万里子は、眠ってから数時間と経たずして、目が覚めてしまった。
蒸し暑く、喉が渇いている。
目をこすりながら、階段の手すりに手をかけ、階段をおりていく。居間には電気がついている。
─ママ。
と口に出そうとしたが、大きなあくびが出て、出しそこなった。
「まあ、万里子に利益があるかどうかなんじゃないの?」
居間から声が聞えた。ばあばだ。
万里子は階段の一番下に腰掛け、両手で目をこすった。
「会わなくなれば、養育費だって払ってもらえんくなるかもしれんじゃん」
あおいの声は尖っていた。楽しい話題でないことだけは、万里子にも分かった。
「先々のことを考えたら、もらっといたほうがいいって」
「大丈夫。そこはなんとしても払わせる」
瑠璃子の声は、いつもより沈んで聞こえた。
「うん。それは絶対必要だと思うよ。わたしらだって、あと何年生きとるかわかりゃせんのだし」
また、ばあばの声。じいじもそこにいるのだろうか。
「こっから通える高校や大学がいくつあるかね。あの人らぁの子供は不自由なく育てられて、万里子が奨学金をもらいながら学校に通わんといかんくなったらって、考えてみやぁ」
「…」
万里子は手を膝に下ろした。きっと、あの話だ。意味はあまり分からないのだけれど、あのことに関係する話なのだ。
「でも、連絡するたびに、嫌な気持ちになるのよ」
瑠璃子の声は、先ほどより尖っていた。
「もう面会したくないっていうんなら、そのほうが、あいつらのことを思い出さなくていいし、私には気が楽なんだけど」
「まああんたはそうかもしれんけど…どのみち、養育費のことではやり取りしなかんがね」
「振り込みがなかったらね。そうじゃなければ、連絡しないもん」
「万里子は、あの人に会いたいの?」
ばあばの言うあの人というのが、誰か、万里子には分かる。
─パパ…
最後に会ったのはいつだったか。あまり覚えていない。
万里子の眠気は少し覚めた。
「会いたいと思っとるんなら、会わせてやったほうがええんでねぇの?」
「…」
万里子は、廊下を駆けだした。
「ママ!」
居間にいた瑠璃子と祖父母は、びっくりした様子で、ぱっと万里子の方を見た。
「万里子…」
「お茶。あつい…」
三人は、互いに顔を見合わせた。聞いていたのか?しかし、万里子はお茶を求めるばかりで、何も言ってこないので、誰も話をぶり返すことはなかった。
万里子は寝室でまた横になり、瑠璃子が寝かしつけのため、傍で添い寝をした。
「ママ」
「ん?」
瑠璃子は、万里子のお腹のあたりを手でトントンしながら、目を閉じていた。
「川、入れるかなぁ」
瑠璃子は口元を緩めた。
「どうかなぁ…」
万里子はちらっと瑠璃子を見て、少し安心した。あの人の話をする時、瑠璃子はいつだって、怒るか、何かを我慢しているような表情をするのだ。
でも今、瑠璃子は安らかな表情で、呼吸をしていた。
「梅雨を経て、これから台風の季節を迎えるにあたっての備えですけれども─」
町役場の防災安全課の担当者が立ち上がった。
足込町役場の会議室には、今、町役場の各課の代表と、各地区の区長・副区長・その他任意の住民が集合して、定例会が開かれている。瑠璃子は地域振興課の代表者として同席していた。
防災安全課からは、町のハザードマップが更新されたという共有事項があった。山地災害、土砂災害のリスクのあるエリアが広がりつつあり、鳥獣の分布も広まってきている。山間部ならではの課題だ。
「えー、次の議題ですが、空き家の件です」
町全体及び各地区の空き家件数・位置を把握すべく、役場は各地区に実態調査を依頼している。各地区の担当者が、その結果と課題について、順番に意見を述べていく。
瑠璃子の意識は、他事に飛んだ。
─もう面会を辞退したいのですが、どうでしょうか。
元夫・岡部からメールがあったのは数日前だった。
離婚の際、慰謝料と養育費の支払い、面会交流の頻度を取り決めた。面会交流は三か月に一回となっていたが、離婚当初から、元夫は万里子に会いたいと言ってくることはなかった。現在の妻との間に、子供がいるのに違いなかった。瑠璃子は、岡部のその後を追っていないので、想像でしかないが。
会わせたことは、過去に二回しかない。
─もういや。
夫から連絡があるたびに、感情が振り回される。面会交流をなくすことで連絡の頻度が減らせることは、瑠璃子にとって願ってもないこと。
─でも、万里子は…。
あおいの言うことも分かる。万里子に会いたい気持ちがあれば、それを叶えてやるべきだと思う。当の本人は、父親の話も滅多にしなければ、会いたいと主張することもないけれども。
そもそも、まだ六歳になったばかりの娘が、ほとんど会ったことのない父親に対する自分の気持ちなど、正確に捉えているのだろうか。
「それによると、えー……」
足込町では人口減少・高齢化での地域の縮小に伴い、空き家も多くなっている。町役場が把握している空き家件数よりも、実際の空き家件数は多いらしい。
「現在空き家になっている家は、町がリフォームなどの補助金を出して、移住者の誘致につなげる取り組みも行っております」
職員がそう言うと、何人かが自嘲気味に笑った。こんな仕事がない町に、誰が移住してくるのかと言いたげだ。移住者があったとしても、飽きたら去ってしまうのがほとんどだと思っている。
「じゃ次…」
瑠璃子の番が回って来た。
「鮎釣りは、今年は六月の第三土曜から始まっています。鮎釣りコンテストは海の日になります」
鮎釣りは、瑠璃子の住む粟代地区や、そのほかの一部の区の清流で毎年六月頃から解禁される。鮎釣りコンテストでは、釣った鮎の大きさが競われる。観光客が少ない足込町においても、鮎釣りの時期は町外、または県外からの観光客の増加が見込まれるため、地域の飲食店や道具の販売店、レンタル店、インストラクターにとっては大きな商機だった。駐車場の確保、混雑の予想など、区民が知っておくべき情報も、瑠璃子は伝えた。
「お疲れさま~」
地域振興課に戻ってくると、上司が瑠璃子を労った。
「長かったねぇ」
瑠璃子は頷きながら席に座り、ふぅ~と息を吐いた。
振興課からの話題は鮎釣りの件だけだった。災害に、空き家。この地域は課題が多い。夏休みのイベントといえば、鮎釣りくらい。
─足込町の魅力って…
やっぱり、万里子はもといた東京で育てたかったと、瑠璃子は思う。
「長谷川さんは、鮎釣りなんかしたことないでしょ」
「ありますよ」
「えっ、ほんと?」
上司は目を白黒させた。
都会のキャリアウーマンといった風情の瑠璃子からは、想像がつかない。しかし、瑠璃子はれっきとした足込町出身者だった。
「野遊びの先生の所に、しょっちゅう出入りしてましたから」
「野遊びの先生?」
「ええ」
千太郎というおじいさん。鮎釣りがうまかったので、鮎太郎と呼ばれていた。
「へえ、あの子の親、再婚してるのか」
ハイウォールで、蓮は藤野と会話をしていた。
学校帰りにそのまま寄って、二時間ほど登ったが、まだ日は高かった。
蓮は、莉子と山を登ったこと、足込町側の明神山の麓にあるあかつきという場所へ行ったことを藤野に話した。そこにいる女性に、莉子のことを気にかけろと言われたことも。
「で、どうすんだ」
「何が?」
クールダウンしていた蓮は、しらばっくれた。
「莉子ちゃんのことに決まってんだろ」
ジムの中には他に二人ほど客がいたが、藤野は蓮との会話に夢中になっている。
莉子は新しい父と実母の間に子供ができたことで、精神的に不安定になっていると思われる。何かあったら、相談に乗ってやってほしいと、蓮は先日、杏奈から頼まれたのだった。
「きっかけがあればまた、話をしてやらないでもないけど」
「はああ?」
藤野は非難がましい声を出して、
「きっかけは自分で作るものだろ」
「なんでおれがそんなこと」
蓮はストレッチをやめ、胡坐をかき、髪をかきむしった。藤野は首を傾げた。
「へえ。おれだったら、身近な女の子が悩んでたら、心配になるけどね」
─ほんとかよ。
そんな面倒見がいいんだったら、藤野はとっくに結婚しているんじゃないのか。
「…ま、お前に思いがなきゃ、行動に繋がるわけないよな」
「…」
蓮は口を堅く閉ざしていた。莉子を心配しようがしまいが、こっちの勝手だろう。関心を持ってなきゃおかしいというような口ぶりで話すのはやめてほしい。
「お先です」
蓮は外へ出て行った。藤野はクロックスを履いて、蓮を見送った。クロスバイクに乗る蓮の後ろ姿は、あっという間に見えなくなった。
ジムに戻ると、傾斜の緩やかな壁から、一人のお客が落ちたところだった。
「おしい」
連れの男性が声をかけた。二人とも、最近通い始めた中年男性である。
藤野は登り場の方まで足を進めた。彼は何度かトライしているので、そのうちにムーヴを覚えるだろう。
「早く上達するコツって、ありますか?」
藤野は訊かれて、苦笑した。
─思いが大事だ。
このジムを作った前のオーナーなら、そう言うだろう。
藤野は東京でサラリーマンをしていた時代に、クライミングを始めた。地元にハイウォールというジムがあったなんて、それまでは知らなかった。帰省の度にジムに顔を出すようになり、すぐにこのジムが気に入った。東京の行きつけのジムに負けず劣らず、強者が揃うジムだったからかもしれない。
もう二十年ほど前になるか。
オーナーの鮎太郎と、何人かのクライマーと一緒に、藤野は明神山の岩場へ初めて赴いた。
藤野はその当時からそこそこ強かったが、その岩場のビギナー課題といわれる「エイム」を、オンサイトできなかった。変わったムーヴをさせる、面白い課題だと思った。
─あなたなら登れますよ。
鮎太郎は、両手を腰に当て、仁王立ちして岩を見つめていた。そして懸垂下降してきた藤野に、そう声をかけた。
思いが強ければ、行動を起こす。行動をし続ければ、いつか、狙ったものに近づける。
それが、鮎太郎の哲学だった。
─あれえ?順正はどこ行った。
鮎太郎はくるっとあたりを見渡した。
─木陰で休んでますよ。
別のメンバーと組んで、ビレイをしている男性が鮎太郎に教えた。藤野がジムに通い始めた頃にはすでに、ジムの常連だった若い学生は、もうこのエイムを登ったらしい。
藤野は岩場を離れ、休憩にちょうど良さそうなところを探した。岩場全体を見渡せそうな木陰で、比較的平らな岩の上に一人の男の子が座っていた。分厚い本を読んでいる。男の子というには、彼の体は大きく、手足が長い。しかし、長い前髪がかかるその顔には、まだわずかに幼さがあった。
─おーい、順正。
岩場から、鮎太郎の声が聞こえる。
─そろそろ登れ。
呼ばれると、順正と呼ばれた男の子は、近くに腰を下ろした藤野に話しかけることもなく、本を置いて去っていった。藤野が後ろを振り返って見てみると、その本は、愛知県でも一二を争う難関校の、高校入試問題集だった。中高一貫の男子校で、高校受験となると、かなり枠が狭いはずだが。
─あいつは強くなるよ。
こんなところに来てまで勉強していた男の子の登りっぷりは、他の大人と引けをとらない。
─思いが強いから。
男の子は鮎太郎のお気に入りだった。
その鮎太郎は、ジムの休業日には、遠出して登山したり、岩場で登ったりすることが多かった。
が、六月下旬以降は、地元の里山で釣りをしていることもしばしば。美しい渓流で、川魚がたくさん釣れる。そんなこの季節に、わざわざ遠出する必要もなかった。
毎年開催される鮎釣りコンテストでも、鮎太郎はだいたい優勝する。そのため、ある年から、鮎太郎は参加禁止になったほどだ。
─あゆじいさんっ
─あゆたろうさんっ
鮎太郎は上沢に住んでいたが、御殿山の足込町側の麓、粟代登山口の近くに、丸太小屋をもっていた。それは鮎太郎の離れ小屋とも呼ばれ、地元の小学生は、鮎太郎がいる時を見計らって遊びに来た。特に粟代に住む小学生、安藤陽介、前原晃、長谷川瑠璃子の三人は。
─瑠璃子ー!
川に足を入れ、魚をつかみ取りしようとする瑠璃子に、鮎太郎は何度声を上げたか分からない。陽介、晃よりも、瑠璃子は男勝りで、気が強く、活発だった。
─瑠璃子は奥三河で一番のべっぴんになるな。
丸太小屋で、獲った魚を焼きながら、鮎太郎はよくそう言っていた。
─奥三河じゃやだ。
小学生の瑠璃子は、飄々とそんなことを言った。瑠璃子は垂れ目なので、その負けん気の強い性格とは対照的に、優しそうに見える。
─もっとおっきい範囲で、一番になりたい。
そう言う瑠璃子の大きな目は、キラキラと輝いていた。
「あ、もういっかい!とって!とって!」
その鮎太郎の丸太小屋で、今、カメラに向かってポーズを決めているのは、瑠璃子の娘・万里子だった。万里子が体をぐにゃっと曲げながらピースしている姿を、羽沼は写真に収める。
山の中に入り、渓流で遊んで帰って来たばかりだった。
万里子は白いティーシャツに、ズボンをはいていたが、裾が濡れてしまい、膝上までたくし上げていた。サイドテールにした髪も、くしゃくしゃである。きちんと髪をとかし、可愛い服を着て、澄ました顔で写真を撮れば、写真スタジオのモデルも務まりそうな容貌の万里子。
けれど、今カメラに収めた姿の方が、羽沼には好ましく思えた。その年の子供らしい、自然体の姿。
万里子はたたたっと羽沼に走り寄って、しゃがんでいる羽沼の腿の上にのしかかるようにして、カメラをのぞいた。
「おーい、肉焼けてるよ」
安藤の声が聞こえて、二人はアウトドアスペースに戻った。テーブルには前原、安藤、瑠璃子、祥子、その息子の大地と朝日が座って、バーベキューをしている。
祥子の息子たちと万里子が川遊びをしたいというので、安藤と前原は、子守および何かあった時のレスキュー要員として駆り出されたのだ。
季節はもう七月。
蚊取り線香を炊いても、蚊の被害は免れ得ない。みんな虫よけスプレーを手元に、長袖、長ズボンに身を包んでいる中で、万里子だけは素肌を出していた。
「万里子、着替えるよ」
「えー、これでいいよ」
「だめ」
瑠璃子は席を立ち、車のほうへ移動した。
前原はせっかくの休みに、なんでこんな慈善活動をしているのだろうと思った。かといって、外岩はもう暑くなり、休日にやることとてそうないのだが。
「あかつきの二人は、仕事?」
去年の秋、ここでバーべキューした時は、前原と祥子たち親子でなく、杏奈と沙羅たち親子がいた。
羽沼は頷き、不敵な笑みを浮かべた。
「いっぱい課題出しちゃったからね」
あかつき大作戦に向けた準備が加わって、杏奈は忙しくしているところだろう。実は瑠璃子は、杏奈から爪のケアについて相談を受けたことがあった。杏奈はセラピストになるにあたって、自身の爪や、指先の状態が気になったようで、美容に明るい瑠璃子がその手入れ方法を教えたのだった。そして沙羅は、最近はトリートメント以外の仕事を受け持つことになったと聞いている。子育てとの両立でバタバタしながらも、彼女なら楽しくやっているだろう。
「あかつきはこれから忙しくなるよ」
羽沼と、羽沼の言葉から感じるお祭り感。杏奈や沙羅が、忙しく立ち回っている姿が容易に想像できる。
瑠璃子は、変化を感じていた。去年ここでバーベキューをした時、沙羅はともかく、羽沼と杏奈はどこか陰気臭かった。けれど今では、二人とも少し明るくなったし、羽沼はあかつきとの関わりを深め、結束を深めているように思える。
「羽沼さんはどうなんですか?事業を始めたんですよね」
祥子に尋ねられ、羽沼は少しはにかんだ笑いを浮かべ、「まあまあです」と言った。
「今は会社に雇われて働く以外にも、働く方法がいっぱいある時代だよね」
みんなの皿に食べ物を振り分けながら、安藤はつぶやくように言った。自分が就職活動をしていたのは、ほんの十数年前だが、大分状況が変わっている。
「学校でも、何かと主体性を身に着ける教育がちやほやされてる」
「主体性を身に着ける教育って、どういうこと?」
祥子が訊いた。
「さあ…」
安藤は首を傾げた。
「ちょっと、来年万里子も大地くんも月小なんですけど。しっかりしてくださいよ、先生」
瑠璃子から厳しい声が飛んだ。安藤は苦いものでも食べたような顔をする。
「うわ。そういえばもう来年か。いやだな。来年は別の学校にしてくれって言おうかな」
食事もとりあえず遊んでいる万里子と大地を見て、安藤はぼそぼそ言った。山や川であれだけ遊んだのに、まだ遊び足りないようだった。
羽沼が丸太小屋の中に入るのを見て、万里子は悪戯っぽい笑みを浮かべて追いかけていく。
瑠璃子はため息をついた。ちょうど祥子と安藤が、前原と彼女の現在の状況について問い正しているところだった。
ベッドと仕事スペースの他には、何もない羽沼の部屋。羽沼は急ぎのメールを一本返しに来ただけなのだけれど、気が付いたら、万里子が入口から覗いているのが見えて、
「虫が入るから、閉めてくれない?」
そう言うと、万里子は自分が中に入ってから、扉を閉めた。
「写真を見に来たの?ちょっと待って」
羽沼は立ちながら、スマホを打った。万里子はデスクチェアに乗って、勝手に羽沼のデスクトップパソコンの前で、キーボードを叩くふりをした。羽沼はふっふと笑って、パソコンの電源をつける。カメラでペアリングの操作をすると、ケーブルでつなぐことなく、先ほど撮った写真がパソコンに転送できる。
「あ、まりこ」
万里子は写真の中の自分を指差した。流れの早い川の中に、足を突っ込んでいるところや、みんなで山道を登っているところ。先ほど庭で撮った写真もあった。
「みせて、みせて」
「万里子ちゃんのお母さんのスマホでも見られるように、共有してあげるよ」
羽沼はパソコン用のラインが起動するのを、少し待った。
「はぬま」
「ん?」
何気なく返事をした羽沼だが、次の一言で度肝を抜かれた。
「まりこがパパにあわなくなったら、おかね、もらえなくなるのかなぁ」
「え?」
羽沼は万里子に顔を向けた。万里子は作業机に手を乗せたまま、羽沼のほうをじいっと見やった。
「誰がそんなことを?」
瑠璃子とその元夫との離婚理由が元夫の不倫であることは、以前安藤と沙羅たちがしていた会話の中で知った。羽沼がそのことを知っていることは、瑠璃子は知らないけれど。そして、万里子は羽沼が知っていること、知らないことを理解しないままに、思ったことを話しているのであった。
「ママとおばあちゃんがそうはなしてたの」
子供が話すことだ。万里子はそう言っていても、話の内容が本当にそうであったかは分からない。
─父親に会わなくなったら、お金がもらえない。
おかね、とは、養育費のことだろうと思われた。
─逆に言えば、父親に会えば、お金がもらえる。
羽沼は、意味を理解しようと務めた。瑠璃子は万里子を父親と会わせまいとし、そうしたら向こうが、会わせないと養育費は払わないぞ、などと言ったのだろうか。
「お父さんとは、時々会ってるの?」
「ううん。もうずっとあってないよ」
どのくらい会っていないかさえ、覚えていない。でもそれは万里子には、どうでもよかった。
「パパはきっと、まりこにあえなくてもいいとおもってる」
「…」
「まりこも、それでいいよ」
「…でも、ママやおばあちゃんは、お金がもらえなくなるから、会ったほうがいいって?」
万里子は首を傾げた。やっぱり、よく分かっていないのだ。
「うーん、おばあちゃんは、あったほうがいいっておもってるかも。でもママはちがうとおもう」
万里子はそう言うと、もう一度羽沼をまっすぐに見て、
「だってママ、パパのことになると、すごくいやそうなかおするんだよ」
「…」
「だからもうね、あったりしないほうがいいとおもう」
いつしか万里子の声は、ひそひそ声になっていた。
「ママがそんなふうになっちゃうならね、まりこは、パパとあわなくていいよ」
前かがみになって聞いていた羽沼は、膝を折って床に付き、膝立ちの姿勢になった。こうすると、万里子と目線が合うのだが、羽沼は万里子から視線を逸らして、口元を片手で覆った。なにを話したらいいのか分からないけれど、万里子がどうしようもなく、いじらしく思えた。
コンコン。
ドアをノックする音が聞こえて、羽沼は顔を上げた。
「はい」
返事をすると、そうっと瑠璃子が顔を覗かせた。
「すみません…万里子、ほら」
「いや、いや」
万里子は首を振った。
「こら」
「むしがはいるから、はやくはいって」
万里子は、先ほど羽沼に言われたことを母親に言った。女の子というのは、本当に口が立つ。
万里子は一旦言い出したら聞かない性格なので、瑠璃子のほうが折れた。
「ほら、今日のアルバムを作って、共有するから」
万里子が椅子を占領しているので、羽沼は斜め横からパソコンを覗き、今日の写真を選択して、ラインのアルバムにまとめて上げた。
瑠璃子のスマホが鳴る。
「だって。万里子。こっちでも見られるから」
「はなまつりのときのがみたい」
羽沼は腰を曲げたまま、万里子の望むとおりにする。
万里子はさっき着替えて、今は丈の長いティーシャツに、レギンスパンツを合わせていた。髪も瑠璃子が結い直して、ハーフツインになっている。もちろん羽沼には、その髪型の名前は分からなかったけれど、うまく結ぶものだな、と思った。
瑠璃子は途方に暮れて、立ち尽くした。
コミュニティドライバーサービスの件で、瑠璃子は羽沼にお礼を言いたかった。花祭の時も言ったけれど、あの時はまだ、タクシー会社との交渉が終わった時点。制度が開始されると、町役場では瑠璃子の功績だと、みんなが湛えた。瑠璃子としては、自分一人の知恵じゃないのにちやほやされるのは、どこか後ろめたかった。助言をくれた羽沼に対し、その後の状況と感謝の言葉を伝えることで、後ろめたさから解放されるように思える。
けれどなぜだか、話しづらい。
「万里子ちゃん、かわいいですね」
迷っている間に、羽沼のほうから話しかけられ、瑠璃子ははっとした。
言った後で、羽沼は少し、罰が悪いと思った。万里子は「えへへ」と無邪気に応じながら、写真に釘付けになっていたけれども。
羽沼は、膝立ちの姿勢から、立ち上がり、瑠璃子の方を向いた。
「…あの、変な意味じゃなくて…いい子ですね」
それで、そう言い直した。
「元気で、ママ思いだ」
─ママ思い?
万里子は何か、羽沼に話したのだろうか。
「…自我が強くて、口達者で。手に負えません」
瑠璃子は少し、二人のほうへ近寄った。作業台の上には、ものが溢れているのが見える。
「最近、仕事を取るようになって、打合せの資料とか。散らかっていてすみません」
羽沼は無意識に、自分の後頭部の髪を撫でた。
「いえ…事業、うまくいってるんですね」
「いや、まだ…」
定例会では、足込町には仕事がないから、移住者など来ないし、残らないと誰かが言っていた。けれど…
「今は会社じゃなくても、自分で仕事ができる時代なんですね。陽介が言ってた通り」
リモートワークが可能になり、田舎にいながら、様々な人と繋がり、仕事をすることは可能である。羽沼もまさに、自分で仕事を作れる人の一人だ。
「僕はノウハウを伝えるだけだから。あかつきみたいな、商品をもつ人たちを支える、右腕です」
謙遜ではなく、羽沼は本当にそう思う。
「これから活躍するのは、ああいう、パーソナルな指導のできて、かつクリエイティヴィティ―をもった人たちなのかもしれないですね」
人から支持されるコンテンツを生み出せる人たち。
「そうですね…」
瑠璃子は相槌を打ちながら、暗い感情が心の中に浮かぶのを感じた。嫉妬心にも似た感情だった。
「でも…たとえクリエイティヴィティがあっても、守るものがあると好き勝手できないですよね」
そう言った瑠璃子の視線は、万里子の背中に向いていた。沙羅はともかく、あの杏奈などは…
「子供がいなければ、どれだけでも自由にできますものね」
人好きのする穏やかな表情が、羽沼の顔から、一瞬にして消えていった。視線だけを万里子に、そして、瑠璃子に移す。
瑠璃子は、羽沼の表情の変化を見て、自分の顔から血の気が引くのを感じた。常日頃、こんな失言をすることはないのに、どうして、そんなことを言ってしまったのだろう。
羽沼に対する皮肉ではなかった。でも、羽沼はもしかしたら、そう受け取ったのかもしれない…
羽沼は、写真を見ながらひとりごとを言っている万里子に、もう一度視線を向けた。それからまた瑠璃子を見据えて、瑠璃子のほうに歩み寄った。瑠璃子は視線を羽沼の足元に落としたまま、体が硬直したように動けなかった。
「それは、絶対言っちゃいけないです」
ささやくような声だったが、羽沼の声には、いつになく怒気を含んでいるのが、瑠璃子には分かった。
誤解させてしまった。羽沼や杏奈を、嘲るつもりはなかった。むしろ、羨望を抱いたからこそ、そんなふうに言ってしまったのだ。
「万里子ちゃんがいない方が良かったってことですか」
「え…?」
しかし、羽沼の口を出た言葉は、意外なものだった。
「…ちがいます」
「そう聞えますよ」
羽沼は真顔で言った。目に見えて怒っている顔ではなかったが…
「万里子ちゃんは、もういろんなことが分かっています」
瑠璃子は羽沼から目を離せなくなった。
「分からないと思って、不用意なことを言うのはやめてください」
「…」
瑠璃子は、何も言い返せなかった。怒りなのか、失望されたかもしれないという不安なのか、とにかく、衝撃を受けた。
─軽蔑された。
自分の皮肉めいた発言によって。そう、瑠璃子は思った。
「…すみません」
羽沼は瑠璃子に向けていた視線を逸らした。
「…」
瑠璃子は少なからず、心に衝撃を受けていた。
何に衝撃を受けたのか。羽沼に非難されたことに対してなのか、非難されるようなことを言ってしまったことに対してなのか。こんな皮肉を口にしてしまう自分自身の暗さになのか。
万里子がふとこっちに目を向けたのに気が付いて、瑠璃子は慌てて、
「あっ、いいんです。あの…私のほうこそ」
笑顔を浮かべて明るく言ったつもりだったが、ひどく取り繕った笑顔になった。
「さ、戻ろう」
羽沼は万里子にそう言い、フォルダを全部閉じて、パソコンの電源を落とした。万里子は椅子からぴょんと降り、にたーっと笑顔を向けて、瑠璃子の前を通り過ぎた。
バーベキューは、それから間もなくして、お開きとなった。
その日、家に戻ると、万里子はお風呂に入る前から居間で寝息を立てていた。なんだかんだ、疲れたらしい。なんとか起こしてお風呂に入れると、また少し遊んでいたが、いつもより早く、眠りについた。
寝室を出ると、瑠璃子は廊下に立って、スマホを開いた。
後悔、羨望、怒り…。そんな感情ばかりが、前に出てくるようになった。
羽沼が共有してくれた今日の万里子の写真を見ながら、瑠璃子は肩を落とした。いつから自分は、こういう明るさを失ってしまったんだろう。
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