第88話「専門性」アーユルヴェーダ小説HEALERS

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 十一月に滞在するクライアントとの事前コンサルテーションは、九月後半から始まった。
 最も早い段階で予約を入れていた千晶のコンサルは、沙羅が担当することになった。沙羅がメインでコンサルを担当するのは、これが初めてである。
「千晶さんにお送りする健康日記のフォーマットを、クラウドに上げておきました」
 杏奈はこれからオンラインにてコンサルに臨む沙羅に、そう告げた。
「ありがとうございます」
 沙羅は、幾分緊張しているようである。美津子も同席し、コンサルの様子を見守る。
 結局、スリーデイズライヴの最終日には、深夜にも十一月の滞在予約が入った。その日の時点では、「悩んでます」というお問い合わせもあり、メールでのやり取りの後、なんとか成約したものもある。
 最終的に、十組十三名の受け入れをすることとなった。
 この数字には、あかつき大作戦を全く知らずに、一泊二日の予約を入れている夫婦も含まれている。予約はなぜか重なるもの。
 ともかくも、あかつき大作戦は、集客上は成功した、と言って良かった。
 しかし…
「十一月上旬から中旬は、ほぼ休みがないわ」
 コンサルが始まるのを待っている間、スケジュールを見ながら、美津子は苦笑いを浮かべた。
 空席の見せ方を工夫することで滞在日程が重なるようにし、なんとか休日を作った。が、十一月二十日まで、だれもあかつきに滞在していないという日は、中飛びで二日しかない。
「特に初っ端が厚いですね」
 二人相部屋で、四人が滞在する日が連続する。いかに空楽が加わったとて、セラピストの余裕はない。この寒くなる時期に、沙羅の娘たちが風邪でも引いたら、一瞬で頓挫する計画に思えた。
 そして、滞在前の準備─事前コンサルによる、クライアントの状況把握─も、一苦労だ。
「私は、二人だけでいいんでしょうか?」
 質問票を用いてのコンサルテーションが必要になるのは、十人。美津子、杏奈、沙羅の三人が、それぞれ誰を担当するかはまだ決まっていない。しかし、沙羅はコンサルが初めてであるのと、セラピスト業務がメインになること、また家庭の事情を鑑みて、担当するのは千晶の他にもう一人だけ、としている。
 クライアントの担当になれば、事前コンサル、施術の方針と生活指導案の作成、健康日記のチェック、ラインのやり取りなど、様々な業務が発生する。もちろん、担当者しか見ないというわけではないが、基本的には担当者がその役割を担う。
 美津子は頷いた。
「その代わり、他の業務を手伝ってもらう」
 残り八人は、美津子と杏奈で分担する。どちらが誰を担当するかは、質問票の内容を見て決める。
「あ、千晶さん入ってきましたね」
 緊張した面持ちで、沙羅は入室許可ボタンをクリックした。

「おお、シャキシャキしてておいしい」
 シンプルなマコモダケの炒め物。初めて扱う食材に興味が湧き、小須賀は出来上がったものをすぐに味見した。
「いろんなのに使えそうだね。それこそ、パスタに使えそう」
「ペペロンチーノとかいけそうですね」
 空楽も少し味見しながら、淡々と言った。
「杏奈さんも味見します?」
「いえ…私は、最後にまとめて味見をします」
 ちょこちょこ味見することは、だらだら食いと一緒で、アグニを弱める。
 小須賀は、いつものことながらやれやれという表情で、
「これだから、アーユルヴェーダオタクの堅物は」
 調理担当であれば、味見は必須であるのに。
 九月の最終土曜。三人で、足込温泉への弁当づくりをする。
 空楽は業務委託契約上、調理を担当をすることにはなっていない。それなのに、弁当作りの日には毎回顔を出した。
「これから十二月まで、毎週弁当作りになるんだから。美津子さんに言って、ちゃんとお金もらわないとだめだよ」
 これから秋の行楽シーズンに入る。紅葉を見に来た客や、キャンプ客、登山客などが増えるため、この時期には足込温泉に弁当を納品する頻度が上がるのである。
「はーい」
 空楽は生返事して、カリフラワーを細かく切っている。
─この子に言っても仕方ないから、代わりに美津子さんに掛け合っといてよ。
 言葉には出していないが、こちらに向けられた視線で、杏奈は小須賀の心の声を察する。
「大丈夫なのか?十一月は…」
 クライアントが大勢やって来るのに加えて、毎週の弁当づくり。いっそ、足込温泉に毎週の弁当納品は無理だと言うべきだろうか。
「イタリアン料理店に比べれば、あかつきは暇だって言ってたじゃないですかー」
「ま、そうなんだけど」
 のらりくらりとできなくなるのが、面倒だと思っているだけだった。忙しいあかつきには、慣れていない。
「あかつき大作戦、大成功でしたね」
「鞍馬さんのおかげです」
 大変なのはこれからなのだが…と思いながら、杏奈は答えた。
「鞍馬さんはカリスマ性があって羨ましいです…」
 鞍馬のライヴの後は特に、視聴者の反応が良かった。それはとても嬉しいことなのだけれど、杏奈は少し落ち込んだ。どれだけ言葉を練り、画像を工夫して、戦略的に発信しようと、鞍馬が良いパフォーマンスをすることには叶わない。
「カリスマ性ないもんね、杏奈は」
 小須賀の一言が、胸に刺さる。悔しいが、本当のことだった。
「…私は愚直なことしかできませんから」
「そうだね」
 もう少し否定してくれてもいいものを。
 小須賀は、しかし、作業する手を止めて、まっすぐに杏奈を見やった。
「その愚直さが、杏奈のいいところじゃん」
 空楽は、手を止めて、二人を代わる代わる見つめた。
 飄々として、おどけた物言いをするのが、小須賀の常。しかし、時々(本当に時々)、今のように真剣な目をして話をすることがあった。そういう時の小須賀の言葉は、真意を突いていると、空楽は思う。
「…」
 杏奈は、戸惑った表情で、手元に視線を置いていた。小須賀から肯定されたのか、やっぱりバカにされているのか分からない。
「…この前の鞍馬さんは、確かに、キラキラしてましたね」
 空楽は、二人の間に流れる微妙な沈黙を破るように言った。
 小須賀は、ぱっといつもの雰囲気に戻って、
「だめだよ、空楽。見た目に騙されちゃ」
「別に騙されてません」
 感想を言っただけである。
 小須賀は空楽との間合いを詰めて、
「あいつは腹黒い。もっと誠実な男のほうがいいよ」
「はあ…誠実な男ですか」
「うん。灯台下暗しって言うから、よく見れば、身近にもっといい男はいるって」
 杏奈は吹き出しそうになった。灯台下暗しなどという言葉を使うのが意外だった。
 それよりも、仕事中に口説かないでほしいのだが…
「でも私、男探してませんから」
 しかし、空楽はバサッと小須賀の口説き文句を斬り捨てた。
「え…?」
「彼氏いるし。私。たぶん」
「…え?」
 小須賀は目を見開いて、なぜか杏奈を振り返った。インスタを見せてもらった時、やけに一緒に写っている男の人がいたなあと思いながら、杏奈は首を傾げた。
「彼氏、いるの?」
「うーん…います」
 空楽はそう言ったが、どこか釈然としなかった。
 小須賀は少し、後ろによろめいた。

「蓮、起きてる?」
 早朝、すみれは蓮の部屋の前で声をかけた。
 外岩に行く約束をしていた蓮は、早起きして準備をしているところだったが、母親から呼ばれて扉を開けた。
「職場の人が熱出しちゃって…今日どうしても、シフトを変わらないといけないの」
 すみれは、うめのことを心配しているのである。
 蓮は動揺した。外岩に行けば、家に帰るのは午後、夕方近くになるだろう。それまで足が不自由で、認知症を患っているうめの様子を看る者がいない。
「…」
 蓮は、眉根に皺を寄せた。
「介護ヘルパーさんに電話したら、今日は十一時からなら、看に来られるって」
 それまで家にいられないか…
 蓮は、手に持っていたタオルを、ベッドに投げつけるように放った。
「ヘルパーだって、ずっといられるわけじゃないだろ」
 お金もかかることだ。
「ごめん。でも、代わりに入れる人がいないの」
 すみれは、仕事に行くと言い出したら、絶対に引かない。一人で家計を支えているので、その緊張感もあるのだろうが、もともと仕事熱心な看護師だ。
 蓮とて、自分が遊びに行きたいから仕事に行くな、などと言うつもりはなかった。
 それでも、腹が立つのをどうしようもない。祖母の見守りのために、楽しみにしていた予定をキャンセルしなければならないなんて。
「分かってるよッ」
 蓮は怒った声を出し、荒々しい音を立てて扉を閉めた。
 家に居ても、ほとんど寝たきりのうめの相手をすることはない。しかし、オムツ替えと、食事の世話、ただ単に見守りをする人が必要だった。
「珍しいっすね…蓮がドタキャンなんて」
 任意の課題の前で命綱を繋ぎながら、前原はビレイパートナーである順正に言った。
 二人は早朝から、クライミングをしに鳳来に来ている。本当は蓮も一緒に来るはずだった。しかし、家庭の事情とやらで行けなくなったと、早朝に連絡があった。
「混んでますねぇ、今日」
 気候が良くなってきて、外岩にも登りやすくなった。もう少し季節が進めば、紅葉の名所として名高い鳳来寺山に登る登山者も増えるだろう。
 鳳来は国内のビッグエリアのなかでも新しいもののひとつ。一時は入山禁止問題もあったが、現在は落ち着いている。しかし、多くの守らなければならないマナーがあった。
 ウォームアップ(岩の名前)は他のクライマーが登っていたため、二人はアーリーモーニングライト・ウォールで、やや易しい課題を登り、ウォーミングアップすることにした。
「蓮に登らせるなら、このくらいの課題がちょうど良かったかもしれませんね」
「ああ」
 ボルダリングとリードクライミングでは、グレードの換算が単純にはできない。しかし、四級から三級のボルダー課題を登っている蓮には、この「めばえ」という課題はちょうど良さそうに思えた。
 最初に前原が登り、順正がビレイをした。若干悪い箇所があるが、その後はガバだ。前原は久しぶりの外岩なので、岩の感触を確認しながら、慎重に登る。ボルトにクイックドローを掛け、ロープをカラビナに通しながら、するすると登った。終了点に着くと、クイックドローを掛け、それを使ってロワーダウンする。
 前原と交代し、順正も登る。夏の間は暑くて登れない。順正も外岩は久々だった。登りきると、降りながらクイックドローを回収していく。トラバース気味なので、少し回収が面倒であった。
「隣の課題はいつも混んでますね」
 ロープをほどきながら、前原は隣の集団を眺めた。男女混ぜこぜのグループで、その中の一人の男性が、隣の課題「鬼岩入門」に取り組んでいた。「めばえ」よりも高難度だが、比較的登りやすいルートで、アップやクールダウンで混んでいることが多い。
 二人はウォーミングアップを追えると、さっそく難易度のある課題に取り組んだ。最初はALLERという、5.12c(グレード)の課題。
「登れるかな…」
 また、前原が先行。地面が近くて、ちょっと怖い課題だ。
「12cにしては易し目じゃなかったか」
「ええ。オブザベ通りに登れた気がします」
 前にも登ったことがある課題だ。一度テンションを張ったが、その後は止まらずに登り切る。
 そしてまた、交代。
 隣で登っているグループの女たちが、ちらちらと前原と順正のペアを見て、ひそひそと何か囁き合っている。
「そんなに長くないのに、持久力がいりますね」
「そうか」
 順正は短く答えて、初手に触れる。
 ジムにあまり通えない自分と比べて、前原は週三程度の頻度でジムで登っている。その前原がテンションを張ったのだから、自分もそうなるだろうと思っていたが、なんとか登り切った。
─いかんな。
 クイックドローを回収し、岩についたチョークを軽くクーリングしながら、順正は思った。
 もう少し、まめにジムに通うべきか。最近は、ただ山に登り、森の中でゆっくりしているのが心地良くて、つい怠けてしまった。
 地面に着地すると、ハーネスに引っ掛けたたくさんのクイックドローがジャラジャラと揺れる。
 隣のグループの女性たちは、ロープをほどいている順正にやたらと視線を向けた。無理もない、と前原は思う。綺麗な顔立ちには不釣り合いなほど、体格の良い順正がクイックドローをジャラジャラいわせてロープワークをする様は、いかにも女子の心をくすぐる。
「柴崎さん、なんで普段登ってないのに、オンサイトなんすか」
「山には登ってる」
「そういうことじゃなくて」
 ずるいなあと思った。順正は前原よりも上背が高いのもあるが、他にも何かからくりがあるのか。
「いったいどんな筋トレしてるんすか」
「ふん」
 順正の返事は回答になっていない。
 やれやれと思いながら、前原はロープをゴザの上に集めた。
「次、どれやりますか?」
 順正はあたりを見回した。鬼岩入門を登っているグループとより近くなるのは気に入らなかったが、
「枯れ木のフェースにするか」
「また、持久系っすね…」
 長い課題だ。しかも、今登ったALLERより一つグレードが高い、5.12dの課題。
─ストイックだな、相変わらず…。
 しかし、前原は断ることなく、順正と一緒に移動した。すぐには登らず、休みながらルート考察をする。
 今度は順正から登った。
 「禁断のセプテンバー」と途中まではルートが一緒。ホールド自体はそんなに悪くないが、長いので消耗してしまう。順正は核心部で落ちた。少し休んで、最後まで登る。
「おしいっすね」
 ジム通いしていれば、もう少し持久力がもったかもしれない。
 少し休んでから、前原のビレイをした。
「あの課題、どのくらいのグレード?」
「5.12d」
「それって、どのくらいのレベル感なの?」
「そうだなぁ…クライミングを三年以上、週三くらいでジム通いして、かつ体格と運動神経が良くて、努力を惜しまずクライミングを楽しんだら到達できるってレベルかな」
─長い。
 順正は、隣のグループの男女の問答に、心の中でつっこんだ。聞きたくもないが、近くにいるので耳に入ってくるのである。

 二人は「枯れ木のフェース」を終えると、別の岩場に移った。
 ハイカラ岩と呼ばれる岩場。高難度ルートばかりなので、初級者はここへは来ない。
 先客はいなかった。
 移動してからも、しばらくは登らず、休みつつルート考察をする。
「柴崎さん。おれ、結婚することにしました」
 ふいに、遠慮がちに顔を背けながら、前原が言った。
「そうか」
 順正はそれにも、短く答えた。
 前原は、ハイウォールに通っている歯科衛生士・遥香と付き合っていたが、最近プロポーズした。ジムの中の何人にかは言ってある。順正には、伝えようかどうか迷ったのだが…
「そのうち、今までほど自由には、外岩にも来られなくなるかもしれません」
 それを伝えておきたかったのだ。遥香はボルダリングはしているが、室内クライマーであって、外岩は怖いと言って来たがらない。
「熱心にジム通いしているのに、もったいないことだな」
 順正からしてみれば、ジムは外岩に登るための練習場であって、外岩に登れなければ意味がない。
「コンディションを整えるのにも、注意を払っていただろうに」
 前原は消防士。夜勤のあるシフト勤務だが、空いている時にはだいたいハイウォールに行っていた。それも、外岩に登るためのコンディションを整えるためだ。
「まあ、そうですね…」
 クライミングをする上で、健康管理は大事だ。前原は不規則な生活での中でも、体を鍛える時間を取っていたし、食事も、特に夕食には気を遣っていた。
「最近は夕食、豆腐がメインっすよ」
「豆腐か…」
「ええ。食べてるのも豆腐、メンタルも豆腐」
 順正は首を傾げた。
「…そうは思わんが」
「はは…奥さん、結構しっかりしてるんで、尻に敷かれそうです」
 順正は、少し顔を綻ばせただけだった。のろけたと思われただろうかと、前原は少し気になった。
「…柴崎さんは、付き合ってる女性とかいないんすか?」
 普段そんなことを訊かない前原がそう尋ねたのは、照れ隠しかもしれなかった。
「…おらんな」
「まじすか。そんなにルックスいいのに」
 と言いながら、前原は触れてはいけないことに触れていたらどうしようと、ちょっと心配になった。
 ルックスのリードがあるのにも関わらず彼女がいないのは、性格上の問題なのか、性的嗜好が関わっているのか。いずれにせよ、ちょっと健全ではない気がした。
「…ちなみに、女性と付き合ったことあるんですか?」
 順正は少しの間、沈黙した。もうその顔には笑みは浮かんでいなかった。
「…あれをあると言っていいのか…健全なお付き合いはしたことがないよ」
─え…!
 めちゃくちゃ気になる。しかし、前原はそれ以上踏み込むほどの勇気はなかった。
 順正は苦い記憶を思い出した。
 十代の頃から、あまり浮ついたことに興味を向けることもなかったが、医学部生の頃、
─女の子たちと遊ばない?
 と仲間たちから誘われた。
─柴崎が来るって知ったら、きっとハイレベルな子たちが集まるからさ。
 遊ぶといっても、ただ宅飲みのようなことをしただけ。その中の一人が、妙に自分を気に入って、甘えて来た。周りに煽られ、その女の下宿先に二人きりになると、順正はそこで初めて行為に及んだ。
 ただ単に、経験のため。
 もちろん、避妊をしようとした。しかし、その女はなぜか、避妊はしなくて良いと言った。月経周期を訊くと、安全日だという。順正は面倒くさくなり、そこはひとまず納得したフリをした。実際には避妊をした。にも関わらず、その後、背筋が凍るような心地がした。
─たった、これだけのことで。
 一つ間違えただけで、大きな問題になりうるなど…
 自分の分別のない行為の結果、他者の人生を百八十度捻じ曲げてしまうことがある。順正はそのことを、嫌でも思い出した。
 けれども、若い時は、欲望が抑えられなかった。女と付き合うことは、簡単なことだった。だが、関係を持続させるのは、ひどく困難なことだと知った。女たちはまめなやり取りを従ったし、いわゆる付き合っている時にするイベントを求め、デートの時の順正の寡黙ぶりに気を損ねるか、つまらないと言い出したりした。順正は順正で、欲望を満たすことはしても、付き合っている女と四六時中一緒にいたいなどとは思わなかった。誰もが「はまっていない」ように思った。だから彼女たちが自然と離れていくと清々したが、自分からは離れていかない女に対しては、面倒臭そうな節が見えるとすぐに音信不通にしてやった。
 行為が終わると襲ってくるのは自己嫌悪ばかりだし、それ以外の付き合いを成立させるのもひどく面倒だったが、若い頃はそれでも色々な女と関係を持った。遊んでいると悪友からチクチク言われることもあったが、気にしなかった。その時代に関わっていた人の中で、今も関係が続いている者は、男も女も一人もいない。
「医者になってから、さっぱりだな」
 研修医から医師になると、仕事と勉強に追われて女と遊ぶこともなくなっていった。そうなると、少し極端なところのある順正は、一向に女に意識を向けなくなった。松下クリニックの医員になるまで、息つく暇もないほど忙しい日々が続いたが、それでも、適当に女と関係を持っていた頃に比べれば、ずっと気持ちは安定していた。
「やっぱり、仕事的にきついんですね…こうして休みを好き勝手に過ごすこともできなくなるでしょうし」
 前原が尋ねたが、順正はなんのことか分からないという顔をする。
「女性と付き合わない理由ですよ」
 順正は視線を岩場に向けて、自分でも考えてみたが、考えが及ばぬまま、首をひねった。
 前原は、一人で納得したように頷いて、
「柴崎さん、スペック高そうっすもんね…」
 家事も卒なくこなしていそうだし、家庭を持ちながら仕事をすることだって、できそうに見えた。
 それでも女性と付き合わないということは、やはり、多くの人とは違う趣向か、あるいはここで聞くには重すぎる事情があるのか。
 順正は沈黙した。自分でもよく分かっていないのか、そもそも深い理由などないのか。
「職業柄っすかね」
 産婦人科で、ポジティヴなものだけではない、ありとあらゆる人間ドラマを見ているはず。それだけでお腹がいっぱいになってしまったのか、面倒くさいと思ってしまったのか、稀なケースであるとしても誰かが経験する可能性のある、重すぎる現実を見たからなのか。
 前原は勝手な推測を広げた。
 そもそも、順正はなぜ産婦人科医などやっているのだろう。母親と子供を救いたい。命の誕生に立ち会いたい。そんな風に思う柄には見えないのだが。
「いや、意識がそこに向かんのだ…」
 順正は考えた結果、ようやくそう言った。
「仕事はそこそこ忙しいけど、それまでに比べたら知れてる。でも暇を見つけると、山に行きたいと思ってしまって…」
「ははは。じゃあ、そろそろその余裕を女性に向けなきゃですね」
「…そうしたいと思えばな」
 順正はそう言うと、ほんの少しだけ口元を緩めた。
 年齢的にも状況的にも良いタイミングだからといって、必要性もないのに誰かと付き合いたいとは思えない順正だった。
「そういう日が来るんですかねぇ」
「さあ…おれは一人でいるのが好きだし」
「ふっ…まあ、分かりますよ」
 前原は控えめに言って笑った。前原にも気持ちは分かる。クライマーというのは基本的に、そういう気質の者が多いかもしれなかった。
「すみません。変なこと聞きましたね」
 前原は、話を締めくくった。
「登りましょうか」
 5.12bの課題「たぶんだいじょうぶでショウ」。
 ガバ系。ハイカラ岩の中でも、簡単な方の課題だ。
 この名前の由来は、壊れそうなフレークが「たぶんだいじょうぶ…」ということだと聞いている。が、登ってみると、ボルトのほうが、「たぶんだいじょうぶ…」ではない気もした。
※鳳来の実際のルートを参考にしておりますが、情報の正確性は保証できませんので、ご了承ください。

 大分涼しくなった。
 自然の力強い変化を感じたら、人間の身体の内部でも変化が起きる。季節の変わり目は、気候・気温が変化しやすい。
 十月になると、ますます自然界に空と風の要素が増え、ヴァータが増加し、乾、荒、冷の性質として現れる。皮膚や粘膜が乾燥する、咳が出る、便秘、湿疹、不眠症、神経系の乱れなど、ヴァータ性の不調を覚えるかもしれない。免疫力が弱いと、季節の変わり目のこの時期に風邪を引くこともある。
 屋外が寒くなると、家の中が暖かく感じ、屋内にいる時間が長くなる。これと歩調を合わせ、意識も内に向かいやすくなる。
 が、もともと気持ちが塞ぎやすい人間には、意識を外側に向けさせた方が良いのかもしれない。
 鞍馬は、一か月ぶりにあかつきにやってきた、躁鬱気味の中学校教諭(現在は休職中)・山本に、ヨガの個人レッスンを行った。
「はあ~今日も辛気臭かったな、あの客」
 書斎のソファにどかっと座りながら、鞍馬は独りごちた。そんな鞍馬のぼやきを、ホールにて聞いていた者がいる。
「鞍馬さん、こないだと雰囲気ちがいすぎ」
 空楽が両腕を組んで、そこに立っていた。あかつきの正装をしている空楽を、鞍馬は初めて見た。
「あ、こんちは」
「こんにちは」
 今更のように、二人は挨拶をする。
 今日の鞍馬は、スリーデイズライヴの二日目の装いとは異なっていた。むしろ、あの時がイレギュラーであったが。長袖のティーシャツに、灰色の半ズボンという、普通の恰好。髪はただ梳かしただけという風に見えた。
「上で研修してたの?」
 空楽は頷いて、
「昼食一緒に食べますか?って、杏奈さんが」
 鞍馬は気が向かなかったが、存外にお腹が減っている。
 山本は、今日はニ十分も遅れて来た。久しぶりの外出で、準備に手間取ったらしい。きっと外の世界に出ることに対し、心の抵抗があったのだろう。
「いただきます」
 鞍馬は立ち上がって、書斎を出た。空楽も後に続く。
 しかし、居間に入って応接間の方に視線を向けた途端、鞍馬は立ち止まった。急に立ち止まるので、空楽はあやうく、自分よりわずかに背が高い鞍馬の背中にぶつかりそうになった。
 応接間の所定の位置で、杏奈はパソコンに向かっていた。
「全然、昼食一緒に摂ろうって感じに見えないんだけど」
 小声で空楽に文句を言った。
─あー…完全に没頭してるわ。
 真剣な面持ちでタイピングしている。つい今しがた、杏奈はシロダーラの練習をしたばかりなのだが。きっと健康に関する質問票のチェックが溜まっていて、余裕がないのだろう。
 空楽があかつきにいる間、杏奈はいつだって仕事をしている。
「すみません、あと五分」
 それでも、杏奈は鞍馬と空楽の存在に気付いているようで、そう言うと一瞬だけこちらを向いた。邪魔になるといけないので、鞍馬と空楽は書斎へ戻った。
「今日はやけにお腹が空くなぁ」
 鞍馬はソファのアームレストに体側をもたげながら、窓の外を見やった。
「食欲の秋だからですか?」
「そういう関係?」
「冬の間暖かく過ごせるよう、体が断熱脂肪を構築しようとしているためこの時期は食欲が増す、らしいですよ」
「なにそれ。杏奈さんの受け売り?」
 鞍馬ははあと吐息した。
「断熱脂肪とか、冗談じゃない。太らないようしないと…」
「脂肪の層で皮膚を厚くすることも、免疫力を向上させるために必要なこと、らしいです」
 鞍馬は目を細めて、
「言行録でも取ってるわけ?」
「ずっと見てると、面白いんですよ、杏奈さん」
 空楽は声のボリュームを落としたものの、全く悪気はなさそうだった。
「おれにはまったく面白さが分かりませんがね」
「長い間一緒にいると、分かるようになってくるんです。地味にテンパってるところとか」
 特に最近は、シロダーラの練習がいかにうまくいかないかを、空楽に愚痴ることもある。なんでも、キーン、とか、コーン、とか、よく物音を立ててしまい、どうしても存在を消せないのだそうだ。しかし、その状況説明がなんとも下手な言い回しで、空楽が「こういう感じだったんですね」と意訳することもしばしば。
 空楽が最近のエピソードを語るが、鞍馬はますます、いかがわしそうに目を細めた。それのどこが面白いのだろう。
─この人もこの人で、よく分からない。
 この人とはもちろん、空楽のことだ。
「今度面白いとこ見つけたら、教えましょうか」
「いい」
 鞍馬はふるふると首を振った。ソファにもたれかかると、急に眠気に襲われた。
「ねむいな…」
「寒くなり日が短くなると、人間も冬眠したくなる。この欲求に逆らわず十分な休息を取るべき」
「…」
「らしいです」
「まだ続く?」
 空楽は悪戯っぽく顔を前に突き出して、ソファを立った。杏奈の代わりに、昼食の準備をするためだった。

「子供たちの前でパソコンに向かうのって、やっぱりよくないんでしょうか」
 斜め向かいに座っている沙羅から、ふいにそんなことを訊かれて、美津子は瞬きをした。
 杏奈は今、離れで新しいクライアントとの事前コンサルをしている。その間、沙羅は美津子から新しい仕事を教えてもらうところだった。
「どうして?」
 沙羅は事情を話した。
 十一月に滞在するクライアントへの特典の一つは、双方向のやり取りができる環境の提供。具体的には、グループラインにて質問や相談を受け付ける。あかつきからは、知識の提供、気付きを得させるための発信、参加者への質問を通した教育などを行う。参加は任意だったが、今のところ招待した全員が参加している。
 この環境をつくったねらいは、他者の質問から学んだり、他者の取り組みから参考にしたりする機会をつくること。毎日のようにあかつきからラインが飛んでくると、ウザがられるかなと思いきや、送ったラインはほぼその日のうちに全員既読になる。こちらからのアプローチが頻繁なので、クライアントたちも気を許したのか、思ったよりも高頻度で個別の質問がシェアされる。時間的には、夕方から夜に連絡があることが一番多かった。
「素早い返信が相手の満足度を高めるって分かってるので、返信しなきゃと思うのですが…」
 基本的に、自分が担当するクライアントからの質問は、担当者が返答することにしている。まだ担当が決まっていないクライアントに対しても、仮担当が決められ、回答している。
 杏奈や美津子からのレスの早さと差がつかないように、沙羅もラインが来たらすぐに返答しようとした。そうすると、リビングで何度もパソコンを開いては閉じ、仕事をしている姿を娘たちにさらすことになる。中には容易に返信できない質問もあるから、回答を練るのに時間がかかる。
「最初は、母親が仕事を頑張っている背中を見せることで、娘たちにかっこいいと思ってもらえたらいいなと思ってたんですが…」
 そんなの、見当はずれな母親の期待ではないかと感じてきた。
 娘たちは、遊びから中途半端に離脱されて、つまらない思いをしているだけではないか。娘たちが二人で遊んでくれていればいいのだが、沙羅にまとわりつくことも多く、仕事に集中できない。そうなると、その間録画や動画を見せることになるが、一度それを見せてもらうと、こっちのタイミングでもう一度おもちゃで遊ぼうと言っても、もうテレビに視線が釘づけだ。
「そうね…」
 美津子は口元に手を当てて、
「大人でも、同じ空間にいる人が仕事をしていると、関わり方に戸惑う場合があるくらいだからね」
 感染症以降、リモートワークが推進され、自宅で仕事をする人が多くなった。その時期、それによる家族間のコミュニケーションの問題が取り沙汰された。
 家で仕事をしている夫との折り合いがつかない妻。
 親がいるのに遊んでもらえないという状況を、理解できない子供。
「きちんと子供の目を見て、説明をすることは大事だと思うわ」
 問題は、沙羅が仕事している時としていない時の境界が分かりにくいということである。
「リビングやダイニングの中で、ワーキングスペースはここ、ここに座っている時は仕事をしているのだということを、知らせておくといいわね」
「じゃ、子供の前で多少は仕事をしても、問題ないでしょうか」
「そうせざるを得ない時もあるでしょう」
 ゼロか十かという問題ではない。
「でも、なるべく時間を決めたほうがいいわね」
 でないと、沙羅のほうが、仕事と育児に引き裂かれて、ストレスを抱くようになるだろう。
「ラインでの応答時間を決めるわ」
 自分たちも、その時間にしか応答しない。美津子は、その方が杏奈にとっても良いと思った。
「ありがとうございます」
 沙羅はほっと溜息をついた。
「それにしても、毎日健康日記をチェックするのも大変ですね」
 前にはやっていなかったことだ。
 確かに、健康日記をつけてもらうことで、実際何を食べているのか知ることができるし、起床・就寝の時間やそのばらつき、精神的な傾向なども把握できる。質問票からは読み取れないクライアントのリアルな状況が分かる。
「まだ一人分のチェックしかしていないのに…美津子さんと杏奈さんは、あと八人に対して、滞在が終わるまでずっとこれをするんですよね」
「…そうね」
「これって、やっぱりそうするだけの価値があるのでしょうか」
 それについては、美津子は杏奈と議論をして、現状、やったほうがクライアントの気持ちが前向きになるという結論に達している。
「クライアントが、あかつきに滞在しようと思った最初の意図に、なるべく頻繁に意識を向けることは重要なの」
 普段の生活の中で、自分が何を選択し、どういう変化を起こすべきか、立ち戻ることができる。
「タッチポイントが多いほど、クライアントがそこに意識を向けやすいわ」
 学ぶことも重要だが、なによりも意識が上がる。そして、来る前からあかつきを信頼してもらうことにつながる。
「どんなに良い施術や食事を提供したとしても、クライアントの信頼がなければ、効果が出にくいからね」
 沙羅は納得したように頷いた。
「じゃあ、これからのことをお話するわね」
 美津子は本題に入った。
 あかつき大作戦により、十一月にクライアントが集中したが、この盛り上がりが十一月で終わりにならないよう、次の手を打つ必要がある。
「とはいえ、十一月はクライアントの対応で、おそらく私と杏奈はいっぱいいっぱいだ」
 そこで、次の企画を、沙羅に考えてほしい。
「十二月末から一月は、予約が入りやすい。ここを盛り上げていけるよう、何か手を打ってほしいの」
 沙羅は目を見開いた。企画を任されることになろうとは思っていなかった。あかつき大作戦がこんなに集客上の成功を見せた後で、荷が重い気がする。
「今回と同じ規模で人を呼ぶ必要はない」
 美津子は笑った。
「こんなの、毎月やってたら、耐えられないわ」
 滞在を促す企画でなくとも、キッチャリークレンズのようなオンラインでの企画でも良い。
「…やってみます」
 二人はそれから、具体的にどんなことができそうか、どのようなアプローチを打っていくか、SNS上の発信内容をどうしていくべきかなど、ざっくばらんに案を出した。
 集客に関しては、最近は美津子よりも杏奈や羽沼の方が、コツを捉えている。沙羅一人でやるのではなく、みんなに相談せよと、美津子は言った。
「沙羅」
 不安と希望を混在させた目でノートを見ている沙羅に、最後に美津子は言った。
「仕事をしつつも、母親業を楽しむ心のスペースを、持っていなさいね」
 沙羅は美津子の目を見つつ、瞬きをした。
「それが難しいことは、分かっているわ」
 それでも、自分の中の女性性を忘れてはならない。
「あなたの仕事の仕方は、あかつきの他のスタッフや、クライアントにも、気付きを与えてくれると思うの」
「私の仕事の仕方が、みんなに気づきを…」
 そんなことを言われるとは、思わなかった。
 杏奈のように熱心に仕事をして、最短最速で、結果を出す。その姿にこそ、みんなのやる気が鼓舞される。あかつきを活気づけるのに最も寄与した者が、もっとも周囲に気づきを与えられると、無意識のうちに思っていたのだが。
─バランスを取るために、敢えて、やることを制限するという選択も、必要なのよ。
 美津子は、心の中でそう言った。
 沙羅は美津子の言葉を理解しようと、思案顔になって黙りこくっている。そんな沙羅を見て、美津子は穏やかに微笑を浮かべた。

 すべてのクライアントの質問票が上がってくると、杏奈と美津子とで、担当を振り分けた。
「アーユルヴェーダやヨガを仕事にしている人も多いな」
 おそらく、自身の学びや、経験のために滞在を決めたのだろう。そうしたクライアントは、不調があるといっても極めて初期段階の小さな不調で、どちらかといえば、学びに期待を寄せている。
 あかつきに滞在したことのある、優香、仁美も、十一月の連休を利用してリピートしてくれる。二人は、今は事業をしていないが、今後健康に関する何かしらの事業を始めたいと希望している。
「この、菜奈さんっていう方なんですけど…」
 杏奈はカレンダーの一番上の方を見る。
「インスタでも、いつもシェアしてくれるし、ライヴでもコメントをよくくれる方なんです」
 けれど、質問票を見たら、特段大きな心身の悩みはなかった。滞在目的は「リフレッシュする!」。
「こういうクライアントさんも、いらっしゃるんですね…」
 アーユルヴェーダは、元気な人がさらに元気になることにもメソッドをもつので、おかしくはないのだが。ここにくるクライアントは、何かしらの不調を持っていることが多かった。
「この方には、完全にファン化ができているのでしょうね」
 それ以外のクライアントは、質問票を見るに、悩みのカテゴリによって分類することができそうだった。悩みは一つではないので、あくまで最もクライアントが気にしている悩みによって…という意味だが。
「千晶さんは腎臓結石があり、糖尿病予備軍。咲子さんは不妊。あとは主に…心の問題ね」
 杏奈はカレンダーを眺め、そこに書かれているクライアントの名前を指でなぞった。美津子はそんな杏奈の顔を見ながら、
「専門性を高めていってもいいのかもしれないな」
「え…?」
 杏奈は顔を上げる。
「スリランカのドクターたちにも、専門性があった」
 生活習慣病を専門とするドクター。
 関節の問題や骨格系へのアプローチを得意とするドクター。
 婦人科系の疾患に明るいドクター。
 皮膚病やアレルギー性疾患に詳しいドクター。
 他は見ないというわけではないが、より得意とする分野を持っていた。
「専門性を高めていくとしたら、どの分野をやりたい?」
 背筋を伸ばして、杏奈は視線を泳がせた。
 美津子に訊かれた瞬間に思い浮かんだ答えがあった。しかし、それにアプローチするのにも重要な、他の全てにも関わる、もう一つの分野のことも考えた。
 美津子は杏奈が答えを出すまで静かに見守った。
「女性の生殖能力に関する分野に、関わりたいです」
 杏奈の回答は、美津子が思っていたとおりのものだった。美津子はカレンダーに視線を落とし、あるクライアントの名前を見つめた。
─咲子さんは、おそらくこれが最後のチャンスというくらいの意気込みでもって、滞在を決めている。
 彼女の思いを受け止めるには、相当なエネルギーが必要になる。
「それから…」
 杏奈が言葉を続けたので、美津子は顔を上げた。
「心の分野にも、興味があります」
 美津子は、口をわずかに開いた。少し間をあけて、
「なぜ、心の分野に興味がある?」
 美津子は訊ねた。杏奈は少し考えた。
 正博といい直美といい山本といい…
 鬱と診断されている人、そうでなくても、その素因を持つ者を、間近で見て来た。
「心の状態は健康に、信じられないほど影響力があります」
 心は、その人の全体的な健康と幸福に直接的かつ強力な影響を与える。精神的アーマ(毒素)と未解決の感情は、非常に具体的な形で病気を引き起こす可能性がある。
 アーユルヴェーダでは、物質とエネルギーは、異なる経路を介して体中を移動すると考えている。 物質的なもの、エネルギー的なもの…あらゆるものを運ぶチャンネルはスロータムシと呼ばれていて、「心の経路」も存在する。
 心の経路(マノヴァハスロータ)。
 これは、真摯に配慮し、注意を払う価値のあるものだ。そもそも心の経路が存在するという事実は、健康と寿命において、心がいかに重要な役割を果たすかを物語っている。
 マノヴァハスロータの経路、つまり物理的な位置は全身であり、スロータムシの中で最も明白にすべてを包含する。心は体全体のすべての細胞と組織に影響を与え、逆に、肉体の状態からも影響を受ける。体の問題がある時、心は確実に影響を受けている。そして、心の問題がある時、身体はその影響を受ける。
「心はすべてに浸透しています」
 その扱い方を、杏奈自身が知りたい。そして、クライアントにも知ってほしいのだ。
 美津子はテーブルの上に頬杖ついて、しばし黙り込んだ。
 杏奈が、女性の生殖能力に多大な関心を寄せる理由を、美津子は察していた。しかし、心の分野を扱いたいとは、予期せぬ答えであった。
─なぜ予期しなかったのか。
 今から考えれば、その理由を探すほうが難しい気がする。
 咲子がなぜ妊娠できないのか。
 彼女はやるべきことは全てやった、といえるところまで、意識を高めている。
 もしかしたら、残念だけれど、先天的な要因か、個人の努力ではコントロールできない理由で、彼女は妊娠しにくいのかもしれない。そんな彼女に、重ねてあかつきとして何ができるかといったら、それは心のチャネルにアプローチすることかもしれなかった。
 この先、彼女が妊娠できようが、できまいが。自分の心との付き合い方を知っているのは、大切なことである。
 杏奈はきっと、女性の生殖能力に最も貢献したいと思っており、その手段として、心の扱い方を知りたいのだ。
「…」
 沈黙の間、杏奈は、別のところに意識が向いた。
─専門性…。
 しかし、その思考は長くは続かなかった。
「分かったわ」
 美津子の声が聞こえて、杏奈は両の目の焦点を美津子に合わせた。
 美津子はすらすらとノートにペンを走らせて、それを杏奈に提示した。

 美津子:優香 菜奈 真紀 美海
 杏奈:亜里沙 咲子 琴音 仁美
 沙羅:千晶 玲

 これは、誰がどのクライアントを担当するか、書き連ねたものに違いなかった。
「亜里沙さんと美海さんは、同居する姉妹で、生活スタイルが似通っている」
 二人は、体を整えることよりは、あかつきが提供するサービス自体に興味があるのだと思われた。
「仁美さんは、あなたに心を開いているわ」
 去年の年末年始に滞在し、杏奈とよく話をしていた。初詣にも一緒に行っている。仁美のことは、その時の予備情報があるので、その続きと考えれば良い。
 そして、あとの二人は、杏奈が専門性を高めたいといった分野の問題─咲子は不妊を、琴音は心の不調─を抱えている。
「難しそうであれば、私の担当と変えても良いけど」
 といっても、美津子は亜里沙か仁美しか、引き受ける気はなかった。それ以外は、杏奈に学びの機会をもたせる。そう決めた。
「…だい…じょうぶです」
 杏奈はカレンダーと担当者名を交互に見ながら、ゆっくりと答えた。咲子と琴音の滞在期間が重なっているのが、少し気にかかるが。
「最終的にはみんなで見るのだから、あまり、担当だということに固執しなくてもいいわ」
「はい」
「企画と集客関係の仕事は、少なくともあかつき大作戦が終わるまで、別のスタッフにやってもらう」
「え…?」
「インスタの発信も、私を含めて他のスタッフの割り振りを増やしていく」
 企画と集客、それからインスタ。それは、杏奈がここ数ヶ月、最も重点的に取り組んできた仕事だった。その仕事を、他の人に任せるという。
「それはそうでしょう」
 美津子は、当然のように言った。 
「あなたの本質的な仕事は、なんだと思ってるの」
 あかつき大作戦で人を呼んだ後が大切なのだ。クライアントに対し、全力で取り組む。最もやってほしい部分は、そこだ。
「わ、分かりました」
 他の仕事に気を取られ、本質的な仕事に注ぐエネルギーと余裕をなくすようなことは、あってはならない。そこに警笛を鳴らされたのだと、杏奈は理解した。
「これから、事前コンサルの準備で忙しくなるわ」
「はい」
「でも、あまり男性性の部分が強くなりすぎないように、注意しなさいね」
 杏奈は肩をすくめた。
 最近、やみくもに仕事をしている自分に、杏奈も気が付いている。気が付いたらいつもパソコンの前に座っていた。美津子に注意されないよう、夜は早めに離れに引き上げて、そこでこっそり仕事をしている。
 質問票が届いてからは、個別の悩みへのアーユルヴェーダ的アプローチを研究することに、意欲を燃やした。フィードバックできるクライアントがいるという状況で、調べものをするのはやりがいがあった。シロダーラをはじめ、トリートメントの幅を広げるのは一苦労で、練習の後はくたくたになってしまう。それでも、夜になれば、やらなくてはならないことが山ほどあることを思い出し、寝てはいられないと脳が冴える。一度パソコンを開けば、夜遅くなっても、ずっと仕事をしていられた。
 でも、美津子はその杏奈に、自分の手綱を引けと言っている。
─人生の優先順位はなにか。
 杏奈にとってのそれを果たそうという時、確かに男性性ばかりが過剰だと、叶えるのは難しかろう。
 そのことに、気付かされた。

 杏奈はその日は、パソコンを離れに持ち込まず、寝床についた。
─専門性…。
 美津子から、思いがけないことを訊かれた。
 そして、杏奈が希望を言うと、その希望に沿うクライアントをつけてくれた。
 荷が重いとは感じたが、杏奈は、クライアントを導ける人になるために、なるべく早く、より多くの経験を積みたかった。
─あ…
 なるべく早く、より多くの…それは、男性性の要素だ。
 杏奈は、古い手帳を取り出した。
─人生の優先順位は、なにか。
 最近、杏奈はこのまま、仕事に最も多くのエネルギーを注いでも、満足して生きていられそうな気さえしていた。
 けれど、仕事上の能力を得ることは、その先の目的のための、自分で決めた段階なのである。
─そのほうが、楽だからといって…
 目的を食い違えてはいけない。
 とはいえ、いったいどのレベルまで能力を得たら、次の段階に進むべきなのだろうか。
 その能力を得たとは、何をもって証明されるのか。
 杏奈は布団の上に起き上がって、両足の指先を手で覆った。まだそう寒いというほどではないが、油断していたら少し冷えてしまった。寒くなると、体は熱を保つために体幹に血液を集める。手足が冷えると感じるのはこのためだ。 
─専門性を高めていくとしたら、どの分野をやりたい?
 昼間美津子に問われた言葉が、再び脳裏に蘇った。
─女性の生殖能力に関する分野に、関わりたいです。
─心の分野にも、興味があります。
 そして、そう言った後、アイディアが浮かんだのだ。
 が、どのようなものだっただろうか。
「…」
 杏奈は、床の間の手前に置いた、小さな座卓の上を見つめた。
 ノートパソコンは、母屋に置いてきた。
 地袋の上の棚を探ると、書くものは見つかった。昼間の記憶をたどりつつ、とにかく思い出したことからノートに書き留める。
 これまで、あかつきにくるクライアントを見ていて、いろいろと気づいたことがある。
─どうしたら、本気になって変化を起こしてくれるか…
 クライアントの意識を上げるための、効果的なアプローチは何か。
 美津子はきっと、自分のやり方を確立しているのだろう。でも、杏奈はそうではない。
 だから、確立するために、もがく必要があった。
 さらさらさらさら。
 ノートの上に、ボールペンを走らせていく。
 アーユルヴェーダをツールとして、クライアントにより良い変化を遂げてもらう。それを実現するためのアイディアを思いつくがまま書き連ねた。
 このアイディアを、誰のために形にするのか。
─ずっと、これがやりたかった。
 赤ちゃんを望む人のために。女性としての旅を、アーユルヴェーダとヨガに導かれたいと思う人のために。
 杏奈が考えているのは、妊活のためのサポート。望む人が、望む時に、健全な妊娠・出産ができるように…
─価値のある仕事ができないならさっさと辞めろ。
 その圧のある低い声音とともに、杏奈は、その言葉を聞いた時の、自分の緊張感までをも思い出す。
─…まるで詐欺だな。
 初めて順正と会った時に言われた言葉が、今目の前に突き付けられている。
─もし、効果的なサポートができなければ…
 最も手を差し伸べたい人たちから、時間、労力、お金を搾取するだけに終わる。
 子供を望もうが望むまいが、結果的に子供を授かることができようができまいが、人生全体の幸福に寄与するガイドを提供し、クライアントをより良い状況に導かなければならない。
 自信などない。
 いかさま師になるのは、怖い。
─けれど。
 杏奈はボールペンを走らせながら、唇をぎゅっと結んだ。
 これを決行しなければ、自分は他に何をしたいというのか。

 

 

 


 

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