
 先月末植え付けをしたまこもの葉が、風にそよそよとなびいている。
 貝津川をはさんだ向こう側には、荒れ果てた耕作放棄地もあるが、ほとんどが田んぼである。
 小さな女の子が、比較的広い畦道で、何やら自転車に乗って遊んでいた。もう一人の、さらに幼い男の子が三輪車に乗って、姉と思われるその女の子が自転車に乗るのを眺めている。子供たちの祖父と思しき人も近くにいる。
─あ。
 その女の子が、自転車で遊んでいるのではなく、自転車に乗る練習をしているのだということに気付いたのは、彼女が横転しそうになったのを、祖父が後ろから支えたからだった。
 稲が植わっている田んぼの水面ぎりぎりを、黒い物体が急旋回をしつつ飛び回っている。急上昇、そして急降下。自由自在に空中を飛び回って、飛びながら水浴びをしたり水を飲んだりしている。
 それはツバメだった。
 ツバメは、飛ぶことがとても得意な鳥だ。
 空楽の目の前に広がるまこもの田んぼにも、ツバメが来た。飛翔中に急旋回し、瞬く間に視界からいなくなっては、また視界の中に現れる。
─ツバメはめでたい鳥と言われてるから。
 空楽と大鐘とで、杏奈に説明をした通り、農作物の害虫を食べてくれる益鳥であり、商売繁盛の象徴のような存在でもあった。しかし、ツバメは別の意味の象徴でもあった。
─ツバメが目の前を横切るのは…
 幸運が近づいていることを意味する。
「あっ」
 遠くで女の子の声がして、空楽も、
「あ…」
 と思わず声が出てしまった。
 倒れた自転車の後輪が、くるくると回っている。女の子はコンクリートよりも柔らかい土の上に倒れたが、服は泥だらけになり、すぐには立ち上がれない様子。
「…」
 空楽は女の子を、じっと見つめていた。
─すぐには立ち上がれない…
 しょっぱなから、せっかく芽生えた希望の芽を、摘み取られてしまったのだから。
 空楽は、静かに自分を振り返った。憧れていた仕事に就いたものの、就職直後に、何も仕事がなくなった。仕事中、ずっと暇であった。役に立たない人間だということを自覚するばかりだった。
 そんな状況が一変し、一気に忙しくなった。廃業処理に追われたのだ。廃業は感染症の影響だった。その時やっていたことは、空楽が夢見ていた仕事とは程遠かった。給料は全然もらえないのに、毎日残業する日々。だんだん心が廃れていった。
 自分のせいではないのに、自分には価値がないと言われているように思えた、あの一年半。
 それからも、名古屋に留まってみたけれど、そこでやりたいことも、特になかった。心が鉛のように重くなって、立ち上がれない。
 花祭をきっかけに帰ってきた上沢と足込の、今までは感じなかった、しかし確かな安心感。
─一回コケたから…
 女の子はなんとか立ち上がって、土を払った。
─すっかり恐くなってた…
 だけど、そろそろ、自分も立ち上がらなくちゃいけない。
 自分が何をしたいのか、なにができるのか、探していかなければ。
 空楽の傍には、まだツバメがまこも水田の中の食料を求めて、素早く宙を舞っていた。
 空楽がまこもオイルと、まこもの葉っぱ、まこもの葉の粉末を持ってあかつきを訪れたのは、それから数日後のことだった。

 

 


 

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