第16話「唐揚げ事件」アーユルヴェーダ小説HEALERS

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 畳の上に濃いグレーのマットを引き、美津子は先ほどから自室でヨガをしている。
 ダイナミックな立位のポーズ。両脚を開いた前屈プラサリータパドッタナーサナ。立位の側屈トリコナーサナ。前足に踏み込みヴィラバドラーサナⅡ。体を後ろ脚の方へ傾け、リバースウォーリア。
 一つひとつのポーズの静止時間は長く、その間、深い呼吸をする。ポーズからポーズへ移る時は、できるだけ滑らかに移行する。
 白い長そでのトップスは丈長で、裾幅がゆったりとしているので、脚を大きく開くポーズでも突っ張らない。それから動きやすい灰色のレギンス。一つにまとめたオレンジみがかった黒茶の髪は、後ろで大きなバレッタで留めている。
 リバースウォーリアまで終わると、もう一度立位の開脚前屈に戻り、反対側も同じように行う。雄大なポーズを続けながら、美津子は、意志を強めようとしていた。ヴィラバドラーサナⅡのポーズで前脚を力強く踏み込みながら、美津子は杏奈と宇野の会話を思い出す。
 翠湖でお月見をした翌日、宇野があかつきを去る日。杏奈と宇野は、朝食の前からギーを作っていた。宇野は恋人と死別した事実を隠し、生前の彼女の意思を追うように、あかつきに滞在をしていた。彼にギーの作り方を教え、ギーを持って帰ってもらうよう指示したのは美津子だった。
─満月の日にギーを作るのが良いとされています。
 と、杏奈は宇野に説明をした。そのあたりから、美津子はストリングカーテンの前に立ち、そっと二人の会話を聞いていた。あくまで、経営者として、スタッフのパフォーマンスをモニタリングしているという体であった。
─満月には、月にソーマという癒しのエネルギーが最も満ちます。
 その満月の日に作るギーにも、癒しの波動が伝わるのだという。ギーはヴァータを鎮め、心をグラウンディングさせ、落ち着かせる作用を持つと信じられている。
─昨日は眠れましたか?
 美津子には二人の様子は見えなかったが、宇野の隣に立つ杏奈は、宇野が力なく苦笑いを浮かべるのを捉えた。その表情からは、しかし、昨日よりも素の気持ちをさらけ出してくれているような、どことなく心を開いてくれたような感じが読み取れた。
 ぐつぐつとバターを煮ているだけなので、ギーを作る間は、特段することはない。シュワシュワと煮える音を聞き、乳製品独特の甘いにおいを嗅ぎ、泡の状態を、ただ見つめているだけだ。
─宇野さん、私も、とても大切な人を失った経験があります。
 泡がやや大きく、ハチの巣状を呈してきた頃に、杏奈は言った。宇野は隣の杏奈に視線をやる。美津子は眉をひそめた。
─宇野さんと違うケースなので、宇野さんの気持ちが分かるとは思いませんが…
 先ほどより幾分煮える音を小さくしながら、再び泡が小さくなっていく。宇野は鍋の中のギーに、再び視線を戻した。
─ぽっかり空いた空間に、寂しさや悲しみが吹き荒れる。そんな状況に終焉を求めていたのは、同じかもしれなくて…
 杏奈はおそらく、最も大きな波は乗り越えたのかもしれない。最初はヨガに打ち込むことで、その次にはアーユルヴェーダの料理教室を運営しようと懸命になることで、扱い難い感情を紛らわした。一方、宇野は今、最も大きな波の真っただ中にいる。
 宇野を襲う波が少し穏やかになったら、次の段階に進まなければならない。けれど、宇野がその段階に来た時に、杏奈はそのことに気づけないだろう。彼は今日ここを離れたら、また彼からここへやって来ない限り、接触することはないのだから。
─私が思うのは…
 だから杏奈は、今言う必要があると思った。
─その喪失に意味を見つけることで、少しでも、悲しみを意味のある経験に変えることができるのではないかと…
 ギーの水面が穏やかになった。昨夜見た、月を映す湖面のように。もう少し音が止めば、引き上げる頃合いだろう。
 杏奈は、瓶の上に目の細かいストレーナーを乗せた。
─分かったような口を利いてごめんなさい。
 杏奈は下を向いた。自分の言葉に自信がない杏奈は、宇野の表情を見ることができなかった。宇野は目を閉じていた。夫や子供のいない、あかつきの二人の女性から寄せられる言葉は、意味深で難解だった。それを十分に咀嚼するだけの心の余裕はないけれど、いつか、自分にも分かる時が来るだろうか。
─引き上げ時です。
─はい。
 宇野は火を止め、ストレーナーを通して、ギーを瓶に入れた。ギーは、昨日の満月と同じ、黄金色をしていた。
 美津子は回想を終えた。マットの短いほうの縁が正面になるように立ち、脚を前後に大きく開いたまま、骨盤を正面へ向ける。前脚に踏み込み、両手を上に上げる。ウォーリアⅠ。静止している間、肋骨が前に突き出ないように気を付けながら、美津子は呼吸を続ける。そして、花神殿で、もう二度と楽しいことはやってこないと思っているかのような、杏奈の虚ろな瞳を思い出した。
─あなたをアーユルヴェーダの道へ進めたのは、本当はなんだったの?
 そのことに意味を見出したからこそ、杏奈はあかつきに来たのだろうか。宇野に言っていたように。…
 
 まだ暑いので、そうとは思えないのだが、夏は終わり、秋を迎えようとしている。
 アーユルヴェーダでは、次の季節を健康な状態で迎えるために、食べ物や生活習慣に気を払うことを勧めている。季節が変化する時、人間の心と体にも、変化が起こる。
 確実に一日一日、日は短くなり、風が強まり、空気の乾燥が増す。乾燥、動き、軽さといった性質が強くなり、ヴァータが悪化しやすくなる。具体的には、便秘、不安、ぼんやりする、不眠症、ガスが多いなどという症状が出やすくなる。
 とはいえ、収穫の秋を迎えることは、杏奈にとって喜ばしいことだった。畑には、さつまいも、里芋が育っている。もう少ししたら、収穫できるはずだ。先日は、柳老人が、自分の山で採れたというきのこをどっさり持ってきてくれた。
「最近、手の調子はどう?」
 美津子にふいに尋ねられた。美津子は杏奈から少し離れたところで、畑の草をむしっている同じく草むしりをしていた杏奈は、上体を起こし、麦わら帽子のツバを上げた。
「…平気です。痒みがあるところも、ほとんどないです」
「そう。でも、夏の間にピッタが蓄積してるし、乾燥してきてるから、これから発疹が出たり炎症が起こったりするかもしれないわね」
 気を付けてね、と言いながら、美津子は手際よく作業を進める。涼しい朝のうちに、草むしりと収穫を終わらせてしまいたい。
「はい。ありがとうございます」
 杏奈は、美津子が自分の手指のことを心配してくれることを、ありがたいと思う。
 土の上に視線を向けた杏奈は、どきりとする。草をむしったら、土の中に芋虫がいた。慣れてきたようで、まだまだ慣れていない。軍手をしていなかったら、慌てふためいているところだ。
「美津子さん」
「ん?」
 黙々と作業をする美津子に、今度は杏奈のほうから話しかけた。
「この前の講義と料理教室、どうでしたか?」
 今更だが…宇野向けのアーユルヴェーダ講座と料理教室のフィードバックは、まだもらっていなかった。もっとも、開催前に、内容や配布物の確認は十分にしてもらっていたけれど。
「事前に内容をもらっていたのに、こう言うのもなんだけど」
 二人は作業をやめて、相手の顔を見た。
「知識を詰め込み過ぎたわね」
 それは、宇野の反応や表情を見ていて思ったことだ。アーユルヴェーダの概念だけでも、理解するのに苦しむ人はいる。アーユルヴェーダを他で学んだことがないのなら、なおさらだ。
「クライアントのアーユルヴェーダの習得度にはばらつきがあるから」
 美津子は自分の意見を述べる。
「ある人は、基礎部分の説明だけだとつまらないと思うだろうし、ある人は、パンクしてしまうかもしれない」
 アーユルヴェーダは難しい、という印象を受けられかねない。
「相手によってどの話をするのか、柔軟に選べるようにしないといけないね」
「はい」
「まあ、やりながら修正していきましょう」
─やりながら。
 杏奈は美津子の発言を少し意外に思った。美津子は作業に戻っていたが、杏奈の動きが停止しているのに気付いて、
「なに?」
 何が気になっているのか、と尋ねるつもりで、言った。
「あ、いえ…美津子さんは、しっかり準備が整った、確かなものしか、クライアントに提供してはならないと考える方かなと思っていたので」
「そんな間に合わせの対応でいいのかって?」
 杏奈は返答に窮したが、美津子は自嘲気味な笑いを浮かべた。
「ずっとそんな風にやってきたわよ」
「そうなんですか…」
 間に合わせの、とは言っても、美津子のことだ。それでさえ、ある程度高いクオリティだったに違いない。
 二人は草むしりをしつつ、収穫した野菜をざるに乗せた。
「食材の話は、どうでしたか?」
 杏奈はまだ、料理教室の話を続けた。最初の教室で、宇野にゴツコラのことやら、ヨーグルトのことやらについて説明をした。
「間違ったことは言ってませんでしたか?」
 人からのフィードバックをもらうのが怖くて、できるだけ避けてきた杏奈だが、今後もあかつきで料理教室をするために、不出来なところは直しておきたかった。
 美津子は手についた土を払いながら、首を傾げた。
「実をいうと、私はアーユルヴェーダ料理というものを、よく分かっていないの」
「え?」
 まさか、と杏奈は目を丸くした。
「季節ごとの大きな方向性や、アグニケアについては分かっているつもりでいる。けれど、一つひとつの食材の性質とか、調理上のテクニックに関しては、正直、あなたの方が詳しい」
 そう思ったのは本当だった。料理教室を聞いていて感じたことだ。杏奈は十分にこの方面のアーユルヴェーダの知識に詳しいし、情報をアップデートしたり、いろいろなレシピを試すことに意欲がある。
「美津子さんは、食材の性質などは、言及するほどでもないと考えているのですか?」
 意識するに足らぬ、小さな影響だと…どんな時も、杏奈は、人の発言をポジティブには受け取らない。
「そういうことではないのだけれど…」
 美津子は美津子で、どう答えたら良いやら、困った。そんなことは、ほとんど考えたことがない。
「多分、知っててもいい知識なのだろうけど、関心があまりないのだと思う」
 食べ物に関する知識を、深く、細かく追おうとは思わない。
「あなたがそれを追求しようというのが、無意味だと言っているのではないの。私は私で、別のところに関心があって、そっちを追求するほうに時間を割いているだけ」
「そうなんですね…」
「もともと、料理に手をかけないしね。本当に関心の問題なの」
 そういえば、美津子の作る料理は、素材を活かしたというか…ほとんど、食べれる状態にしただけ、というようなものが多い。杏奈は、そういった料理が逆に滋味深いと感じていた。美津子は深い意図をもってそうしているのだと思っていたが…
「杏奈の料理教室の内容自体は、良かったと思うわよ」
「本当ですか」
 杏奈は、ほっと胸をなでおろした。個人料理教室の開催は、一年にも満たない間に終わってしまったが、少しでも経験をしておいて良かった。
「料理の分野でも、何でも」
 美津子は野菜の乗ったざるを杏奈に渡した。
「それを楽しいと思える人がやるのが、一番良い」

「もうちょっと季節感の出る料理にしたいなあ」
 土曜日、あかつきのキッチンにて、小須賀がフライパンをゆすりながら独り言のように言った。
「九月に食べたいものといえば?」
 さっきまで、任意の女の子とのラインでのやり取りについて話していたのが、いつの間にか話題が変わっている。
 杏奈は豆カレーの仕込みで忙しかった。ザルに入れた赤レンズ豆を、水を張ったボウルに浸し、よく洗う。生来、無駄口をたたかないタイプの杏奈は、無駄口が多いタイプの小須賀の相手をするのは、未だに慣れなかった。
「なんでしょうね」
 目線は赤レンズ豆から離さず、とりあえずつなぎの一言。濁りが出なくなるまでには、何度か水を変える必要があった。
 九月というのは、夏なのか、秋なのか、はっきりしない。秋っぽいものも思い浮かぶが、まだ早いような気がする。
「いちじくですかね」
 やっと出た答えがそれであったが、我ながら良い線をいっていると思う。
「愛知県の名産だし」
「果物じゃん。他の食材と一緒に使えないんじゃないの」
 小須賀はフライパンの縁にトントンと木べらを打ち付け、杏奈の方を向いた。
「現実的に、次の弁当に足せそうなやつ言ってみてよ」
 杏奈はボウルの水を捨てて、空のボウルの上にザルを置きながら、困り顔になった。メニューに組み込む前提の話だったのか。
「きのこの炊き込みご飯とかですかね」
「とかって何、とかって」
 小須賀は両手を広げ、肩を上に上げて、「WHY?」というジェスチャーをする。こういう重箱の隅をつつかれるのも、杏奈が小須賀の相手を苦手とする理由だ。
「ていうか、炊き込みご飯とか、色気ないじゃん!」
─お弁当に、色気必要?
 杏奈は両手をボウルの縁に置いて愕然とした。どうしてこう、思ったことをそのまま言ったり、適当な発言をしたりできるのだろう。
「小須賀さんの賑やかさ、見習いたいですよ」
 杏奈は調理台にドンとボウルを置いて、はあ~とため息を吐いた。隣にいる小須賀は、不意打ちをされ戸惑った表情をする。
「なんだよ、嫌味っぽいな」
「嫌味じゃないです」
 料理教室をしていてよく感じることだ。
 杏奈は、正直に小須賀に話した。知識を伝えたり、調理の指導をしたりするのに精いっぱいになってしまって、お客さんを笑わせ、楽しませる話ができていない、と。
─確かに、杏奈が先生じゃ、盛り上がらんかもしれんなぁ。
 動揺や不安を隠そうとすると、動きの鈍さも、口数の少なさも拍車がかかる。そんな杏奈の特性を分かってきている小須賀は、しっぽりした料理教室の様子が、容易に想像できる。
「美津子さんは、料理教室の内容は良かったって言ってくれたんですけど、私としては進行が単調だなって」
「美津子さん、内容良かったって言ったの?」
 不必要なほど声を張り上げられて、杏奈はびくっとした。
「はい」
「本当?それ」
 疑いの目を向けられて、杏奈は気を損ねた。
「どういう意味ですか?」
「杏奈、料理教えられるの?」
「…」
 小須賀に言わせれば、杏奈は、料理の基本的なことが分かっていない。野菜を美味しくする下処理や、火の通し方。調味料の投入タイミング。そら豆の茹で方も知らなかったし、作った料理の保存もおろそか。手際も悪い。
「アーユルヴェーダの知識はあるんだろうけど」
 ずらずらと欠点を並べ立てた上で、小須賀は言う。
「普通の料理教室だったら、杏奈は先生として通用しないと、おれは思うよ」
 衝撃的、といえるほど、歯に衣着せぬ物言いだ。厳しい評価に、杏奈は涙腺が緩みそうになり、ぎゅっと唇を結ぶ。痛い所を突かれた。しかし、杏奈自身も気にしていないことはではなかった。
 小須賀とは、美津子よりも長い時間、キッチンで作業を共に行っている。だからこそ、料理の技術に関しては、美津子よりもその評価は正確だろう。知識や技術、経験が上回る、小須賀の視点だからこそ、見えるものもある。
「美津子さんが認めてくれたのは、単に美津子さんが寛容だからだよ」
 あれだけ懐が広い人もそうそういないと、小須賀は言う。
「厳しいこと言うとやめちゃうかもしれないから、よしよししてるだけさ」
「そんな風に言わなくても…」
 杏奈は、本当に泣けてきた。後ろを向いて、エプロンのポケットを探る。タオルを入れていなかったか。
 小須賀は、詫びを入れなかった。
「杏奈は、専門学校も出てなければ、実地の訓練も、大してしてないんでしょ」
 今声を出すと、泣き声が漏れてしまうと思って、杏奈は、小須賀に背を向けながら、首を小さく縦に振った。その通りだ。杏奈は、つまり、料理の技術に関しては、主婦並みなのだ。
「なら、アーユルヴェーダの理論以外のところも、勉強しなきゃだめじゃん。余裕がないから、お客さんのことを見られないし、会話も出てこないんだよ」
 そう言う小須賀の声音は、先ほどより若干、柔らかくなっていた。
「美津子さんが、杏奈をここに残す気なら…」
 小須賀は、五徳に別の鍋をセットしながら、つぶやくように言った。
「技術面のことは、おれが教えてあげるから。もっと視野を広く持ちな」

 杏奈は浮かない顔をしている。美津子は夕食を食べながら、向かいに座る杏奈のしょぼくれた表情を見て思った。
─小須賀さんとお弁当作りをした後は、よくこういう顔になるな。
 自信を喪失したような、落ち込んだ顔。早朝は気分が良さそうだったのに。
「また何か小須賀さんに言われたの?」
 いつものように、会話が始まるのは、食事を八割方は終えてから。杏奈はびくっと体を硬直させて、たじたじと顔を上げ、ゆっくり頷いた。
 告げ口になるようで、決まりが悪かったが、小須賀に自分の未熟さを指摘されたことを話した。その指摘が、的を得たものであると感じていることも。
「反省するのはいいけれど、杏奈」
 美津子は最後の一口分のごはんを飲み込んだ後で、
「卑屈になることはないのよ。あなたには、良いところもあるのだから」
 とあっさりと言った。
 杏奈は、美津子から見て、どんなところが自分の良いところなのか、知りたいと思った。しかし、自分から「よしよし」をねだるのは、気が引けた。そんな杏奈の葛藤を知ってか知らずか、美津子は所見を述べた。
「知識やスキルはおいておいて…みんな、あなたにはやすやすと自分の気持ちを打ち明けるじゃない」
 杏奈は頭を垂れていたが、目だけを大きく見開いた。
「優香さんも宇野さんも…」
 美津子は最近の記憶を呼び起こしていた。
「あなたは、人の本音を引き出すのが、意外と上手」
 杏奈は目をぱちくりと瞬きさせた。
─そうなのか…
 今美津子が教えてくれた自分の長所には、自覚がなくはなかった。しかし、もし、人が自分には本当の気持ちを吐露する傾向があるとすれば、
─それは私が…透明人間だから。
 誰にも言えない鬱憤を、道端の花に、森の木に、話しかけるようなものだ。
─キラキラした人間じゃないから。
 人は、自分と他者を比較し、優劣をつけるものだ。宇野にしろ、優香にしろ…それから、あの美真にしろ、杏奈を自分より勝っている人間だと思ったら、正直なことは言えなかったかもしれない。自分が劣情に苦しみ、不幸を感じている時に、明るくてキラキラとした、幸せそうな人間がそこにいたら、本当の心の内は話さない。明るく元気な人から、ポジティヴな気をもらいたいと思う場合もあるが、それは、その人に好意を抱いている場合だ。
 おそらく彼らの目に、杏奈は、「自分より劣っている者」に見えたのだろう。愚鈍で、幸福感の薄い、発言力のない人に映ったのだろう。
─使い捨てのティッシュのように、感情を拭い捨てるのに、使われただけだ。
 透明人間には、発言力も、影響力もないから、何をしても構わないのだ。学生の頃、学友たちが、杏奈をそういう風に扱ったように。
 杏奈は、しかし、そんな卑劣な感情を、美津子には言わなかった。美津子はきっとフォローしてくれる。そうさせるのも申し訳なかった。
 開け放った窓から、鈴虫や、松虫の声が元気に聞こえてくる。二人の間に流れる沈黙を、覆ってくれるものがあってよかった。ここに何の音もなければ、静けさが虚しさとなって、杏奈はもっと萎縮していただろう。
「面接の時、あなたは、人の時を止め、癒し、再び自分の道を歩めるよう、アーユルヴェーダの視点から方法を与えたいと言ったわね」
 杏奈は伏せていた目を、美津子に向け、頷いた。この人は、人の話をよく覚えているものだ。
「その気持ちを大事にしなさい」
 美津子は、窓からの風に吹かれて顔にかかった髪を、耳へかけた。
「優れた料理人や、優れたセラピストが、優れたヒーラーであるとは限らない」
 杏奈の眉がかすかに動いた。
─ヒーラー…
 癒す者。
「優れたヒーラーになるために必要なものは、教育を通して養えるものではない」
 緊迫性を帯びない、いつもの穏やかな口ぶりで、美津子は話す。
「ヒーラーとして最も大切なことは何だと思う?」
「…」
「今は分からなくてもいい。けれど、あなたは少なからず、それを持っているのだから、それを大事にしなさい」
─私が、ヒーラーに必要なものを持っている…?
 杏奈は、しかし、ピンとこなかった。
─どういう部分が?
 自分のどういう素質のことを、あるいは能力のことを、美津子は言っているのか。しかし、杏奈がそれを問いただす前に、美津子は次の言葉を紡いだ。
「私は、腕の立つ料理人や、経験豊富なセラピストがほしくて、あなたを雇ったんじゃない」
 そういう人材がほしいのなら、最初からそういう人を選んでいる。
「もちろん、同時にいずれかだけでもなれるのならば、それに越したことはない。でも、スキルはクライアントを癒すための手段の一つに過ぎない。いわば道具。道具を使いこなすことを目的と勘違いしてしまってはいけない。あなたはその道具を使って、やりたいことがあるのでしょう」
「は…はい」
 美津子はこくこくと首を縦に振った。
「目指すべき道筋がはっきりしていて、そこに行きたいという意志が強ければ、否応にも必要なスキルを身に着けていくはず。今未熟なところがあったとしても、その事実をただ冷静に受け入れれば良い。そこに卑屈な感情をつけるのはよしなさい。受け入れたら、前を向いて、やるべきことをやるだけよ」
 杏奈の神妙な面持ちとは裏腹に、美津子は、口元に笑みさえ浮かべていた。
「そして、なるべく早く、自分の本懐を遂げさせてやりなさい」
 杏奈は自分の滞っていた感情が、溶かされていくように感じた。そう感じると、自然と、顔の緊張まで解け、表情がゆるんでいく。杏奈も口元に微笑を浮かべ、小さく頷いた。
 自分は人を導きたいと思う立場であるが、今は、導かれている立場だ。この善良なアーユルヴェーダのヒーラーによって。
 杏奈は白湯をコップに注ぎ、すすっと飲んだ。温かいものが、喉奥を取って、お腹の方に流れこんでいく。
 安心したような顔で、ゆっくりと白湯を飲む杏奈を見ながら、美津子は椅子に深く座り直し、背もたれにもたれた。
「アーユルヴェーダを通して、人を癒したいと思うようになったのはいつから?」
 杏奈はぴたりと、コップを口元に寄せる動きを止めた。穏やかだが、鋭い視線が、杏奈を射抜いている。
「…ヨガスクールで、ヨガを学ぶようになった頃、ですね」
 緊張からか、杏奈は再び心も体も委縮していくように感じた。
「その頃、本当は何があった?」
 そう訊かれるのが、分かっていたのかもしれない。

─美津子さんに、話すべきだろうか。
 コップを両手に持ちながら、杏奈は迷った。
─話して、いいだろうか…
 得体の知れない圧縮された感情のようなものが、心の底から湧き上がって、心臓の鼓動を早くし、喉元を熱くし、頬を上気させた。
 本当は望んでいた。この思いを、なるべく、外に出すことを。
 杏奈は、自分の身に起こったことを話した。尾形のこと。自己の評価を一変させる経験。滞留した感情。時間を止めるためにヨガとアーユルヴェーダにすがったこと。変わった世界を取り戻すために、自分はこれを成すと、心に決めたあること。
 美津子は表情を変えることも、口を挟むこともなく、全てを、ただ聞いていた。杏奈は話し終えた後で、バツが悪そうに、もじもじと身体を動かし、前髪をいじった。
─これで…
 もう、契約は更新してもらえないかもしれない。でも、
─それでも良い。
 と、杏奈は思った。それほど、杏奈にとって、秘密にしていた事実と気持ちを外に出すことは、価値があった。後悔はない。
─でも、できれば…
 美津子と、もう少し一緒に働いていたい。美津子がクライアントに提供する癒しのプロセスに、自分も参加したい。
 軽蔑されたかもしれない。でも、その軽蔑を覆すほどにこの人の役に立ち、必要な人間だと思ってもらえたら、どんなにかいいだろう。
 二人の間に、長い沈黙があった。
 美津子は、どこにともなく視線を漂わせて、杏奈の話を落とし込もうとしていた。やがて美津子は目を閉じた。
 話したことに、後悔はない。一時はそう思ったものの、美津子が自分にどういう印象をもったか、いよいよ不安が募って来た杏奈は、いたたまれず、両手を膝の上でもてあそんだ。
 美津子は、椅子の背から身体を起し、背筋を伸ばす。閉じていた目を、ゆっくりと開く。
「分かった」
 一言だけ、美津子の静かな声が二人の間の空間を通った。杏奈は、おそるおそる、視線を美津子の方に向ける。
「今度は、私の経験を話すわ」
 しかし、意外なことに、美津子からは、何の問いかけも、感想のような返答もなかった。代わりに、杏奈に何事かを伝えようという。
「私の母の話は、この前聞いていたわね」
「はい」
 美津子が幼くして、死別した母。確か、乳がんだったという。美津子には弟がおり、母の代わりに、弟を守る存在になったとも。
「若い頃、私が長いあいだ関心を寄せていたのは」
 美津子は過去の記憶を探るような表情を見せた。
「幼少期の生活、人との関係性が、人格形成にどのような影響を及ぼすか、ということだった」
「幼少期の…それは、弟さんのことを気にして、ですか?」
「それもある。けれど、母を失った時、私も十分に幼かったから、自分にどんな影響がどれほどあったのか、知りたかったのかもしれない」
 母と死別した時、美津子は、小学二年生だったという。母親の存在が、まだまだ大きな影響力をもつ時期だ。
「幸運なことに、母の死によって、生活が特別に不自由になったり、自分の性格が歪んだと感じたりすることは、あまりなかった」
 父親が、美津子とその弟を、大切に育てたからだ。
「宇野さんが、恋人の不在に苦しんでいるように、私も、一時は苦しかったと思う。けれど、幼な過ぎて、その事実をどう扱ったらいいのか分からないまま、放置していた」
 母の死と、それに対する自分の感情を、消化することができなかった。
「高校生くらいの頃から、自分の思考や選択に、かつての母の存在と、その母が不在であるという事実が、私に影響を与えていると感じるようになった。私は、それまで気にしないふりをしてきた感情に、向き合いたいと思った。それで、恐山に行った」
 ここまでは、宇野に話していた内容なので、杏奈も覚えていた。
 恐山は、青森県の下北半島に位置する山で、日本三大霊場の一つ。死者の口寄せ(霊を自分に憑依させ、霊の代わりにその言葉を自らの口を通して伝える術)をするイタコがいることでも知られている。
「でも私は、そこで何をしたらいいのか、よく分かっていなかったの」
 美津子は昔の自分に向けるかのように、苦笑いを浮かべた。
「母をより近くに感じたいと思ったのは確か。けれど、イタコに口寄せを頼むつてはなかった。それでも、あの世と最も近い恐山に行けば、何かが分かると思っていたのかもしれない」
 当時の美津子には、本当の自分の声が、分からなかった。長い年月なのか、いろいろな記憶なのか、とにかく何かが自分の望みや、求めているものを覆い隠していて、容易には近づけない。
 その時、参拝に来ていた老婆が、美津子に話しかけてきた。老婆は何度もこの地に足を運んでいる、地元の者らしかった。深い皺と、シミのある顔、白髪、曲がった背中。なんらかの業を背負って、この地に巡礼を重ねている者。そんな感じがした。
 あの老婆の顔が、美津子は今でも忘れられない。
「その老婆が、私にこんなことを言った」
─毒素を溶かすと、魂が見えやすい。
 杏奈はごくりと唾をのんだ。
 しかしやっぱり、当時の美津子は、その意味が分からなかった。
 やがて、美津子は保育士になった。幼少期は、人格形成に多大な影響をもたらす時期だ。その時期の子供たちに、少しでも愛情を注げればと思った。そして、幼少期に十分な愛情を受けられなかった場合、どのような影響があるかを、現場で子供たちと向き合い、その後の成長をも追うことによって、探求し続けていた。もし健全な成長が遂げられなかった場合、彼らをサポートしうるものについても。
「その間も、私は、恐山で出会った老婆の言葉が、ずっとひっかかっていた」
 美津子は、体のレベル、心のレベルで、毒素を溶かす方法を探し続けた。様々な宗教書、哲学書、医学書を読み、ワークショップに参加した。
 ある時、新聞社に応募した子育てに関する知見が、何回かにわたって新聞に掲載された。限られた地域の、狭い範囲ではあるが、幼児教育の専門家として美津子個人の名前が知られるようになった。そして、地域の広報誌や子育て関係の書籍に寄稿するようになった。それがきっかけで、ある僧侶と出会うこととなる。水子供養で有名な、足込善光寺の住職。
─ご縁さま。
 その頃からの知り合いだったのか。ということは、もう二十五年以上の付き合いになるのだろう。その縁の長さに、杏奈は驚いた。
「足込幼稚園で働くことになったのも、ご縁さまとの縁でね…何の話だったのか、とにかく、ご縁さまと話している時に、アーユルヴェーダのことを知ったの」
 五千年前に生まれた古代インドの予防医学であり、伝統医療。
 加藤の佛教大学時代の友人が、スリランカで僧侶をしており、加藤はその僧侶を介してアーユルヴェーダを知ったのだという。加藤自身は、アーユルヴェーダの存在を知ってはいるものの、深い見識があるわけではなかった。
 美津子はアーユルヴェーダのことを調べ始めた。
「この伝統医療が、毒素を溶かすことにおいて、膨大な知恵を有していることを期待した」
 おそらく、老婆の言葉は、美津子の潜在意識の中にずっと留まっていたのだろう。
「期待は裏切られなかった。毒素を溶かすことに関して、たくさんの知識や技術…なにより、実績を持っていると確信した」
 杏奈は息をするのも忘れて、聞き入っている。
「私はご縁さまの友人の僧侶を頼って、スリランカへ飛んだ」
 美津子の修業先が、アーユルヴェーダ発祥の地の南インドではなく、スリランカになったのは、そのためだ。
「その方に紹介してもらったスリランカのある治療院で、コロンボ大学のドクターからアーユルヴェーダを学んだ。知識も、施術も。民間で、世襲的にアーユルヴェーダ医療を施している医師のもとにも足を運んだ」
 とにかく、スリランカで学べることは、できる限り学んだ。
「帰国してから、得た知識や技術を、すぐに何かに活かそうと思っていたわけではないけれど、とても貴重な経験だった」
 そして美津子は、加藤の斡旋で足込幼稚園へ戻る。
 それ以降しばらくの間、美津子は、アーユルヴェーダの知恵を、ただ自分の体調を整えるために使った。呼吸法、瞑想、ヨガ、アーユルヴェーダの様々なセルフケアはもちろんのこと、注意深く、心を扱った。サットヴァ、ラジャス、タマス。日々、マハグナの割合を、自分に問うことによって。
「お母さんのことは、それで…美津子さんの中で解決したのですか?」
 杏奈は尋ねた。美津子は杏奈を見てにっこりした。
「前よりは、その経験を消化できたと思う」
─意味を見つけることによって。
 誰かの言葉を借りれば、そうなる。美津子の話は続く。
「アーユルヴェーダを人に対して活用するきっかけになった出来事があるの」
 杏奈の心臓はトクンと大きく高鳴った。美津子は、とても大切な話をしようとしている。
「その出来事は、自分の中で唐揚げ事件と呼んでる」
「唐揚げ…」
 身構えた割に、存外に可愛らしい名前だったので、杏奈は少し拍子抜けした。
 美津子によると、保育士は、小学校と関わりを持つことがある。新一年生となる年長の子供が、保育園時代、どんな子供だったのか、文章や口頭で伝えるのだ。
 足込町唯一の小学校・月小学校の教頭と交渉し、美津子はある時、小学校の夏の遠足に、ひっそりと同行させてもらった。自分が受け持っていた園児が、どんな成長ぶりを見せているか知りたいのもあったが、保育上の課題を見つけたいという思いもあった。
 遠足で訪れた先には、足込町に隣接する上沢から来た小学生たちもいた。偶然、同じ広場に隣り合ってお弁当タイムとなった。
「上沢の小学校の児童の中に、気になる男の子を見つけたの」
 児童たちは、レジャーシートを広げ、持参した弁当を食べていた。しかし、その子のお弁当だけが、異様だった。プラスチックのタッパーに、唐揚げだけが敷き詰められていた。
「唐揚げだけ?」
 杏奈はその場面を想像し、眉をひそめた。その男の子の親は、みんなと一緒にお弁当を広げる遠足に、唐揚げだけを持たせたというのか。
「私は遠くから、彼の様子をさりげなく見ていた」
 男の子は、お弁当を隠すことなく、友達にからかわれながらも、唐揚げを食べていた。
「彼のことが気になって、担任らしき先生に、どういう事情なのか、こっそり話を聞いた」
「話してくれたんですか…」
「今よりは個人情報に対する意識が薄い時代だったからね」
 ともかくも、やはり、その子の保護者は難ありということだった。正確には、母親だが。母子家庭だった。当時、その母親の精神状態は、尋常でなく荒んでいたらしい。
「後から確認できたことなんだけど、その唐揚げ、お母さんが持たせたわけではなく、その子が自分で買って、自分で詰めて持ってきたんだって」
「え…」
 杏奈は、胸が詰まるような思いがした。小学一年生になったばかりの男の子が、どんな気持ちで、唐揚げを買い、タッパーに詰め、持って来たのか。スーパーなのか、商店街なのかで、唐揚げを買う、男の子の姿。その情景を思い浮かべるだけで、杏奈は眼頭が熱くなる。
「私は彼のことが気になって、なんとかして彼の母親と接触しようとした」
 美津子は、自嘲気味にふふっと笑った。
「どういう名目で近寄っていけばいいのか、本当に困ったわ。今思うと、よく彼の母親と面識を持てたと思う」
 結局は、善光寺の先代・加藤の父親の縁で、当時まだ存命だった彼の祖父母を経由して、保育士という立場ではなく、一個人として接触を試みた。
 離婚の原因は夫の不倫だった。母子はもと住んでいた場所を離れ、母親の実家が近い上沢に移り住んだのだ。不仲になった両親、離婚のいざこざ、父親との別離。慣れない環境での、精神的に不安定な母親との二人暮らしの生活。そんな環境の中で、その子は育った。
 彼の母親は翻訳家として個人で仕事をしようとしていた。しかし、仕事が安定せず、精神的に不安定な中、上沢の公立学童の職員とトラブルが発生してしまい、彼を預けられなくなっていた。そこで、授業終了後の彼の居場所として、足込町の民間学童保育を利用していた。彼の送迎を行っていたのは主にその祖父母だったが、時々母親が送り迎えをしていた。
「でも、そこでもすぐ綻びが出た」
 今度は、彼が同級生を殴ってしまい、問題になりかけたのだ。
「その時にもやっぱり、ご縁さまが間に入ってくれてね」
 それは、本当に偶然だったのだという。
「それが縁で、彼は少林寺拳法を教えている善光寺に出入りすることになったの」
 美津子は得たりとばかりに、仕事の合間に寺と学童に顔をのぞかせ、自然に、彼の母親と話す機会も増えていった。
「今思うと、相当な執念深さだったと思う」
 杏奈は今や、美津子の話に引き込まれていた。当時の情景を想像しながら、話を聞いた。
「けれど、その甲斐あって、私と彼女は少しずつ、友と呼べる関係になっていった…生やさしい関係ではなかったけれど」
 美津子は、当時の彼女との衝突が脳裏に蘇って、眉をひそめた。
「それはどういう…」
 杏奈は小首を傾げる。
「アーユルヴェーダの言葉を借りると、当時の彼女は、極端なラジャスと、極端なタマスが交互に現れている状態だった」
 アーユルヴェーダには、マハグナという基礎概念がある。この世の万物の原因因子であり、全ての要素を構成するエネルギー。マハグナは、サットヴァ、ラジャス、タマスの三つ。ラジャスは、動性に傾いた状態、タマスは、惰性に傾いた状態。サットヴァとは、その均衡が取れた状態。バランスが良いことを意味する。
 突然奪われた日常、変わってしまった人生。夫のこと、仕事のこと、子供のこと。時に彼女は怒り、仕事の鬼になっていたが、ある時には、彼女は意気消沈し、薄暗い部屋の隅にうずくまっていた。そんな状態がしばらく続いた。
 美津子に心を許し始めていたからこそ、彼女はその葛藤や怒り、取り繕うことのないありのままの自分の姿を、美津子には見せるようになった。
「時々、噛みつかれたわ」
 そう言って美津子は苦笑を浮かべる。けれど、彼女がどんな状態にあっても、美津子は彼女の傍を離れなかった。
 ある時、彼女はこんなことを言った。
─お前に私を変えられる?
 友として、一人の起業家として、彼女は言ったのだ。幼い頃から探求している関心事を、形にできていない美津子に、背中を押すような言葉だった。
─私は今は、こんな湿気た部屋でこつこつ翻訳なんかしているけれど、いつか、私と同じような目に遭った人たちの人生を変えられるような仕事をしてみせる。私のところに来た人たちの人生を変える。お前も、お前の仕事に自信があるなら、それで私を変えてみせろ。
 実験台にしてみせろ、と。
「実験台…?」
「心と体の毒素を、どうやって、溶かすことができるのか」
 補足をしながら、美津子は少しだけ目を細める。美津子にとっても困難な時期であったことが窺われた。
「気づけば、私はどうやったら彼女のサットヴァを養えるかということに集中していた…」
「美津子さんは、そのお方を本当に助けたいと思っていたんですね」
 杏奈は話についていくのに必死になりながら、
─信じられない。
 と、その無謀なやり取りに驚いていた。友の個人的な経験を消化し、心と体をバランスさせることは、恐ろしく方法が定まらず、時間と根気、精神力が要ったに違いない。片手間でできることではなかったはず。それでも美津子は、たった一人の女のラジャスとタマスをサットヴァに導くために、エネルギーを注力したのだという。
「その母親もそうだけれど」
 美津子は、昔を偲ぶような、遠い目をしていた。
「私は、男の子を助けたかった」
 唐揚げをつまらなさそうに転がしていた男の子。
 彼を助けることは、美津子が恐山で見つけたかった答え─子供として、母親に対して抱いていた気持ちを、どう収めるべきか─に近づくものであると、美津子の直感が言っていたのだ。
「彼は聞き分けの良い子だった。大人の気持ちを察することのできる子。まだ小学一年生だったのに…その年齢に不相応な、大人びたところがあった」
 だからこそ、美津子は危機感を持っていた。正しい成長過程を踏んでいないように思えたから。
「どうなったんですか?そのお母さんも、その男の子も…」
「早い段階で、彼女は仕事を軌道に乗せたし、仕事を変えてから、新しい自分の人生を歩めるようになった」
 美津子は可笑しそうに、声を上げて笑った。
「人を変える仕事をしてみせると言った…あの言葉が本当になったのだから、笑えるよ」
 杏奈は目を瞬かせた。その人が今何をしているのか気になったけれど、話の本筋から逸れるから聞かなかった。
「彼も賢い子に育ったよ」
「美津子さんのサポートが良かったのですね」
「私がどれほど影響を与えられたのか、正直分からない」
 美津子は、二人を思い浮かべ、苦笑した。
「二人とも、自分の知らないところで起こったことによって、自分の人生を捻じ曲げられてたまるかと。その反骨精神が強かった」
 いつまでも悲壮感を漂わせて、美津子に縋りつくような二人ではなかった。
「二人とも、自分の力で前へ進もうとしていた」
 その姿勢がなく、外部からのサポートを受けているだけでは、きっと結果は違っていた。
「杏奈」
 美津子は回想を終え、しっかりと杏奈の顔を見た。
「はい」
 杏奈は、無意識にピンと背筋を伸ばす。
「クライアントが抱えている問題の程度によってはそれほどでもないけれど、時に、アーユルヴェーダのヒーラーは、魂を削るような仕事をしなければならないことがある」
「…はい」
「自分が相手に入れ込んでしまった場合は、特にね。私はあの時、疲弊していた。二人の人生に参加し、影響を与えていると感じれば感じるほど、責任を感じた」
「はい」
「時間も労力もかかった。相手から影響を受けることもある。良い意味でも、悪い意味でも…魂を削るような体験だった」
「…」
「その時、思った。ヒーラーが、相手の人生に関与したくないと思った瞬間に、その仕事は終わる」
 関与したくない理由が、体の不調であれ、時間的な制約であれ、やる気の低下であれ… 
 杏奈は怖気づいてしまう自分を感じた。自分がなりたいと望んでいる存在で居続けるのは、そんなにも大変なことなのか。
「美津子さんは、どんなクライアントが相手であっても、そんな風にエネルギーを注ぐことができるのですか?」
 その問いに、「まさか」と美津子はあっさりと首を振った。
「脅すようなことを言ったけれど、そういうケースは、稀だよ。今までのクライアントを見ていて分かったでしょう」
 美津子は静かに水を飲んだ。杏奈もつられて水を飲む。気が付けば喉がからからになっていた。
「ともかくも」
 コップを机に置く、コト、という小さな音がした。
「唐揚げ事件は、私にとっても大きな転機だった」
 再び、杏奈の脳裏に、唐揚げだけを食べる男の子の姿が浮かんだ。その姿が、かつての自分の姿と重なって見えた。自分の身体を、ゴミ箱のように扱わった、かつての自分と。
「私があなたにこの話をしたのは」
 昔の自分と美津子の話からイメージした男の子との姿を重ねていた杏奈は、その声で旧に我に返った。
 杏奈と目が合うのを待って、美津子は言った。
「何が人を癒す力を強化するのか、考えてほしかったからだ」
「…」
「そして、実際に人を変えるのは、簡単なことではない。けれど、人を変えた時、自分にも何かが起こる。それは、あなたがさっき話してくれた、今もあなたを悩ませる経験に対する、自分の反応をも左右するかもしれない」
 杏奈は神妙な面持ちでまっすぐに美津子を見た。
 美津子の話を聞きながら、杏奈はずっと気になっていた。自分の打ち明けた経験に対し、美津子がどう評価するのかを。何らかの言葉をかけてくれるのを待っていた。そして今、その言葉がかけられたのだ。
「それを経験しなさい。その経験はあなただけのものだ」
 杏奈は唾を飲んだ。それは、過去の杏奈の選択に対する評価などではなかった。それを受け止めた上で、これからのことを話してくれたのだ。
 言い終わった後で、美津子は、心の中で念ずる。
─その経験を、私と分かち合って。
 それは、美津子の純粋な願いであった。
 杏奈はわずかに首を縦に振ったが、決して分かりやすいとは言えない話を、たくさんし過ぎたか。幾分戸惑っている様子だった。杏奈としては、美津子が言う体験をする時がやってくるとは、にわかに信じがたくて、安易に「はい」などと返事をすることはできなかった。けれど、この話はきっと、誰にでもしている話ではない。それを打ち明けてくれた美津子の気持ちを思うと、それを無駄にしてはならないと思う。それで、もう一度、首を大きく縦に振った。美津子はそれに対して微笑を返す。
「すっかり話が長くなった」
「はい、片付けますね」
 二人はテーブルの上のものをお盆に移した。杏奈がお盆を持って、キッチンの方へ向かって、体の向きを変えるのと、
「そうだ、杏奈」
 と、思い出したように美津子が言うのとが同時であった。
「試用期間は終わった。契約を更新する。いいわね」

 

 


 

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