咲子の流産─。
この知らせはあかつきのスタッフに、少なからずショックを与えた。
─妊娠することではなく、最も健康な自分になっていただくために、尽力する。
─綺麗になってもらう。
あかつき大作戦中、咲子へのアプローチについて、そのような方向性が示されていた。スタッフたちもそれを心得ていた。しかし、それぞれが仕事をする中で、
─今度こそ。
という念を込めていなかったかというと、そうでもない…
だからこそ、咲子の妊娠を知った時、自分たちの仕事が功を奏したと感じたのだ。
─妊娠のためでなく、綺麗になるために、今後健康がずっと続くように…
という姿勢で施しながら、心のうちでは新しい命を宿してほしいという気持ちを、誰もがもっていた。
ところが、命は流れた。
単純に悲しい。
スタッフの心に湧き上がったのは、しかし、咲子と大樹に対する憐憫の情だけではなかった。
自分たちの仕事が功を奏したなどとは…
─とんでもない、勘違い。
そのことを思い知らされた。
都合の良い時にだけ、その勘違いに酔い痴れようとした。それが、流産の話を聞いたとたんに、やっぱりそれは、自分たちの手の届く範疇を超えた、神のみぞ知る領域の采配によるものなのだ、という解釈をする。
不甲斐ない。
「てーほへ、てほへ」
快は、動画を見ながら花祭の舞の練習をしているところであった。上沢や足込の各地区にて、今年も二月末頃から、順次花祭が始まる。
沙羅は夕食の後片付けをしながら、花祭の囃子に耳を傾けていた。
「ママー」
姉が遊んでくれないので退屈したのか、七瀬はお気に入りのおもちゃを持って、キッチンに居座った。快は一通り踊り終えると、別のチャプターを再生しながら一休みする。
「ナナちゃん、ほら、おばけ出てきたよ~」
榊鬼という、赤い面をした鬼が出てくると、快は決まって七瀬を冷やかす。
「おばけじゃないよ」
七瀬はそのお面がちょっと怖いのだ。
キッチンの狭い通路に足を投げ出して人形遊びをしながら、七瀬はごまかすように手を振った。
「おばけじゃないよ」
「快、意地悪するのやめなさい」
「ママ、くじらみる、くじら」
七瀬は最近、童謡のくじらのとけいにハマっていて、youtubeに上がっている動画を見たがる。
食後の片付けの間は、動画に頼らざるを得ない。ワンオペ育児は大変だった。特に最近、七瀬はすべてにおいてあまのじゃく。ご飯食べようと言えば、「ごはんたびない~、ちょっとあそびいく」と言い、ちょっと遊びに行くかと訊けば、「ちょっとあそびない~、くじらみる」と言う。それに加えて、快は口が立つようになってきている。この年齢の二人の娘を相手にするのは、体力と忍耐力がいった。
「ふぅ…」
ようやくやることを終え、リビングに行こうとした時、汚れたままになっているテーブルに気が付く。台拭きを濡らしている間に、娘たちの喧嘩が始まった。
「ああああん!くじらみる、くじら!」
「だめ!もう一かいおどるの」
七瀬に自我が芽生えてからというものの、喧嘩は日常茶飯事だった。自分に余裕があれば穏やかに仲裁に入れるものの、余裕がない時はイライラすることもある。
二人がいがみ合う姿を眺めながら、しかし、沙羅はいつもとは違う、複雑な感情を抱いていた。
─咲子さん…
あかつき大作戦の間、何度も顔を合わせたクライアントの顔を思い浮かべる。
結果は流産であった。しかし、流産したということは、それ以前に、着床できたということである。つまり、まだチャンスがあるという見方も、できなくはない。
だが二人は流産をきっかけに、諦めがついたのだという。それほど、つらいのだ。
─可能性を信じる気力が打ち砕かれてしまうほどに…
もう二度と、そんな経験はしたくないのだろう。
世の中には、子供を持ちたくても持てない人、流産を何度も繰り返す人がいる。出産経験のある沙羅は、自分にもしそのようなことがあったらと思うと、胸が詰まる思いであった。
─子供たちを預けないと、自由に仕事ができない。
沙羅は以前、そのことで悩んでいた。自分の可能性や夢が、家族に摘み取られていくような感覚。家庭を築けたことが嬉しいのに、家族がいるがために夢がしぼんでいくという葛藤。そんな気持ちを抱いている自分が嫌だった。子を育てながら働く母であれば、誰もが持っているような葛藤を、沙羅も持っていた。
─私は、子供たちがいると、自由になれないのだろうか…
娘二人が口論したり、手を出し合ったりして、すったもんだしているのを眺めながら、
─ちがう。
沙羅は今まで、気付いていなかったことに気付いた。
この子たちが健全な状態で生まれ、健全な成長を遂げてくれているから、心安らかでいられるのだ。
もし、子供を計画することができなかったら、子のいない人生で良いのかと、長いこと自問自答することになっただろう。この子たちを授からなかったら、どうして授からないのだろう、授かるためにはどうしたらいいのだろうと、多くの時間と意識をそこに割くことになっただろう。快や、七瀬が、沙羅をそういう迷いや葛藤から自由にしてくれている。
─子供たちは、私が自由でいることを、助けてくれている。
子供がいるという幸せと満足感があるから、沙羅は迷いなく次の段階に進めている。
そんなことを考えていたら、沙羅の瞳からはいつしか、一筋の涙がこぼれていた。
本当の自由とは、現状に抗うことなく、ありまのままを受け入れ、全てをコントロールしようという意識から、解放されることだ。
─私は自由だった…
もし、他の多くの人はもう持っているのに、すごくすごく欲しいものが、自分にはとても得難かったら、ありのままの現実を受け入れることは、至極困難だったろう。しかし、幸いにも今自分には、ありのままを受け入れるのが困難と思うようなことは、ない。
「うわあああん」
喧嘩に負けた七瀬が、どたどたと沙羅のほうに近づいてくる。両手を沙羅の方へめいっぱい伸ばして、抱っこをおねだりするが、沙羅の頬に涙が伝っているのを見ると、七瀬は急に泣き声をひっこめた。
「ママ、いたい?」
そう尋ねる七瀬は、無邪気そのものだった。沙羅は七瀬の前に両膝ついて、頭を下げてみせた。
「うん、いたい」
「よしよししてあげるね、よーしよし」
「え?なにしてんの?」
快もニヤニヤとして、二人の方へ駆け寄る。
「ママ、どっかいたいの?」
「うん、そうなの」
沙羅は頭を下げたまま、二人が頭をよしよしとさするのに、身を任せていた。
「え?あいつ辞めるの?」
新城市のジムで受付スタッフの女と話をしていた鞍馬は、新入りのトレーナー・佐久間が辞表を出したと聞き、驚いた声を出した。
男のトレーナーは背が高くなきゃとほざいていた、憎たらしい新入りだった。だが、話をしてみると、高慢ちきではあるが、そう性格が悪いこともないので、なんだかんだでうまくやっていたのだが。
「なんで?働き始めたばっかりじゃん」
「うーん、これ言っていいのかなぁ…」
女は口元に指を当てながら、話すのを若干躊躇したが、
「付き合ってた彼女が、妊娠しちゃったみたいですよ」
そう言った時、女はニヤニヤを隠しきれていなかった。しかし鞍馬は、少しもニヤニヤすることなく、口をぽかんと開けたまま沈黙する。
「圧力かけられたんじゃないですか?佐久間さん、女性会員からも人気だったしぃ…」
「…」
「それにしても、子供作るの早すぎですよね~。佐久間さん、まだ二十二でしょ」
「…そっか」
「ね。鞍馬さんもそう思う?」
鞍馬は、女の話を聞いていなかった。
計画していない妊娠でも、彼女に子が宿り、それを受けて佐久間は自分の身の振り方を改めようとしている。
「…よかったな、佐久間」
鞍馬はぽつりと呟いた。今の鞍馬には、その話は、全然ネガティヴなことには聞こえなかった。
ヨガスタジオに入ってマットを敷きながら、鞍馬は、鏡に映る自分の姿を眺めた。
─身長は低くても、鞍馬さんは完全な姿で、この世に生まれてきたじゃないですか。
ヨガをするために、栗原神社へ向かっている道中、咲子はそう言っていた。目を細めて、やさしく微笑む咲子の顔が脳裏に浮かぶ。
─生まれてきただけで、そのままで、素晴らしい存在なんですよ。
あの優しい人は、自分にそう言ってくれた。今思えば、その時、咲子は微笑んでいたけれど、どこか切なそうにも見えた。
それから鞍馬は、咲子をアジャストしようとした時に感じた、体の熱を思い出した。
─必死だったのに。あんなに…
あの人の力になりたいと思った。だが自分たちには、結果を変える力はなかった。
翌日、二月十四日。
鞍馬は早朝からあかつきに向かっていた。山本からようやく連絡があったのだ。前回から一月と三週間ほど、間が空いていた。
「おはようございます」
門扉を開けてあかつきの敷地に入ると、杏奈が庭の畑から白菜を運び出すところだった。
「おはようございます」
鞍馬は軽く会釈した。
白菜を持ってすごすごとお勝手口に回る杏奈の後ろ姿を見ながら、鞍馬は鼻から息を吐く。息が白い蒸気となって消える。今日の杏奈は、いつにも増して素っ気なく見えた。
山本はこの日も、十分ほど遅れてやってきた。
「元気でしたか?」
「はい…元気です」
鞍馬は遅刻を咎めることなく、にこやかに出迎え、最近の様子を尋ねた。正月を寝て過ごしているうちに、諸事やる気を失ってしまい、ここへ来るのが滞ってしまったらしい。
鞍馬は話ながら、ふとにおってくる、甘いにおいが気になった。
「山本さん」
「はい」
レッスンの後、鞍馬は山本に、真顔で話しかける。
「ガチガチです、体」
「…そうですよね」
正月の間に、訛ってしまったようだ。
「ちゃんと通ってください。怠けずに」
「…はい」
鞍馬は山本と何度か接してきて、ようやく、匙加減が分かるようになっていた。この人を傷つけることなく茶化せる、ギリギリのラインが。
「それから、タバコもやめたほうがいいですよ」
しかし、これは少し冒険であった。山本の眠そうな瞼が、わずかに持ち上がる。それでも鞍馬は、笑ってごまかそうとはしなかった。
真剣に、思っていたことを伝えた。
「空楽」
堀川にかかる桜橋の、右岸側の橋灯の傍に、空楽は立っていた。
ぐるぐる巻きにしたマフラーで、顔の半分が隠れているが、紘大はすぐに空楽であると分かった。
「ごめんごめん。待った?」
「…ううん」
空楽は頭を左右に微動させる。
空楽から連絡があったのは、昨日のことだった。名古屋に来るという。自分に会いに。紘大は急な話に驚いた。
「行こうか」
「うん」
二人は並んで、桜橋を歩く。
─鉢会ったら困るな…。
紘大は、今日会う予定だった別の女性との約束をキャンセルしたのである。待ち合わせを会社の近くでしていた。そのため、紘大は会社からほど近いこのあたりから、早く離れたかった。
名古屋駅の東口から都心をまっすぐ東に貫く大通りは「桜通」と呼ばれている。他所からくる者は、この道の名から、桜並木が続く大通りを想像する。しかし、実際はいちょう並木なので意外に思われる。桜通を東へ行くと、天神さまを祭る天満宮がある。かつて、その周辺には桜が多く花見で賑わった。また、神木に桜の古木があったことから「桜天満宮」とか「桜天神」と呼ばれていた。そのため、そこへと続く道は「桜の町筋」と呼ばれるようになり、拡幅整備された後「桜通」と名付けられたのである。
この華やかな名をもつ通りが堀川を越えるのが、この桜橋。桜は植わっていなくとも、桜橋の欄干はいつも桜が満開である。欄干のレリーフに桜と川の流れ。スズラン灯の台座と受け座に桜の花びら。そして、橋灯にも桜。
夜なのに明るい街中の景色を見て、
─名古屋だ。
空楽は上沢や足込との差を感じた。
「うおー、これおいしい」
丸の内のイタリアンレストランで、空楽はアマレットソーダの入ったグラスから口を離すと、相変わらず抑揚のない調子でそう言った。
「これもうまい」
空楽は一瞬で前菜を平らげた。
「ありがとう、紘大」
この店を予約したのは紘大だった。
空楽の向かいで前菜を口に運んでいる紘大は、しかし、空楽の今の「ありがとう」には含みがあると思う。
「あの~、空楽さん」
「ん?」
「今日は何の日か知ってるかな?」
紘大はにこにこしてうそぶいたが、空楽はそのさらに上をいく白々しさで、
「んーと、なんだっけ?」
今日はバレンタインデーだと、分かっているのだろうが。
苦笑いするしかなかった。この調子だと、空楽にご飯を奢らされる。が、問題はそこではなかった。
「たくさん飲んでいいよ。ちゃんと介抱してあげるから」
「んー、一杯でいいな」
空楽は彩で働いているが、普段あまりお酒を飲まない。我慢して控えているのではなかった。お酒を一定量飲むと、身体がだるくなり、何もしたくなくなってしまうからだ。
紘大は内心ため息を吐いた。
─なんか違うよな、このムード…
バレンタインを口実に、自分に会いに来たのだと思っていた。それなら可愛いものではないか。保留中とはいえど今夜限りは、恋人同士の夜を過ごそうと思っていたのに、さっきから空楽ときたら、少しも甘えた感じを出さない。
─むしろ…
何か、不機嫌なようにも見える。会話が途絶えがちなので、紘大はやたらと酒が進んだ。
空楽はスープを啜りながら、コートとジャケットを脱いだあとの紘大の風体を、さりげなく眺めた。会社帰りの紘大の姿を見るのは久しぶりである。青い縦ストライプが入ったシャツに、紺色のベストとズボン、淡いオレンジソリッドのネクタイ。対して、空楽はフォーマルな服装はしていなかった。ややオーバーサイズの白いトレーナーと生成りのズボン。
食事をする間、空楽はずっと伏し目がちだった。紘大はもともと明るくフレンドリーな性格だけれど、空楽がそんな感じだから、少し調子が狂う。
「あ、そうだ。おねえさん元気?」
三杯目のライチサワーが届く頃、コース料理はメインに辿り着いていた。紘大はビールや焼酎だけでなく、甘い、軽いお酒も飲んだ。食べ物や飲み物について、あまり頓着しない性格なのである。
「元気だよ。秋冬は特に猟のシーズンだから、威勢がいいんだ」
「猟…」
紘大は苦笑いして、酒を呑んだ。さっきから、やたらと色気のない会話に流されてしまうのは気のせいか。
ドルチェはチョコレートテリーヌを中心にチョコをメインとした盛り合わせだった。空楽は紅茶とともにそれを食べた。昔はコーヒーをよく飲んでいたが、カフェインを避けるか、より含有量の少ない飲み物を選ぶようになったのは、あかつきで働いている影響である。
空楽は紘大の皿を見やって、
「食べないの?」
「ん、食べたかったら食べてもいいよ、おれのも」
紘大はデザートを頬張る空楽を、ただにこにことして眺めていた。
「おれは、あとで甘いのゆっくり食べるからさ」
「甘いの?」
「うん」
紘大はさらににこにことして、あざとく顔を傾ける。
空楽はフォークを口に含んだまま、視線を逸らした。さすがに、良心が痛んだ。名古屋や栄のデパートや駅地下に行けば、バレンタインギフトはいくらでも手に入った。しかし、空楽はあえてそれを準備してこなかったのだ。
紘大はそこそこお酒を飲んでいるはずだが、顔色は素面の時と全く変わらなかった。期待に満ちた笑顔と視線から、空楽は目を逸らし続ける。
「紘大」
「ん?」
紘大は相槌を打ちつつ、コーヒーの入ったコーヒーカップに口を付ける。
「子供欲しい?」
思いがけない問いに、紘大は思わずむせ込み、口に含んでいたコーヒーの飛沫が空楽にかかる。テーブルの下で、空楽は紘大の膝を足で蹴った。
「………なにかな?いきなり…」
紘大は衝撃を受けていた。蹴られたことではなく(それもちょっとあるけど)、空楽が口走ったことに対して、だった。
─え?おれまだ何もしてないよね?
無意識にそういう発想になったのは、紘大が常日頃、そのような報告を恐れているからでもあった。
しかし、空楽は迷惑そうな顔で、トレーナーにかかった飛沫をおしぼりで拭き取りながら、続きの言葉を発する様子がない。いや、迷っていた。
─リスクが上がるんだ…
あかつきで、それを意識させられた。自分はまだまだ若いと思っていた。子供も、めちゃくちゃ好きというわけではないし、今すぐ欲しいわけでも、今まで強く望んだことがあるわけでもない。でも、いつか自分も、それで苦しむ時が来るのかと、少し不安になってしまった。
「紘大」
「う、うん…」
「私…」
「…」
紘大は生唾飲んで全神経を集中させた。何を言われるのか。柄にもなく緊張してしまう。
一方、空楽は心の内で、答えの出ない葛藤に悩まされていた。勢いでここへ来たものの、ぼんやりした不安や感情の揺れを、状況を知らないこの男に話して良いものか。だいたい今、自分と紘大は、恋人ではないのだ。
「…私、田舎と、老人が好きなんだ」
「…」
若くして証券アナリストに合格し、頭がキレると会社でも評判の紘大だが、空楽の考えていることは、時々よく分からない。
「…は?」
「ん…久しぶりに名古屋に来て…なんか…それを再認識したというか」
しかし、聡明な紘大は、その言葉から、遠回しに空楽が言わんとすることを察した。
─負けた…。
田舎と、老人に。
─奥三河から動かないぞ。
そういう意思を、自分に提示しに来たのではないだろうか。
「…そうなんだ」
後ろめたそうな顔をして肩をすくめる空楽に対し、紘大は困ったような笑いを浮かべるしかない。
「でも、今すぐ何か決める必要は…ないんじゃないかな?」
「…」
空楽は今日、地下鉄で少しだけ移動をした。同じ車両の中にいる人は誰一人として知らない人だった。そしてみんな、誰と話すこともなくスマホに視線を向けている。かつては空楽もその中にいたのに、今その中に戻ることは考えられなかった。
田舎道を自転車で走り、季節ごとに代わる田んぼや畑の景色を眺め、見知った老人たちと挨拶を交わす。そういう生活のほうが、自分の心は休まるということに、気付いたのだ。
「え~、なんでホテルなんて取ったんだよ」
レストランを出た後、地下鉄に乗ろうと思ったら、空楽がホテルまで歩いて帰ると言う。
紘大が眉尻を下げながらそう言うのを聞くと、空楽はマフラーの中に顔の半分を沈めた。
「水くさいなあ。うちに泊まってけばいいじゃん」
当然そうするだろうと思って、昨日のうちに部屋を片付けておいたのに。
「なんで?」
「なんでって…」
目を丸くして尋ねられて、
─空楽は、おれの彼女じゃん。
と言いそうになったが、恋人未満の関係性に戻してくれと言ったのは自分であったと思い出す。
空楽はマフラーから隠れていた顔の半分を出した。夜の冷たい風が当たり、鼻頭がつんとする。夜空に瞬く星の代わりに、街のネオンの明かりを見ながら風に当たるのも、悪くない。
「もう行くよ。今日はごちそうさま」
結局、紘大の奢りであった。その上、バレンタインのプレゼントもないのでは、あんまりかなと思う。
─けれど…
ここで愛想を尽かされるのなら、それはそれでいいのかもしれない。
空楽はあの町に留まることに決めている。そうであるのなら、この男と本当に別れるのは、早い方がいいのかもしれなかった。
「待って」
しかし、紘大に引き留められると、空楽は素直に足を止めてしまう。
「どこのホテル?」
「…伏見」
「割と遠いじゃん」
「そんなことないよ。人通り多いし、大丈夫」
伏見は名古屋きってのオフィス街。ビジネスホテルも多い。
紘大は少し思案した。おそらく、ホテルから会社は目と鼻の先だが、いかんせん着替えを持ってきていない。明日の早朝、着替えるためだけにアパートに戻るしかなかった。
「ふぅ…」
紘大がため息を吐くのが聞えて、空楽は心細い気持ちになった。この男に本当に愛想を尽かされたと思うと、なんだか少し、寂しい…
─面倒臭いな。
しかし、紘大がため息を吐いたのは、空楽に対してではなかった。空楽との時間を削って、アパートへの行き来をするのは、とてつもなく無駄に思えた。
「分かったよ。おれがそっち泊る」
しかし、それでも紘大は、そう言うしかなかった。
「い、いいよ」
泊まらなくていい、という意味の「いいよ」である。空楽はまた、マフラーに顔半分を埋めた。
「シングルだよ、ベッド」
─そこか。
紘大は拍子抜けしながらも、少し安心する。
「それは、おれがいること自体は嫌じゃないってこと?」
「いや…その、一人で宿泊することにしてるから」
フロントスタッフに訝し気な目で見られるのも気まずい。
─真面目か。
紘大は思わず、力ない微笑を漏らした。空楽は、その晃大の顔を見て、中途半端な決意がみるみる崩れてしまうのを感じる。彼のこの諦めたような笑顔とおおらかさに、自分は滅法弱いことを思い知らされる。
「行こう?」
空楽の少し前に立った紘大の後ろで、名古屋の人工的な光が瞬いていた。この風景も悪くない。大切な人がいれば、本当は、場所などはどこだっていい。
しかしそれでも、空楽は名古屋には帰れなくなった。あかつきの存在があるからだ。
─いい歳して青春してた。
善良なスタッフが集う書斎でのランチの時間は、空楽にとって、かけがえのないものになっていた。
そのあかつきには今、どこか気鬱な空気が漂っている。
咲子の流産。
その知らせは、あかつきのスタッフに少なからず打撃を与えた。不甲斐なさを感じているが、それで終わりではない。
─私にできることを、もっとしなければ。
空楽がもった意識を、おそらく他のスタッフもみんなもったはずだ。
だから空楽は、名古屋には─紘大のそばには─戻れないと思う。
それでも、紘大はいつか、自分との関係を復活させるつもりだろうか。女性にモテないはずのない紘大が、なぜ自分のところに帰ってくるのか、自分のどこが好きなのか。
─分からない。
空楽には、それがよく、分からないのであった。
「なんだ、お前さっきからずっとそれが言いたかったんだろう」
「へへ。いいだろ。ちょっとはのろけさせてくれよ」
金曜、夕方のハイウォール。
羽沼、前原、安藤の三人は壁に背を預けて並んで座っている。今しがた、彼女ができたという安藤の報告を受けていた。安藤は婚活アプリで新城市に住むある女性と知り合い、最近付き合うことになったらしい。
恋人がいる。この事実がもたらしてくれる安定感と心強さを、安藤は久しぶりに実感していた。もう何年ぶりか、久しぶりにハイウォールに来たら、幼馴染の前原がいた。それでつい報告をしてしまったというわけである。
「いや、でもさ、何かしらの絡みがあって知っている女の子と付き合うのとは、わけが違うんだよね」
安藤は、至極真面目な表情になって、
「生い立ちも性格も、仕事に対する姿勢とかも、本人に聞いて、本人が答える範囲でしか分からないじゃん。自分の目で確かめられないまま付き合うっていうのがちょっと─」
「何言ってんだよ。正直にのろけとけ、バカ野郎」
かぶせるように言い放った前原のその言葉に、羽沼はふっと笑った。
そしてもう一人、苦笑ともいえる笑いを発した者がある。莉子の義父・文也だった。
羽沼は今日、念願かなってやっと、安藤にここに連れて来てもらった。だからここで会う客のほとんどが初対面であり、この男もそうであった。
「佐藤さん、何笑ってるんすか」
前原にとって文也は初対面でない。文也には去年の秋、息子が生まれたばかりだが、時々莉子とともにハイウォールに登りに来ており、前原ともすっかり顔なじみである。
「いや、懐かしいなと思って。馴れ初めの頃っていいよね~」
文也は安藤と前原を交互に眺めてニヤニヤした。
「いいッすよ、佐藤さん。自分の馴れ初め話してもらっても」
「いや、娘がいるんで、やめときます…」
文也は小声でそう言い、百八十度オーバーハングした壁に取りついている女の子に視線をやった。
「おれの場合はちょっと、違う心配があったかな。相手はバツイチで、娘がいたし…」
「話してんじゃないですか、やめときますとか言って…」
文也は、しかし、それきり口をつぐんだ。莉子がトライを終え、マットから降りてきたからである。
しかし、羽沼は文也から話の続きを聞きたかった。離婚経験があり、子連れの女性と、なぜ結婚しようと思ったのか。どういう苦労があったのか。
─はぬま!
つい二日前の夕方のこと。
羽沼はアウトドアスペースで、コーヒーを飲みながらパソコンに向かっていた。仕事をしていたが、集中力を切らしていた。
そんな時に、万里子が一人で羽沼を訪ねて来たのである。万里子は、春には小学校に上がる。自宅から丸太小屋までの距離であれば、もう一人で来られるらしかった。
─いいものあげるね!
そして小さな箱に入った何かを渡された。何が入っているのか、羽沼は想像ができた。その日はバレンタインデーだったからだ。
─ありがと。開けていい?
─うん!
子供の手で一生懸命作ったのであれば、多少出来が悪くても、褒めてやらねば。と思いながら箱を開けると、羽沼は衝撃を受けた。
いろいろなバリエーションのチョコレートやトリュフが、整然と並んでいた。確実に瑠璃子の手が入った…いや入り過ぎているそのプレゼントを見て、羽沼は、これをどう解釈していいのか悩んだ。
万里子がやって来る寸前まで、
─子供がいなくても…楽しいことはあるよ。
流産を経験し、失意の中にいるという咲子と大樹に、心の中でそう話しかけていたところだったのに。
一気に羽沼の意識は、そこから違うところに連れ出された。
『美味しかったです』
ラインで瑠璃子に、そう送った。
『よかったです!』
とだけ返事が。
あれは自分以外の、その他大勢の人にも贈ったのか。自分だけだったとしたら、どんな意味合いが込められているのか。
瑠璃子からの返信がそれだけだっただけに、羽沼はいろいろな方向に想像をしてしまい、今抱えているどんな仕事よりも悩ましい出来事となった。
「前原、お前はどうなんだよ」
安藤は今度は、前原を詰った。
「新妻とうまくやってんの?」
「新妻って…まだ婚姻届け出してないよ」
「そうなの?もしかして結婚式と同時に出そうとしてる?ってか、おれ結婚式招待されるよね」
「結婚式どうするかで悩んでんだよ…」
羽沼は苦笑した。悩んでいるとはいうが、それは、幸せな悩みだ。
「そうなのか?あ、羽沼、せっかく来たんだからもっと登れよ」
「あ、うん」
どうやら、二人の会話の中には入っていけそうにない。本当は、瑠璃子の幼馴染である安藤と前原に、軽い感じでこう尋ねてみたかった。
─あのさ、一昨日万里子ちゃんから、チョコレート貰わなかった?
と。万里子がその二人にも贈ったのであれば、あれは「義理」であると確定できる。しかし…
─聞けるわけないよな…
途方に暮れたまま立ち上がる羽沼の前を、一人の男の子が歩いていった。
羽沼が彼を見るのは、久しぶりであった。冬だが半袖に半ズボンという姿で、そこから覗く手足は細く、日に焼けている。前に見た時より、身長がかなり伸びた。
彼は傾斜角の緩やかな壁の前に立つと、大きな、平たくのっぺりとしたホールドを抱え、そのホールドを押し込むようにして体を引き上げていく。マントル返し。クライマーたちがそう呼ぶムーヴを、彼はこの課題で練習しているのであった。大きなホールドを乗り越えると、その先は軽やかだった。
彼がマットに降りてくると、前原が歩み寄り、
「大分登れるようになったじゃん。蓮」
と声をかけた。
「ああ」
蓮は後ろを振り返ると、歯を見せて笑った。
「春になったら、柴崎さんに練習の成果を見せつけてやるんだ」
土曜日の午後。
羽沼はあかつきにて、美津子、杏奈、小須賀向けに、オンライン学習サイトの操作方法の説明を行った。アップロードとサイト整理は羽沼に加え、この三人が行えるようにする。それから徐々に、沙羅、空楽、鞍馬にも落としていくつもりであった。コンテンツの作成は、杏奈、沙羅、空楽、鞍馬が主に行う。
「なんでおれまでサイト管理しないといけないわけ?」
キッチンに入ると、小須賀はため息を吐いた。羽沼も小須賀に続いて履物を変え、キッチンに入る。
「仕方ないじゃん。美津子さんは小須賀くんに、サイト自体や、コンテンツに対する評価をさせたがってるから」
「だからなんでおれ?」
その理由は、けれど、本人も分かっているのだろう。小須賀はアーユルヴェーダ的な知見が薄く、あくまでアーユルヴェーダを知らない一般的な目線からものを言う。美津子が欲しがっているのは、その客観性と、斬新な着眼点だ。
「ところで小須賀くん、あかつきで仕事する時って、ちょっと暇な時間ない?」
「なんでだよ。失礼な」
別におれはサボってないよ、と小須賀は念を押した。
「そうじゃなくてさ。暇な時間がちょっとでもあるんなら、杏奈さんのこと手伝ってあげて」
「手伝う…?」
羽沼は頷いた。
「もともと、仕事が早い子だったけど、ここ一週間のペースはちょっと尋常じゃない」
集客用のコンテンツも、学習サイト用の資料も、他の担当者とは比較にならないスピードと精度で仕上げてくる。次から次へと、新しい疑問も投げかけられるので、正直羽沼のほうが、追いつかなくなっている。
どこかを目指している。そこに早く行きつけるよう、がむしゃらになっているように見えた。
「起きている間は、ずっと仕事してるんじゃない、あの子」
今日のミーティングの場においても、杏奈の繰り出す質問は手ごわかった。それだけ多くの思考を重ねているという証拠だった。その気迫は小須賀にも伝わっている。つい昨日、沙羅もこう愚痴をこぼしていたところであった。
─杏奈ちゃんの健康日記の添削は、詳しすぎて…
沙羅がやるべきだと思う範囲との乖離が激しい。
─そこまでやる必要あるのかな…
たくさん文字が並んでいても、クライアントは結局見ないのに。
「…もともと、遊びが少ないんだよ、あいつは」
しかし、ここ数日は特に、何か火がついてしまったようである。
「僕は前の会社で、部下の就業状態を管理する立場にいたから言えるんだけど」
羽沼は小須賀の言葉には答えず、経験に基づく見解を述べた。
「あれが長引くのは、あまり良くない」
「分かってるよ」
即座に、小須賀は答えた。
「…でもま、美津子さんがいるから大丈夫だろ」
「それならいいんだけど」
羽沼は、煮え切らない表情で呟いた。
「羽沼、お前暇なら掃除手伝えよ」
さっきのお返しとばかりに、小須賀は言った。
「失礼な。これでもそんなに暇じゃないんだけど」
しかし小須賀は取り合わず、あたりを見回す。
「一時間くらい掃除するか」
それが、間接的にあかつき全体に貢献することになるのだ。幸い、夕方からのレストラン勤務までには、まだ時間があった。
「棚の中を掃除するか。羽沼、スパイスの瓶どけてくれる?」
「この棚の中?いててて…」
羽沼は手を上げた時、肩に鈍い痛みが走った。
「どうした」
「筋肉痛…」
昨日、安藤に連れられて、初めてボルダリングジムに行った。野球部の練習にもやや支障が出るほどの筋肉痛に見舞われ、金曜の夜にボルダリングをするのは危険だと悟ったばかりである。
羽沼はついでに、ジムで聞いた話─安藤に彼女ができ、前原が結婚式の準備で悩んでいる─を小須賀に喋った。
「ふうん」
小須賀は、乾き切った相槌を打った。安藤と前原とは交流はほぼないが、二人に会ったことはある。
「興味ないね」
「当たり前でしょ」
小須賀は目を細めた。
「よく知らない男が、女の子と付き合ったとか結婚式で悩んでるとか、どうでもいいでしょ」
「ふっ」
小気味が良いくらい正直な返答に、羽沼は笑った。
「でも、彼らを見てると、ちょっと羨ましいなと思うよ」
そしてそれも、正直な羽沼の感想であった。
「いつ結婚するとか、どこに住むとか、結婚までの段取り決めるのも、家や子供の計画するのも…彼らは、今から始まるんだな」
脚立を棚の前に運ぶと、小須賀は羽沼の顔をじいっと覗き込んだ。
「なに?」
「お前、もう一回そういうの経験したいと思ってるわけ?」
脚立を組み立て、登りながら尋ねる。
「そういうことじゃないよ。でも…」
でも、何なのか。羽沼は自分の意図が自分で分からず、
「一般的に、そういうのが幸せっていうもんじゃん」
そう言ってごまかした。
「埃落ちるかも」
小須賀はそう言い捨てると、棚の中を水拭き雑巾で拭き出した。羽沼は一歩下がって、作業の様子を眺める。
「おれにはわかんない」
忙しく手を動かしながら、
「みんな、どこかに到達することが幸せって思ってんの?」
小須賀はひょうひょうと言った。
「結婚したから幸せとか、いい家に住んだら幸せとか…」
話の途中で、小須賀は「雑巾取って」と言い、今度は棚の中を乾拭きした。
「おれは別に何かに到達しなくても、今この瞬間自分が楽しいように生きてるよ」
小須賀は、常に楽しいことを探している。どうしたら楽しくなるかを考えている。そしてそれはどんな時でも、たいてい、見つかるのだ。大小、程度の差はあれ…
「幸せってのはなるもんじゃない。見つけるもんだろ」
羽沼は、作業しながら本質的な考えに触れる小須賀を、どこか尊敬のまなざしをもって見つめた。
「小須賀くん…」
思えば小須賀は、誰かの価値観や固定観念といったものに縛られたり、惑わされたりする様子がほとんどない。結婚もせず、子も望まず、料理の仕事に身を据えたのも最近…。それは一般的には、地に足のついた、成功している人の姿とはいえないのかもしれなかった。それでいて、小須賀はいつも機嫌が良く、楽しそうだった。
「美津子さんが、どうして小須賀くんをあかつきに置いているのか、なんとなく分かった気がしたよ」
羽沼は、つぶやくように言った。この男から学ぶべきことが、たくさんあるような気がする。
「アーユルヴェーダの知識ないのに」
「知識がないんじゃない。興味がないんだよ」
演説を聞いて、そのまましんみり納得していればいいものを。小須賀は羽沼の余計な一言に、ちっと舌打ちした。
キッチンを出ると、応接間には杏奈がいた。杏奈はもともと、柔和な顔立ちをしているので、本人としては真剣な表情をしていても、傍からみるとそうは見えないことが多い。けれども、今日はいつもより、ノートの上に落としている視線が鋭い。その視線は微動だにする気配がない。
羽沼は声をかけるのをやめ、玄関から外へ出た。庭には美津子がいて、すっかり寂しくなった畑の土に手入れをしているところだった。
「羽沼さん」
美津子は羽沼に気が付くと、手を止めて立ち上がり、
「今日はありがとうございました」
「いいえ。あの…」
羽沼は、少しだけ後ろを振り返って、
「杏奈さん、行動力ありますね。最近の仕事の仕上がりが…」
「ええ」
予想に反して、美津子はそれほど心配してはいなさそうだった。
「…私にも覚えがありますけれど、火が入ってしまったら、止めることはなかなかできない」
美津子に、目を合わせられた。
羽沼にも、覚えはある。スイッチが入ると、若い頃は、寝ずにでも仕事ができたものだ。
「美津子さん」
「はい」
「咲子さんは…杏奈さんにとって、特別なクライアントだったんですか?」
そう尋ねられて、引き上がっていた美津子の口角は少し下がった。それを羽沼は、肯定と読んだ。
「僕もショックでした。お二人のことは…応援していましたから」
「羽沼さん、あなたは…」
「僕は、男の不妊症で、子供を諦めました」
どういうわけか、今まで黙ってきたことを、ここにきてさらりと美津子に話してしまった。
「だから、子供をもちたいという二人を応援したかった…」
「…そうなのですね」
美津子は、その話は杏奈から聞いていた。しかしその前から、羽沼が抱えている痛みが、この方面に関連しているのであろうことは、なんとなく察していた。
「次に同じようなクライアントが来た時に、もっと力になりたいという思いで、杏奈さんが頑張っているんだとしたら…その気持ちは分からなくもないです」
杏奈の原動力がなんなのかは、羽沼には分からないが。
「だけど…無理はしないでほしいのですが」
「…そうですね」
美津子は小さく頷いて、力なく微笑を浮かべた。
「美津子さん」
「はい」
「もう一つ、訊いてもいいですか?」
「何ですか?」
羽沼は、承諾を得られてからも、しばらく言い淀んでいた。瑠璃子と万里子の顔が代わる代わる脳裏に浮かぶ。しかし、事情を知らない美津子に、あまり込み入った質問をするのは憚られる。
「バレンタインに、近所の女の子からチョコレートをもらったのですが…」
「あら、それは嬉しいですね」
硬い表情とは裏腹に、かわいらしいエピソードを聞かされて、美津子の頬は自然と緩んだ。
「はい。でも何を返せばいいのか…」
照れ隠しするように、こめかみを掻く。
「そもそも、なんで僕にそういうものを送るのか…」
羽沼はその女の子が、遭難事件で自分が助けた子であるとは言わなかった。その恩はもう、とっくに時効を迎えていると思うのだが…
困り果てた羽沼の顔を見て、美津子はふふっと笑う。
「子供は、その人が自分を好きかどうか、直感で見抜けるのかもしれませんね」
「えっ?」
今なんと言った?
「愛がないと、生きられないから」
美津子は羽沼から視線を逸らし、遠くを見るような目で言った。
─なんて言った?
美津子が最初に放った言葉を、羽沼は懸命に解釈しようとした。
「僕が、万里子ちゃんを好きかどうか?」
むろんその好きは、恋愛の好きではないだろうが。
─ん?万里子ちゃんは、僕に好かれていると思うから、チョコレートを贈った?
どういうことなのだろう。
そこまで考えたところで、羽沼は「あ…」と口を押えた。個人の名前を出してしまったことに気が付いたのだ。
慌てて美津子を見やると、何もかも見透かしたような目をして、ふふふと笑っていた。
「自分のことを良く思っていないような大人に、子供はなつきませんよ」
さらりと投げられた言葉に、羽沼は唖然とした。
美津子はもう一度羽沼に微笑を向けると、再び畑の中にしゃがみこんで、土をいじりだした。
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