第11話「医療芸術」アーユルヴェーダ小説HEALERS

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「んだよ、時間なのにこねーじゃん」 
「そんな…」
 杏奈は呆然と立ち尽くした。
 真夏の太陽がじりじりと照り付ける。
 あかつきから町へと続く林道をじぐざぐに下って車道に出ると、そのまま十五分ほど歩いたところに最初のバス停がある。平日の昼間。バスは二時間に一本しか出ていない。そのタイミングを見計らったというのに、来ない。
「もう行っちまったんじゃねーの?」
 杏奈の前で、一人の少女が声を荒げた。
 ややウェーブがかかった長い茶髪、杏奈より少し高い背、若そうに見えるのに化粧はしておらず、頬のあたりにそばかすがある。黒いティーシャツ、デニムのショートパンツ、白いスニーカー、赤いキャップという服装で、やたらとブレスレットや指輪をつけている。ショートパンツからのぞく脚は、痩せ過ぎていない、ほどよい肉づきである。脚をこんなにもさらけ出せるということは、十代後半か、あるいは二十代前半か。
 杏奈は、この少女の歳も知らなければ、どこから来たのか、何の目的で来たのかも、知らなかった。
「あっちいなぁ」
 この女、美真は、赤いキャップを取り、つばの部分を手で持って扇いだ。
 七分丈のジーンズに、白いシャツ、グレーのパーカーという、いつもとさほど変わらない格好をしていた杏奈は、フードを頭にかぶせた。暑苦しいが、直射日光を防いだ方が良い。
「バス会社に、電話してみようかな…」
 でもどこの会社に連絡をしたら良いのか、分からない。検索エンジンにキーワードを入れるところで、杏奈は絶望しかけた。
「もういいよ。歩こうぜ」
 美真はやたらと大きい声で言った。かすれた声だった。
「こっから寺までどんくらいかかるんだよ」
「えーっと…」
 杏奈は経路アプリを起動し、調べた。美真の歳の頃は分からないが明らかに年下である。それななのになぜ、こんな風に指図されないといけないのかと疑問に思いながら。そもそも、この少女に同行する義理はないというのに。
「え~」
「どうした?」
「ここから五十分。バス停まで歩かずに直接向かっていれば、十五分は短縮できたのに…」
「なんだって?」
 美真は声を荒げた。こんなに分かりやすくオーバーな反応をしてくれるのも、ヤンキー少女らしい。ヤンキーかどうかは分からないのだが、見たところ、そんな感じがする。
「くっそー。こうなったらまたヒッチハイクするか」
「え?やめてくださいよ、怖いなあ」
「うっせえ!」
 美真は眉を吊り上げて、きぃっと振り返った。
「お前も女に生まれたからには、少しは女を活かしやがれ!」
 そんなことを言われて、しかし、杏奈は不思議と怒る気にならない。口は悪いが、この女にはどこか愛嬌があるのである。
 それよりも、この炎天下の中、五十分も歩くというのは…
─美津子さんに車出してもらおうかな。
 そう思ったが、杏奈はすぐに思い直して、一人で首を振った。美津子には仕事がある。こんなことで迷惑をかけるわけにはいかない。かといって、あかつきの車を借りて、行ったことのない所へこの子を連れていけるほど、杏奈にはまだ運転の自信がなかった。
 杏奈は、帰りが少し遅くなると思う、とだけ、美津子に一応連絡を入れた。
 どうしてこんなことになったのか。話は一時間ほど前にさかのぼる。
─道に迷った…?
 書斎で勉強をしていた杏奈にも、美津子と美真の会話が聞こえてきた。
 この日、杏奈は休みをもらっていた。正確には、委託されている業務以外の時間は、あかつきの仕事から放免されているべきなのであるが、杏奈は生真面目な性格からか、この母屋にいると何かしら仕事をしようとする。だから、美津子から釘を刺された。今日は家事を含め、何もするなと。
 そこで杏奈はアーユルヴェーダの自主勉強に励んでいた。パソコンに一つ専用フォルダを作り、エクセルに読んだ本や論文のタイトルを羅列する。読んだものから丸をつけ、重要な箇所を抜き出して、ノートアプリやパワーポイントにまとめる。いわば、自分のノートを作りながら知識を蓄積しているのであった。
 そんな時に来客があり、杏奈が出ようとするのを制して美津子が対応した。すぐに、あかつきに用がある客ではないということが分かった。
─善光寺に行こうとして、迷いました。
 足込善光寺は、加藤が住職を務める寺だ。
 美真は足込駅で電車を降り、そこからはヒッチハイクをして町の中心部まで移動したが、そこからあかつきまでは、徒歩でやって来たという。
 美津子はいかがわし気に、首を傾げた。
─善光寺は、足込駅を基点とするなら、こことは反対方向ですが。
─神社と間違えました。
 本当なら、間が抜けすぎている。
─ここから一番近いバス停まで歩いてバスに乗れば、そう遠くはないですよ。
 美津子はそう言って、美真に少し待つように言った。
─次は、十三時四十五分です。
 美津子はバスの時刻表を印刷したものを美真に渡した。二人の会話を小耳に挟んでいた杏奈は、パソコンの右下に表示されている時刻を見た。あと三十分ある。
─二時間に一本くらいしかないバスだから、これを逃さない方がいいわ。
─バス停はどこですか?
 美津子がいろいろと説明をしている。美真はどうも行き方について、要領を得ないらしい。
─善光寺か。
 加藤に太極拳を教えてもらった日のことを思い出す。そのうち寺に遊びにおいでと言われていたが、まだ行ったことがなかった。
 杏奈はスマホの経路マップを起動し、足込善光寺と入力する。初めてではあるが、このアプリさえあれば迷うことはないだろう。バスに乗ればそう時間もかからない。
 杏奈はパソコンといくつかの書類を片付けて、水筒にお茶を入れた。暑くて、着ることはないだろうが、日よけのため一応パーカーも持って行く。
─美津子さん。
 杏奈は玄関にちょこっと顔をのぞかせた。美津子と相対していたのは、意外にも若い女の子だった。どこか物憂げな、厭世的な表情をしている。こんな若い子が、寺に何の用事があるのだろう。
 訪ね人が自分よりも若そうな女の子であったことは、杏奈の背中を押した。
─この方を案内しつつ、私も善光寺まで行ってきますよ。
─杏奈、今日は休日でしょう。
─休日ですから、羽を伸ばしてきます。
 そろそろあかつき以外の足込町も見てみようと思っていたところなのだ。朝から勉強し通して、少し集中力も切れてきたところだし、不安な一人旅をしている女の子の力になりつつ、運動を兼ねて出かけるにはちょうど良い。
 美津子はまだ表情を曇らせていたが、何かあったら車で迎えに行くからと言って、あとを杏奈に任せた。
 杏奈は年上の余裕をもって、にこっと美真に微笑んでみせた。しかし、美真は、じい~と杏奈の顔を、痛いくらいに見つめてくるのみ。
─あれ?
 求めていた反応と違うぞ、と内心焦りつつ、後には引くこともできず、少し荷造りをしてから、美真を連れて外へ出た。

「自販機もねえのかよ、この町は!」
「さすがにわかばまで行けば、飲み物は買えると思いますけど…」
 やっと町の中心部まで来た。ここからあと半分くらいの道のりがある。足込町は起伏が多いとはいえ、たかだか歩いて五十分の距離。健脚をもつ二十代の女性なら、問題にはならないはずだった。
 だが、何せ暑い。七月下旬の午後一番。普段なら、危険な暑さを疎い、外には出ない時間帯だ。
「何だよわかばって」
「スーパーのことです」
 といっても、街中のそれとは違う。杏奈はこの地に来て初めてわかばを訪れた時、その規模の小ささに絶句した。取り扱っている商品が少なく、午後に行こうものなら、肉や魚などはほとんどが売り切れてしまう。足込温泉へ納品するお弁当のための仕入れをする際、わかばに求めていたものがなく、他のもので代用するということも珍しくなかった。
 杏奈は水筒の水をごくりと飲んだ。
「なんだ、お前飲み物持ってんじゃねえかよ」
 美真は杏奈に向かって手を伸ばしてきた。これは明らかにたかられている。水筒を出せばそうなるような気もしていたが、杏奈も喉がカラカラで飲まないわけにはいかなかった。
 物憂げな表情をした若い女の子が、初めての町で迷って可哀そう…そんな情けをかけるんじゃなかったと、杏奈は今更ながら後悔した。美津子と相対していた時とは打って代わり、すぐに表れた娘の本性は、ヤンキーとも思えるような荒々しさだった。
 杏奈が不承不承に水筒を渡すや否や、美真は高々と水筒を上に掲げて、唇を飲み口に触れることなく、ドバドバッと水を口に入れた。
─ひゃっ。
 杏奈は心の中で息を呑む。今ので、全部飲み干してしまったのではないか?
「なんだよっ、これ!」
 盛大に飲んでおきながら悪態を吐いた。
「常温じゃねえか!」
「はい…って、もうほとんど空じゃないですか!」
 嫌な予感は的中した。
「文句言うんなら飲まないでくださいよ!」
「こんな暑苦しいのに、真水持って来るやつがあるかよ!」
 なんて子だ。
─帰りたい…
 が、リュックの中には、美津子から預かった本がある。加藤に借りていた本らしく、どうせ行くなら返してほしいとおつかいを頼まれたのだ。
 帰るのは諦めようと自分に言い聞かせている杏奈の前で、美真がいきなりハッとした表情になり、
「あ~!」
 と大声出しながら杏奈の後方に指を差した。ザーッと音を立てて、バスが通り過ぎていった。
「あのバス!うちらが乗ろうとしたやつじゃねえの?」
 杏奈は返す言葉もなく、呆然としていた。
 田舎のバス、時刻通りにやって来ない、さもありなん。
「途上国かよっ!」
 いつの間にか、どしどしと上り坂を踏みしめて、美真が先頭を歩いている。杏奈は美真の後ろ姿を見、坂を上りながら、これでは自分がついていかなくてもよかったじゃないかと思った。
 野郷と呼ばれる足込町の中心部を抜けてからは、周りを草原、雑木林に囲まれた小径を緩く登っている。車道を行くよりも近道なのだ。
「だっり~」
 途中、ここで休んでくださいとばかりの木のベンチがあり、木陰になっていたので、二人は一旦そこで休んだ。
「五十分なんて、とうに過ぎてんじゃねえのか…?」
 体感としては、杏奈も同じ意見だ。暑くて体力の消耗が早いのかもしれない。が、時間的にはあと十五分はかかる。
「お寺に…なんの用があるんですか?」
 息を切らしながら、杏奈は何の気なく訊ねた。
 額の汗をぬぐうタオルに隠れて見えなかったが、その時、美真の顔が、ぴくっとわずかに硬直した。杏奈は息を整えながら、美真に視線をやった。肩掛け鞄からハンカチを出し、美真もまた額の汗を拭いていた。
─無視か。
 この手の子に無視されるのは、しかし、杏奈の中では「普通」である。小学校高学年から、中学まで、杏奈は、同じ学年で不良に分類される生徒たちから、よく無視されてきたのだ。
─もういい。
 杏奈は、寺に着いたら、すぐ帰ってやると心に決めた。一刻も早く、この子とおさらばしたい。
「休んでても暑いだけだし、行こうか」
 先に立って、美真を振り返った。美真は、最初見た時と同じ表情をしていた。物憂げで、感情をどこかに置いてきたかのような、厭世的な表情。
─えっ?
 その表情を見て、腹立たしかった気持ちは一瞬、どこかへ行った。
「見てんじゃねえよ」
 という一言を浴びせられるまでの、ほんの一瞬だが。
 再度、アプリで経路を確認する。善光寺という寺は、小山の上にあるらしい。小山の麓には幼稚園がある。これだけ隣接しているということは、寺が運営する幼稚園だろうか。
 指示通り進むと、じぐざぐに登る道がしばらく続く。あかつきも、野郷よりは標高の高い場所にある。もしかしたら、寺からあかつきのあるあたりが見えるかもしれない。
「あんた、あそこで何してんの?」
 そんなことを考えていたら、後ろから美真に話しかけられた。
「あの人、あんたの母さんじゃねえよな」
 あそこというのはあかつきのこと、あの人というのは美津子のことだろう。
「まあ」
 ちょうど、母と子ほどの歳の差だが、二人のやり取りからして、親子には見えなかったのだろう。
「仕事をしているんですよ」
 杏奈はにべもなく答えた。
「何の仕事?」
 質問が続く。杏奈は少し、面倒くさい。それに、なんと答えれば良いのか。
「お客さまの健康をサポートする仕事です」
 アーユルヴェーダという言葉を出しても分からないだろうと思って、そう言った。
「ふん。漠然と答えやがって」
 杏奈は眉根を寄せて後ろを振り返った。美真は美真で、不貞腐れたような顔をして足元を見ている。
 しばらく二人は無言で歩いた。背中からも、脚からも汗がしたたり落ちているのが分かる。ようやく車道に合流したところで、アプリが示す通り、車道に沿って先へ進んだ。ここから右方向に直進すると、寺に着くのだが…
「んだよ、これ!」
 もはや美真の悪態は聞き慣れた。が、杏奈も心の中で悪態を吐きたい気分に駆られた。目の前には上った先が見えないほどの石の階段。階段の両脇には背の高い石の寺標があり、まぎれもなく「足込善光寺」と彫られている。
「登りますよ」
 もう、どうでもいい。杏奈は淡々と階段を登り始めた。
「ちょっと待て。さすがに車いすで来る人のためのエレベーターとかあるだろ」
「寺にエレベーターなんて見たことありませんよ」
 車で寺の境内まで行くための、もっとなだらかな道はあるかもしれなかったが、ここまで来たら、階段を直登したほうが早い。
 後ろで美真がぶつくさ言う声を聞きながら、杏奈は黙々と階段を上った。時々足を止めて行く手を見やっては、はあとため息を吐いた。

 美津子は久しぶりに、一階の施術室の掃除をしている。ホールの奥、洗面所の隣に設けられている和室は、二階の施術室よりわずかに狭い。真ん中に施術用のベッドが置かれ、小さなメイクルームも備わっている。この小ぢんまりした雰囲気も悪くはないが、二階の施術室を比べると、やや意匠が劣る。そのため、二人以上が同時に滞在する時は、極力、平等に一階と二階の施術室を当てがうようにしている。
 掃除を終えた美津子は、ふとシロダーラポットに近づき、その波文様を、人差し指と中指でなぞった。
 施術をする時の感覚が指先に蘇る。オイルを塗布する流れるような動き。施術をする時は常に背筋を伸ばし、呼吸とともに、スクロールをする。
 美津子にとって、施術はヨガのアーサナと同じであった。
 一時はあかつきの事業を終い、住居を独り身の身の丈にあったものに変え、その代わりに畑と田んぼを今より広く借りて、土に生きようと考えたこともある。感染症の最中、クライアントの足が遠のき、セラピストの養成も中止し、癒す相手も育成する相手も減った時、その思いはにわかに強くなった。自粛ムードが高まる中、多くの事業者がオンラインで提供できるサービスを整えていた時期に、美津子がそれをしなかったのは、事業の継続に消極的だったからである。
 しかし、あかつきのことを覚えていて、数年ごしに訪ねてきてくれるクライアントもいる。
─変わりたいと願う者には、変化を遂げさせてあげたい。
 それは、あかつきを創立した当初からの、美津子の願い。
 施術室を出てホールを歩いていると、戸が開け放たれたままの書斎の入り口から、杏奈の勉強した痕が目に入った。パソコンに日射しが降り注いでいるのが気になり、美津子はカーテンを閉める。
 あかつきの持ち物である本や設備を、我が物顔で使うくらいには、杏奈もこの環境に慣れたようだ。
─千本ノック?
 先日、杏奈がそう言った時、美津子は思わずオウム返しした。千本ノックとは、杏奈が学部生時代に所属していたゼミで使われていた言葉である。その分野の課題を見つけるために、とにかく先行研究を千本は読む。やみくもにでもそうしているうちに、知識が備わり、未解決の課題が分かってくるのだと。
 アーユルヴェーダの文献を手当たり次第に読む。ネット上に出ている情報を手当たり次第に読む。日々自分の行動とあてはめて考える。季節の食材を使ったレシピを作り、写真を撮りだめする。そしてなにより、自分がアーユルヴェーダ的な実践をして、心の静寂の中に安らぎを見出すことが大事。
 杏奈は暇さえあれば、勉強と自己鍛錬に励んでいる。真面目なのは認めるが、果たして、二十六、二十七の女性が、たまの休日もそのようなことに時間を費やすのは、果たして健全といえるのか。
─この子もまた…。
 美津子は大きく息を吐いた。
 それにしても、この受験生のような机の散らかりようは、いつかの記憶とオーバーラップするものがある。
─まだ、帰ってこないな。
 これだけあかつきに籠っているのだから、たまには外に出ていたほうが健康的だ。
 しかし、それは自分自身にも言えることだ。美津子はさっと踵を返すと、キッチンに向かった。

 階段を上り終えた二人は山門をくぐると一目散に手水舎に向かい、そこで手を清めるよりも早く水を口に含む。手頃な腰掛石に腰かけ、はあはあと息を整え、汗をぬぐった。落ち着いてから、改めて境内を見回すと、質素だが美しい庭園に、池があり、池にかかる橋を渡った先に、道が続いているようだ。
「まだ登るのか…」
 美真がげっそりとした顔を橋の向こうに向ける。その先は広葉樹の青々とした葉に遮られて見えにくいが、階段が続いているらしい。
「行くぞ」
 美真は意を決したように、戦場にでも出かけるような勇ましい声を出した。杏奈は返事をする代わりに、立ち上がった。
 池には美しい鯉が泳いでいる。庭園にはこの時期らしい草花が咲き乱れていて、きっと四季折々で風情のある姿を見せるのだろう。しかし、二人は池や庭園をじっくりと見ることなく、日射しから逃げるように池にかかる橋を渡り、木陰に入ると速度を緩めた。やはり、そこから先も石段が続いている。
「はぁ…まさかこんな、山登りみたいなことをするなんて」
 杏奈は諦めたようにとぼとぼと階段を上がる。いつしか杏奈と並んで歩いていた美真は、訝し気に顔を杏奈に向ける。
「もしかしてと思ってたけど…あんた、ここに来たことないの?」
 ぎくっと杏奈は肩をこわばらせる。別に、隠していたつもりもないし、来たことがなくても、詫び入れるようなことでもないのだが…
「ありません…けど」
 決まり悪そうに、杏奈は答えた。
「ンだそれ」
 暑さに体力を消耗しているのか、美真の悪態は、今までほど勢いがない。
「じゃあなんで、案内するなんて言ったんだよ」
「それは…その…」
 美津子とのやり取りを聞いていた杏奈には、美真が誰かに同行を求めているように思えのだ。その時は、確かに。ただ、美真の顔を見、態度を知ったとたん、それは不要の気遣いだったと感じたが…
「たまに町を、散歩するのもいいかなって」
「暇かよ」
 吐き捨てるように言った。
「お前、ここに用事があるわけじゃねえのか」
「はぁ…あるような、ないような」
「どっちだよ」
「美津子さん…さっきの女性に、おつかいを頼まれているので、それは果たさないと」
「ふん。散歩だの、おつかいだの、呑気なやつだな」
 階段を上り終えると、右側に木のベンチが円を描くようにして配置されている、屋根付きの小さな休憩所があった。その手前には、水盆を抱いた石柱。突き当りには、大きな観音様の石像、そしてその右側には…
─…え?
 杏奈の心臓がドクンと強く鼓動を打った。暑さに緩んだ体が、その一瞬、凍り付いたように固まり、寒気が走る。
 それ以上、進んではいけないような気がした。しかし、美真は吸い寄せられるように観音像の前に進み、その右手を見やる。広く浅い浴槽のような石の囲いの中に、何体もの地蔵像が納められている。灰色みがかった水色で、大きさは、ビール瓶より一回り小さいものが一番多かったが、もっと大きなものもあった。真新しい花がいくつも手向けてある。
 杏奈はうなだれた。横目で美真を見ると、あかつきの玄関で最初に見た時と同じ、厭世的な、気の抜けたような顔をしていた。
「お前付き合うか」
「はい…?」
 美真は小さな地蔵像たちから、視線を逸らさない。
「水子供養」

 美津子は大きな紙袋を下げ、日傘を差し、栗原神社へと足を進めていた。神社までの散歩は、頭の中を整理するのにちょうど良い。
 神社の駐車場には、いつもより多くの車が停まっていた。
 鳥居の前でお辞儀をし、美津子は西参道を歩く。日射しを杜の木々が遮るので、ここまで来ると日傘を差す必要はないし、心なしか涼しい。
 何組かの参拝者とすれ違った。こんな田舎の、山深くの神社だというのに、平日でもよくこれほど訪れる人がいるものだ。特に今日は、二世代で来ている人たちが多いように思う。若い夫婦と、そのどちらかの両親。または双方の両親。
 美津子はいつものように、手水舎を通って社務所に寄り、若い巫女に声をかける。
「花神殿へお邪魔させてもらいます」
 巫女は心得たように頷いた。美津子が花神さまへお供え物をしに度々神社を訪れるようになって久しい。
 参集所を横切り、本殿の前を回り込むようにして、本殿の東の花神殿に向かう。
「美津子さん」
 途中で誰かから呼び止められた。声がした方に顔を向けると、ご神木の前で、一人の老人が竹ぼうきを片手に手を挙げた。
「宮司さま」
 老人は背が低く、めっぽう痩せている。茶色い甚平姿で、下駄を履いていた。平時でも口をすぼめているように見えるのは、皺のせいか。老人はだいぶ高齢に見えるが、禿げてはおらず、細い白髪を木漏れ日にさらしていた。
「今日も何か持ってきてくれたのか」
 老人は美津子の紙袋の中に興味があるように、しきりに視線を注いだ。
「はい。今日は、瓜のコンポートを持ってきました。花神さまにも、瓜を」
 老人が目を丸く見開いたので、
「瓜の砂糖漬けです」
 と美津子は説明を加え、紙袋の中からビニール袋を取り出し、紙袋のほうを老人に渡した。老人は紙袋の柄を両手で持ち、そこに納められているガラス容器を覗いた。
「うまいのか?」
「おいしいですよ」
 老人は愉快そうに笑った。
「じゃあ、あとでいただきます」
「はい」
 美津子は一礼して踵を返す。その背中に、再び老人が声を掛けた。
「美津子さん」
「はい」
「わしはな、もう宮司ではない」
 美津子は振り返って、老人を見つめた。
「もう引退よ。そろそろ、せがれのことを、宮司と呼んでくれ」
「でも…」
 美津子は老人に向き直って、
「神主さまは、生きている限りは、あなたさまが宮司だと」
 だから神主は、その神社の最上級の等級であることを示す白い袴を未だに身に着けず、紫色の袴を履いている。
 しかし、老人はかぶりを振った。
「実質、わしゃ何もしとりゃあせん。こうして境内の、掃除をするくれえなもんで」
 老人は集めた落ち葉を、竹ぼうきではたいてみせた。
「わしのひ孫たちは、宮司をもじって、わしのことをぐうじいと呼ぶ」
 美津子はふっと噴き出した。
「本当だで。だからあんたも、わしのことは宮司ではなく、ぐう爺と呼んどくれ」
「はい。ぐう爺さま」
 美津子はこの素っ頓狂な老人に一礼をして、再び背を向けて花神殿へ向かった。開け放たれた入口をくぐり、花神さまへ近づく。といっても、そこには神の像があるわけではなく、花神さまをまつる祭壇があるだけだが。
 ビニール袋の中からお供え物を出し、覆ってきた新聞紙を取り払う。あかつきで採れた瓜を祭壇へお供えする。
 美津子は花神さまの祠をじっと見つめた。この土着の神を、アーユルヴェーダの医祖ダンヴァンタリと重ね、こうして時折訪ねている。
 こうべを垂れ、心の中で、サンスクリット語の詩を唱える。

ॐ असतो मा सद्गमय ।
तमसो मा ज्योतिर्गमय ।
मृत्योर्मा अमृतं गमय ॥
ॐ द्यौः शान्तिरन्तरिक्षं शान्तिः

オーム アサト マ サドガマヤ
タマソ マ ジョティルガマヤ
ムリティオルマ アムリタム ガマヤ
オーム シャンティ シャンティ シャンティ

─偽りから真実に導いてください。
─闇から光へと導いてください。
─死から生へと導いてください。
─自分自身に平和を、家族や周りの人たちに平和を、世界中に平和を。

 美津子は祈りの言葉を唱え終わると、しばらくそこに佇んでいたが、やがて花神殿の外へ出た。
「花神さまへお祈りか」
 花神殿の前の段差に腰掛けていたぐう爺は、背後にいる美津子に話しかけた。
「毎度のことながら、敬虔でよろしい」
「いえ」
 美津子はわずかに微笑を浮かべて、花神殿の階段を降りる。
「それだけ幾度もお供えものをすれば、あんたも霊験あらたかに健康を維持できるにちがいない」
「宮司さま」
 おほん、とぐう爺が咳払いをした。
「ぐう爺さま。私は自分の健康のために、こういうことをしているのではありません」
「いや、健康は大事だ」
 ぐう爺は声を高く張り上げた。
「特にあんたのような事業主は、体が資本だろう」
 それは、もっともだ。
「よいか、美津子さん」
 美津子は口元に微笑を浮かべたまま、小首をかしげてみせた。
「足込町にはな、生きる神仏と言われる、偉大な三人のじじいがおる」
 美津子は噴き出したいのを抑えて、口元に手を当てて少しだけ笑いをこぼした。ぐう爺は構わず続ける。
「その三人のじじいとよしなに付き合えば、この足込町で、何かと便利。現実の神仏のご加護というもんだわ」
「はあ」
「一人目は、柳のじじい」
 美津子は、先日もあかつきに畑の様子を見に来てくれた日に焼けた老人の、手を思い浮かべた。顔ではなく。
「林業、農業。この足込町の経済を司る、老獪なじじいじゃ」
「柳さんは、とてもお優しい方ですが」
「そして、美女に弱い」
 美津子は苦笑いを浮かべる。
「二人目は、加藤僧侶。と、いってもまあ、今の住職はわしらより年若いが、徳のある御仁とめっぽう評判。繰り上げて、わしらと同じ座に並べてやろう」
 今の住職とは、加藤幸永僧侶のことだ。ぐう爺としては、先代、加藤の父親との交流の方が長かったらしい。
「足込善光寺は、遠くからも参拝者がある寺院。死と、死した魂、それを見送る人々に向き合う、尊い仕事だわな」
 美津子は言葉を発せず、ただ、光を湛えた、加藤の大きな瞳を思い浮かべる。
「そして、三人目は…」
 ぐう爺は、右手の人差し指を高々と空に突き上げた。その時だった。笙(しょう)の音を最初に、雅楽の楽器の音色が本殿から鳴り響いた。
 美津子は本殿の方に顔を向ける。
「三人目は…」
「今日は、ご祈祷があるのですね」
 美津子の意識は、すっかり本殿の方へ向いていた。
「お、おう」
 ぐう爺は、高らかに上げていた右手を、ふにゃふにゃと下ろした。
 美津子は、拝殿から本殿の中を覗く。数組の夫婦とその親族と思われる人々が、正座で頭を垂れていた。奥では、二人の巫女が舞を舞っている。
「今日は戌の日だで」
 後ろからぐう爺が声をかけた。
「安産祈願に来とるんだわ」

─中絶。
 本堂に向かって、美真の後ろを歩いている杏奈に、その言葉は重くのしかかってきた。
 美真は、いかにも何でもない風を装って、杏奈に告白した。
─半年くらい前。
 たった、それだけ。
 誰との子なのか。親は知っているのか。相手は、中絶を望んだのか。美真はどうだったのか。それはなぜか?どういう気持ちで、ここへ来ようと思ったのか?様々な疑問が浮かんだ。しかし、聞いて良いのかどうか、分からない。
 水子観音に背を向け、もう一坂登ると、そこに観音堂があった。その奥には本殿と思しき建物が。本殿の前はだだっ広く平らな空間がある。
 美真は吸い込まれるように観音堂へ入っていく。杏奈も後に従った。
 その二人の様子を、背後から見ている者があった。上背のある、改良衣姿の僧侶である。形の良い坊主頭、高い鼻、眦が少し垂れさがった大きな目。肌はよく日に焼け、皺が刻まれ、シミも見られるが、驚くほどに端麗な男であった。
 僧侶は先ほど、法事から帰ってきたばかりであったが、水子観音像の前で立ちすくむ二人の姿を認めて、遠くから彼女たちを見守っていたのである。やがて、その中の一人は顔見知りであると気づいた。
 僧侶は静かに、観音堂に足を運ぶ。
 杏奈と美真は、観音堂の奥に鎮座する巨大な菩薩観音の前に、並んで立っていた。どちらも何も話さず、手を合わせるでも、お辞儀をするでもなく、ただ観音像を見上げている。
─大きな観音様。
 杏奈は金色のそのお顔を拝み、その場に佇んだ。しばし放心していたが、やがてどういう観音様なのか気になり、説明書きを探すように顔をきょろきょろさせ、観音堂の中を見回す。美真はすでにこの場に飽きたように、観音様に背を向け、観音堂の中にある授与所にまっすぐ向かった。杏奈は慌てて美真の傍に歩み寄った。
─あ。
 ちょうど美真が授与所の窓口の前に立った時。作業衣を着た受付らしい男が、上背の高い僧侶に声を掛けられ、席を変わった。僧侶の体格、顔には見覚えがある。この寺の住職、加藤幸永僧侶その人だった。
 窓口の椅子の背に手を掛けた加藤と、杏奈の目が合った。その時、加藤も自分の存在を認識したと、杏奈は思った。しかし、加藤は別に声を掛けるでもなく、目の前に立つ美真に視線を合わせた。
「水子供養したいです」
 美真は率直に言った。加藤は美真をまっすぐ見つめる。そのまなざしは、優しげであった。
「地蔵尊像をお申し込みいただくと、その翌日の朝、お名前を読みあげてご供養いたします」
 低くひびく声で、加藤は説明をする。
「読経の立ち合いは、任意となります。その後も末永くご供養を続けてまいります」
「読経は今は読まないの?」
「明日の朝となります」
 美真がどこから来たのか知らないが、近所ではないだろう。美真のことをほとんど知らない杏奈だが、なんとなくそう思った。明日の朝では、美真は立ち会えない。
 美真は肩掛け鞄をさっと開けた。
「いくら?」
「地蔵尊像が1万円です」
「ぼったくりだな」
 加藤に対してもそんな口を利くのか。杏奈は美真のすぐ後ろまで間合いを詰めて、横から嗜めるように厳しい視線を浴びせた。
 しかし、美真は杏奈を見なかった。黒いヴィトンの財布から一万円札を取り出し、パッと加藤に押しやった。加藤は恭しくそれを納め、一枚の紙とペンを美真に渡した。
「ここにお申込み者さまのお名前と、水子さまのお名前も、ございましたら」
 美真はすらすらっと自身の名前だけを書き、それも素早く加藤に押しやる。加藤は紙を受け取り、
「確かに受け付けを致しました」
 と言ってから、ラミネート加工を施した写真を美真に見せる。
「水子観音のお札はご必要ですか?」
 写真には、先ほど祀られていた灰色みがかった水色の地蔵尊像と、お札らしきものが写っており、加藤はお札の方を手で示した。
「これはあなた自身が手元に持っていることができます」
 杏奈も斜め後ろから、その札を見た。それから、そっと美真のほうを見たが、美真は決して視線を加藤の手の先から、逸らさなかった。
「もらおうかな」
 と、言って、すぐに、
「いや…やっぱり…」
 初めて、美真が言いよどんでいるのを見た。
 杏奈は首筋が熱くなった。無意識のうちに、右手に神経が集まり、ゆっくりと美真の身体に、その右手を近づける…。
「ちなみに、このお札もお金が要ります」
 という加藤の言葉で、杏奈ははっとして、右手を引き戻した。
「いくら?」
 美真の声色は明らかに不機嫌さを帯びていた。
「五千円です」
「いらんっ」
 美真は吐き捨てるように言った。加藤はただ静かに頷いた。
「それでは、謹んで供養させていただきます」
 美真はわずかな間、そこに立ち止まっていた。これで水子供養は終わりなのである。
 しかし、美真はまだ、水子に思いを馳せる一連の行為の中に、いたいのではないか…。杏奈は右手を握り締めた。
「そこのお方」
 驚くべきことに、加藤は杏奈に、声をかけた。
「あなたはどうされます」
「えっ?」
 杏奈は一瞬、凍り付いたように表情をこわばらせた。
─どういうことだ。
 狼狽している様子を見て、加藤は目元と口元を緩め、微笑んでみせた。
「おや、見覚えがあると思えば。あかつきの、美津子さんのお弟子さんだったね」
 どうも芝居じみている。杏奈は加藤の発言に引っ掛かりを感じながらも頷いた。
「なんだ、お前この坊さんと知り合いなのか」
 と、また美真が無礼な言い方をする。
「あのう」
 杏奈は急いで、リュックから一冊の本を取り出した。
「今日は美津子さんのおつかいで。これを返しに来ました」
 加藤は杏奈が抱えていた本を一瞥し、受け取った。
「ありがとう」
「おい、坊さん」
 杏奈は聞きかねて、注意しろと言うように、眉根に皺を寄せた顔で美真を見る。しかし今度も、美真は杏奈のことは気にしていなかった。杏奈と加藤が顔なじみであるならば、本来の用件以外のことも話してもよいと、勝手に判断したのかもしれない。
「この寺には、哀れな女たちがたくさん来てんだろ」
「哀れ…」
「可哀そうな女たちだよ」
「…」
「どうやったらまともな生き方ができるか、説教垂れたりしないのかよ」
 事情を知らない加藤に、何を意図した質問なのか、これでは分かりにく過ぎると杏奈は思った。水子供養にやってくる人たちは、まともな生き方をしていないから水子供養することになるわけでは、必ずしもない。
 しかし、加藤は一切動じた様子を見せず、至極真剣な表情で、ただ一言。
「自分の本当の声を知ることだ。そしてそれに向かって、行動をつなげる」
 美真は、一瞬だけ呆気にとられたような顔をしたが、すぐに顔を怒らせて、
「行くぞ」
 速やかにその場を立ち去った。
 杏奈はその後を追いかけながら、途中で加藤を振り返って、ぺこりと頭を下げた。

 二人の巫女が宙を舞う。美津子は、本殿の中の様子を見ながら、遠い日の、ある僧侶の言葉を思い出していた。
 美津子がアーユルヴェーダの施術を学んだスリランカの、あるお寺で、ある満月の日。いくつもの蝋燭に火がともった回廊で、美津子もまた、一つの蝋燭に火を灯しながら、その幻想的な光を見つめた。
 僧侶は、オレンジ色の袈裟姿に、裸足であった。美津子とともに、その光を見つめながら、自身の見解について語った。
─それまで私は、患者を機械のように見ていた。
 その僧侶は、もとは医師であった。
─同じ病気の患者の間にも存在する変化を見ずに、故障した部分に目を向け、全ての人に同じ修理法をあてはめていた。
 蝋燭の火が、微風に揺れる。
─しかしアーユルヴェーダの薬は、医者が患者に命を吹き込まない限り、作ることができない。
 その薬とは、ハーブであり、提言であり、食べ物であり、施術。患者に与える、全ての技術である。
─創造に命を吹き込む者が、芸術家と呼ばれる。彼らは、その絵に、音色に、味に、命を吹き込む。アーユルヴェーダは、彼らの技術に、命を吹き込む。
 それが、アーユルヴェーダが医療芸術と呼ばれる所以。
─患者の体を知り、心を知り、最も適切なケアを意識的に行う。そのために、最も必要なことはなんだと思う。
 夜風に当たりながら、美津子の心は熱かった。蝋燭の火を映す瞳が、静かに燃えた。
 一つ瞬きすると、場面は静かな部屋の薄暗闇に。窓からは眩しいほどに西日が差し込んでいた。その女は、その日射しから身を隠そうとするように、部屋の片隅に居た。力なく座り、項垂れている。
─変えたい。
 頭の中に浮かび上がったその思いは、いつかの日の自分の心情なのか、今の心情なのか、分からなかった。
「今日は大安だもんで、いつもより人が多いな」
 その言葉で、意識が現実世界に戻ってくる。美津子の後ろから、ぐう爺が本殿の中の様子を覗き込んだ。
 巫女の舞が終わり、神職による祈祷が始まっている。
 安産祈願をしたかどうかで、安産が約束されるわけではない。しかし、人は願うという行為をする。願いを託す時、本当のその目的は、自分の意識を新たにすることであろう。これから立ち向かう困難を、乗り越えさせてください、それに向かって自分が努力をする力を与えてください、と。
 美津子が花神さまに花や食べ物を備える理由も、意識を強化したいからである。自分の進みたい目的に、行動をつなげられるように。
 美津子はいつの間にか握りしめていた右手の拳をほどいた。そしてじっと、その手のひらを見つめる。 

 杏奈は地蔵堂の近くのベンチに座り、左手で支えるように持った右の手のひらを、見つめていた。
 先ほど、美真に対して芽生えた気持ち。その気持ちが、無意識に、彼女の身体に、この右手を触れさせようとした。だが…
「くそっ。なんのありがたみも感じねえな。ただのぼったくり寺じゃねえか」
 向かいに座る美真は観音堂の方を仰いで悪態を吐いた。本堂の奥の見晴らし台の傍に自販機があり、そこで買ったコーラを、ごくごくと飲んでいる。
 杏奈の喉はごくりと鳴った。自分もコーラを飲みたい。しかし、美津子の顔や、一か月過ごしたあかつきの風景を思い出して、なんとか思い留まり、水にしておいた。
「何が自分の本当の声を聞けだよ。そんなんどうやったら分かるんだよ」
 すかした野郎だぜ、と付け加える。
 しかし、加藤は達観した僧侶風を吹かせたわけでも、恰好をつけたわけでもないと、杏奈には分かる。
─人生の優先順位を考えてみて。
 二か月ほど前、美津子に言われたことを思い出したからだ。そのニュアンスと、僧侶の意図は、きっとそれほど変わらない。
「直観力を磨くってことじゃないでしょうか」
 他人からの期待でもなく、役割上の必要性でもなく、自分以外のものから影響されることのない、自分の意識を読み取る力を。
「はあ?」
 美真は呆れたように杏奈を見た。
「どいつもこいつも、意味不明なこと言いやがって」
 美真は、こちらの足元を見るともなく見ている杏奈に白けた視線を向けた。杏奈はなぜか、どこか思いつめた表情をしている。
─そういえばこいつも、すかした野郎だぜ。
 美真は、あることを思い出し、そう思った。
─美津子さん。
 一方杏奈は、心の中で美津子に祈りにも似た言葉をかけていた。その頃美津子は、ここからほど遠くない神社の杜を歩いていたのだったが。
─力をください。
 杏奈は背筋を伸ばして、まっすぐに美真の目を捉えた。
「試してみますか?」
 美真は、杏奈から異様な気配を感じて、一瞬肩がこわばった。
「へ?」
 杏奈は左手を右手から離し、リュックのポケットをあさった。
「なに?」
 杏奈はそれには答えずに、ポケットから取り出したメモ用紙を広げる。有無を言わさず試してもらうつもりなのだ。
「直感力アップのためのガイド付き瞑想です」
「うっわ」
 美真は両足をベンチの角につけて、ベンチの上で体操座りする形になり、顔を右手で覆う。
 何かの宗教か、勧誘かと思われたのだろうか。杏奈は、美真の反応は無理も内とは思うけれども、淡々と居ずまいと姿勢を整え、瞑想の準備に入る。
「美津子さん…あかつきにいたあの女性が、私に教えてくださった瞑想なんです」
「うさんくせえ」
 杏奈は美真の言葉に屈せずに、
「意識がいろいろなところに散って、自分が集中するべきことに集中できなくなった時、この瞑想を聞いていたんです」
 フーンと美真は頬を掻いた。
 杏奈は、しかし、そらではガイドができない。でもいつか、誰かに、この瞑想を役立てたい。そう思って、瞑想の文言を文字起こしして一枚のコピー用紙に印刷しておいたのだ。そうすれば、美津子にICレコーダーを返してからも、自分でこの瞑想を行えるし、ガイドの練習をすることもできる。
「良いですか?」
「勝手にしろよ」
 そう言いつつ、美真はごそごそと鞄を探り、イヤホンをスマホにつけた。
「何やってるんですか」
 杏奈は出鼻をくじかれた思いで、少し傷ついた。
「おめーの退屈そうな瞑想の間、眠くなったら音楽聞くんだよ」
 スマホを操作し、イヤホンを耳につける美真。本当にBGMの用意をする気らしい。
─やめてやろうか。
 杏奈は拗ねたような気持ちを抱く。しかし…
─それでもいいか。
 相手に聞く気がなく、自分の気持ちが届かないのなら、それまでだ。
 杏奈は目を瞑って、意識を集中させた。
 二か月前、杏奈は美津子と面接をした。これから、アーユルヴェーダを心と体の支えにして、成し遂げたいことに注力するか。それとも、これを機に諦めて、堅気の仕事に就くか。
 この瞑想を聞いた時、けれど、杏奈はやはりアーユルヴェーダに導かれたいと思ったのだ。美津子の静かな声に、心が鎮まり、癒されていた。
 その声色を、真似る。
「意識を頭の中心に向けてください」

 美津子はあかつきの門をくぐると、庭の中ほどで立ち止まり、離れの方に顔を向けた。掃き出し窓もカーテンも締め切っていて、中にいる気配はない。
 母屋の玄関を開け、誰にともなく「ただいま」を言う。しかし、予想通り「おかえりなさい」は返って来ない。
 書斎を覗いても、カーテンは閉め切られたまま、テーブルの上のものも、何かが動かされた様子はない。
─まだ帰っていない、か。
 美津子は応接間の時計を見た。
─それにしても…
 美津子は、あの女性のことが少し気になった。神社と寺の位置を、間違えるだろうか。今の時代、道を調べるのに、きっと地図ではなくスマホを使ったことだろう。
─あの子は、意図的にここへやって来たのではないか。
 そう思えてならなかった。相手が若い女性だったので、特に心配することなく、杏奈が同行するというのに任せたが…
─杞憂か。
 バスに乗れなかったので徒歩で寺に向かっていると、杏奈から連絡が入っていた。帰りが遅れているのは、きっとそのせいだろう。もしかしたら、野郷を散策しているのかもしれない。
 喉の渇きを覚え、美津子はキッチンへ向かった。
 花神さまへのお供え物をし、瓜のコンポートを神社の者に渡したら、すぐ帰るつもりだった。ぐう爺に話しかけられ、足止めを食らったのは想定外のことである。束の間のお喋りで心が解れたことは確かだが、喉が渇いた。
 フレッシュなライムを絞り、グラスに入れる。ただでさえ、ピッタが乱れがちなこの時期、強すぎる酸味は、さらにピッタを増加させる。だからライムの絞り汁は控えめに。そこにメープルシロップと、塩少々、水を加え、攪拌する。即席のフレッシュライムジュースである。ここにミントを加えると、さらにピッタフレンドリーになるが、美津子は、省略した。
 応接間のいつもの席ではなく、書斎のソファに腰を下ろしたのは、くつろぎたいからである。カーテンを開けると、さすがに昼間よりは日射しは和らいでいた。美津子は窓も開け放つ。
 この季節でも飲み物を常温で飲むようにしている美津子は、ジュースを一気に飲まず、ちびちびと、咀嚼するかのように口に含んでから、飲み込んだ。
 ローテーブルにアーユルヴェーダの書籍が置いてあったので、美津子は一部分だけ、流し読みしてみようという気になった。杏奈が読み進めているらしく、付箋がところどころに貼ってあった。決して分厚くはないペーパーブックだ。しかし、写真は一枚もなく、ほんの少し、挿絵が描かれているのみ。活字嫌いならこれだけで読むのを諦めそうなところ、さらにこの書籍は洋書で、もちろんすべて英語であった。ずい分昔に美津子が読んだ本だが、非常に内容は優れている。これをよく読解できれば、それだけで、一通り以上のアーユルヴェーダの知識は身に着こう。
─ATHA。
 冒頭の一文字を、美津子は指でなぞった。ヨガスートラと同じく、この本も、この言葉から始まっている。
─この施設、略称ではATHA(アタ)になるんですね。
 いつだったか、杏奈が思い出したように、美津子に言った。
─アーユルヴェーダトータルヒーリングセンターあかつき。センターのCを飛ばせば、ATHAっていう略称になる。これは偶然ですか?
 そう訊かれた時は内心驚いた。五大元素の土について議論した時もそうだが、杏奈と自分の思考は、どことなく似ている。
 Athaはサンスクリット語で「今」という意味だ。多くのサンスクリット語の本は、この言葉で開かれている。Athaは祈りの言葉でもある。「これから始まるものがよいものでありますように」と、門扉を叩いた人がいつでも、その知識と癒しの力を享受できるように、待ってくれているのだ。
 偶然ではない、という美津子の返答に、杏奈は笑みを浮かべた。普段、感情的に笑うことの少ない杏奈の、知性が生み出した笑みだった。
─素敵ですね。
 そう言ったのは、この単語の意味を知っていたからだろう。
 ヨガスクールで多少の講義を受けたと言っていたが、杏奈のアーユルヴェーダの知識のほとんどは、独学で得たようである。書籍からのインプットだけで美津子の話についていけているということは、打てば響くような頭の良さがあることは違いない。なにより、アーユルヴェーダとの相性が良いのかもしれなかった。
─けれど。
 美津子は、ライムジュースをもう一口飲み、テーブルに置く。本のページをめくると、これを読んでいた時の自分のことを思い出した。
─知識だけでは癒すことはできない。人も、自分も。
 美津子は本を閉じ、膝に置いた。休息するつもりだったのだが、思いがけず思考が働いてしまっていけない。
─対象に命を吹き込む方法を、体得しなければならない。
 機械的に仕事をこなすようなやり方では、この世界では通用しない。
 芸術家になる方法は、しかし、理論を知ることとは違う。
─果たして、杏奈に見つけられるか。

「退屈だな」
 ガイド付き瞑想が終わると、美真は静かに言った。
「トイレ行ってくるわ」
 そして、杏奈が言葉を発するより早く、駆け出した。
 ほんの少しの間でも、瞑想の余韻に浸ってくれると思っていた杏奈は、期待が削がれて、意気消沈ぎみに頭を垂れた。
─やっぱり、無理だったかな。
 美真に一時の癒しをもたらそうとすることは。
 杏奈は紙をリュックのポケットにしまい、自販機で買った水をリュックにしまった。
 突然、杏奈はぞくっとするような悪寒を背後に感じて、背筋が反り返った。振り返ると、加藤が悠然と立っていた。
「…ご縁さま」
 加藤は視線をこちらに向けている。
─びっくりした。
 この距離まで間合いを詰められるまで、まったく気が付かなかった。
「ガイド付き瞑想か」
「えっ」
 杏奈は体の向きは変えず、顔だけ後ろの加藤に向けたまま、
「ご存知なんですか」
「ミツのつくった瞑想だ」
 加藤は手を後ろで組み、ゆったりと杏奈の隣まで歩いてきた。その佇まいから高位の僧侶であると感じ、杏奈は思わず起立した。
「ミツが教えたのか」
「い、いいえ…」
 杏奈はうしろめたさを感じた。瞑想の文言にも著作権はあるのだろうか。美津子に許可なく人にガイドをしたのはまずかっただろうか。
「むしろ私がこれを聴いて、瞑想の練習をするように、教えられたものです」
 消え入るような声で言った。立ち上がっても、杏奈の口から加藤の耳までの距離はだいぶ離れている。加藤は杏奈の言葉を少しでも聞き取りやすくするためなのか、少し背を丸め、顎を引いて頭を下げるような体勢になっていた。
「ミツがガイドをすると、その瞑想の言葉の一つひとつが、高い癒しの波動をもって、聴く者に届く」
 杏奈の心配とは裏腹に、加藤は口元に微笑を浮かべていた。
「時折、その瞑想の録音を流して、法話に来た人たちに聴かせていたのだ」
「ご縁さまが…」
 この足込善光寺は、真言宗の寺であるらしかった。足込善光寺をネットで調べ、境内に設置されている説明書き読んで、杏奈はそれを知った。それでいて、意外にも、この僧侶は古代インドの伝統医療を利用する人であるのか。いや、それより、美津子と加藤は、何やら深い縁があるようである。
「あの女性が、少し落ち込んでいるように見えたので」
 しかし、今杏奈が気にしているのは、別のことだった。
「私もこの瞑想で癒されたので、彼女もそうであればとやってみたのですが…」
 杏奈は作り笑いを浮かべる。
「やっぱり、私ではだめみたいです」
 そもそも、この瞑想の言葉の意味や目的を、杏奈は完全に理解していなかった。美津子に問い正したこともない。
 受け取る側も、準備ができていなかったことだろう。美真が瞑想したいと望んだのではなく、杏奈が半ば無理やり始めたのだから。
─お客さんの話を引き出した方がいいよ。
 料理の説明を一方的にしたことに対して、小須賀に注意されたことを思い出す。
 今回も、やっぱり杏奈は独りよがりだった。彼女に瞑想をさせたいというのは、自分のエゴであり、彼女の望みではなかった。響かなくても当然だ。
─どうして、私は、人を見られないのだろう。
 杏奈は恥じ入るような気持ちになった。後ろ風に吹かれて、ポニーテールにした髪が顔にかかる。杏奈はその髪をつかんだものの、払いのけるのではなく、むしろ顔を隠すように、加藤がいる方の横顔に押し付けた。
「だが」
 低く、落ち着いた加藤の声がこだまする。
「あの女性は口で言うほど、心地悪く感じていなかったようだ」
 杏奈は髪を後ろに払いのけ、加藤の顔を見る。加藤は穏やかな微笑を、杏奈のほうへ向けた。
─それはどういう…。
 ガイド付き瞑想をしているのが分かったということは、加藤は一部始終を見ていたということか。もちろん、美真の反応も…。
「また、近いうちにあかつきを訪ねよう」
 加藤はやはり、後ろで手を組んだまま、ゆったりとした動きで本堂の方へ立ち去って行った。
 杏奈はすとんとベンチに腰を下ろし、ため息を吐いた。

 すっかり、日が傾いた。
 美真が先に立ち、野郷へと向かう。その後ろを杏奈が続いた。
 太陽の日射しを浴び続けたからか、すでに二人とも疲労困憊していた。行きほど会話もなく、野郷に入ったところで、二人はバス停のベンチに腰を下ろした。バスを待つわけではなく、ただ一休みするために。
「ちくしょう。えらい目に遭ったぜ」
 まだ駅までの行程はあるが、半分ほど進めたという安堵があるのか、美真はやや威勢を取り戻していた。
「道に迷うわ、案内人は道を知らないわ、寺ではぼったくりに合うわ」
 杏奈はペットボトルに残っていた水をごくりと飲んだ。美真の言うことにもはや怒りは沸いてこない。確かに、お金を払うだけでは、供養できたという実感も湧かないであろう。対象に思いを馳せる時間も、なかったに違いない。そう思うと、杏奈は、美真が不憫に思えるのである。
─もし私に、コミュニケーション能力があったら…。
 道中、もっと聞き出せたのではないか。どうして善光寺を訪ねるのか。なぜ中絶をしたのか。水子のことをどう思っているのか。今この瞬間、私にできることはあるかと訊くこともできたはずだ。
─今だ。
 杏奈は自分を奮い立たせた。まだ遅くはない。美真は、ここにいる。過去でも未来でもなく、この女性と時空を交差させている今この瞬間こそ、できることはあるのだ。
「美真さん」
「なんだよ」
「あのう、大丈夫ですか?」
 しかし、なんの言葉の準備もなかった。案の定、美真は目を見開き、眉を吊り上げた。
「なにが」
「えっと」
 杏奈は狼狽し、逃げるように視線を美真から自分の足元に逸らした。体力は…と言って、逃げることはできたが、杏奈はごくりとそれを飲み込む。
「中絶したこと。そのことで、悩んでいたのではないですか?」
 言った後で、一気に体が熱くなった。
 どんな怒号が飛んでくるか。杏奈は身がすくむ思いだったが、なかなか返事が来ないので、ちら、と美真の表情を盗み見た。
 美真は、顔を真っ赤にしている。その目が心なしか潤んでいるのを見て、杏奈は、その顔から少しも視線を動かせない。
 自分の足元を見るのは、今度は美真の番だった。
「ばかやろ。優等生面しやがって」
 美真は口元を歪ませた。
 杏奈は言葉に窮しながらも、心の中では意見をした。自分がいつ、優等生風を吹かせたというのだ、と。
「悩む権利なんてねえんだよ」
 美真は押し殺したような声で言った。
「自分で選んだんだろ。悩んでるからって、誰にもなにも言えねえよ。被害者なら悲しんでも同情される。だけど、あたしは違う。お前のせいだって言われるだけだ。お前もそう思ってるんだろう」
 杏奈は眉間に皺を寄せて、首を振った。
「何か、お手伝いできることはありませんか?」
 杏奈は、食い下がった。食い下がりながら、このような漠然とした声かけでは、具体的なことを聞くことはできまい。と、選択した言葉を不適切に感じた。
 美真はじっと足元を見たまま、杏奈の問いかけには答えない。
 生ぬるい風が吹き抜けていった。
「帰る」
 美真はすくっと立ち上がった。
 少しの間一緒に歩き、駅への分岐で別れた。美真はさくさくと風を切るように、駅へ向かう足取りを早めながら、杏奈の方は一度も振り返らなかった。
 杏奈はその後ろ姿を少しの間見送った後、とぼとぼと帰路についた。帰り道、あかつきまでの林道を登りながら、杏奈は後悔の念を強くした。
─私は、何のために、あかつきにいるんだろう。
 とりもなおさず、美真のような人に、一時の癒しを与えるためではなかったのか。
─あの子の感情の消化を助けられるよう、もっと、試みればよかった。
 心の中で、水子に意識を向けるという供養を、一緒にやってやればよかった。
─誰のことも、何も、変えられない。
 たくさんの本を読んでも、情報を自分の言葉にまとめ上げても、今その瞬間手が届くところにいた美真の欲することに、意識を吹き込むことができなかった。
 母屋の玄関の戸を開けると、美津子が夕食の準備をしているのだろうか、何かの香ばしい匂いがした。日照時間はまだ長く、外は十分に明るかったから気が付かなかったが、もうそんな時間なのだ。
 玄関先に座り、靴と、靴下を脱ぎ、裸足になる。夕ご飯の前にシャワーを浴びなければと思うほど、びっしょり汗をかいていた。
「杏奈、帰ったの」
 まるで母親のように、美津子が玄関先まで声を掛けにきた。
 顔だけ振り向かせた杏奈は、一筋の汗が頬を流れるのを感じた。
 しかし、それは汗ではない。
 美津子の目は、杏奈自身も気づかない、そのしずくの正体を捉えた。それは涙だった。

 

 


 

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