第39話「ラサーヤナ」アーユルヴェーダ小説HEALERS

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 咲子は午後二時近くになって、あかつきを訪れた。今日から四泊五日、あかつきに滞在する。
 施設案内の後、さっそくカウンセリングが始まった。杏奈は咲子の身体的特徴を改めて捉えた。オンラインでの事前コンサルの時には分からなかった部分である。まず、非常に細い。咲子は、ダッフルコートの下に、セーターとフレアスカート、黒いタイツを身に着けていた。黒いタイツに覆われている足は、羨ましいと思うほど細かった。顔はやや丸顔なため、オンラインでは痩せているという印象はそこまで強く残らなかったのに。身長は、沙羅と同じくらい。
 五年ほど不妊治療をしているが、一旦休止している。あかつきに滞在するにあたり、身も心もリフレッシュすることを望んでいる。
 カウンセリングの最初の十分ほどは雑談をして、それから、事前コンサル後の推奨事項について、進捗を確認した。
「ギーを使うようにしました」
 それは、咲子の内側の乾燥性を慮って、美津子が勧めたことであった。
「ギーって、ちょっと独特のにおいがするんですね」
「ええ。市販のものですか?」
「はい」
「じゃあ、滞在中にギーの作り方を覚えると良いですよ」
 その他にも、咲子は美津子のした提案事項をほとんど実行していた。子を授かりたいという気持ちが強く、できることはなんでもするという意気込みなのだろう。
 ここまで真面目に、忠実にアドバイスに従われると、コンサルティショナーとしては実のところ、逃げ場がなくなるので、よりプレッシャーを感じさせられる。
「耳鳴りやめまいはどうですか?」
 血圧計で血圧を測定しながら、美津子は質問を重ねる。
「最近はありません」
 測定の結果、やはり血圧は低めだった。
「咲子さんにはラサーヤナを遂げていただきたく、トリートメントをするとともに、ここではアーユルヴェーダの日課に沿って生活していただければと思います」
 口を開いたのは、美津子ではなかった。咲子は杏奈の方に顔を向けた。このスタッフは今までパソコンに向かい合い記録を残すのに専念していて、ほとんど口を開かなかったので、書記係に徹しているのかと思っていた。
「ラサーヤナ…?」
「若返りのことです」
 ラサーヤナは、若返りと、若返りのための物質の両方を意味する。
 咲子は背筋を伸ばした。
「ラサーヤナは、アーユルヴェーダの分野の一つです。若返り、老化、長寿を専門とします」
「若返りと、老化…」
「そうです。若返りのセラピーです」
 老化が進んでいるのなら、活力と免疫力を回復させ、若返らせる。それが、ラサーヤナセラピーである。 
 咲子は控えめに微笑を浮かべた。美津子と杏奈は、咲子が期待を膨らませ、しかし期待し過ぎないように自分を抑制しているのを、その様子から察した。
 老化は自然なプロセスである。だが、生まれつきの体質や生活習慣、環境などによって、それぞれ異なるスピードで年をとっていく。ある女性の三十六歳は、別の女性の三十一歳だ。咲子は現在、三十八歳。
「年齢を重ねれば当然老化が進みますが、生活習慣も非常に重要です」
 組織が消耗し、その後に十分な若返りが行われない場合、身体は老化のリスクにさらされる。栄養が偏っていたり、代謝の問題で消化・吸収が悪かったりすると、組織は消耗してしまう。これは、体が必要とするものを摂取できていないためでもあり、実際に摂取されたものが体内で毒素を形成し始め、必要な場所に栄養素が行き渡らないためでもある。
「四つのタイプのラサーヤナがあります」
 杏奈はそう言ってから、ちらと美津子を見た。美津子はゴーサインを出すように、軽く頷く。
 杏奈は分厚い紙の束を挟んだファイルを手に取り、中間より後ろのページを開いて、そのまま咲子に渡した。そこには、今から説明する内容が明文化されている。
一.アハーラ・ラサーヤナ(Ahara rasayana):食習慣と消化力
二.ヴィハーラ・ラサーヤナ(Vihara rasayana):生活習慣・ライフスタイル
三.アチャリヤ・ラサーヤナ(Acharya rasayana):行動
四.アウシャダ・ラサーヤナ(Aushadha rasayana):ハーブ
「まずはアハーラ・ラサーヤナ。あかつきにいる間は、こちらが提供するものを食べていただきます。咲子さんの消化力を強化するという意図をもって、食事を準備します」
 消化力は、解毒、健康な免疫をサポートする能力に関連している。そのため、消化器系の状態を知り、消化機能を回復させるための取り組みを行う。
「咲子さんの消化力の状態を度々尋ねていきます。正直に答えてください」
「はい」
 咲子は、どこか不安そうな表情だった。おそらく、消化力の状態と言われても、どういう観点から話せばよいのか、分からないのだろう。
「もし、消化力が弱い場合は、回復させるために、特別な食事を摂るか、食事を抜いていただくこともあるかもしれません」
「分かりました」
「今日のお昼ごはんは、何を、どのくらいの量召し上がりましたか?腹何分目かで表現してください」
「自宅でうどんを食べてきました。消化に優しいだろうと思って。野菜やお肉の入ったうどんです。腹八分目か、九分目くらいまで食べていると思います」
 杏奈は頷いた。
「次がヴィハーラ・ラーサヤナです」
 生活習慣や、プラクティスを通じて、身体的・感情的な浄化に取り組む。体から環境汚染物質やアーマ(体内毒素)を除き、古いネガティブな感情を流す。そのためのツールとして、穏やかなヨガ、呼吸法、瞑想を活用できる。
「自然の中での散歩、空気が綺麗な所で過ごすことも効果的です」
 そのために、足込町はとても適した場所といえる。
「少し車を走らせた所に、綺麗な梅林があります。滞在中、一緒に行きましょう」
 杏奈が説明を始めてから初めて、美津子が口をはさんだ。まだ満開とはいかないだろうが、蕾はぽつぽつと膨らみ始めている。
「分かりました。楽しみです」
「アーユルヴェーダのセルフケアについては、私たちスタッフが直接指導しに行きます」
「はい」
「気に入ったものがあれば、実生活にも取り入れてください」
「分かりました」
「さらに、アーユルヴェーダオイルの塗布やマッサージで、神経系を落ち着かせ、正常な生理機能をサポートします」
 これは、実生活の中で自分で実践することもできるが、多くの人は続かないし、サロンでするほど大掛かりなことはできない。そのため、あかつきにいる間だけの特別なセラピーとなる。
「三つ目のアチャリヤ・ラサーヤナは、行動の若返りと言われます。誠実さ、愛、思いやり、穏やかさ、前向きな態度、献身性を養うような行動をすることです」
 これができる者は、他のセラピーは要らないと言われている。
 咲子は目を瞬いた。受け身の施術とは異なり、とても主体性が求められる実践のように聞こえた。
「これは、その資料に内容がのっていますので、咲子さんご自身が今後実践していただくことになります」
 咲子は資料をパラパラとめくった。文字が多くて、めまいがしそうだ。
「それは、女性の健康に関するアーユルヴェーダ的な知識をまとめた資料です」
 美津子が渡した資料について補足をした。ここ一か月と少しの間、杏奈が美津子からの口頭伝承とともに、様々な文献やネットから情報を収集し、脳を麻痺させながらまとめたものだ。
「そちらの資料は、差し上げます。内容の一部は、滞在中にご説明できると思います」
 咲子は杏奈を見た。杏奈は始終丁寧な態度だったが、どこかぎくしゃくとしている。この時もまた、ぎこちなく会釈しながら、その表情は硬いままだった。
「内容について分からないことがあればいつでもお声がけください」
 杏奈は淡々と、咲子に言った。
「分かりました」
 咲子は、膨大な量の情報提供に面喰っている様子だった。
「アウシャダ・ラサーヤナという若返り法は、アーユルヴェーダのハーブを摂取することです」
 どのハーブを用いるかは、抱えている不調や、目的により異なる。
「消化力が回復した兆候が見て取れたら、滞在中から、ハーブの摂取をしていただきます」
「はい」
「もし、思ったように浄化が進まなければ、摂取を遅らせるかもしれません」
「あの、あかつきで特別な施術を受ける期間以上に、ちゃんとしたラサーヤナを、日常生活をしながら実践することは難しいと思うのですが…」
 咲子はあかつきを出た後、自分で浄化を進める自信がないようであった。
 しかし、それでは、あかつきに自分の健康を依存することになる。それは美津子や杏奈の望むところではなかった。咲子が主体的に、自分の健康状態を自分で把握し、バランスを取れるようにならなければ意味がない。
 美津子は、杏奈を見た。言いよどんでいるようだが…
 杏奈は表情が豊かではない。しかし、杏奈がより冷静に、口数が少なくなった時、水面下では激しく思考が動いていることを、美津子はもう分かっている。
「日常生活でも取り入れられるように、滞在中、できる限りサポートさせていただきます」
 杏奈はテーブルの下で手を揉んだ。
「咲子さんが自宅やいつもの職場で日常生活を送っている以上、ラサーヤナは決められた時間、決められた場所で行う特別なプラクティスではありません」
 健康に関する質問票を通して知り得た、咲子の日常を想像しながら、杏奈は話した。
「食べることも、寝たり運動したりといった生活も、途切れることなく日常的に行われていることです。この場合、ラサーヤナは、日々の習慣をより健康的なものにしようという、咲子さんの意識と行動に他なりません」
「…」
 咲子は言葉に窮した。
 美津子はそんな咲子を見て、緊張をほぐそうとするかのように、柔らかく微笑んだ。
「あまり難しく考えなくて良いのです」
「は…はい」
「あかつきにいる間の習慣を、心地良く思ってくださったのであれば、一つでも良い。真似してみてください」
「はい」
 美津子は杏奈を見て、軽く頷いた。
「咲子さん、私たちは、あなたが長年不妊治療に取り組み、今も子供を持ちたいという意志があると認識しています。そうですよね?」
「はい」
 美津子は微笑を湛えて、こくこくと頷いた。
「だからこそ、その資料をお渡ししますし、妊孕性に関するアーユルヴェーダの見解を説明する時間も持とうと考えています」
「ありがとうございます」
「でもその内容は、咲子さんの望みを叶えるために、直接的に役に立つ実用的知識ではないかもしれません。けれど、実用的な部分を理論面から支えてくれるものにはなるはずです」
 行動の重要性を裏付けるもの、モチベーションを強化するためのものといってもいい。
「とはいえ、私たちがあかつきで、咲子さんに提供する一連のサービスの目的は、別のところにあります」
 咲子は、首を傾げた。
「咲子さんが、最も健康で、最も幸せで、最も美しい自分になることに集中していただくことです。その結果、自然が咲子さんに何をもたらすか見てほしいんです」
 少し、沈黙があった。
 その間美津子は、言葉の裏に込めた意図を、祈るように念じた。杏奈はパソコンの画面からさりげなく視線を離し、美津子と咲子の表情を順番に見る。
 咲子はわずかに項垂れていたが、その表情には、翳りは見えなかった。
「分かりました」
 やがて顔を上げると、何か決意のようなものが、咲子の目に宿っていた。
「よろしくお願いします」
 咲子は改めて、にこやかに挨拶をした。笑うと口が大きく左右に広がり、歯並びの良い白い歯が見えるのが、とても好印象だった。

 咲子は夕食の時間帯になっても、あまりお腹が空いていないようだった。そこで、明日以降は軽い散歩などをして体を動かしてもらうことにした。
「問題は明日からね…」
 美津子と杏奈は咲子が夕食を終えた後、二人で食卓を囲んだ。
 明日から、あかつきにはもう一人…いや、二人のクライアントが滞在することになっている。数日前、急に入った予約だった。そのクライアントからは、未だに健康に関する質問票は提出されていなかった。当日持参するとのこと。
 つまり、前情報がほとんどないまま受け入れをすることになる。常連客ならまだしも、新規顧客で、前情報なく迎え入れるのは珍しいことだった。
 さらに気がかりなのは、このクライアントが、二歳四か月になる息子を連れてやってくること。施術の間、誰かが子守をしていなければならない。セラピストが出払ってしまう以上、子守は杏奈がするしかなかった。
─不妊にお悩みの咲子さんが滞在している間に、子連れの母親がやって来る…
 これは咲子にとって、つらい状況かもしれない。美津子はこのクライアントに受け入れ可否を連絡する前に、さりげなく咲子に打診した。メールの上、電話でも連絡を取り、嫌なら遠慮なく断ってくれて良いとお話したが、
─大丈夫ですよ。私、子供が好きなので。
 と快諾してくれた。
「明日は、ゆっくり打合せている時間が取れないと思うけど、午後からの咲子さんへのご説明、頑張ってね」
 杏奈は、あからさまにため息をついた。
「…不安です」
「何を言っているの。今日の咲子さんへの説明は、よく出来ていたわよ」
「そうですか?」
「ええ…まあ、もちろん改善の余地はなくはないけど」
「えっ」
 杏奈は、身をすくめた。
「あのう、どこがいけなかったですか?」
 美津子は杏奈の急き込んだ様子を見て、笑いそうになった。
「表情も口調も硬すぎよ」
 もっと、気楽な感じで話さなければ、咲子にもその雰囲気がうつってしまう。
「緊張してたの?」
「そりゃそうですよ」
 分かっているはずなのに、美津子はうそぶくような薄ら笑いを浮かべていた。
「ラサーヤナだって、つい最近まとめた知識なのに、それをクライアントに説明するなんて」
「だから、カンペを作っておいてよかったじゃない」
 美津子は咲子に渡したのと同じ資料をはさんだファイルを、パラパラとめくる。
「よくできてるわ。あなたは知識を自分の言葉にするのが得意なのね」
 急に労われ、さらに褒められまでして、杏奈はまた言葉に窮した。
 美津子はおべんちゃらを言ったのではない。杏奈はほんの一か月弱の間に膨大な量の情報をまとめ上げた。素直に賞賛すべきこの子の能力だと思う。
─自分でよく考えたことは、よどみなく話す。この子は…
 表情は乏しいし、伝える能力が高いとはいえないが、話している内容自体は悪くない。
「この作業をしておいてよかったでしょう」
 美津子は、ちょっと悪戯っぽい笑みを浮かべる。杏奈は反対に、むすっとした。
「大変でしたよ」
「まあね。でも、この作業があったからこそ、あなたは、一番記憶が濃い状態で、クライアントへの説明をすることができた」
─だから、私に知識の編集を任せたのか。
 そして、咲子への行動方針を、杏奈の口から説明するよう求めた。
 常日頃、美津子は温厚で優しいオーナーだが、時々無理難題を課す。しかし、スタッフが難題を乗り越えられなかった責任は自分自身が負うというスタンスだ。今日とて、杏奈が言葉に詰まれば、美津子はいつでも助太刀できるよう控えていた。
─美津子さんがいるから、安心して話すことができた。
 そして、部分的にではあるが、コンサルティショナーとしての経験を積むことができた。
 美津子の敷いたレールの上を走っていれば、必ず、行きたい方向へ進むことができる。
「あとはもう少しフランクに喋れるといいんだけど」
「う…」
「文章も話も、もう少しかみ砕いた表現にできればベストね」
 ここに来て美津子はダメ出しをし始めた。杏奈は身を小さくして大人しく頷いた。
「あなたの文章も話も、クレバーなのは伝わってくるんだけど、多くの人はもう少し柔らかい表現…小学生が聞いても分かるような言葉の方がすんなりと理解できるわ」
「わ、分かってます」
「ふふ…まあ、あなたのその特徴が好きな人も、確実にいるとは思うけど」
「話し方も勉強はしているんですが…つ、次はもう少し元気に喋れるように、頑張ってみます」
 杏奈がそう言うと、美津子はおかしそうに声を立てて笑った。
「私がいるとやりにくいでしょう?なんだったら、今度は席を外すわ」
 普段の自分を知る人が隣にいると、違う人間を演じにくい。正直、美津子が言っていることは的を得ていたが、杏奈は慌ててかぶりを振った。
「近くにいてくれないと困ります」
「ふふ…まあ、しばらくはね…」
 美津子はようやく笑いを収めた。杏奈は再びご飯を口に運びながら、カウンセリング時の咲子の様子を思い出す。
「実際に会って話してみないと分からないことって、多いんですね」
 杏奈はこれまで、ケーススタディとして、過去のクライアントの健康に関する質問票や、提案事項、進捗管理表を見せてもらっていた。時には健康に関する質問票だけを見て、杏奈なりの解釈とアドバイスを考え、その見解について美津子からフィードバックをもらうこともあった。しかし、ケーススタディでは、実際にその質問票を書いて送ってきたクライアントを目の当たりにすることはできない。あくまで質問票からクライアントをイメージして、推奨事項を考える。
 だが、今日咲子を目の前に今後の方針を説明したことによって、改めて、本人を目の前にしなければキャッチできない情報も多いと感じた。
「たとえばどんなこと?」
「こちらの考えをどこまで賛同し、納得しているか、ということですかね」
「なるほどね」
 もし、クライアントに納得感がないようであれば、納得するまで説明をつけ足したり、別の切り口から理解を促さなければならない。クライアントの反応を見ることは重要であった。
 他にも、その人の顔の動きや、しぐさ、雰囲気から、いろいろなことが読み取れる。
─やる気がないな。
─頷いてるけど、やらないだろうな。
─従順に、素直に実行してくれそうだな。
─ずいぶん高飛車だな。
─自分からいろいろと喋ってくれるんだな。
─話したかったんだな。
─話しても無駄だと思っているんだな。
 ケーススタディをすれば、どのような状態の者にどのような対処をしたかを学ぶことはできる。事例がもっと増えれば、統計的に、こういう場合にはこれ、とパターン化することすらできそうに思えた。もっともそれは、アーユルヴェーダ的なやり方ではないが。
 けれども、実際のクライアントと接することで、机上では分からないことを学べた。
─臨機応変さや柔軟性が求められる。
 クライアントの気質や性質を瞬時に察知し、場合によっては予定していたこととは違うアプローチをする。適切な判断をするためには、クライアントをよく観察する必要がある。人と関わるのを避けてきた杏奈にとって、苦手な分野であることは間違いなかった。
「明日は新規のクライアントから質問票を受け取ったら、その場で滞在目的を把握して、対応策を決めなければならない」
「はい」
「あなたも、気になることがあったら発言して」
「はい」
 カウンセリングの場で発言を許されたことを、杏奈は嬉しく思った。

 午前中の咲子の施術は沙羅が担当する。
 美津子と杏奈は、応接間で新しいクライアントを迎え入れる準備をした。車の音がして、クライアントが来たかと身構えたが、玄関から入ってきたのは臨時で仕事をお願いした小須賀だった。
「久しぶりの同時受け入れっすね」
 小須賀は快活にそう言って、すたすたとキッチンへ移動した。
 クライアントは間もなく到着した。二階ではすでに施術が始まっているので、施設の案内と荷物の搬入は後にして、さっそく応接間に入ってもらう。
 二歳五か月になるという男の子は、見知らぬ空間に入っても怖気づくことこそなかったが、あちこち動き回ってしょうがない。これでは落ち着いてカウンセリングすることなど不可能だ。
「小須賀さん」
「なに?」
 杏奈が急にお勝手口の扉を開けたので、小須賀はびっくりして振り向いた。
─なんでガキの世話なんか…!
 急遽小須賀が駆り出され、カウンセリングの間、男の子の相手をすることになった。
「遠いところ、お越しいただいてありがとうございます」
 美津子はアイスブレイクをしつつ、クライアントから質問票を預かり、杏奈に渡す。杏奈はすみやかに書斎に入り、コピーを取る。
「あかつきさんのことは、ずっと気になっていて、行こう、行こうと思っていたんですけど、育児もあってなかなか腰が上がらず」
「そうでしたか」
 美津子は杏奈から問診票を受け取ったが、すぐには目を通さず、雑談を続ける。
 杏奈はその間、お茶を淹れに行った。いくつかのハーブがブレンドされたピンク茶。杏奈は、クライアントにお茶を出しつつ、ハーブの説明をした。美津子はその間に、質問票の一番後ろ、滞在目的と、ドーシャ診断結果を見る。
「蕁麻疹と、薄毛を治したいとご希望なのですね」
「はい」
 杏奈は着席し、質問票に目を通した。
 小林結衣、三十四歳。身長百五十六センチ、体重五十一キロ。名古屋市守山区の一軒家に、三十六歳の夫と、長男の理久と一緒に暮らしている。仕事は自宅にてネイルサロンを個人経営。
「蕁麻疹はどこに出ていますか?」
「ひじや、膝の裏側、背中などです」
「痒みは強いですか?」
「はい。今、保湿剤とステロイドを塗っています」
「そうですか。蕁麻疹がある場合、ハーブオイルの使用が適さない場合もあるので、その場合、作用の緩やかなオイルでマッサージすることになりますが、よろしいでしょうか」
「そうなんですね…」
 結衣は、ちょっとがっかりした様子だったが、首を縦に振った。
「症状が出たのはいつ頃からでしょう?」
「産後半年くらい経ってから、ブラのフックがあたるあたりに湿疹のようなものができ、それから徐々に他のところも」
「産後半年ですね」
 理久は二歳五か月だから、ちょうど二年近く、その症状が続いているということになる。
「もともと、アトピー性皮膚炎があるんです。でも、大人になってからは症状は出ていなくて。もしかしたら、アトピーが再発しているかもってお医者さんに言われました」
「なるほど。他にアレルギー性の疾患はありますか?」
「年に一、二回、ひどい花粉症のような症状が出ます。小児喘息でしたが、今は、めちゃくちゃ急いで走った後に、ちょっと呼吸がヒューヒューいう程度です」
 唯一露出している顔を見るに、結衣は肌が薄そうだった。唇の色は紫がかっていて、血行が良くは見えない。
「髪は染めていますか?」
「いいえ」
 薄毛を気にしているという結衣の髪質は、乾燥している。一本一本が細く、ハリ、ツヤがない。前髪は作っておらず、肩までの長さに切りそろえられている。体格は中肉中背で、顔はややエラがあるが中間的な大きさで、目と眉は少し細い。鼻筋が通っていて、肌の色はやや白い。
 ドーシャ診断の結果は、プラクリティがヴァータカパ、ヴィクリティがヴァータピッタ。
「アーユルヴェーダを学んだことはありますか?」
「いいえ。薄毛のことを調べている時にヘナのことを知り、アーユルヴェーダにつながりました」
「そうですか。私も、自分でヘナ染めをしています」
「そうなんですか」
 ややボリュームがあり、滑らかな美津子の髪に、結衣と杏奈、二人の視線が集まった。
─やっぱり、ヘナだったんだ。
 杏奈は常々、ややオレンジがかった美津子の髪を見て、ヘナをしているのではないかと思っていたが、本人の口からそうと聞くのは初めてだった。
「ヘナも、アーユルヴェーダのトリートメントも、授乳が終わったら行きたいと思ってたんですが、授乳が終わると今度は妊活をするようになって…」
 美津子と杏奈はペラペラと質問票をめくった。結衣は妊娠中ではないが、「妊娠を試みている」にチェックが入っている。
「もし妊娠してたら、ヘナやオイルマッサージは良くないんじゃないかなと思って、結局機会を逃してました」
 美津子はちらっと、小須賀と男の子に視線を向けた。
「小須賀さん、ちょっと、書斎に移動してくれる?」
 小須賀は目を大きく開けてみせた。
─マジすか?
 今ですら、時々応接間にいるお母さんに走り寄ろうとして、それを止めるのに必死だというのに。
「承知しました」
 が、クライアントの前でオーナーに「否」という小須賀ではなかった。
「ちなみに今、妊娠している可能性はありますか?」
「ありません」
 結衣は即答した。
「今後も自然妊娠を試みていくおつもりですか?」
「はい。そのつもりです」
「分かりました。ちなみに、旦那さんとの関係性はいかがでしょう。いい関係では…」
 美津子は質問票をめくって、パートナーとの関係性について尋ねる項目を確認した。
「…いらっしゃらないのですね?」
「はい」
 結衣は肩をすくめた。
「実は、第二子を持つか持たないかについて、旦那との意見が割れています」
「ご主人は、なんと?」
「理久一人で十分だって言ってます」
 その理久は、今書斎で、小須賀の背中の上に乗って、ぴょんぴょん跳ねていた。小須賀は四つん這いで書斎の中を動き回りながら、
─こんなクソガキに馬扱いされているおれって一体…
 と心の中で嘆いていた。
「実は授乳が終わって、第二子の話を私からしたんですが、その時から旦那は乗り気ではなく…」
「授乳を終えたのは、いつ頃ですか?」
「あの子が一歳六か月くらいの時ですから、ちょうど一年ほど前です」
「でも、妊活はされているんですよね?」
「はい。なんとか説き伏せて、妊活自体には協力してくれるようになりました。でも、なかなか授からなくて…」
 結衣は眉根に皺を寄せた。
「今年の正月明け頃から、旦那が精神病っぽくなったんです」
「精神病?」
「はい。躁鬱っていうんでしょうか。お正月中、私の実家に帰って楽しく過ごしていたんですけど、家に帰ったとたん、むすっとして、何もしゃべらなくなって。そんな状態が数日続いて、話を聞いてみたら、お正月、友人や親戚と会っても楽しくないと感じたって。何をしても楽しないと…」
「何か、そうなるきっかけがあったのでしょうか?」
「家の外のことは、分かりません。けれど、育児の大変さと…私が第二子を望んでいることが、関係しているようです」
 美津子と杏奈は沈黙した。結衣はあかつきへの滞在理由を「蕁麻疹と薄毛」と記しているが、今一番気にかかっていることは、おそらく、それではない。
「私、精神を病んでる旦那のこと、可哀そうって思えなくて」
 結衣は、そのことに罪悪感を感じているのだろうか。話しながら、自嘲気味な笑いを浮かべた。
「だって、二人目を望むって、普通のことじゃない?って思っちゃうんです。三人目とか、四人目を望んでるんじゃない。どうして…」
「旦那さまは、お正月から明らかなメンタルの不調があって、その後は、どのような経過なのでしょうか」
「今は落ち着いてます。それでも、時々喋らなくなって、ぼーっとしてます」
 結衣は夫を気遣い、自分のネイルサロンの仕事を減らし、夫が育児や家事に携わる時間を減らして、休ませるようにしたらしい。
「十二月を最後に、妊活もストップです」
「そうでしたか」
「はい。でも、私も若くないですし」
 次の誕生日を迎えたら、結衣は三十五歳。高齢出産と言われる年齢にかかる。
「少し焦り始めています。それなのに、どうしてこんな時に精神を病んじゃうんだろうって…」
 結衣は夫に対し、同情や思いやりよりも、不甲斐なさを強く感じているらしい。
「精神病になるような、大きなストレスはないと思うんです。仕事は自動車保険会社の社員で、年収は平均的。マイホームも買ってローンはあるけど、私の収入も上がって来て、お金のことは心配ないし、理久もすくすく育ってくれていて…」
 よほど鬱憤が溜まっているのか、結衣は堰を切ったように話し出した。
「育児や家事で夫の休日の時間をつぶさないように、配慮してたんですけど、どうして私だけ仕事を犠牲にして、忙しく育児と家事をしないといけないんだろうって思っちゃって」
 結衣は額に片手を当てた。夫の精神病、それによる妊活の停滞が、結衣にとって大きなストレスになっていることは間違いない。
「腫物に障るみたいなんです。自分に都合の悪いことを言うと、不機嫌になったり、落ち込んだりして。これじゃあ、私は言いたいことも旦那に言えない」
 体調不良を理由に出たくない体育を休む女子みたいだ、と結衣は表現した。
「でも言うと、旦那も男ですし、私や理久に手をあげたらどうしようって、それが一番怖いんです」
「暴力をふるうことがあるのですか?」
「ありません」
 まだ、結衣の杞憂だった。
「けど、時々大声を上げたり、何かを投げたり、泣いたりすることはあります」
「お医者さまへは?」
「二月の頭に行って、気分が沈んだ時の薬をもらったようです。本人は、それ以外に何か努力して、気持ちをコントロールしようとしている風には見えません」
「そのお薬は、鬱状態の時に使うもので、根本治療のための薬ではないのですね」
「はい…でも、早く妊活のことに向き合ってほしいから、私、つい数日前、妊活のことを旦那に相談したんです」
 美津子と杏奈は、思わずごくりと唾をのんだ。
「そしたら、何も言わず、スーっと寝室へ…翌朝、分からない。とだけ、言われました」
「そうですか」
「それで私…ぷちんと、来ちゃって。とにかく、実家でもどこでもいいから、夫の傍から離れたくなって。それで…」
 急遽、兼ねてから滞在したいと思っていた、あかつきへ連絡を取ったのか。
「旦那さまは、結衣さんたちがこちらへ来ていることを、知っているんですか?」
「はい。話してから来ました」
「大丈夫ですか?」
「怒って出て来た、っていうより、ちょっと気分転換して来るから、その間好きなことをしてって、気遣う雰囲気を出してきたので、大丈夫だと思います」
 そう言いながらも、結衣の顔には不安が浮かんでいた。
─蕁麻疹や薄毛よりも…今抱えている悩みを引き出して、気持ちを整理していただくことの方が先決だな。
─第二子をもつことへの夫婦の意見の割れと、旦那さんへの憤り…ここに対処しなきゃ、体調も良くならないんじゃないかな…
 美津子と杏奈は、それぞれ似通ったことを思案した。
 質問票のうち、最も着目する項目の一つは、あかつきへの滞在理由・目的だ。しかし、書いてあることと、結衣の本懐は異なっている。関連はなくはないが。
─夫婦の関係性が問題となると…
─旦那さんとの話し合いが必要だと思うけれど…
 美津子と杏奈は心の中で考えをめぐらせる。
 ここには、結衣の夫という重要な登場人物が欠けている以上、夫とどういう話合いをし、関係性を築いていくかは、あかつき滞在後の課題である。
─あかつきにできることは…
─結衣さんが、冷静さや客観性、健全な思考を取り戻すサポートをすることだろうか。
 結衣が目の前にいるため、二人は心に浮かんだ考えを、後の議論のために、しっかり記憶しておくことしかできない。
 理久がぐずり出したので、結衣が抱っこをしながらカウンセリングを続けることになった。小須賀はようやく子守から解放され、そそくさとキッチンへ向かった。うかうかしていると、昼食の時間に間に合わなくなる。
 美津子は結衣から、様々な情報を引き出した。
 結衣はネイルサロンを個人で経営している。結婚前は、別のサロンをしている友人と一緒にアパートの一室を借りていたが、今は自宅が職場。授乳が終わってから本格的に事業を再開し、月商二十万を超えるくらいまで成長させた。
 理久は去年の十月頃から小規模保育園に通っている。人見知りもなく、最近はよく喋れるようになり、可愛い盛りだが、この時期らしく駄々をこねることも多く、手を焼いている。
 夫は自動車保険会社に勤めており、一日二時間程度残業するが、朝早く出勤するため、遅くても七時には帰ってくる。育児、家事ともに協力的で、自営をしている結衣への理解もある。夫の性格は真面目で、少し几帳面。何事も心配しすぎるきらいがあり、お金の管理にとても厳しい。
 蕁麻疹と薄毛以外の結衣の身体的な悩みは、やや便秘気味であること、食後の膨満感。夜はよく眠れる。月経周期は、夏頃は二十六日と短く、冬になってからひと月だけ、三十日になることがあった。今は二十七、八日周期で安定している。月経中の不調は、便秘と体重の増加、お腹の張り、腰の重さ。血量は平均的で、血の塊は時々見かける。舌はやや長く、舌先がとがっていて、舌を突き出した時に舌が震える。舌ゴケはそれほど気にならないが、舌の端にわずかに歯形があり、舌の表面にところどころ縦の切れ目が入っている。
 理久は度々駄々をこね、結衣の足にしがみついて抱っこをねだったり、外へ行くことを催促したりした。
「杏奈、結衣さんのアグニ、ドーシャの状態をどう思う?」
 美津子は尋ねた。
「プラクリティもヴィクリティも、ヴァータが優勢です。アグニの状態は、ヴィシュマグニかマンダグニどちらかと思いますが、分かりません。アグニは弱っていて、アジェールナがあります」
「結衣さんに分かるように、ご説明して」
 杏奈は頷き、結衣に向き直った。
「結衣さんはもともと、ヴァータというエネルギーが優勢なのですが、今もこのエネルギーによる乱れが出ています。たとえば便秘や乾燥肌、髪の乾燥がその表れです」
「はぁ…」
「お腹があまり空かないようなので、消化力のスピードが遅いタイプかもしれません。ただ、割と頻繁に間食をするんですね?」
「はい」
 結衣はずっと家で仕事をしており、事務作業の間に、甘い物をつまむのが定常化している。
「食事の回数を減らせば、消化力のスピードは改善するかもしれません。でも今は、消化不良と吸収不良を起こしていると思います。舌ゴケや、舌の端の歯形がその表れです」
「そうなんですか」
 杏奈は質問票に添付されている舌の写真を指差した。結衣はそれを覗き込む。
「便秘ということは、下向きのヴァータのエネルギーがうまく働いていないかもしれません」
 アパーナヴァーユ。つい最近、杏奈は前立腺の問題について調べていたため、そこに思い至った。
「消化不良を起こして蓄積した腸管内の未消化物は、本来下向きの風の流れに乗って排泄されますが、それがうまくいかず、肝臓の方へ押し上げられ、血液中に毒素が入って全身をめぐり、体の弱いところに蕁麻疹となって表れているのかもしれません」
 ランジャカ・ピッタ。肝臓や血液中に存在するピッタの乱れ。
 杏奈は美津子をちらっと見た。打合せもしないまま、ここで見解を述べていいものだろうか。
「その可能性はあるわね」
 杏奈に先を促すように、美津子は頷いた。
「肝臓や血液は、ピッタという火のエネルギーが関係するのですが、ピッタが強いと、薄毛になる傾向があります」
「そうなんですね」
 結衣は髪の毛に触れた。
「生理周期の短さも、ピッタの強さの表れです。結衣さんは自営ですし、お仕事や育児で忙しくされていることも、ヴァータ・ピッタの増大に関係していると思います」
「結衣さん、今日から二泊三日の滞在中、アーユルヴェーダに則した生活を送っていただくことになります」
 美津子は杏奈の話を切って、結衣に話しかけた。
「ここでは、生活のスピードがスローダウンしますし、消化に優しい食事が、一日三回出ます。けれど、数日で完全に体内浄化し、蕁麻疹や薄毛を解消するには、この日数では足りないと思います」
「はい」
「その後の生活が大事です。あかつきに滞在している間、良いと感じた習慣を、ぜひ持ち帰ってください」
「分かりました」
 カウンセリングを終える方向へ話をまとめながら、美津子は、一番重要なポイントについては触れずにおいた。
 妊活と夫との関係性。
 これに対し、結衣がどこまで柔軟な捉え方ができるか。それは彼女の健康状態を左右する。しかし、あかつきがこれに対してどのように関与できるかは、この時点では明言できなかった。
 ともかくも、結衣にもラサーヤナは必要である。もし若返りを遂げていれば、夫が第二子をもつための試みに前向きになった時にも、より良い状態で妊活に臨むことができるだろう。
「すみません、ちょっといいですか?」
 杏奈が控えめに手を挙げた。
「性欲がないにチェックが入っていますが」
 質問票に落とした視線を、再び結衣に向ける。
「これは、最近のことですか?」
 夫の精神的な不調が発覚したため、性欲が減退したのだろうか。
「いえ、これはもとからです」
「もとから…?」
「この子を妊娠する前は、性欲は低くも、高くもなかったと思いますが、妊娠してからずっと性欲が湧きません」
「旦那さまは?」
「それなりに、性欲はあったと思います」
 結衣はちょっと話しにくそうに、けれど正直に答えた。
「なのに私は、授乳が終わって月経が再開してからも、全然性欲がなくて…あのう、すごく言いにくいんですが、そういう漫画とか、小説を読んで、自分を焚きつけてました」
 妊娠のために、そのための行為をする必要があったから、やむを得ず。
「妊活のためでなかったら、好んで夫とそういうことをしたいとは思わないです」

 咲子の施術が終わるまで、結衣と理久には書斎や居間で待機してもらうことにした。
 美津子は二人に簡単にどこに何があるか説明すると、キッチンへ直行した。結衣へのアプローチを熟考するのに時間を割くと思っていたので、杏奈は少し驚いた。
「息子くんアレルギーないんですよね」
 小須賀はフライパンを振りながら念を押した。
「まあ、変なものは入ってないですけど」
 今日のお昼ごはんは白米、鶏ひき肉と大根ときのこの煮込み、小松菜の炒め物。
「お子さま用に取り分けもしました。さつまいも蒸してます。あとなんか要りそうですか?」
「ううん、いいわ」
 理久がどのくらい食欲があり、偏りなく食べる子か、こちらには分からない。
 美津子は履物を変えて、キッチンの中央へ寄った。
「小須賀さん、私どこから手伝えばいいですか?」
 杏奈も調理台の方へ歩み寄って尋ねる。
「夕飯の仕込みしといて」
 杏奈は頷いた。しかし、夜ごはんはキッチャリーなので、特にすることはないことに気付いた。
「小須賀さん、今日の二人目のクライアント、お名前は結衣さんというのだけれど、彼女から聞いた話を共有するから、聞いておいて」
「…ほい」
 雑談程度の共有はあったとしても、美津子がまともに、小須賀にクライアントの情報を話すことは稀であった。
 杏奈もそこに居残り、小須賀の補助をしながら美津子の話を傾聴した。
 最後に結衣が言ったこと─性欲の減退─について話すと、
「旦那さんからしたら、ショックですよねぇ。そんな風に思われてるって知ったら」
 小須賀は憐れむように眉を下げつつ、笑うしかなかった。
「もう、お前を男として見てねえって言われてるようなもんですよ」
 杏奈は結婚したことも子供を産んだこともないので分からないが、家族として生活していれば、お互いを認識する目が変わるのは、ある程度自然なことだろうとは思う。けれど、第二子をこれからも望むのなら、夫婦の関係性を良くすることは大切だ。女性の生殖能力に関する情報収集を行った後なので、杏奈はなおさら、そう思った。
「旦那さんも寂しかったんじゃないの?」
 小須賀は杏奈に同意を求めるように言った。杏奈は、肩をすくめるだけで返事はできなかった。
「ただ金を運んでくるだけの便利屋みたいに思っちゃったんじゃない?それで第二子まで生まれたら、どうなることかと…」
「旦那さまが第二子を望まない理由について、何か聞いていることがあるか、もう少し聞き出してもいいかもしれないわね」
「はい」
「結衣さんがコントロールできない理由なのか、結衣さんが関わっているのか…」
 確認することが他にありすぎて、先ほどのカウンセリングでは聞き出せなかった。
「夫婦の問題に介入してどうするんです?」
 小須賀は、つっけんどんな言い方をした。
「あかつきとしては、結衣さんの味方をするんですか?」
 夫に理解を促し、第二子の妊活に向けて前向きに取り組めるように。
「クライアントに、特定の判断をするよう促すことはできないわ」
 美津子は、二人に教えるように言った。
「私たちの仕事は、クライアントがベストな判断ができるよう、心と身体をできる限り健やかな状態にすること」
「だけど、旦那さんとの関係や今までの経緯を根ほり葉ほり聞いたら、何かアドバイスしてくれるんじゃないかなって期待しちゃいますよ」
 小須賀の言うことはもっともだ。
「でも、結衣さんは、誰かに話したいって感じでしたね…」
 杏奈は、夫との間に起こったことを、堰を切ったように話していた結衣を思い浮かべた。
「きっと今まで、ずっと悩んでいたんじゃないでしょうか」
 何人子供を持ちたいかという意見が夫婦の中で割れていること、夫のメンタルの不調、子育てと仕事を両立させる中でそれらに向き合わなければならない憤り。
「話を聞くことしかできなくても、それで結衣さんの気持ちが収まり、考えを整理するきっかけになるのなら、傾聴することは大事だと思います」
 美津子は頷いた。杏奈なら絶対、そう言うと思っていた。
「あー、料理に変な気がこもっちゃうよ」
 小須賀は調理中のフライパンや鍋に、次々と蓋をした。
「体を整えるだけじゃどうにもならないクライアントを相手にするのって、大変っすね」
 ふう、と大きく息をして、小須賀は振り返った。
「痩せるとか、湿疹をなくすとか、単純な目標のほうがやりやすいっすよね」
 美津子も杏奈もお互いに目を合わせたが、何も言えない。それを肯定したところでどうなるだろう。あかつきに来るクライアントの目的は、こちらでは選べない。
「その夫婦、これから先なんかあった時に、一緒に乗り越えていく力あるんすかね?」
 小須賀は調理台の上に両手をつき、ちょっと前かがみになった。
「妊活、妊活って言うけど、妊娠したとしても、それはその家族のスタートじゃないですか」
 もっともだ。妊娠は始まりに過ぎない。無事生まれるかも分からない。健全に生まれたとしても、そこから乗り越えなければならないことが、いくつもある。
「そのたびに、ちゃんと話して、考えを共有して、一緒に乗り越えていくっていう気持ちがあるんですか」
 美津子にも杏奈にも、答えようがなかった。
「夫婦が別々の方を向いているのに、妊活するっていう思考になるのが、僕には信じられないっす」
「でも、タイムリミットを気にする女性の気持ちも私には分かります」
 男と女とでは、その意識の差があると、杏奈は思う。
「結衣さんは、高齢出産になると、母子ともにリスクが上がることを心配しているんです」
 小須賀は首をひねった。
「年齢はリスクが上がる一因だけど、年齢に関係なくリスクは負っているもんでしょ。おれは夫婦の関係性を見直すほうが先だと思う」
「旦那さんは、自分にとって気がかりなことに触れると、精神状態が悪化しちゃうんですよ」
 小須賀は上体を起こして、コンロ台に腰を預けた。
 沈黙が流れると、小須賀と杏奈は、無意識に美津子を見た。スタッフ同士がどれだけ議論をしたところで、最終的にクライアントとどう関わるかを決めるのは、オーナーである美津子なのだった。
「スタッフや他のクライアントを交えて、お互いのことを話し合い、他の人の経験を知ることで、ヒントを得ていくケースもある」
 美津子とて、最適解など持っていない。それでも、クライアントが望んでいることを探り探り見つけて、滞在中できる限りのことをしなければならないと思っている。
「結衣さんについては、悩んでいることを誰かに話す必要があると思う。でないと…彼女はパンクしかけているわ」
 小須賀は両腕を組んだ。
「一番話がしやすいタイミングは、食事の時よ」
 クライアントも、身構えずに話ができる。
「あ、でも…今は、咲子さんがいます」
 不妊治療中のクライアントの前で、第二子に関する夫婦の意見の不一致をどう考えるか議論することなど、できるはずがない。
「僕たちじゃあてにならないんじゃないです?」
 小須賀は、捨て鉢な言い方をした。
「この中の誰も、子供もいなければ、結婚すらしてないじゃないですか」
「…」
「ビミョーな雰囲気にならないでください」
 美津子と杏奈が白い目をするのを見て、小須賀はしんみりと付け加えた。
「結衣さんの話し相手は、他に適任がいると思いますけど」
 小須賀は、右手の人差し指を上に上げた。
─沙羅さんか。
 そういえば、沙羅は第二子をなかなか授からなかったと言っていたっけ。杏奈は、そこに沙羅の夫・栄治がどう関わっていたかは知らないが、少なくとも、妻・母親という立場で話を聞けるのは、この面子の中では沙羅だけだ。
「結衣さんの食事は、特にピッタを考慮して作れるといいのだけど」
 美津子は杏奈を見た。
「献立を大きくは変えずに、今からできそうな工夫をしてみて」
「はい」
「結衣さんには、今日の昼からトリファラ、シャタバリとアシュワガンダを摂ってもらうわ」
「分かりました」
 美津子は、調理台をはさんで対面に立つ杏奈の目を捉えた。
「サーダカピッタ」
 そして、ピッタのサブドーシャのうちの一つを、声に出す。それは、知性、恋愛感情、物事を考え抜く力、正しい認識力、決断力に関わる、ピッタの精神的側面と関わるエネルギーであった。
「結衣さんが整えるべき、もう一つのピッタのサブドーシャよ」
 もう一つは、先ほど杏奈が言った、解毒に関わるブラジャカピッタ。
「人生全体に影響する大きな判断をする時には、ピッタのバランスを整えなければ」
「はい」
 杏奈は強く頷いた。小須賀はあくびをした。アーユルヴェーダの言葉や考えは、未だにまったく理解ができない小須賀であった。杏奈はよく、美津子の話についていけるものだと思う。
「進歩的な話をするより、ただ気持ちの良い、優雅な時を過ごさせてあげた方がいいと思いますけどね」
 小須賀は、ほとんど捨て鉢に言った。
「美味しいものを食べて、綺麗な景色を見て、トリートメントを受けて…思いっきり贅沢な生活をさせてあげたらどうです?ピッタを整えるとかじゃなくて」
 美津子と杏奈はまたもや沈黙した。それならば、来るところが間違っている。
「自分は贅沢なものを食べて、美容にいいことしてる!旦那は家でカップラーメンだけど…って優越感があったほうが、もしかしたら、旦那に優しくしようと思うかもしれませんよ?」

「美津子さん。理久くんは、子供用の椅子や、おもちゃがもう少しあった方がいいですよね?」
 昼時、応接間での食事の様子を見て、沙羅が美津子に耳打ちした。
 杏奈と小須賀は今、美津子によって強制的に、応接間でクライアントと一緒にご飯を食べている。美津子と沙羅は書斎で話をしていた。
「どこかから借りて来られないか、声を掛けてみますよ」
「ありがとう」
 美津子は礼を言った。
「沙羅、もし暇があったら、施術の時以外でもこっちへ来て」
「人手足りないですか?」
「施術中は、杏奈が子守をしなければならないの」
 午後は小須賀も抜けてしまうし、杏奈には他の仕事もお願いしている。
「どのタイミングでも、誰かしら理久くんの相手になる人がいると助かるわ」
「分かりました。子供たちを連れてきてもいいのなら、一緒に遊ばせますけど…」
 理久にとっては、その方がいいかもしれない。が、沙羅は、咲子のことが気になる。滞在中、小さな子供が近くにいることになることを、咲子は承諾している。本心から承諾してくれていたとしても、あまり目についたりうるさかったりすると、心変わりをして、気分を害してしまうかもしれない。
 沙羅が帰宅すると、それと入れ替わりで永井がやって来て、結衣の施術に入った。一階では美津子が咲子の施術に当たっている。結衣が二階で施術を受けている間、杏奈は二階の客間で、理久と遊び、その後寝かしつけた。子供を寝かしつけることなど初めてで、大分苦戦した。結局、理久のほうがどんなにゴネても状況が変わることはないのだと察し、諦めて寝たような感じだ。
「杏奈、理久くんまだ寝てる?」
 発汗の間、施術室から出て来た美津子は、書斎のソファで放心したようにぐったりしている杏奈に訊いた。
「はい…寝て…くれてます」
「そう。お疲れさま。大変だったでしょう」
「はい…」
 こんなにも、子供と遊ぶのが疲れるとは。この後、妊孕性に関する講義をしなければならないとは、信じられない。
「杏奈、この後沙羅が来てくれるみたいだから、子守を変わって」
「本当ですか!?」
 杏奈は、がばっと起き上がった。沙羅が救世主のように思えた。が、施術の後も子守が必要とは…結衣は何をするのだろう。杏奈が一抹の不安を抱くのと、美津子からまさかの発言があるのがほぼ同時だった。
「よくよく考えると、結衣さんも、今後妊活をするかもしれないわけだし、あなたの話を、咲子さんと一緒に聞いてもらおうと思ってるの」
「…はあ」
 杏奈は、冴えない返事をした。
「施術中にちょっと話した。彼女、他人が子供を連れていたり、その子のことを話したりしているのを聞くのは、特に抵抗がないみたい」
「うーん…そうなんですねぇ」
 これが友達とか、兄弟だったら、嫉妬心を抱くのかもしれないけれど、見知らぬ第三者だからこそ、気にならないのかもしれない。
「あなたがまとめた資料の中に、夫婦の関係性について言及している箇所があったでしょ」
「夫婦の関係性…」
 杏奈は、両手で顔を覆った。急いで思考を回転させる。
「ああ…確かにそんな箇所も、あったかもしれないです。オーラがどうのっていうところと、実際の行為中の意識の話…」
「そう、そこ。そこを、時間があったらお話して」
「えっ、そこもですか」
 杏奈は頭を掻いた。
「あのう、キッチャリーを作る時間がなくなってしまいますが」
「キッチャリーは、話の途中で私が作りに行くわ」
「話の途中…って、美津子さんも同席されるんですか?」
「そうよ」
─いや、それはまずいでしょ。
 杏奈は項垂れた。今までしたことのない、アーユルヴェーダの妊孕性に関する講義を、この分野の玄人である美津子の前でするなんて。
 杏奈は授業参観に臨む教師のような心境になった。しかし、答えにくい質問が出たとしても、心強い味方が傍にいるわけだ。ある意味いいことかもしれない。
「話すことは基本的に、あなたに任せるから。私のことは頼りにしないでね」
 杏奈のかすかな希望の芽は、即座に潰された。
「議論の部分は、私も参加するから大丈夫よ」
 杏奈の顔色が変わったので、美津子はそう付け足した。
「夫婦の部分までお話できるか自信がないです」
 その部分は、頭の中で話の持っていき方をシミュレーションしていない。
「難しければ、後日に回してもいいから」
「…分かりました」
 美津子がやれと言ったら、否とは言わないのがあかつきのスタッフの心構えだった。わりと体育会系である。
─それに…
 杏奈は唇を結び、自分に言い聞かせた。
─ここで退いたら、なんのためにあかつきに来たのか。

 

 

 


 

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