第79話「遭難事件」アーユルヴェーダ小説HEALERS

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 瑠璃子と沙羅は、子供たちを連れて再び栗原神社に向かった。
─おさんぽいく、おさんぽいく。
 と、七瀬が駄々をこねたからである。快を稚児行列に送り出した時は、「いかなーい」と言っていたくせに。子供の言うことは、ころころ変わる。
「ごめんね、瑠璃子さん。付き合わせちゃって」
「ううん。万里子もまだ遊びたいだろうから」
 栗原神社の西参道には、数は多くないが屋台が出ているし、参集所の中では子供を対象にしたイベントも催される。
「快、なに持って来たの」
「はっぱ」
 快は、先ほどの稚児行列で渡された榊を、手に持ってきていた。一歩進むごとに、足先にその榊を当てるようにして歩いている。
「ママ、わたあめたべたい」
 快は綿あめの屋台を指差しながら、沙羅の服を引っ張った。指し示す先には、大きく膨らんだ、キャラクターの絵が描かれた綿あめ袋が、いくつもぶら下がっている。
「わたあめって…快、ごはん食べたばっかりでしょう」
「ううん。ココちゃん、おべんとうあんまりたべなかったの」
 確かに、瑠璃子が持ち帰ったお弁当は、おかずがあらかた残っていた。
「ママとナナちゃんは、なにたべたの?」
「ママとナナちゃんは、あかつきでごはんたべたよ」
「ずるい!ココちゃんもいっしょのたべたかった!」
「なに言ってるの」
 沙羅は気づかわし気な視線を瑠璃子に向けた。快が稚児行列に参加したいと言うから、瑠璃子に無理を言って連れていってもらい、お弁当まで食べさせてくれたのに。
「ママ、まりこもわたあめほしいよ」
「え~、万里子も?」
 万里子だけでなく、七瀬も当然興味を示して、綿あめの袋を指差し、沙羅のほうを向いて必死にアピールしている。
「ほら、快がわがまま言うから万里子ちゃんもほしがっちゃったじゃん」
 快は、眉根に皺を寄せて、唇を尖らせた。
「ココちゃん、わがままじゃないもん!」
「半分こしよっか」
 瑠璃子が妥協案を出した。沙羅も瑠璃子も、甘い砂糖菓子を子供たちにあまり食べさせたくなかったのだ。
 結局、一つだけ綿あめを買い、参道の隅に寄って、少しずつ三人に分配した。
 七瀬は初めての綿あめに興味津々で、最初から大口を開けて口に押し込み、手も口もベタベタにしてしまった。
「ママも食べる?」
 万里子は綿あめを指で圧して、凝縮させたものを瑠璃子の口元に運んだ。
「う…ママはいいわ」
 この暑い中、万里子の指紋がベタベタついた、甘ったるい綿あめを食べる気にはならなかった。
「快…もういいの?」
 袋にはあと三分の一ほど綿あめが残っている。
 快は、拗ねたようにそっぽを向きながら綿あめを頬張っていて、沙羅のほうは見向きもしない。
 沙羅はふうとため息をついた。
 暑いし、境内をうろついていると子供が何かを欲しがるしで、沙羅と瑠璃子は、子供たちを参集所の中に連れていった。もうすぐ座敷で子供向けの催しが始まるらしい。
「あら~、誰かと思ったら沙羅さんじゃない」
「大鐘さん」
 ニコニコ顔で近づいてきたのは大鐘だった。
 今日は婦人会の当番なのか、首からネームホルダーをぶら下げている。ちょうど座敷で絵本朗読会が始まるところなのだそうだ。
「郷土の民話なんて、渋い題材だけど」 
 大鐘は声を潜めて、顔をくしゃくしゃにしてそう言った。
「一時間くらいのプログラムを組んでいるけど、出入り自由だから、つまんなかったら出て行っていいわ」
 座敷の方を見ると、婦人会の久保がいそいそと準備をしていた。大方、久保が選んだ題材に、大鐘はケチをつけたい…というところだろう。二人は犬猿の中なのだ。
 座敷には、幼稚園から小学校中学年くらいまでの子供が集まっている。その近くのソファ席では、父母同士が集まり、雑談をしたり休憩したりしていた。
「行ってきたら?」
 万里子と快は跳ねるようにして座敷に上がった。快は、今だに榊を手に持っていた。

「え…!…元旦那と会うことにしたの?」
 沙羅は七瀬が逃亡しようとするのを止めながら、声を潜めて瑠璃子に尋ねた。
「うん…まあ、親は養育費のためにも会っておいたほうがいいっていうし」
 瑠璃子は元夫・岡部との事情を、今更ながら、沙羅に端的に打ち明けたところだった。離婚の原因は不倫だったこと、相手は職場の後輩で、おそらく二人は結婚して子供をもうけているのであろうことも。そして、離婚時の協定で、三か月に一回の頻度で万里子と面会させることにしていたものの、相手も会いたがらないものだから、これまでも何度か面会をスキップしていたことも。
 そういうわけなので、当初の取り決めのうち面会に関する部分を今後どうするか、瑠璃子は岡部と二人の間で握りたいと思っている。
「じゃあ、瑠璃子さんも元旦那と会うの?」
「うん…まあどのみち、万里子を預ける時に立ち会わないといけないから。ちょっとだけね」
 沙羅はその場面を想像した。娘に会いたがらない元夫に、娘を預けること自体が、沙羅としてはどうなのかと思う。瑠璃子も、そこのもやもやは払拭できていないようだ。
 瑠璃子は、岡部と顔を合わせるだけで心が乱れるので、できればもう、何のやりとりもしたくないということまで話した。
「だったら、そういう風にしていったほうがいいんじゃない?」
 沙羅は、いっそう声を潜めて、瑠璃子に詰め寄った。両腕の間から七瀬が逃げ出そうとするが、無意識に七瀬を抱きかかえる力が強くなった。
 感情が心と身体に大きな影響を及ぼすと考えている沙羅は、避けられることならば、自分の心が乱れるような相手とは、もう接触しないほうが良いのではと思った。だが、養育費がどうのこうのと言っていた。お金のために、岡部と会い続けることが必要なのだろうか。
「うわぁっ、こわい」
 鬼が出てくると、小さな子供たちは声を上げたり、指を口に入れたりしながら、まじまじと絵本を見つめた。
「こわいでしょ~」
 絵本を読んでいるのは久保。睨みつけるように子供たちを見回しているこの人こそ怖い、と大鐘は思う。
 小さな子供たちは、きちんと座ってなどおれずに、立ったり、久保のほうへ近寄ってみたり、座敷から出て親のほうへ駆け寄ったりと、自由にしている。
 万里子と快は、子供たちの集団の中心にいて、膝立ちになったり、正座したりしながら、久保の朗読を聞いていた。
 足込町の民話を絵本にしたもので、鬼が出てくる。鬼たちは盗みを犯していた。鬼たちはもとは人間であった。貧しさゆえに、盗みを働き続けた結果、鬼と化したのだ。しかし、内心はそれを良しとしてはいない。どうにかして、人間に戻りたいと願った。花神の祠に、願いを念じた宝物を供えると、どんな願いでも叶うという。鬼たちはその祠を探した。祠は明神山の中腹、岩穴の中にあった。しかし、鬼たちは宝物を持っておらず、供えるものなどない。鬼たちは願いを念じながら、土を耕し、種を蒔き、花を育てた。鬼たちは願いを込めた花を祠に供えた。すると、下山した時には、鬼たちは人間の姿に戻っていた。
「おしまい」
 パチ、パチと、まばらな拍手が起こった。
─教訓のある話なんだろうけど、渋すぎるわよ。
 大鐘は座敷の一番後ろに控えながら、目を細めた。
「ココちゃん、おこってるの?」
 絵本を聞いている間も、榊を手で弄んでいた快に、万里子は訊いた。快はだいたいいつも元気で陽気だけれど、こんな風にしょんぼりしている時もある。
「ママ、ココちゃんのことみてくれないもん。おしごとだもん」
 さっきも、本当は稚児行列に一緒に参加したかったし、せめて、写真を見てほしかった。
 別に今日のことだけで、拗ねているのではなかった。夏休みになったら海に行きたいと言っていたのに、夏休みも幼稚園に行く日が増え、土日はあかつきに連れていかれる。幼稚園もあかつきも嫌いじゃないけれど、
─ココちゃんのおねがいは、どこへいったの。
 快は明らかに不貞腐れた、傷ついたような表情をしていた。
「まりこはねぇ」
 万里子は、快が手に持っている榊の葉っぱに、ちょんと指先で触れた。万里子の表情は、いつも通りであった。
「おこっているひとがいると、すぐにわかるんだ」
「どうして?」
「ママがね、よくおこっているから」
「まりちゃんのママはきれいだよ」
「うん。でもね、おこっているの」
 きっと、理由はパパのこと。
 万里子は時々、パパと会いたいかと訊かれることがあるけれど、どういう答えなら、ママが怒らないのか、困らないのか、分からない。
 万里子の関心は、ママの顔色…それに尽きる。
「ねえ、みょうじん山には本当にほこらがあるの?」
 小学校低学年くらいの子供が久保に聞いた。
「さあ、どうでしょう…」
 久保はもったいぶって、即答しなかった。
「それってきっと、はながみいわのことだよ!」
 万里子は急に目を輝かして、快の肩をゆすった。二人はこの五月に、幼稚園の遠足で明神山を登った時、花神参道を通り、その道中にある花神の宿り岩を見ている。
 それに…。
─そっちは花神参道。花神岩に行ってまうで。
 ついさっきも、稚児行列の参列者に、神職がそう言っていた。あのご神木からほど近い花神岩に、花神の祠があるにちがいない。
「このはっぱにねがいごとをして、ほこらにおそなえしたら、ねがいがかなうかもしれないよ」
 快は、お母さんと海に行きたい。
 万里子は、お母さんに怒らないでいてほしい。
 万里子は快の手を引っ張った。
 飛び跳ねるように座敷を出ていく二人の様子を見ていた大鐘は、
─子供はいいわね。できることなら、私もあの頃に戻りたいもんだわ。
 そんな感慨を抱いていた。

「まりちゃん」
 神門を出たところで、快は万里子を引き留めた。
 母親たちは、何やら話に夢中になっていて、参集所を出ていく自分たちに気が付いていなかった。
「だめだよ、おこられちゃうよ」
 快はそう言ったが、榊を左手にしっかり持ったままだ。
「だいじょうぶだよ。にじゅっぷんもあればつくし」
 万里子がそう思ったのは、さっき、稚児行列を作って山を上り下りし、それからさらに西参道を練り歩いても、一時間弱しか時間が経っていなかったからだ。しかもご神木に着いてからは、十分程度、祈祷を上げるのに時間を要していた。
「かみしばいがおわるまでには、もどってこられるって」
 大鐘は一時間ほどのプログラムだと言っていた。万里子は時計を持っていなかったが、二人が座敷を出たのは、催しの冒頭部分だから、始まってまだそんなに時間が経っていないと踏んでいた。
 快は不安を覚えつつも、万里子に手を繋がれて、止めることができなかった。
「いこう」
 登山口まで、二人は走った。
 祠まで行って、この榊を供えて、帰ってくるだけ。走ればなおのこと、そんなに時間はかからないように思えた。それに、あのたいくつな紙芝居を座敷で、ただじっと座って聞いているよりも、面白いと思った。
─ふたりで、だいぼうけんができる。
 母親に不満を抱いている。そんな共通点のある友達同士で行う、大冒険だ。
 快は怖気づいているようだったが、万里子は、そのスリルが逆に好奇心をあおった。
「万里子ちゃんはお父さんに会いたいの?」
 沙羅と瑠璃子はというと、二人が座敷を出て行った頃、瑠璃子の家庭事情について話し込んでいた。
「万里子に聞いても、よく分からないの」
 べつに、と言って、首を傾げるばかり。
「すごく小さい頃離婚したから、パパって言っても、よく分からないんだと思う」
「そっか…知らない人に会いたい?って聞いても、答えようがないよね」
 沙羅は同じような状況に立ったことがないので、万里子の心境は想像がつかないが。
 自分が抱える一番の悩みだっただけに、瑠璃子は堰を切ったように、自分の思いを話した。沙羅はもともと、情に厚い性格。それも、一番のママ友が悩みを打ち明けていることもあって、話を聞くのに夢中になっていた。
「でもね、この間…」
 瑠璃子は、羽沼との間に起こったことも話した。
 万里子は、ウィングチャンネルを通して羽沼に親近感を持ったのか、バーベキューや花祭など何度か顔を合わせているからなのか、羽沼になついている。この間も、二人で結託したかのように、瑠璃子がいないところで話をしていて、その後で、羽沼はこう言ったのだ。
─万里子ちゃんは、もういろんなことが分かっています。
「万里子のことは、私が一番分かっているつもりだったけど…」
 たまにしか会わないからこそ、他人だからこそ、分かることもあるのかもしれない。
「…」
 沙羅は、自分にも思い当たる節がある。
 特に子供を二人とも幼稚園に預け、その時間も長くなってからは、仕事に目がいくようになり、家で子供たちと一緒にいても、以前よりも子供のことを見られなくなってしまった。子供たちにはもう、沙羅が気付けていない一面があるかもしれない。
 沙羅も瑠璃子も、お互いに物思いに耽ってしまった。
 三人の中で、最初に異変に気が付いたのは、七瀬だったかもしれない。
 七瀬は、ついに沙羅の腕をすり抜けて、座敷の方へどたどたと走っていった。
「あ、ナナちゃん」
 座敷に上がった七瀬は、大鐘に捕獲されてしまう。座敷では婦人会の面子が、紙芝居を朗読したり、ちょっとしたゲームをしたりして、子供たちを楽しませていた。
「ほら、ママのところに戻るのよ」
 沙羅は七瀬を追いかけて、座敷に上がった。
「すみません」
 沙羅は大鐘から七瀬を引き取り、ついでに快の様子を見ようと、やっと座敷の中を見渡した。
「…あれ?」

「あ…!柴崎さん」
 蓮は犬のように、一目散に順正の傍に駆け寄った
 蓮を視界に入れても、順正の表情は変わらなかったが、心の中ではため息をついていた。会っても別に嬉しい相手ではない。またもや庭には南天丸がいて、玄関には汚れた靴があるので、嫌な予感がしていたが、残念なことに予感は当たってしまった。
「どうしたんですか?」
 それはこっちの台詞だと、順正は思う。しかも、応接間の椅子に座って、びっくりした顔でこっちを見ているのは、佐藤莉子だ。
 莉子は順正が手に持っているものに気が付いた。小ぶりなひまわりの花束。この男は前にも、花束を持ってここに来ていた。
 淡い水色のシャツに、白いズボン、それに黄色い花束…夏らしい、爽やかな順正の風貌に、莉子はしばし目が釘付けになった。
「ん?なにこれ…どうしたの?」
 花束に気付いた蓮が根ほり葉ほり聞き出そうとする声が聞こえて、莉子は急に現実に引き戻された。
「こんにちは」
 莉子の向かいに座って、隣にいる小須賀と話をしていた羽沼は、順正に軽く会釈した。小須賀は明らかに気を損ねたような顔をしていたが、辛うじて「どうも」と挨拶をした。
「…」
 順正は顎を少し引いた。一応、会釈を返したつもりだったが、小須賀には、とてもそうは見えなかった。順正と小須賀の間に、なんともいえない微妙な空気が流れる。
 順正は小須賀の代わりに、羽沼に目の焦点を合わせる。この男とは、前に顔を合わせたことがある。人の好さそうな雰囲気で、少なくとも小須賀などよりは話がた。
「蓮、南天丸になにかやったか」
「それがさ、何を食べさせたらいいのか分からなくて…」
 給水だけはさせているようである。
「それでいい。あいつは一日二食しか食わん」
 それより、なぜ南天丸を連れてここに来たのか。それからあの同級生の女の子も。
 順正はそれを聞くために、蓮の首根っこを掴んでホールへ連れ出そうとした。その拍子に、応接間に入ろうとしていた杏奈とぶつかりそうになった。
「あ…」
 ぶつかりそうになっただけで、ぶつかってはいないのに、杏奈はかすかに驚いたような声を挙げるのと同時に、手に持っていたザルを落としてしまった。ザルが音を立てて床に落ち、濃い緑色の葉っぱがぼろぼろと散らばる。
 ポニーテールの頭が自分の足元に沈むまでに、一瞬、間があった。その一瞬の間に、順正は杏奈の瞳が揺らいだのを見逃さなかった。跪いて葉っぱを拾いながら、伏し目がちにして、こちらを直視しようとしない。
「大丈夫?」
 声をかけたのは蓮のほうだった。蓮は順正の手から逃れて、葉っぱを拾うのを手伝う。順正も拾うのを手伝うために膝を折りながら、未だに、自分に会うたびにこの女が緊張し慄いて見えるのは、初めて会った時の印象が尾を引いているのだろうと思った。先ほど加藤から、失礼のないようにと言われたばかりだが、やはり、時すでに遅し、といった感がある。
 それにしても、奇妙なものを持って来たものである。濃い緑色をした、小さな、ハートのような形をした葉っぱ。ゴツコラだ。
 床に膝をついてゴツコラをザルに移しながら、杏奈の目は順正が床に置いたひまわりをとらえた。
「美津子さん、ですか?」
 視線をひまわりに向けたまま、杏奈は順正に訊いた。
「美津子さんは、お部屋にいます」
 順正は花束を拾うと、それには返事をせず、蓮を連れてホールへ出た。もっとも、もし杏奈が伏し目がちにしていなければ、彼の頭がこくりと縦に揺れるのが見えただろうけれど。
「莉子ちゃん、これも選別してくれる?」
 杏奈は気を取り直して、新しいゴツコラの山を莉子に渡した。
「はい」
 夏本番を迎えて、庭のゴツコラは盛大に生い茂り、ゴツコラジュースにでもしない限り、消費できない。
 無造作に摘み取られたゴツコラ。莉子はそのゴツコラのつるをほどよい長さで切り、不純物を取り除く手伝いをしていたのだった。
「南天丸に、水をあげなきゃと思って…」
 ホールの隅で、莉子と南天丸を連れて来た経緯を話した蓮は、さらに、あかつきを訪れた経緯を話した。
「でもさ、柴崎さん」
「なんだ」
「理由、いる?」
 あかつきに寄る理由…。
「柴崎さんも、特に理由があって寄るわけじゃないんでしょ?」
 生意気なことを言う。だが蓮の言うことは、当たっていた。しかも前回莉子に会った時、明神山へ登ることがあれば、あかつきに寄ると良いと言ったのは自分だった。
「もう少ししたら帰るよ」
 ちょうど藤野から「今どんな感じ?」とお伺いのラインが来たところだ。莉子は杏奈の手伝いを喜んでやっているので、そうすぐに帰ろうとも言えなかったのだが。
「蓮」
 順正は今の立ち位置から一直線上にある書斎の窓から、外の様子を眺めて、
「今日は山を登って帰るな」
「え?なんで?」
 蓮がそう言った時には既に、順正は美津子の居室に向かっていたが、顔だけ後ろに向けて、蓮を振り返った。
「大雨になる」

「じいちゃん」
 社務所でうたた寝していたぐう爺は、小夜に揺り動かされて、目を覚ました。
「なんだね」
「あのね、子供たちが迷子になったって、お母さんたちが…」
「うぅン…迷子かあ…ふぁ~……迷子?」
 沙羅は今、境内の中を息を切らして走りながら、快と万里子を探していた。
「もう…どこ行っちゃったの?」
 瑠璃子もまた、参道を行ったり来たりしながら、二人の姿を探す。
 大鐘は七瀬を抱いて、二人が現れたら引き留めるために、参集所に残っていた。
─あの時、子供たちがお母さんの傍に行くかどうか、見届けていれば…
 二人が座敷を出て行った時は、すぐそばにいる母親たちが気付くだろうと思って、気にもしてもいなかった。
「マンマ~!」
 七瀬は離せ、ママのところに行かせろとジタバタしている。大鐘は途方に暮れた。
 ぽつっ
 沙羅は水滴が頬に当たった気がして、空を見上げた。栗原稲荷社の周りの竹林の樹冠から見える空は、薄暗く、雲が早いスピードで流れている。
 ぽつっ
 ぽつっ
 雨粒が落ちて来たことに、瑠璃子も気づいた。午前中はあんなに晴れていたのに、天気が急変し、今にも降り出しそうである。
 一方その頃、山中では、万里子が後ろを振り返って、快を励ましていた。
「もうすぐだよ、ココちゃん」
「まって~」
 にこにこして、はしゃいだ様子の万里子とは対照的に、快はしょぼくれた声を出した。午前中、たっぷり日射しを浴びたからか、今日二回目の山行だからか、快は疲れを覚えている。
 さっきからどんどん視界が暗くなっている気がするが、これは山の中だからなのだろうか。
「あっ」
 花神岩まで、あと少しというところで、快はコケてしまった。
「あ…」
 万里子は快が転んだことに気が付き、快がいるところまで戻ってくる。
「いたたた…」
 快は、榊をずっと握りしめていたため、転んだ時にうまく手をつけず、左の手首のあたりを打ってしまった。
「だいじょうぶ?」
「うん…」
 快は、起き上がろうと足を曲げた。
「えっ?」
 快は自分の身体の異変に気づき、みるみるうちに顔が青ざめた。右足首のあたりが、血だらけになっている。万里子もそれに気が付き、口がぽかんと開いた。
「ココちゃん…ケガしたの?」
 ぽたっ、ぽたっ、ぽたっ。
 その時だった。
 大きな水滴が落ちてきたと思ったら、みるみる視界が暗くなり、ザーッと雨が降り出した。
 快は、足が血だらけになっていることに加え、大雨が降り出したことで、パニックを起こしかけた。
─ママ…!
 はっとして、沙羅は明神山のほうを見た。雨は強くなり、傘なしではずぶ濡れになってしまうほど。
「見つかった!?」
 参集所に戻ると、途方に暮れたような大鐘が、七瀬と一緒に待っていた。沙羅はそこに快と万里子の姿がないのを見て、絶望的な気持ちになった。
「沙羅さん、いた?」
 参集所の扉が開き、瑠璃子が入って来た。瑠璃子の前髪は雨に濡れて、額にぺっとり張り付いていた。
「いない…」

 ひまわりの切った茎の部分には、濡れた懐紙があてがわれていた。加藤の懐に収められていたものだろう。
 加藤が摘んでくれたというひまわりを、一つの花瓶に生けると、美津子は誰も見ていないのを確認して、その懐紙を胸に押し抱いた。
 居室に戻ると、順正が壁に背をもたげて目を閉じ、くつろいでいた。
 雨の音はだんだんと強くなってきている。
「勉強し始めたの?」
 順正の声は低くて、抑揚がないといえばそうだけれども、落ち着きがあって、歳を重ねるごとに、加藤に似てきたと思う。
 美津子は座卓に置いたままになっている参考書を見ると、それを手に持ち、しまおうとした。
「隠さなくていい」
 順正はいつしか、目を開いていた。
「隠してなんか」
 苦笑いを浮かべながら順正を振り返ると、切れ長の目がこちらを見ている。
「別におれの前なんだから。いつもの通りにしていればいい」
 そう言われて美津子は、参考書を手に持ったまま、座椅子に座り直した。確かに、順正は、あかつきのスタッフとは違う。
「快ちゃんと万里子ちゃんですか…?」
 その頃応接間では、沙羅からの電話を受けた杏奈が、部屋の中を見回しているところだった。
「いえ…戻ってきてませんけど」
 沙羅が呻く声が聞こえて、杏奈は何かあったのか、事情を聞いた。
 掃き出し窓から外の様子を眺めると、さっき雨が降り出したばかりだったのが、もう本降りになっている。
「だめ。あかつきにも戻ってないって」
 瑠璃子と大鐘は、落胆の色を濃くして、その場に立ち尽くした。いそうな場所といったら、神社とあかつきだけ。
「私もう一度、探してくる」
 瑠璃子は急き込んで参集所を出て行った。それと入れ違いになるように、神主や神職、巫女がバタバタと沙羅のほうへ駆け寄った。
「お嬢さんたちは、見つかりましたか?」
 参集所の中には、まだちらほらと人の姿があったが、瑠璃子が外へ出ると、境内にはもうほとんど人の姿はなかった。屋台もたたまれ、みんな引き上げている。
─もう、万里子…!
 瑠璃子は心の中で、万里子に問いかけた。
─どこに行っちゃったの?
「ふってきちゃったねぇ」
 万里子は外の様子を見て、ぽつりとつぶやいた。
 その頃、万里子と快は花神岩の中にいた。雨が降って来たし、快がケガをしたようなので、動くこともできず、そこで雨宿りしていたのである。
 岩の中には、民話の中に出てきた、花神の祠があった。万里子と快は、そこに無事榊を供えたけれど、この分では、快はもう海に連れて行ってもらえそうにないし、万里子はママの怒った顔を見ることになるだろうなと思った。
 快は、さっきから体操すわりをして、腕の中に顔を埋めて泣いている。しゃくりあげる友の肩に手を置きつつ、万里子は自分も不安で仕方がなかった。
「…きゃあっ」
 サササ…と音がして、快は地面を見ると同時に、万里子にしがみついた。
「やっ…ムシ!ムシがいる!」
 見たことのない、たくさん足のついた大きな虫に見えた。
 血、雨、虫…
 外に出ようにも、出られない。
─こんなことになるなんて…
 震える友の背を抱きながら、万里子は、とんでもないことになってしまったと思った。

 かすかに足音が聞こえて、美津子と順正は、同時に居室の襖を見やった。前室の襖が開く音がすると、間髪入れず、
「美津子さん」
「どうぞ」
 返事をするのとほぼ同時に、居室の襖が開いた。杏奈は難しい表情をしていた。
「今沙羅さんから連絡があって、快ちゃんと万里子ちゃんが、神社で、迷子になっちゃったそうです…」
 杏奈は口早に、美津子に事情を伝えた。美津子は本を閉じるのも忘れて目を見開き、思わず後ろにいる順正と顔を見合わせた。
 三十分ほど探したのだそうだが、見つからず、雨が降ってきてもなお、参集所に戻って来ない。あかつきにも、二人は戻って来ていない。今もなお、母親たちと神社の者たちが探しているそうである。連絡を受けて、小須賀と羽沼は神社に急行している。
 報告を終えると、杏奈はたたき(玄関土間)でカッパを着た。
「私、あかつきの周りを見てみます。美津子さん、二人が戻ったら…」
「ええ。すぐに連絡するわ」
 一人はあかつきに残っていなければならない。
 杏奈は登場頻度の少ない登山靴を履いて、外へ出た。
「すぐに見つかるといいのだけど…」
 とはいえ、もう一時間近くも捜索しているようだ。
 美津子は冷静を保っているが、順正の目には、今にも外に飛び出しかねない様子に見えた。
「おれも探しに行くよ」
 蓮は言うと同時に靴を履いた。
「蓮」
 順正は相変わらず無表情のまま、蓮を見下ろした。
「なに?」
「南天丸を連れて参集所に行ってろ」
「え?」
 そう言うと順正はさらっと靴を履いて、何も言わずに外へ出て行った。
 順正が外に出たのを見ると、美津子はやっと、平静さを取り戻した。あかつきにいる自分にできることは、情報を集約すること。
 美津子は踵を翻し、応接間に向かった。
「わ…私も!」
 莉子はたたきに下り、靴につま先を入れた。
「おい」
 蓮は莉子の肩を押して、廊下に押しやった。
「来んなよ」
「どうして?」
 莉子は押された反動で廊下に腰をつきながら、憤慨し、眉根を寄せた。
「うるせぇな。雨に濡れるのは、男の役目でいいんだよ」
 そう言った蓮の声は、いつにない凄みがあった。
 莉子は呆然として、廊下に腰を下ろしたまま、少しの間動けなかった。

─みんな、現在地と状況を教えて
─あかつきの周りにいます
─小須賀と羽沼、神門の南の社寺林の中を探しています
─境内にいます
─駐車場にいます
 美津子が次々にメンバーを招待して特設ラインを設けた。
 時刻は午後四時近い。雨はまだ降り続いている。
 それぞれが違う場所を同時に探しても、一向に快と万里子は見つからなかった。
─どうして見つからないの?
 美津子は唇を噛んだ。その美津子の様子を、すぐ傍で莉子は見守っていた。
 ぽっ、と音がして、新しいメンバーがラインに加わった。蓮だ。順正が招待したらしい。その後まもなく、莉子のスマホが鳴り、蓮から特設ラインへの招待が届いた。
─何もできないけど…
 莉子はグループラインに参加した。
「どうだった?」
「見つからない」
「社寺林のほうは道が遠くまで続いていて、途中まで行ったけど、限がないよ…」
 あかつきの面々は参集所の玄関に集まって、口々に状況を伝え合った。
 ラインを活用し連絡網ができているが、統率が取れていないまま、むやみに探すのは得策ではない気がした。
 もう一時間ほど、子供を探し続けている沙羅は、痛々しいほどに呼吸が乱れていて、今にも泣き出しそうだった。
「ふうーん!」
 ソファで寝かせてもらっている七瀬が、寝ぼけた声を出すと、沙羅はぱっと手で口元を押さえた。綿あめを買ってもらえなくて、構ってもらえなくて、そっぽをむいたまま拗ねていた、愛しい娘の膨らんだ頬が脳裏に浮かぶ。
 杏奈はそんな沙羅に、気づかわしげな目線を送ることしかできなかった。沙羅の腕をさするなり、抱きしめるなりしてあげるべきだとも思うのだが、体が動いてくれない。
「はぁ~、とんでもないことになってしまった」
 神社で起きたことではあるが、過失は子供たちを監督していなかった親にある。神社の者たちは、探してくれてはいるものの、困窮し切った様子だった。
「あと少し探しても見つからなかったら…警察と消防を呼びませんか」
 神主からそう言われ、誰も否とは言えない。
「他に子供たちが行きそうな場所もないんですよね?」
 瑠璃子と沙羅は、力なく頷いた。沙羅は泣き出しそうだったが、瑠璃子はまだ、毅然とした態度を保っていた。
 ぱっと参集所の扉が開いて、みんな期待を寄せて振り向いたが、入って来たのは、蓮と南天丸だった。
「離しなさい」
 参集所の奥の方で、一人の老婆が二人の巫女に取り押さえられていた。
「子供たちがいなくなったんでしょ?早く見つけ出さないとっ」
 久保だった。他の婦人会のメンバーは解散していたが、一人残って、参集所の中を探していたらしい。
「外を見に行くわ。外にいるかもしれないでしょ」
 久保の声を聞いて、大鐘も腰を上げた。
「わっ、わたしも探しに行くわ!」
「大鐘さん、あのばあさんと一緒に大人しくここに居て下さい」
 ぴしゃりとそう言ったのは小須賀だった。
「ばあさんたちが、雨に濡れて、風邪引いて肺炎でも起こして死んだらどうすんです」
 小須賀は早口言葉を喋っているかのようだった。大鐘はしゅんとしたが、久保の姿を見て、あることを思い出した。
「あのう~」
 大鐘は、玄関に集合しているあかつきのメンバーのほうへ、おずおずと歩み寄った。
「もしかして…」
 ぽつりとつぶやいてから、大鐘は思い直したように口をつぐむ。
「何か心当たりがあるんですか?」
 瑠璃子が大鐘に詰め寄った。大鐘は困ったように後ずさりして、
「いや、まさかとは思うんだけど。何から話したらいいやら、話せば長く…」
「短く話して」
 小須賀が早口で叫んだ。大鐘は怯みながら、手を弄んだ。
「あ、あのね…足込町には、ふる~い民話があってね…」
「ああもう。こんな時に民話の話はいいって!」
「待って、小須賀くん」
 羽沼は努めて落ち着いた声を出し、大鐘に向き直った。
「教えてください」

「二人で登ったって…本当かな?」
 栗原登山口にて、あかつきの面々と瑠璃子は、真っ暗な山の中を見つめていた。
 大鐘の説明によれば、二人は途中まで紙芝居を聞いていたのだが、足込町の民話が終わると、すぐに座敷を出て行ったそうだ。
─花神の祠に、願いを念じた宝物を供えると、どんな願いでも叶うという。
 足元を見ても、雨のせいで、足跡を捉えることもできない。
 沙羅は首を振った。
「ありえないです…二人はまだ年長です」
 でも瑠璃子は、ありえなくはないと思う。どうして山に登ろうと思ったかは別として、二人は幼稚園の遠足で明神山を登っているし、午前中の稚児行列で、花神参道への分岐を見ている。
「探して来ます」
 瑠璃子は落ち着き払った声でそう言うと、登山道の階段に足を掛けた。
「あ、待ってください」
 杏奈は瑠璃子に向かって声をかけた。
 瑠璃子と沙羅は、カッパも着ておらず、頭のてっぺんから足先まで、ずぶ濡れになっている。
「二次災害になるかもしれませんし、消防の方を待ちませんか?」
 瑠璃子は杏奈の目をじっと見つめていたが、
「待ってられない」
 首を横に振ると、踵を返した。
「待って」
 次に瑠璃子を止めたのは羽沼だった。肩を掴んで、瑠璃子を引き留める。
「杏奈さんの言う通り…」
 喋りながら、羽沼は、瑠璃子の肩を掴む手を通して、瑠璃子が震えているのに気が付いた。
 後ろから複数の足音がして、みんな後ろを振り返った。順正、蓮、南天丸だった。蓮が状況を順正に伝えたのかもしれない。順正は山用のカッパに、登山靴を履いていた。背中には山用と思われるザック。ランドクルーザーに積みっぱなしになっている山道具だ。
 杏奈は、大人しく付き従う南天丸を見下ろした。それから、視線を順正に移す。フードと襟で、顔の大部分が隠れているが、どこか諦めたような表情に見えた。とんだ徒労だ、と思っているような。ということは、今回の遭難に対し、骨を折ってくれるということではないか。この犬と共に。
 羽沼も、杏奈と同じことを思った。
「…柴崎先生、その犬は山岳救助犬ですよね」
 瑠璃子と沙羅が、羽沼の言葉に反応し、ばっと南天丸の方を向いた。
 しかし、自分たちの過失なのであった。この男が、犬を連れて探しに行くと自ら言い出さない限り…瑠璃子も沙羅も、無理なお願いはできない。
「どこを探す?」
 順正が誰にともなく訊いた。この期に及んで、ひどく冷静な物言いだった。
 訊きながら順正は、ただ明日の執刀のことを思っていたのである。山の中など捜索して、明日の仕事に支障が出るようなことがあってはならない。ゆえにいつまでも捜索に付き合うことはできない。自分が前に出て取り仕切るつもりも、毛頭なかった。
「行先に当てはあるのか」
 普通に考えれば、主要登山道だ。しかし、当てが外れた場合、責任は取れない。
 それは、この捜索の責任者を誰にするのかという問いだった。
「あの、柴崎さん」
 すぐに反応したのは、羽沼だった。
「その犬は、子供を探し当てられますか?」
 沙羅は息を呑んだ。
「私、快の持ち物を…今何も持っていません…!」
「物がなくても、人が近くにいれば、呼気や、においで分かる」
 だがそれなりに見当をつけなければならない。
 南天丸は直線的に、二人がいるところまで連れていってくれるわけではなかった。それができるのならば、最初からそうしている。
「祠にいる可能性が高いので、そこへ向かってくれませんか」
 羽沼ははっきりとした口調で、順正に頼んだ。
 沙羅と瑠璃子は項垂れながら、祈るような視線を順正に向ける。杏奈と小須賀、蓮は、黙ってそれぞれの様子を見やっている。
「僕は、別のルートを探します」
 続く羽沼の言葉に、瑠璃子は思わず目を見開いて、羽沼の顔を見た。羽沼は二手に分かれて、山の中を捜索するつもりなのだ。
「いや、子供たちが一番いそうな場所に行ってほしい」
 順正はそう言うと、南天丸の傍に屈んで、首輪を外し、手綱を持つ蓮にそれを預けた。
「当てもなくウロウロするのは危険だぞ」
 羽沼は頷いた。順正は幾度となく明神山を登っていて、全てのルートを知り尽くしているのだろう。より難しい方へは、この人に行ってもらうのが賢明。
「分かりました」
 羽沼の返事を聞くや否や、順正は南天丸に指示を与えた。南天丸は弾丸のように階段を駆け上り、暗い山道へと消えて行った。それを追う順正もまた、驚くようなスピードで登山道を駆け登り、すぐに視界から消えていなくなった。
「下界にいる可能性もあるから、杏奈さんと小須賀くんはこのまま探してくれる?」
 羽沼の指示に、小須賀と杏奈は口々に返事をした。
「おれも探すよ」
 蓮は一歩前進し、羽沼に声をかける。羽沼は蓮に微笑むと、踵を返した。
「あの、羽沼さん」
 瑠璃子は羽沼のカッパの袖を、ぎゅっと掴んだ。
「お願い…!万里子を連れて帰って!」
 瑠璃子の声は、小声だったが、切羽詰まった響きがある。泣いてはいなかったが、今まで見たことがないほど、取り乱していた。
「万里子を失うようなことがあったら…」
 自分ももう、生きてはいけない。瑠璃子は、しかし、生や死などの言葉を口に出せなかった。言ったら本当になってしまいそうで。
 羽沼は頷きながら瑠璃子の手を押し戻すと、暗い登山道を駆けていった。

 莉子はタオルと、女性用の着替え、飲み物をいくつも詰め込んだ大きなカバンを持って、参道を走った。
─ん?
 傘を少しずらすと、行く手に人影が見えた。
「蓮っ」
「お、莉子か。なんだお前…」
「お母さんたちの着替えを持っていくよう言われて…」
「そうか」
 瑠璃子と沙羅は、参集所に戻っている。ずぶ濡れの状態では風邪を引く。
「転ぶなよ!」
「そっちもね」
 蓮に背を向けて参道を駆けながら、莉子は、不思議な連帯感のようなものを感じていた。
 その頃山の中では、羽沼が主要登山道と花神参道との分岐に辿りついたところだった。
 時刻は四時半近い。
 日の長い時期ではあるが、悪天候のせいで、山道には霧が出ていて、視界が悪い。
 南天丸は主要登山道を駆け抜け、もう三合目を過ぎるところだった。順正とつかず離れずという距離感。順正は行く先々で、子供たちが雨宿りしていそうな場所を見つけると、南天丸に探させた。
 花神参道は、山をトラヴァースする形で続く。起伏が少ないが、片側はガレている。懐中電灯で行く先を照らしながら、羽沼は駆け足でなだらかな坂を登る。
「万里子ー!」
 思いっきり叫んだ。その声は雨の音にかき消されてしまう。
 数回しか会ったことがない、他人の子供なのにどうしてだろう。羽沼は夢中で探しながら、一方で、ひどく冷静に状況を俯瞰している自分に気づく。
─ママがそんなふうになっちゃうならね、まりこは、パパとあわなくていい。
 あの日、そう言った万里子を、けなげだと思った。いじらしくて。
 だけど、今羽沼の足を動かしているのは、喉を震わせているのは、万里子の無事を祈りながらこちらを見上げる、宝石のような瞳だった。
 瑠璃子は自分が山の中に入ろうとしていた。もし彼女に夫がいたなら、夫がその役を担っただろう。彼女は常に、一人で二人分の役割を担っているのだ。
「万里子!」
 羽沼は走りながら何度も何度も叫んだ。
 花神岩の中で、快と一緒にうずくまっていた万里子は、誰かの声が聞えた気がして、ふっと顔を上げた。身を寄せ合うようにして座っていた快は、疲れて果てて、岩にもたれかかったまま寝ている。
 万里子はそっと外に近づき、耳を澄ませた。
「万里子ー!」
 その声はだんだん、近づいてくる。聞き覚えのある声だった。
「はぬまー!!」
 万里子の絶叫が聞こえて、羽沼は全速力で走った。
 岩場の陰から万里子が出て来たのを見つけて、羽沼は胸いッぱいに安心感が広がるのを感じた。
─ピコンッ
 特設ラインに羽沼から届いたメッセージに、別々の場所にいたあかつきのメンバーは全員、目が釘付けになった。
─見つけた!花神岩にいた
 順正はラインを見て、
「南天丸」
 先を歩く南天丸を呼んだ。
「戻るぞ」
 外で捜索していた三人は、その知らせを見て、参集所に戻った。同じ知らせを受けていた沙羅と瑠璃子(大鐘はソファで寝ていた)は、居ても立っても居られない様子で立ち上がっている。
「…警察が来てるな」
 小須賀が杏奈に、ぼそっと言った。消防も来ている。大変な騒ぎになってしまった。
「見つかったみたい」
「よかったですね」
 あかつきで留守番をしていた二人も、ほっと胸をなでおろした。ここへ帰ってくるのも、時間の問題だろう。
「莉子ちゃん」
 美津子は立ち上がった。
「ご飯を作るの、手伝ってくれない?」

「ココちゃんね、ケガしてるの」
 快はもう目を覚ましてはいたが、岩壁に体をあずけたまま、ぐったりとしている。
 羽沼は身を屈めて花神岩に入った。岩穴の中は、大人一人でも窮屈に感じるような狭さ。快の傍に寄って見てみると、左足首が血だらけになっている。
「ごめん。ちょっと靴取るよ」
 羽沼は靴と、靴下を取ったが、不思議なことに外傷は見当たらない。
─ヒル、か。
 羽沼はほ~っと息を吐いた。快はヒルに噛まれただけだ。
「大丈夫だよ。ケガなんかしていない」
「いや、いや。いたいよぅ」
 だが快はまだ気が動転している。快の泣き腫らした目には、再び涙が溜まった。
 大雨のピークは越えたようだが、雨脚はまだ強い。しかし、神社の者が捜索願いを出すと言っていたことを考えると、大騒動になる前に下山したかった。
「万里子ちゃん、歩ける?」
「うん」
 万里子は落ち着いていた。この子の気丈っぷりは、母親譲りだな、と羽沼は思った。
 より衰弱している快に、自分のカッパを被せて、おんぶをする。
 万里子は懐中電灯を持ち、羽沼とほとんど平行になって歩いた。
「左側が崖になってるから、気をつけてね」
「うん」
 万里子は素直に返事をする。こうなったことを反省しているのか、ずい分としおらしかった。
「どうしてあそこへ?」
 羽沼は、いつも通りの声色で尋ねた。
「はっぱをおそなえにきたの」
「はっぱ…」
 そういえば、祠には真新しい榊が供えられていたような。
「あのね、おにがねがいをはなにこめて、ほこらにそなえたら、ねがいがかなったんだって」
 やはり、二人の行動は、民話の絵本がきっかけになったようだ。
「そうなんだ…」
 羽沼はどっと疲れを感じた。この時ばかりは、そんな題材を選んだ婦人会の人々を恨めしく思った。
「何を願ったの?」
「う、う~ん…」
 万里子は言いよどんだ。
 つるっ
「わっ」
 万里子は木の根に滑って、盛大に尻もちをついてしまった。地面に手をついた衝撃で、手の平がヒリヒリする。
「大丈夫?」
「うん…」
 ぬかるんだ道、露出した木の根や岩で、すごく滑りやすくなっている。
 万里子は立ち上がったが、手も足も、お尻も泥まみれになってしまった。それでも万里子は泣き言を言わず、羽沼と並んで歩き続ける。
 分岐を過ぎた頃、主要登山道から軽快な足跡が聞えて、羽沼と万里子は後ろを振り返った。
「わ、なに」
「大丈夫」
 羽沼の脚に隠れる万里子に、羽沼は優しく言った。南天丸が滑り降りるように坂を下ってきた。そのすぐ後に、順正。
「岩穴にいたか」
「ええ」
 順正は万里子をちらっと見た。元気はありそうだが、ずい分と身体が汚れている。羽沼が背負っているほうの子供は、羽沼の首にしがみついて、頭を上げようともしない。
「その子供をこっちへ」
 順正は元気がなさそうな快を指差し、ザックのストラップを緩めた。ザックの背当て部分に子供を挟めば、普通に背負われるよりも、子供はより安定した状態で身を預けることができる。
「いや、いや」
 快は下ろされるのを拒んだ。
「いたい、いたいよ~!」
 順正は快の左の靴下が赤く染みていることに気付いた。
「怪我をしてるのか」
「いや、ヒルです」
 快を順正とザックの間に乗せようとするが、快は羽沼の首にしがみついて離れない。
「いひっ…いたい…」
 しゃくりあげている。順正は空を仰いだ。喋るようになった子供というのは面倒なものだ。仕方なく、ザックのサイドポケットを開き、中から小さなスプレーボトルを取り出した。
「これ見える?」
 快は羽沼の頭越しに、順正がかざすスプレーボトルを見つめた。羽沼はぽかんと口を開いた。
「これはね、ヒル下がりのジョニーくん」
「ジョニーくん?」
「そう。これを吹きかけておけば…」
 順正はキャップをあけて、快の左足にスプレーを吹き掛けるふりをした。
「もう大丈夫」
 子供だましだが、快はそれで黙ったので、何気に効果があったようだ。スプレーボトルに手を伸ばすので、握らせてやると、なぜかさらに大人しくなる。
 快が大人しくなった隙に、羽沼は順正の背とザックの背当て部分に挟み込むように、快を乗せた。
「両足をこれに通して」
 順正はショルダーベルトを軽く握って、羽沼に示した。
 羽沼がサイドストラップを締めている間、順正はあやとりするかのように素早くロープを束ね、カラビナを通した。布状になるよう揃えられたロープを快の腰部分にあてがい、順正の身体の前側に通して固定すれば、さらに安定する。
 ザック背負い搬送は、背負われる側の負担が少なく、背負う側も両手が空く、画期的な方法だった。
「じゃ、万里子ちゃん」
「う、うん…」
 万里子は歩こうと思えば歩けたが、さっきも滑って転んだばかりだったので、ここは従順に大人の言うことに従った。泥まみれの万里子を背負うと、カッパを快に貸している羽沼まで、服も首も泥だらけになってしまう。
 それを見て、あろうことか順正は笑った。
「楽しい山行だな」
 それは、ひねくれ者の皮肉というより、相手を奮い立たせるための、クライマーらしいブラックジョークなのだろう。
 しかし、順正が笑ったことは、不思議と羽沼と万里子の緊張の糸を緩めた。
 決して楽しいばかりではない山行。だが、疲れ果てている時こそ弱音をはかず、むしろ楽しんでいるくらいの余裕を見せるのが、クライマーというものだ。
 ザック背負い搬送をする順正は、南天丸の後に続いて、子供を背負っているとは思えないスピードでさくさくと下山していく。
─早…
 羽沼は、後ろからついていくのがやっとだった。
「はぬま」
「ん?」
「まりこ、ママにしかられるかな」
 いつもは強気な万里子も、この時ばかりはしゅんとした声を出した。
「まあ…叱られるだろうね」
「ママ、おこってるかな」
「うーん…おこってるだろうね」
 万里子ははぁ~とため息を吐いた。
「やっぱり、ねがいはかなわないんだねぇ…」
「…」
 羽沼は、背中にぴったりと張り付く万里子が、やっぱりいじらしく感じる。
 万里子が山を登ったきかっけは、きっと、自己本位なものではなかったのだろう。
 花神に供える宝物がなく、宝物を自ら作った鬼。願いを神様に託しても、叶えられるものではない。願いを叶えるのは、日々地道な努力を重ねる自分自身だ。あの民話の教訓は、そういったものだと思えなくもない。
「あーあ…」
「…そんなに落ち込まないで」
「だって、いやだもん、まりこ。ママ…よくおこってるしぃ…」
 でも、瑠璃子の怒りの根底にあるものは、万里子の努力でなんとかなるものではない。それは万里子の問題ではないのだ。
「じゃあさ、こうしよう」
「うん?」
「万里子ちゃんの願いが叶うように、僕も協力する」
「え?」
 万里子は、少し頭を起こした。
「万里子ちゃんの願いは、万里子ちゃんだけじゃ、叶えられないかもしれないから」
 その願いを知った自分が、行動を起こせばいいことだ。
「僕の力じゃ、どうにもならないかもしれないけど…」
「え?」
 万里子の両手に力がこもった。その力に、自分に寄せられる期待を感じる。
「…ううん、きっと大丈夫だよ。だから、落ち込まないで」
「うん…」

 栗原登山口では、瑠璃子と沙羅、杏奈、小須賀のほかに、二人の男が立っていた。そのうちの一人は警察官で、透明なレインコートを着ていた。
「もう大丈夫なんですか?本当に」
 警察官は、ハスキーな声で誰にともなく訊いた。
 この警察官に、杏奈は会ったことがある。空楽の知り合いの男で、まこもの植え付けを手伝わせてくれた。あかつきの畑を手伝ってくれている柳の息子で、空楽は彼を小柳と呼んでいる。
「まだお子さんたち、戻ってきてないわけですよねぇ」
 警察と消防を呼んだものの、子供たちは既に保護したということであった。
「まあ、出る幕もなく終われば、それでいいんですけど」
 そう言った消防隊員も、瑠璃子や沙羅がよく知る人物だった。前原晃は、帽子のツバを上げて、暗い登山道を眺めた。
 しばらくの後、軽快な足音が聞こえてきて、誰からともなく、期待のまなざしを登山道に向けた。
 最初に下りてきたのは、南天丸だった。南天丸が見えてから、登山口に下り立つまで、ほんの一瞬。雨でぬかるんだ道ももろともせず、木杭と丸太でできた階段を一気に下った。
「わっ」
 小柳はびっくりしたように、前原の後ろに隠れた。小須賀は訝し気に小柳を見た。
 次に下りてきたのは順正だった。警察官と消防隊員が来るような事態になっているにも関わらず、ただ山を登って下りてきましたとばかり、澄ました顔をしているものだから、小柳は目を見張った。
「快…!」
 沙羅の声が聞こえると、順正の背に背負われていた快は、母親の方へ顔を向けた。うわ~んと快が泣くのと同時に、順正はしゃがみながらカラビナを外し、ロープを解いた。
 沙羅は快を抱っこし、抱きしめた。ほんの数時間しか離れていなかったのに、ずい分久しぶりに抱きしめた気がした。
「よかった…!」
 杏奈は快の背中に手を置いて、ほぅと吐息した。
 快は沙羅に抱っこされて泣きながらも、左手に握りしめている何かを離そうとしなかった。今度は榊ではなかった。
「快ちゃん…何持ってるの?」
「ヒルさがりのジョニー」
 親子の傍でやれやれと腰を上げる順正に、前原は歩み寄る。
「驚いたな…柴崎さん…なんでここにいるんすか」
 話しかけられて、順正は初めて駆けつけている消防員が前原だと気づいた。
「お前か。…知らん。今日は山を登りたい気分だっただけだ」
「え、まじすか。意味が分かんないですけど」
「出勤日なのか」
 順正は意地の悪い笑いを浮かべる。
「彼女と祭りにも行けず…運が良いな。いろいろと」
「ええ。ほんとラッキーですよ」
 ぼそぼそと皮肉を言い合う二人から少し離れたところで、瑠璃子は、まだ登山口の向こうをじっと見つめていた。快の帰還から少し間を開けて、とうとう万里子も戻ってきた。
「ママ!」
 万里子は羽沼の背中の上で、体をぐっと上げ、身を前に乗り出した。六歳児を背負って何十分も山道を下っている羽沼の身体が、ぐらりと揺れた。
 順正はザックのストラップを調整しながら、ふと登山道を見上げた。
「気をつけろ」
 こういう時が、一番危ないのだ。
「うッ…」
 言わないことではない。羽沼は石を踏んで足関節が捻じれ、万里子をおんぶしたまま横倒れに倒れてしまった。
「あっ!」
 瑠璃子と前原が駆け寄った。
「だいじょうぶ?はぬま」
 万里子は母親に駆け寄る前に、転倒した羽沼の身を案じた。
「掴まれますか」
 前原に助け起こされて、羽沼はなんとか立ち上がったが、完全に足首を捻挫した。
 前原は応急処置の道具を取りに行くため、その場を去り、入れ違いに小須賀が羽沼に歩み寄った。
「お疲れ」
「ああ…よかった。大事にならなくて」
「万里子、大丈夫なの?」
 瑠璃子は傘を放り、万里子にこっちを向かせた。杏奈は走り寄って傘を拾い、瑠璃子と万里子の上にかざす。
 万里子は、お尻より下が泥まみれになっていたし、手のひらをちょっとすりむいていた。
 唇を震わせながら自分を凝視する母親の顔を、万里子は見ることができなかった。その代わり、少し離れたところで沙羅にしがみついて泣いている快を見た。
「あ、あのね…ママ。まりこがさそったの」
 万里子の声は、沙羅にも聞こえていた。
「だからね、えと…ココちゃんのことはしからないで」
「万里子が誘った…?」
「うん…」
「どうして?」
 瑠璃子は、安堵する間もなく、今度は怒ろうとしている。
「ちょっと待って」
 羽沼は足を引きずりつつ後ろの二人に近寄った。瑠璃子と万里子の間に割り込むようにして、
「…しからないでください」
 羽沼があまりにも必死に万里子をかばうので、瑠璃子は口を開いたまま、二の句を継げなくなった。
「…事情は今度、ぼくが説明しますから」
─事情?
 瑠璃子は混乱した。今回のことは、子供の突発的な行動ではなく、こうしなければならない事情があったというのだろうか。
「あの~、お取込み中のところ悪いんですけど…」
 小柳がかすれた声で言った。
「これで、迷子になってたお子さんは全員保護できたってことでいいですか?そしたらちょっと、事情を聞かせてほしいんですけど」
 特に小柳は、羽沼のほうを見て言った。
「今、ちょっといいですか?事情を…」
 プルルルッ
「あ、失礼…」
 小柳は独り芝居するかのような滑稽なしぐさで、スマホを取り出し、電話に出た。
「なに、親父。今勤務中…え?なに?えどーいうこと?揉み消せって…?」
 電話をかけてきたのは、柳らしい。
「前原」
「はい?」
 ちょうど応急処置の道具を持って来た前原は、順正に呼ばれて、顔を彼のほうへ向けた。
「お前も、ここに出動したことはなかったことにしろ」
「は?」
 捜索願に対する費用は公費で賄われるのだが、後の処理や手続きが発生するのは面倒だ。順正は一刻も早く休みたかった。
「揉み消せ」
「揉み消せって…はぁ…」
 前原は頭を垂れた。

 かくして、万里子、快の遭難事件は落着した。
 神社側も一安心して、捜索のために残っていた者も帰宅の準備を始めた。
 大鐘と久保は抱き合いながら泣いて喜んだ。
「よかった…!」
「よかったわ…!でもだからってあなたとは意気投合しないわよ」
 大鐘はこんな時でも一言多い。
 あかつきのメンバーと瑠璃子たち母娘は車であかつきに戻り、羽沼は小須賀の車で、休日診療可能な病院まで向かった。
「た、大変だ…!大変だ…!」
 ぐう爺は神社裏の自宅に戻って、すぐに食事の準備をするよう、嫁を急かしていた。
 順正からシャワーを貸してほしいと言われ、是が非でもと受け入れたぐう爺は、やれ装備の手入れを、食事をと、頼まれもしないことまで世話を焼こうとしている。
「じいさん、ほっとけばいいがや。はー、もうとんだとばっちりだったで」
 神主はどかっとソファに座ってくつろいだ。
「それから、あの若先生に、そろそろ関係者用の駐車場使うの止めてくれん?って言っとかんと…」
 ぐう爺の命の恩人といえど、その恩返しもそろそろ終わりだろう。
 しかし、ぐう爺の姿は居間にはすでになかった。
「聞いとらんよ」
 ずず…と味噌汁の味噌の塩梅を見ながら、栗原夫人はあっさりと言い放った。
 他に何か準備するものはあるかと廊下でワタワタしていたぐう爺は、風呂場にいる順正から呼ばれ、
「失礼しますっ」
 と言いつつ中に入ると同時に、目を見張った。風呂から上がって、上半身裸のままの順正が、鏡に映るぐう爺を見た。ぐう爺は息を呑んで、思わず扉に張り付く。
「ティーシャツかなにか貸してくれ」
 ズボンはそうでもないが、シャツの方は大雨の中の山行で、汚れてしまった。
「はっはい!」
 ぐう爺は勝手に息子の部屋に行くと、よさげなティーシャツを探し出して、風呂場に持って行った。自分の服は小さすぎるが、息子はがたいがよく、太っているので、体格の良い順正が着れそうなものがなんとか見つかった。
 順正はドライヤーのプラグを引き抜くと、それをぐう爺に押し付けた。
「南天丸を乾かしてやってほしい」
 風呂に入る前に、南天丸を軒先で洗い、タオルドライして玄関に入れてやったのだが、まだ完全に乾ききってはいない。
「はっはい!」
 ぐう爺は延長コードを引っ張り、玄関で南天丸にドライヤーを当てながら、先ほど見た光景を思い出していた。
─はぁ。これであと五年は寿命が延びたわ。
 順正は風呂から上げると、急に眠気がした。栗原夫人が食事を用意してくれているらしいが、それは後回しにして、とにかく短時間でも眠りたい。
「…ん?」
 ぐう爺が押し活をしている男が、居間を無遠慮に横切ってきた。神主は目を丸くして、事態が読み込めずにソファに座ったままあたふたした。夫人はトントンと一定のリズムで何かを刻んでいる。
「宮司」
 忠犬のように付き従っていたぐう爺に、順正は低い声で、
「八時に起こせ」
 と言うや否や、どかっとソファに横になり、そのまますぐに寝てしまった。
「え?ちょっと待て。これおれの服じゃん」
 神主は口をぽかんと開け、順正の寝顔を至福の表情で眺めるぐう爺を睨んだ。
 あかつきでは─。
 子供たちとその親から先に、次々と檜風呂に入った。
 子供たち、特に万里子は、下着までずぶ濡れになっていて、美津子が調達してくれた新しい下着と服を着ることになった。
 どうやら、面倒なことにならないよう、柳が息子に口添えするよう図ったのも、美津子だったようだ。
 風呂から出た者から、美津子と莉子が作った炊き込みご飯と、味噌汁でお腹を満たす。
「はぬま、まだかえってこないの?」
 万里子に訊かれて、瑠璃子は首を傾げた。病院で手当てをしたら、あかつきには帰らず、そのまま家に帰るかもしれなかった。
「蓮くんと莉子ちゃんは、親御さんたちには電話した?」
「はい」
 蓮と莉子は口々に答えた。
 順正に電話をしても出ないので、美津子が栗原家に電話をすると、珍しく、順正は疲れて眠りこけているらしい。
 美津子は蓮と莉子を、車で家まで送った。
 車の中で、莉子は今までにはなかった、不思議な感覚に浸っていた。
─雨に濡れるのは、男の役目でいいんだよ。
 あの時、蓮に女扱いされた。
 女扱いされるのが嬉しいと思った自分が、不思議だった。

 

 


 

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