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第118話「産着」アーユルヴェーダ小説HEALERS

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 夕暮れ時、あかつきの門前には、十一月にあかつきに長期滞在したクライアントの夫・大樹が立っていた。
 彼の妻・咲子から妊娠したという知らせがあったのは、一か月ほど前のことであったが…
 大樹の後ろに広がる空が、赤く染まっている。
 杏奈の心は、なぜかそわそわした。大樹が中に入り、美津子が出迎えて、彼の相手をすることを望んだ。
 しかし…
 人が近づいてくる気配を感じたのか、大樹はこちらを振り向いた。杏奈は、逃げることも隠れることもできなかった。大樹は夕日に背を向けて、杏奈にぺこりと会釈をした。杏奈は静かに、門前まで歩み寄り、大樹と向かい合わせで立った。
「大樹さん、こんにちは…」
 そこですぐ、何かあったのかとは訊けなかった。
「こんにちは。お久しぶりです」
 挨拶を返して、大樹は微笑を浮かべた。その微笑が、どこか切なげに見えて、杏奈は自分の体が萎縮していくのを感じる。
「…あのう、中へ入られますか?」
「いや、できればここで」
 杏奈は沈黙する。彼の要件を、今ここで、自分が聞かなければならない。
「実は…」
 彼が少し取った間が、杏奈の体をますます萎縮させた。単刀直入で本題に入ることが、雰囲気で分かる。
「咲子が妊娠したと、お知らせしていましたが」
「はい」
「それが…一月末に、流産しました」
 杏奈は、全身に鳥肌が立つのを感じた。
「…流産」
「はい。稽留流産で…」
 どうすることもできなかったそうだ。
「…」
 杏奈は言葉を忘れ、無意識に大樹から目を逸らしていた。大樹は杏奈の反応を視界に収めながら、斜めに背負っていた鞄の中を探った。
「咲子が、こんなものを作ってまして」
 それを見た瞬間、杏奈はガンと頭を鈍く殴られた心地がし、心臓が早鐘を打った。
 柔らかそうな布でできた、小さな産着のようだった。

─やめろよ、そういうの。
 ローテーブルの上に置いてあったそれを、大樹はすぐさま取り上げた。
─こういうのを作るから、余計感傷的になるんだよ。
─離して。
 咲子は身を乗り出して、大樹の右手に手を伸ばした。その声音が、やけに熱っぽさを帯びている。
 縫い上げた産着を、必死に取り返そうとする咲子。絶対に渡すまいとする大樹。
 大樹の足がローテーブルの脚を蹴り、ズーッと音を立てて斜めにズレた。大樹に振り払われた咲子の腕が裁縫道具に当たり、いくつかの道具がバラバラと落ちる。
 声はない。荒い息遣いと、肉体がぶつかる音の、熱く、悲しい響きがするのみ。
 二人が組み合っていたのはほんの少しの間。しかし、永遠にも思えた。
 先に力尽きたのは、咲子のほうだった。膝を床についてうずくまり、顔を伏せると、嗚咽ともいえる荒い息遣いが大樹の耳に届く。
─やめて!返してよ!
 その後は、嗚咽であった。
 大樹は息が詰まる思いで、それを呆然と眺めるしかなかった。組み合って、体は熱く燃えているのに、背筋は凍りつくばかりの感覚。
 咲子の嗚咽が、しばらく続く。泣き声以外には、少しも音がない部屋。この部屋の中だけ、時間が止まったように思えた。
─こんなことしても、どうにもならない。
 言うべき言葉など分からないが、ずっと黙っていても、この場は終わらない。大樹は言葉を振り絞って、それだけ言った。ずい分と弱弱しい声が出たものだと思った。穏やかだが、疲れた、うんざりした、弱弱しい声が。
 大樹はふと、右手に産着を握ったままだったことを思い出した。右手を開くと、白地にひよこ柄があしらわれた、柔らかな、可愛らしい産着がそこにあった。咲子が一針一針、丁寧に縫い上げて、完成させたものだ。
 失われた小さな命を、弔うために…
 気が付くと自分の目からも熱い涙が流れているのに気付いた。
─感情を逆なでするだけだよ。
 大樹は咲子がうらめしかった。咲子の悲しみが深い以上、自分は慰める立場に回る。けれど、本当は自分だって、つらい。つらさを紛らわせようと、努力している。なのに咲子ときたら、どうしてそんなに自分を苦しめたいのか。
 咲子は手と膝を動かして大樹の膝に顔をうずめた。大樹の耳に届くのは、低く、くぐもった、妻の泣き声ばかりであった。

 大樹は事の次第を述べると、視線を産着に落とした。
「赤ちゃんって、妊娠したらゴールじゃないんですね」
 大樹の顔には未だに微笑が浮かんでいたが、言葉と言葉との間に歯をギリリと食いしばっている。
「そんなこと、分かり切っていたんですが」
「…はい」
 杏奈は、自分の目がじわじわと熱くなるのを感じた。
「でも、僕はこういうことがあって、やっと、子供を諦める決心ができたと思います…咲子も」
「…そうですか」
 杏奈は項垂れた。大樹は門扉のほうへ視線を向けて、
「あかつきに滞在させてもらって、僕たちはちょっと期待をもてました」
 と、うっすら笑いを浮かべたまま言った。
「もしかしたらチャンスがあるかもしれないと…妊娠が分かった時、すごく嬉しかった」
 けれど、それと同時に、ものすごく不安に襲われもした。ちゃんと健全に生まれてくるか…
 そして、九週から十週に差し掛かる頃に、稽留流産となった。
「悲しいけれど、僕は、ちょっと安心した面もありました」
 大樹は意外なことを言った。
「だって、命はいつ消えるか分からない」
 杏奈は大樹の顔を見つめた。安心…といいつつ、その顔には悔しさが滲んでいる。
「胎内でうまく育つか、無事出産できるか。出産した後も、ちゃんと成長するか。事故にもイジメにもあわずに、大人になれるか。大人になってからだって、自立できるか。子供のいる友達とか、兄弟を見ていると、みんな、子供がどんなステップにいても、何かしら心配しているんですよね。親にもなっていない自分が、非現実の世界を妄想して心配するのも、変だと思うけれど、これで僕たちは、これから先そういった心配ごととは一切、無縁なんだって。その分何かに、時間や力を使えるって思えば、ちょっと気が楽になりました」
 杏奈は、ゆっくりと頷いた。二人が納得しているのなら、それで良い。
 それで良いが…
 杏奈は奥歯を噛みしめた。やっぱり、悔しい。
 あかつきに滞在して期待を持てたと、大樹は言った。だがその結果、二人は何を得られたというのか。今になって思えば、期待や希望をもたせるようなことは、すべきではなかったのではないか。期待や希望が大きいと、それだけ、落ちた時のふり幅が大きい。
 現に咲子は、悲しみのあまり…その感情を、産着を作ることでいなすしかなかったのだ。その光景を思い浮かべるだけで、杏奈は全身に鳥肌が立ち、目頭が熱くなる。大樹が手に持つ小さな産着を見るのも、忍びなかった。
 しかし、大樹はその産着を、杏奈がよく見える位置にかざした。
「どうしようか迷ったんですが、やっぱりこれは、そばにない方が良いと思いまして」
「…そう、ですか」
 少なくとも今は、その産着は、命の種が流れたという事実を思い出させすぎる。
「今僕たちに必要なのは、そのことは忘れて…忘れはできないけれど、一旦奥に閉まって、気持ちを紛らわせることだと」
 でないと、メンタルがおかしくなる。
「…」
「いつか、そのことに向き合える心の余裕が出てきたら、きっと迎えにいきます。だから…」
 大樹は産着を、透明なOPP袋にしまった。
 そしてその後、大樹がした行動に、杏奈はぎょっとした。産着が入った袋を、杏奈に差し出したのである。
「それまでこれを、預かっていただけませんか」
 杏奈は全身から血の気が引くのを感じた。
「えっ?」
 杏奈は袋を見、大樹の顔を見た。
 咲子の悲しみと、帰らぬ命への思いが詰まった象徴物に対し、杏奈は大きな抵抗感を抱いた。
─どうしよう。
 ぎゅっと握りしめた手に汗がにじみ、小刻みに震えてしまう。
─震えが…止まらない。
 大樹は困惑した。自分の申し出が、応じてもらえないことに。いや、それよりも、目の前の女の狼狽ぶりに。恐怖ともいえる表情を浮かべる目の前の女を直視できず、大樹は目を泳がせた。
─五千円です。
 困惑している大樹を前に、何か言わねばと思うのだが、杏奈の脳裏には、いつかの加藤と美真のやり取りが蘇ってきた。水子供養の地蔵尊像を購入した折、水子観音のお札もどうかと言われた美真は、ほんの少しの間、思案顔になって、
─いらんっ。
 吐き捨てるように言った。
 分からないではない。その時の美真の気持ちも。今こうして産着を差し出す大樹と、大樹が今日こうしてあかつきに行くのを止めきれなかった、咲子の気持ちも。
 しかし、杏奈はその産着に触れるのが恐ろしかった。
 大樹は少し説明が足りなかったのではないかと思い、
「あかつきの皆さまなら、これを、ふさわしい方法で預かってくれるように思ったんです」
 あかつきを選定した理由を述べた。
「自分勝手なお願いですみません。けれど、他に適切な場所が思いつかなくて」
「…」
「近所の寺とか、神社とかにも所縁はないし。第一、こんな個人的なものを預かってくれるとは思えなくて」
「…」
「ここには、お世話になりましたし、僕たちのこともご存知なので、受け入れてくださるのではないかと」
 杏奈は自分を落ち着かせるために、息をほうと吐いた。しかし、吐息は長く続かない。いつの間にか、呼吸が浅くなっていたようであった。
「…あのう、ちょっと、相談させてもらえませんか」
 杏奈は、そう言って一旦逃げようとした。
「オーナーに聞いてみますので…」
 この場から逃げ出したかった。自分の手に負えないと思った。
─私には抱えられない。
 しかし、大樹は許してくれなかった。かぶりを振って、強い意志を宿した目で、まっすぐに杏奈を見た。
 ここに産着を置いていくことは、もう、この人の中で決定してしまったことなのだ。産着とともに、悲しみから逃れたいのだ。
─一刻も早く…
 大樹がそう望んでいるのが伝わってきた。
「…」
 杏奈は、ゆっくりと右手を差し出した。
 大樹はそっと、産着の入った袋を杏奈に差し出す。
 袋を通して、指先が産着に触れた瞬間、杏奈は自分でないものが、全身を駆け巡るのを感じた。
─手を放したい…
 そう思う気持ちとは裏腹に、左手も差し出し、両手で袋を持ったのは、大樹が、それを望んでいるからに他ならなかった。
「…あのう」
 杏奈は足元に視線を落とし、回らない頭で考えた。
「この産着の管理方法については、あかつきに任せてもらえますか」
「はい」
「オーナーともよく相談して、どこに、どうやって保管するか、決めます」
「はい」
「もし、大樹さんと咲子さんが、これを取りにいらしても、その時には、別のところにあるかもしれません」
「…はい。それでもいいです」
 大樹の表情も声音も、穏やかなものに変わっている。全てを委ねる意志があるのを、見て取った。
「ご迷惑をおかけしますが、どうぞ、よろしくお願いいたします」

「杏奈、戻ったの」
 美津子はストリングカーテンをくぐると、応接間の自席の傍に立っている杏奈に声をかけた。
「夕飯もうできてるわよ」
 そう言って、身に着けていたエプロンを取り、
「羽沼さんとの打ち合わせで頭を使ったでしょう」
 そのエプロンを自分の椅子にかけると、テーブルの上に出ていた自分の仕事道具を一つにまとめる。
「食事を済ませたら、早いところ休みましょ…」
 美津子は言いながら、異様な雰囲気と、透明なOPP袋に包まれたあるものが視界に入って、無意識に片方の眉がピンと上がった。
 杏奈の顔からは血の気が引いていた。もう二度と楽しいことが起きないと思っているかのような、生気のない顔。このような表情を見るのは、ずい分と久しぶりだ。会ったばかりの頃、杏奈はこういう顔をしていた。
 机の上に置かれているのは、新生児用の産着のように見えるが…
「どうした」
 杏奈は目の前に立つ美津子の目を見て、
「大樹さんが、今、いらっしゃって…」
 経緯を聞くと、美津子はそれに対する自分の感情や見解を述べるより先に、小さな産着を手に取った。杏奈は、美津子がそれに進んで触れようとしたことが、ちょっと信じられない。それに触れても、平気なのか。
 美津子は慈しむような目でそれを眺めながら、視界の片隅で、杏奈の反応もまた眺めていた。話さなくても、杏奈が今どのような想念を抱いているか、美津子には分かる。あらゆる意味で、受け入れがたい。この現実から逃れたいという抵抗。不安と、恐怖。
「大丈夫か」
 美津子は、だから、そう尋ねずにはいられなかった。
「はい。…」
 杏奈は伏し目がちに答えた。
 言いたいことがあっても、思っていることがあっても、それが口から出てこないのが、この子の性分。
 失われた小さな命の象徴。よりによって、それがこの子の手に渡ってしまうとは。
「どのように管理するかは、私が考えるわ」
 杏奈は美津子が手に持つ産着から視線を逸らしたまま、頷いた。
「すみません」
 謝ったのは、それは産着を引き取った自分が考えなければならないことだと、思っているからだった。
「お願いします」
 美津子は杏奈がそこからいなくなると、仕事道具と一緒にその産着を応接間から運び出した。そして前室の、和箪笥の中にしまう。杏奈の目に、なるべく触れさせてはならないと思った。

 夜の闇を、これほど寂しく、心細く思ったのは、いつぶりだろう。
 夜のあかつきの周りには、人口の灯りはなく、車が通る音もせず、人の気配もない。
 その日、杏奈はなかなか寝付けなかった。無力感があり、体も心も重く、体は休息を求めていたのに、なかなか休まらない。それでも横になり続け、何度も寝返りを打つ。暖房をつけていても、いつもにも増して、体が冷えた。
 浅い眠りに入りかけたのは、何時頃だったのだろうか。そのまどろみの中、脳裏に響いてくる声があった。
─お前は、私たちを利用しようとしている。
 誰の声なのか、分からなかった。
─受胎力を上げるなどと嘘をついて。
 嘘?
 嘘ではない…だって、そこが目的とは言っていないのだから。
 それに私は、ほんとうに…
─アーユルヴェーダを振りかざして、金儲けをしているだけだ。
 そういうつもりではない。
 はっきりと分かることだけが、結果ではないのだ…
─利用した者は、代償を払うべきだ。
 同じ痛みを、知るべきだ。
─お前も、子を─
 杏奈は夢の中からがむしゃらに抜け出した。
 早く夢から覚めろと自分で自分を叩き起こしていた。
─やめろ。
 自分に言い聞かせた。
 感傷的になるのはやめろ。
 杞憂を抱くのはやめろ。
 自分の仕事に、自信をもて…
 頭では分かっている。けれど、潜在意識の中には未だにその迷いと恐れがある。
─あんなことがあったからだ…
 白くて、小さくて、柔らかい…
 それに触れた感覚を思い出した時、杏奈は布団から抜け出て起き上がっていた。また、息が浅くなっている。
 杏奈は母屋へと向かった。思ったよりも眠れていなかったらしい。外は真っ暗。母屋の中も真っ暗。スマホの灯りを頼りに、いつもと違う方向に進む。
「美津子さん」
 前室から呼びかけても、返事はなかった。
 時刻は午前0時を回っている。たたき起こすという事実は変わらなくても、こんな時間に起こすのは迷惑だという遠慮が、杏奈の声を自然と小さくさせた。
 そういえば、美津子はあの産着をどこへしまったのだろう。もしかして、この部屋か美津子の居室にあるのだろうか…
「美津子さん、すみません」
 そうだとしても、一人で離れにいるよりは、こうするほうが幾分ましであった。
 前室の奥から衣擦れの音がして、ほどなくそっと襖が開いた。
「すみません、あの…ここで一緒に寝させてもらえませんか」
 起き抜けの美津子の顔に、やや狼狽の色が浮かんだ。
「眠れないのか」
「ちょっと怖くなっちゃって…」
 何が怖いのか、美津子は尋ねなかった。黙って杏奈を中に通してやると、自分の布団を隅に寄せ、もう一式、布団を敷いた。

 あの産着をあかつきの外に持って行きたいと、杏奈が申し出たのは、朝になってからのことだった。あかつきの外…と言っても、杏奈に当てがあるわけではない。
─あの産着をあかつきの中で保管することは、耐えられないらしい。
 美津子の感情の動きを敏感に察知していた。あれがあることによって、何かを感じてしまうらしい。
「分かった」
 美津子は多くを詮索しないことに決めていた。
「でも、今日は施術があるから…」
 地元の常連客の予約が入っており、美津子が指名されている。
「後で持って行く」
 しかし、杏奈はそれでも不服そうだった。ここにあれがある限り、心が支配されてしまうらしい。
 美津子は思案したが、選択肢はいくつもない。
 こういう時、頼れる人といったらあの人しか思い浮かばないし、産着を預けるのに相応しい場所も、あそこしか思いつかなかった。

 山門へと続く長い階段を、今、杏奈は一歩一歩登っているところだった。
 この寺へは何度か来たことがあるが、一番最初にこの寺に来た時のことが思い出される。その時一緒だったクライアントもまた、子を失っていた。
 そして今、リュックの中には、子を失った両親の想念が詰まった産着がある。階段を登りながら、赤ちゃんと、その赤ちゃんの両親の気持ちを一緒に背負っているような気がした。
 山門から後ろを振り返って眼下を見渡すと、広葉樹が多いこの界隈の、冬枯れの景色が目に映った。山門をくぐり、整えられた庭を横目に見ながら、池にかけられた橋を渡る。それから先はまた階段であった。
 今日は天気が良いが、凍えそうなくらい寒い。それでも階段を登っているうちに、少し体が温かくなってきた。
 息が上がってきたところで、行く手に一人の男が立っていることに気付く。
「ご縁さま」
 美津子から連絡を受けて、ここで待っていてくれたのだろうか。
 加藤は杏奈を見ると、柔和な目を細めて、少し脇に退いた。両手を体の後ろで組んでいる。
「すみません、突然」
「なんの。車で来たか」
「はい」
 日曜日。バスは半日に一本という間隔であった。杏奈は、加藤が数本の寒椿の枝を持っていることに気が付く。
 少し雑談をした後で、加藤はおもむろに本題を切り出した。
「そのクライアントのことは、残念だったな」
「はい」
「例の産着は…」
「ここにあります」
 背負っていたリュックの肩紐を片方の腕から抜き、本体を体の前で抱える。
 加藤は頷いて、地蔵堂の前まで進み、そこで足を止めた。
「今ここで供養するから、立ち会うといい」
 杏奈は目の前の小さなお堂と、水子観音、そしてお堂の傍を埋め尽くす、小さな、たくさんの地蔵尊像を眺めた。随所に花立てがあり、新しい仏花が手向けられている。
「今からここで?」
「ああ」
 加藤は杏奈に向かって、片方の手を差し出した。
「産着をこちらへ」
 杏奈はそう言われて、リュックから透明な袋を取り出し、中の産着だけを両手で持つと、捧げるように加藤に渡した。加藤は椿の枝を持っている方の手も添えて、両手でそれを受け取る。
「かわいい産着だな」
「…」
 杏奈は加藤の言葉に、なんと答えたらいいか分からない。晴れない表情で、加藤がすることを黙って見つめる。
 加藤は産着に、手に持っていた椿の花を二輪挿し込んだ。白地の産着に、寒椿の赤が映える。そしてその産着を、水が張られた水盆の中に、そっと浮かべた。
「あ…」
 産着はみるみるうちに水を吸ったが、それでも水の上にぷかぷかと浮かんでいた。
 加藤は水盆の足元に置いてあった道具入れの中から線香とマッチを取り出し、線香を縦に立てかけて、火をつけた。
 加藤が手を合わせるのを見て、杏奈も手を合わせる。
 読経が上がった。
 加藤が経を読むのを聞くのは、これが初めてだった。低く温かみのある加藤の声は、この地で眠る水子を包み込むような優しい響きをもつ。
 読経が終わった後も、加藤はしばらく目を瞑ったまま、手を合わせていた。杏奈は目を開けて、加藤が動き出すまで、黙ってそこに立っていた。
 供養が終わると、
「…せっかく来たんだ」
 加藤は後ろを振り返って、杏奈に向かって微笑んだ。
「お茶でも飲んで行くか」
「…ありがとうございます。でも」
 杏奈は首を小さく横に振った。
「大丈夫です」
 読経を上げる、加藤の優しい声を聞いていた時、杏奈は自分の役割は果たされたと思った。ここで預かってもらえるなら、安心だ。産着も、
─ご両親の思い、も…
 そう思った時、杏奈は改めて、加藤の顔を見つめた。加藤は杏奈の視線に気づくと、
「じゃあ、そこで少し話をしよう」
 と言って、地蔵堂のすぐそばの屋根付きの休憩所に誘う。
「故人のことについて話すのも、供養の一つだよ」
 二人は、地蔵堂に向き合う位置に並んで座った。
─この人は今まで、どのくらい多くの人の気持ちを、受け止めてきたのだろう。
 寺の住職の仕事がどのようなものか、今まで考えたことがなかった。
 けれど、この人が日々向き合っていることの重さと、その数を思えば…杏奈は、あの産着を外に出せて安心と思っていた自分が、ひどく身勝手だと感じる。

「不妊治療をされていたそうだね」
 加藤はあの産着を縫った女性のことについて尋ねた。
「はい…八、九年近く」
「そんなにか」
 それだけ多くの時間と意識をそこに割いて、最終的に残ったのがあの産着だった。
「どんなお母さんだった?」
「…きれいな人です」
 ハーフアップの髪型が似合っていて、愛嬌があり、誠実だった。
「とても真面目で優しくて」
 杏奈の脳裏に、これが最後と決意してあかつきに滞在した、咲子の姿が思い浮かんだ。
「子供を持ちたいという思いが強く、ひたむきに努力しておられました」
 そう言いながら、下瞼のあたりが、じんわりと熱くなってくる。感傷的になりたくないのに、しみったれた声しか出ない。
「そうか」
 そんな杏奈とは対照的に、加藤は朗らかな声で、
「生まれてくる前からそんなにお母さんに思われていたとは、幸せな子だな」
 杏奈は少し、顔を背けた。
─そんなこと、言わないでよ。
 心の中でそう抗議したのは、それでまた、目が潤んできてしまったからだった。鼻がつんと痛い。
「お父さんは」
「…少ししか会っていませんが」
 咲子に比べて、その人となりを知る機会は少なかったが。
「子供が持てるかどうかより、咲子さんのことを心配しているように見えて…」
 それから、小須賀や羽沼から聞いた話を思い出す。
「妊活に対しとても前向きに、自分ごととして携わって、何があっても自分が責任をもつという態度でした」
 それはとても、男らしいといえる。いや、人間的に成熟した態度だといえる。
 加藤は満足そうに笑った。
 二人のことを話すと、少し胸がすっとした。杏奈は短く鼻をすすると、膝と顔を加藤のほうへ少し向け、
「ご縁さま」
 気になっていたことを、尋ねた。
「受精卵は、いつから命と呼べると思いますか」
 加藤は一瞬真顔になった。しかし、その回答を思案するのに、そんなに時間はかからなかった。
「私はどの周期に、命の種がどんな状態になっているのか、詳しくは知らない」
 何をもって、どの段階から命と呼ぶか。それは誰もが同じ意見を持っているわけではない。
 たとえば、法的には妊娠12週以降に亡くなった胎児を出産することを「死産」と呼び、必ず火葬が必要である。一方、医学的定義では妊娠22週(6ヶ月)未満を「流産」、妊娠22週以降を「死産」とする。人工妊娠中絶が可能なのも、法律上、22週未満まで。それ以降はいかなる理由があっても、母体保護法によって禁止されている。
 だからといって、受精卵が命であると認められるのが、12週とか、22週とかで区切られるわけではないだろう。
 少なくとも、この寺に地蔵尊像をおさめていった親たちは、何週だったかに関わらず、失われた命に対して特別な感情を抱いていた。
「順正の方が、より深い考えを持っているかもしれないな」
 ひどく懐かしい名を聞くような気がした。昨日の夕方までは、順正のことを気に掛ける余裕があった。彼にまた会うことがあれば、また自分にできることをしたいと思っていたのに…
 杏奈は今、違う意味で、順正に会ってみたくなった。
「アーユルヴェーダでは」
 加藤は、杏奈に逆に問うた。
「いつから命とみなす?」
 杏奈は加藤を見つめて、また、視線を足元に落とした。
「生命は受精の瞬間に始まります」
 経典の中では、そう述べられていた。
「受精とは、肉体的としての精子と卵子、心、魂が合体することです」
 心(精神)を受ける─
 受精とは、文字通りの意味であった。
 加藤は、目を細めた。すでにアーユルヴェーダ的な答えを持っているにも関わらず、杏奈は自分に質問をした。それはすなわち、
「でも杏奈は、そうであってほしくないと思ったのか」
 別の意見を求めた、ということであろう。杏奈は無意識に、手を握りしめた。
「心をもった存在が…」
 顔を下に向けながらも、視線は水盆に向いている。
「その心ごと肉体を失ってしまうのは、悲しいことです」
 魂は永遠と言われるけれど…
「特に両親が、全力でその子のことを呼んでいたのに…」
 目頭が再び、急に熱くなった。口が歪む。
「その両親のところにいけないなんて、可哀そうです…」
 杏奈は俯き、両手で顔を覆った。
 加藤は、顔を杏奈のほうへ向けず、空を仰いだ。
 杏奈はすぐに、手で涙をぬぐって、居ずまいを正した。こうした自分の思いもまた、加藤が受け止めることになるのだと思うと、あまり甘えてはならない気がした。
「でも…あの産着をこちらへ預けられてよかったです」
 身勝手だとも思うが、それが本音。杏奈は普段通りの声を取り繕った。
「ここなら、他の子供たちと一緒だし、ご縁さまに、時々声をかけてもらえますもんね」
 読経のことを、杏奈は声と言った。音は波動をもつ。声は時に、癒しの波動となる。
 加藤はふっと笑って、
「声をかけているのは、私だけじゃない」
 沈んだ表情でいる杏奈に、加藤は顔を向けた。
「この子たちのご両親も、いつも声をかけてるよ」
 場所は関係ない。潜在意識の中で、その子のことをずっと思っている。
「お前になら、分かるはずだ」
 それで杏奈は、確信した。やはり、加藤には気づかれていたのだ。おそらく、ここへ最初に来た時にはもう…
「…意識の中で、潜在意識の中で、その子のことを思う人が誰もいなくなった時」
 加藤は再び視線を、水盆と地蔵尊像たちのほうへ向けた。
「はじめて、その子は死ぬのだ」

 善光寺から帰ったその日も、杏奈は美津子に、同じ部屋で寝たいと言った。そんなことは、今まで初めてだった。
 怖かったのだ。
 美津子はそんな杏奈の頼みを、無下にはしない。杏奈は、昨日ほど取り乱していなかった。しかし、まだその表情には翳りがある。
 翌朝、美津子は杏奈より少し早く目を覚ました。朝食当番の杏奈の起床は、もともと早いが、それよりも早く…。
 美津子が起きた時、まだカーテンの奥は薄暗かった。
 美津子はそっと襖をあけ、前室の和箪笥に歩み寄り、上段の引き出しを開けて、あるものを取り出した。
 ダイアモンドの結婚指輪。
 それは、母の形見であった。
 美津子は指輪をリングケースの中に戻して引き出しの中にしまうと、再び寝室に戻った。布団に入って仰向けになりながら、こちらに顔を向けて横寝している杏奈にふと視線をやる。
 まだ眠っている。その幼い子供のような寝顔を見て、美津子は自然と微笑を漏らした。そして、また、目を閉じる。
 杏奈はいつもとほぼ同じ時間に起床し、キッチンに立った。料理を作る時は、ほとんどのことを忘れられる。けれど今回ばかりは、自分が信じていたことが幻であったような気がしてしまい、集中が途切れる。
 望む者が、望む時に、子供を授かる。
 アーユルヴェーダをツールとして、そのサポートができたらと思っていた。子供を授かれなくても、健全な精神と肉体をもつことに繋がると、散々クライアントには言ってきた。
 しかし、そんなのは体のいい言い訳である。望んでいるのはあくまで子を残すこと。
 だからその言い訳は、誰よりも杏奈自身に通用しなかった。
 自然を欺くことはできない。子供を宿せない。それがその人の自然であるのなら、それに従うことを受け入れさせなければならない。
─分かっているけれど。
 杏奈は、お玉の中で味噌を溶かしながら、細く短く、息を吐き出した。
 それでも、自然を欺きたかった。
「美津子さん、朝ごはんできました」
 杏奈はキッチンから出ると、居間にいた美津子に声をかけた。
「もう食べますか?」
 美津子は、それには答えず、応接間のテーブルであるものを取ると、杏奈の傍まで歩み寄った。
「杏奈」
「はい」
「これを持っておきなさい」
 手を差し出されて、杏奈はとっさに手の平を上に向けて受け取る形を取った。
─え?
 手に置かれたのはリングケースであった。
 美津子をちらと見てから、中を開けると、そこにはダイアモンドが埋め込まれた一つの指輪。婚約指輪か、結婚指輪であろうことは分かる。しかし、美津子は結婚していない。
 杏奈は、それが誰の持ち物か、すぐに分かった。
「美津子さん。これは、お母さんの…」
「私には今は、必要ないから」
 杏奈は口を開けた。美津子のガイド付き瞑想に慣れ親しんできた杏奈は、この宝石が意味することを知っていた。
─ダイアモンドは…
 ぽかんとする杏奈に、美津子は微笑を向けている。
─自分を導く石。
 心の作用が邪魔していると、曇っていて見えないが、本来誰もが生まれながらに持ち合わせている、輝き。その象徴でもあった。
「身に着けておきなさい」
 その大切な宝石を、美津子は、自分に預けようというのだ。その気持ちはありがたいが、
「これは、美津子さんにとって大切なものじゃないですか…」
 杏奈は、申し訳ない気持ちのほうが勝っていた。しかし、美津子からはてこでも譲らぬという気を感じる。だから杏奈は、次の言葉を発せられなかった。
 美津子は微笑を崩さぬまま、この誰よりも内省的で生真面目な弟子に、念を押した。
「身に着けておきなさい」

 

 


 

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