第28話「病気を見るな」アーユルヴェーダ小説HEALERS

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 午後九時を過ぎ、杏奈は離れの床の間の前に設けた座卓の上で、パソコンに向き合っていた。
 明後日から二人のクライアントがあかつきに滞在する。そのうちの一人、聡美の問診票と滞在前の生活指針(提案事項。美津子が一か月ほど前に送付している)を見て、美津子がなぜその提案をしたのか、考えていたのである。
 あかつきの問診票は項目が多い。年齢や家族構成、住んでいる場所といった基礎的な情報から、その人自身と家族の既往歴、現在の不調、消化力や五感の状態、排泄物や生理の状態などを事細かに尋ねる。また、性格、仕事や家族関係などについてどう思っているか、抱きやすい感情など精神的な部分も尋ねる。さらに、いつどこで何を食べているか、飲んでいるか、どのような運動をするか、趣味、リラックスする方法、実践しているプラクティスやセルフケア、睡眠の質なども記載してもらう。そして、あかつきへの滞在に何を期待しているか。
 記入するほうも大変だろうが、それを読み解き、治療方針を定める美津子も大変そうだ。
 治療方針とはいっても、アーユルヴェーダは日本では医療ではない。そのため、アーユルヴェーダの治療法が現代医療に取って代わるべきではなく、補填するような位置づけ、現代医療を補うセラピーというような位置づけとなる。
 しかし、予防医学であるアーユルヴェーダは、未病の段階から病気を阻止するための知恵を持っている。自分には手に負えない状態になる前に自分にできることを知っておくことで、病気を予防するか、もし病気になってしまったとしても早期に挽回を図れる可能性がある。
 杏奈は問診票に一通り目を通した後、二つの点に着目した。一つは、聡美が抱えている不調。大きなもので、拒食症を繰り返している。単純な食欲不振ではなく、神経性無食欲症と診断されるほどの状態だ。それから、生理不順。さらに、他人と交流することがつらくなっている、不安を抱きやすいなどのメンタルの状態。他にも時々ふらつく、めまいがあるなど、小さな不調がある。
 もう一つは、あかつきに期待すること。
─自分が明るい気分でいる方法を見つけ、普段の生活に取り入れていきたい。
 杏奈は問診票を座卓に置き、今度は事前コンサルを受けてからあかつきに滞在するまでの提案事項に目を通した。書いてあること以外にも、細かなことや非推奨事項については事前コンサルにて口頭で伝えているのだろうが、生活指針には、次の項目が示されていた。
・幸せで穏やかな雰囲気を味わえる環境に身をおく。
・歯磨き後に舌みがきをする。
・ごま油のうがいの実践
・適度に体を動かす。アクティヴなヨガや散歩などをして活動量を増やす。
・決まった時間に食事をし、間食を避ける。
・消化しやすい、できたての温かい食事を食べる。
 チーズ、発酵食品、冷たいもの、油っぽくて甘い食べ物は控えてください。
・ジンジャーアペタイザ(※)を一日二回、食事の十五分前に摂取する。
 ※生姜のみじん切り小さじ1/4 、ライム汁またはレモン汁小さじ1/4、岩塩ひとつまみを混ぜ合わせたもの。
・ナディショーダナとカパラバティのプラーナヤマ。最低5分の瞑想
・アシュワガンダ・シャタバリミックス小さじ1を食後に一日二回摂取する。
 拒食症、生理不順、不安…こういったことを解決するための提案事項として、どう思われるだろうか?奇妙に思うかもしれない。問題を直接的に解決するアプローチのようには思えないかもしれない。
 果たして、聡美は美津子との話し合いをきっかけに、環境を変える、病気から遠ざかる選択をしてきているだろうか?
 杏奈は口元に手を当て、今一度問診票の方を手に取った。どのような根拠に基づいて、美津子がこの提案事項を作成したのか、再び考察を始める…

「美津子さん」
 翌日、朝食をあらかた終えた杏奈が、美津子に質問をした。
「聡美さんの拒食症には、どのようにアプローチすればいいのでしょうか」
 杏奈は、自分に経験のない疾患をもつクライアントに、提供するべき答えが分からなかった。そのため、昨夜はあの後、拒食症のアーユルヴェーダ的見解について調べ、自分の中でこのようなアプローチが良いのではないかという案は考えてある。それを美津子の考えと、照らし合わせたかった。
 美津子は箸をおき、杏奈に視線を向けた。
「聡美さんの拒食症、ではないわ。杏奈」
「…は、はい?」
 思ってもみない返答で、一瞬、言われたことの意味が分からなかった。
「聡美さんは拒食症、でもない。この意味が分かる?」
 少し顎を引いて、杏奈は目を泳がせた。 
「自分と病気を同一視してはならないということでしょうか?」
 杏奈の答えは、勘にしろ、予備知識があったにしろ、まあまあ満足できるものではあった。美津子は頷きつつ、補足をする。
「問題に名前をつけたり、病名を使用したりすると、問題に対する執着を助長することになるの」
 クライアントは、問題をその病名を通して認識し、その病名のついた問題を解決することに執着する。
 食欲が減退し、空腹であっても食事をしたいという欲求や食べ物への興味がなくなり、過剰な禁欲をする…こういった傾向に「拒食症」という名前をつけると、やるべきことが分かりにくくなる。
「病気を治したいと思うかもしれない。けれど、病気を見てはいけない。見るべきなのは、病気の原因になっている小さな行動や思考・習慣を取り除くこと」
 アーユルヴェーダによると、病気を予防する、あるいは病気を取り除く最も効果的な方法は、体に良くない食べ物や行動、ライフスタイル、心の傾向(考え方、反応の仕方)を改めること。すなわち病気の原因を取り除くことである。
 何度も重ねて言うようだが、アーユルヴェーダでは問題を取り除くではなく、問題の原因を取り除くことに焦点を当てる。例えば、聡美の拒食症を治そうとするのではなく、拒食症を引き起こす背景となったバランスの乱れを整えるよう導くべきだ。
「問題の名前は、便宜的に使うことがあったとしても、この点はよく踏まえておきなさい」
「はい」
 杏奈は頷いた。
「あなたは、聡美さんの問診票を読んだみたいね」
「はい。提案事項も読みました」
 美津子は手を膝に置いて、ゆっくりと頷いた。
「問診票を見る時は、ドーシャ、サブドーシャ、アグニ、ダートゥ、スロータムシの状態や、アーマの存在に気を払うの。そして、どんな行動や考え方が、それに影響を与えているかを見る。特定の病気の治療法ではなく、その人が普段していることを見るのよ」
「はい…」
 杏奈はどぎまぎとして答えた。朝食後のリラックスした席であるが、とても大切なことを教えられている。
「気づいたことはあった?彼女のどんな特徴から、どのドーシャが乱れていると考えられるか。それは彼女のしているどんな行動や考え方によって引き起こされているか」
「ええと…」
 杏奈は、昨夜インプットした情報を必死に思い出そうとした。
「不安や虚しさといった感情を抱きやすいと書いてありました。これはヴァータの乱れです。旦那さんやお子さんとの関係性が大きな理由かと…家族との関係性については、良くないにチェックがありました。具体的にどうして良くないと思うのか分かりませんが…」
「そうね。そういうところを、事前コンサルで質問する」
「なるほど」
 杏奈は、今の自分の回答では、ヴァータの乱れの原因についてうまく言及できていないと思ったが、もう少し簡単な気づきを挙げてみることにした。
「食欲のムラ、生理不順、体が硬いっていうのもヴァータらしい特徴です。聡美さんがしているヴァータを乱しがちな行動としては、夜遅くまでスマホを見ること、カフェインによる脱水…座りっぱなしの生活はアパーナヴァーユに良くないかな?」
 アパーナヴァーユとは、ヴァータのサブドーシャの一つで、下方と外側への風の流れである。
 そもそも、サブドーシャとは。
 三つのドーシャの、さらに微細なエネルギーで、それぞれ五つずつ持っている。ドーシャの主座は大まかに区分されているが、サブドーシャは体の中でもっと細かく、別々の居場所を持っていて、それぞれ異なる働きをする。
 各ドーシャのそれぞれ5つのサブドーシャは以下の通りである。
・ヴァータのサブドーシャ:プラーナヴァーユ、ウダーナヴァーユ、サマーナヴァーユ、ヴィヤーナヴァーユ、アパーナヴァーユ
・ピッタのサブドーシャ:サーダカピッタ、アーローチャカピッタ、パチャカピッタ、ブラジャカピッタ、ランジャカピッタ
・カパのサブドーシャ:タルパカカパ、ボーダカカパ、クレダカカパ、シュレーシャカカパ、アヴァランバカ・カパ
 聡美が悩んでいる生理不順など骨盤周りの不調は、アパーナヴァーユが関わっていることが多い。
「朝起きられない、倦怠感はカパ…やっぱり、座りっぱなしの、活動量の少ない生活が関わっています。あと、よく食べる食べ物に、乳製品、特にチーズが」
「アグニの状態はどう?」
「弱いです。そして不規則です」
「消化が不規則というのは本人がチェックしていたわね。他にどういうところからアグニが弱いと読み取れる?」
「舌ゴケがあります。確か舌の奥のほうだったと思いますが、ヴァータ性の消化不良じゃないでしょうか」
「なぜ彼女のアグニは強くないのだろう」
「咀嚼回数が少ないです」
 確か、十回と書いてあった。
「活動量の少なさ、一緒に食事をする家族との関係性、間食をする習慣…」
「よしよし」
 美津子は微笑を浮かべた。基礎的な部分は十分考察できている。
「今のような観点で、問診票を見なさい」
「はい」
「できればダートゥやマハグナのことなんかにも気を使ってね」
「分かりました」
 拒食症を治す、生理不順を治す、と言ったら大儀なことに感じるけれど、そのようにして見ていけば、自分にもできることがあるのだと気づくことができる。小さなことに思えても、それが積み重なると、大きな変化をもたらすことがあるのだ。
「それとともに、アンバランスが進行する基本的な要因がないか探る」
「アンバランスが進行する基本的な要因ですか?」
 杏奈はオウム返しに言った。
 美津子によると、病気が進行してしまうのには、いくつもの理由が考えられるのだが、最初にアンバランスが進行する仕組みとして、アーユルヴェーダでは、次の3つの理由を挙げている。
一.感覚の誤用
 正しく感覚を読み取れず、間違った解釈をすること。
 例えば、鼻腔内が乾燥し、炎症が発生し、それを治すために粘液が送り込まれているにも関わらず、鼻水が出るのが不快だという理由で薬を飲み、体が正常な状態に戻ろうとする作用を妨げてしまうこと。
二.自然の変化を尊重しない(カラ・パリナマ)
 一日の中での気温の変化や季節の推移などにより環境が変化する。この自然な変化に沿わないようなことをすること。
 たとえば、夕方になって寒くなってきたのに、おしゃれなワンピースを隠したくなくて、上着を着ずに外を歩くこと。暑い夏に、クーラーが効いた部屋でピッタを悪化させる食べ物(塩味、辛味、酸味、刺激物、肉類など)を好んで食べること。
三.知性の誤用(プラジュナパラーダ)
 体に悪いと分かっているのに、何かに執着したり、その行動や習慣を続けたりしてしまうこと。また、トイレに行きたい、眠たいなどといった身体的衝動を無視すること。
「こういったことにも注意を向けて」 
 それらは、日常的に気をつけられる、実践できる範囲での治療法だ。
「病気を見てはいけない」
 美津子は重ねて言った。
「問題が起きている部分に対処したくなるけれど、問題のある部分だけを見てはならない。私たちがするのは、問題が起きた根本的な原因を突き止めること」
 そして、最も難しいのは、その原因を排除できるだけのモチベーションと方法を、クライアントに与え、実際の行動を起こさせることだ。

 その週の金曜日、午後一時半。あかつきに一台のタクシーが停まった。
 玄関に入った一人の女性を、美津子と杏奈が出迎えた。今日からあかつきに滞在するクライアント、聡美であった。
 美津子が施設のこと、一日の流れを手短に話している間、杏奈はクライアントの大きなスーツケースを客間に運んだ。今日はすでに一人のお客が、二階で施術を受けている。足音が聞えないように、そうっと運ぶ。
 美津子は応接間に移り、聡美に向かいの席に座ってもらった。
「聡美さんは東京にお住まいでしたね」
「はい」
 聡美は目の前に置かれたお茶を、物珍しそうな表情で覗き込みながら頷いた。杏奈が聡美向けに考えたドリンク─ラズベリーリーフ、ローズ、ハイビスカスを使ったハーブティー─だった。
「ここは、自然が豊かですね」
 そう言ってみたものの、駅からここまでタクシーに揺られながら、どこまで行っても山しかないこのあたりの景観に、聡美は寂しさを覚えていた。
 喉が渇いていたので、さっそくお茶を一口飲もうとしたが、熱くてすぐには飲めない。
 一通り世間話が終わる頃、美津子の隣、少し距離を開けたところに、杏奈が着席し、パソコンを開いた。
 美津子は、杏奈に書記の役割を与えた。カウンセリングの内容を傍にいて聞き、要点をメモするようにと言いつけている。
 美津子は今日の体調について、聡美に尋ねた。
 聡美は小柄な女性だった。髪は黒髪、ショートカットで、ややうねりがある。顔の輪郭は丸く、顔の一つひとつのパーツが小さくて、唇が薄い。声は高く、小さい。灰色のロングスカートに、黒と紫の格子模様が入った、やや個性的なニットカーディガンを着ている。
「今日は、不思議なほど食欲があって」
 聡美は新幹線の中でお弁当を食べてきたらしい。朝ごはんはスキップしていたので、朝昼兼用だった。それでも食欲があり、途中でまた何か食べようかと思ったのだが、ローカル線に乗ってからは売店も少なく、結局それからは何も食べていない。
「事前コンサルで口腔ケアを提案していましたが、何かやってみられました?」
「それが…いいえ。ごま油のうがいも、舌磨きもできていません…その、やり方がやっぱり不安で」
「分かりました。タングスレーパー…舌磨きの道具は、あかつきに新品があるので、購入することも可能ですが」
「あ…ではいただきます」
「分かりました。杏奈」
 美津子は杏奈のほうを向いて、
「この後さっそく、ごま油のうがいのやり方と、舌磨き、舌苔チェックのやり方まで、聡美さんにお伝えして」
「分かりました」
 実はこれも、拒食症の原因となるドーシャの乱れを鎮静する取り組みである。
「今日ではなく、ここ最近の食欲はどうですか?」
「ムラがあります」
 事前コンサルの時から、状況はあまり変わっていないようだ。
「拒食症のような症状が出ることはありますか?」
「いえ、半年前からは落ち着いています」
「事前コンサルの時にもお伺いしたのですが、食欲不振、食べてはいけないと思ってしまう理由について、考えられそうなことを教えていただけますでしょうか」
 美津子は、杏奈に聞かせようとして、そう聞いているのだった。
 聡美は話した。
 聡美は、東京都立川市在住。マンションで、夫、息子二人の四人暮らし。一年くらい前に、神経性食欲不振症(拒食症)の症状を自覚した。なぜそうなったか、はっきりとした原因は分からない。しかし、ある時聡美の体重が増えたことを、旦那や息子たちからひどい言い方で指摘されたことがあり、それ以来家族の中で、自分が孤立しているように感じることがある。食べ物との関係と、それがどのように結びついているかは分からないけれど、食べてはいけないという強拍観念は、もしかしたらそこから発生したかもしれない。
 それ以前から、聡美は時々、夫の言動に傷つくことがあることを認識していた。普段の生活の中のちょっとした一言でも、引っ掛かることがある。
 聡美は仕事をしていなかった。専業主婦で、二人の小学生の男の子を育てている。自分のコントロール下におけなくなった子供たちとどう接していいか分からない。子供の悪気のない、しかし不躾な発言に、カッとなることもしばしばあった。子供の発言だからこそ、それは正直な聡美への印象であり、聡美はいつしか自分に自信が持てなくなっていた。軽く受け流せない性格なのだ。
 美津子は何事かを小声で杏奈に話した。いくつかの専門用語が入っていて、アーユルヴェーダをあまり知らない聡美には、なにを話しているのか分からなかった。
 ひとしきり聡美からの説明が終わると、美津子はお礼を言って、それ以外の提案事項の実施状況を尋ねた。最後に、
「今日は、アビヤンガというトリートメントをします。体が温まりますから、そのままゆっくり身体と心を休めてください」
 と、これから始まる施術の説明をした。
「外出しても構いませんが、外を歩く際には、帽子やスカーフを身に着けて、頭部を冷やさないようにしてください」
「分かりました。でも、外出はしないと思います」
 外は寒いし、このあたりには何もない上、足もない。
「それから、ここでは身体を冷やすものを摂らないようにお願いします。客間の水筒に白湯が入っていますから、こまめに水分補給してください」
 アーユルヴェーダでは、消化力というものを大事にしている。冷たいものは、消化力を弱めてしまいやすいのだと、美津子は説明した。
「明日の早朝、太極拳の先生がいらっしゃいますが、聡美さん、参加されますか」
「時々ヨガのレッスンを受けますが、身体が硬いんです。大丈夫ですか」
「もちろん。ゆったりとした動きで呼吸に意識が向きやすいです。ヴァータ体質の人に向いていますよ」
「ヴァータ体質。やっぱり、私はヴァータ体質なんですね」
 聡美は言いながら、やっぱりそうかとネガティヴな気持ちになった。アーユルヴェーダのことはネットで調べた程度の知識。体質診断をすると、聡美はたいてい、風のエネルギーが強い「ヴァータタイプ」という結果になる。あかつきの体質診断でもそうであった。
 ヴァータが悪いわけではないのだが、ネットの記事を読むと、他の体質の人よりも、気分が乱れやすく、様々な疾患にかかりやすいという特徴があるように思えた。
 美津子は今度は、別の質問をした。
「当帰芍薬散ですが、ここにも持参していらっしゃいますか」
「はい」
 聡美はここ何年もの間、生理不順に悩まされており、ホルモン剤を飲んでいる。だが、もっと自然なやり方で良くならないものかと、漢方医にかかり、漢方薬を処方してもらっているのだ。
「そちらはいつも通り飲んでいただいて構いません」
「分かりました」

 カウンセリングが終わった後も、聡美と杏奈は応接間に残った。
「これがタングスレーパーです」
 杏奈は聡美に、U字型をした銅製の舌磨き器具を渡した。そして、舌の状態から何を読み取れるかを簡潔に説明した。歯磨きをしてもらった後、さっそく実践してもらう。
 次はガンドゥーシャスネハン。ごま油を使ったうがいだ。キュアリング(加熱処理)した太白ごま油を口に含み、五分ほどぶくぶくしてもらう。うがいに使った油はそのまま排水溝には流さず、ティッシュや新聞紙の上に出し、ビニール袋に入れて捨てる。
 口腔ケアをすることは、口の中、唾液、頭、舌に存在するカパのサブドーシャ、ボーダカカパをバランスするために良い。ボーダカカパは、口と関連した腺に潤滑をもたらし、舌に触れる食物を湿らせて味を感じさせる働きがある。このボーダカカパが損ねられると、味覚の欠如と食べ物への嫌悪感が生じるのだ。ボーダカカパを損ねる原因には、消化力の減退、アーマの発生、それによるスロータムシ(経路)の閉塞が考えられる。消化力が減退する理由は、その者の生活習慣により様々であるが、ヴァータ、ピッタ、カパの悪化が背景にある。そして、恐怖、不安、ストレスなどの心理的要因。だからあかつきに滞在中、舌診、舌磨き、ごま油でのうがいの方法は体得してもらう。
 セルフケアの実践を終えてから、聡美は客間でサロンに身を包んだ。濃淡の色むらがある文様がプリントされた、少しくすんだエメラルドグリーンのサロンである。鏡に映る見慣れぬ自分の姿を見てどぎまぎした。
 一階まで降りると、風変わりな、けれど優雅な和装姿の美津子が笑顔で出迎えてくれた。聡美を振り返りながら先を歩く。ついて来てと言っているようだった。
 聡美はサロン一枚で、肩からバスタオルをかけ、一階の施術室に入った。
 初めてのアビヤンガを受ける。ぬるっとした生温かいオイルが、足、手、お腹、デコルテ、背中、足の背面の順に塗られていく。
 蛇が這いずり回るような美津子の手の動きに、聡美はややくすぐったさを覚えながらも、マッサージとは違う心地よさを感じた。

 一人の女性が、片手にタオルを持ち、もう片方の手を階段の手すりにかけ、ゆっくりと下に降りてくる。
「まったく、なんだってこんなたいそうな仕事を…」
 ぶつくさと独り言が漏れている。
 縮れた、やや白髪交じりの黒髪。少し曲がった背。あかつきの正装をまとうのを頑なに拒否して、白シャツに黒いズボン、エプロンという、自宅で施術をする時と同じ格好で臨んだ。
 タオルを洗濯機に放り込むと、水を飲むためにキッチンに入った。
「永井さん、施術終わりましたか?」
 そこで、あかつきの若いスタッフに声をかけられた。
 キッチンからは香辛料のにおいが漂っている。調理台には、カットされた食材がバットの上にのり、ラップをされて、調理されるのを待っている。
「片付け、手伝います」
 永井は素直に頷いた。
 二階でもう一人のクライアントの施術を担当していたのは、沙羅ではなく永井だった。
 沙羅は七瀬の体調がまだ良くならないため、出て来られなかった。助っ人として美津子が声を掛けたのが、この永井である。
 永井は足込温泉のパート従業員だが、自宅で長らくアロママッサージとよもぎ蒸しのサロンを個人営業していた。営業といっても、常連や友達に対して、時々施術をする程度。
 過去にもあかつきの施術を手伝った経緯があり、アビヤンガは初めてではなかったが、ブランクが空き過ぎていた。二日前、杏奈をモデルに、脚部分だけおさらいをし、あとはマニュアルの読み合わせ。そしてすぐに本番。
 美津子には悪いとは思いつつも、永井は記憶があいまいな部分は自己流でさせてもらった。
 クライアントが着替えをしている間、永井はキッチンの折り畳み椅子に座って、お茶を片手に一休みした。
「腰が痛いわ」
 永井の代わりにシャワールームの掃除を引き受けた杏奈がキッチンに戻ってくると、永井はそう呟いた
「大丈夫ですか?」
 杏奈は永井に気づかわしげな視線を向ける。
「美津子さん、よくこんなの月に何度もできるわね」
「明日の施術、大丈夫そうですか?」
「分からない。沙羅さんは明日も無理そうなの?」
「お子さまの様子次第ですが…」
 杏奈は話しながら、調理台の上にいくつかの調理道具を出した。永井はそれを尻目に、まだ愚痴を吐く。
「美津子さんって、いつ見ても涼し気で余裕な感じがするけど、案外強引よね」
 永井はズズ…とお茶を飲む。
「私、下の娘がね、この前初めてお産をしたの」
「それは、おめでとうございます」
「初めての出産だから、最初の一か月は傍にいてやろうと思って、足込温泉のパート休ませてもらってたの」
「それで、近頃検品のスタッフさんが違う方だったんですね」
「そうなの。別に、お宅の仕事手伝うために休んだんじゃないのよ」
 ゆったりとした口調で言う永井からは、その言葉ほど、嫌味な感じがしない。
 杏奈は会話もほどほどに何かの準備をマイペースに進めた。大鍋の蓋を開けて中を覗き込んだり、ポットの中にお湯を足したり、調理場の棚のスパイスを整理整頓したり。
 時々弁当納品に姿を見せる杏奈があかつきの料理番であることを、永井もすでに認識していた。
 先ほどから香辛料のにおいを漂わせているのは、杏奈がかき混ぜている大鍋か。永井は、そうっと立ち上がって、その鍋の傍に歩み寄った。
「ねえ、これなあに?」
「ほうれん草とひよこ豆の煮込みです」
「ふうん…」
 永井は少しだけ蓋を開け、中を覗く。
「ちょっと食べてみたいんだけど、いいかしら?」
 杏奈は小さな皿にスプーン二杯ほどおかずをよそった。
「ふうーん」
 永井は淡々と味わうのみで、美味しいとも、美味しくないとも言わない。
 そのうち、二階から誰かが降りてくる音がして、永井は施術後のカウンセリングのため、いそいそとキッチンを出て行った。

「こんにちは。今日からですか?」
 夕紀は夕食時、向かいに座った聡美に声をかけた。
 夕紀は今朝、聡美よりも一足早くあかつきを訪れたクライアントで、ここで食事を摂るのは二回目である。歳は五十代前半。身長は高め。肩までの長さの髪は、ゆったりとウェーブがかかっている。
「はい。今日から二泊三日滞在します」
「そうなんですか。私は明日のお昼帰ります」
 夕紀は明快な喋り方をしたが、物腰は柔らかく、人当たりの良さそうな女性だった。
「じゃあ、明日から私一人なんですね」
 聡美は、急に不安そうな顔をした。他に客がいたとて、顔を合わせるのは食事時くらいなのだが。
「トリートメント受けていると、一日があっという間だし、一人でも快適に過ごせると思いますよ」
 気を利かせてくれたのか、夕紀がそんなことを言った。
「明日から新しい人が来るかもしれませんし」
 二人が座る席に、杏奈が夕食を持って来た。
 豆のスープに、蒸し野菜、パウンドケーキのような形状の何かが、夕食のメニューだった。
「このケークサレは、先ほど夕紀さんと一緒に作ったものです」
 杏奈は簡単に食事の説明をした際、聡美にそう告げた。
「一緒に?」
 どういうことだろう。
「朝、簡単に栄養補給できるメニューを教えてもらったんです」
 夕紀は簡単に事情を話した。夕紀は役職付きのビジネスウーマンで、平日は朝八時には出社する。通勤時間が長いため、家を早朝に出ることになり、その時には食欲がない。そのため、朝ごはんをスキップすることがある。会社の近くのパン屋でパンを買ったり、職場でもらうお菓子を食べたりして、朝ごはん代わりにすることがある。
 事前コンサルでは、夕紀のヴァータ悪化を防ぐため、食事の時間を一定に、規則正しくすることを勧められた。そこで、ここへ来るまでの間、朝ごはんを決まった時間に食べるという実践を、自分なりにやってみた。しかし、どうしても栄養に偏りが出てしまう。そこで、持ち運びできて栄養が良い朝ごはんメニューを教えてもらったのだ。
「朝ごはんを食べると、午前中のエネルギーは湧いてくるんですけど」
 夕紀は傍らに控えている杏奈に話した。
「食べたら、もっと食べたいって思ってしまって…太らないか逆に心配になって」
「朝、栄養のあるものを食べた方が代謝が上がります。それよりも、夜ご飯の量を調整できるといいですね」
 杏奈はゆったりと答えた。
 夕紀のカウンセリングの書記をし、問診票を見ていたため、夕紀の背景を把握できている。そうすると、不思議と会話も自然とできるのであった。
「ケークサレってどういうものなんですか?」
 聡美が遠慮がちに尋ねた。
 杏奈は二人に食事を始めるようすすめながら、簡単に説明した。ケークサレは塩味のケーキという意味で、野菜や豆、チーズ、ツナなど、好きなおかずを入れて焼成する。
「朝、茹でたまごを持って行ったり、おにぎりを持って行ったりしてたんですけど、飽きてしまって」
 それで、別種のレシピを教えてもらったというわけだ。
「これは、冷凍しても大丈夫?」
 夕紀は杏奈に向かって尋ねた。
「はい。事前にカットして一つひとつラップにくるんで、密閉して保存します。食べる時には必要な分を前日に冷蔵庫に入れて自然解凍。その後電子レンジかトースターで温めてください」
 聡美は、アーユルヴェーダらしからぬ説明のように思った。アーユルヴェーダでは、作り置きや、冷凍食品は勧めないと聞いたことがある。
「忙しい現代に生きていると、理想通りにはいかないこともありますから」
 杏奈は淡々と言った。朝ごはんに市販のお菓子を食べるのと、作り置きした栄養価のたる食べ物を食べるのと、どちらがマシか、天秤にかけたのだ。マシ、というだけであって、理想的ではないことは百も承知である。
「米粉じゃなくて、小麦粉でも、今日の分量そのままでいいんだよね?」
 夕紀は質問を重ねた。それで初めて、聡美はこのケークサレが米粉でできていることを知った。
「はい。具材の水分量によって、多少今日の生地感と異なるかもしれませんが…」
 緩すぎたら、粉を足し、逆に粘度が強ければ、豆乳か牛乳を足すように、ということ。
 夕紀との話が済むと、杏奈はキッチンに下がっていった。
 二人は食事をしながら、お互いにどんな不調があって、あかつきを尋ねたのか話をした。
 聡美は今は一旦収まっているものの、たびたび拒食症に陥ることや、低血圧、冷え性を抱えていることを話したが、家族と一緒にいる時に感じる圧迫感については話さなかった。
 夕紀は、仕事および役職をもっているという立場から、本当の自分でない自分を演じることを多々意識していた。生まれ持った性質と、そうでない性質が入れかわり立ちかわりすることは、アーユルヴェーダ的にどう評価できるのか、知りたいと思った。そして、普段のちょっとした不調に自分で備える方法はないか、探しに来たのだという。
 夕食が終わる頃、美津子が二人の傍に着席し、二人の話に参加した。
「飲み会の席では、自分に期待されているキャラを演じることがあるんです」
 夕紀は、普段感じている葛藤について、より具体的な場面での例を話した。
「夕紀さんとしても、そのキャラを演じているほうが、楽だと感じるのではありませんか?」
 美津子の指摘に、夕紀は素直に頷いた。
「やっぱり、その場が盛り上がれば、その後の仕事にも良い影響があるので」
 でも、一人になった時、時々虚しさを感じてしまうのである。
「夕紀さんが本当の自分をさらけ出せる場所や、相手の傍に身を置いて、本当の自分に戻る時間を大切にすると良いです」
 美津子はなめらかに答えた。
「通勤時間中の、呼吸法も役に立ちます」
「はい、電車の中でやるのは、いいなと思いました。時間をロスしている感じもないし」
 夕紀は事前コンサル時に美津子からもらった提案事項を、積極的に実践しているらしかった。
 過去に体調を崩し、会社の付き合いもなく、規則正しい生活になった時に体調が整ったことから、規則正しい生活習慣の重要さについては実感していた。しかし、忙しい毎日の中で、どうやって規則正しい生活をするか、体に良い食べ物を取り入れるか、というところが問題だった。
「お茶をおいておきますね」
 杏奈が気を利かせて、ポットにルイボスティーをたっぷり入れ、カップとソーサーを三組ずつ置いていった。
「あなたも座りなさい」
 立ち去ろうとする杏奈に、美津子は声をかけた。杏奈はいつもとは違う席…聡美の隣に、そっと腰掛けた。
「家族の中で、自分がないがしろにされている気がするんです…」
 聡美は、思い切ってそのことを話してみた。とても個人的な話でも、夕紀が包み隠さず話している姿を見て、ここではいろいろ話して良いのだという気持ちになったからだった。 
 どういう時にそう思うのか、家族が聡美に対して取る態度や、発言の裏にある事情や思いについて、議論し合う。その年齢ならではのことで、聡美の家族に限って特別な話なのか、一般的にもそういうことはあるものなのか。
 話をしてみると、人それぞれ、着目する部分が異なることに気付く。第三者から話を聞くと、思いがけない発見があった。
「私、物事のネガティヴなところばかりに目がいきやすいんです…」
 聡美は結局、自分の中に育った先入観を解放しなければ、異なる視野で見ても、同じように見えてしまうように思う。
「でしたら、今度からそんな自分を、ただ傍観してください」
 美津子は微笑を浮かべた。
「物事を悲観している自分を、ただ見るのです。他人事のように」
 それは、ヨガの方法だった。その言葉を聞いた時、杏奈はヨガスクールで学んだ教訓を思い出そうとしたが、ここ数日夜更かしして考察を続けていたためか、疲れを覚え、その教訓を思い出すには至らなかった。

 


 

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