妊娠に向く体を作りたいと希望し、体外受精を試みて結果を待っているクライアント・亜美に対するアーユルヴェーダコンサルテーションは、その後も続いた。
その後は、ヨガや呼吸法などのプラクティスと、食事に関する具体的な指導である。
順正は席を外し、居間の椅子に腰かけている。
─どうせなら外に行ってくれればいいのに…
あの位置では聞こえてしまうではないか。
杏奈は彼の存在を強く意識しつつ、亜美に食事に関する提案を、自らの言葉で伝えた。
胚移植の結果によって、その後の食事の方針は異なる。着床していれば、妊娠をサポートするような食事を、次回に期待という結果になれば、アグニを整えるための食事にする。
プラクティスの内容は沙羅の代わりに美津子が伝えた。
居間にいる順正にも、彼女たちの声は届いている。しかし、順正は途中から思考が別のところに無意識に飛び、彼女たちの会話があまり耳に入って来なかった。
知能をもった人間。原始的なものより、知的な部分を働かせるようになった人間。しかし、子供をもつための実際の行為と、出産…これに関しては、極めて原始的な、動物的な行為である。
若い頃、女性と関係をもつ中で、理性とは別の衝動に突き動かされる自己を感じた時、自分の中の原始的な部分を知った。そして、医師になって間もない頃、出産を遂げた女性の死に立ち会う中で、出産という行為もまた動物的なものであると認識した。知性が生み出した科学では手の届かない領域にある行為だと。
どんなに科学的研究が進んでも、人体を知り尽くすには至らない。どんなに周産期医療が発達しても、説明のつかない理由で、赤ちゃんに、あるいは母体に、死が訪れることがある。それは科学の力では解決しきることのできない原始的な営みなのだ。
しかし、知性をもって、人の心をもって、動物的な原始の営みによってもたらされる離別を経験するのは、耐えがたい。
─それなのに…
そのリスクが高くなる年齢に至ってなお、このクライアントはそこに挑戦しようというのだろうか。それは勇気のある行動だが、たとえ確率は低くとも、底知れない悲しみのケースを目撃している順正としては、単純に勇気があると賞賛できない複雑な心境になる。
一時間以上に及んだコンサルは終了し、美津子は椅子に背をもたげて、ほっと息を吐いた。
「お疲れ様でした」
美津子にしては珍しく、疲れた様子を見せているので、杏奈は労わるように声をかけた。
「美津子さんでも、コンサルの後は疲れるんですね…」
「今回のクライアントは妊娠を望んでいるからね」
美津子は髪をかき上げ、パソコンを閉じる。
「コンサルに臨む姿勢も、切迫感が違うのよ」
確かに、亜美はコンサルに寄せた、本当の期待について触れられると、一気に表情が変わった。
杏奈は議事録を上書き保存した。今回のコンサルの内容は、杏奈にとっても、とても勉強になるものだった。
「子宮外妊娠になっていたというのは、初耳だったわね」
亜美は、なぜその事実は問診票に書かなかったのだろうか。もしかしたら、まだその事実を受け入れがたい時に、書いたのかもしれない。杏奈は亜美が産院で見たであろう景色を、脳裏に思い描いた。
「つらかったでしょうね」
身体的にも精神的にも。
「先生ももっと、何かフォローしてくれたらよかったのに」
美津子は順正を振り返って言ったが、非難めいた声ではなかった。順正はいつの間にか、椅子の上に片足をのせ、膝に突っ伏すような形になって顔を伏せていたが、話しかけられると、ゆっくりと顔をあげ、目を瞬いた。
「どの部分に対して?」
「どの部分ってわけでもないけど…子宮外妊娠のところとか」
もう少し、彼女を励ます言葉が合って良かった気がする。順同じ経験をした女性に立ち会い、その後の相談まで受けたことはあるのだろうから。
「彼女の不安と悲しみの根源を、少しでも取り除いてあげなきゃ」
「どうやって?話をするだけでそれができるの?」
そう言われると、美津子も言葉に窮する。杏奈は息を詰めて二人の話を聞いていた。確かに、亜美の不安と悲しみの根源を取り除く手段があったら知りたいものだ。そんなものがあるのなら。
「今更客を感傷的にさせてどうする」
順正は片膝を立てたまま、上体を椅子の背に預けた。
「その感情にいつまでもすがっていても、自分が悲しくなるだけだ」
その声も、やはり前回杏奈が耳にしたような圧迫感や鋭さはなかった。むしろくぐもり、そう言いながらも何か心にひっかかるものを残しているかのような曖昧さがあった。
「柴崎先生はそういう人たちを間近で見ているじゃありませんか」
美津子は椅子から背を離した。
「同じような患者さんと接することはあるでしょう?その時どういう風に声をかけるんですか?」
順正は顔だけを美津子の方に向け、
「感傷的になっても、何も変わらない」
美津子の問いには答えず、同じ言葉を繰り返した。
呆れたように、美津子は息を吐いた。この男が本心ではどう思っているのかは分からない。けれど、今ここでそれを深堀するのは憚られた。杏奈にこれ以上、順正に対する偏った印象を与えたくはなかった。それに、これから亜美に伝える情報を精査しなければならないのだ。これはややこしい作業なのである。
「感情を消化できていないんです」
しかし、会話を続けたのは杏奈だった。
「未消化になっている感情を無視し続けたら、いつかまた自分に襲い掛かってきます」
杏奈が順正に向かって言葉を発したのは、美津子にとって思いがけないことだった。
「ですから、もし自分の感情を解放できる機会があるなら、積極的にそうすべきだと思います。自分でさえ、自分が何を思っているのか分からず、ましてや言葉にしたこともない…そんな人が、話をすることで初めて、自分の気持ちに気付けることだってありますよ。向き合わなきゃいけない自分の気持ちに。ちゃんと見てあげないといけない自分の気持ち…」
威勢よく言った後で、杏奈は恐縮したように、声のトーンを下げた。
先ほど、亜美は運良く、話の流れで、自分の感情を解放させられる機会を得たのだ。しかし、自分の感情を人に話すことに躊躇する人もいる。話したくないということではなく、遠慮してしまうのだ。そんな時は、聞く側が引き出さなければ。あるいは、相手が話しても大丈夫だとこちらを信頼してくれるまで、寄添ってから、引き出してやるべきだろう。
クライアントへのアプローチの仕方に、杏奈が気づきを得るのと、順正の切れ長の目がこちらを向くのとが同時だった。杏奈は気圧された。と同時に、面映ゆいような気持ちになった。恐れが先行してあまり意識しなかったのだが、この医師の精悍さと端麗さに、今頃気が付いたのだ。
「それで?」
けれども、愛想が良いとはとてもいえない。膝に乗せた腕の上に顎をのせて前かがみになりながら、順正は先を促すように低くくぐもった声を出した。その低い声は、地響きのように空間を鼓動させてこちらに届く。
「…何も変わらなくはない、と、思います」
何か痛烈な批判を浴びせられるかもしれないという怖れのためか、杏奈は口ごもりがちに言った。順正のほうは見ず、パソコンの画面に視線を向けて。そして杏奈の脳裏には、先ほどの亜美の、ぎゅっと唇を噛みしめる表情が浮かんできた。
「私はただ…自分にふりかかった経験に向き合うことは、気持ちに折り合いをつけて、前に進むために必要だと思っただけです。何も意味のないことではありません…た、確かに、事実は変わりませんが」
杏奈は助け舟を求めるように、ちらっと上目で美津子を見た。美津子はただ、穏やかに微笑を浮かべるだけであった。
「そうね」
美津子から肯定的な相槌と反応をもらうと、杏奈の心臓の音が急に騒がしくなった。
「それなら、お前が話を引き出してやればよかったじゃないか」
順正は足を椅子から下ろして、代わりに脚を組み、上の膝を両手で抱えた。
「お前の職場なんだから、お前が良いように計らえ。おれは人の客に余計なことは言わん」
「いえ…あのう…」
杏奈はこれから、ひどい反撃が続くのではないかと狼狽えた。しかし、急に美津子が柔らかい笑い声を発したので、杏奈の緊張は解れた。
「感情が豊かなのはいいことだと思いませんか?柴崎先生」
そう言った美津子の声は小さかったが、この静かな空間にいる二人の耳に届くには十分だった。
「感情が豊かだからこそ、楽しいことを楽しいと思ったり、好きなひとを好きだって思えたり…これこそが、人間を人間たらしめるものですよ。けれど、悲しいことに対する感受性が強いと、人よりつらい思いをするかもしれない…だからといって、その感情を無視することはできない。いつか、準備ができたら、それに向き合わないと…」
順正がいきなり立ち上がったので杏奈はびっくりした。
「じゃあここではせめて…」
順正は椅子にかけたジャケットを取った。彼はうっすら笑いを浮かべていたが、杏奈には嘲笑のように見えた。
「感傷に浸っている女をよしよししてろ」
彼の声は囁くような小声だったが、浴びせられた言葉は、以前にも増して痛烈だった。
「それで、ありがたいと思ってもらえたら、商売も捗るかもな」
杏奈は一瞬、思考が停止した。
「順正」
美津子がたしなめるように、眉間に皺を寄せて鋭く呼びかけた。
「あなたはもう。どうしてそう憎まれ口ばかり叩くの」
美津子がそう言う間に、杏奈は心の中に不満のような、怒りのような感情が燃え上がってくるのを感じた。実際に多くの患者の役に立っている医師なのかもしれないが、あかつきの仕事を下に見て、愚弄するような言い方だ。
「自然を欺いてまで受胎にこだろうとするのが…おれには分からん」
杏奈は順正を見上げ、その言葉の不可解さに、少し眉根を潜めた。その主語は誰なのだろう。あかつきのことなのだろうか。受胎を望む本人のことなのだろうか。現代医療の専門家のことなのだろうか。
順正はさらりとジャケットの袖に腕を通した。
「子ができたら、その功績か分からないのに、感謝されていい気になってる。でも無事出産できるか、高齢の母親が無事その子を育てられるかについては、お構いなし」
順正はジャケットのファスナーを上まできっちり上げ、襟に口元を隠してしまったので、もともと分かりにくい表情がさらに分かりにくくなった。
「自然を欺いたツケは、必ず母親に回ってくる」
「ツケ…?」
それは、身体的な負担のことなのだろうか。自然ではないことが起こるということなのだろうか。杏奈はなぜかその時、クライアントのゴールは決して妊娠ではないことを強く認識した。
─柴崎先生は、亜美さんが子を持たない方が、幸せだと思うのだろうか。
順正は踵を返していた。美津子はその後ろ姿に視線を向けた。
「それでも、亜美さんは子供をもつことを希望しておられる」
順正は少しだけ振り返った。その目は憂鬱そうな翳りを帯びていたけれど、美津子のほうを向いたまま座っている杏奈には、それは見えなかった。
「その勇気は買うけど、勇気だけでは救えない」
順正はさっさと居間のほうへ歩きながら、独り言のように言った。
「感情が豊かだと、生きるのが苦しいな…」
順正は庭に出ると、畑の奥、垣根にしている槙の木の根元に鼻をこすりつけている南天丸を見つけた。
南天丸は、玄関が開く音とにおいで、主のお出ましを察したのか、ととっと駆け寄り、順正のすぐ後ろを歩いた。
南天丸に給水させるのを忘れてしまった。畑の近くの水道の蛇口をひねり、両手で水を受け、南天丸に水を飲ませる。
順正は細く長く、息を吐き出した。美津子の頼みであれば、たまにちょっとした相談事に乗るくらい、大目に見られたのだが、やはりたまの休みの日くらいは、仕事を思い出させるようなことから完全に解放されたかったものだ。
南天丸の顎を撫でると、立ち上がり、後ろを振り返る。畑はこの間来た時よりも、寂しい感じになっていた。
この畑で、虚ろな表情で野菜をむしっていた女。あの時より、今日は幾分生気のある顔をしていた。次に、クリニックの助産師たちが脳裏に思い浮かんだ。彼女たちと比べて、順正にはあの女がひどく軽率に思える。現実を知らず、誰かを助ける能力も持たないで、ただ感情的な主張をする。
門扉を開けると、南天丸の気が向くままに歩かせ、その後ろを歩いた。南天丸は垣根や側道の草の茂みに鼻をこすりつけ、道をジグザグにゆっくり歩いている。
冷たい風が順正の頬を撫でた、その時。
咄嗟に順正は身を後ろに翻して、左手を後ろに、右手を前にかざして構えを取った。目の前には、自分と同じくらいの背丈、改良衣姿の加藤が悠然と立っていた。両手を腰の後ろで組んでいる。
─気が付かなかった。
間合いに入っていたことに。加藤は穏やかに笑った。
「久しぶりだな、順正」
順正は体の緊張を緩めると、ファスナーを少し下まで下げ、顔の下半分を外に出した。久しぶりに会う師の顔を見据える。
「先生」
「この頃あかつきに寄りつかなかったそうだが、仕事は忙しいか」
「…いいえ。前ほどでは」
加藤は微笑を浮かべ、両手を後ろで組んだまま、間合いを詰めた。
「もう帰るのか」
「はい」
「そうか…ちょっとタイミングが遅かったな」
「先生とあかつきで一緒になったって、そう積もる話もありませんよ」
加藤は、今度は高らかに笑った。それは事実かもしれないが、わざわざ口に出すところが憎たらしい。
「じゃあ話をする代わりに、少し手合わせするか」
「嫌です」
順正がそう言うのと、加藤が目にも留まらぬ速さで右の拳を突き出すのとが一緒だった。
その頃、ちょうどあかつきに向かう林道を、一台の車─トヨタの青いアクア─が走っていた。
小須賀は左手でハンドルを握りながら、右手で頭を掻いた。
─あーあ。
また忘れ物をしてしまうとは。
昨日、弁当作りをした時に、ポケットの中ものを棚に置き、スマホとタバコは持って帰ってきたものの、またもや財布を忘れてしまった。財布には免許証が入っている。さすがに、次にあかつきに来るまで、無免許運転をするわけにはいかなかった。この車には女性が乗ることもあるのだし。
─なんだ、あれ。
小須賀は、あかつきの門から少し東に逸れたところで、大柄の男二人が、取っ組み合っているのに気が付いた。
─やっべ。
なぜか危機感がわき上がったが、引き返せない。
二人は車が来たのに気付いているのだろうが、直進せず左折したのをいいことに格闘を続けた。
小須賀はあかつきの駐車場に車を停めると、垣根の隙間から、こそっと男たちの様子を伺った。一人は、改良衣とその体格から、加藤だとすぐに分かった。しかし、もう一人は…
─医者先生か。
ここのところ、全く姿を見せていなかったが。久しぶりに現れたと思ったら、なぜ加藤と取っ組み合っているのだろう。
時々聞こえる気合い以外は声もなく手合わせをしている二人を尻目に、小須賀はそうっとあかつきの門扉を開け、敷地内に入る。二人とも、こちらに気付いてはいるのだろうが、声をかけてくることはない。小須賀としても、無視してくれたほうがありがたかった。普段は賢そうなすまし顔をしているこの二人の男たちが、今は体育会系バカにしか思えない。そんな奴らと関わるのは、非常に面倒くさい。
そして、お勝手口の扉を開けながら小須賀は思った。二人とも、間違いなく喧嘩をしてはならない相手だ。
小須賀があかつきの敷地に足を踏み入れる少し前。順正が母屋を出て間もなく。
「気にしないで」
美津子は、ぽかんとしている杏奈の顔の前で手を振った。
「柴崎先生は、とても優秀な方なのだけど、人格的にはちょっと歪んでいるというか、ひねくれているというか…」
褒めているのか、けなしているのか分からない。
杏奈の目が、焦点を取り戻したのを確認して、美津子は再び椅子に座った。
それにしても、初めて会った時に杏奈に吐いた言葉といい、今回のあの言い方といい…確かに、もともとここに居たスタッフに対しても、決して順正は愛想良くしなかったが、杏奈に対しては、殊更に当たりがきつい気がする。
「自然を欺いたツケは、必ず母親に回ってくる」
杏奈は体を斜め右、先ほど順正がいた場所に向けた。
「先生は、そう仰いましたが」
杏奈は思考を巡らせた。それから、ゆっくりと美津子の方に身体を向ける。
「それは、適齢期を過ぎても妊娠を臨むことを、意味するのでしょうか?」
自然とは、体の自然な機能のことか。
「確かに、年齢が上がれば上がるほど、リスクはあるかもしれないですし、身体的にも、若い方が何かと有利ですよね」
それは、杏奈にも分かる。
「それでも、美津子さんが亜美さんに仰った通り、アーユルヴェーダの実践の目的は、妊娠ではなく、感情的にも身体的にも健康な自分になること」
「そうね」
「その時、自然に妊娠できるように若返ることができていれば、アーユルヴェーダのやり方は、自然を欺くわけではないと思うんですが…」
それは、ただの希望かもしれないが。杏奈は肯定を求めるように、美津子を仰ぎ見た。美津子は杏奈に微笑をもって頷いたけれど…
─あの子は、いったいどのくらい、ツケが回って来た現実を見てきたのだろう。
と、美津子は先ほど順正が座っていた席を視界の隅で見ながら思う。けれど、美津子は今、目の前にいる杏奈を励まそうとした。
「そうね。今度先生が来たら、ちゃんとそこのところ、話してやって」
「あ、いえ、それは、いいです」
杏奈は急に声を潜めて肩をすくめた。
「どうして」
「先生の前にいると、なんだか体が委縮してしまって…位置エネルギー的に負けていますし」
「どういうこと?身長のことを言っているの?」
美津子は言いながら笑った。杏奈は苦笑いをした。あの低く、ドスの効いた声で、物理的にも立場的にも上からものを言われると、杏奈はどうしても、威勢を削がれてしまうのだった。
「それに、先生の言うことも、全然分からなくはないですし…」
杏奈は俯いて、また少し暗い顔をした。
─先生は、自分たちにできることは、傷ついた人達を慰めることだけだと言った。
もしも、クライアントに良い影響をなにも与えられないのであれば、順正の言うとおりになってしまう。けれど、クライアントの望みが妊娠である場合、そのハードルは高い。もはや、運の世界であると感じる。
「杏奈」
美津子は眉尻を下げ、
「先生の言うことを、全部まともに受け取らないでね」
なだめるようにそう言った。
「先生は、自分にも、自分の仕事にもとても厳しい人なの。時々、人に対して自分の基準をあてはめてしまうところがあるけれど、口ほど悪い人じゃないのよ」
まるで息子の非礼を詫びる母親のような面持ちだ。
─いつも颯爽として、涼し気に微笑を浮かべているのに…
杏奈は自分も詫び入るような気持ちになって、すぐに頷いた。こんな美津子を見るのは初めてだ。
「話が変な方向に行っちゃったけど」
美津子は仕切り直すように言って、湯飲みにお茶を淹れた。
「杏奈、大学入試の時いつから勉強を始めた?」
「いつから…」
いきなり、なんだろうか。
「…高校に入学した時にはもう、なんとなくそれを見据えていたかと…」
そもそも、杏奈たちの世代に関していえば、小学校の時からの勉強の積み重ねは、結局大学受験のためにあるのではないかと思えるくらいだ。
「亜美さんは、着床させるために今からできることはあるかと聞いていたね」
「はい」
「亜美さんが尋ねたことは…」
亜美さんが悪いという意味ではないのよ、と付け加えてから、美津子は言った。
「試験を終えてから、試験に合格するようにできることがあるかと聞くようなものかもしれないね」
今から起こす行動が功を奏するとすれば、それはもっと後のこと。胚移植した後で、うまく着床させるために行動を起こしても、いかほどが影響をもたらすというのだろう。
「もっとも、亜美さんには決してそんなこと、言えないけどね」
「ええ」
もっと前から、準備できたはずだよね?と責められているように捉えられるといけない。
「アーユルヴェーダでは、妊娠の準備は両親ともに、受胎を望む六か月前から始めることを勧めている」
「はい」
それは、杏奈も知識としては把握していた。
子供を授かるために、いつから試みを始めるか、多くの夫婦が話し合うことだろう。仕事の予定や経済力、母親の年齢、既に子供がいる場合は育児上の都合などを考慮に入れ、妊娠する時期をコントロールしようする。そして妊娠の兆候が表れると、そこで初めて、産婦人科または助産院を訪問する。
しかし、伝統的にアーユルヴェーダが根付く国では、そうではない。アーユルヴェーダ医師を初めて訪問するのは通常、受胎の六か月から一年前。これは、妊娠中および出産後の女性と赤ちゃんの健康を守るために、アーユルヴェーダの知恵を実践することが大切だと理解されているからだ。アーユルヴェーダでは、妊娠の最初のステップを、母親と父親が新しい赤ちゃんを世に送り出すための環境を準備することだと捉えている。具体的には、健康的な食生活と生活習慣を確立すること。これは、スピーディーで、忙しく、ストレスに満ちた現代文化において非常に重要なステップだ。
妊娠を計画することは、仕事や旅行の計画を立てるような、単純な問題ではない。お母さんとお父さんの生活のあらゆる面で減速することが必要になる。
「今回の試みで妊娠が成立すれば、それは幸運なことね」
「はい」
「けれど、そうでなかった場合は、次の試みに向け、できるだけのことをしてもらわなければならないわね」
あかつきにできるのは、それを促すことだけだ。実際に、できる限りのことを実践するのは、亜美自身。
「さっき私が言った言葉を覚えている?」
「どんな言葉ですか?」
「魔法の薬を求めているなら、その期待を打ち消していただく必要がある、と」
「はい」
それは、美津子が常日頃から、クライアントに釘を刺していることだ。
「覚えておくといいわ」
美津子の目は、いつしか虚空を捉えていた。
「人は魔法の薬を求めるものよ。苦痛を伴わず、すぐに、結果を出せる薬を。どんなにこちらがそんなものはないのだと前置きをしようと、相手は、心の中で、私たちが魔法の薬を引き出してくれる瞬間を待ちわびている。私たちにできることは、より早く現実に向き合わせること。原因と結果を理解させること」
希望を持たせるような優しい言葉をかけるだけでは、何も変わらない。順正の言葉を借りれば、「よしよし」しただけでは、何も…
キッチンで物音がし、二人が小須賀の侵入に気が付いたのは、美津子がそう言った後だった。
「体が訛ってるな」
一通り取っ組み合った後で、加藤は再び、両手を腰の後ろで組んだ。順正は呼吸を整えながらジャケットを脱いだ。
「いきなり仕掛けてきて…」
目を細めて、師を見やる。加藤は、温厚そうな目を細め、順正の鋭いが澄んだ目を見据えた。思わず、ふふふと笑いが漏れる。
「本当に久しぶりだな」
最後に会ったのは、今年の春か。いきなり挑みかかって来た師匠に、順正は仏頂面したまま少し顎を引いただけだった。
「お前も元気か」
加藤は、少し前かがみになって、順正の後ろに控える利口そうな犬に話しかけた。
「たまに、ミツと話がしたくなるようだな」
加藤に尋ねられ、順正はまた顎を引いた。
「呼ばれたから、犬の散歩ついでに寄っただけです」
「ふうん。犬の散歩をな」
加藤は順正の背後に聳える山に視線を投げた。ずい分と、長い道のりを歩いて犬の散歩をしているものだ。
「ミツは中にいます」
加藤も美津子に会いに来たのだろうと踏んで、順正はそう言った。
「そうか」
加藤は、うそぶくように両の眉を上げた。
「私も、近くで法要があったついでだが」
そろいもそろって、素直ではない。
「少し寄っていこうかな」
順正は軽く会釈をすると、踵を返し、山へと続く道を南天丸と歩んでいった。
加藤は、ふう…と息を吐いて、あかつきの門扉に歩み寄った。
「ご縁さま」
玄関で加藤を出迎えた美津子は、ちょっと声を落として、
「今、ちょうど順正が出て行きましたが、会えました…?」
美津子の問いに、加藤は柔らかい笑顔を見せて、首を縦に振った。
「相変わらずだが、元気そうだった」
加藤は、心なしか左の前腕が痛み、先ほどの順正との取っ組み合いを思い出した。いきなり技を出した、と言ったら、美津子は呆れるだろうか。
武術としての太極拳の動きは、日ごろ指導し、自身も訓練している加藤の方が上だったが、順正は順正でバカに力があった。
「まあ…あれを元気というのかどうか」
美津子は順正の減らず口を思い出してげんなりした。
「お茶でも飲んで行かれますか」
奥の方では、誰かの話し声がする。
「では、少しだけ…」
加藤はホールに入ると、声の出どころはキッチンであると分かった。
「この頃は、スタッフやクライアントで賑やかだな」
「小須賀さんが忘れ物を取りに…」
キッチンで、何やら小須賀と杏奈が話をしているようだ。
「小須賀くんも、相変わらずそうだな」
「はい。彼はいつでも元気ですよ」
加藤は書斎のソファに腰掛けた。美津子はお茶を持ってきます、と言ってキッチンへ向かった。ほどなくして、キッチンからの話し声は止んだ。
書斎のテーブルの隅には、本が山積みになって置いてある。加藤がその背表紙を眺めていると、ホール側から声がした。
「ご縁さま、こんにちは」
杏奈が軽く会釈をした。なぜかテレビを抱えている。加藤は微笑み、会釈を返す。杏奈はすぐに、美津子の居室のほうへ消えて行った。
美津子は加藤の前に湯呑を置くと、急須に入れたお茶をそそいだ。
「もう年末だな」
「はい」
「大晦日の人手がまだ足りてないから、今年もよかったら小須賀くんに」
「分かりました」
美津子は、心得てにっこり笑った。
「杏奈が一緒でも構わないよ」
「杏奈は…」
美津子は、本人の代わりに杏奈の持ち物である本を見た。
「年末、長期滞在のクライアントが決まりそうで」
加藤はお茶を飲んで、頷いた。
「忙しいか」
「試してみたいことがあるんです」
それに、できれば杏奈を実家にも帰らせてやりたい。
軽い足音がして、杏奈が応接間に戻っていく姿が一瞬見えた。
加藤はゆっくり立ち上がって、書斎を出た。居間から、こっそり応接間の方を覗く。杏奈は閉じていたノートパソコンを開くと、せっせとタイピングを始めた。ノートパソコンにかじりつくようにして画面に食い入る姿勢は、まさに夢中という言葉がふさわしい。
加藤は音を立てないように、ゆっくりと書斎に戻った。
「この前も思ったが…」
夕紀と聡美が同時に滞在し、太極拳の指南をしに来た日だ。
「あの子はこのところ、元気そうだ」
傍から見れば、杏奈の様子は元気という形容はあてはまらない。しかし、加藤はそう言った。美津子はやや誇らしげに頷く。
「最近、あの子に施術のモデルをしてもらっているんです」
「施術の…それはいい」
「ええ。昔のスタッフが戻ってきてくれて、彼女が施術を」
「ふうん」
「彼女はやる気も能力もありますが、子育てとの両立は大変そうですね」
「そうか」
それを聞くと、加藤はやや渋い表情をして、片手を膝に当てた。しかし美津子は、ふっと相好を崩して、
「でも、だからこそ、彼女は頼りになります。子育てをしている彼女だからこそ、言えることも分かることもあるでしょうし」
加藤はそれを聞くと朗らかに頷いて、湯呑を茶托に置いた
それから数日後、亜美のあかつきへの滞在は取り消しになった。胚移植が成功し、妊娠したのである。
そのメールが届いた時、杏奈は「やった」と声を上げそうになる自分を制した。喜ばしいことだが、別に、あかつきが提案した何かが功を奏したからではない。
─勘違いするな。
と、杏奈は自分に言い聞かせた。杏奈にそうさせたのは、順正なのかもしれなかった。
アーユルヴェーダの取り組みが、功を奏したかどうか分からないのに、子ができたことを感謝されるのも、そうされて喜ぶのも、違う気がした。
単に、幸運だったからなのだろうか。杏奈は、亜美の言っていた言葉を思い出す。
─女性が子供を持つか、持たないか、決めるのは何なのでしょう。
美津子に亜美からの知らせを伝えると、美津子はメールを確認してから、
「花神さまに、感謝を伝えないといけないわね」
微笑みながらそう言った。
美津子と杏奈は、珍しく連れ立って栗原神社へと向かった。杏奈はゴマのラドゥ(インドのお団子)を包んだ風呂敷を抱えていた。花神さまにお供えするものである。
「現代女性は…」
美津子は、神社への道中、独り言のような口ぶりで話した。
「高度に教育されて、社会的にも活躍しているはずなのに、こと受胎のこととなると、不安になる」
それは、今回の亜美然り、夏頃自然妊娠を報告した、愛然り…。
愛は車メーカーの総合職社員として働いている。亜美は、今は様々な仕事を掛け持ちしているが、もともとは看護師としてバリバリ仕事をしていたようだ。
かつては子どもがいることが、女性にとって自信や老後の経済的な安全につながった。しかし、今ではこのような意識は弱まっている。女性が経済的・社会的に自由になると、子や夫を持つことは、利点というより負担と感じられがちだ。
「皮肉なことに…」
寒空の下、美津子と杏奈は二人並んで神社までの一本道を進む。
「最も社会的に成功しているように見える女性が、赤ちゃんを持つことに最も成功していない」
良い仕事に就き、最もお金を稼いでいる女性が…
キャリアに多くのエネルギーと時間を費やすことで、妊活や母性に必要なエネルギーや時間、願望さえも奪われている。
「男性と同じように教育を受けたら、男性と同じように、家庭の外に夢を見るのは当然のように思えます」
杏奈は静かに言った。
「夢を見させておきながら、夢を見ることに夢中になると、家族をもつという夢は断たれてしまうかもしれない…それは、とても…」
「…とても、納得できないことよね」
杏奈は頷きながら、美津子は今どんな気持ちでこの話をしているのだろうと思った。
保育士、幼児教育者としてのキャリアを積み、今はあかつきで、アーユルヴェーダを通して人の健康をサポートする仕事をしている美津子。パートナーも、子ももたずに。
「とはいえ、妊娠しやすい時期を逃すことは、現代女性が不妊となる理由の一つ」
それは紛れもない事実である。
「人生で最も妊娠しやすい時期に、教育やキャリアや娯楽を追求して、家庭を持つのは人生の後半に先延ばしする」
中には、家庭を築くどころか、相性の良いパートナーと出会うためのスペースさえも、自分の人生に作っていない人もいる。
家庭を作ることよりも大切な仕事や趣味が、必ずしもあるわけでもないのに、その仕事や趣味を優先することを止められない。
杏奈は聞いていて心苦しいと思うこともあったけれど、黙って美津子の話に耳を傾ける。
「しかし、いざ子供を望むようになると、小さな考えが頭をよぎる」
─妊娠のタイミングはいつなんだろう?
そして、実際に妊娠を試みたものの、なかなかうまくいかない場合、この思いは次のように変化する。
─なぜ妊娠できないのだろう?
─どうしたら妊娠できるのだろう?
妊娠や子供をもつことに対して恐怖や不安を抱きはじめる。
─自分の生活にどのような支障をきたすか。
─キャリアを築き続けるにはどうしたらいいか。
─パートナーとの役割分担をどう考えるべきか。
そのため、自分が妊娠しやすいか前もって知りたいと思うようになる。性行為をする時に、すべての条件が整っていることを確認したがるようになる。あるいは、自然に生殖することに不安をもち、子供を作るために多額の費用をかけて医療処置を受けるかもしれない。
「時間を凌駕しようと試みる。順正は、これを自然を欺くと言っていたわね」
「はい」
順正はおそらく、最悪のケースを知っているのだろう。
本当に時間を凌駕できるか。結果は保証されていない。安全性もまた然りだ。
二人は、鳥居の前でお辞儀をし、西参道を進んだ。
「でも、杏奈が言うように、アーユルヴェーダの知恵を用いて若返りが達成されれば、妊娠し、子育てをするのに十分なほど、健全でいられるはず」
杏奈はこくりと頷いた。
「亜美さんをサポートできるように、力をくださいと、花神さまにお祈りしようか」
なんにせよ、亜美が妊娠できたのは喜ばしいこと。妊娠、出産、子育てという旅は、始まったばかり。だが、これから何が起こるかは分からない。
二人は花神殿に入ると、風呂敷を広げ、供物を置き、手を合わせた。
「母になることは、究極のヨガの実践ね」
祈り終わった後、美津子は杏奈に再び話しかけた。
体の内部空間を開いて他の人と共有し、血流、細胞、エネルギー、栄養を直接共有する。これは、人間が経験しうる最も奇妙で、最も素晴らしい体験のひとつ。
「妊娠し子供を持つことは、切なる願い。だからこそ、それを望むクライアントは、時に窮迫した表情で、結果を求めるあまり、コンサルティショナーにきつく当たることがある」
「はい」
今回は、幸運にも妊娠が成立したが、そうでなければ、今後の提案の一つひとつに、亜美は多くの疑いをもつことだろう。
「それでも、淡々と、粛々と、仕事をしなければならない」
「はい」
「これは、思っているより難しいことかもしれないよ」
美津子は忠告するようなことを言いながら、隣で聞いている杏奈は、どんな気持ちでこの話を聞いているのだろうと思った。
「杏奈」
それで、静かに問うた。
「こういう話をしても、大丈夫?」
杏奈は美津子の顔をちらと見やり、それから、花神さまに視線を戻した。
「はい」
首を一回だけ、縦に振った。
「この分野に対するアーユルヴェーダの見方は、知っておきたいです」
美津子は頷いて、花神殿を出ようと後ろを振り向いた。
「わっ、びっくりした」
美津子は、胸に手を当てた。杏奈も後ろを振り向くと、花神殿の入り口近くの壁に張り付くようにして、ぐう爺が立っていた。スマホを見ては、ニヤニヤしている。
「宮司さま」
ぐう爺は、肩をびくっと震わせて、慌ててスマホを隠した。杏奈に声を掛けられて、ぐう爺は初めて二人の存在に気が付いたようだった。
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