第18話「校区の運動会」アーユルヴェーダ小説HEALERS

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 その人を、瑠璃子は知っていた。
 力強い俊足で、だんだん後続の男たちを引き離していく。途中まで何かに躊躇うように、鈍い走り方をしていたのだが、途中で走る快感を得た体が、走り方を思い出したように躍動し、そこからはどんどん前の走者を追い抜かした。走者が駆けると、その後にはグラウンドの土がわずかに舞った。
『ゴール!』
 実況とともに声援が上がる。ゴールのあたりには多くの見物人が立っていて、ゴールの瞬間の姿は見られない。
─なんでここに。
 瑠璃子はレジャーシートの上に座って、遠くの人だかりに視線を向けながら、どうしようか考えていた。
─あとで、声をかけに行くべきだろうか…

「なに本気で走っとんの」
 声をかけられて、羽沼は後ろを振り返った。ジャージにフリースという恰好、ツンツンした黒い短髪、浅黒い肌をしたその男は、月小学校で教師をしている安藤陽介だった。
「ごめんごめん。途中から熱が入っちゃって」
 羽沼は白いティーシャツの上にネルシャツを羽織りつつ、謝った。父親たちに、花を持たせるべきだと分かっていたのだが。
 羽沼の背は平均より少し高いくらい。その目を見る時、安藤は少し顎を持ち上げることになる。安藤の方が背が低いのだ。安藤は今も少し目線を上げて、羽沼が屈託なく笑うのを見て思った。本当にこの人に悪気はなかったのだろう。
「あとでおれの代わりに出てもいいよ。教師対抗リレー」
「教師が走らなきゃ意味ないじゃん。それに、自分だって足早いのに」
「勝てばいいってもんじゃないからな」
 安藤は皮肉っぽく言って、肩をすくめた。
 羽沼は安藤に誘われて、月小学校での校区の運動会に出ていた。校区のといっても、足込町には、月小以外に小学校はない。そのため、月地区だけでなく足込町全域から、子供たちだけでなく、有志の住人たちが参加している。
 運動会の案内が入った回覧版は、羽沼の家にも回ってきていた。最近移住してきたばかりの羽沼には、足込町に知り合いは少なく、もし安藤から誘われなければ、ここへ足を運ぶことはなかっただろう。
─顔も広まるかもしれないし、いいんじゃね?おれも、友達がいたほうが暇つぶしになるし。
 安藤とは仕事を通して知り合ったが、すでに安藤は羽沼を友達とみなしていた。
「まったく、なんで休みの日まで仕事しなくちゃならないんだ」
 安藤は、とげとげしい声で悪態をつく。安藤の黒髪もまた、突き刺さるようにとげとげとしている。
「やっぱり、今日は給料は出ないか」
「当たり前だろ。出るなら、もっと気合い入れて撮ってる」
 安藤は撮影係らしかったが、カメラを提げてはいなかった。撮影はすべてスマホで済ませているらしい。
「おばちゃんたちはこういうの苦手だとか言うから、撮影もホームページに写真上げるのも、みんなおれがやらないかんの」
 安藤は羽沼を愚痴の捌け口にしている。安藤は羽沼より少し年下。若い男の教師はいろいろと頼られがちなのだろう。
 羽沼が安藤と知り合っうきっかけは、安藤からの一通のメール。youtuberとして、仕事の内容ややりがいを子供たちに話してほしい、という依頼だった。「お仕事さがし」というテーマの総合の授業の一環で、様々な職種の人に声をかけていたらしい。仕事の内容ややりがいを聞き、感じたことを発表する。話をしてくれる人を探すのは、教師の役割だった。
 youtuberは、子供たちがやりたい仕事の上位に上がるらしい。安藤は足込町の自然を紹介するウィングチャンネルを知っていて、管理者である羽沼にコンタクトを取ったのだ。会ってみれば、そう歳も変わらず、気が合わなくもなさそうだった。少なくとも、こんな風に仕事の愚痴をこぼすほどには仲良くなったというわけだ。
「先週も運動会で日曜つぶされたし。やってらんないな」
「振休ないの?」
「ないよ」
 安藤は吐き捨てるように言った。
「早くウィングチャンネルバズらせて、おれを雇ってくれよ」
 羽沼は軽く笑った。笑うと、もともと垂れ目なのに、目尻がさらに下がって、笑い皺が寄る。そして安藤の冗談には、真面目に取り合わない。
 安藤の勝手な偏見で、youtuberはお調子者で無駄にテンションが高いと思っていたのだが、羽沼はいたって普通だった。むしろ穏やかで落ち着いている。細面で、髪は短いが、安藤のそれよりもやや柔らかい髪質だった。人の好さそうな人相で、実際、子供たちからもすぐに慕われた。youtuberの仕事は、他の仕事よりも身近で想像がしやすかったのか、質問もさかんだったし、羽沼は子供たちに対して、誇張することないありのままを話してくれた。
「次は何のネタで動画上げるの?」
 昼休憩までの最後の種目、小学生によるリレーを見ながら、安藤が尋ねた。
「ネタ探し中だよ」
 一年生たちが走る様子を羽沼は目で追う。足込町は人口が少ないので、一学年一クラスしかないらしい。
「来月までは前に作った動画があるけど、十二月以降の作らないと、厳しいな」
「もう広告収入だけで食ってける?」
 もしそうだったら、安藤としては羨ましい限りだ。
「まさか」
「それでよく、運動会なんて出てられるな。おれだったら収入が安定するまで、心労でとても他事なんかしとれん」
「自分が呼んだくせに…」
「前職の稼ぎが相当だったんだな」
「そんなことないよ」
「大分貯金、しただろ」
「そういうことばかり聞くな」
 パン!と音がして、三年生が走る。安藤の受け持っている学年だ。
「子供に夢を与える先生が」
「夢なんか与えるかよ。現実は厳しいから、今から心しとけって教育するんだ」
 とはいえ今のやり取りは、間違っても保護者には聞かれたくない。
「所得税非課税のyoutuberの現実は恐ろしいよ。本当」
 羽沼はどこか、他人事のように言った。
「来月から役場から頼まれた仕事も受けることにしたんだけどさ。そういう小さな案件でも拾っていかないと、マジで収入が厳しいよ」
「役場から仕事?」
「うん。足込町を紹介する動画を作ってほしいんだって」
 足込町の何を、どう紹介するのだろう。安藤は足込町に長く住んでいるが、紹介できるような場所はめちゃくちゃ限られていると思う。もっとも、何の変哲もない草原や川や、森をさぞ素晴らしいもののように見せられるのなら別だが。
「役場のじじいたちには、動画なんか作れんだろうな」
 安藤はふん、と鼻を鳴らした。
「いや、それが、じじいじゃないんだよ」
「ん?」
「地域振興課って部署から依頼されてるんだけどさ。そこの担当者、すっごく綺麗な人」
「…」
「名前も綺麗なんだよ」
「はあ」
 安藤は腑抜けた声を出した。そこでつながるとは、思いもよらなかった。
「その担当者、あそこにいる人じゃね?」
「え?」
 安藤の指差す方向…ちょうど、四年生たちが駆け抜けていって、一瞬分からなかったが。
─あ。
 羽沼は、その人の姿を発見した。
 レジャーシートの上に、脚をくずして座っている。何人かのママ友らしき女たちと、子供たちも一緒だ。遠目だが、あのスタイルの良さと整った顔立ちは、間違いなかった。

─羽沼さんですね。
 担当者に声をかけられ、羽沼はソファから立ち上がった。作った笑顔が、瞬時に崩れる。
 足込町の町役場に赴いた羽沼の前に現れた女性は、今まで現実の世界で知り合ったどの女性よりも美しい人だった。すらりとした長い手足、細い体。豊かな髪を束ねて、後ろでシニョンにしている。わずかに赤みがかったラベージュの髪色は、顔の印象を明るく見せている。
─すみません、遅くなりました。
 大きなリボンカラーが目を引く、ライトベージュのサテンのブラウスに、体のラインに沿うタイトな黒いスカートを身に着けている。こんな田舎の小さな町役場で働いていたら、美意識も薄くなりそうなものだが、この女性からは、田舎臭さはまったく感じられない。大都会で働くOLと言っても通用する姿だった。
─はじめまして。長谷川瑠璃子です。
 宝石のような名前だと思った。名前まで美しいのか。
 羽沼は名刺を渡され、恭しく受け取った。こういう場面に出くわすとは思っておらず、名詞を用意してこなかったことが悔やまれた。
 瑠璃子はあからさまに相手をじろじろ見ることはしていなかったが、さりげなく、業務委託先となるyoutuberを観察した。黒いジャケットを着ているが、中は白いティーシャツだった。ズボンもジャケットと同じ色。痩せてはいるが、小麦色の肌、腰回りががっしりとしていて、何かスポーツをやっていた人なのだろうと思わせる。若くはなさそうだった。youtuberというから、勝手に若くて踊りが上手そうな男の人…というイメージを持っていたのだが、普通のサラリーマンにしか見えない。
 この日、羽沼は業務委託契約を結ぶにあたり、役場からの庶務的な内容についての説明を受けた。
 具体的な動画の内容について説明を受けたのは、次に役場を訪れた時だった。目的や想定している視聴者、入れたい文言。しかし、何を撮るかについては、役場からの具体的な指示はなかった。
─正直言って、内側の人間からは、どこをどう映せば魅力的に思ってもらえるのかが、分からないんですよね。
 と、瑠璃子は言った。その日も、絵に描いたように美しい顔をしていた。
 初日、羽沼は彼女の顔を直視すると、意識が話から逸れそうになってしまった。けれども、だんだんと顔に慣れてきた。
─僕は、もともとキャンプするのが好きだったから、里山の緑豊かな土地っていうだけで、ここに惹かれましたけどね。
 だから、移住した。
 羽沼は、観光地や絶景スポットといえる場所を撮影するのではなく、足込町の、ありのままの姿を紹介してはどうかと提案した。季節ごとに移り変わる山の風景や、清流、鮎釣りの様子、寂し気だが人の温かさを感じる点在する民家。
─撮り溜めている映像はたくさんありますから、それを繋いでいけば、季節が変わるのを待たなくても、四季の良さを散りばめた動画ができると思います。
 瑠璃子は、そう言われると、それが良いように感じた。いったん、彼の思う通りに作ってもらった方がいいかもしれない。

「お母さんがすごい量作っちゃって…よかったら、うちのも食べてね」
 瑠璃子はそう言って、お重に詰め込んだ料理を、レジャーシートに広げる。
 お弁当が重かったからだろうか。もともとよく痛む右肩から首のあたりがこわばっている感じがして、瑠璃子は右肩を回す。
 昼休憩の時間だった。風もなく、晴天。校内も解放されていたけれど、瑠璃子、沙羅、祥子のママ友三人とその子供たちは、観覧席でそのまま食事をすることにした。
 瑠璃子の持って来たお重には、いなり寿司、唐揚げ、卵焼き、ブロッコリー、ミニトマトなど、およそ考えられるお弁当の定番おかずがぎっしり入っている。沙羅は小さく握ったおにぎりと、さつまいも、卵焼き、ブロッコリーを持ってきている。祥子のランチボックスには、サンドイッチ、ブロッコリー、ポテトサラダ、フルーツ。これだけ並ぶと、レジャーシートの上は大賑わいである。
 年中の万里子、快、祥子の長男・大地は、好き勝手に食べたいものを食べた。沙羅の次女・七瀬と、祥子の次男・朝日は、自由に動き回るし、一人で食事することができない。沙羅と祥子は自分の食事はさておき、彼らにごはんを食べさせるのに必死になった。一番手の空く瑠璃子が、年上の子供たちを見守る。
「七瀬はあんまり食べたがらなくて」
 食事よりもグラウンドに興味がある七瀬を、沙羅は何度も抱っこして自分の膝に座らせた。
「朝日くんはよく食べる?」
「うん。ムラがあるけど、食べるほうだと思う」
 朝日はロール状に巻かれたサンドイッチを、一口食べては放り、別の新しいサンドイッチに手を伸ばして一口食べては放る、を繰り返していた。祥子はやむを得ず、放棄された残りを口に運ぶ。祥子は沙羅と同じくらいの年齢で、普段は経理事務所で働いている。沙羅よりも少し身長が高く、ワンレンストレートのセミロングヘアをしていた。子供がどちらも同じ学年なので、自然と仲良くなったのである。
「ブロッコリーは、みんなかぶったね」
「定番だもんね」
 お弁当のおかずを見比べながら、沙羅は、小須賀と杏奈なら、どんな料理を作るのだろうと思う。
「それで、例のサロンはどんな感じ?」
 瑠璃子は足を横に流してくつろぎつつ、沙羅の近況を尋ねる。前に会ってからそれほど経たないのに、沙羅が元の職場に研修に行っているという話を先ほど聞いたばかりである。
「昔いたスタッフはほとんどいなくなっちゃったんだけどね。オーナーはいい人だし、やっぱり私、セラピストの仕事好きだったんだなって思い出して。すぐに戻りたくなっちゃった」
「そっか。よかったね、声かけてみて」
 大地に後ろから抱きつかれて前かがみになりながら、祥子は隣に座る沙羅の顔を覗き込む。
「もう一回教えて。なんていうサロンだった?」
「あかつきっていうの。サロンというのか、サロンを兼ねた宿泊施設っていうのか…」
「どこにあるんだっけ」
「明神山の麓に、栗原神社ってあるでしょ」
「うん」
 足込町の人たちは、だいたい栗原神社で初詣をする。夏祭りも花祭りも、栗原神社で開催される。それ以外にも、祥子はそこで二人の息子の安産祈願やお宮参りをしたし、大地の七五三で近々神社にいく予定がある。
「栗原神社に向かう途中に、大きな一軒家があるんだけど、そこがあかつきなの」
「それって…門がある白い外装のおうち?」
「そうそう」
「全然知らなかった…」
 祥子は口に手を当てて、本当に驚いたという表情をしている。
「私も全然知らなかった」
 と、瑠璃子。
「で、沙羅さんはそこで何をするの?マッサージ?」
 暴れ回る大地と、サンドイッチを貪り食らう朝日に遮られながら、祥子はなんとか会話をつなぐ。
「うん。オイルマッサージ。マッサージといっても、圧さないけど」
「圧さないマッサージってどういうこと?」
「オイルを染み込ませることが目的だから、オイルを塗布するっていうのかな。もちろん、多少マッサージみたいなことするけど、圧はかけないの」
 説明されたものの、祥子は腑に落ちない様子だった。
「アーユルヴェーダってあるじゃん。祥子さん、知らない?」
 瑠璃子が会話をつないだ。沙羅も土の上を這おうとする七瀬を引き留め、マイペースにご飯をたべる快の相手をするのに必死で、話したいことはいっぱいあるのに、ろくに話ができなかった。
「あ、なんか前言ってたね。ヨガと相性がいいっていう…哲学?」
 祥子の記憶はおぼろげである。
「沙羅さん、でも、ヨガの教室開くって言ってなかった?」
「それもやりたいんだけど、今はちょっとね」
 子育てをしていれば、思い通りにはいかないだろう。祥子は同じ年齢の子供たちをもつだけに、その大変さが分かる。
「七瀬を保育園に預けたいんだけど、証明ができなくて…」
「仕事あるっていう風に見せればいいんだよ。ちょっと書類書くの大変だと思うけどさ。大丈夫だよ。なんて言ったって定員割れてるんだもん」
 瑠璃子にそう言われると、沙羅はやってみようかなという気になる。
「え?こころ、ようちえん行ってるよ」
 快が、きょとんとした顔を沙羅に向ける。
「うん、快は幼稚園行ってるね。今はね、これからは七ちゃんを保育室に預けられるといいなってお話をしてるの」
「ナナちゃん、ようちえん行ったらママ、なにするの?」
「おーしーごーと。お仕事するって、言ったでしょ」
 沙羅は膝の上に快をのせて、ゆらゆら前後に身体を揺すった。
「役場に電話かけるといいよ。多分前期後期のくくりじゃなくても、就労証明ができれば通してくれるから」
 瑠璃子は的確にアドバイスしてくれる。この中で一番年下ながら、一番しっかりしていた。

 昼休憩の後の最初の種目は、園児によるダンス披露だった。万里子、快、大地の三人も、もれなく出演する。どんぐり帽子を被って、かぼちゃパンツを履き、リズムに合わせてダンスをする。
 三人の母は周囲の目も憚らず歓声を挙げながら、我が子の姿をしっかりと写真や動画に納める。ベビーカーの中では、七瀬がここから降ろせといわんばかりに泣きわめき、朝日はバックルの紐をマイペースに噛んでいた。
「こんにちは」
 ダンスの後、冷静さを取り戻した三人に、後ろから安藤が声をかけた。
「あ、陽介くん」
 振り返ると、最初に祥子が反応した。
「あ…」
 瑠璃子は安藤の隣にいる男に気付いて、声が漏れた。それから二人に向き直ってお辞儀をする。
「今日は、前原家の男性陣は留守番ですか」
 と、安藤。
「晃は非番だけど、寝てる。旦那は連れて来てもよかったけど…今日は女ばかりだから」
 祥子と並んで立っている二人を見て、安藤はなるほどと頷いた。祥子の弟の晃と安藤は同い年の幼馴染だった。
「めっちゃ目立ってましたよ」
 先ほどのダンスパフォーマンスに対する母親たちの反応が、だろうか。三人の母親たちは、バツが悪そうな顔をする。
「いや、いいんですけど」
 甲高い声援もさることながら、美女が三人そろっているので、目立つのだ。その中でもひと際目を引く瑠璃子もまた、安藤の幼馴染である。
「瑠璃子、知り合いでしょ」
 安藤は隣の羽沼を顎でしゃくった。
「うん。こんにちは」
「こんにちは」
 羽沼はぎこちなく頭を下げた。
「誰…?」
 沙羅はちらっと瑠璃子を見るが、瑠璃子は「あとで」と言い、
「さっき、見てましたよ。ダントツで一位でしたね」
 羽沼は、はにかんだような笑みを浮かべた。
「つい夢中になってしまって…お恥ずかしい」
「スポーツやってたんですか?」
「野球を」
「そうなの?」
 安藤は初耳らしく、目を大きく見開く。
「それじゃ、足込中学校の野球部の外部顧問してよ」
「外部顧問?」
「そんなこと言って、陽介くん、自分が中学校に赴任するかもしれないから、部活の顧問するのが嫌なんでしょ」
 祥子は優しそうな顔をして、どぎつい指摘をする。安藤は案の定うろたえた顔をして、
「そうです。いや、そんなことないです」
 しどろもどろに言った。
「この人、移住してきてまだ間もないから、地域のつながりを持てたほうがいいなって思って」
 安藤は羽沼の背中をぽんぽんと叩いた。
「移住してきた?足込に?」
 沙羅は目をまん丸くする。
「どうして?なんのために?」
 足込に住もうと思うなんて正気ではないと言わんばかりの沙羅に、
「いや、足込にユーターンしてるうちらがそれは言えないから」
 と瑠璃子がすかさず突っ込む。
 わーっと声をあげて、バタバタと年中組が帰って来た。
「ママぁっ、とった?とった?」
 万里子は、瑠璃子が動画を撮っていたことを抜け目なく知っていて、ポケットからスマホを無理やり取り出そうとする。
「あ、待って。ちょっと待って」
 瑠璃子は慌てて万里子の手を押さえた。
─お子さん、いたんだ…
 羽沼は母子の様子を黙って見ていた。結婚指輪をしていないことには、最初に会った時から気づいていたのだが…

「私、SNSって苦手なんだよね」
 瑠璃子はつぶやくように言った。畳の上に長い脚を伸ばし、両手を後ろについて、体をくつろがせている。
 下の子供たちがぐずついてきたので、閉会式の前に、三人はそそくさと次の居場所─瑠璃子の実家─へやってきたのだった。
「まさか。瑠璃ちゃんこそ、SNS一番通じてそうじゃない」
 祥子は円卓の上に両肘をつき、澄んだ声を出す。
「ほんと」
 沙羅も同調する。
 安藤陽介に連れられる形で三人の前に現れた羽沼。彼はウィングチャンネル─足込町の自然体験を発信するyoutubeチャンネル─の管理者である。仕事上でつながりができたので面識があったことを、瑠璃子は二人に話した。
 しかし、瑠璃子はyoutubeをはじめとしたSNSが本当は苦手なのだという。
「表現が極端なのよ」
 絶対買うべき〇〇とか、〇〇はやめるべきとか、そういう大げさな表現に瑠璃子は嫌悪感を抱く。見ていると思考が偏るし、発信者の思うツボになるものかという反骨心が湧き出て来る。
「人の役に立つ情報とか言って、相手を惑わしてるだけじゃない?」
 瑠璃子は手厳しい評価をする。祥子と沙羅は顔を見合わせた。瑠璃子の前職は大手の広告代理店。当時は瑠璃子自身も、多少大げさに聞こえようが、インパクトのあるキャッチフレーズを死ぬほど考えていただろうと思うのだが。
 瑠璃子はほうじ茶を入れた湯呑を口に運ぶ。
「SNSっていいところしか載せないから、それも嫌いなんだよね」
 いかにも「私たちは幸せです」という投稿を見ると、瑠璃子はつい意地悪な気持ちを抱いてしまう。
 人の不幸は蜜、幸福は毒である。幸せだとか、能力があるとか、お金を稼いでいるとか。そういう個人の事情を公にする人は、横柄であると感じた。
 沙羅と祥子は、今度は苦笑いを浮かべて、お互いに顔を見合わせる。
 瑠璃子は綺麗な花だ。しかし、
─毒がある。
 と、沙羅は思う。
 三人のいる部屋の柱時計が、ゴーンと小さく音を立て、三時になったことを知らせた。
 足込町に昔からある民家はたいてい、広大な敷地を持っていたが、瑠璃子の実家も例外ではなかった。古民家といえるような内観で、古い家具と雑多な物であふれている。ノスタルジックな雰囲気の漂う瑠璃子の実家は、どことなく落ち着く。
 子供たちはというと、あれだけ元気に走り回っていたのが、今や隣室で昼寝をしている。運動会ではしゃいで疲れたのだろう。
「それにしても、意外に普通の人だったね、羽沼さん」
 沙羅は「普通の」の部分に心なしかアクセントをつけた。
「そうだね」
 瑠璃子は、それには素直に頷いた。
「普通というか…まともだよ」
 それは、仕事のやり取りをしていて感じた。
「もともと重工業メーカーで飛行機部品の調達に関わる仕事をしてたんだって」
「え~、そうなんだ。頭がいい人なんだろうね。youtuberって、きっと頭良くないとできないよ」
 快も七瀬もyoutubeをよく見たがる。仕方なく動画を一緒に見ながら、沙羅は何度も、よくこんな手のかかる仕事をしていられると、呆れながらも感心している。
「そんなフツーのサラリーマンしてたのに、足込に来てyoutuberになったって、なんだか面白いね!」
「面白いって思うのは沙羅ちゃんくらいだよ。普通は、どうしたの?って思う」
 テンポよく話す二人の傍で、祥子は一人、虚空を見つめて沈黙した。瑠璃子も沙羅も、人のことは言えないと思うのだが、それを口にすまいと沈黙しているのである。
 沙羅は多言語に精通しており、インド放浪の後、石油会社に勤め、退職。今はアーユルヴェーダのセラピストをしながら、ヨガサロンを開くことを夢見ている。瑠璃子は、大手の広告代理店に勤務し、退職。実家に戻り、片田舎の町役場で働いている。祥子に言わせれば、二人にこそ「どうしたの?」と聞きたい。
「私も羽沼さんと話してみたいなー!」
 沙羅は極めて明るい声で言った。
「どうぞどうぞ」
 瑠璃子は流すように言った
「でも、あの人もさ、よく私生活を公にできるよね」
「あ、自宅で撮影してるって言ってたもんね」
「そうだよ。住所を明かしてなくたって、今時怖いじゃん。どんな人が見てて、どんな憶測をされるのも分からないのに、よく顔出しもできるよね」
 子供がいないからかもしれない、と瑠璃子は思う。子供がいれば、自分の素性や住んでいる所が分かるような投稿は憚られるし、そういう投稿をしたいなら、公開範囲を知り合いのみにするなど、制限をつけるべきだ。それが瑠璃子が考える常識。だから、そうでない人の投稿を見ると、浅はかだと思ってしまう。
「それにしても、役場も人を呼ぼうと必死なんだね。youtuber雇ってまで動画作りたいなんてさ。瑠璃ちゃんは町をピーアールする仕事がメインなの?」
 左右に流している前髪をうしろに払いながら、祥子が聴いた。
「イレギュラーだよ。今は住民の有償運送の導入がメインの仕事」
 町のアピール動画の作成とは正反対の、硬い言葉が連なった。
 瑠璃子が今やろうとしているのは、住民よる自家用車を使った有償運送の導入だった。地域の足が少ない足込町では、車が必須。しかし、運転に心配がある高齢者は、家に引きこもりがちになる。交通の不便さという暮らしづらさゆえに、町外へ転出を考える者もいるだろう。そこで、地域の足の確保は急務なのだ。タクシー会社ではなく、住民による相互援助ができれば、元気なお年寄りは人の役に立ちながらお小遣いが稼げるし、車を運転するのが難しいお年寄りは、タクシーを使うよりも気軽に、低コストで外出できる。
「でも、なかなかタクシー会社との交渉がうまくいかないの」
「そうなんだ」
「こんな交通過疎地で、どうせ流しの客なんか期待してないくせに、たまにの予約が減るのが嫌みたい」
「うーん…タクシー会社にもメリットがないと、うんとは言わないよねぇ」
 沙羅は口元に人差し指を立て、もっともなことを言った。
「タクシー会社の了解取れれば、住民同士で送り迎えができるようになるの?」
「それ以外にもいろんな取り決めが必要なんだけどね。事故があったらどうするのかとか」
 聞いているだけでややこしい仕事である。
「難航してる」
 ふう、と瑠璃子はため息ついた。
「仕事熱心だね、瑠璃ちゃんは」
「そんなことないよ。ごめんね、こんな話ばっかりで」
「ううん。うちのお父さんも言ってたよ。瑠璃ちゃんの仕事ぶりは、お役所においとくには勿体ないって」
 祥子は実家である前原家の敷地内に新居を構え、夫と子供たちと暮らしている。姓こそ夫側の中田を名乗っているが、夫がほとんど婿入りした形である。
 祥子とその弟の晃は、瑠璃子の幼馴染。幼い頃は、夕暮れ時までみんなで一緒に遊んでいた。だから二人の父親のことは、瑠璃子も幼い頃から知っていた。
「そんなことないって」
 瑠璃子は笑って謙遜しながらも、素直にその言葉は嬉しかった。
 すべてにおいて進歩的でない職場の雰囲気の中で、刷新的な制度導入をするのは並大抵でない大変さだった。仕事が進む速度も、次元も、ツールの古さも、何もかも、以前の職場とは違っている。そんな町役場で孤軍奮闘していると、どうしてそんなに頑張っているのか、ばからしいと感じることがあった。それが自分の感情なのか、周りが自分に対して抱いている感情なのか、瑠璃子にはもう、分からなくなっている。
「うちにはゴロゴロしてる晃がいるから余計にね。瑠璃ちゃんとの差が浮き彫りになるのよ」
「夜勤に備えて寝てるんじゃないの?」
「夜勤以外の時もねえ…」
「祥子さんの弟さんって、夜勤のある仕事してるの?」
「消防士」
「消防士!」
「そう。でも全然仕事ないみたい。今は詰所の料理当番だって」
「それもいいね!いかにものどかな田舎!って感じで」
 沙羅はどんな時でもポジティヴ思考。
「晃はまだ、彼女作らないの?」
 瑠璃子は静かな声で訊いた。祥子は首を傾げて、
「分からない。私も、お父さんもお母さんも、怖くて聞けない」
「全然女に興味ないよね、晃」
「傍から見るとね…でもどうなんだろう。休日はボルダリングジムばっかり行ってるし」
「ボルダリングって、壁登るやつ?」
 沙羅が首を傾げた。
「そう。時々山に行ったりね」
「そういえば陽介も、全然女っ気ないなあ」
 瑠璃子の脳裏には、さっき会ったばかりの安藤が浮かんでいる。
「誰かいい子いないのかな」
「足込町じゃ出会いもねぇ…」
「あっ!」
 沙羅がいきなり大声をあげ、他の二人はびっくりして沙羅を見た。
「いいこと思いついちゃった!」
 瑠璃子と祥子は眉根に皺を寄せて、顔を見合わせた。ちょっと面倒臭そうなことになりそうな予感がした。

 運動会から帰ると、一息ついてから、羽沼は庭に出て薪を割った。日が暮れるまでに、この作業を終えてしまいたかった。このところ、夕方には一気に冷え込む。
 月地区よりやや北の方角、御殿山の麓、粟代と呼ばれる小さな地区に、羽沼の家はあった。家といっても、小さなロッジまたはコテージのような、丸太で建てられた平屋だ。移り住んだ当初、庭は荒れ放題で、草の剪定をするところから始めなければならなかった。その庭の一角には、木製の大きなカーポートのような屋根がある。羽沼が友人と一緒に作った、手作りの屋根だった。屋根の下には木製のテーブルと、木のベンチ、手作りの焚火台もある。隅には黒い大きなバイク。男の子が見たらわくわくするような、キャンプ場のような家である。
 ある程度薪を割り終わると、家の外に備えた薪置き場まで薪を運んだ。この庭のアウトドアスペースは動画を撮る時に使っているので、綺麗にしていた。
 小さい頃から、飛行機とか、電車とか、車とか、とにかく乗り物が好きだったが、大のアウトドア好きでもあった。都会にいた頃もツーリング仲間を誘っては、休日にバイクを飛ばしたし、釣りやマリンスポーツをするのも好きだった。ニ月に足込町に引っ越してきてからは、さっそく、自分の住居を住みやすくDIYすることに、暇な時間を費やした。そしてその過程を動画に撮ってyoutubeに上げたら、思いのほか人気が出た。
 チリン、チリン。
 この家の裏は御殿山という低山である。その山道から聞こえてくる音だろうか。羽沼は軍手を取りながら、鈴の音がする家の裏の方に顔を向けた。
 近くに御殿山への取りつき(登り口)があるので、登山者がいると、その鈴の音や話声が聞えてくることも稀にあった。
 風が吹き、山から紅葉した広葉樹の葉が降り注いできた。赤や黄色の葉っぱの雨。羽沼は屋外に立ち、その雨に当たりながら、目を閉じて澄んだ空気を吸い込んだ。
 安藤に請われて、youtuberとして小学生の前で喋った。しかし、今ここにいる羽沼は、自分は何者でもないと思う。瑠璃子に役場で会った時、名刺を用意すべきだったと悔やんだ。しかし、どういう肩書きをつけられたというのだろう。
─夢なんか与えるかよ。現実は厳しいから、今から心しとけって教育するんだ。
 午前中、月小学校の校庭で、安藤がそんなことを言っていた。
─何を教えられていれば…
 静かに呼吸をしながら、羽沼は思う。
─後悔せずにいられたのだろう…
 羽沼の瞑想は、長くは続かなかった。
 チリン、チリン。
 鈴の音は、だんだんと大きく、近くなった。山を歩く人の声も聞こえてくる。ハキハキとした、どちらかというと低めの女の声だった。しかし、何を言っているかまでは聞き取れない。
 山の紅葉が進んでいるので、それを目当てに登山しに来た登山客か、御殿山を散歩道にしている地元の住民か。いずれにしても、目を瞑って突っ立っているところを見られるのは決まりが悪い。
 目を開けると、まだ風に吹かれて、落ち葉が舞っている。羽沼はスマホを取り出して、その様子を動画に撮った。
─ピーアール動画に、使えるかもしれない。
 そんな気持ちからだった。
 撮った動画をその場でチェックする。悪くはなかったが、目を閉じる前の方が、たくさん葉っぱが降っていた気がする。
「おうい」
 スマホに向かっていたので、その老人が近くまでやって来ていることに、羽沼は気が付かなかった。林道の方に顔を向けると、日に焼けた、中背の、少し腰が曲がった老人がこっちを見ていた。
「柳さん、こんにちは」
 この平屋に引っ越してくる際、何かと世話を焼いてくれた、地元の老人であった。
 スマホをポケットにしまい、柳のほうに歩み寄る。が、別の人間が木陰から姿を現して柳の隣に立つと、羽沼の足はぴたりと止まった。一方、心臓は早鐘を打つ。その人は長い銃を持っていた。それが猟銃だと気づくと、羽沼の心臓の鼓動は、少しずつ静かになっていった。
「びっくりした…」
 羽沼は思わずつぶやき、胸に手を当てた。
「ん、じいさん知り合い?」
 そんな羽沼の様子など気にかけず、猟銃を持っている女が柳に尋ねた。女は羽沼よりもわずかに背が低いが、女性の平均からすれば背が高く、がっしりとした骨格をしている。帽子のつばから覗く目は、切れ長の一重瞼で、完全なる日本人に見える。が、短く切りそろえた髪は金髪だった。ちなみに眉毛は、黒い。
 柳はその女の問いかけには答えず、
「鮎太郎の小屋は、どうだ。冬は越せそうか」
「はい。内窓をつけたので、風が入りにくくなりました」
 鮎太郎とは、この平屋のもとの所有者であった。
 羽沼は柳と女を交互に見て、
「狩りでもしていたんですか」
「まあな」
「嘘つけ」
 女がすぐに突っ込みを入れた。
「私は狩りをしてたけど、じいさんはただ散歩してただけ」
「ばか言え。木の様子を見に来たんだ」
 柳は語調を強めて言った。
「年を追うごとに、放置された農地がどんどん山林化しとる。早いところ、役場に報告しんと。こういうところでは、災害が発生しやすい」
 柳は至極まともなことを言った後で、拱きするように片手を振った。
「あんたも、死ぬ前に自分の管理しとる土地の始末を、きちんとお願いしますよ」
「はい。まだしばらく死ぬつもりはありませんが」
 羽沼は苦笑しながら、右の頬を人差し指で掻いた。
「ほんと、笑いごとじゃないよ」
 女が毅然として言った。
「農地が山になるもんだから、人里のほうまでシカだのサルだのが出て来て、ますます住みづらくなる」
 だからこそ時々この銃の出番なのだ、と言わんばかりに、女は銃を持ち直した。
「月の彩っちゅうとこを知っとるか」
「はいはい?なんて言いました?」
 柳がそっと発した言葉を、羽沼は漢字変換できない。月というのは、地区名だと思うが。
「月の西の端…コンビニがあるとこの近くに、彩っていう飯屋があるんだが、そこのかみさんだよ」
 この女の素性を言っているらしい。
「本多翠さん」
 と、柳は女の方を手で示して、彼女の名前を羽沼に教えた。
「どうも」
 女は帽子を取り、軽く会釈する。髪の付け根の方は黒くなっていた。
「移住してきて、鮎太郎の離れ小屋に住んどる、タヌマさん」
「羽沼です。羽に、沼で、羽沼」
「移住?へえ。すごいっすね」
 すごいというのは、こんな過疎地域に移住することが…だろう。羽沼が移住を決めた時、友人や知り合いから、口々に「すごい」と言われた。その一言には、いろいろな意味が込められている。羽沼は敢えて、その意味を邪推しないようにしていたが。
「二拠点生活ってやつですか?今流行の」
「いや、実家は別にありますけど、二拠点っていうわけでは」
「へえ…」
 物好きな人もいるものだ。翠の顔は明らかにそう言っている。
「空き家の貰い手ができただけで、ありがてぇことだよ」
 柳は羽沼の家を指差した。
「空き家は増える一方だ。役場が把握しているよりも、実際の空き家は多い」
「あんたも、行政の補助金利用して、移り住んだんですか」
「いえ、僕は…自分でリフォームしたかったんで」
 役場はリフォームなどの補助金を出して、移住者の誘致につなげる取り組みをしている。そうでもして空き家を減らさないと、解体するのに公費がかさむばかりだった。空き家には私財家具が残っていることが多いのだが、その場合はさらに対応が困難になる。そのため移住者には、その家とともに家具まで提供されることがほとんどだった。
「鮎太郎にも、あんだけてめえの持ち物は処理して逝きやがれと言ったのに、ケリをつけていかなかった」
「そうかそうか」
 翠はなだめるように言った。
「そう言うからには、じいさんも、家やら土地やらの始末に困らないよう、今からしっかり終活しとけよ」
 柳は豪快に、ははは、と笑った。別に笑えない話だが。羽沼は苦笑いした。
「ところで、何か撃ち取ったんですか?」
「いや、今日は一応これ持って来たけど、様子見だけになったな」
 翠は右手に持った猟銃をちらりと見た。
「イノシシも、もう少し寒くなってからのほうが脂がのる」
「脂…駆除したイノシシは、食べるんですか」
「ああ。この近くに有志で立てた処理場があってね…そうだ、あんたイノシシいる?」
「え?」
「もちろん、処理した肉だよ」
 いきなりの申し出に羽沼は戸惑った。動画のネタを常日頃探している羽沼は、自然と、それがネタになるかどうかを考える。害獣駆除、その肉を食する…となると、教訓を含む必要がありそうで、テーマとして重い。しかし、仕事の観点を抜きにして、地元の住民の好意は、素直に受けるべきだと思う。
「じゃあ、ください」
「いいよ。近々持ってくるわ」
 翠はさっぱりと答えた。その堂々とした態度といい、物言いといい、男顔負けの逞しさだ。
 颯爽と林道を下って行く二人の後ろ姿を、羽沼はしばしの間見送る。
─どれほどのインパクトがあるのか。
 ウィングチャンネルを通して、町の公式の動画を作ることによって、この地域を訪れる人が、どれだけ増えるというのか。ましてや、地域の問題解決に、どれほど効果が期待できるというのだろう。
─やめよう。
 羽沼は使命感によって、動画を作っているのではなかった。気晴らしだった。取り戻せない時間を忘れるがために、一時的に、意識を集中できるものがほしかっただけだ。
 ここに来て、半年以上が過ぎた。しかし、羽沼は一向に、過去を振り切れたという心地がしていなかった。
─どこかでけじめを、区切りをつけなければならないけど…
 自然に囲まれた土地で、心と身体を休めれば、自分が進みたい道が見えてくると思っていた。
 でも、羽沼は未だに、進むべき道を失っている。ならば、今までとは違う行動を起こし、変化が起きるか、試してみなければならない。
─誰かの、周りの役に立つことをすることで…
 自分に返ってくるものがあるかもしれない。好きなことを発信する、一方通行のやり方にも飽きていたところだ。
 進むべき道は見えない。それでも、自分や周りを冷静に見られるようにはなっている。
 色鮮やかな落ち葉の雨を受けながら、羽沼はもう一度目を閉じた。

 


 

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