翌日、杏奈、薫、羽沼の三人は早朝からあかつきを出発した。
薫は山登りの経験はほぼなかったが、自然に触れ、体を動かしたいと希望していた。登山ガイドを一人で行うのは杏奈には荷が重かったため、羽沼に同行をお願いしたのだった。大樹の時と同様、あかつきとしては、持ち物リスト付きの登山計画書と保険に関する同意書を薫に提示し、説明を行い、署名を貰った。クライアントに登山をさせるにも、事前準備には割と手間がかかる。
栗原神社の登山口から明神山に登る。最初は緩やかな登りである。百メートルほど進むと右方に埋もれた石垣が見えてくる。これに沿って登る。
先頭を歩いているのは羽沼だった。杏奈と羽沼の間を、薫が歩く。
「道標があるね」
羽沼が後続の杏奈を振り返って教えた。
小尾根を乗り越してから右手を意識して歩いていると、主要登山道からそれる脇道がある。その分岐の目印となるものがあるとは知らなかった。道標があるのはありがたい。杏奈はリュックから登山計画書と赤ペンを取り出し、この道標のことを書き加えた。そうすると前方の二人との距離ができたが、薫の手前、待ってくれと泣き言を言えないので、速度を上げて二人に追いついた。
道標の先には踏み跡があり、それを頼りに進んでいくと、自然に尾根に乗った。
杏奈はすでに息が上がっていた。クライアントに対し、ゆくゆくは自分が登山ガイドができると良いな…と思っていたのだが、まず第一に問題なのは体力のなさだと自覚させられる。すでに時々膝に手をついてしまう始末だった。少し汚れた登山靴が目に入る。薫も足の置き場選びに苦戦しているようで、羽沼との間に距離ができがち。
「薫さん、ちょっとペース早いですか?」
杏奈は後ろから薫に声をかけた。
「大丈夫です」
答えとは裏腹に、薫の息は上がっていた。二人の会話が聞こえ、羽沼はやや速度を落とした。
登り始めは身体が慣れていないので、誰もがちょっとしんどく感じるところなのだ。おまけに、環境が変わるからか、杏奈の場合は鼻水が出やすくなる。最後尾にいる杏奈は、誰も見ていないことをいいことに、時々立ち止まっては鼻をかんだ。
尾根を進んでいくと足元に黒いケーブルが現れる。そのケーブルの右側に沿って登っていく。黒いケーブルに沿って進むと、徐々に岩が多くなり歩きにくい道となる。そこまで来たらケーブルから離れ、右の斜面をジグザグと登っていく。
「薫さん、疲れてないですか?」
再び、後ろから声をかける。
「大丈夫です」
薫は少ししんどそうだったが、山登りしていれば通常感じるしんどさだろう。
薫の背中を見て歩きながら、杏奈は彼女が抱えている未消化の感情を思い起こした。業務を全うしながら、その結果不幸なことが起こってしまい、自分のやっていることに疑いを感じてしまったと言っていた。しかし、そのようなことになるとは誰にも、分からなかったことだ。仮に分かっていたとて、患者を迎え入れたその時、彼女たちがやることは決まっていた。
─助けた人が、その後どういう末路を辿るかは、私たちは考えません。
薫はそう言った。その後のサポートは、社会の他の誰かが行うべきことだ。救命の役割は、その時運ばれてきた命を救うこと。もし助からなければ、その瞬間、その子の家族はとても悲しみ、苦しんだだろう。けれど、助かったにも関わらず、その母親は長い間看護を一人で背負い込むことになり、結果、子供とともに自分の命まで断った。
─薫さんたちは、何も悪いことをしていないのに…。
誰も、悪くなどなかった。だが、その出来事は薫に多くの疑問を投げかけ、混乱を巻き起こし、薫の中で未消化の経験となった。
薫の経験はどのように消化できるのだろうか。あかつきでは彼女に休息を取らせ、規則正しい生活を推奨し、栄養バランスの良い食事を取らせ、施術と自然の中でのアクティヴィディを通して、薫の心と体のバランスを取ることに全力を向ける。これらを通して薫の気持ちが落ち着き、疲れが癒され、凝り固まったものが流れたら、彼女はより穏やかに、自分に突き付けられた問題をより良く考え、自分なりに納得できるだろうか。
「休憩しよう」
羽沼がそう声をかけたので、杏奈の思考はそこで途切れた。
去年の台風の影響か、ところどころに倒木が見られた。途中、二か所にベンチがあり、二つ目のベンチで三人は一休みした。
「お水多めに摂ってくださいね」
「はい」
薫はベンチの端っこに腰を下ろした。
「久しぶりに体を動かしてるんで、なかなかついていかないですね」
ザックから水筒を取り出して、ごくごくと飲む。それからハンドタオルを取り出し、汗を拭いた後、それを肩にかけた。
「普段のお仕事も、立ち仕事じゃないですか?」
「ええ。でも、山を登る筋肉は使わないんでしょうね」
いつも使わない筋肉が悲鳴を上げるのは、杏奈も前回の登山で感じた。
「もう少しでまた尾根に出ますから。山頂に近づくにつれて緩やかになりますからね」
薫は汗を拭きつつ頷いた。杏奈は薫を励ましながら、普段と違う動きに、今回もまた自分自身の体が疲労を感じ始めていると思った。
一方、羽沼はベンチに腰を下ろさず、前方の道を行ったり来たりしている。
再び登りはじめてしばらくすると、杏奈が言っていた尾根に行き当たったが、尾根には露岩があるので、右から巻く。そこからさらにジグザグに進んでいく。
羽沼は山登りの時の歩き方や、楽に登る方法などを時々アドバイスした。杏奈は体力的な余裕はなかったものの、薫の気を紛らわすために、努めて雑談をするようにした。羽沼も時々、その雑談に参加した。
「これね、トラバース道」
羽沼はポイントとなる部分で、時々杏奈に地図の見方を教えてくれる。
「ピークは丸で示されてる。ここに表されてるのが、これね」
羽沼は前方の小高いピークを指した。
「でもここに、こんなにはっきりしたトラバース道があるってことは、この小ピークを登らずに、また尾根に出られるってことだと思う」
「そうなんですか…」
杏奈は計画書と実際の登山道を突き合わせる気力がやや失せている。
「ガイドさんは、よくこの山に登られるんですか」
薫が羽沼に問いかけた。
「たまにです」
「へえ。山登りするの、お好きなんですね」
「好きなんだと思うんですけど、そんなにテンション上がるわけじゃないですね。いざ登ってみると、なんでこんなところに来ちゃったんだろう。早く帰って温泉入りたいとか、下山することしか考えてないですよ」
それを聞いて、薫も杏奈も笑った。
「登りはまだましですけどね。下山の時なんてほぼ放心してます。歩くっていう作業ですよ。でも下山してみると、また登りたくなってるから不思議なんですよね」
先ほどの黒いケーブルと再び出会い、分岐から緩やかな登りとなった。このあたりは大変良い道で、呼吸を整えながら歩くことができる。
「はあ、やっと、ちょっと楽になりましたね」
杏奈はいつもより声が大きく出るようになっていた。ここまで一緒に行動する中で、薫にもいくばくか話しかけやすくなっていた。
山頂に着いたところで、
「ここが山頂ですか?」
と薫が聞いた。
「そうです」
羽沼は頷いた。
展望のない山頂…明神山は、登り切っても「わぁ…!」と感動するような景色が見られないのが残念である。
「ほお~」
薫は反応に困った顔で、周囲を見渡した。山頂まで背の高い木々が鬱蒼と生えていて、隙間から里の様子を見ることはできそうにない。
「下ったところの休憩所で休みましょうか」
杏奈の提案に、他の二人は頷いた。休憩所のベンチに座ると、羽沼は靴紐を緩めて、クロックスに履き替えた。
「羽沼さん、火器とお鍋貸していただけますか?」
「いいよ」
羽沼はザックから、ガスボンベ、火器、山用の小さな鍋(コッヘル)を取り出した。羽沼は自分の山道具を持ってきてくれていた。
「何作るの?」
「スパイス入りのジンジャーティーです」
「へえ。やっぱり変わったもの作るんだね」
杏奈はちょっと笑った。プライベートの登山であれば、山で好きなものを食べたり飲んだりしてもらいたい。が、薫の体調管理は今、あかつきが預かっている。
「羽沼さんは、山でお料理されることもありますか?」
「足込の山ではしたことないな。コーヒーを挽いて飲む程度」
「へえ…ところで、これどうやって組み立てるんですか?」
今度は羽沼が笑う番だった。ボンベのキャップを取り、火器を組み立て、取りつけるところまでやってもらう。
「わざわざ、ご自身でコーヒー挽かれるんですか」
薫が羽沼に尋ねた。薫は少し前かがみになって、ふくらはぎを揉んでいる。
「ええ。山で飲むなら、挽こうって思えるんですよね。下界にいる時は、面倒くさくてあまりやる気になれないんですけど」
山で食べるもの、飲むものは、下界で飲み食いするよりもいっそうおいしく感じる。
「僕は普段、御殿山という山によく登るんです」
「へえ」
「そこは、ここよりも展望があって。山頂近くに小さなお堂があるので、だいたいそこでコーヒー飲んでますよ」
「そうですか」
一行が雑談している間に、山頂のほうから二人組の登山者が現れ、「おはようございます」と声をかけながら、足込方面へ下りていった。
「今日は人が多いですね」
しゃがんで鍋を火にかけながら、杏奈が誰にともなく言った。
「花祭近くになると、花神岩を見に登山者が増えるらしいよ」
「花神岩?」
杏奈は羽沼を見て、首を傾げた。鍋からはスパイシーな香りが漂ってくる。花神岩は花神さまがその洞穴に身を隠して休息したということから、その魂が宿ると言われているらしい。
「そんなのありました?」
「ルートが違うんだよ」
そこに向かうには、花神参道と呼ばれる道を通らなければならない。その道を進むと、露出した岩が連なる場所に出る。その岩場に洞窟があり、花神さまが祀られてるらしい。
「なんなら、帰りにちょっと寄ってみる?」
「いいんですか?」
「うん。二、三十分くらい遠回りになると思うけど」
杏奈は薫を振り返った。薫は足を投げ出してただ風に吹かれていたが、杏奈に意志を問われているのに気が付いて、こくんと頷いた。
スパイスティーは、これも羽沼が持って来た、山用のステンレスコップに注がれた。
「これは、何が入っているんですか?」
コップを受け取りながら、薫が訊いた。
「ベースはルイボス茶葉で、生姜、シナモン、クローブ、ナツメグが入っています。そのままだと飲みにくいので、ジャガリーというお砂糖を入れました」
呪文のような杏奈の説明に、薫は「あ、そうですか」とだけ答えた。
羽沼はちょっとだけすすり、
「すっごくスパイシーだね」
とつぶやいた。
「ほんと。でもおいしいわ」
薫は、普段はコーヒーをよく飲んでいるようだ。神経を使う仕事で、夜勤もあるとなれば、コーヒーは欠かせないのだろう。しかし、カフェイン入りの飲み物はヴァータをはじめ、全てのドーシャを乱しやすいので、あかつきにいる間は控えてもらっている。
杏奈は鍋に残った半端な残りを、自分用としてコップに注いだ。行動食のおやつもない、ささやかな休憩タイムのお供だったが、こう味わい深く感じるのは、ここでは他にやることがないからかもしれない。
ゆっくりとお茶を味わう薫の姿を、杏奈は横目で捉える。
─ヨギ、か。
いつか美津子は、マットの外でヨガをしている人を探せと言った。
自分のことを顧みず、日々患者の救命に当たっている薫などは、分かりやすいヨギではないかと、杏奈は思う。
医者の不養生を見過ごせない。この社会の中で、彼女は必要な存在だ。
「さて、行きますか」
全員がお茶を飲み終わった後で、羽沼が声を掛けた。寄り道を決めたこともあり、三人は休憩もほどほどに、下山を始めた。
山頂から350m付近まで下る間、杏奈は仕事ということも忘れて、ほぼ放心状態であった。「下りは作業」と言っていた羽沼の気持ちがよく分かる。けれども時々木の根につまづきそうになったり、大きな段差を降りるのに時間がかかるので、薫の歩みがゆっくりで本当に助かると思った。
「目印のご神木と赤い杭があるね」
と羽沼に言われてやっと我に帰った。そこは花神参道への分岐であった。羽沼が先導役になってくれたことで、本当に助かったと思うと同時に、杏奈は、やはり自分にはガイドは無理だと思った。
せっかく下ったが、また登る。十分ほど登ったところで、岩が露出する小さなピークを巻くトラヴァース道へ出る。
「あ…」
岩が大きく裂けている箇所で羽沼が足を止めたので、杏奈はそれが花神岩なのだと分かった。羽沼が洞窟と言っていたのはその岩の裂け目のことだろう。大人が一人入れるくらいの小さな、やや奥行きのある空間。
その洞窟の奥に、小さな祠が建てられている。羽沼によると、里人の信仰により建てられたということだ。祠の前には、けむるような小さな花が供えられている。山に自生する花を、そのまま手折ったもののようだった。
杏奈は常日ごろ、花神殿で花神さまに手を合わせる時の気持ちになって、祠の前で手を合わせた。
「昔はお百度参りっていって、身近な人が病気になると、あの祠まで百回行き来して、病気が快復するのを願ったんだって」
元来た道を戻りつつ、羽沼が後ろの二人に伝えた。
「へえ。昔は、お医者さんもお薬もなくて、神頼みするしかなかったゆうことですかね」
「だと思いますよ」
そう高い山というわけではない。しかし、単に神社を往復するよりも、時間も労力もかかっただろうに。
「栗原神社にも、花神さまの祠がありますが、みんなわざわざ花神岩まで来たんでしょうか」
杏奈はふと疑問に思った。花神殿も、古い歴史をもつと聞いたことがあるが。
「どうだろうね…僕もそこまでは分からない。でも、遠くて険しい道を経てお祈りをしたほうが、ご利益があると思ったのかもね」
「はは。そうかもしれませんねぇ」
羽沼と薫は笑った。杏奈は最後尾を歩きながら、なるほどと思った。
要は意識の問題なのだ。願いを叶えるために、一歩一歩、山を登る。その間、いろいろなことを思っただろう。あの子の病は治るのだろうか。来年は豊作になるだろうか。去年はあんなことがあったが、来年はこんなことをしてみたい…
結局、願いを叶えてくれるのは、神様ではなくて、願いを叶えるのために必要な行動を日々積み重ねていく自分自身。昔の人は、山を一歩一歩登りながら、日々の行為の大切さを思っただろう。願いを叶えるためでなく、願いを叶えたいという思いを強めるその行為自体に意味があったのだ。
「山に登るって、こんな感じでしたっけ」
ふいに、薫が言った。薫は、遊歩道があり、ところどころきちんとした標識が立っている、整備された登山道をイメージしていたらしい。
「ここのあたりは里山で、人の手が入ってますが、登山客用に整備された有名どころの山とは違うかもしれませんね」
杏奈は言った。
「道は分かりにくいし、獣道に迷いやすい。場所によっては、藪をかき分けて行かないといけないような道もあります」
「へえ」
それを身をもって思い知ったのが、前回の、明神山への初登山─しかも単独行─であったのだが。
ところで、薫は足の爪先に、少し痛みを感じていた。こんな小さな山を登って下りるだけでも、息は切れるし、呼吸は早くなるし、足は痛くなる。疲労感で体は重くなっていくように感じる。けれどそれと反比例するように、心は軽くなっていくようにも思える。登山とは、ただ体力を使うばかりで徒労のようにも思えるが、心身への何らかの影響があるのかもしれない。
しばらく下り、ようやく三人が栗原登山口へ出る頃、神社の方からわずかに人の声が聞えてきた。
大きく息を吐いていた薫に、羽沼は声をかける。
「山靴の紐、緩めても良いですよ」
手本を見せるように、自分の靴紐を緩めて結び、薫にもやり方を教えた。薫は少し疲れた様子である。
「帰ったら、オーナーが薬湯を入れてくれてるはずですから。お風呂で少し休んだら、フットマッサージです」
杏奈は励ますように言った。
「当日はなんともなくても、翌日に筋肉痛になることがあります」
「いやもう、ちょっと痛いくらいですよ」
薫はそう言って笑った。
「でも今日は、しっかり眠れそうです」
屋敷の外から人の話声がするのが聞えて、小須賀は咥えていたタバコを、外に置きっぱなしにしている灰皿に押し付けた。
─思ったより早いじゃん。
クライアントは登山に行くと聞いていた。
小須賀はもう一度スマホを見た。新しくお店に入った女の子に、さっきラインを送ったが、まだ返事は来ていない。それだけ確認すると、お勝手口から静かにキッチンの中へ戻る。
調理台の上には、蓋が空けられたままのお弁当がニ十食。花祭シーズンは町外の人も足込町を訪れ、足込温泉も賑わうので、納品数を増やされたのだ。
お弁当は程よく冷めている。小須賀は片っ端から蓋を閉じ、封をし、メニュー表をつけた。作業している間、小須賀は鼻歌を歌っている。ここに誰かいれば、適当に話しかけるのだが、今日はずっと相手がいなくて暇をしている。
応接間の方からは、美津子、杏奈、それから、聞いたことのあるような男の声がする。が、小須賀は別に気にせず作業を続けた。配達のため、サロンを取り、弁当を一気に運ぶ。
玄関でフードテナーを下ろした時、誰かが後ろに立った。
「手伝いましょうか?」
人の好さそうな男の声だ。小須賀は後ろを振り返った。
「お、羽沼さんじゃないですか」
そういえば、登山ガイドをこの人に頼むとかなんとか美津子が言っていた気がする。
「僕も帰るところなんです」
「そうですか。お疲れさまでした」
小須賀は靴を履くと、両手で荷を持ち、扉の開閉を羽沼に任せた。
「登山、楽しかったっすか」
「ええ、まあ」
羽沼はそう答えたが、小須賀は聞くのが野暮だったと思う。何せよ、見ず知らずの女性のクライアントに、最近喋るようになったとはいえ、もともとが茶目っ気の薄い杏奈と一緒だったのだ。わいわいと登山していたはずがない。
「小須賀くん、足込温泉に行くんでしょ?」
いつの間にか、自分はくん付けされている。
「ええ、まあ」
今度は小須賀が、そう答えた。
「僕もこれから行くところだよ」
「風呂、あかつきで入って行ってもいいんじゃないですか?」
「うん。そう言ってはくれたんだけどね…」
「まあ、足込温泉のがいいっすよね。別に可愛い子と混浴するわけじゃないし」
羽沼は苦笑いを浮かべ、小首を傾げながらも、小須賀のために門扉を開けてやった。
「そうだ、あかつきのWebコンサルやってくださるんですってね」
「ああ」
どちらかというと、ホームページよりも、インスタに手を入れることになりそうなのだが。
「ゆくゆくは動画も撮れるといいね」
「心強いっす。あかつきには専門家いませんから」
「うん。そのうち、小須賀くんも毎日出勤してもらわなきゃいけないくらい、忙しくするから」
羽沼はそう言ってにやりと笑った。
「いや、それは無理っす」
小須賀は苦笑しながら、羽沼の横顔をちらっと見上げた。この間見た時は、普通にしていてもどこか翳りがあるように見えたが、今日は表情が明るく見える。
いつぞやも、こんなことがあった。
─山に登るのがそんなに楽しいのかね…
小須賀はあかつきの東方に見える、鬱蒼とした森を見やった。
薫はお風呂の後にランチを食べ、その後フットマッサージを受けた。
最後のカウンセリングで、美津子は測定器の結果と、今後の生活のガイドラインを伝えた。
「薫さん、これ…」
その席で、杏奈は数枚の紙の資料を薫に渡す。
「コンビニでも買える、栄養バランスの良い食品の組み合わせです」
薫は、資料をぱっと見て「うおぉ…」と小さく声を挙げた。そこには、薫の勤める病院に入っているコンビニの商品がいくつもピックアップされていた。そして、時間帯別におすすめな食品の組み合わせが示されている。
「この子は管理栄養士ではないので、参考程度にですが」
横から美津子が補足をした。
「いやはや、すごいですねぇ」
薫が病院に居続けたいと思っているかどうかも分からないのに、こういう資料を渡すのはプレッシャーかもしれないと心配していたのだが、杏奈は薫の反応を見て、作って良かったと少し安心した。薫は思ったよりも、明るい表情をしてそれを見ていた。
「術後にアイス食べることも多かったんですけど、やっぱりアイスは載ってないですねぇ」
薫は後ろまでページをめくったあとで、残念そうに言った。
「たまに…食べたくなりますよね」
たまにならいいですよ、と言いたいところだったが、杏奈はそう答えるに留めておいた。
「私ね、コンサルテーションでいろいろ聞かれて、不調の原因、自分が作りだしとったんやって気づきました」
薫は自嘲気味に言った。
「毎日急いでごはん食べて、それもコンビニのサンドイッチやらカップラーメンばかりで。睡眠時間もろくにとれなくて。最近疲れやすいけどなんでや~とか、言ってる場合じゃなかったですね」
「忙しいお仕事ですものね」
美津子が相槌を打った。
「あかつきさんみたいに、おいしい賄いさん出してくれる人がいたらいいんですけどね」
「誰か、作ってくださる方がいたらいいですね」
「私、一人暮らしですし、料理上手な恋人とかもいないんでね」
そんなプライベートな情報も、薫はさらっと話した。
「恋人、ほしいですか?」
思わずそう訊いたあとで、杏奈は少し慌てた。嫌な風に聞こえていなかったら良いのだが。
「ほしいですよ」
薫は杏奈の心配をよそに、さっぱりと言った。
「まあ、年齢的にいいパートナーが見つかったらと思うだけですけどね」
そう言った後で、ふふふと小さく笑った。
「あかつきに滞在して、取り入れてみたいと思われた習慣はありましたか?」
カウンセリングの終わりに、美津子は尋ねた。薫は少し考えた後、お茶をゆっくり飲む時間を取りたいと言った。
今回の滞在で一番印象深かったのは、意外にも、あかつきの中で行っていたセルフケアや、プラクティスではなかった。明神山の山頂近くで飲んだジンジャーティーだったという。
「あんなに落ち着いてお茶を飲んだの、何年ぶりだったやろか」
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