第17話「苦味」アーユルヴェーダ小説HEALERS

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 風が冷気と乾燥をはらむようになると、その風はあかつきの後ろ手にそびえる明神山の木々を、赤や黄色に塗り変えていった。夏には青々と生い茂った草原の緑も、少しずつ色褪せている。平地より少し標高の高いこのあたりは、朝晩は気温が二十度を切り、上着がないと過ごせない。
 自然の力強い変化を感じたら、自分自身の内部でも、変化が起きるということを忘れてはいけない。
 早朝。杏奈は離れの居室で、テレビを見ていた。撮りだめている料理番組の録画である。家庭料理を紹介する短い番組から、情報番組の特集、お菓子の番組。対象とする料理の分野は様々。杏奈はただぼーっと見るのではなく、役に立ちそうな情報や調理のテクニックを、都度パソコンに入力している。レシピなどは自らタイピングするよりも、その番組のホームページに飛んで入手したほうが早い。だから杏奈が打ち込んでいるのは、簡潔にまとめられたレシピの行間となる部分だった。なぜその料理が生まれたのか、季節とどう関係しているか、栄養を効率的に摂るポイントは、その工程が必要な理由は。しっかり集中して聞いていれば、テレビから得られる情報だけでも相当なボリュームがある。
 しかし、インプットするだけでは、自分のものにならない。テレビ番組を見て得たインスピレーションを元に、新しい料理を創造したり、技を試し、味わってどう感じるか観察することによって、ようやく、少しは自分のものになる。だから日々の料理は、得た知識を自分のものにするための実践の場であった。
 一番組見終わると、ジーンズに白い長そでのティーシャツを身に着け、少し厚手の紺色のパーカーを羽織る。湿疹の悪化によって、実家に療養した時から、杏奈は身に着けるもののほとんどを、自然素材のものに切り替えていた。
 杏奈があかつきのキッチンに立ったのは、午前六時半。紺色の長いエプロンをして、まず最初に、昨晩から浸水しておいた玄米を炊く。豆腐、きのこ、かぼちゃを使って、みそ汁を作る。きのこは柳老人からもらったものだし、かぼちゃはわかば(スーパー)で買ってきたものだった。
 最近、畑で採れる作物が少ない。なすやピーマンなどはこの時期でも比較的収穫できるらしかったが、あかつきの畑では、ナス科の野菜を育てていなかった。
─ごはんと味噌汁だけだと、味が偏るな。
 味噌汁にはわかめと葉野菜を入れるつもりだ。葉野菜は、まだ畑にわずかに育っているだろう。葉野菜から、苦味と渋味は確保できる。しかし、酸味と辛味は、どうやったって補えなかった。もっとも、味噌は発酵過程で酸味が付け加わっているかもしれないが。
 杏奈は頭の中でパズルをする。どの食材を入れれば、どの味が加わるか、というパズルだ。献立を立てる時には、いつもこれをしている。
 アーユルヴェーダでは、心と体を適切に機能させるために、食物を通して六つの味(シャッド・ラサ)を摂ることを勧めている。
 六味とは。
・甘味(Madhura マドゥーラ)
・酸味(Amla アムラ)
・塩味(Lavana ラヴァーナ)
・辛味(Katu カトゥ)
・苦味(Tikta ティクタ)
・渋味(Kashaya カシャーヤ)
 有機体が通常行っている代謝プロセスにおいて、ヴァータ、ピッタ、カパの三つのドーシャが継続的に生成され、排除される。体が生成する各ドーシャの量は、主に、六つの味のうちどれを消費するかによって異なる。すなわち…
 辛味、苦味、渋味はヴァータを増やす。
 酸味、塩味、辛味はピッタを増やす。
 甘味、酸味、塩味はカパを増やす。
 特定のドーシャを鎮めたい場合は、その逆の味を用いる。
 玄米と味噌汁の献立は、主に甘味と塩味。わずかに苦味と渋味もある。みそ汁の具材によって、他の味を加えることもできる。
 杏奈と美津子は、朝ごはんにそれほどの品目を必要としない。よって、様々な味を摂りたいのなら、みそ汁に何かを付け足すのが一番よかった。けれど、酸味と辛味まで無理に加えれば、みそ汁の風味を損なう。
─大根の酢漬けでも作ろうか。
 冷蔵庫に大根が残っているはずだ。大根は、品種や使う部位にもよるが、辛味をもつ野菜である。それに、黒胡椒など辛味をもつスパイスを入れれば良い。スパイスは少量で、いろいろな味(香り)を付け加えることができる、便利な食材だ。
 杏奈は大根をトントンと細長く切った。小鍋にみりん、酒、醤油、酢、スターアニスと黒胡椒を入れ、火にかける。普段の食事を作りながら、これで一つのアーユルヴェーダレシピができるかもしれない。
 キッチンまで持ち込んだパソコンを起動させ、調味料の比率をメモしておく。こういうことは小須賀がいる時にはできない。不衛生だと叱られるからである。紙に書けばいいと言われるが、紙に書くことを、杏奈はどうも二度手間に感じるのだった。
 調味が終わると、やむを得ず、漬け液の味見をする。
─味見はしないほうが良い。
 美津子は杏奈に味見を禁じていた。消化は口の中で舌が味を味わった瞬間に始まる。舌は食品の味を脳に直接伝達する。脳はこの証言から、どのような栄養が摂取されたか、最適な消化のために必要な分泌液、消化酵素の種類を決定する。しかし、この消化機能は一日にそう何度も活発に働いてくれるものではない。味見といえど、味を感じれば、消化機能は働き、味見をした者のアグニに負担がかかる。美津子が味見を勧めないのはこのためだった。
 けれども、近いうちにこのレシピをSNSなどに掲載したり、商用利用したりする可能性があるならば、味をみておかなければならない。
─辛味が足りないな。花椒も入れようか。
 黒胡椒、花椒、スターアニスの組み合わせは、中華料理を彷彿とさせ、相性が良い。
 料理をしながら、再びパソコンを開き、スターアニスの味を調べる。杏奈は食材別に、七つの性質を表にまとめている。
 食材は、それぞれ七つの性質を持っている。
一.物質(Dravya ドラッヴィヤ):名前、五元素のバランス。
二.性質(Guna グナ):グルヴァディグナと呼ばれる十対二十種類の性質のうち、いずれをもつか。
三.動作(Karma カルマ):それ自体は「行為」という意味。食べ物のドーシャへの影響。
四.味(Rasa ラサ):舌で感じる味。
五.作用(Veerya ヴィールヤ):温めるまたは冷ます特質。
六.消化後の作用(Veepaka ヴィパーカ):食べた後の味。
七.効果(Prabhava プラッブハーヴァ):特質、説明のつかない作用・効能。
─スターアニスは、甘味なのか。
 食材別に七つの性質をまとめた表は、いろいろな文献の意見を引用してまとめていた。自分の感覚で表を作ることができたらベストだが、味覚、知覚が古代の賢者を上回るものでなければ、正確性を帯びない。杏奈はまだその域に達している自信がなかった。そのため、文献の知識を借りて、食材をアーユルヴェーダの目線で見る練習をしている。
 それによると、スターアニスは甘味…甘味といっても、もちろん、砂糖の甘味とは異なる。
 感覚は人によって違い、同じ食材でも生育環境や熟度によって味が変わることを考えれば、このような表をまとめたとて、あくまで参考にしか過ぎなかった。実際、いろいろな文献を読む中で、同じ食材に対して異なる評価をしているものも見かける。最終的には、己の感覚を大事にせよということだ。
─決まり切った正解がない。アーユルヴェーダのやり方は厄介だな…。
 保存瓶に大根を入れ、漬け液を注ぎながら、杏奈は苦笑いを浮かべる。自分はその厄介さが気に入っていると、自覚している。難解であればあるほど、突き詰めたくなる面白さ。その結果、美津子のように、至極シンプルな考え方に戻ってくるとしても、詳細を見るのは楽しかった。
 玄米と味噌汁だけの献立では、そうやることもない。調理道具を片付け、新しいレシピを作成しても、まだ玄米が炊き上がるまでに時間がかかる。
 炊いている間、杏奈は畑に出て、わずかばかりのつまみ菜をちぎった。東の空を見上げると、太陽はすでに高く昇り、その力強いエネルギーを大地に注いでいた。

 美津子が家事を分担しようと言い出したのは、その日の朝食後であった。
「別の仕事を覚えてもらいたい」
 というのが理由だった。
「朝と昼は、試作をすることも多いので…」
 撮影の関係で、自然光のある間の食事は自分が担当したい。
「じゃあ私は、夕食を作るわね」
 美津子はすんなり承諾した。
 掃除はひとまず、三日に一度、美津子がそのルーチンの中に入ることになった。
「美津子さん、新しい仕事ってどういう…」
「予約管理をしてもらおうと思って」
「予約管理…」
「詳しくはまた後でね。ところで…」
 美津子はこの場で、仕事の話を続けるつもりはないらしかった。
「杏奈、誕生日は何月だった?」
「え?…七月です」
「じゃあ、もう終わってしまったのね。言ってくれればよかったのに…」
「?」
 その日の午前中、杏奈は夢のような気分で、美津子からの遅い誕生日プレゼントを受け取った。美津子にアビヤンガをしてもらったのである。クライアントに対して行うサービス内容から、何かを省略されることもなかった。最初の契約期間の間に一度も自ら客の立場にならなかったことを、杏奈は申し訳なく思った。それを詫びた上で、お金を支払うと言ったのだが、美津子は首を振った。
 美津子はいつもと同じように、左脚から施術を始める。杏奈の体格は小柄で華奢。肌は透き通るような雪肌であった。大柄の女性だと、脚一つ折り曲げたり、持ち上げたりするのにも質量を感じるが、小さく軽い体は扱いやすい。オイルを塗布する面積も少ないので、施術自体も、平均よりも早いスピードで進んでいる。
「美津子さん、これも、研修の一環ですか?」
「研修?どうして」
「施術を受けながら、何かを学び取ったほうがいいのかと…思いまして」
 施術の手順なのか、強度なのか、美津子の姿勢なのか…何に注目していたらよいのだろう。
 美津子は手を止めないまま、首を傾げた。
「施術を受けた率直な感想は覚えておいても良いと思うけど、それ以外は施術の研修の時に学べばいい。今日は研修じゃない」
 杏奈は言葉に詰まった。美津子は本当に、誕生日プレゼントとして、ただこのような高いサービスをしてくれているのか。
「私、何を返したら良いんでしょう…」
「まあ、ここでたくさん仕事をして、何倍にも返してもらおうか」
 美津子はおどけるようにふふっと笑った。
「美津子さん、私はいつ、施術を学べるのですか?」
 そう来ると思っていた。美津子は施術をしながら、杏奈の肌質を見ていた。肌だけではなく、その内側の状態も感じ取ろうとしていた。面接の時よりは、大分改善している感じはあるのだが…
「あかつきの仕事は施術だけじゃない」
「それは、分かってますけど…」
「別のスタッフに教育するのが先。それまで少し、待ってなさい」
「誰か、別の人が入るのですか?」
 杏奈は思わず頭を起して、足元にいる美津子を見た。美津子は一瞬杏奈に視線をやると、またすぐ足元に戻して、軽く頷いた。
「もともとここで施術を学んだ人で、業務委託したこともあるから」
 美津子は杏奈の脚をバスタオルで包み込む。
「近々復習に来てもらう。すぐ現場に出られそうだったら、集客に本腰を入れなければ」
 それで、予約管理の仕事が自分に回ってくるのか。
 杏奈は、美津子が元保育士だったことを思い出した。一人ひとりの素質を見抜く力が鋭いのだろう。適材適所にスタッフを割り振っていて、その結果、杏奈に事務方の仕事をさせようとしているのかもしれない。もしそうなら、杏奈はあてがわれたポジションで尽力するつもりだった。
 アーユルヴェーダを通し、人に癒しを与えたいと望んだ以上、施術にも通じていたかったが、それは自分のわがままでしかない。今はあかつきという小さなチームで動いている以上、与えられる役割が望み通りのものでなくても、その役割の中で力を果たすべきだ。
 杏奈は尊敬する上司には、従順になる傾向があった。美津子は言うまでもなく尊敬すべき上司であり、人だった。彼女の言葉に逆らおうとは思わない。
「お腹の施術をしていくから、少し黙ってね」
 美津子は杏奈から見て左側に立ち、オイルを手に取った。お腹にオイルを塗りながら、美津子は、杏奈の腸の状態を感じ取るのに意識を集中した。
 言葉が出にくい杏奈。アーユルヴェーダでは、声は腹から生じると考えられている。腹からの風が喉を震わせ、声となるのだ。杏奈の言葉の出にくさは、その上向きの風の流れが妨げられているからなのだろうか。それとも、声を出すための風を生み出す大元の部分が、弱っているからなのだろうか。美津子は杏奈のお腹に当てている指先に意識を集めた。その奥で起こっていることを感じ取ろうとするように。
 一方杏奈は、くすぐったくて、言われるまでもなく、話を続ける余裕はなかった。杏奈の緊張は、そのお腹に手を当てている美津子にも、すぐに伝わる。
「セラピストが加わったら」
 美津子は再びタオルをお腹にかぶせながら言った。
「こうして施術を受けている暇はないかもしれないね」

 数日後。沙羅は愛車のミニを美津子のエヌボックスの隣に駐車すると、表門からあかつきに入った。その足取りが浮足立つのを抑えられない。
 これからあかつきで施術の練習に臨む。美津子の好意で設けてもらった練習の場だ。邪魔にならないよう、太くて黒々とした黒髪は編み込み、後ろで一つにまとめてきた。
「こんにちは」
 玄関の前に立ち、沙羅は高らかに挨拶をした。返事はない。玄関扉を思い切ってノックする。そのすぐ後で、呼び鈴を押せばよいことに気が付いた。
─初めてじゃないのに、緊張してるんだなぁ。
 そう思って、すぅ、と大きく息を吸った。それと同時に、玄関の扉がぱっと開いた。美津子の出迎えを想像していた沙羅は、大きな目をさらに大きく見開き、目線を下に移した。戸を開けたのは、眉までかかる前髪、長い黒髪をポニーテールにした、大人しそうな小柄な女だった。
 沙羅は一瞬、言葉を詰まらせていたが、
「こんにちは。あのう、伊藤沙羅です」
 名乗りながら、おそらく新しい同僚なのだと思われる女に向かって微笑んだ。
「こんにちは」
 女は軽く会釈をした。その目線は泳いでいた。
「どうぞ」
 ドアノブに手をかけながら脇に退いて、中へ通そうとしてくれる。
「お邪魔します」
 沙羅はささっと中に入ると、小柄な女に誘われて、懐かしい応接間に入った。
「美津子さん、ご無沙汰しております」
 沙羅は美津子に高らかな声で挨拶をした。それから大きなくりっとした目を細め、満面の笑みを浮かべる。美津子は立ち上がって、沙羅の傍へ歩み寄った。
「沙羅、元気そうね」
「はいっ。おかげさまで」
「ちょうど、二人であなたの話をしていたところなの」
 美津子は沙羅の後ろで佇んでいる女を見て言った。
 沙羅は両手を両頬に当てた。どんな話だろうか。これまでの職歴?家族構成?自分のいないところで自分の話題が出たと聞くと少し恥ずかしい。
「美津子さん、こちらの方は…」
 沙羅は、目線だけ美津子においたまま、体を半分振り返らせた。
「あら、杏奈。自己紹介まだなの?」
「名乗り遅れました…古谷杏奈です」
 杏奈はぺこりと頭を下げた。…自己紹介、以上。
「主に料理担当だけど」
 言葉足らずな杏奈の自己紹介に、美津子が補足をした。
「施術のアシスタントとか、ホームページやSNSの管理とか、いろいろやってくれているの」
「インスタ見てます!アーユルヴェーダのお料理、とてもお上手ですね!」
 少女のように天真爛漫な笑顔を向けられて、杏奈はちょっと肩をすくめた。
「これから、あかつきでアーユルヴェーダ料理教室をやられるんですよね?」
「えっと、ゆくゆくは…」
 と言いながら、杏奈は美津子をちらちら見やる。
「私もアーユルヴェーダクッキング、参加したいなぁ」
 沙羅はそう言いながら、体の向きをくるくると変えて、あかつきの母屋の様子を、うっとりと眺めた。
「懐かしいなぁ。私が来ていた頃と、あまり変わってないですね」
 沙羅は応接間を自由に歩いて、居間をぐるぐると歩き、窓に近寄ってカーテンを開け、今度は外の様子を見る。
「ここからの景色も」
 それから、ちょっと隣の部屋に足を進めて、扉を開けて、書斎を覗く。
「この部屋の雰囲気も好きだったなぁ」
 応接間に残された二人は棒立ちになって、ただただ、歓声のような沙羅の声を聞いている。
「なんだかすっごく、サットヴァって感じ!」
「沙羅」
「和洋折衷の雰囲気が素敵なんですよね、ここ。大正ロマンっぽいっていうか…」
「沙羅」
「は…」
 沙羅は、我に返ったように美津子にピントを合わせ、悪戯っぽい笑顔を見せて、小走りで二人のほうへ帰ってきた。
「ごめんなさい。その…興奮してしまって」
「ここへは、二年ぶりくらいか」
「そうそう!子供が生まれる前に、ちょっと挨拶に寄りましたね。でも、施術をさせてもらっていたのはもっと前なので、感覚を取り戻すのにちょっと時間がかかりそうです」
 沙羅はしゃべりだすと、矢継ぎ早に言葉が出た。
「今日は二時半までいられるんだった?」
「はい。ここから幼稚園までかかる時間がよく分かってないのですけど」
「車で十五分あれば行けるわ」
 足込幼稚園に働いていたことがあるためか、美津子は詳しい。
「お昼ごはんをここで食べていくといいわ。杏奈に作ってもらうから」
「いいんですか?」
 沙羅は、ぱあぁっと顔を輝かせた。
「アーユルヴェーダの料理が食べられるなんて、嬉しい!」
 誰もアーユルヴェーダの料理を作るとは言っていないのだが。
 杏奈は表情がころころと変わる沙羅の様子を、さっきから呆気にとられた様子で見ている。年上に見えるが、自分などよりずっと若々しい雰囲気だ。
 美津子は沙羅を従えて、二階の施術室へと向かった。
「ここも変わってないんですね」
 沙羅はホールの照明やら、赤いカーペットやら、重厚な階段の手すりやら、見るもの触れるものにいちいち感動して、移動する間も話が止まない。話をするべき時でさえ、口をつぐみがちな杏奈とは対照的であった。
 施術室に入ると、美津子は改めて沙羅と向き合った。
「沙羅、服は…」
「家での施術用に買ったタイパンツをはいてきました」
 と言って、わざわざロングワンピースの裾を上げて、ちらっと片脚を突き出して見せた。
「そう。正装で練習するのは、また今度でいいわね」
「正装も、変わってませんか?前と同じ、和装の…」
「何も変わってないわ。沙羅」
 そう言ってから美津子は思い出したように、
「勤めている人間以外は…」
 と言った。沙羅の心には、その最後の一言が、ひっかかった。
 美津子は源氏襖を開き、メイクルームへの敷居をまたいだ。
「着替えているから、ベッドと道具のセットからお願い」

 杏奈は十月下旬以降の部屋の空きを見て、どの時期に、どう集客するか、作戦を立てていた。十月の売りを立てるなら、すぐにでもアクションを起こすべきだが、ホームページで空きありますというブログを書いたところで、見ている人がいなければ意味がない。SNSの方が見ている人は多い。しかし、あからさまに集客の発信ばかりしていると、見ている人が嫌がるので、加減が大事だ。通常運転をしていて、クライアントの入りが悪いのならば、キャンペーンを打ち出したり、特別な企画をするのが良いのだが…。
─これは、セラピストを囲ったのも無理はないな。
 と、杏奈は思う。いつまでも美津子がプレイヤーになっていると、事業計画を立てる時間が取れない。ならば、杏奈をセラピストとして教育し、美津子が計画を練る時間を確保するべきだと思うのだが、なんだか、美津子は杏奈に施術をさせるのを避けているきらいがある。
─適正がないと思われているのかな…
 どちらかといえば、自分は不器用な人間。気も利かない。セラピストに向かないと思われるのも、分からなくはないのだが…。
─邪推はよそう。
 杏奈は首を振った。ともかく、今日の発信内容を考えることに集中する。ここ最近、料理ネタに寄っていたが、美津子に施術をしてもらってから、施術に関しても発信するようにしている。あかつきの施術の特徴や、使うオイル。どういう悩みを持つ人におすすめしたい施術か。受けた人はどうなって帰っていくか。
 杏奈がパソコンにかじりついている頃。
「もうちょっと上の方まで、ストローク」
「はい」
 美津子をモデルにして、沙羅は久しぶりに他人へのアビヤンガを行っている。本来は、美津子とは別の者にモデルになってもらって、美津子は傍に立って様子を見ているべきなのだが、別のモデルになれるような者はいなかった。モデルは、施術の知識を持っている者が適任である。間違ったことをしていたら、感覚で察知できるし、目視以上に的確にアドバイスがしやすい。だから美津子は、今日は杏奈をモデルにするよりも、自分がモデルになりながら、フィードバックをすることを選んだ。
 左脚を一通り終えた時点で、沙羅の額には汗が浮かんでいた。確かに部屋の中には日射しが降り注ぐけれど、暑い季節ではないというのに。それだけ、沙羅は熱中していた。
 自宅で施術の流れはおさらいをしてきた。ポイントも押さえてきた。が、頭に入っているのと、実際にポイントを押さえて施術をするのとは、わけがちがっていた。
「右脚は途中で止めないから、通しでやってみて」
「はい」
 連絡を寄越したのは、沙羅からだった。七瀬を保育室に預ける日は多少なりとも動けるから、セラピストの需要があればまた呼んでほしい、と。
 多少なりとも動ける日があるのは、嘘ではないが、本当に限られた日だった。子供を二人とも預けてできた時間は、一人でゆっくりしたり、普段できない家事をしたりするために使っていた。しかし、その時間をなくしてでも、ヨガやアーユルヴェーダの仕事をしていたいと、急に思うようになった。
 七瀬が少し成長したからかもしれない。保育室に行くのにも慣れてきて、前ほどは離れるのを嫌がらなくなった。それに、この間の瑠璃子との会話。
 沙羅は美津子に連絡を取ってみた。空いた時間を自宅サロンのことを考えるのに使ってもよかったのだが、あかつきのことも忘れられなかった。即時的に活躍できる場があるのなら、あわよくば、就労証明を書くことも可能かもしれない。美津子からはすぐに快諾の返事が来た。沙羅は水を得た魚のごとく跳ね上がって喜んだ。
 が、練習をし始めて、沙羅は自覚した。長いブランクの間に、技術が落ち、感覚が鈍っているのは否めない。
 施術のこと以外にも、美津子に聞きたいことは山ほど出てきた。昔働いていたスタッフは、今は誰もいないのか。近頃は、どんなクライアントがやってくるのか。あの杏奈という女の子は、どういう子なのか。仲良くなれそうか。
 しかし、話をしている余裕はなかった。右脚を終えると、沙羅はすでに疲れを感じ、頬は上気していた。
「大丈夫?」
 美津子は沙羅の様子を見てそう尋ねた。右脚の施術に関するフィードバックをした後だった。
「はい、大丈夫です」
「沙羅、呼吸を忘れずに」
「はい、呼吸ですね」
 美津子は仰向けの状態のまま、頭を縦に振った。
「姿勢が崩れると、疲れやすくなるわよ」
 沙羅はすっと背筋を伸ばし、胸を張った。
「ヨガをするつもりで、施術するのよ」
 基本的に、前傾姿勢が続く。肩が落ち、背中が丸まった状態で施術を続けると、体に負担がかかりやすい。
 次に、手、お腹、胸とデコルテの順に、施術が続く。忘れかけていた手技のポイントは、脚を練習している間に思い出した。それからは細かい指摘をされるとしても、その部位ならではのポイントであって、施術自体はさくさくと進んでいく。
「背面も、やりますか?」
「ええ」
 美津子は今度は、うつぶせになった。
 沙羅としては、オーナーである美津子がじきじきに、服を脱いでモデルになってくれるのはありがたいようで、恐れ多い。誰も見てはいないが、美津子が体の向きを変える間も、しっかりとバスタオルで体をカバーして、素肌が見えないようにする。
「ありがとう」
 美津子は笑った。沙羅は機転が利いて、動作も素早い。
 うつ伏せの状態で最初にアプローチするのは、やはり脚だ。それから背中。
 もともと九十分のメニューなのだが、ところどころ手を止め、うまくいかなかった部分を繰り返し練習したので、ゆうに二時間は経過した。
─初回から、こんなに練習するなんて。
 公募はされていなかったものの、もしかしたら、セラピストを急募していたのかもしれない、と沙羅は思った。施術を受ける方にも体力がいる。背面まで終わったところで、この日の練習は終わりになった。
「久しぶりで大変だっただろうけど、片付けまでがセラピストの仕事だから」
「はい、やります!」
 沙羅の頬はりんごのように真っ赤になっていた。少し潤んだ目がきらきらと光っている。
 美津子はバスタオルに身を包みながら、
「沙羅は、施術が好きね」
 足元にスリッパを用意する沙羅に言った。沙羅は顔を上げ、にっこりと笑う。
「はい、好きです!」

 印刷しておいた新しいレシピを持って、杏奈はキッチンへ入った。紺色の長いエプロンを身に着け、調理を始める。
 バスマティ米を洗い、浸水する。生姜をみじん切りにし、しめじを手で割く。クミン、カルダモン、クローブ、シナモンを、それぞれ所定の分量、準備する。
─使うスパイスは全て温のヴィールヤ、か。
 もっとも、程度差はある。たとえばクミンなどは、コリアンダーやフェヌンネルと合わせて、熱の性質を持つピッタに良いお茶を作るのに使われる。
 ヴィールヤとは、消化後の温冷効果を示すアーユルヴェーダの言葉である。温冷効果を体感することは、難しい。少し炒ったクミンを噛んだところで、体が温まる感じがするか冷える感じがするかを正確に捉える、などということは。食品のもつ温冷効果の判断材料となるのは、味だ。
 酸味、塩味、辛味は熱性の味。
 甘味、苦味、渋味は冷性の味。
 もちろん、例外はある。また、一つの食品が複数の味をもっていることから、味で判断するにも、判断に迷うことはある。だからやっぱり、自分の感覚も合わせて判断をしなければならない。
 ともかくも、体は熱により膨張し、冷たさによって収縮する。温冷効果は感情にも影響を与える。冷性の味に関連する感情は冷たく、収縮する。たとえば、新しいものを食べたいという欲求を減少させる。温性の味に関連する感情は熱く、拡張する。たとえば、食物または他の感覚の対象を消費したいという欲求を増大させる。
 温と冷、どちらの性質が必要かは、人によって異なる。季節や環境の影響も受ける。極端にどちらかに傾いている必要がある場合もあれば、中性を保つ必要がある場合もある。
─詳細を見すぎると、混乱させてしまう。
 ややこしい知識であるため、料理教室で話すには生徒を混乱させるリスクがある知識だった。しかし、杏奈は詳細が好きである。食べ物のもつ特徴や性質を、一つひとつ紐解いていくのは、実に楽しい。
 たとえば生姜は、主に辛味のラサ(味)であり、ヴィールヤ(温冷効果)は温。
─似たものが似たものを引き寄せ、相反する性質がバランスをもたらす。
 というアーユルヴェーダの原則に従えば、温性の生姜は、冷たい性質をもつヴァータやカパに良いものだ。しかし、生姜の辛味がもつ別の性質は乾燥であり、乾燥はヴァータの最大の特徴であり、時に最大の敵だ。よって、生姜を摂り過ぎるとその火が体の中の水を乾かし、体の内側が乾燥する。なにごともほどほどが大事だ。もし食材を一つの見方でしか見られなければ、良い物はたくさん使おうという思考に手綱を引くものはない。
 ジュッ。
 フライパンにギーを熱し、その中にホールスパイスを加える。乾燥を覚えているならば、良質な油は、その緩和に効果的。
 料理は、一つひとつの食品がもっている性質を誇張したり、打ち消したりする。そういう作業の連続なのかもしれなかった。杏奈としては、これがぞくぞくするほど楽しいのだ。
 スパイスが弾けるのを待っている間、塩漬けにした栗を、トングを使って瓶から取り出す。塩水に指を突っ込むのは、まだ気が引けた。最近は、手指の湿疹もほとんど落ち着いてきたが、悪化する前から大事にしていたい。すでに大気が乾燥する季節。いつまた具合が悪くなっても、おかしくなかった。
 カレーリーフを加えると、その水分で、バチバチッと油がはねる音がする。その音が聞こえてから、栗と塩を加え、炒める。それから水を加え、沸騰したらバスマティ米を加え、蓋をして炊く。炊いている間、杏奈は外に出た。垣根の近くに寄せたいくつかの鉢植えの中から、ミントの葉をちぎった。コリアンダーはもう枯れてしまい、使えない。コリアンダーの冷性を特に必要とする夏は過ぎ去った。
 立ち上がると、山肌を深い緑から赤や黄色の混じった複雑な緑に変えていく、乾燥した風が頬を撫でた。
 
「すごい、栗!アーユルヴェーダ料理を食べられるだけでも幸せなのに、こんな秋の味覚まで」
 テーブルに並べられた料理─マロンライスとサンバル─を見て、沙羅は両手を両頬に添え、感動の色を露わにする。
 沙羅の隣(杏奈のいつもの席)に座りながら、
─そんなに感動することなのだろうか。
 杏奈は思わず沙羅を二度見した。
「この栗は、柳さんからいただいたものね」
「はい。美津子さんと私だけでは、食べきるのに時間がかかりそうだったので、塩漬けにしました」
 栗仕事など、実はやったことがない。しかし、この間料理番組で栗の保存食が特集されており、杏奈はその時のメモを参考に、初めて塩漬けを作ったのだ。
「その塩漬けを、マロンライスに使いました」
「マロンライス」
 オウム返しに料理名を言う沙羅が、杏奈はちょっとおかしかった。
「このお米は、バスマティ米ですか?」
「はい」
「炊いてから他の食材と混ぜ合わせたんですか?それとも、一緒に炊き上げたんですか?」
「一緒に炊きました」
「へえ、いい香り!スパイスの香りも混ざってますね!」
「…そうですね。でも、バスマティ米自体の香りが強いかもしれないです」
「この香り大好き!インドを思い出すなぁ」
 ころころと表情を変える沙羅を横目で見ている杏奈の表情は、変わらない。しかし内心は、この献立にしてよかったとほっとしていた。昔馴染みのスタッフが訪れるというので、栗を使った何かを出そうと思っていたのだが、
─アーユルヴェーダの料理が食べられるなんて、嬉しい!
 という沙羅の一言で、和食にするのは止め、南インドらしいものを作ることに決めたのだ。
「このスープはなんですか?」
「サンバルです」
「サンバル!」
 また、オウム返しに言う。
「これも、インドって感じですね!」
「まあ、お話はそれくらいにして、いただきましょうか」
 ついに美津子が話を切った。これでは、料理が冷めてしまう。
 いつもは食事が八割方終わるまで黙食をしている美津子と杏奈だが、この日はそうはいかなかった。沙羅は、よくもまあ次から次へそんなに話すことがみつかる、と杏奈が呆気にとられるくらい、よく喋った。南インド料理を食べられる店はこのあたりにはないが、昔はどこそこで食べた、という経験談を話したり、今日の料理には、どういうところがアーユルヴェーダ的な配慮がなされているのか、杏奈へ質問したり。
 二人と向かい合う位置で食事をしている美津子は、対照的な二人のたたずまいを観察していた。ここに二人が並ぶ前から、この二人のタイプが異なることは分かっていた。
─しかし、こうも違うか。
 実際に二人の様子を並べて目の当たりにすると、面白いほどにその違いが浮き彫りになる。
 年齢でいえば、沙羅の方が一回りくらい上。そして、彼女は二人の女の子の母親である。にもかかわらず、沙羅のほうが立ち振る舞い、表情が若々しい。天真爛漫な明るさ、おしゃべり、表情の豊かさ、好奇心、高く張りのある声。
 杏奈は、ほとんど表情が動かない。沙羅に応答するために時々口を開くが、その声は小さく、ひどく落ち着いている。見た目こそ幼く見えるが、落ち着いた物腰からは、年を重ねているようにも見える。淡々として、あらゆる発言に感情がこもらないというか、関心が欠如していた。
 しかし、杏奈の表情や話し方から受ける印象は、そのまま杏奈の本質ではないことを、美津子は既に知っている。杏奈は、内部に発生する感情や思いを、外に出すのが苦手なだけだ。
─それにしても、この人懐っこさは、さすがだな。
 と、沙羅を見ながら、美津子は思う。
 沙羅は人との間に隔たりを作らない。人に興味があり、人が好きだ。現に初対面の杏奈のことも、料理のことも大いに気になるらしく、いろいろと話しかけている。杏奈のほうも、すでに沙羅の人の好さを感じ取っているのか、心を開いて問いかけに応えているように見える。食事が半分終わる頃には、だんだん「喋ってもいい人」という認識になったのか、それまで一方的に沙羅が喋っていたのが、杏奈からも問いかけるようになる。
「沙羅さんは、インドに行かれたことがあるんですね」
「ええ。十年以上前ですけど、インドを放浪してました」
「放浪ですか?」
 ほんわかしていて、綺麗な恰好をしている沙羅の見た目からは、インドを放浪している姿は想像ができなかった。
「そうなんです。楽しかったなぁ」
 沙羅はうっとりと夢見るような目をする。
「南インドのアーユルヴェーダリゾートにも滞在しました。でも、スリランカには行ったことがなくて」
「ほぉ…」
 咀嚼のためか、杏奈は口をもごもごさせて、ただ唸るような相槌のみを打つ。美津子にはこの二人の温度差が、どこか滑稽に思えた。
 食事の後、美津子は早々にパソコンを開け、何事かを沙羅に相談し始めた。杏奈は食器を片付けるために、キッチンと応接間を行き来しながら、二人のやり取りを小耳に挟んだ。
「…ロットによって使用感が変わるの。近頃品質が安定しない気がして」
「…うーん、確かに、製造元が変わった可能性ありそうですね」
「…新しいものは、元に戻っている気がするから、一時的なものだったのかが知りたい」
「…今度ドクターに連絡を取る時に、さりげなく聞いてみましょうか」
 杏奈の知らない、施術に使うオイルの仕入れに関する話らしい。これだけブランクがあっても、沙羅は顔を出せば途端に頼りにされている。
 杏奈は二人の邪魔にならないよう、キッチンに籠って、片付けを進めた。

 午前八時。誰もいないキッチンは、一人で集中するのに絶好の居場所。
 杏奈は料理台に腰を預け、スマホに向かい合う。
 いくつもの色鮮やかな正方形の写真が、杏奈の目の前に浮かび、旋回を始める。たくさんの文字が降って来る。それらの中から厳選して、写真を、言葉を、選び取る。
 スマホの画面をタップする。たったそれだけだが、杏奈はボールを全力投球するような気持ちで、その小さな一つの動作に神経を集中させる。途端に、選んだ写真と文字は、それに興味をもつ人に光の勢いで届けられる。日本各地─都会にも、田舎にも。
 インスタグラムへの毎日の発信。
 普段、リアルな人間を相手に─それがたった一人であっても─、言葉を知らぬ杏奈が、リアルでは考えられないほどの聴衆に向かって、雄弁に語りかける場。
 スマホの中で聴衆に語り掛けている時、けれど、リアルな世界での杏奈は、言葉を発しない。わずかに息を吸ったり吐いたりする音がするのみ。
「じゃあ、よろしくね」
 沙羅は両親に声をかけ、実家の玄関扉を閉める。土曜日、あかつきでの研修の間、娘たちを両親に預けることにした。
 車に乗り、エンジンをかける前に、ふとスマホを開いてインスタを見る。あかつきの投稿は、だいたい午前八時前後である。
 ここにも、杏奈の声が届いた。
 沙羅はあかつきのプロフィール画面を開くと、画面をスクロールして、過去の投稿をずらずらと流し見る。投稿の雰囲気が、ある時点から変わっている。以前は時々、施術の様子やあかつきの風景が投稿される程度だった。それが、ある時点より後は、見ている人に有用な情報が、戦略的に順序立てて発信されている。
─杏奈ちゃんが来てからか。
 美津子は年齢を感じさせない若々しさをもっているが、さすがにSNSでの発信は、二十代の杏奈の方が得意らしい。
 沙羅があかつきで働いていた頃と比べて、最近はSNSの宣伝効果は増しているように感じる。昔の同僚の中で、あかつきの情報発信を担っていた者はいなかった。彼女たちは、仕事としてSNSを活用するのが不慣れというか、好きではなかった。実務のクオリティを上げることを優先していた。
 沙羅は先日の杏奈の様子を思い出した。物静かで真面目そうな印象だった。アーユルヴェーダの食事に関する知識をよく知っていて、それについて話している姿からは、職人肌という印象も受けた。
─今は料理担当。いずれ、セラピストになるのかな…。
 まだ働いて三か月。しかし、ほとんど住み込みで働いているという。そのあかつきへの関与度は、あかつきにおける沙羅の過去の実務経験を、すでに上回っているのかもしれない。そして今後も、沙羅は杏奈と同じ濃さでは、あかつきと関われない。
 沙羅は車の窓から、ふと実家を振り返った。見えるはずはないが、その視線は実家の中にいる快と七瀬に向けられている。仕事をする自由な時間は多くない。その代わり、二人の娘がいる。誰もが得られるわけではない幸せ。子育ては自分のダルマだと思う。しかし…
─どうして女は、二者択一を迫られるのだろう。
 それを思う時、沙羅の脳裏には、気持ちの赴くままに海外赴任した夫・栄治の姿が思い浮かぶ。
 知足と感謝への意識を強化する時というのは、知足していない自分を感じる時でもあった。
 
「おはようございます」
 沙羅は元気のいい挨拶とともに、あかつきの玄関に入った。ホールに入ったとたんに、スパイシーなにおいを感じた。
 午前九時前。お昼ごはんの準備にはまだ早いが、すでにキッチンで誰かが調理しているのか。それが杏奈ではないことは、応接間に入るとすぐに分かった。杏奈は美津子の隣に座り、一つのパソコンの画面を二人で見ている。
「おはようございます」
 沙羅はそんな二人にもう一度挨拶をした。
「おはようございます」
「おはよう」
 口々に挨拶が返って来る。
「沙羅、着替えて、先に施術の準備を整えておいてくれる?」
「はい」
 沙羅はにっこり笑って返事をし、荷物置き場─キッチンを入ってすぐの棚─へ荷物を置きに行く。後ろから二人の声が聞えてきた。
「事前コンサルを一か月前とすると、事前メールのタイミングがだいたいこのあたり」
「前日にもリマインドメールですか…手動でやるとなると、これだけでもなかなか大変ですね」
「すごく忘れやすい。予約が確定したタイミングで、滞在日から逆算して、いつどのタイミングで、何を連絡するかエクセルに入力しておくの」
 二人は顧客管理に関する話でもしているのか。
「おはようございまーす」
 キッチンからハスキーな男の声がした。後ろに向けていた視線をキッチンの奥へ移すと、懐かしい人が二つのフライパンを代わる代わる振っていた。
「小須賀さん!お久しぶりです」
 沙羅が時々業務委託を引き受けていた時代から、このあかつきで料理担当をしている小須賀だった。
「変わってないですね、小須賀さん」
 相変わらず色白で、もやしのように痩せていて、純粋な少年のような面立ちをしている。
「沙羅さんは、ちょっと目元の皺が増えました?」
 沙羅は「ひゃっ」と声を出して、慌てて目元を両手で触れた。それから、みるみる怒った表情になる。
「ひどい!気にしてるんですよ!」
「冗談ですよ」
 小須賀は笑って答えながら、沙羅の反応の良さが心地よい。常日頃、朴訥として、揶揄うと本気で落ち込んだり怒ったりする杏奈を相手にしているから、なおさらだった。
「歳取りませんね、沙羅さんは」
「今更フォローしようとしてもダメです」
 沙羅は腕を組んで怒った顔をしてみせる。
「今日も施術の練習っすか?」
 小須賀はそんな沙羅の様子など気にもせず、片方のフライパンの火を止めて、もう片方を威勢よく振る。スパイシーな香りの源はここか。
「よくあかつきに戻ってきましたね」
「ずっと戻りたかったんです」
 沙羅は首を伸ばして、小須賀が何を作っているのか、興味深そうに観察しながら言った。
「下のお子さん、女の子でしたっけ。いくつになりました?」
「一歳十か月です」
「じゃあ最後にお会いしてから…もう二年以上は経ってるんですね」
 ここで一緒に働いていた頃から、長い月日が経っていた。
「小須賀さん、もうやめちゃってるのかと思いました」
「え?」
「だって、あの頃から、もうやめる、もうやめるって、そればっかり言ってたから」
「やめたいっすよ。全然お金になんないんだもん。だけど、後釜が育たないから仕方ないじゃないっすか」
 小須賀は苦笑いしながら、もう片方のフライパンの火を止め、調理台の上に片手をおき、沙羅と向き合った。
「あの頃働いてた人はみんなやめちゃいましたね」
「感染症のせいです。私も、安定期まで働いてもいいかなと思ってたんですけど、やっぱりそれが心配で。契約期間が終わるタイミングで…」
 と、沙羅は少しバツが悪そうに口ごもる。
「妊娠してたら、自分の体大事にしようと思って当然っすよ」
 申し訳なさそうに思う必要はない、と言わんばかりに、小須賀は飄々と言った。
「でも、小須賀さんには心強い後釜ができたじゃないですか」
「誰ですか?」
 小須賀は声を低くして、曇った表情をする。
「杏奈ちゃんですよ」
 小須賀はため息をつきつつ、顔と手を左右に振った。
「全然使い物にならないですよ」
「うそ。すっごくアーユルヴェーダのこと詳しいですよ」
「いやいやいや、実務が間に合ってないっす」
 小須賀は両手を左右に広げる。キッチンでの仕事、という意味か。
「でなけりゃ、なんでおれが今こんなにあくせくと働かなきゃいけないんですか」
「お給料もらっているんでしょう?小須賀さん」
 沙羅は唇を突き出して、訝し気な表情で訊いた。小須賀は肩をすくめ、両手を広げて上げて、しらばっくれてみせる。
「土曜は、温泉に弁当を納品してるんですけど、懇切丁寧に指導してやったのに、すでに今日は手伝いに来ない」
「別の仕事をしているんですよ」
 小須賀も、分かっているのだろうに。
「それに、あかつきで仕事できたほうが、小須賀さんにとっても好都合でしょう」
「だから、お金にならないって言ってるじゃないですか」
 あくまで小須賀は、憎まれ口を叩きたいようだった。
「今日は何作ってるんですか?」
 沙羅は口元に笑みを浮かべながら、スパイスを調合する小須賀の手元を覗いた。
「教えてあげませーん」
 沙羅の口元から一瞬で笑みが引いた。小須賀はおどけていていいのはここまでだと察した。
「美津子さん、集客に本腰入れ始めたみたいですね」
 急に真顔になった小須賀の言葉に、沙羅は目をぱちくりさせる。
「そうかもしれませんね」
 だから、あかつきに戻りたいという自分の願いが快諾されたのだろう。美津子は一時的に事業規模を縮小していたので、巻き返しを図ろうとし始めているのは意外だけれど、沙羅にとっては良いことだった。
「インスタを見て、遠巻きにあかつきの様子を追ってましたけど、一時はこのまま美津子さん引退しちゃうんじゃないかと思いましたよ」
 ボウルの中に入れた調味料を混ぜながら、小須賀は一瞬だけ沙羅を見た。
「引退してもいいように布石を打ってるんじゃないですか?」
「え?」
「引退するのはいいけど、あかつきをなくしたくはないんですよ」
「じゃあ…」
 沙羅の脳裏には、二人並んで作業をしていた美津子と杏奈の姿が思い浮かぶ。
「杏奈ちゃんが、後継になるんでしょうか?」
 小須賀は、あからさまにわざとらしく、膝をがくんと折って見せた。
「なんでそうなるんですか」
「だって、さっき、杏奈ちゃんにお客さんとのやり取りの仕方を教えてましたよ」
「ああ、それは単純に、杏奈はプレイヤーよりも事務方の仕事の方が、適性があるからですよ」
「プレイヤー?」
「そう。料理とかセラピーとか、実務よりも、計画するとか情報を発信するとか、事務方の仕事のほうが向いてるんです」
 杏奈のことを悪いように言っていたくせに、一部の能力については、ちゃんと認めているらしい。
「美津子さんのやってきた仕事を、一人ではできませんよ」
 特にあんなどんくさいやつには、と小声で小須賀は付け足した。それから沙羅のほうを向いて、意地悪そうにニヤッと笑った。
「自分がいない間に、後継の座をのっとられそうになったって思いました?」
 思ってもないことを言われて、沙羅はまたしかめっ面をする。
「そんなこと思ってませんよ」
「おれは美津子さんの後に司令塔になる人が必要なら、沙羅さんになってもらいたいと思いますけどね」
 この男はまたも大胆なことを、飄々とした表情で言ってのけた。
「やめてください。あかつきの後継を狙ってるとか、司令塔になるとか、いつ私がそんなこと望んだんですか」
 沙羅は小声で、しかし、厳しく小須賀をたしなめた。
「第一、私は自宅サロンを開くのが夢なんです」
「みんなそう言って去っていきましたよ。あかつきに居た人たちは…」
「…」
 沙羅は小須賀の言葉で思い出した。セラピストコースを修了して、実務経験を積む場所として、あかつきで働いた同僚たち。彼女たちはことごとく、あかつきで長く力を発揮することなく、個人サロンの運営に移行し、そして、今まで続いている者は誰一人としていなかった。
 スキルや経験を与えたセラピストたちが自分の元を離れ、その能力がしまい込まれていることを、美津子はどう感じているのだろう。
─私もその一人になるのかな…
 沙羅はネガティヴな疑念がよぎったことを不甲斐なく思って、頭をぶんぶん左右に振った。
「…大丈夫ですか?」
 小須賀はいかがわし気に目を細める。
「大丈夫です」
「沙羅さんは、目の前に困っている人がいたら放っておけない人だから」
 小須賀は作った調味料に魚を浸しながら、
「たとえ自分のサロンを持っていても、あかつきに手が足りてない時はいつでも飛んできて、力を尽くしてくれる。そう思ったから、呼び戻したんじゃないですか」
 平然とした様子で、そんなことを言った。沙羅はきょとんとした表情をして、瞬きをする。
「小須賀さん、相変わらず…格好つけたこと言いますね」
「なんでそうなるんですか」

 午前十一時前になると、キッチンは騒然とし始めた。料理が入ったまま蓋が空いている鍋、調理台に転がるいくつもの箸やスプーン、シンクには洗い物がたんまり。それでも、杏奈も小須賀も、片付けに構っている暇はなかった。弁当箱に料理を詰め、紐で綴じ、おしながきを挟み、出来上がったものからフードテナーに入れる。
「誰かさんが余裕ぶっこいて別の仕事してるから、間に合わなくなっちゃったじゃん」
 悪態をつく小須賀は、自分も余裕げに沙羅とおしゃべりをしていたことは、完全に棚上げだった。
「仕方ないじゃないですか」
 以前は何でもかんでも謝っていた杏奈だが、この頃は理由のない責めには、少し反抗を示す。
 ともかくも、弁当はようやく出来上がった。しかし、足込温泉まで輸送する時間を考えると、もうすでに間に合わない感が強い。
「小須賀さん」
「いやだ、いい」
 小須賀は、杏奈が何か言う前から、明らかに迷惑そうな表情をして、首を小刻みに横に振った。
「まだ何も言ってませんが」
「今日はおれが運転していくよ」
「私、たぶん、もう一人でも行けると思います」
「いや、今日は時間がないから。それに荒い運転されて弁当がぽしゃると困る」
 と、小須賀はあくまで、弁当の心配しかしていない。
 実は杏奈は、九月末頃から、小須賀に車の運転の指導をしてもらっていた。同乗してもらい、普通に道路を走る練習もしたし、バック駐車の練習も何度もした。ようやく一人で運転する自信がついてきたところだった。しかし、今回をデビュー戦にするには、確かにリスクがありすぎた。時間がないし、たくさんの弁当を積んで走るのだ。
 結局、杏奈はエヌボックスに弁当を積み込むところまで手伝って、その後キッチンに戻った。惨状を目の当たりにして、杏奈は一瞬その場に立ち尽くした。弁当作りをした後のキッチンでやることは山ほどあった。
 その頃、二階の施術室では、アビヤンガとフェイシャルの練習を終えた沙羅が、美津子と一緒に水分補給して、一息入れているところだった。
 沙羅は、今日はあかつきのセラピストの正装をしている。独特な白の二部式着物。肩のあたりと袂に花菱の模様がある。灰色みがかったピンク色の前掛けを留める長い帯は、施術の際、体を動かすたびにゆらゆらと揺れた。
 沙羅が昔勤めていたサロンでは、黒いティーシャツにタイパンツという恰好で施術をした。あかつきの正装は、その時の服装と比べて、機能性がいいとも動きやすいともいえない。しかし、優美さでは勝っている。沙羅はこのあかつきの正装が好きであった。
「小須賀さんたち、ちょっとドタバタしてますね」
 お弁当の搬出に伴うドアの開け閉めがちょうど二人の休憩と重なって、いつもはほとんど聞こえない一階からの物音が際立った。
「そうね」
 美津子は紫色のサロンを巻き、肩には大きなバスタオルをかけて、ベッドの上に腰掛けている。顔までオイルでてかっていたが、髪だけはまだ油を吸収しておらず、ふんわりとしていた。
「美津子さん、お水は大丈夫ですか」
「ええ、足りてるわ。ありがとう」
「今は、ケータリングもするようになったんですか?」
「足込温泉へお弁当を納品しているの」
「楽しそう!前は、やってなかったですよね」
「感染症の時にね。ここへ来るお客さんが減った時に、なんとか得られた仕事なの」
「小須賀さんを繋ぎ止めておきたかったからですか?」
 沙羅の鋭い問いに、美津子は一瞬、口をつぐむ。床の上に膝立ちになる恰好で水を飲んでいた沙羅は、いつもの柔らかい表情はそのままに、探るような目を美津子に向ける。
「さあ…どうでしょうね」
 美津子の口元には微笑が浮かんでいる。
 沙羅は美津子からコップを受け取って、自分のものと一緒に、襖の奥のシンク台に置いた。
「小須賀さんには、いい迷惑だったかもしれないわ」
「そんなことないですよ。暑くないですか?」
 温度計を見ながら、沙羅は訊いた。美津子は首を振った。
「小須賀さんは…美津子さんとあかつきのことが好きだと思います」
「ふふ…どうしてそう思うの?」
「なんとなく」 
 沙羅は柔和な笑顔を向ける。直感には自信があった。
「もちろん、人として、オーナーとして、ですけど」
「それ以外に何があるの」
「美津子さん、小須賀さんって、ああ見えて、かなり肉食系なんですよ」
「知ってるわ。でも、親ほどの年齢の私には関係がない」
「いや、年上が好みですからね。美津子さんは綺麗だし」
「…」
 美津子も沙羅も苦笑いした。沙羅に至っては、ちょっと恥じらいも含んだ苦笑いだった。
「さあ、最後はヘッドマッサージね」
「はい」
 沙羅は腕を回して気合いを入れ、ベッドに座ったままの美津子の後ろに回る。頭皮にもオイルを塗布するので、マッサージが終わる頃には、美津子は髪までオイルでつやつやになった。
「美津子さん、ちょっとこのままマッサージを続けていいですか?」
 練習が終わった後で、沙羅は尋ねた。あかつきの手技ではなく、昔別の場所で習ったやり方だが、これをするとみんな喜んでくれる。
「練習に付き合ってくださって、ありがとうございます」
 沙羅は感謝を込めてマッサージをした。
「ふふ。この感じなら、次に新規のお客さまが来たら、あなたに任せてもいいわ」
「本当ですか?」
 沙羅は明るい笑顔になって、思わず後ろから、美津子の顔を覗き込んだ。美津子は沙羅の大きな目を見て頷く。
「嬉しい。ありがとうございます」
 礼を言いながら、沙羅はちゃんと身の程をわきまえていた。
 美津子は新規のお客と言った。常連のお客を任せられるほどのスキルではないということだ。常連のお客には、手腕の差が明確に分かってしまうだろうから。まだまだスキルアップをしなければならない。
「料理部門の方は、人手が厚いですもんね。私も施術部門のスタッフとして、頑張らなきゃ」
「人手が厚い…」
「はい。小須賀さんと杏奈ちゃんが二人…」
「ああ…」
 二人で手厚いというのが可笑しかった。それほど、あかつきは小さな職場だた。
「小須賀さんは昔と変わらず、繊細でおしゃれな料理を作るのが上手ですね」
「そうね」
「杏奈ちゃんは、アーユルヴェーダの知識をいっぱいもってますね」
 二人が合わされば最強ですね、と沙羅は言った。人を褒めるのが上手で、楽天的な性格。沙羅は二児の母になっても変わらないな、と美津子は思った。
「杏奈ちゃんの作る料理は、小須賀さんのとはちょっと違ってますね」
 と、沙羅はまかないで出してもらった杏奈の料理を思い出しながら、
「どこがどう違うというと、難しいですけど…」
 二人が同じものを作って、その場で比較すれば、微細な違いが明確になるかもしれないが。
 親指の腹で後頚部をマッサージされるのは、気持ちが良かった。美津子は目を閉じながら、杏奈の料理を思い浮かべる。
「杏奈の料理は…マイルドね」
「そう!一言でいえばマイルド」
 美津子はふふっと笑った。料理の特徴を言い表したくても、自分にはこの方面の語彙が足りない。
「表現が難しいわね。なんともいえない、特徴のなさというか、食べた後に、何の印象も残りにくいというか」
「印象は残りますよ」
 この前のマロンライスも、食べたことがない食べ物で、その新鮮さが印象に強く残った。
「味の印象のことよ」
「味ですか?」
 マロンライスは、栗の味と、バスマティ米の風味がしたが。
「食べた後に、特定の味が尾を引かない」
「あ、それは確かに…さらっとしているというか、嫌な後味が残らないですね」
「味のバランスを取るのが、あの子の得意とするところなんでしょうね」
「味のバランスですか?」
「六味を知っているでしょう」
「はい。アーユルヴェーダでは食事に六つの味を入れて、バランスを摂ろうとしますね」
「そう。美味しくする味を追求するのではなく、六味のバランスを追求するほうに、杏奈は重きを置いている」
 沙羅は、なんとなく分かる気がした。杏奈の料理は、食べた後、もっと食べたい、また食べたいという欲求を強くくすぐるものではない。つまり、味覚に訴えかける刺激が少ない料理なのだ。そのため、唸るような美味しさではないが、執着を生み出さない。
「六味のバランスが取れているからなんでしょうか」
「さあ、わからない。けれど、味は確かに、偏ると感情にも影響する」
「どんなふうにですか?」
 沙羅は、いつの間にかマッサージを終えていた。美津子の後ろに、寄り添うように立っている。美津子はそんな沙羅の方に少しだけ顔を向けながら、六つの味それぞれの、感情への影響を説明した。
 甘味は満足をもたらす。しかし、甘味に耽ると、自己満足と貪欲につながる。自己満足はある程度必要だが、過度になると、変わらなくても良いという怠惰さや、柔軟性のなさ、頑固さにつながる。
 酸味は物事を評価したいという欲求を高める。満足を自分の外で探すように仕向ける味だ。評価の行き過ぎは嫉妬に繋がる。
 塩味は食欲を高め、熱意を掻き立てる。塩味を過剰摂取すると、感覚的快楽に耽溺しやすくなる、つまり依存を生み出す。
 辛味は興奮と刺激を与える、外向性の味。過度の興奮と刺激は、イライラ、焦り、怒りを引き起こす。
 苦味は、変化したいという欲求を生み出す。自己妄想を払いのけ、現実に直面させる。しかし、失望と不満足である苦味が多すぎると、欲求不満につながる。
 渋味は、興奮と刺激から心を引き離す、内向性の味。心と身体を収縮させる。過度の内向は不安、恐怖につながる。
「それぞれの味に、そんな影響が…」
 沙羅は感動をにじませた表情をして、
「疲れている時や嫌なことがあった時に、甘い物が欲しくなるのは、だからなんですね!?」
 大きな発見をしたような気持ちだった。
「甘い味を摂れば満足感が得られるって、体が自然と分かっているから…」
「そうかもしれないね」
 美津子は沙羅にシャワーの支度を促して、スリッパを履いた。室内は温かいが、サロンにバスタオルを羽織っただけの恰好では、さすがに体が冷えてくる。
「覚えておきたいな。今の知識。美津子さん、あとでもう一回教えてもらえますか?」
 沙羅はシャワーから温かいお湯が出るのを確認してから、美津子にシャワールームへ入ってもらった。
「いいわよ」
 カーテンを閉めながら、美津子は答えた。クライアントと接していれば、セラピストといえど、食に関する知識を話すこともあるだろう。
─知識を得るのに貪欲なところは、二人とも似ているな。
 と思う美津子の脳裏には、杏奈と沙羅の顔が浮かんでいる。しかし、二人が常日頃感じやすい味は、異なる。沙羅は主に甘味、杏奈は苦味だ。
 味を得るのはなにも、食べ物からだけではない。人生の中で、どんな感情を抱くかによって、その感情と関連した味による、物理的な身体への影響が及ぶのだ。

 小須賀はあかつきへの帰途も、行きより速度を緩めることなく車を走らせた。あかつきの駐車場に車を停めると、空になったフードテナーを抱えて、正門からまっすぐお勝手口に向かう。キッチンに入ると、物であふれかえっていた調理台の上には、余った料理を入れた保存容器しかなくなり、コンロの上に乗っている鍋やフライパンも減っていた。
「あ、お疲れさまです」
 ゴム手袋をつけて洗い物をしていた杏奈が、顔だけを後ろに向ける。
「後で洗うから、浸けとくだけでいいよ」
「はい。でも、他の片付けはだいたい終わってますから」
「じゃあ効率いいやり方教えるよ」
 洗い物にも作法があるらしい。
 トイレ行かせて、と言って、小須賀はキッチンを通り過ぎて、母屋へ上がっていった。
 杏奈は引き続き食器を洗った。キリのいいところで引き上げるつもりだったが、やり始めると、終わらせたい欲求に火が付く。
「浸けとくだけでいいって言ったじゃん」
 案の定、戻って来た小須賀に叱られた。
「なんで言うこと聞かないの」
「すみません」
 悪気はなかった。つい、夢中になってしまっただけだ。小須賀ははぁ、とため息をついて、杏奈の立っている場所、シンク台の真正面まで歩みを進めた。杏奈は押し出されるように後ずさる。
「あのね、油物をのっけてなかったような、綺麗な食器とか道具は、ごしごしあらう必要はないの」
「はい」
「ボウルとか、大き目のタッパーとかでもいいから、ちょっとお湯か洗剤に浸けといて、あとで流す程度で終わり。浸けてる間に、他のものを洗う」
「分かりました」
「あとはおれがやるから、棚の中でも整理しといて」
「はい。でも、まだフライパンとか鍋とかも洗ってないので、私、こっちの洗い物進めましょうか?」
 杏奈は後ろのシンクを指した。油汚れのある鍋やフライパンは、後ろのシンクで洗うという取り決めだった。小須賀は、しかし、シンクではなく、杏奈の手元に視線をやる。
「手はもういいの?」
「え?」
 杏奈は目を丸くした。
「手。洗い物すると悪くなるんでしょ」
 小須賀は皮膚のことを言っているのだと、杏奈はすぐに分かった。と同時に、洗い物をしようとすると、なぜか別の仕事を与えられてきた今までのことを思い出す。
─もしかして、配慮してくれていたのか。
 杏奈は少しの間、驚きで動きが止まった。
 小須賀は、往路で車を運転している途中、たくさんの洗い物を残してきたことに気が付いた。といっても、レストランで働いている小須賀からすれば、たいした量ではないが。常日頃、杏奈の手が洗剤に触れる機会を少なくしていたのに、うかつだった。役割は逆のほうがよかったのだ。しかし、杏奈の運転が信用できなかったばかりに、ついキッチンの片付けのほうを任せてしまった。
「どうなの」
 返事をしない杏奈に、小須賀は重ねて返答を求めた。
「あのう…えっと…手はだいぶ良くなってきたんです」
「完全に?」
「もともとひどかったところとか、関節はところどころ、まだ…」
「治り切ってないんだったら、しなくていい時に洗い物するのはやめな」
 しなくていい時、というのは、他にやってくれる人がいる時、ということか。思いがけない小須賀の優しさに、杏奈はちょっと動揺した。
「気遣ってもらってるのに、それをふいにしちゃだめだよ」
 しかし、すぐに動揺は疑問に変わった。なんだか、今の言い回しは変ではないか?
「えっと、小須賀さん…ずっと、私の手のことがあって、洗い物引き受けてくださってたんですか?」
 杏奈はおずおずと尋ねる。小須賀はすでに、シンクに手を突っ込んで洗い物の続きを始めている。
「別に。美津子さんから頼まれたから、仕方なくやってただけ」
 それで、謎が解けた。美津子に気遣ってもらっているのに、という意味だったのか。
「頼まれた…どういうことです?」
「杏奈がここに来て間もない頃に、美津子さんに言われたの。あの子は手が悪いから、できるだけ洗剤に触れさせないようにしてやってって」
「…」
「甘いというか、なんというか…言っとくけど、こんなこと他のところじゃ通用しないからね」
「…」
「…聞いてんの?」
 小須賀は不貞腐れた表情で杏奈を振り返る。杏奈はやっと我に返って、「あ、はい」と返事をする。
 美津子という人は、どこまで優しさを自分に向けてくれるのだろう。杏奈は、美津子が自分に対して配慮をしてくれていたことに感動し、それに気づかなかった自分を不甲斐なく思った。
「でもいつまでも続かないからね。早く治して洗い物してよ」
「あ、はい。ごめんなさい」
「洗い物ばっかりしてるよ、おれは」
 洗い物をするために生まれてきた、と、小須賀はいつもの調子で皮肉った。小須賀はとばっちりを受けたということだ。杏奈は今更ながらそれに気づいて、小須賀に対しても申し訳なく思った。
「すみません。早く治したいんですが、なかなか思う通りには戻らなくて」
「でもそれ治さないと、いつまでもセラピストにはなれないよ」
「え?」
 今日は、びっくりするようなことばかり思い知らされる。
「もしかして、美津子さんが私に施術を教えないのって、この手のせいですか…?」
「そうじゃない?」
 小須賀はしれっと答える。
「そんな…」
 自分の適正や、覚えてもらいたい仕事の優先順位的に、施術が後になっているのだと思っていた。しかし、この手がネックになっていたとは…
 小須賀ははあ~と大げさにため息をついた。
「もっと上司の意図を察しなよ」
「…」
「指示には意図があるの。その意図を察しもしないで、ぼーっと仕事してると、いつか見放されるよ」
 杏奈は二の句が継げなかった。杏奈はゴム手袋に覆われた自分の手を見て、いつにも増して、この手が疎ましく思えた。

「うわぁ、なんですか、このまかない!」
 食卓についた沙羅は、目の前に置かれたワンプレートに、目を輝かした。
「弁当の残りっすよ」
 小須賀はにべもなく答える。今日は珍しく、ここで昼食を摂ってから次の仕事に行くらしい。
─沙羅さんがいるからかな。
 と杏奈は思う。
「こんなお料理、どこのカフェに行っても、そう食べられるもんじゃありませんよ」
 こんなに良い反応をしてもらえると、作り甲斐がある。自然と人の気を良くし、やる気にさせる沙羅を、杏奈はすごいなと思う。
「うちじゃ、こんなにたくさんの品数食べられないし」
 沙羅はもはや、涙すら浮かべて言う。
「何より、座ってゆっくり食べられることも少ないので…嬉しい~」
「いただきましょうか」
 美津子がさらっと食事の開始を促した。
「いただきます」
 口々に手を合わせ、余剰にできた弁当のおかずをいただく。食卓は、いつになく賑やかだった。沙羅は杏奈の隣に、小須賀は美津子の隣に座っている。向かい合う位置に座ったこの二人は、よく喋る。時々、二人の話を聞いている杏奈や美津子にも、話題が振られる。
 よく話すメンバーがいる食卓は、杏奈にとって気楽。父と母、兄と自分。四人家族で生活していた時のことを思い出した。母・陶子と兄の裕太は、よく喋った。父・正博と杏奈は、必要なことを時々喋る程度。今、まさにそういう構図である。
 言葉が少ないことは、必ずしも悪いことではない。なのに、学校でも、家でも、より賑やかであることを求められている気がした。
 しかし、この場では不思議と「静かにしていること」への罪悪感のようなものはない。今まで何度も共に食事をし、杏奈が静かにしていることを全面的に受け入れている美津子が、そばにいるからかもしれなかった。
 杏奈はふと美津子を見上げた。二人の話に積極的に参加するでも、黙食を維持するわけでもなく、時々必要な相槌をうち、表情は始終柔和である。その佇まいを、目に焼き付けた。
「こうしてあかつきで食事すると、昔に戻ったみたいですね」
 沙羅がにこにこと嬉しそうに言った。
 昔は、大勢のスタッフと食事をしていたのだろうか。クライアントが一度に最大で五名ほどが滞在することもあったという。そういう時には、今杏奈が使っている離れも活用し、相部屋で泊まってもらうという事態も発生していたらしい。
 だが今のあかつきにはその活気はない。この食卓にスタッフが四人集まるのですら、杏奈にとって初めてのことだった。
「連絡取ってみてよかった」
 お皿の上の食べ物が空になり、心も身体も満足したらしい沙羅は、背もたれに身を預けて、ほっとしたようなため息を吐いた。
「私はもうあかつきには必要ないんじゃないかとか、娘を預けるのも大変だからとか、何かしら理由をつけて先延ばししてたんですけど」
 それは、言い訳だった。
「勇気を出して、連絡してみてよかったです。もっと早く連絡してみればよかった。アーユルヴェーダの仕事が好きだったのに、ずっとずっと、我慢してました」
 沙羅の中に、ずっと滞っていた思いがあったのか、ここにきて咳を切ったようにその思いを吐露するのを聞いて、美津子は、沙羅もまた、苦味を味わっているのだと知った。子自体が苦味なのではない。子育てをすればいろいろな感情が生まれる。どの味に関連する感情を抱くかは、育て手による。
 沙羅以外に、ここにいる誰も、子を持たない。ゆえに、きっと沙羅は、子がいるゆえの葛藤を話すことを遠慮している。子がいるがための苦味─苦労や悩み─は、子がいるための甘味─愛しさと満足感─を得た上での苦味。子がいない者からすれば、子に関する些細な悩みは、嫌味に聞こえることがある。特に、その者が子を望んでいるにも関わらず、叶わなかった場合は。
 だからといって、子育ては簡単なものではなく、その中で抱く苦味は、決して取るに足らないものではない。美津子は幼稚園で働き、幼児教育の専門家としての活動をする中で、保護者たちの葛藤を常に見聞きしてきたので、沙羅の心境にも察しがついていた。
─苦味は、変化したいという欲求を生み出す。
 苦味は、確かに不満を生み出す味だが、悪い意味ばかりではない。苦味があるからこそ、人は現実を変えようと努力する。苦味は、成長するのを助けるのだ。
 母としての甘味も、苦味も知った沙羅だからこそ、美津子は、以前よりもここでの活躍が期待できると思う。
「沙羅さんにも、ためらったり、我慢したりすることあるんですね」
 小須賀がまた、沙羅をからかった。
「当たり前じゃないですか」
 沙羅は心なしか頬を膨らませ、唇を尖らせた。その少女のような反応にみんなが笑った。

 片付けを済ませた後、沙羅はあかつきを出た。正門へ向かう、その足取りは軽い。充実した一日を送ったという充足感。それを感じれば感じるほど、今度は、早く娘たちに会いたいと思う。
─美津子さんは、次に新規の客が入れば、施術を任せても良いと言ってくれた。
 そのことが、沙羅の心と身体をより軽くしている。
 滞っていたものが流され、滞りがあった場所にスペースが空くと、その余裕がエネルギーとなって、沙羅は、子育てだってもっと頑張れる気がする。
 ミニに乗り込み、エンジンをかけた。流れている音楽に合わせて、鼻歌を歌いながら、林道を下へ降りる。
─雇用形態は以前と同じ、か。
 美津子が忙しい時に、業務委託としてスポット的にトリートメントを引き受ける。
 しかし、美津子は、別に自分が忙しくなくても、沙羅に施術を依頼することがあったような気がする。その意図を思えば、沙羅は、自分のサロンを開きたいと思う一方、もう少しこのオーナーの下で働いてみたいという気持ちになる。
 沙羅としては、施術の機会をもらえるだけでありがたい。無償でも構わないといったくらいの気持ちである。
─去っていきましたよ。
 小須賀との会話の中で思い出した、かつての同僚たち。車通りの少ない山道を駆けながら、沙羅の脳裏には、彼女たちの姿が浮かんでいる。
 あかつきで施術を覚え、夢を描き、夢を実現する場所をあかつきから個人サロンに移して、夢を潰えた。けれども、みんながみんな、好きで自分の夢を終息させたのではないのだろうと、沙羅は思う。自分の力量以外のことが、きっかけになることだってありうる。一緒に働いていた人たちは、若い人もいれば、沙羅よりずっと年上の人もいた。結婚、出産、介護、自分たちの体調…家族がいれば、経済的な事情も、環境面で都合がつかないこともあるだろう。あかつきでスキルと経験を得ながら、あかつきを離れ、あかつきで学んだことも活かすことがないからといって、その人たちを、どうして責められるだろうか。
 子育てに追われて、自分の夢が消え入りそうになると時々感じる沙羅としては、彼女たちを弁護することは、自分を守ることでもあると感じる。一方で、いつまでも弱気なことばかり言っていたくはない。
─アーユルヴェーダとヨガで、お客さんを元気にしてみせる。
 ヨガに出会った時、沙羅は、一生追いかけても、学び切れないほど深い学びがあることを知った。これこそ、自分が極める道と直感した。沙羅は学校的な成績も良かったが、フィーリングを大事にするところがあった。
 そして、ヨガを学ぶ途上で知ったアーユルヴェーダ。奥が深い、インドの伝統医療。
 マットの上だけでなく、料理やセルフケアなど形的なことだけでもなく、現実世界で自分なりのヨガがしたい。サットヴァな心でいたい。沙羅の意識は常にそこにあった。
─小さな子供を預けてまで、世界に自己投影することは、ヨガなの?
 その思いは、いつも沙羅の後ろ髪を引いた。でもそこに罪悪感を感じるのは、もうやめた。
─いつか娘たちにも、誇れる母でいたい。
 沙羅は自分の求めるものを追う時間─自由─がほしいと思っていた。しかし、自分が本当に望む自由とは、そういうことではないのだろう。
 本当の自由とは何か、今は分からない。けれど、それを得るために旅を続ける。

 


 

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