杏奈は夕食のキッチャリーの仕込みを済ませた後、書斎に入り、最近仕上げたばかりの資料を覗き込んだ。妊活におけるパートナーとの関係性…このトピックにも言及してほしいと美津子から頼まれたものの、どのような角度から話をしたものだろう。あと一時間も経たないうちに講義を始めるというのに、これではとんだ付け焼き刃だ。
「美津子さん、あのう…」
アフターカウンセリングを終えた美津子に、杏奈はそっと声をかけた。杏奈と美津子は前室に入り、一つの資料を二人で覗き込む。
「この部分に最初に言及しようと思ってます」
杏奈は自分が話そうと思っている部分を指で示した。
「お二人の思いを引き出す取っ掛かりになりそうなので…どちらかというと、私が用意したトピックより、お二人が話したいことを話してもらったほうが良い気がするんです」
「いいんじゃない…」
美津子はそう言ったが、美津子自身にも、どのような話が彼女たちにとって良いものになるか、考え抜けてはいなかった。けれども、会話の主導権をなるべくクライアントにもたせたい…という杏奈の意見には賛成であった。彼女たちはこれから子供をもつことについて考える時間がたっぷりある若い女性ではない。今現在悩んでいることがあり、相談したいと思っていることがあるはずだ。それを話すために、ここに来ているかもしれないのだから。
「アハンカーラとオーラのところについては、話さないほうがいいですよね…」
杏奈はページをめくって、該当部分を指差した。自分が書いた資料だから、どこに何が書かれているかよく分かっている。
美津子は唸って、目元に手をのせた。
「お二人は、まずオージャスについて理解しているのかしら?」
「いや…咲子さんのほうが、まだ学習は進んでおられそうですけど」
「概念の理解がないまま、ここをお伝えするのは厳しいな…ところで、杏奈はこの部分を、どの書籍から引用したの?」
「分かりません」
杏奈は肩をすくめた。
「いろんな本や論文を元にしたのは覚えていますが、どれだったかは…しかも、引用ではなくて、読んだ情報の中から私の中で理解したこと文章にしました」
「なるほど…サンスクリット語で書かれた経典を日本語に訳した時、その経典の内容は、翻訳者の理解の範疇でしか伝えられない…これと似ているわね」
「はい…私の理解の範疇でしか、ここに表現できていません」
「けれど、いい線をいっていると思うわ」
杏奈は思いがけず褒め言葉をもらって、ちょっと顔がほころんだ。
杏奈と美津子が伝えるべきか考え、結局やめたパートを端的にまとめると、
─性行為は、一時的に相手と一体化する行為だが、オージャスが弱いと、発作的に、肉体的・精神的に相手を拒絶すると考えられている。そのため、オージャスを強固にしておくことが重要である。
ということを言っている。たとえ、パートナーとの仲が良いと思っていても、微細なレベルで相手を受け入れられない可能性があるのだ。パートナーとの仲が悪い場合は、それ以前の問題である。おそらくオージャスは作られていまい。
さて、オージャスというアーユルヴェーダの概念がある。これは活力素と言われる。活き活きと生きるためのエネルギー、そして免疫の基礎である。オージャスはシュクラ(生殖組織)が健全に生成される時、生まれる物質である。つまり、オージャスの不足は、最後に作られる体組織である生殖組織が、健全に生成されていないことを意味する。
オージャスが強い時、自分でないものを適切に自分に取り込むことができる。分かりやすい例でいうと、食べ物の消化・吸収を適切に行える。そしてすべてのダートゥに栄養を与える。この時、アハンカーラと言われる、自分を自分であると識別する力が強化される。自分と自分でないもの見分け、自分でないものを排除する力と言ったら良いだろうか。たとえば、毒素、細菌、ウイルス、癌細胞…これらは、自分の一部とはしたくないものである。アハンカーラが健全だと、自分とこれらの自分でないものを識別し、異物を体内に留まることを許さない。つまり健康を守ってくれるのだ。逆に、オージャスが弱い時、アハンカーラは弱くなる。
オージャスはまた、オーラを生み出すものである。一般に、オーラという言葉は、雰囲気というような意味合いで使われるが、アーユルヴェーダではオーラを、外部からの侵入に対する最初の防御線とみなしている。結界、またはバリアのようなものだ。毎日生み出される、すべての否定性に対する緩衝である。その否定性が意識的に生み出されたものであろうと、無意識的だろうと。たとえば、人の気を貰いやすい人と、貰いにくい人がいる。人の気を貰いやすいと感じる場合は、オージャスが弱く、オーラが外側からの影響力を防御できていないのかもしれない。この時、内部の不調和が増加する。オーラが強ければ、他人のエネルギーが自分に近づいても、不必要に影響を受けることなく、警戒心が起こることもない。
このオーラだが、性行為の際、一時的に融合する。防衛線を飛び越え、その人が自分の中に入ってくるのだ。強いオーラを持っていれば、それは満足感をもたらすが、逆にオーラが弱い時は、歪みが生じる。自分は自分であるという意識・アハンカーラが、パートナーの生殖器や精子を、異物だと勘違いする可能性があるのだ。その時、性行為によって自分が脅かされたと感じる。他人に乗り込まれたような、圧倒されたような感覚に陥ることがある。このような場合、発作的に、パートナーを肉体的または感情的に拒絶してしまう。
だからこそ、パートナーを受け入れるためには、カップルそれぞれが、オージャスを形成しておく必要がある。
「この部分は、実際の行為において、お互いの心身の健康状態がいかに影響するかをよく説明しているわ。この知識があったほうが、より納得感をもって、自分の健康を培うことに努力を注げるかもしれないわね。それに、自分でこのパートを読んだとしても、理解できない可能性が高いから、こっちが分かりやすく説明してあげるに越したことはないのだけれど…やっぱり、いろいろなことを一気にお話ししたら混乱してしまうでしょうし…話さないほうがいいわね」
杏奈は頷いた。
「それからね、杏奈。後でみんなにまた共有するけど…」
美津子は熟考した結果、二人の滞在中の方針を固めた。妊孕性やパートナーとの関係性については、込み入った話をこちらから持ちかけるのは、講義の時だけにする、という方針だ。それ以外のフリータイムや施術の時には、話さない。
「この方針は絶対ではなく、様子を見ながら都度修正を加えることにするけれど…」
美津子がなぜこの方針にしたかというと、小須賀の言う通り、二人にリラックスしてもらいたいからだった。二人が悩みの種を四六時中意識する事態になってしまったのでは、せっかくあかつきに来たのに心が休まらない。ただし、クライアントの方からその話が上がったら、どのタイミングであろうとそれに応じる。
「分かりました」
杏奈はそう答えつつも、少しプレッシャーに感じていた。女性の生殖能力に関する講義において、ワークをしてもらったり、話合いをしたりすれば、二人は自分のことについて幾分かは話してくれるだろう。そしてその話を受け止めるのは、主に講義をする自分なのだ。だからといって、それが嫌なわけではない。むしろ積極的に携わりたいのだが、美津子が同席していなければ、自分一人で担うには重すぎる役目だった。
「生殖能力を最適な状態にするには、男女とも、その生殖器官に、毒性や滞りがないよう保つ必要があります」
女性の生殖能力に関する講義が始まったのは、午後の施術の後だった。
杏奈は咲子と結衣を前に、美津子がいつも座る席に座って話をした。美津子はお誕生日席に座って、講義を傾聴している。
理久は、沙羅の娘二人とともに、美津子の居室の前室で遊んでいる。
「毒性や滞りのない状態を保つには、やっぱりアグニが重要です」
アグニを強化するためにどのようなことが大切か、杏奈は咲子と結衣に問いかけた。二人は、ファイルに挟んだ資料に視線を落としながら、ぽつぽつと回答をした。
「そうですね。やっぱり健康的な食事や運動が基礎です」
杏奈は二人の回答を受け、頷いた。アーユルヴェーダは基本的に生活の知恵。あらゆる病気を回避するために、毎日の食事やライフスタイルを整え、セルフケアをして、心地よい環境に身をおくことを重要視している。
「妊娠を望むカップルは、受胎を望む時期の少なくとも六か月前から、準備を始めるべきとされています」
結衣は口元に手を置いた。思ったよりも準備期間が長いと感じたのかもしれないし、その逆かもしれない。
「生殖能力は環境条件が整ったときに高まります」
この環境条件は、ケースバイケースで最適な状態の定義が微妙に異なる。母親や父親と同様に、赤ちゃんにもそれぞれ固有の性質、すなわちプラクリティがあるからだ。同じものは二つとない。
「アーユルヴェーダは、自然な受胎と胎児の健やかな成長のために、四つの要素を考慮すべきだと伝えています」
それが、四つの受胎可能因子。土壌(子宮)、栄養素、季節(受胎の時期)、種(精子と卵子)である。
一.土壌(クシェトラ Kshetra)
子宮をはじめとする生殖器のことで、受精や胎児の育成に貢献する。
母親や胎児を取り巻く大きな環境も含む。
土壌は、新しい赤ちゃんを迎える家である。
ニ.栄養素(アンブ Ambu)
土壌に流れ込む水(栄養素)は、母子の組織に栄養を与える。
月経周期、妊娠、出産という大きな身体的変化に対して、ホルモンを通じてメッセージを伝え、身体を潤滑にする。
体内の温度を安定させ、代謝を最適な範囲に保つ。
三.季節(ルトゥ Rtu)
受胎のタイミング。
自然界の周期的なリズムが、神聖な受胎を起こすために同期する。
それぞれの女性に、子供を産むのに最適な時期がある。
四. 種(ビジャ Bija)
卵子と精子が結合し、子宮に着床すること。
種は、女性が地球上の別の生命を支えようとする意思でもある。
生育に適した条件が整って初めてチャンスが与えられる。
「この四つの要素のいずれかに問題があると、妊娠が難しくなる可能性があります」
資料に沿った説明を終えると、杏奈は目線を上げて、聴衆の表情を確認した。二人とも聞いてはいるか、その表情は硬い。
「ベースとなる考え方はこんな感じです」
杏奈は資料を置き、二人を交互に見た。
「この四つの因子について、ご自身の場合はどうか考えてみてください」
主役は咲子であり、結衣なのだ。行動することを前提に二人に話を聞いてもらいたいからこそ、杏奈は自分事に置き代えてもらうことを勧めた。
「ご自身やパートナーの土壌は今どんな感じでしょうか。どんな栄養素を入れているのか、家族を持つならいつがベストなのか…もうすでに考えられていることかもしれませんが、今一度整理してみてください。アーユルヴェーダは指針を示していますが、結局は自分が決めることですから」
二人にはしばし考える時間が与えられた。その後は、二人が考えたこと、悩んでいること、迷っていることなどについて、議論する時間となった。美津子も杏奈も、できる限り二人の悩みや本当の望みを引き出すことに注力した。こうせよと指示することはなかったし、決まりきった答えも用意していなかった。答えは、自分で出すものだ。
「あ、ぼくにもパンをくださーい」
美津子の居室の前室で、自宅から持って来たおもちゃや人形で、沙羅は子供たちを遊ばせている。午前中、沙羅は七瀬を両親に預けて仕事に入り、昼に自宅に戻ると、早いうちから七瀬に昼寝をさせた。その後、快の幼稚園のお迎えに七瀬も連れて行き、その足で再びあかつきへやって来たのだった。理久の遊び相手になってほしいという、美津子からの頼みだった。
七瀬と理久はほぼ同い年だった。最初こそ、七瀬は理久を警戒して一緒に遊ぼうとしなかったが、快が理久と遊び始めてしばらく経つと、自分も参加するようになった。
「パン、パン」
理久と七瀬は、あんぱんのキャラクターが大好きな年齢だ。最初はぐずっていた理久も、今は新しいおもちゃ─沙羅が家から持って来た─に夢中。
そうっと襖が開いて、永井がもそっと入って来た。
「おやつだよ」
「おやつ、おやつ」
廊下に置いたお盆を取ろうとしゃがむ永井の背に、七瀬がくっついた。
「お母さんたちは、まだ時間がかかりそうだからね~」
見知らぬおばさんの登場に立ちすくんでいる理久に、永井はそっと言った。
この和室には、箪笥、地袋の上のテレビ、部屋の真ん中に置かれている円卓以外は何もない。
窓の傍には、桃の切り花。まだ蕾だが、この花の存在があるおかげで、殺風景な部屋の中にも季節と趣が感じられた。
─美津子さんの頭の中って、こんな感じなんでしょうね。
整然とまとまっている。永井は自宅の雑多さが頭をよぎったが、美津子と自分を比べるのはよろしくないと頭を振る。
「お菓子がいい」
快はお盆の上の菓子鉢に山積みになったみかんを見て、がっかりしたように言った。
「お菓子はないの」
沙羅はそう言い聞かせながら、理久に水を飲ませようとする。理久は沙羅の手をすり抜けて、部屋の中を走り回った。永井は桃の枝が生けてある窓枠の傍の花瓶を、違い棚の上に移動させた。
「沙羅ちゃん、午前中来てたんでしょ」
「はい」
「とんぼ返りなんて、大変ねぇ」
永井はちょっと、同情するような目で沙羅を見た。沙羅はかぶりを振って、
「とんでもない。快も七瀬も、遊び相手がいたほうが楽しいですから」
そう言ってにっこり笑った。
「子連れであかつきに来るなんて、珍しいわね」
永井は理久を目で追いつつ、座卓の傍に座って、みかんの皮を剥く。
「永井さんは、結衣さんの施術をしたんですか?」
「ええ。蕁麻疹があるっていうから、探り探りオイルを使ったけど、本人曰く、かゆみは大丈夫だって」
「そうですか。この後痒くなってこないといいですね」
永井はみかんの皮を丁寧に剥いて、七瀬に差し出した。七瀬はもらいはしたものの、食べるわけでもなく、手の中でもてあそんでいる。理久がすぐに嫉妬して、みかんを奪おうとするので、永井は理久にもみかんを与えた。
「カウンセリングは美津子さんと杏奈ちゃんがしたからね、私はどういう既往歴があるのか分からなかったのよ」
永井はやや不満げな顔をした。スポットとはいえ、施術をする以上、クライアントの情報は少しは知っておきたい。
「ほとんど飛び込みで、美津子さんたちもどういうクライアントか知らなかったようですよ」
「あらそうなの」
永井の眉間の皺が少し和らいだ。
七瀬がみかんをつぶそうとするのを沙羅はすぐに察知して、手をつかむ。
「こら、食べないなら返しなさい」
「や、や」
七瀬の隣では、理久がみかんを口に含んだものの、べえっと吐き出してしまう。永井は何事もなかったのように、ティッシュでみかんを受け止め、理久の口元を拭く。
「おちびちゃんたちは好きじゃないか」
小さな子供の一挙一動に全く動じることなく、永井はおっとりと言ってみかんを頬張った。快は、その永井の隣に座って、几帳面にみかんの白い筋を取っている。
「咲子さんは、なかなか子供を授かれないようです」
「もう一人のお客さん?」
「はい。午前中施術をしました」
「そう」
「もしかしたら、結衣さんも二人目の不妊か、婦人科系の疾患がある方なのかもしれません」
沙羅がそう思ったのは、杏奈の講義を一緒に聞いているからであった。女性の生殖能力に関する講義。
「大変ねぇ」
永井は窓の外に目を向けながら、やはりおっとりと言った。
「私の娘は二人とも、特に不妊に悩むことなく授かったけれど、結構周りにもいるのよね、不妊治療している人」
「あ、お孫さん生まれたばかりなんですよね」
「ええ。孫ももう三人目となると、感動も薄らぐけど、当たり前と思っちゃいけないわね」
「三人もお孫さんいたら、賑やかでいいですね」
「いやあね、じじばばなんて、都合のいいように使われるだけよ」
つい先日も、永井はまた恵里に呼び出され、上沢まで車を走らせた。
─これ、バレンタインのチョコ。良さんに。
呼び出されついでに、永井はチョコレートを恵里に渡した。
─気を遣うことないのに…
産後、夫によく不満を抱くようになった恵里は、
─チョコレートなんか持ってくるくらいなら、母乳分泌に良い食べ物でも買ってきてくれたほうがよかったのに…
あくまで、夫より自分を優先してほしいらしかった。永井はとんでもない勘違いだと思う。
─あんたと日葵ちゃんを大事にしてもらわないかんで、良さんに気を遣うんだがね。
「えっ…」
永井とその次女のやり取りを聞いて、沙羅は思いがけない発見をした。ちょうど同じようなことが、年明け、自分の家でも繰り広げられていた。
夫の栄治は、沙羅の実家に少し顔を出しただけだったが、その時の母の労いぶりは大仰だった。沙羅はやはり、恵里と同じ気持ちになった。普段、子育てを全面的に沙羅や、沙羅の両親に頼っている夫に、そんなに気を遣わなくていいのに、と。
母は何も言わなかったが…
─夫を労うことが、私や、この子たちのためになる…
そんな風に考えたことがなかった。
「さあて。ちょっと洗濯物の様子を見てくるわ」
永井はゆっくりと腰を上げた。
「永井さん、洗濯が終わるのを待っていたんですか?」
「そういうわけでもないけれど」
永井は襖のところまで足を進め、振り返った。
「ここで、忙しい若い人たちの役に立ってたほうが、有意義だわ。帰っても、旦那はごろごろしてるだけだから」
言い終わると、永井はのっそりと出て行った。
永井はあくせく働く必要のない主婦だが、なんだかんだ、あかつきの仕事を自分の範囲外のことまでよくやってくれている。
スポットセラピストは、施術一回につきいくら、と決まっているので、自分の施術さえ終われば、他の仕事は本来はやる必要がない。それは、業務委託契約である沙羅も同じ。やったとしてもボランティアだ。
それでも、永井は足りないものがあれば買ってきたり、前の施術の片付けや洗濯も手伝ってくれている。
─ヨギだな、永井さんも。
恵里の夫への気遣いも含め、沙羅は、そう思った。
自然受胎と胎児の健やかな成長のための、四つの要素に関するパートが終わると、一旦休憩となった。
「キッチャリーの準備をしてくるから、あなたは引き続き、次のパートをお願いね」
次のパートは、話すことが先ほど決定した「パートナーとの関係性」の部分である。しかも美津子は席を外す。杏奈は休憩中も二人がいないところで資料をめくり、どう話したものか悩んだ。
─経験したことしか、人に話せない。
美津子の知識や文献等から情報を収集して、一旦資料をまとめたものの、杏奈は、話していることを経験をもって理解してはいない。経験していないという点では、美津子も同じだが…
この分野はやはり荷が重い。いまさらながら、杏奈はそう感じた。
「次は、パートナーとの関係性についてお話します…」
杏奈は該当ページを伝えた。
「ええと…この話をする前に、前提としてお話したいことがあるんですが」
二人は顔を上げた。
「それは、赤ちゃんを生み出すのは、赤ちゃんがほしいと思うことではない、ということです」
これは、不可解に聞こえるかもしれない。
もちろん、赤ちゃんがほしいと思うことは、実際に赤ちゃんを生み出す行動を起こすために必要だ。けれど、赤ちゃんがほしいと思ったところで、赤ちゃんが生まれるわけではない。これは当然のこと。
「赤ちゃんが欲しいと強く願うことは、赤ちゃんを作るために必要な実際の行為から、エネルギーと注意を微妙に遠ざけます」
実際の行為とは、セックスのことである。
「妊娠可能な時期に、セックスをしたいという夫婦の身体的欲求と行動こそが、妊娠させます」
当たり前のことではあるが、目標に固執していると、このことが抜け落ちてしまうのだ。
多感な中学生などがこの場に居合わせたら、わざと茶化したり、顔をしかめたりするかもしれない。でも、目の前にいる二人のクライアントは、神妙な顔をした。特に結衣は。
確かに、「最後の方は(セックスは)作業だった」という人もいる。それでも、妊娠することはある。しかし本来、創造のプロセスは、動物的な行為であり、意識して考えるプロセスではない。
「妊娠するという目標に縛られすぎると、赤ちゃんを授かるために必要なことが分からなくなってしまいます。ゴールばかり見ていたら、その瞬間、妊娠を生み出す存在から目をそらしてしまい、かえって邪魔になることがあります」
赤ちゃんを授かる可能性はどのくらいあるか。そのような思考がストレスになることがあるのだ。
「実際の行為の時には、ゴールに固執するのではなく、今この時に熱中したほうがいいんです…」
その時には、過去にとらわれたり、未来のことを考えたりする余地はない。
力説するのは気が引けて、杏奈は、どこか他人事のような言い方になってしまう。が、この部分は重要だと思う。
お互いの良いところを見つけ、褒める。
楽しい夕飯のひと時を過ごす。
気持ちを高めるようなムードや衣類を身に着ける。
このような努力を行った結果、愛する人への身体的な衝動が起き、運良く思いがけず妊娠することがあるかもしれない。
「アーユルヴェーダの最も著名な作家であるチャラカは、男性にとって、すべての媚薬の中で最高のものは、愛するパートナーだと言っています」
愛するパートナーとの満足感のあるセックスが、満足感を基礎とする健全な生命を形成する。咲子はゆっくりと頷き、結衣は少し項垂れていた。これは結衣にとって、都合の悪い情報だ。
「だからこそ、普段からパートナーとの絆を深めることが大切です」
自分とパートナーが共に人生を歩むためには、同じ空間と時間を共同で経験する必要がある。毎週日曜日には一緒に夕食を食べたり、デートに出かけたりというルーティンも、絆を深めるのに役立つ。過去を祝うため、あるいは未来への特別な意図に注意を向けるために行われる取り組みには、インスピレーションと愛情のエネルギーが含まれている。
「誕生日、結婚記念日などはその例です」
結衣は、ぴくりと身体を動かした。
「同じベッドで眠り、同じテーブルで夕食をとるというように、二人が並んで生活していても、本当の意味でつながらないことはあり得ます。セックスをしながら、お互いのつながりを感じないということもあり得ます」
しかし、受胎時に両親が強力でねじれた感情に悩まされていた場合、その子供は、結局は完全に満足することのできない「愛情の飢餓」を経験することがある。逆に、カップルが非常に大きな満足感を受精卵に注ぐことができれば、その子供は、人生に満足しやすくなる。
「では、お二人とも…パートナーとの今の関係性について、考えてみてください。そしてこれから、どういう関係性でいたいと思いますか?そのために何ができるでしょうか…」
二人はもぞもぞと体を動かした。これは結構難題である。
考えてもらっている間に、美津子が戻って来た。今日の夕飯はキッチャリーにしておいて本当に良かったと杏奈は思った。
再び、答えの分からない議論が始まった。これは特に、結衣にはタイムリーな話題だったが、彼女は自分の中で考えがまとまっていなかった。これが初めてのブレインストーミングであるようだ。咲子もまた、長年の不妊治療の間にパートナーとの間に生じた意見の相違、それによる気持ちの変化を、改めて考え直すきっかけとなった。
そして問題は、二人がパートナーと良好な関係を築いていくことに、コミットできるかどうか。そのために、具体的にどのような行動ができるかということだ。そして、相手との意識の差をどう埋めるか。
結衣は、自分がパートナーに優しくできるかということについて、大きな疑問を抱いているようだった。彼女は第二子がほしいという目先の問題だけでなく、この先の人生の中で、誰の傍にいたいかという大きな視点で考えた時に、本当に彼のために努力ができるだろうかと、不安になってしまう。だからまずは、パートナーの見方を変えて、関係を向上することに前向きにならねばと思うのだが、どうしても良い部分を見られないのだ。
「心と体にアンバランスや毒性があると、思考に色をつけることがあるかもしれません」
心ははっきりと目に見えないので、それに気付くことは難しいのだが。
「身体のバランスを整えれば、心はよりクリアになります。心が明晰になると、パートナーのこともはっきりと見えてきますし、これからの人生を一緒に築いていくために、必要なことを考えられるようになると思います」
美津子は穏やかに言った。
「繰り返しになりますが、創造的なエネルギーを生み出すためには、お二人とも健康であることが有効です。そして、パートナーとの結びつきを深めることも」
美津子は対面に座る二人に、柔らかく微笑んだ。
「パートナーとの結びつきを深めるように意識すれば、行動が変わります」
人生は、自分が意識する方向に動いていくものだ。
「受胎を望むのなら、それをする価値は十分にあります」
講義が終わる頃、外はもう真っ暗になっていた。
沙羅は子供たちを一旦美津子と杏奈に任せ、車からベビーチェアを運んだ。瑠璃子から借りて来たらしい。
「万里子ちゃんが使っていたものなんだけど、なんなら貰ってもらってもいいって」
子供用の椅子がなく、結衣は、理久を膝に乗せてご飯を食べさせなければならなかった。ベビーチェアがあれば大いに助かる。
「ありがとう。遅くなって申し訳なかったわね」
美津子は玄関まで沙羅たち母娘を送った。
小須賀は昼食の片付けの後、永井は講義が終わる少し前に帰ってしまっていて、礼を言う暇もなかった。
美津子と杏奈も、クライアントと一緒にキッチャリーを食べた。
二人は講義の間に議論をして、頭の中がパンクしてしまったようで、その件について話をすることはなかった。美津子も杏奈も疲れ切っていたので、内心ほっとしていた。
お風呂の準備や声掛けなどを行い、美津子と杏奈が二人で話ができるようになったのは、午後九時を回ってからだった。
「誘導してはいけないと思いながら、最後のほうは少し誘導的になってしまったわ」
美津子はそのように言って、反省の色を浮かべた。
「いや…美津子さんがいてくださって本当に助かりました」
杏奈はしみじみと言った。
「私一人だったら、教科書的な理想論ばかり垂れ流していてしまったかもしれません…クライアント自身を見るって、本当に難しいですね」
教科書の内容をあてはめるのは簡単だ。一律で同じことを言っていれば良い。しかし、クライアントが話すことについて、適切に返答をしていくのは難しい。
「アーユルヴェーダは、原因と結果を結び付ける、かなり内省的な傾向がありますよね」
「そうね」
「だからこそ、人によっては望ましくない結果が出た時、原因を正しきれなかった自分を責めちゃうかもしれませんよね」
特に、咲子はありとあらゆる妊活法に、ストイックになってきている。結衣にしても、この先そうならないとはいえない。
「そうね。何があっても、自然の大きな意志に身を委ねる姿勢についても…言及できたらよかったわね」
先ほどの議論の場では、このことについて念押しする暇がなかった。
妊娠と出産は自分の意志と努力でコントロールできないことも多々ある。
全てを大いなる意志に委ね、受け入れることは、ヨガ哲学では「イーシュワラプラニダーナ」といった。
「私、この資料をまとめている時…」
この資料とは言ったものの、近くにはファイルはなく、杏奈は何もないテーブルの上をぽんぽんと叩くことになった。
「妊娠に関する一般的な知識が、いかに自分に不足していたか…ってことに気が付いたんです」
一般的な知識とは、現代科学・医療的に解明されている、生殖器の機能、妊娠が起こる仕組みのことである。
「だから、講義していても、自分が正しいことを喋っているかどうか、自信がなかったんです」
たとえば、四つの受胎可能因子のうち、最後の「種(ビジャ)」。ビジャとは、受胎に必要な健康的な精子と卵子のこと。最後に体で生成される体組織、シュクラダートゥがこれにあたる。シュクラダートゥは食べ物、思考、感情の消化が完了した結果、生成されるものだ。
女性の場合、この卵子の素である原始卵胞は、卵巣に預けられている。卵巣は子宮の両脇に1つずつある楕円形の臓器。排卵のたびに女性ホルモン(エストロゲンやプロゲステロン)を分泌し、妊娠可能な体の状態を維持したり、骨や皮膚や脳細胞や血管など女性の体の様々な部分を保護するような働きをしている。女性はこの卵巣の中に、卵子の元となる数百万もの原始卵胞という細胞をもって生まれてくる。
女性はこの潜在的な卵子を、母親のお腹の中にいる段階から持つ。それらは卵巣に沈着しているという。そして、妊娠可能な時期になり、特定の月経周期が訪れるまで、原始卵胞として卵巣に預けられ、大切に保管される。卵子は、実際に完全に成熟して受胎のチャンスを得るまでに、長い年月をかけてかけて作られている。
一方、男性の場合は、お母さんのお腹の中にいる頃に精原細胞が作られる。そして、思春期を迎えると精子を作り始める。
「妊娠している女性は、その赤ちゃんのさらにそのまた赤ちゃんの命まで作っているんですね…」
将来の孫を生み出す細胞を共創している。そのようなことは、杏奈はこの資料を作るまで知らなかった。これは、アーユルヴェーダの神秘的な見解なのか?と疑ったが、科学的に明らかにされている事実であった。
─じゃあ私の中にある卵子も、お母さんが作ったってこと…?
陶子のお腹の中にいる時に。
「とても不思議なことよね」
不思議なことであり、素晴らしいことだと、美津子は思う。
「もし卵巣に種があって、自分の健康に満足しているのなら、お腹の中で育ててくれたお母さんに感謝しなければならないわね」
生まれてくる子の、おばあちゃんにあたる存在に。
「それと同時に、女性は、その人生全体が卵子にどれだけ影響を与えるかを認識する必要がある」
というのも、男性の精子は無限に再生すると考えられているのに対し、女性の卵子は再生できないと考えられているからだ。
「女性は、母親が開設した利子のつかない生殖銀行口座を持って生まれ、最初に預けたものの一部が毎月使われることになる」
多くの女性が体内時計のプレッシャーを強く感じているのはこのためだ。
「私は、そういうことも知らずに、女性の生殖能力に関する講義をしようとしていました」
杏奈はそれを、怖いことだと感じる。
「資料に書いてあることや、話している内容が間違っていたとしても、それに気づかず、伝えてしまっていたかもしれない…」
「あなたが気づけなくても、私が気付ければ良い」
あるいは、あかつきのスタッフの誰かが。
「あなたはもう、個人で仕事をしているのではないの。あかつきはチームなのよ」
杏奈は頷いた。だが、チームを強くするためには、個々が強くならなければ。
「それにね、アーユルヴェーダが生まれた時代は、今のようなことは説明できなかったけれど…」
今、科学的に明らかにされていることは、分かっていなかった。
「妊娠に必要なことは、まんべんなく言及されている。私たちは、そのアーユルヴェーダの見方から、必要なことを伝えるだけでいいの」
科学とは別の方向から、心と身体を見直すには、シンプルにアーユルヴェーダの見方だけをするのも役に立つ。
「時々、科学的な裏付けを求める人もいる。けれど、織り交ぜて説明すると、逆に混乱させてしまう場合もある」
「はい」
「それでも、科学的な知識を持っておきたいというのなら、もちろん、勉強するに越したことはないわ」
杏奈は頷いたが、煮え切らない表情のままだった。医療の分野を、自分がどこまで学べるのかと思う。
「分からない点は柴崎先生に聞いてみるといい」
杏奈の片方の眉がぴくりと動いた。それだけは、気が進まない。しかし、本当にクライアントのために必要ならば、そうするのもやむを得ないのだろう。この分野に関しては、あかつきには顧問医がいる。杏奈が科学的知識を学ぶより、専門家に相談して説明を仰いだ方が、賢明かもしれなかった。
「あと、結衣さんなんですが」
杏奈は講義中の、彼女の様子を思い出した。
「やっぱり旦那さんのことが気にかかっている様子ですね」
「そうね」
「パートナーとの関係性を深めるって言っても、美津子さんの言う通り、何らかの色眼鏡ができてしまった後では、難しいかもしれないですね」
「色眼鏡を外させるしかない」
心と身体をクリアにする。あかつきにできるのは、それをサポートすること。その上でどうするかは、結衣が決めること。
「講義の内容、どうせなら、お二人の旦那さんにも聞いてほしかったです」
二人が夫を想うことも必要だが、一方的なアプローチが続くはずがない。夫が妻のことを想うこともまた、必要であった。
杏奈は心の中で悶々と、カップルが前向きに妊活に励むことができるようにするには、どうしたらよいのか考えていた。
結局、男と女として、お互いを好ましいと見られるようになることが、妊活の上で間接的に役立つように思える。
─そう考えると、若々しさとか、外面的な美しさを磨くことって、大事だよな…
杏奈の脳裏に、小須賀の言葉が蘇ってきた。
─ただ気持ちの良い、優雅な時を過ごさせてあげた方が、いいと思いますけどね。
─思いっきり贅沢な生活をさせてあげたらどうです?
「美津子さん、あのお二人に、なんとか、お洒落をさせてあげることはできませんかね」
そう言ったのは、ほんの思い付きからだった。
「おめかししてもらって、明日、梅林で写真を撮ってあげたいんです」
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