水曜。
順正は南天丸を連れ、早朝から明神山へ登った。
クライミングジム・ハイウォールは、平日は十三時開店。オーナーの藤野は起床が遅いので、順正は一報のみ入れ、犬小屋から勝手に藤野の飼い犬である南天丸を連れ出してきた。
林道を歩き、上沢側の登山口から取りつく。最初は木の階段が続く。ところどころ崩れ落ち、階段としての意味をなさなくなっている箇所もある。
晴天が続き、空気がからっとしていた。
明神山は標高によって、場所によって、植生ががらりと変わる面白い山である。上沢側の標高が低いところは、ほとんど杉の木である。人の手が入った植林地帯であり、こういうところには、低木階の植生はまだらである。視界が開けていて、歩きやすい。
順正はジグザグの緩い登りを、さくさくと進み、標高を上げていく。肩のところに四芒星の形の花と木が描かれているオフホワイトのマウンテンパーカーと、黒い山ズボンという恰好で、手荷物は何も持っていなかった。
明神山はその尾根沿いに、上沢と足込の境界をもつ。足込側は一部、栗原神社の神域ということもあり、上沢側ほど人の手が入っていない。山頂を巻く(通らない)ルートにて足込側に入ると、植生が変わってくる。高木階には常緑針葉樹が葉や枝を広げ、低木階にはアセビやスノキ、モチツツジが群生している。シャクナゲの群生地もある。あとひと月も経てば、花が咲くだろう。
チリンチリーン。
チリンチリーン。
「南天丸」
登り始めてから始めて主に呼ばれて、南天丸は後ろを振り向き、そこでお座りをする。
鈴の音は前方(登り側)から聞こえてくる。
順正はパーカーのポケットから、首輪と手綱を取り出して、南天丸の首につけた。手綱を短くもち、南天丸の近くを歩く。
「あっ」
中年の夫婦がすれ違い際、南天丸に驚いて道を空けた。
「こんにちは」
「こんにちは」
平地では、すれ違っても見知らぬ人に挨拶などしないものだが、山中では、通りすがりの人に挨拶をするのがなぜか普通だ。
夫婦は南天丸と順正を物珍しそうに交互に見ていたが、やがて振り返ることなく登りを再開した。
順正からしてみれば、自分たちの方が、登山を日常的に行っている。この紅葉のシーズンだけこの山に登る登山客たちこそ、この山にとって「珍しい」存在といえる。
その後も、何組もの登山客とすれ違った。手綱をつけて正解。南天丸は中型犬だが、凛々しい顔つきと逞しい体格をした犬だ。人によってはこれを、「獰猛」と感じるかもしれなかった。誰かとすれ違う度に、びっくりされるのも面倒。手綱がついていたほうが、すれ違う人たちも安心だろう。
順正と南天丸は滑るように登山道を下って行った。最後の方はほとんど走っていたと言ってよい。
栗原神社からの明神山の取りつきに着くころには、順正はパーカーを脱いで手に持ち、グレージュの長袖ティーシャツ一枚になっていた。
分岐を左に曲がり、栗原神社の杜と明神山の森との狭間を歩いた。最近のお気に入りスポット、アカガシの倒木があるところで足を止める。
倒木の間近に立つアカガシの木に背を預けながら、しばし体を休めた。太い根っこが平らに伸びていて、この木の下は座りやすいのである。
明神山の森と、栗原神社の杜の狭間であるここ一帯は、ひどく心地が良い。森のにおいは落ち着く。
ただ静かに呼吸をして過ごし、十五分も経った頃、倒木に身を預けて休んでいた南天丸に声をかけ、順正は元来た道を戻る。
栗原神社の横を通り過ぎると、神門の前で老齢の男たちがたむろしていた。
立て看板にはこうある。
『栗原花祭 三月四~五日』
土日に開催するというわけだ。
─栗原も四日から五日か。
ジムから最寄りの地区での開催と、時間は多少ずれるだろうが、日程は重なっている。
順正は看板と境内の様子を横目で見つつ、そそくさと立ち去った。しかし、その背後から、けたたましい音を立てながら距離を詰めて来た者がある。その者は大きな、真っ赤な斧を持っていた。もちろん、作り物だ。置くべきものも置かず、走り出できたのだった。
「先生、ご無沙汰しておりますっ」
追いついてきた老爺─ぐう爺─は大声で呼びかけたが、順正は振り返ることなく、歩みを進めるばかり。
─む、無視かっ!
ぐう爺は失意に満ちた表情で、がっくりと肩を落としたが、足は止めなかった。そしてその時、初めて自分が両手で斧を持ったままだったことに気が付いた。この斧はかなりの重量だというのに、そんなことも頭から飛んでいた。
「先生、栗原の花祭にはいらっしゃいますか?」
「行かん」
即答だった。順正と南天丸のスピードに合わせようとすると、ぐう爺は小走りになる。それでも後ろから二人を追った。
「地元のほうに出られるのですか?」
「分からん」
仕事次第なのだ。順正は振り向きはしないが、一応ぐう爺の問いかけに答えた。
「なんぞ、役割を世襲してはおられんのですか?」
花祭で先頭に立つ花太夫や副太夫、みょうどうといった役柄は、世襲制である。こんな若くて見栄えのする人が、その役割から漏れているとしたら、その地区の保存会の面々はアホだとぐう爺は思う。
「しとらんな」
順正はにべもなく答えた。ぐう爺は、がーんと口を開けた。
順正の母は一人っ子だった。女性は花祭に参加できず、順正が世襲できるようになるより前、お役御免となった。
「先生の踊り、見たかったなぁ」
ぐう爺は涙ぐんだ。
花祭の舞や踊りは、男性的で力強い。小さい頃、足込町や上沢市で育った男児なら、誰しも踊った経験があるはずだが…
─いかん。想像ができん。
ぐう爺には、朴訥な順正と、舞や踊りが全然結びつかなかった。
「宮司、ついてくるな」
順正はそう言ったが、小走りでついてくるぐう爺は、何やら妄想のかなたにいるらしい。順正はぴたりと歩みを止め、ぐう爺から真っ赤な斧を奪い取った。
「あ…」
両手に感じていた重量がなくなり、ぐう爺はやっと我に返った。ふと見上げると、順正は右手で斧を軽々と持ち上げ、振り上げている。そのまま振り下ろされるのではないかと思って、ぐう爺は思わず一歩後ずさりした。
が、意外なことに、斧を奪った順正のほうが、驚いたかのように目を丸くして、ほとんど硬直していた。ぐう爺は構えの姿勢を取ったままだったが、彼の反応に気が付き、そして通常より大きく見開かれた目の、鋭い光を宿す瞳に視線が吸い寄せられた。
─そうか…。
順正の表情は、まもなく緩んだ。腕を降ろすと、小野の柄の先を右足の側面と地面との間に当て、肘を伸ばした。斧は斜め上に向かって立てられた形となった。
医師になってからも、花祭の季節には、度々地元に戻り、祭に参加した。斧を持つと、体が今にも動き出しそうになるのを感じた。やはり、体は覚えているのだ。
─あ…
ぐう爺は、順正が斧を持つ姿が、皆を睨めつける前の榊鬼と重なった。それで、この普段ほとんど感情を表に出さない男もまた、花祭には胸が躍るのだと知った。
─当然だ。この地域の出なら…
順正はしては珍しく、口元に微笑が浮かんでいた。それもわずかな間で、ぐう爺に斧を突き返した時には元に戻っていた。
「ついてくるな」
そして、すかさず念を押された。
「あ…」
羽沼を玄関先まで見送った杏奈は、開け放たれた玄関からあかつきの門扉が開くのを見て、そこに棒立ちになった。羽沼も音に気が付いて、ぱっと後ろを振り返った。
精悍な犬が、悠然とこちらへ歩んで来る。その犬の手綱を引く男性もまた…
─かっこいい人だな。
羽沼は、同性ながらにそう思った。ティーシャツ一枚という姿が、男の体の輪郭をよりはっきりとさせ、その体格の良さを鮮明にしている。
順正は玄関にいる細面の男と杏奈に気が付いた。しかし特に挨拶するでもなく、南天丸の首輪をほどく。
羽沼は杏奈を振り返った。
─誰?
とその顔は聞いている。
「先生、こんにちは」
杏奈は思い切って、順正に挨拶した。
「こんにちは」
順正はつぶやくように挨拶を返すと、杏奈ではなく玄関先に立つ男に視線を向けた。
「ええと、あかつきの顧問医の柴崎先生です」
「顧問医…お医者さん?」
羽沼は目を丸くした。杏奈は羽沼のことも紹介しようとしたが、
「驚いたな…家の中では放し飼いで大丈夫なんですね?」
羽沼は順正から視線を南天丸に移していた。南天丸は主の後ろに従い、整然とお座りしている。羽沼は、犬に目線を合わせるためか、片膝ついてしゃがんだ。順正は首を縦に振ったが、羽沼はしゃがんでいて見ていない。
「大丈夫だそうです」
杏奈が代わりに、言葉を繋いだ。
─いや、ちゃんと喋んなよ。
と、心の中ではこの朴訥な男に悪態を吐いていたけれども。
「なんていう犬種ですか?」
「ジャーマンシェパードドッグ」
今度は順正は、ちゃんと声を出した。羽沼は顔を上げて、
「警察犬みたいですね」
と言った。順正は二回ほど、小さく頷いた。
「警察犬として訓練されることもある。でもこいつは山岳救助犬でした」
「えっ?そうなんですか?」
初耳のことで、杏奈は素直に驚いた。順正はそんな杏奈を、何をそんなに驚いていると言わんばかりに一瞥する。
「かっこいいなぁ」
羽沼は感心したように言った。艶やかな毛並み、無駄のない筋肉質な身体、そしてキラキラとした目。
声を聞きつけたのか、美津子が杏奈の後ろに立った。
「先生…今日はお休みですか?」
平日に珍しい。
「あ、じゃあ僕はこれで…」
羽沼は杏奈と美津子に会釈をして、門のほうへ去って行った。
順正は書斎から居間を通って、応接間に入った。書斎のローテーブルの上も、パソコンやら茶器やらで散らかっていたが、応接間の長テーブルの上にも、雑多に資料が置かれている。いつもの整然としたあかつきの様子とは異なっている。仕事が忙しくなってきたのだろうか。
「あのう、お茶をお持ちします」
杏奈はさりげなくそう言い、順正の後ろをすり抜けてキッチンに向かおうとしたが、
「待て」
と声がかかり、ぴたりと動きを止めた。
─待て?
杏奈は自分が犬扱いされているような気がした。
「南天丸に水をやってくれる?」
しかし、思いがけないほど温和な口調で、あの犬への愛を感じる頼み事をされた。
「は、はい!」
杏奈は、なぜか犬の世話を任されたことを嬉しく思って、ほっとしてキッチンへ向かった。考えてみれば、コキ使われているのに相違ないのに。常日ごろ無愛想な人間に急に優しさを見せつけられると、常に優しい人間に優しくされるより嬉しくなるという、あの効果だろうか。
杏奈はもうすっかり、南天丸用の給水皿がどこにあるのか分かっている。外に出ると、南天丸は東側の垣根の側─ハーブを植えているあたり─に身体を寄せて、地味に動いている。
「ここ、置いとくね」
掃き出し窓の近くにそっと給水皿を置きながら声をかけると、南天丸はふっと振り返って、小走りに駆け寄ってきた。杏奈は南天丸を避けるようにして母屋に戻った。犬は嫌いではないが、こんなに逞しい犬が放し飼いにされているのは、ちょっと怖い。
杏奈はキッチンに近い方の入り口から応接間に入り、そそくさとそのままキッチンへ入った。順正のことも避けているわけではないのだが、やっぱりちょっと怖い。
─三月か…
なんのお茶がいいかなと思って、杏奈は少し思案する。
この季節は、カパ性疾患が発生しやすい時期で、一般的にカパが憎悪しないよう気を遣うことが多い。さらに肝臓の解毒が必要な時期であった。肝臓は冬の間、重い食べ物を処理するために働き続けたであろうから。
ポットに新茶をティースプーン二杯、月見草を一杯、ゴツコラ茶葉を一杯入れて、お湯を注ぐ。杏奈はお盆に乗せてお茶を運びながら、応接間でなにやら美津子と話している順正を見て、
─しまった。
と一抹の不安を抱いた。
つい羽沼にお茶を淹れている気分で、いろいろとアレンジしてみたのだが、お茶を出す相手はこの人だった。
羽沼は今日、今後の情報発信のやり方および次のクライアント・薫の件で、相談を聞きにきてくれた。ここまで足を運んでくれていることもあり、ちょっとおもてなしする気分で変わったお茶を出し、アーユルヴェーダ目線でのねらいなど話していたのである。
杏奈は羽沼のことを、実に温厚で、話しやすい人だと感じている。どんなことを話しても、真面目に聞いてくれるだろうという安心感があった。
でも、今目の前にいる男はそうではない。
─無難なお茶を淹れるんだった。
この人は、お茶がまずいと思ったら、きっと痛烈に「マズい」と伝えるだろう。順正は喉が渇いていたのか、杏奈が茶托に乗せた湯呑を置くと、さっそく啜った。
─ひえ~。
杏奈は思わず、お盆を抱きしめた。しかし、順正はわずかに眉根を寄せて、首を傾げたが、黙って湯呑を茶托に置いた。
─なんでこんなことでビクビクしなきゃいけないんだろう…
胸の内だけでため息をつきつつ、杏奈は踵を返した。
「杏奈」
美津子に呼ばれ、杏奈は後ろを振り返った。
「今ね、先生に羽沼さんのことを紹介していたの」
あかつきのインスタや、ホームページに関するアドバイスをくださっている、と。
「そうなんですか」
杏奈はお盆を抱きしめたまま、ゆっくりと頷いた。視線を横に向けると、順正と目が合った。順正は視線を美津子に移し、
「SNSやブログの更新はこの人がやってるの?」
と訊いた。目の前にいる本人に訊けばいいものを。
「ええ。最近はほとんど杏奈に任せて─」
「安っぽい言葉で売るなよ」
美津子の言葉が終わらないうちから、順正は再び視線を杏奈に戻し、静かに言った。
杏奈の顔からスーッと血の気が引くのを見て、美津子はやれやれ…と思った。
順正からしてみれば、杏奈は以前よりもぼーっとした印象はないものの、やはりどうも頼りなさげだ。
「最近は、信憑性の薄い安っぽい情報がよく出回ってる」
順正はつぶやくように言った。杏奈は、それでやっと、言われたことの意味が分かった。つまり、あかつきをそういう情報発信者の一にするなと。
「先生も、SNSをよく見るのですか?」
「見ない」
「…ですよね」
杏奈は肩をすくめた。
「今は誰でも情報発信できる時代だからね…」
美津子はおっとりと言った。
あかつきでは、杏奈が投稿の準備をし、美津子のチェックを経てから、情報発信をする。一応、ダブルチェックをしているわけだ。だが多くの個人の場合、個人の独断で、考えたまま、思ったままのことを発信している。
「SNSは今の時代、表看板のようなものだから、結構重要なのよ」
美津子はそう言って湯呑を持った。
「あら、普通の緑茶じゃないのね」
美津子は一口飲むと、黒い南部鉄器の急須の蓋を開けた。
「なんだろう。あなた分かる?」
「…妙なお茶だな」
順正の返事は、美津子の問いへの回答になっていなかった。杏奈は踵を返しかけたが、
「何が入っているの?」
と美津子に訊かれ、その場に留まった。
「ベースは新茶です」
「そうよね。静岡にいる昔のクライアントが送ってくださったの。香りのいいお茶よ」
美津子は順正に説明するようにそう言ったが、順正は首をひねった。香りがいいのに混ぜ物をするとは。
「あとは月見草とゴツコラです」
月見草は、北アメリカ原産で、ネイティブアメリカンが使っていたとされる民間薬だ。体内の脂肪を分解・排出する作用があり、皮膚の健康・免疫力向上に重要なガンマ-リノレン酸を含む数少ない食材。免疫力や代謝を促進する。ゴツコラは鬱血を除去し、鼻症状を軽快させる。
「春に乱れやすいカパにはいいものです」
「ですって。あなたももう一杯飲んだら?」
美津子は急須に蓋をした。先日は杏奈の前で、順正を先生扱いして喋っていた美津子だが、今日はもう素のやり取りになっているようであった。
この人は一体美津子とどういう関係なのだろう。杏奈はそう思いながら順正を盗み見た。もう一度お茶を啜っている。切れ長の目が細くなった。まつ毛が長い。
「あなたも、お茶を飲んだら」
美津子がそう言った時、杏奈は一瞬自分に言われたことに気が付かなかった。
「…いえ、私はまだ…やらなきゃいけないことが…」
「ここでやればいいじゃない」
美津子は自分の隣の椅子の背をもち、少し後ろに引いた。
杏奈が明らさまに狼狽したのを見て、美津子は苦笑いした。けれども、いい加減、順正に慣れてほしいものだ。
「重い案件が重なってね」
美津子はそう言って、長テーブルの上に無造作に置かれている書類や書籍を整え始めた。順正はそのうち、多くの付箋が張られている分厚い資料を手に取った。
─女性の生殖能力。
順正はタイトルを読むと、ページをめくった。
美津子の隣ではなく椅子を一つ隔てた端っこの席に陣取った杏奈は、その資料が順正の手に取られたのを見て内心穏やかでなかった。現役の専門家…それもよりによって、この人に見られてしまうとは。
「不妊のクライアントでも来たのか」
「ええ。これと同じ資料をお渡ししたの…今までとは違う目線から、ご自身の心と体について考えてもらえるように」
「そうか」
美津子は資料をめくる順正の姿を視界の隅に捉えたが、取り返そうとはしなかった。そこには個人情報は書かれていない。
杏奈が羽沼と打合せをしている時、美津子は咲子に向けに、今後の提案事項の素案を作っていた。咲子は、もともと生活習慣や食習慣が整っているだけに、提案事項を考えるのも難航した。ヨガが好きだという。できれば、ヨガに関する提言をもっとしてあげたかった。
「順正」
「…ん?」
呼ばれてから、順正が顔を上げるまでに、やや間があった。彼はどうやら、まともに資料を読んでいる。
「生活習慣や食生活が、妊娠や、健康な赤ちゃんの出産に、有意に関わっていると思う?」
レシピの素案を書き出していた杏奈は、耳を澄ませた。順正は目線を上げることなく、しばし沈黙した。
「思う」
どうやら、限のいいところまで読み終えたのだろう。順正は顔を上げて、はっきりと言った。
「その関連性を調べている論文も、レビュー論文も、いくつもあるよ。最近読んだのは、家政学の分野だけど」
「家政学…」
順正の口から、思いがけない学問の分野を聞くものだ。
適正出生体重児、低出生体重児、極低出生体重児を出産した女性を対象に、アンケ―トによる調査を行い、その結果を統計的に解析した論文では、母親の偏食や栄養状態による傾向がはっきり出たと述べられている。もちろん、食習慣が適切であっても、別の要因で極低出生体重児を出産する女性もいる。さらに、この分野の研究者たちが、自分たちの研究や開発プログラムを、意義あるものにしようという意図が見えなくもない。
しかし、実際病院で多くの妊婦を診てきて、順正は感覚的・経験的に、生活習慣や食生活の関連性を見出している。
─やっぱり、大事なことなんだ。
杏奈は、思わず二人の会話に耳を傾けた。
「へえ。お医者さんも、妊婦さんたちに生活指導をするのね」
「多少は。主には助産師がする」
「じゃあ、あなたも食生活に気を付けなさいとか言うの?」
美津子は、少し笑ってしまった。
「妊婦による」
多くは、生活習慣の話まで及ばない。指導が必要な妊婦には、順正はハッキリ言う。アルコール、タバコに関しては、やめさせる。
「でもあかつきほど深入りはしない」
例えば、朝ごはんを食べるか聞くとしても、何を食べたかまでは聞かない。朝ごはんは食べた方が良いが、食べたと聞けば、それきりだ。たとえその内容が、食パンにマーガリンとジャムだけの、単調な、低栄養なものだったとしても、それについて指摘をすることはない。もともとハイリスクだと分かっていたり、診察をして少しでも気にかかることがあったりした場合は別だが。
「不妊の場合は、食習慣に目を向ける女性も多いだろうな」
順調に妊娠した女性よりも、気を付けているくらいかもしれない。
杏奈はノートの上に視線を下ろしながら、視界の隅で順正がまだ資料を読んでいるのを捉えた。目尻が少しつり上がった、切れ長の目。目線が下に向いているからか、長いまつげが、その目にかかっている。杏奈はその時初めて、この医師の端麗さに気が付いた。最初に会った時、痛烈な言葉をもらった印象が強すぎて、顔をよく見ることも、目を合わせることも避けていた。でも改めて見ると…
「杏奈は何してるの?」
ふいに美津子に話しかけられて、杏奈はとっさに、ノートと美津子を交互に見やった。
「…えっと、宮司さまに頼まれた、花祭の炊き出しのメニューを考えてます」
食べ物があると見物客も喜ぶだろうから、何かあかつきらしい変わったやつを振舞ってほしいと言われたのである。
「決まった?」
「いなり寿司なんてどうでしょうか」
油が手につくのは気になるが、祭っぽいし、片手でひょいとつまめる。基本の材料は油揚げと白米だから、予算的にも安心だ。
「いいんじゃない」
美津子は気軽に言った。
「中のごはんを、一つはカレー風味にして、もう一つは、スマックと、ラディッシュでピンク色に色付けした大根を入れようと思います」
カレーいなりは、なんとなく想像できるが、後者の方は、美津子はよく分からない。杏奈はノートに書いたレシピのたたきを見せて、説明をした。
「スマックは、ゆかりみたいなものです」
中東でよく使われる香辛料で、ウルシ科の低木の果実を乾燥させて細かく砕いたもの。日本人におなじみのふりかけ「ゆかり(赤しそが主な原料)」のような酸味がある。色合いもよく似ている。一緒に混ぜ込むのは、細かく切った大根の酢漬け。だが、白いままだと芸がないので、ラディッシュを一緒に漬けることで、ピンク色に着色する。紫色のスマックに、ピンク色の野菜が入った、春らしい可愛らしい見た目のいなりになる。
「女の人に受けそうね」
「たんぱく質がほしければ、しらすを入れるといいかなって思ったんですけど」
「どう?先生」
訊かれてから、順正が顔を上げるのに、三呼吸ほどの間があった。順正は、何を訊かれたのかよく分からない、という顔をしている。
「踊っている側としては、いなり寿司に何が入ってると嬉しい?」
「いなり寿司は油揚げに入ってるよ」
何を訊かれたのかよく分からないまま、順正は答えた。
「あのね」
美津子はまた、ふうとため息を吐く。
「宮司さまが、ちょっと変わった炊き出しがいいって」
「炊き出しといえば味噌汁だな」
「だから、ちょっと変わった食べ物がほしいって言われてるの」
美津子は、ちょっと声を張り上げた。
「杏奈がいなり寿司を考えてくれたの。でも、普通の酢飯を入れたのでは、変わったものにならないでしょう?」
「…ん?」
順正からは相槌すら出てこない。美津子は一旦彼の反応は無視した。
「カレーいなりのほうは、ベジタリアンなのね」
美津子は杏奈のメモ書きを見て言った。
「そうです」
「でね、二種類作るんだけど、一つはカレー風味、もう一つは、ゆかりみたいな香辛料が入ってるんだけど」
順正はその時点ですでに、考えるのをシャットダウンしたいところだった。ゆかりみたいな香辛料とは?
「そこに、しらすが入ってたほうが嬉しい?いらない?」
順正を相手に、こんな食べ物の話なんかしているのが、杏奈は信じられなかった。聞く相手が間違っているのではなかろうか。ぽかんとした順正を見ながら、美津子も、杏奈と同じことを思い始めたところだった。
「…どっちでもいい」
ほんの少しの沈黙の後、順正から出た答えはそれであった。
─来た!
一番困る回答である。全然、参考にならない回答である。美津子はため息を吐いた。
「まあ、いいわ。外で振舞うものだし、しらすは無しにしましょう」
「そうですね。いたむのが心配ですしね」
杏奈はノートを手元に引いた。
順正は二人のやり取りを気にすることなく、資料を流し読みしていたが、最後の方は、パラ、パラとめくるだけで読み飛ばした。それから無造作に、美津子へ返す。
「どうだった?」
美津子は資料の感想を順正に求めた。杏奈は、再びノートと向き合うふりをしながら、無意識に耳を澄ませた。が、順正は首をわずかに傾げるのみだった。
「この分野のアーユルヴェーダの見解、興味あるでしょう?」
「それほどでもない」
順正と美津子の会話の合間にだけ、杏奈がペンを滑らす小さな音がした。
「結局、期待するところが妊娠や出産になるだけで、やることは変わらないんだろう」
クライアントが、自分をどういう状態にしたいと思っているかはバラバラだが、実際に取り組むべきことはほとんど変わらない。アグニを鍛え、ドーシャをバランスする。食習慣と生活習慣を整え、性的エネルギーをコントロールし、良質な睡眠をとる。これらの健康の柱を、強固なものにするよう、努力することだ。
「そうね」
順正の言う通り、目標が変われど、アーユルヴェーダのやり方は基本的には変わらない。個人に合わせて、多少調整は必要だけれども。
「でも、妊娠や出産を見据えている女性は、緊迫感がちがう」
たとえ口では「自然にできたらいいな~っていうくらいです」と言っていたとしても、本音はそうでないことも多い。
単に自分の健康を守るよりも、大きな期待と不安をもって、あかつきへやって来る。妊娠や出産は、その後のその女性の人生だけでなく、その子供の周りの世界に影響を与えるものだ。
杏奈は、美津子の言っている意味が少し、分かる気がした。咲子と結衣を目の前に話をして、彼女たちの大切な時間やお金を預かった責任感のようなものを感じたのだ。おそらくそれは、今まで美津子が一人で背負っていたのだろう。
「クライアントは期待と信頼を寄せてあかつきへ来る。けれど、期待が裏切られたと思った瞬間に、それまでに持っていた信頼はあっという間に消え失せてしまう」
「それはそうだ」
順正が即座に答えるのを聞いて、杏奈は、この医師もそれを経験をもって知っているのだろうと察した。
だが杏奈には、想像もつかなかった。生と死のすぐそばにいる産科医や助産師が、日々どれほどの喜びや悲しみ、あるいはその他の複雑な感情を処理しなければならないか。
順正の脳裏には、病院の冷たい、無機質な空間が広がっていた。辛いケースに遭うと、母親は、自分が悪かったのではと疑う。その母親の周りの者も、自分たちに何かできなかったのかと考える。そこで、医療科学とは別の分野から、心と身体を見つめ直そうと考える者もいる。
たとえば、松下クリニックで働く助産師の中にも、中医学に興味を持ったり、もっと一人の妊婦に寄添える助産院を開業したりする者がいる。それは、より具体的なアドバイスができ、心の面で女性の力になりたいという思いからだろう。
「それにしても、あなたも勉強熱心ね」
美津子は急須を取り、順正にお茶をすすめた。それで順正は、脳裏に浮かんだ光景から離れることができた。
「専門分野外の論文も読んでいるの?」
「関わりがあれば分野は関係ないよ」
言葉は素っ気なかったが、順正の声色は穏やかだった。
「読む時間あるの?」
「一日に一本でも読めればいい」
順正はにべもなく言った。
「そうすれば、三年以内に千本ノックできる」
「千本ノック」
杏奈は、穴から出てきたプレーリードッグのように、上体を伸ばして顔を上げた。美津子と順正は同時に杏奈に視線を向けた。杏奈はしまったという顔をして、両手を口に当てた。
「なんでもありません」
順正は不可解だという顔をした。
美津子は顔を正面に戻しながら、同じような言葉を、他でもない、隣の隣にいる杏奈が使ったことを思い出す。
─そういえば…。
美津子は思った。
─この子たちはどこか似ている。
朴訥として無表情で無口。外側だけ見ると、何を考えているのか分からない。しかし、内側には熱い思いがある。その思いに従い突き進み、他を見ることがない。暇さえあれば、勉強と自己鍛錬に励んでいる。
美津子はそんな二人が自分の前に居合わせたことが、おかしかった。
「それには…」
と言って、順正は美津子が脇に置いた、先ほどの資料を指差す。
「ヨガのポーズがのってないけど」
杏奈は、片方の眉を上げた。
「そうだったかしら」
美津子はとぼけたように言って、資料を手に持った。
「腹直筋離開を防ぐポーズや、産後の骨盤調整に役立つポーズは書いといてもいいと思うよ」
松下クリニックでも、希望者には、マタニティビクスやアフタービクス、マタニティヨガに参加してもらっている。需要があるはずだ。
「腹直筋離開が何か知ってる?」
美津子は杏奈に尋ねた。
「いいえ。分かりません…」
「そう。じゃあ調べて、おいおい書き足しておいて」
「はい…」
杏奈は返事をしながら、美津子の言った言葉をノートにメモ書きしたが、漢字変換できないことに気が付いた。
ふと顔を上げると、順正と目が合った。杏奈はすぐに視線をノートの上に戻した。
順正もまた視線をそらしながら、しかし、気がこの斜め前にいる伏し目がちな女に吸い寄せられていくような気がした。そしてこの感覚は、ここではないどこかで、何度か味わったものなのである。
─…なぜ。
見るともなしに美津子が手に持つ紙の束をもう一度見やりながら、順正は自分の一番敏感なセンサーが働いているのが分かった。その感情がその人の中にある時、順正は否応なしにそれに気付いてしまうのだ。まるで呼応するように。
─なぜ…
問題は、どうしてその感情がそこにあるかだ。一過性のものだろうか。しかし、順正は理由を知りたくはなかった。あの森と杜の狭間で呼吸に意識を集中することで、せっかく溜まったものを流したというのに。
順正はふうと息を吐くと、
「行くか」
と低い声で言って立ち上がった。
「まだ来て間もないのに、もう帰るの?」
美津子は言いながらも、順正を見送るためか、席を立った。
「散歩のついでに酔っただけだから」
順正が椅子にかけていたマウンテンパーカーを羽織ると、木のような土のような、森のにおいが杏奈の鼻を打った。
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