第94話「十分の一」アーユルヴェーダ小説HEALERS

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 美津子と鞍馬が引率し、千晶、優香、亜里沙、美海の四人は、栗原神社へと向かった。それぞれ、あかつきが貸し出したヨガマットや、自分で持ち込んだそれを抱えている。
「お寺でヨガはよく聞きますが」
 参道を歩いている途中、亜里沙が美津子に話しかけた。
「神社でヨガは、珍しいですね」
 美津子はにっこりと笑った。
 この時間、まだ神社の授与所は開いていないので、美津子は参集所の前でみんなを待たせ、栗原家に電話を掛けた。
 ほどなく、参集所の引き戸が開き、ぐう爺が美津子たちに向かって手を拱いた。
 六人が通されたのは、行事ごとがあった際、食事の場として使われる奥の座敷。一度に十人ほど、ヨガができるだけの広さがある。
 神社を借りるのは、今日が始めてであった。
 障子を開け放つと朝日が入る。ぐう爺が気を使わせてくれたのか、座敷には暖房がかかっており、そう寒くはないが、畳は冷えたまま。
 鞍馬は黒いメッシュのマットケースからヨガマットを取り出し、その上にあぐらで座る。クライアントたちは鞍馬が正面に見える位置に、横に並んで、それぞれマットを広げた。
「今日は神社でヨガということで、なんだかいつもに増して、神聖な気持ちでヨガができそうですね」
 鞍馬はそう言って、愛想よく四人の顔を代わる代わる見た。優香はとろけるような笑顔を浮かべ、亜里沙と美海はあぐらをかいた姿勢で、こくこくと頷いた。一番窓側に近い千晶は、眩しそうに朝日に目を細めながら、あくびをした。
「朝夕は冷え込んできましたね」
 鞍馬が始まりの挨拶をしている間、美津子は座敷の隅に座り、みんなの様子を眺めている。
「寒いと背中が縮こまって、姿勢が悪くなりがちですが、姿勢が悪くなると、呼吸が浅くなって、循環も悪くなります。今日はインナーマッスルを使って、姿勢を良くすることを意識しながらヨガをやっていきましょう」
 鞍馬はみんなに、座ったまま背筋を伸ばすよう促した。
「今の姿勢をキープしているのが、脊柱起立筋群や大腰筋、腹横筋といった、いわゆるインナーマッスルと言われる筋肉です」
 自分の身体に手を当てながら説明をする。
「ヨガの間、力みすぎると外側の筋肉を使ってしまいますが、インナーマッスルを使う意識をしましょう」
 そうすると、姿勢が良くなる。
「時々、ちょっとキツイかな?という場面も出てくるかと思いますが、姿勢を正す力を付けていく過程だと思って動いてみて下さい。では、始めましょう」
 目覚めたばかりの体は柔軟とはいえない。首を回したり、肩甲骨を意識しながら肩を回したりした後で、鞍馬は立ちあがり、太陽礼拝を始めた。息を吸いながら両手を前から上へあげる。両手を大きく振り降ろし、膝とお腹がくっつくように前屈。背筋を伸ばし、顔を上げる…。
 挨拶で述べた通り、鞍馬が今日考えてきたテーマは、インナーマッスルを使う意識と、それによる姿勢の改善である。
 事前にコンサルティショナー(美津子たち)から取り入れてほしいと言われた要素やポーズがあれば、それも盛り込む。たとえばコブラのポーズ、ブジャンガーサナもその一つだ。太陽礼拝でこのポーズを経由することもあり、ウォーミングアップとして取り入れた。
─ふっ。おれの実力にかかれば、あかつきの注文なんて安いものだ。
 鞍馬はデモンストレーションの合間に、ドヤ顔で美津子を見た。無意識であった。
 これ見よがしな鞍馬の表情を見て、美津子は思わず笑いそうになる。
─なんだかいつもに増して、神聖な気持ちでヨガができそうですね。
 という、先ほどの鞍馬の挨拶に対し、
─どこが。
 と突っ込みたくなるほど、鞍馬の世俗っぽさが出た表情であった。
 コブラのポーズから、両手で床を押し、お尻を斜め上へ高くあげて両脚裏を伸ばし、犬が伸びをするポーズをする。
 美津子はヨガの様子を眺めながら、数枚、写真を撮った。
 少し移動時間は発生するものの、広々とした座敷で行うヨガは窮屈感がなく、心地よい。
 神社はサットヴァなエネルギーをもつ場所。そういう意味でも、クライアントたちにこの場所でヨガをしてもらうのは良いことのように思えた。
 ヨガの途中で、美津子はそっと座敷を抜け出し、栗原家の呼び鈴を鳴らす。
「宮司さま」
 美津子が神主でも神職でもその妻でもなく、ぐう爺に出て来てもらったのは、順正が神社のスペースを借りる交渉をした相手が、この老爺だったからだ。
 美津子はそっと、薄い封筒をぐう爺の胸の前に差し出した。
「なんじゃ、これは」
「お心付けを」
「ならん、ならん」
 ぐう爺は封筒をはねのけて、受け取らなかった。
「この時間は、あそこは誰も使わん」
「ですが、空調も調えてくださっていたようですし」
「ええて、ええて」
 美津子が再度封筒を指し出そうとするのを、ぐう爺は手で制した。
「その代わり…と言ってはなんだが、この爺が融通を利かせたことを、先生にそれとなーく伝えといてくれんか」
 ぐう爺は言いながら、肩を震わせて笑った。
─そうすれば、先生の中でわしの株も上がるというもの…。
 そんなぐう爺の邪な魂胆が、美津子には手に取るように伝わってくる。
─神社はサットヴァな場所…のはず。
 だが、そこの最高権力者であるこのぐう爺ときたら、鞍馬に負けず劣らず、世俗的であった。

 クライアントが帰ってくると、さっそく朝食を摂ってもらう。
 杏奈が食事をサーブし終わると、
「ヨガをした後って、不思議と食欲が抑えられて、ジャンキーなものを食べたいっていう気持ちが削がれるから、不思議ですね」
 優香がそんなことを話しているのを小耳に入って来た。その横で、千晶が目と口を大きく広げたまま、ぽかんとした表情をするのも、視界の隅でとらえてしまったが。
「鞍馬さん、お疲れさまです」
「はーい」
 キッチンへと戻ると、鞍馬が折り畳み椅子に座った状態で、冷蔵庫に背中をもたげていた。
「疲れてますか?」
 鞍馬の分の朝食を盛り付けながら尋ねた。
「そりゃ、実家の旅館も今大忙しですからね」
 と言う割に、ここで一息入れてから帰るつもりなのだが。
「姉ちゃんにこき使われて、大変なんです」
「鞍馬さんのお姉さんってどういう人なんですか?」
「人使いが荒くて、気が強くて、負けず嫌いで…つまり、姉御気質です」
「そうなんですか」
 杏奈は話しながら、調理台を少し片づけて、そこに玄米とごぼうのお粥、茹で卵、野菜のお浸しなどを並べていく。ちなみにクライアントたちへは、茹で卵ではなく、ベサンチラ(ひよこ豆粉のオムレツ)を出した。
「…僕、パンとコーヒーとかで良かったんですけど」
 鞍馬は杏奈の作業を横目で見ながら、ぼそっとつぶやいた。
「何言ってるんです。ここにはどちらもありませんよ」
 もうそろそろ、気付いてほしいのだが。
 鞍馬はため息をついて、折り畳み椅子を調理台の傍まで運んだ。
「さっき、優香さんが、ヨガをした後は食欲が抑えられるし、ジャンキーなものを食べたくなくなるって言ってました」
 鞍馬は鼻で笑った。
「ヨガの効果が、出ていると思いましたけど」
 ヨガやプラーナヤーマは、ストレスを軽減し、心を落ち着かせ、自己制御と衝動制御を改善するのに役立つ。精神に明晰さと落ち着きをもたらし、身体への意識を高め、望ましくない思考から心をコントロールする。
「常日頃は、こってりした甘いものや、お酒をなかなか止められないというクライアントも、あかつきにいる間は、それを手放すことができます」
「この茶色っぽいどろどろとしたお粥は何ですか?」
 鞍馬は杏奈の話を聞いているのかいないのか、お茶碗の中をおっかなびっくりといった様子で見つめていた。
「玄米とごぼうのお粥です」
「ごぼうをお粥にするんですか…」
 杏奈は鞍馬の反応には関心を示さず、
「そういうクライアントさんは、あかつきを出た後が問題なので、ぜひヨガを続けてほしいものですよね」
 心と体のバランスをとることで、強い意志を養って依存を克服するのを助けると、美津子も杏奈も期待している。クライアントが何かに依存している場合、ヨガは対象物への渇望を軽減し、自制心を高めるのにも役立つのだ。
「そのために、またヨガの動画を撮らせるつもりですね」
 鞍馬はお粥を食べながら、目を細めた。お粥は思ったほど、ひどい味ではなかった。
「それもあかつき大作戦の特典にしていたので…いつ、時間取れそうですか?」
 鞍馬は先ほどよりも一段と大きくため息を吐いた。
「スケジュール見ないと分かりません。また連絡しますよ」
「お願いします」
 姉とは大分気質が違うが、
─この人も見た目によらず、人使いの荒い人だ…
 そうまでして、この仕事に一生懸命になる理由が、鞍馬にはよく分からない。
 鞍馬はふと、調理台の上に置いてある紙を見た。
─生殖能力を高める食品
─Fertility support herbal tea
「今回のクライアントさん、誰か妊活してましたっけ?」
「え?」
 鍋の方を向いていた杏奈は、そう訊かれて、調理台の上に置いてある紙を見られたのだと気づいた。
「ああ…いえ、それは次に来訪されるクライアントさんのためのものです」
 とはいえ、彼女は妊活に向け、食事には十分に気を遣っているはずだ。
「その方の願いを…」
─叶えてあげたい。
 という言葉を、杏奈は飲み込んで、
「できるだけ、サポートしたくて…」
─出たよ…。
 そう言う杏奈を、鞍馬はさらに目を細めて見やった。
「よくそういう綺麗ごとを、真面目な顔して言えますね」
「綺麗ごと?」
 分からない、という顔で見られて、鞍馬は自分の発言を後悔した。
 一方杏奈は、鞍馬の言葉を、自分の仕事への揶揄のように感じた。そんなこと、できるはずがない、と…
「…鞍馬さんは、子供が欲しいと思いますか?」
 しかし、真意を尋ねるのではなく、別のことを聞いてしまった。
「子供?」
 その反応で、鞍馬がそこにあまり意識を向けたことがないことが、読み取れた。
「…なんでですか?」
「…なんとなく」
 子供がほしいと、切に願ったことのある人であれば…妊活をサポートしたいという自分の言葉を「綺麗ごと」だとは言わないであろうと、思ったのだ。けれど、それは鞍馬には言えない。
「…すみません。聞いちゃいけなかったですか」
 自分は今、セクハラ的な質問をしてしまったのだと気づき、杏奈は慌てて言った。
 軽々しく訊いていいような質問ではない。人によっては、触れてはいけない質問だ。鞍馬が沈黙したことによって、杏奈はそこを心配した。鞍馬は若く健全な男性に見えたので、つい問題ないと思ってしまったのだが。
「ごめんなさい…」
 杏奈は重ねて謝ったが、鞍馬自身は、その質問に嫌悪感を抱いたわけではなかった。ただ、不意打ちだった、という程度。
「まあ、別に。全然ほしくないというわけでもありませんけど」
 箸を動かしながら、鞍馬は答えた。
「でも、今じゃないかな」
 それはそうだな、と杏奈も思う。鞍馬はまだ若い。自分のことを振り返っても、二十三とか四の時は、子供を設けることにそのエネルギーは向いていなかった。
「僕はもう少し、この業界で名を立てたいんですよ」
「名を…」
 鞍馬は自分の野望を隠さず言ったが、詳細は胸に秘めておいた。

 午前中、杏奈は施術を行わなかった。その代わりに、小須賀がやって来る前に、午後からの料理教室の仕込みをし、それが終わると事務仕事に移った。
 午後は、千晶と優香が別々の施術室で、それぞれ沙羅、美津子からシロダーラを受ける。その間、亜里沙と美海は杏奈が引き受け、料理教室を開催する。
 料理教室の開催は、亜里沙たちからの要望であった。滞在前からリクエストされていたのである。自分たちが普段、店で提供している料理との違いや、あかつきのコンセプトを知りたいのかもしれなかった。
 あかつきの料理が、アーユルヴェーダが受け継がれている国々─南インドやスリランカ─の料理を、忠実に再現していないことは、すでに気づいていることだろうが。

・サットヴァでプラーナに満ちた食材を使う
 ラジャス的なものを排除:五葷の食材、ナス科の食材、カフェイン、アルコール
 タマス的なものを排除:作ってから時間が立ったもの、冷凍食品
・体質と季節を考慮する
・消化に優しい
・味覚に訴えるだけではなく、食べた後の身体の反応を含めて、満足できる

 料理教室の冒頭。あかつきが大事にしている、アーユルヴェーダの食事のガイドラインを一通りなぞった後で、
「お二人が経営されている店のコンセプトと、似た点はございますか?」
 杏奈は二人に尋ねた。
「消化に優しいという点と、季節を考慮するという点は同じです」
 けれど、玉ねぎやにんにくをはじめとする五葷の食材や、トマト、唐辛子などのナス科の食材は、本格的な南インド料理を提供する上で必要なので、使っている。もっとも、あかつきでもそれらを扱うことはなくはないが。
「あかつきで出す料理は、ここで行う施術の邪魔をしないよう設計されていますが、飲食店となればまた、お客さまから求められていることは違いますものね…」
 杏奈は謙虚にそう言った。
「うちでは、夜はアルコールを出します」
 それも、飲食店ならではの決定であった。酒と飲料が、最も利益率が高い。
「昨日の、杏奈さんのアルコールとオージャスの関係も、分からなくはないですが…」
「飲食店とうちでは、求められていることが違いますから…」
 あかつきと二人のコンセプトが違うからといって、二人のやり方を否定しているわけではない。杏奈はそこを強調したかった。
 今日作るのは、バスマティライス、ビーツカレー、パリップ、小松菜マッルンという、オーソドックスなメニュー。
 ビーツは、すでに千切りした状態で、天板の上にのせてある。その天板を、亜里沙にオーブンに入れてもらい、十五分ほど焼く。
「ビーツは、ローストすることで甘味が凝縮します」
 切干大根のように少ししわしわになるが、それで良い。
 ビーツは、アーユルヴェーダの中ではラクタ、血を作るといわれている野菜だ。
「ビーツカレーに使うスパイスは、トゥナパハと呼ばれるスリランカのカレーパウダーと、コリアンダーパウダー、ターメリックパウダーです」
 透明な器に、いくつかの種類のホールスパイスが入っている。杏奈をそれを見せながら、トゥナパハの組成や、それぞれのスパイスの特性について、さらっと説明をした。
「…スパイスのことは、よくご存知ですよね?」
 一通り説明をした後で、釈迦に説法なのではないかと思い至った。何しろ二人は、南インド料理屋を営んでいるのだ。杏奈は恐縮するように、首をすくめて尋ねた。
「知っていますが、スリランカ料理はあまり作らないので、興味深いです」
「それに、アーユルヴェーダ的な観点から、細かく食材を把握してはいないので」
 二人は時々、テキストをめくりながら、食材やスパイスのアーユルヴェーダ的な観点を学んだ。
「では、ホールスパイスをグラインダーでパウダー状に挽いていただけますか?」
「これは、乾煎りせず、そのまま砕くのですか?」
「はい、今日はこのままです。乾煎りする場合もありますが、乾煎りしたものはローステッドトゥナパハになり、料理に使うタイミングが異なります」
 一般に、乾煎りされたスパイスは、即座に香るため、料理の最後に入れることが多い。
 ビーツが焼けるのを待っている間に、パリップの準備もする。洗った豆に、人参やセロリ、生姜などの香味野菜とスパイスを入れて混ぜ、マスタードシードをテンパリングした圧力鍋で、煮るだけ。  
 ビーツが焼けると、そこにスパイスや生姜を加え、さっと混ぜて馴染ませる。
「スリランカカレーって、すごくシンプルな作り方をするんですね」
 スパイスカレーというからには、大量にホールスパイスを油で炒めて、玉ねぎも飴色になるまで炒めて、パウダースパイスを入れる時にもコツがあって……と、もう少し奥深いものを想像していた。
 しかし、このカレーときたら、材料を混ぜて、マスタードシードを弾けさせた鍋の中に入れて、ちょっと炒めたら、ほんの少しの水分とともに煮、ココナッツミルクを入れて完成、というシンプルさである。南インド料理と似ているようで、似ていない。
「本格的なスリランカカレーは、もう少し違う作り方をするかもしれないです」
 これはあくまで、あかつきとしてのやり方であった。けれど、簡単に作れるのに、おいしいし、洗い物も少なく、手間が少ないので、杏奈はこの調理法が気に入っている。
 マッルンも、至極簡単。刻んだ野菜を、ホールスパイスの香りを移した油で炒めるだけ。ココナッツの果皮を入れるのがマッルンの特徴だが、季節柄ココナッツは省き、代わりにゴマを入れた。味付けはほぼ、塩のみ。
「複雑すぎる料理は食材のもつプラーナを損なうので、あかつきの料理はどれもシンプルです」
 それから、忘れてはいけないのが、ラサ。
「今日は酸味のものがないので、パリップに、レモンを絞って、酸味を立たせようと思います」
 一回の食事に、六味─甘味、酸味、塩味、辛味、苦味、渋味─を揃えることを心がける。
「ラサは、サンスクリット語でたくさんの重要な意味を持っています」
 これは杏奈が、とても感銘を受けている気づきなので、ぜひ二人に共有したかった。
「ラサは、味という意味もありますが、感情という意味もあります」
 これは、味が感情に影響を及ぼし、逆もまた然りであることを表している。たとえば、甘いものを食べると癒されると感じたり、緊張した時、体は苦味や渋味の影響─細胞・チャンネル・組織を収縮させる─を受ける。
「ラサは、一番初めに形成される体組織でもあります」
 二人は、既に知っているだろうが、杏奈はテキストを開いてもらった。
「ラサは乳糜、血漿、リンパのことを示します」
 消化が進むと、最初に変換される組織である。
「ラサが味を意味するという事実は、体が求めるすべての味を摂取した時にだけ、良いラサダートゥが形成されることを示しています」
 つまり、六味を適切な量摂ることが、健全な体組織を形成する第一歩なのだ。
「うちでも、時々アーユルヴェーダ料理教室をやっているんです」
 レッスンの終わりが見えかけた段階で、亜里沙が言った。
「はい。そうでしたね」
「その教室でこのテキストを使いたい場合は、どうしたらいいですか?」
 杏奈の動きが止まった。
「ライセンスを取れば良いですか?」
「…」
「これは非売品と仰ってましたが、購入することはできないのでしょうか。生徒さんたちに配布したいのですが…」
 亜里沙がそう言ったということは、自分が作ったこのテキストを、役に立つものと捉えているからに違いない。それは嬉しいことであった。が、自分が作ったキッチャリーのレシピが、インスタ上で流出した時の記憶と感情が蘇って、杏奈はその申し出をありがたくは受け取れなかった。
「…承知しました。後ほどオーナーと相談し、回答させていただきます」
 杏奈は一旦、その場はそう言って逃げた。

 翌日も神社にてヨガレッスンを行い、千晶と優香は、午前中の施術を受けると、あかつきを去った。二人とも、体重も体脂肪も減ったし、体内年齢も若返った。
 午後は沙羅が亜里沙に、美津子が美海にシロダーラをする。
「ああいう人たちからお金取ればいいじゃん。ちがう?」
 昼食の片づけを一緒に進めている時、小須賀が杏奈にそう言った。
 料理教室にて、亜里沙から相談されたテキストの件について、美津子に相談したが、美津子としてもすぐには答えを出せないようだった。
「ライセンス取れば使ってもいいかって聞いてきたんでしょ?」
 それだけで、無断でレシピを流出させたかの受講者よりも、誠意があると思う。それに、結局のところ、ヨガやアーユルヴェーダをビジネスとしている人からが、最もお金を得られるのだ。
「協会を作ったり、認定資格を作ったり…どこのサロンや料理教室でもやってることじゃん」
 洗い物をしている小須賀は、手も口もよく動く。
「あかつきみたいに、まっとうにサービスだけを提供していても、儲からないってことだよ」
 お金の話をするのが嫌いな人もいるが、お金を効率よく稼ぐことは、事業を継続し、従業員を養うためには必要なことである。
「セラピスト養成講座をやってほしいっていう打診もあったらしいじゃん」
 それは、美津子から聞いた。
「昔は、養成講座ってやってたんだよ。別に悪いことじゃないじゃん」
「ええ…」
「なんでそんな尻込みするの。アーユルヴェーダを実践する人を、増やしたいんじゃないの?美津子さんも杏奈も…」
 それはそうだが、テキストを商用利用することを許すかどうかは、また別の問題だと思う。これは杏奈が、持てる知識を総動員して、頭をパンクさせながら、短期間でまとめたもの。それを安価で手に入れ、事業のアピールをするためにインスタやHPで活用されたり、配布されたりすると思うと…
─あんまり、いい気持ちはしない…
 そのために、編纂したテキストではなかった。自分のために役立てたいと思っている人に使ってもらうためのものだ。
 ここにきて、テキストをあかつき大作戦の特典としたことを、ちょっともったいなく思ってしまう。
─なんて狭量なんだろう。
 自分のことを、杏奈はそう思う。
 亜里沙や美海があのテキストを活用してくれれば、小須賀の言う通り、アーユルヴェーダの知識は、もっと広がっていくかもしれない。亜里沙や美海の料理教室に来た誰かの、役に立つかもしれない。
 それなのに、なぜそれを手放しで喜べないのだろう。

「美津子さん」
 夜、栗原神社までの散歩道で、杏奈は美津子に言った。
「テキスト、使いたければ…亜里沙さんたちに、法人価格で提供してはどうかと思うのですが、いかがでしょうか」
 美津子は、隣を歩く杏奈を、静かに見下ろした。
「なぜ、そういう気持ちになった?」
「アーユルヴェーダの知識は、もともと、広く公開されています」
 杏奈や美津子とて、別にアーユルヴェーダを編纂した古代インドの賢者たちに、ライセンス料を納めているわけではない。誰かがまとめた資料や書籍から情報を得ても、その人たちに支払いをするわけでもない。
「確かに、アーユルヴェーダをどう表現するかという意味では、あのテキストの表現は私たちオリジナルのものです」
 アーユルヴェーダとは異なる現代的な観点から知識を補填しているし、日本人としての視点、経験上得た見解を織り交ぜている。それらは、もとの経典にはないものだ。
「けれど、本質的な知識は、自分たちが考えたわけでもありませんし…」
 鳥居の前で、二人はお辞儀をし、西参道に入った。
「確かに、編纂にはとても時間がかかりましたけど…なんというか…」
 杏奈はしどろもどろになったが、美津子は杏奈の意を汲んでいるのかいないのか、黙りこくっている。
「労苦を思い出すあまり、損得で物事を捉えるあまり、誰かに大切なことを伝えられないのは、テキストを作った趣旨から逸れるというか…」
 美津子は手を体の後ろで組み、ゆっくりと歩みを進めた。杏奈のかざす懐中電灯の明かりだけを頼りに、二人は暗い参道を進む。
「…前半戦は、明日でようやく終わりですね」
「…そうね」
 千晶と優香がいなくなり、亜里沙と美海だけになった。その二人も、明日の昼にはあかつきを辞し、あかつきに、クライアントのいない時間が訪れる。
「この六日間は、とても長く感じました」
 咲子と結衣が同時に滞在していた時のことを思い出した。
「そうね」
 手水舎の横を通り過ぎ、神門をくぐって、花神殿へと進む。扉を開いて中に入ると、祠の前で手を合わせた。
 花神殿を出て、神門を再びくぐった時、ふいに美津子が話し出した。
「アーユルヴェーダで人を癒すのは、とても難しいと思わない?」
 杏奈は、常日頃つくづく感じていることを美津子に問われて、
「はい」
 すぐに頷いた。
「誰にでも、簡単にできることじゃないわ」
 美津子はうっすらと笑みを浮かべて、
「もし誰にでも簡単にそれができれば、アーユルヴェーダはもっと広まっている」
 確かに、五千年という長い年月の間に、時の試練をかいくぐってきた。代替医療としてWHOも認めるものではあるが…
「養成講座を卒業したり、ライセンスを取ったりしたからといって、その人たちが、真にアーユルヴェーダで人を癒せるようになるまで、私たちが監督できるわけではない」
─あ…
 杏奈は、それでピンときた。美津子が、養成講座をしなくなり、ライセンスを作らない理由が…
─自分の仕事を信じてないのに、クライアントから限りある時間と財産を巻き取るなんて…まるで詐欺だな。
 初めて順正と会った時、彼が言っていたことを思い出した。
─価値のある仕事ができないならさっさと辞めろ。
 アーユルヴェーダを教え、伝えることは、簡単にできる。けれど、教え、伝えることと、相手に真の癒しをもたらすこととは、また別だ。知識があっても、行動にできていなければ、知識がないのと同じ。けれども、真の癒し手になるには、相手が行動を起こし、定着するところまでサポートしなければならないだろう。多くの場合、人は、一人だけで、それまでの習慣を改めることに苦労するのだから。
 だが現状、新しい習慣の定着までサポートしている事業者が、アーユルヴェーダの癒し手が、どのくらいいるだろうか。
「私も、自分がいつも、クライアントをちゃんと癒せているとは思っていない」
「え…」
「いつも、気にかかっている。このクライアントへの関わり方は、これでよかったのか…と」
「…」
 杏奈は、言葉に詰まった。心底信頼する、自分の目標ともいえる人が、そんな不安を抱えている…それは、どこか安心するようで、しかし不安にもさせる暴露だった。美津子のレベルにまで到達しても、真の癒し手となることは難しい…ということだろうから。
「知識を正しく伝え、クライアントが正しく活用するところまで導いてくれる人も、いるだろうとは思う」
 あるいは、自分たちよりも効果的に、誰かの役に立ててくれるかもしれない。
「でも、確実にその逆のパターンもある」
 伝え手のやり方次第では、クライアントは多いにこの古代の教えに疑問をもつことだろう。役に立たないと感じることだってあるだろう。テキストのようなツールを渡すことは、実力のない伝え手たちの活動を後押ししてしまうことになるかもしれないのだ。
─美津子さんが、私たちにアーユルヴェーダのコンサルをさせるのは、自分の監督下においているからなんだ。
 自分の監督下にあれば、実力をつけてやることができる。しかし、美津子にはあかつきのスタッフ以外を育てる余裕がない。
「知識というのは、今の時代、簡単に手に入るものだ」
 別にテキストを渡さずとも、彼女たちはどこかで、得たい情報を仕入れるだろう。
「だから、知識の塊を渡すこと自体に、問題があるとは思わない」
 杏奈は美津子を見上げた。美津子も、杏奈を見た。
「怖いのは、彼女たちがその知識を使って、私たちの潜在顧客を取られることではないわ」
「…」
「彼女たちがその知識を正しく伝えられなかった場合に、何かを失う人がいるかもしれない…」
 その何かとは、知識を得るために使ったお金であり、労力であり、時間であり、アーユルヴェーダで、自分自身を整えるチャンスである。
─いかさま師になるのは、怖い。
 これは、杏奈には他人事とは思えなかった。美津子の言葉はそのまま、美津子自身を含め、自分たちの前に突き付けられているような気がする。
─こんな狭量なやつが。
 思えば、盗作を見つけた時、順正が放った言葉も…
─お前の知識を盗んだところで、活かし切れるか。
 重要なのは知識ではないことを認識した上でのものだったのだろう。それが、今なら分かる。
「それで、どうするかだけど…」
 鳥居まで差し掛かったところで、美津子は歩みを止めた。
 空には、先日より少しだけ光を欠いた月が浮かんでいる。
「彼女たちも、私たちと同じところを目指しているのかもしれない」
 アーユルヴェーダの知識を用いて、未病を達成し、一人ひとりを良くすることで、この世界をより良くすることにつなげたい。そんな思いを持っているはずだ。
「一緒に頑張る仲間だと思って、テキストの購入を承諾しようと思う」
 転売禁止、無断掲載不可などの条件付きで、だが…
「杏奈も、それで良いか」
「はい」
 もし、彼女たちが良い仕事をするのなら、それは彼女たちや周りの人たちにとって良いことだ。逆に良い仕事ができないのならば、自然淘汰されていくだろう。そして、それは自分たちも同じ。
 美津子はふっと微笑んで、また歩みを進めた。
「アーユルヴェーダというのは、ややこしいものね」
 杏奈より少し先を歩きながら、美津子は言った。
「次から次に患者が供給されても、工場のラインで作業をするように、機械的にそれを癒せるわけではない」
 機械の修理工ではなく、たった一つの個性をもつ作品を生み出すために魂を削る芸術家のようであらなければならない。丁寧に、根気よくクライアントと関わって、ようやく、たまに成果を得る。
「杏奈」
 美津子は杏奈を振り返った。
「そんなに簡単に、アーユルヴェーダを通して人は癒せない」
 けれども、この弟子は、どこか「癒せる」と信じ、証明しようとしている節がある。案の定、杏奈は少し顔を曇らせた。
「十人クライアントがいたとしたら、何らかの結果を得られるのは、一人くらい…かもしれない」
「一人…」
─十分の一…
 杏奈は愕然とした。たったそれだけの確率でしか、真実の癒しはもたらされないのか。
「…でも、千晶さんと優香さんは、二人とも若返って帰ったじゃないですか」
 母数は少ないが、百パーセントだ。
「質問票に、二人はあかつきへの滞在目的を何と書いていたか…?」
「…」
 真の癒しが何するかは、一人ひとり異なるだろうけれど、それが、単に体重や体脂肪率の適正化であるはずがない。もっとその先の、大きな目的があるのだ。
「それを達成するには、あかつきに数日滞在するだけでは、足りないのよ」
 あかつきにできるのは、今後の生活の中で、彼女たちが自分の力でそれを達成するよう、提言をすることだけだ。
「一人のヒーラーが、本当のヒーラーになれるチャンスは…ごく限られている」
 だが、そのごく限られた相手に寄添うために、そこに立ち続けるのだ。
「十分の一と言ったけど…実際は、もっと低い確率かもしれないわね」
 美津子は杏奈を振り返って、ふっと笑った。
「それくらいの気持ちでいなさい」
 そのほうが、くじけずに済む。真実の一を得るために、また次の十に取り組むのだ。

「意識を頭の中心に向けてください」
 それからほどなくして、杏奈は亜里沙と美海と共に、美津子のガイド付き瞑想を受けた。
 美津子のガイド付き瞑想は、実にバリエーションが豊富。昨日は、食べ物への執着を払拭するガイド付き瞑想だった。今日は、チャクラに意識を向け、開きたいチャンネルを活性化する瞑想。
 杏奈は目を閉じながら、チャクラの一つひとつに、順番に意識を向けた。

 翌日、杏奈が亜里沙に、美津子が美海にシロダーラをした。杏奈がクライアントにシロダーラをするのは、これが初めてである。
─気配を消せ。気配を消せ。
 少し気を抜くと、オイルを循環させるのに使っているメジャーカップが、シロダーラポットに当たって、音を立てそうになる。
─静かに、静かに。
 髪をつたって油がぽたぽた垂れる音をさせてはいけない。シロダーラは、究極のリラクゼーションと名高いが、セラピストとしては、地味に気を遣う作業の連続である。
 二人が施術に入っている間、鞍馬があかつきを訪れた。山本を相手にヨガレッスンを行うためである。山本は二週間に一度のペースで、あかつきに通うようになっていた。が、時間を守れないことが多い。
 山本は、やはりこの日も遅刻してきた。
─忙しいのに…!
 鞍馬は内心イライラしながらも、体をアクティヴに動かすよう、積極的に山本に声かけをした。
 山本は家にいる時間が長くなり、体力が衰えているのか、鞍馬のインストラクションについていくのが、ややきつそうだった。
「大きく呼吸をしてください」
 山本が表情を硬くする度に、鞍馬はそう言って励ました。
「痛いなと思うところに呼吸を流していくイメージで」
 今日も今日とて、山本は気が塞いでいそうな、暗い表情をしている。しかし、鞍馬の指導に精一杯ついていこうという気概は見られた。
「あと五秒…三、二、一…」
 きついポーズを取ったら、その後体を緩めるポーズで休ませてやる。チャイルドポーズをする山本の背中は、平常時より頻繁に上下している。心臓が通常より早く鼓動を打ち、呼吸の回数が増えているのが分かった。
 最後のシャヴァーサナでは、最初の頃よりずっと、リラックスできているように見える。
「次は、二十二日頃いらっしゃいますか?」
 レッスンの後、鞍馬は次回の予定を尋ねた。二週間に一度、だいたい、水曜日に依頼されることが多い。
「…予定が、変わるかもしれませんが」
─何の予定があんだよ。
 休職している彼は、時間的な拘束をほとんど受けないはずだが、精神的な準備ができないこともあるのだろう。
「…もし、僕の都合が合わない時でも、他にもインストラクターはいますので、山本さんのご予定に合わせて、日にちを決めていただければ大丈夫ですよ」
 というか、そろそろ沙羅に丸投げしたい。
「…」
 分かったのか分かっていないのか、山本ははっきりと返事をしない。鞍馬は無理やり笑顔を作ることで、もどかしい気持ちをいなした。
 自宅までバイクを走らせながら、鞍馬はなんのためにあかつきまでヨガを教えに来ているのか、改めて考えていた。
─その方の願いを…できるだけ、サポートしたくて…
 杏奈に言わせれば、ヨガは、クライアントの期待に応えるためのツールの一つなのだろう。クライアントの健康状態を良くするために、ヨガを使う。
 しかし、鞍馬にはその意識は、希薄であった。
 ヨガは、ヨガを教えている自分自身の自己表現、自己肯定感を養うためのもの。そういう気持ちは、美津子や杏奈にも、あるだろうと思う。アーユルヴェーダを通し、世界に自分たちの価値を示したいと、そう思っているはずだ。そういう気持ちを前面に出さないだけで。
─男はやっぱり、背が高くないとね。
─これで背が高かったら、どんなに目立っただろうね。
 自分の自己肯定感を阻害するものは、身長だけで十分だ。
 あかつきでは、身長のことでからかわれることはない。けれども、彼女たちの前に出ると、鞍馬は自分が欲深い人間のように思え、それが、一つの自信損失に繋がっているように感じる。
─こんな気持ちになるくらいだったら、関わるのをやめてしまおうか。
 そもそも、本業がある中、引き受けるヨガの仕事は厳選するべきだ。あかつきは、求められることが多い割に、報酬が良いとはいえない。
 インスタの投稿にしろ、ブログの内容にしろ、あまりスタッフには焦点を当てておらず、自らの認知度を上げるのにも役立たない。しかも、他のインストラクターより優れているとか、注目を浴びているとか、モチベーションが上がるような認識をすることすらない。
 誰も見ていないところで咲く花もある。しかし、鞍馬は誰かが見ている所で、自分を美しく花開かせたかった。
 風を切ってバイクを走らせながら、もう一度心の中で自問自答する。
─あかつきで仕事をする意味があるんだろうか?

 

 

 


 

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