「揚げるよ、これ」
「はい」
「本当に大丈夫?爆発しない?」
「多分、大丈夫です」
小須賀は静かな油面に、そっと、小さな白いドーナッツ状の物体を近づける。
「いいんだね?」
念には念を入れて、横にいる杏奈を振り返る。
「試作済みですから。さあさあ」
小須賀がもたもたしているのなら、自分がやるとばかりに腕まくりして、揚げもの用の鍋のそばに置いたボウルに手を伸ばそうとする。それを見て、ようやく小須賀は白い物体を油の中に投入した。
思わず一歩退く。が、物体はパチパチと油を飛ばすこともなく、中で崩壊することもなく、ジュワ~っと音を立てながら油に浮かんでいる。
「おお、すごいじゃん」
小須賀は粘性の高い生地を手に取り、丸め、真ん中に親指で穴をあけながら、そのまま油に落とした。二つ目もジュワジュワ音を立てて威勢よく揚がっている。
一つ目を引き揚げ、粗熱が取れてから、さっそく小須賀は試食した。不思議な味と食感だ。
「本当に衣なしなのに、サクサクになるんだね」
もともと料理好きな小須賀は、未知の料理に出会って、その実好奇心がそそられたし、この作業自体が楽しい。思わず笑顔になって顔を横に向けると、杏奈もまた、楽しそうというか、どこか得意げな様子で笑っていた。
足込温泉へ弁当を納品する土曜日。
十一月のメニューはいつになく、どっしりとした、重めのものが多い。中でも、この「ウルンドゥワダ」という料理は、ホワイトウラドダルという小さな白い豆で作るコロッケで、あかつきでは滅多に作ることのない揚げ物である。インドやスリランカでは、このワダという豆のコロッケは、ストリートフードとして楽しまれている。
浸水した豆をペーストにし、その中にありとあらゆるスパイスや食材を混ぜ込む。それらは、小須賀からしてみれば不気味な─いや不思議な─食材ばかり。カスリメティ、パセリ、生姜、胡椒。それから、炒ったバスマティ米とウラドダル。ねっとりした生地は、手で丸めるには作業性が良くないし、ドーナッツの形状を保つのも難しいが、揚げるまでの工数は少ない。小麦粉をまぶしたり、卵液につけたり、パン粉をまぶしたりしなくても、コロッケ様のものができる。この生地は、バットやお皿に置くには粘着質が高すぎるので、小須賀は生地を成型したものから次々に揚げていった。
「どっかで食べたことあるな、これ」
小須賀は最初に揚げたワダの、最後の切れ端を口に入れた。
「チキンナゲットみたいじゃないですか?」
炊飯器の蓋を開け、しゃもじで下からすくうように混ぜながら、杏奈が言った。
「あ、そうかも。ちょっと癖強めの」
「ふふ」
また杏奈は笑った。
炊き上がったごはんはうっすら紫がかっていて、その中にゴロゴロとさつまいもを入れる。
最近杏奈は炊き込みご飯にハマっている。今日は小豆とさつまいもの炊き込みご飯でおにぎりを作る。
「どうしよう。黒ゴマを入れたいんだけどなぁ…」
「入れればいいじゃん」
こともなげにそう言いながら、小須賀は内心、
─やってくれるんだ。ラッキー。
とほくそ笑んでいた。
杏奈はこれから、おにぎりを握ろうとしている。おにぎりづくりは面倒なので、これは都合の良いことだった。
「どこを見てもゴマが入っているのが分かるくらい入れてしまうと、食感がうるさくなっちゃいそうですが」
「じゃあ、天面だけにすれば」
杏奈は少し考えたあげく、少しだけ本体に混ぜ込み、天面にもトッピングすることにした。おにぎりを丸めながら、時計を見る。
「あと三十分で仕上げないとですね、小須賀さん」
「まあ、余裕でしょ」
と言いつつ、料理の粗熱が取れるのを待ってから、十七個の弁当の詰め込みをするには、決して余裕ではない。
「手伝うわ」
ベストなタイミングで美津子が調理場に入ったので、内心焦っていた二人は美津子が神がかって見えた。美津子は、お弁当の包みを調理台に次々に並べていく。
「はい、味見味見」
小須賀と杏奈は、出来上がった料理を一気に味見した。作り手の消化力を慮って、最後の最後まで「味見しない」というのがあかつきの掟だった。もっとも、小須賀はあまりこの掟を気にしていないが。
「もうちょい塩入れようか」
小須賀がローストしたカリフラワーに対してそう評したが、
「いや、今日はご飯自体に味があるし、サンバルの味が強いので、カリフラワーまでしょっぱいとうるさくなっちゃいますよ」
杏奈は塩を足すのを反対した。
「そう?じゃあ、まあいっか」
美津子は次の作業としておにぎりを握りながら、微笑を浮かべて二人のやり取りを聞いていた。
「おれは兵隊だから、司令官の言うことに従いますよ」
そこは、あっさりと小須賀が折れた。
「兵隊?」
杏奈は小須賀の言葉に首を傾げたが、ともかく、今はそれにかまっている暇はない。
「私、サンバルを器に入れます」
杏奈は容器を持って鍋に向かおうとしたが、小須賀はそれを制した。
「それはおれがやるから、盛り付けのほうやって」
杏奈はぴくりと眉を上げた。どちらかといえば、スープの盛り付けの方が単純作業。センスの問われる盛り付けのほうが、上級者がやるべきだと思うのだが。
さつまいもと小豆のおにぎり、カリフラワーのロースト、蕪のサンバルスープ、ウルンドゥワダ、ほうれん草の炒め物、間仕切りと穴埋め用のいくつかの野菜。これらを次々と詰めていく。
お弁当の最後の一つが出来上がると、
「私、写真を撮ってくるので、梱包お願いしていいですか?」
杏奈はお願いしながら、お弁当の一つを手に持って、すでに靴を履き替えていた。
「はい」
小須賀は背を向けたままだったが、すぐに返事をした。
できたお弁当を詰めたフードテナーを小須賀が運び、車に積み込んだ。杏奈と美津子はキッチンに残って、二段目のフードテナーにお弁当を入れる。
「今日、配達はどっちが?」
「私が行きます」
「そう。気を付けてね」
小須賀が二段目を運んでいる間、杏奈は支度を調えた。
上着、車のキー、メガネ…
「杏奈、エプロン付けたまんま」
小須賀に指摘されて、杏奈はおずおずと上着を脱ぎ、紺色の長いエプロンを脱いだ。
「一人でも車の運転ができるようになって、少しは頼もしくなったと思っていたけれど…変なところがおっちょこちょいね」
杏奈を送り出しながら、美津子は笑った。小須賀は大いに頷きながら、
「車の運転に関しては、僕の功績っすよ」
美津子は頷いた。文句を言いながらも指導官になってくれたことは、本当にありがたいと思っている。
「洗い物も手伝うわよ」
小須賀は時計を見て、首を振った。
「いや、手伝っていただいたおかげで作業が早く終わったんで、片付けはいいです」
「そう。最近他の仕事はどう?年末が近づくと、忙しくなるでしょう?」
小須賀はレストランと夜の店を掛け持ちしている。業種的に、十二月に入れば忙しくなる。
「稼ぎ時っす」
小須賀は短く、そう答えた。彼らしいポジティヴな答え方だと、美津子は思った。
小須賀は片付けをしながら、十二月の仕事の詰まり方は、確かに怖いなと思った。
だが、あかつきの仕事は少ない。十二月は二回しか入らない。
─最悪、自分が来られなくても…
もう、大丈夫なんじゃないかと思う。
─そろそろ、試させてやろうか。
一人だったら何時から作業を始めて、どういうペース配分で作らなければならないか…
小須賀はキッチンをぐるりと見渡した。自分の役割がきっちりと決まっているレストランと違って、かなり自由が利くあかつきでの仕事。使いきれないほど豊富なスパイスと、未知の料理。
アーユルヴェーダを仕事にする美津子や杏奈の、理解できないまでの、ある種の食へのこだわりは奇妙に思ったが、その奇妙さに触れるのにも慣れた。名残惜しくないといえばウソになるが…
杏奈が納品を終えて帰ってくると、小須賀は残りの片付けを中断し、換気扇を外した。
「換気扇の掃除をするんですか?」
「大掃除の時期でしょ。本当に寒くなる前に、こういうのはやったほうがいいよ」
小須賀はそう言って、杏奈にいろいろと指示を出した。どうやら、換気扇の掃除の仕方を教えてくれるらしい。
掃除が終わると、分解した換気扇を外干しし、その間に、残りの片付けをした。
「小須賀さん、次の仕事まで時間がなかったら、残りはやりますよ」
「はいー」
小須賀はじゃあじゃあと洗い物をしながら、ほとんど機械的に答えた。
杏奈は調理台の上に並べられた、今日のおかずやごはんの残りを見渡して、
「小須賀さん、今日はお昼食べていかないんですか?」
「今日はいいや。昨日も飲んでちょっと胃の調子が…今日も飲むと思うけど」
「そうなんですか。なんか食べといた方が、悪酔いしないかもですよ?」
小須賀は視線だけを調理台に向けた。スパイシーなおかずの数々は、今は気分ではないが…
「おにぎりだけくれる?後で移動しながら食べるわ」
「はい」
杏奈は心得て、やや大振りのおにぎりを二つ結ぶと、袋に入れた。
「ここ置いときますよ」
小須賀のリュックの近くに置く。
「気が利くようになったじゃん」
そう言いながら小須賀は、その予感が強まった。
─そろそろ、潮時、か。
翌々日、月曜日。
朝食後、美津子が門の前の掃き掃除をしているところに、郵便配達のバイクが止まった。
「こんにちはー」
「お疲れさまです」
あかつきに来る郵便配達員は、だいたいこの渡辺と決まっている。
美津子は郵便物を受け取りながら、宛名を確認した。
─古谷杏奈 磯貝様方
黒い包装フィルムに包まれた二つの小包は、杏奈宛てだ。
美津子は郵便物を一旦ポストに入れ、掃除が終わってから、再びポストを開けてそれを母屋へ持って行った。書斎にいた杏奈に黒い包みを渡すと、待っていましたとばかりに杏奈は笑顔になった。
何が入っているのかは、厚さや形状で分かる。このところ、杏奈宛てに書籍が届くことが多い。
書斎のテーブルの上には、パソコンとマウス、白湯の入ったポットとグラス。いつもの風景だった。杏奈は朝九時までには、大方インスタグラムの発信内容を作り、確認をお願いしてくる。今もその作業をしていたのに違いなかった。
─臨床をさせてほしい…?
ついこの間、杏奈からそう頼まれた。
あかつきに来るクライアントに対し、施術の内容や生活習慣に関する推奨事項を考え決定する過程に、自分も参加したい、と。
いや、あかつきに来るクライアントを待っているのも、もどかしい。今まで蓄積したデータを見せてほしい。美津子がどのようなポイントに焦点を当て、どのような提案や施術を適応してきたのか教えてほしい、と。
─コンサルができるようになりたいの?
しかし杏奈は、首をひねった。それは、ある特定の技能を習得したいという思いからではなく、もっと単純な思いから出た発言だったようだ。
─癒しのプロセスに、アーユルヴェーダがどのように関われるか、知りたい…。
とりあえず、美津子は杏奈に、進捗シートの閲覧方法を教えた。そこには、過去のコンサルの内容、クライアントの心身の状態、施術後の体の変化、クライアントからもらった感想などが記してある。
─やれやれ。次は事例研究の準備か。
新しく届いた中古の本を嬉々として見つめる杏奈を見ながら、美津子は苦笑いした。自分の仕事は、こうやって実務から、教育に変わっていくのかもしれない。
教育といえば、沙羅への施術の再教育も、順調に進んでいる。今日も、あと三十分もすれば沙羅が施術の練習にやって来る。今日はカティバスティ(腰へのオイル浸透法)の練習だ。
─それにしても…
美津子は応接間に戻りながら、唇に手を当て、
─最近の杏奈は少し吹っ切れたような感じがあるな…
と考え出した。ゆかりたちが滞在した後(それは順正が来た後ということでもある)、落ち込んでいた様子だったが、明神山から帰って来たあたりから、気合いが入り出した。
キッチンでの立ち回り方にも慣れたのか、最近では小須賀ともうまくやっているようだ。彼に意見をしたり、お願い事をしたりできるようになっている。勉強に励んでいるのは相変わらずだけど、今までよりも熱意を感じた。それに、緊迫感も。積極的な情報発信、あかつきの業務の中での小さな改善、新しいことへの挑戦…
─順正が来たことは、怪我の功名かもしれなかったな。
彼の発言がきっかけかどうかは分からないが、杏奈の心に、火が灯った。
美津子には、彼女が今、新しいスタートラインに立ったように思えた。
カティバスティの練習後、沙羅と杏奈がそれぞれ片付けや身支度をしている間、美津子は次のクライアントの基本情報を、短く一枚のパワーポイントにまとめた。
昼食は庭で採れたつまみ菜のお浸しに、ごはん、豆腐とわかめの味噌汁、焼き鮭、ひじきの煮物と純和風。
沙羅が来る日は、もの珍しいスパイス料理を用意するというのが、杏奈のポリシーだった。しかし、モデルをするようになってからは、ジャンルを問わず、作り置きできるものを昼食に出すようになった。ごはんとお浸しは朝ごはんのおさがり、ひじきの煮物は、昨日多めに仕込んだ作り置きなのである。アーユルヴェーダでは作り立てが尊ばれるが、作り立てにこだわって品数が減るのと天秤にかけた結果、こうなった。本来は、酸化が進まないうちに、作ってから三時間以上に消費することが推奨されているのだけれど。
昼食の後、三人は食器を片付けると、そのまま応接間に留まった。
「亜実さん。四十歳」
美津子は、パソコンの画面を二人のほうに見せながら、十二月に来訪予定のクライアントの説明をした。画面には、亜実の状態が文章で簡潔に羅列されている。主な部分を美津子が読み上げた。
千葉県在住、夫と二人暮らし。夫は八つ年下の三十二歳。仕事は看護師、ジムのパーソナルトレーナー、自宅でのアロママッサージサロンの三つを掛け持ちしている。看護師の仕事は月、火曜日。パーソナルトレーナーの仕事は水、土曜日、さらに木曜の夜。サロンの仕事は月二、三回、スケジュールの空いている時に行う。その他、現在の食習慣と生活習慣について。
「ニ年ほど不妊治療をしているとのこと」
子供はほしいと思っている。が、年齢も年齢だし、採卵する時の痛みを苦痛に感じているので、あと二回、体外受精・胚移植を行い、ダメだったら、もう治療をやめようと思っている。
女性ホルモンが出づらいと言われたらしく、ホルモン安定剤を飲んでいたが、夏頃に薬は全部やめた。その代わりに、針治療を受けている。針の先生からは、不安定な精神状態と、免疫力の弱さを指摘された。
亜美は、コンサルを通して、妊娠しやすい体づくりを望んでいる。
「事前コンサルを控えているのだけど」
そこまで行って、美津子は二人に向き直った。
「このクライアントの問診票のコピーを渡すから、それを見て、彼女への提案を考えてほしいの」
沙羅には、彼女に勧められるヨガや、呼吸法などのプラクティスの指導案を。杏奈には、彼女の現在の食習慣の改善案を。なぜそう考えたか理由も明確にしたうえで、内容を報告してほしい。形式は問わない。
二人は問診票のコピーを受け取り、顔を見合わせた。
「これだと、見にくいわね」
二人に画面を向けながら、そこに書いてある内容を説明するのは、少し難儀だ。
美津子は、沙羅がいるあたりのテーブルの上に、手をかざした。
「ここらへんに、大きく画面を投影できるといいんだけど…」
沙羅は、二時過ぎにあかつきを出た。
今日は宿題が出ている。クライアントの個人的な状況に応じてヨガや他のプラクティスの指導案を作るということであれば、まずはクライアントの状況をしっかりキャッチしなければならない。そのために、問診票は大事な情報源だ。
美津子からコンサルティショナーとしての指導案の提出を求められたのは、初めてのことだった。
施術と、それにかかわる準備、片付け以外は、業務委託範囲外。沙羅は、しかし、コンサルの部分に関わらせてもらえることが嬉しく、余計な仕事を増やされたと疎ましく思うことなど思いも寄らない。
幼稚園に着くと、まずひよこ組に七瀬を迎えに行った。廊下を渡る時、七瀬が自分に気づく前にどのようなしぐさで遊んでいるか見るのが、沙羅の密かな楽しみである。
しかし、今日は七瀬の姿は見当たらなかった。ひよこ組に入ると、部屋の隅で、七瀬は布団に寝かされていた。
「七瀬…」
沙羅の顔から笑顔が消え、心配な顔になって、七瀬と先生のところへ歩み寄る。
「ナナちゃん、お昼寝の後から急に元気がなくなって…」
寝かせながら、様子を見てくれていたらしい。
七瀬はぐったりとしていたが、目は覚めていて、沙羅がきたのが分かると、もそもそ動いて抱っこをねだった。熱は高くないが、これから上がってきそうな感じがした。
七瀬を保育室に預ける回数は限られているので、その都度、布団は持って帰る。沙羅は布団と荷物をまとめると、七瀬を抱っこして、快を迎えに行った。
チャイルドシートに七瀬を乗せると、大きく泣き喚いた。
家に着くとさっそく七瀬を寝室に運ぶ。
「こころ、えいがのつづき…」
日頃は極力テレビを避けるようにしているが、快が今お気に入りの映画を見たいと言ったので、快の子守はテレビにさせ、沙羅はとりあえず七瀬を寝かしつけることに集中した。
三十分ほどねばったが、失敗した。七瀬は保育園でも一時間半以上寝ており、家に帰ってきて覚醒してしまったらしい。
熱は上がってきているが、テレビのほうにハイハイしていき、そのままテレビボードにつかまって、快が見ている子供向け映画を一緒に見だした。
その間に沙羅は、とりあえず幼稚園の荷解きをする。
時計を見ると、四時まであと二十分。
「あ、お母さん。今帰ってきたんだけど、七瀬が熱あるみたいで」
沙羅はスマホを肩と耳の間にはさんで通話しながら、七瀬のオムツをゴミ箱に捨てた。
「これから小児科行こうと思うんだけど、快を見ていられる?」
母に子守を頼もうと思ったのだが、話している途中から、これは無理だなと思った。母の声はかすれていて、時々咳をしていた。
『この間から、喉が痛くてね…』
母の風邪は、快のがうつった結果なのだった。一時的に良くなったらしいが、喉の治りが遅いらしい。
体調の悪い母が再びウイルスに触れる機会をつくるかもしれないとなると、父に来てもらうのも偲びない。
沙羅は快を連れて、七瀬を病院に連れて行くことに決めた。
「解熱剤があれば病院連れて行かなくても…」
冷蔵庫を開け、前にもらった分を確認すると、まだ三つほど残っていた。
冷蔵庫のチルド室には何も入っていない。豆腐と納豆はあるが、野菜室にはこれという野菜がない。午前中は研修で、買い物に行く時間もなかった。
フガフガと、苦しそうな呼吸音が聞こえて、沙羅はパタンと冷蔵庫を閉めた。七瀬の様子を見てみると、口元までだらりと鼻水が垂れている。これはやはり病院に行ったほうがいい。
「ママ、おかしたべたい」
快が期待を込めた顔で沙羅に近づき、腕を揺り動かした。お菓子はあるが、今日の夕飯の算段は着いていない。
─七瀬が食べられそうなものと、快の食が進むもの…
ようやくあかつきに戻り、アーユルヴェーダセラピストとして、ヨギーとしての新しいスタートを切れるかと思ったのに、家事育児との両立は思っていたよりも苦しい。
沙羅の頭は、目の前のやらなければならないことで、いっぱいになってしまった。
「失礼します」
羽沼は職員室を出ると、振り返って頭を下げ、扉を閉めた。
中学校などというところに足を踏み入れたのは何年振りか。
授業後の足込中学校の校内には、部活動で残っている中学生がちらほら見られた。
冬は部活動の終わり時間が十七時。運動系の部活であっても、まともな練習は短く、ランニングなど基礎的なトレーニングをして終わることもあるらしい。
羽沼はグレーのスーツに、ベージュのトレンチコート、マフラーという恰好をしていた。西門へ向かいながら、グラウンドの南西側で練習をする野球部員たちの姿を目で追う。
「こんにちは」
「こんにちは」
中学校の周りをジョギングして、西門から校内に戻って来た生徒たちが、口々に挨拶をする。羽沼は挨拶に答えながら、フェンス越しに、遠くの野球部員達に視線を戻した。
一年生から三年生まで部員をかきあつめて、やっと一チームが成り立つほどの人数。過疎地域の弱小野球部は、もはやリーグ戦で勝つという目標からは遠ざかり、ほぼ体づくりのための部活動になっているという。
羽沼は来年から、この野球部の外部顧問を引き受けることになった。
月小学校の安藤陽介に外部顧問の話を持ち掛けられた時、羽沼は乗り気ではなかった。しかし、安藤は面識のある足込中学校の教員に、羽沼のことを話したらしく、知らない間に話が進んでいた。
日当が出るといっても、中学生たちの部活指導という難儀な内容と、拘束時間を考えれば割に合わない仕事。顧問の先生と協働するとはいえ、技術指導面だけでなく、生徒の健全育成についても配慮しなければならない。やるとしたら、完全なるボランティアのつもりで臨むべきだろう。
乗り気ではないものの、野球は好きだ。自分の体を動かす場所として利用すると思えば、頼みを断るほどの理由もない。
とりあえず、三月までの三か月間、土曜の練習だけ入らせてもらい、その様子次第で継続可否を決めるということで、了承してもらった。
スマホを開き、とあるアプリを操作し、羽沼はそのまま十分ほど待った。
正門の近くにタクシーが止まったのを見ると、フェンスから離れてタクシーに乗り込む。
「寒いですね」
羽沼は行き先を伝えつつ、タクシーの運転手に話しかけた。
「意外とすぐ来てくださったんで、助かりました」
「この近くで配車があったもんでね」
運転手の初老の男性は、朗らかに答えた。
「この地域はタクシーの需要は少ないですか」
「特定の路線はそうでもないよ」
駅から足込市民病院までは、一定の需要があるらしかった。
「お客さん、足込の外の人?」
「ええ」
町民ではあるが、住んで間もないことと、足込のことをよく知らないという意味では、まだよそ者だろう。
「野郷から離れたところでタクシーを拾おうと思ったら、余裕をもって予約してください」
「はい」
「今日は、ラッキーでしたよ」
タクシーは主要道から外れ、林道に入った。
「最近まで、登山客も多かったんじゃないですか」
羽沼は後部座席から、窓の外の景色を見た。もう紅葉も終わりに近い。
「登山客は車使ってここまで来とるもんで、そんなにだね」
タクシーは、御殿山の麓、粟代登山口近くで止まった。羽沼の家である丸太小屋の、目と鼻の先である。基本料金プラス数百円で事足りた。
羽沼は家でズボンと靴、上着を変えると、ヘルメットをかぶり、バイクにまたがった。向かった先は、月小学校からほど近いところにある創作和食居酒屋「彩」。
「お、いらっしゃい」
カウンターの向こうで、恰幅の良い、短髪の男性が野太い声を出した。店主の本多弘道だ。
十八時を少し回ったところだが、店内には老齢の夫婦と思しき男女二人が、奥の座敷にいるのみ。入口近くのテーブル席の上にぶら下がるテレビモニターだけがやかましかった。
「今日は牡蠣丼がおすすめだよ」
カウンターの隅に座った羽沼に声をかけたのは、体格の良い金髪の女性。店主の妻の本多翠だった。
「牡蠣丼?どんなやつ?」
羽沼は訊きながら、ダウンを脱いだ。
「親子丼のカキフライバージョンだよ」
「フライか。揚げ物はちょっとな…」
「なになに」
翠の、猟銃を打ち鳴らしたかのような、威勢の良い声が響き渡って、羽沼はびくっとした。
「珍しいじゃん。なんで今日はワイシャツなの?」
羽沼はそんなことかと、拍子抜けした。
「今日はちょっと、仕事の打ち合わせで」
「なに、また役所の美人担当者に呼び出しくらったの?」
「声が大きいですよ」
羽沼は座敷席を振り返って言った。老夫婦は、ズズ…とお茶を飲んでいる。
彩の女将である翠は、人懐っこい、開けっ広げな性格だった。イノシシ肉をもらったお礼にと、この店に数回ほど食事をしに来た羽沼だが、もうすでに常連客になったかのような接し方だ。
「その他のおすすめは?」
羽沼は弘道に声をかけた。
「鹿肉と椎茸の釜めし、鹿肉のコンフィ、鹿肉とじゃがいものアヒージョ、鹿肉と─」
「鹿肉がおすすめなんですね」
旦那の声もよく響く。とりあえず、釜めしの定食を頼むことにした。
「酒は?」
「今日バイクだから」
弘道は残念そうに下唇を突き出した。翠は弘道の隣に立ち、準備の手伝いを始める。二人とも、黒い半そでのTシャツに、青いデニム生地のサロンを巻いていた。
「あれだったら、送ってくから呑んでいいよ。バイクは軽トラの荷台に乗るだろ」
翠の提案を、羽沼はあっさり断った。自分のバイクは軽トラに乗るのか疑問だった。
「─はい、羽沼です」
いきなり、ラインの着信があって、羽沼はカウンターに座りながら応答した。
「ああ、古谷さん」
カウンターにいた夫婦ふたりの目線がこちらに向くのを感じて、羽沼は席を立ち外へ向かった。あの二人は面白いことがないか、いつも客たちの会話にさりげなく耳を傾けているのだ。
「パソコンの側面に、HDMIって書かれた挿し込み口ない?」
『はい、あります』
「それと、テレビの後ろの端子をケーブルでつなげば大丈夫だよ」
『なるほど』
「でも、端子形状がいろいろあるから、合うやつを買わなきゃだめだよ」
『端子形状?』
電話口の向こうで、杏奈がぽかんとしているのが手に取るように分かる。
「ビデオ通話にできる?」
パソコン側と、テレビ側の端子を見せてもらった。
「パソコンのほうは、タイプCじゃなきゃだめだな」
小型のノートパソコンなのだろうか。珍しい。
『ちなみに、私のノートパソコンは、これとは異なる形状なのですが…』
杏奈のノートパソコンも映してもらうと、それは標準型だった。
「タイプAをCに替えるアダプタがあれば、ケーブル二個買わなくて大丈夫だから」
『アダプタ?』
「ラインにURL送っておくよ」
購入すべきツールを示してやった方が、話が早いし、相手も助かるだろう。
ビデオ通話は、音声通話に切り替わった。
『羽沼さん、結局、カメラも買うことにしたので、選んだものがよさそうかどうか見てもらえますか…?』
「いいよ。そのURL送っといて」
通話は、そこで終わった。
席に戻ると、待ち構えていたように後ろにやって来た翠が、そのしっかりとした手で羽沼の肩を叩いた。
「なになに、別の女の子とも遊んでるの?」
羽沼は首を振った。
「遊んでません。今のはただの知り合いで、僕の専門分野と近い仕事してるから、いろいろ相談に乗っているんですよ」
相談していいと言ってみたものの、本当に杏奈からいろいろ相談してくるとは思っていなかった。大人しそうな子に見えた。連絡してくることはないだろうと思っていたが、意外にも積極的。
彼女はどうやら、ハード系が苦手らしい。ネットで調べるより誰かに聞きたい、というスタンスだった。
羽沼は変換アダプタ、ついでにケーブルをネットショップで調べ、そのURLを杏奈に送った。
こうして、野球部の練習に参加し、行きつけの店や知り合いを作り、地元の事業を応援することは、新しい未来への切り口になっていくのだろうか。
羽沼はふうと吐息した。暇つぶしにインスタを開くと、ちょうどあかつきが新しい投稿を上げていた。最近フォローしたばかりだが、更新頻度が高いからか、よくフィードの一番上に上がってくる。今まで、写真に文字を入れていなかったあかつきが、数日前から、文字入りの投稿をするようになっている。一回あたりの投稿でアップする画像数も増えていた。
あかつきのインスタは杏奈が運用していることを知っている羽沼は、
─こつこつ投稿できるんだから、もっと…
もっと知識があれば、上手に運用ができるのだろうに、と思う。
羽沼はスマホを置いた。
ほどなくして、料理が運ばれてきた。お盆の上に、鹿肉と椎茸の釜めし、厚揚げとこんにゃくの田楽、自然薯のすり流し汁、たたきごぼう、ほうれん草の胡麻和え…。
「うわ、おいしそう」
味はどれもしっかりしていた。羽沼がごはんを食べている間にも、スマホは二、三回鳴った。
「この間羽沼ちゃんが渡してくれたこれさあ」
カウンターから、翠は黒い物体が入った小さな袋を持ち上げた。杏奈にもらったゴラカを、羽沼は翠に横流ししたのだ。
「使ってみたよ」
「どうでした?何に使いました?」
「これ」
翠はスマホを操作し、そのままスマホを羽沼に渡した。
「ふぃっしゅあんぶるてぃやる…?スリランカ料理で、酸っぱい魚煮込みなんだって」
翠が参考にしたというレシピサイトは、なんとなく見覚えがあった。そのサイトはおそらく、料理教室をしていた時代の、杏奈のものだろう。
─発信力がある子なんだな。
それは、当の本人に会った時には、受けなかった印象だった。
「おいしかった?」
羽沼は苦笑いしながら、スマホを返した。
「うーん…」
翠は首をひねった。
「ジビエは食べ慣れてるけど、こいつもなかなか癖があったよ」
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