空が白みかける頃、杏奈は栗原神社に小走りで向かっていた。全力疾走できないのは、重たいリュックを背負い、風呂敷に包んだ荷物を手に持っているからである。リュックの中には炊き出しの食材、風呂敷に包んでいるのは、いなり寿司の補充であった。
「おはようございます」
笛の音と太鼓の音がする祭場に行きたい気持ちも山々ながら、神社のお勝手口から炊事場に入る。そこにはまだ誰の姿もなかったが、出入りが激しいらしく、鍵は開いていた。
杏奈はいなり寿司を冷蔵庫にしまうと、食材はそのままに祭場に向かった。
炊き出しの白テントの下は、今はもぬけの殻である。
等身大の榊を持った鬼が一人、舞っている。演目は分からない。観客はまだらだが、杏奈はその中に美津子の姿を見つけ、後ろから声をかけた。
「おはよう」
「おはようございます。頼まれていた炊き出しの食材を持ってきました」
「そう。手伝うわ」
杏奈と美津子は炊事場に入って、みそ汁を作る。業務用らしい大きな炊飯器からは、誰が仕掛けたのか、タイマーが作動したらしく、ご飯を炊く音がし始めた。
「おお、美津子さん」
炊事場に入って来たのは、ぐう爺だった。
「…と」
ぐう爺は、杏奈の後ろ姿を見ても、名前が出てこない。よく見る娘ではあるのだが。
「杏奈です」
美津子がぐう爺に教えた。ぐう爺はそれには答えず、
「ありがたい。ここに詰めとる巫女はまだ起きて来んようで」
参集所の西、炊事場のすぐ近くの座敷は、「部屋」として使われていたが、今は夜通し踊り続けた男たちが転がっている。
杏奈と美津子はその一角に折り畳み机を置き、鍋と握り飯を次々に運んだ。出汁の香りを嗅ぎつけて、寝ていた男たちもむくり、むくりと起き出す。
「どうぞ」
杏奈は赤だしの味噌汁を配る。こんなに次から次へと味噌汁を注いだのは初めてかもしれない。
そのうちに、まだ眠たそうな巫女が二人現れ、食べ終わった後の茶碗や箸を炊事場に持っていったり、新しいものを持って来たり、洗ったりを手伝ったりしてくれる。
早朝の参集所の座敷は、小さなストーブがあっても、決して温かくはない。出汁が効いた温かい味噌汁、炊き立ての握り飯は、そんな中でこの上ないご馳走となる。気心の知れた地元民ばかり、というのが、この空間をさらにあたたかなものにしていた。
杏奈はまだよそ者だが、この雰囲気の和やかさを感じ、とても好ましいと思う。
朝の炊き出しの手伝いを終えた杏奈が祭場へ向かうと、見慣れた人が何人かの中学生らしい男の子たちと喋っていた。首から一眼レフカメラをぶらさげたその人は、羽沼だった。
祭場では今、赤鬼、緑鬼、赤天狗の面を付けた三人が、荒々しく釜の薪を荒らしているところだった。どの面も、通常の人の顔の大きさよりも一回り以上大きい。杏奈はこの鬼の顔を、他の場所でも見たことがあった。はっきり記憶しているのは、足込温泉の内湯。天狗のような鬼のオブジェから、湯が出ていた。二月に入る頃には、食品館わかばのディスプレイにも鬼の人形やらポップを見つけたし、この神社の絵馬にも鬼が描かれている。厳かだが、どこか愛嬌のある顔だと、杏奈は思う。
「じゃね」
「またね」
杏奈は、男の子たちが去っていくのを遠目に見た。色鮮やかな羽織を着た男の子たち。
─あの子たちも踊り手なのか…
杏奈は彼らの後ろ姿が遠くなってから、羽沼に近づいた。
「羽沼さん」
声をかけると、羽沼はにこやかな表情で杏奈を見た。杏奈はそのやわらかい表情に、尾形を重ね、少し切なくなる。
「昨日はありがとうございました」
「ううん。いい気分転換になったよ」
相手を慮った優しい言葉。こういうところも、尾形に似ている。
「羽沼さんは花祭には出られないのですか?」
「うん。撮影したいからね」
羽沼はカメラを構え、観客の後ろから祭場の様子を何枚か撮った。
「さっきの男の子たちは、知り合いですか?」
「うん。野球部の子たち」
そういえば、羽沼は足込中学校の野球部の外部顧問をしているのだった。花祭シーズン中は練習が休みになり、代わりに部員たちは率先して祭りに参加する。
「野球部の子なら体力もあるでしょうし、地元の有望株ですね」
「まあ、本人たちはお小遣い目的だけどね」
ほんの千円、二千円程度だが、出演料というものがもらえるらしい。
「そうだ。さっき小須賀くんに会ったよ」
「あ、そういえば小須賀さん、あれからどうしたんだろう」
杏奈は小須賀のことをやっと思い出した。
「参集所のソファに座ってたよ」
というか、寝ていた。周りには祭りの関係者らしい中高齢の男たちが、寝息を立てていたらしい。
「そうですか」
杏奈は様子を見に行くのを後回しにして、舞を眺めた。
「あら、小須賀さん」
美津子は参集所のソファで寝ている小須賀を見つけて、歩み寄った。顔がいつにも増して白く見える。周りにはもう誰もいないが、ここで地元の誰それかと吞んでいたようである。
「あ、美津子さん」
ガラガラした声を出した小須賀は、薄目を開けて、ゆっくりと身を起こす。
「一晩中ここにいたの?」
「はぁぁ…」
小須賀はあくびをしながら、首を縦に振った。
「酔った爺さんたちに絡まれてしまって」
まだ頭がぼーっとする。小須賀はこめかみを抑えた。頭を前にすると頭痛がする。ソファの背に上体を預けて目を閉じた。
美津子はその場を立ち去ったが、ほどなくしてまたやって来た。水を入れたコップを小須賀に握らせる。
「ありがとうございます。今何時です?」
「もう十時よ」
小須賀は水を半分ほど飲んだ。
「そうですか…今、祭りどのあたりですか?」
「私も中の手伝いをしていて、分からないの」
現代の花祭には、祭場に招いた神々に、酒食と舞を献じて種々の願いを奉じるという、大まかなストーリーがある。
神寄せ:祭場(まつりば)を清めて神々を迎える
湯立て:祓い清めた釡で滝の水を沸かし、聖なる湯を献じる
立願の舞:諸々の願いを奉じる
神返し:舞の後で神々を天空に返す
だが、祭りの根本部分には、もっと奥深い宗教性がある。もともとは、真冬に地中に沈み込んだ精霊たちを、この祭りの舞の所作によって呼び覚まし復活させる「再生」の意味を持っていた。一度生気を失ったものを復活させる「疑死再生」の考え方である。この思想がやがて人間の魂の復活を願う「生まれ清まり」の概念へとつながり、花祭の根本理念となった。
─一度生気を失ったものを復活させる…
あかつきを興した頃、この花祭の理念を思い出し、美津子は自分の仕事上の使命と重ね合わせたものである。
鬼が大蛇を倒し、大蛇の腹から草薙剣を取り出すのを見て歓声を挙げる他の観客に混じって、杏奈は拍手をした。
獅子舞のような大蛇が登場する「大蛇退治」の演目は、分かりやすいストーリー展開を踏むだけに、観客の反応も良かった。
神社の隅の方では、見飽きてしまったらしい子供たちがゲームをしたり、スマホをいじったりしている姿も見られた。
昼近くなって、杏奈は炊き出しの手伝いに呼ばれた。炊事場では巫女に混じって、小須賀が手伝いをしていた。もともと色が白い男だが、この日はより白っぽいように見えた。
「大丈夫ですか?」
小須賀は返事をする代わりに、咳払いをした。
杏奈は何を手伝ったらいいか、近くにいた巫女に聞いた。
「野菜を洗って切ってくれます?」
そう言われ、水を張った桶に野菜を入れて洗っている若い巫女を手伝うことにした。大根、カブ、人参、里芋。茎の部分の土を落とすのに時間がかかっているようだ。
「お姉さん、あかつきの人?時々花神殿へ来てますよね」
若い巫女は、杏奈が隣にしゃがむなり尋ねた。
「私、小夜っていいます」
「小夜さん。杏奈です」
小夜と名乗った巫女は、物怖じしなさそうな、人懐っこい性格のようだった。
「これは、何を作るんですか?」
「けんちん汁です」
野菜のごった煮だ。洗った野菜を別の巫女が次々に運んで、小須賀と一緒に刻んでいる。
「お姉さん、あのいなり作った人?」
「はい」
「うわあ。あのカレー味の、好きでした」
杏奈は嬉しくなって、顔を綻ばせた。
小夜はテキパキと里芋をたわしでこすっている。
「あのね、私、来年は炊き出し、カレーがいいです」
「ああ…」
炊き出しといえば、確かにカレーである。
「変わったやつを、お願いします。スパイスから作るやつ」
「小夜」
野菜を切っていたもう一人の巫女が、
「それじゃ、私たちの仕事がなくなっちゃうでしょ」
嗜めるように言ったが、その顔は笑っていた。
野菜を洗い終わると、小夜は里芋の皮を剥いたが、杏奈は小須賀からそれを手伝うのを禁止された。手の炎症を心配されているのである。
杏奈は火の番をすることになった。出汁の入った鍋に、切った根菜を加えていく。拍子切りにされたこんにゃくも。二つのコンロに、二つの大きな鍋。均一になるよう野菜を加えて、火にかける。硬い野菜が煮えたら、カブと葱を加え、木綿豆腐を手で崩したものも加える。
「お、うまそうなにおいだな」
けんちん汁が出来上がる頃、炊事場にぐう爺がひょっこり顔を出す。
「どれ、ちょっと味見…」
「じいちゃん、邪魔!」
ぐう爺はお椀を運ぶ小夜に、盛大に邪険にされた。
杏奈と小須賀は炊き出しの手伝いを終えると、ちゃっかり賄いを食べてから、再び祭場へ向かった。
「あ、羽沼さん」
杏奈は再び羽沼の姿を見つけた。が、美津子の姿は見えない。
「佳境に入ってるよ」
羽沼は杏奈と小須賀の姿を見ると、祭場を指さした。花笠をかぶった、小学校高学年から中学校くらいの男の子三人が出演している。藁を茶筅のごとく縛ったようなものを持って、釜の周りを回る。しゃがむ、進む、回る。軽快に、何度も同じパターンの舞をした後、茶筅の先端を釜に付け、そのまま観客の方へ近づき、茶筅を振って水滴を撒き散らした。
「わっ」
観客たちはとっさに手をかざして水滴から顔を守った。
小須賀も身を屈めたし、羽沼はカメラを守った。しかし、杏奈は反応が遅く、まともに水しぶきを食らった。
「ははは…」
小須賀は、そんな杏奈を見て、
「やっぱりどんくさいな」
と笑った。舞子はその後も、釜の中の湯を振りかけて回った。
「湯を浴びると、一年健康で過ごせるって言い伝えがあるらしいから」
そう言いつつ、羽沼は水しぶきからカメラを守る。
「浴びたほうがいいかもしれないよ」
ほどなく、演目が変わる。
本殿から、太鼓の音がドンドンと響き渡る。太鼓の音以外は何も音がしない。
神社は、にわかに厳かな雰囲気になった。
今まで照っていた太陽が雲に隠れ、当たりが暗くなる中、松明に照らされた祭場と本殿だけが、明るく浮かび上がった。観衆も静まり返って、次の演者の登場を見守る。
美津子は人垣の隙間から、中の様子を覗き込んだ。
ドン。
ドン、ドン、ドン、ドン、ドン、ドン…
ひと際高く太鼓の音が響いた後、次々に速度を上げて太鼓が打ち鳴らされ、その音とともに五人の舞い手が祭場に現れる。観衆はどよめいた。
まず、槌(つち)を持つ黒鬼。鉾をもつ赤鬼と白鬼。鉞(まさかり)をもつ天狗と茶鬼。五人が祭場に入ると、松明を持つ先導者は後ろに退いた。
羽沼は一番の見どころを見逃すまいと、カメラではなく、スマホをかざし、動画を撮る。
本殿から笛と太鼓の音が鳴り響いた。
五人の演者たちは観客の方を向き、笛のメロディに合わせて行為をする。動きを止め、その場で小刻みに足を動かす。花祭の象徴である榊鬼が、大地を足で踏みつけるこの動きに、美津子は見入っていた。これは「反閇」と呼ばれ、修験道に取り入れられている陰陽道の呪法のひとつ。大地の精霊を呼び起こす法力があるとされていた。ひとしきり地面を踏むと立ち止まり、足を腰幅より少し広く開いて力ずよく大地を踏み、腰に手を当て、観客を睨みつけるように顔を動かす。
真っ赤な衣装を着て踊る舞手の顔が、こちらを向くのを見て、杏奈は息を呑んだ。
─この赤鬼…
美津子も、真っ赤な衣装を着た赤鬼が正面に現れるたびに、息を詰めた。
─凄みがある。
他の演者と比べて、背は高くない。しかし、どの演者よりも伸びやかに、優美に動く。膝は高く上がり、背筋はピンと伸びている。体幹がしっかりしているのか、どんな動きをしても、まったく軸がぶれていない。そして、手の指先、足の指先にまで、意識がこもっている。
美津子は赤鬼の動きに釘付けになった。
観客の数は、これまでになく増えていた。にわかに増えた観客の中に、若い女性の集団がある。身を乗り出すようにして、演者の動きを見守りながら、口々に何かささやき合っていた。その集団から、歓声のような、悲鳴のような、黄色い声が上がったのは、演者たちが釜の上につるしてあった蜂の巣を、それぞれの持ち物で突いて、お金を落とし、それを観客のほうに放ったからだった。お金はこの祭りの中で、幸運をもたらす象徴として扱われている。巻き散らかされたそれは作り物だが、観客たちはそれを我先に拾おうとする。
祭場の中心では、演者たちが薪を荒らす所作をした。
美津子は身の回りの者が身を屈めて縁起物を拾い上げる中、棒立ちになり、赤鬼だけに視線を集中させていた。
鬼の舞は祭りの一番の見どころである。鬼とともに、町民も観光客も、囃子声をあげながら一体になって体を動かして、祭りは最高潮を迎えた。
最後の湯囃子は、その熱量を引き継いだまま、これも大変盛り上がる。が、美津子は湯囃子に演目が変わると、退いていった鬼たちを追いかけるように、参集所へ入った。
部屋となっている座敷では、演目を終えたばかりの鬼たちが次々に面や飾りを解いていた。肌着まで脱ぐことはないので、部屋は基本的に解放されており、女の出入りも自由である。
部屋から少し離れたところに立っていた美津子は、赤鬼が面を外し、赤いタオルを解くのを凝視した。面の下に現れたその顔は、どこか女性じみた美しさのある、眉目秀麗な美男子であった。
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