第60話「アーサナ」アーユルヴェーダ小説HEALERS

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「関節のオイル塗っていきます」
 杏奈は、沙羅がクライアントにアビヤンガを施す場面に立ち会っていた。もちろん、クライアントの了承は得ている。
「くすぐったいですか」
 かすかに体をよじったクライアントに、沙羅は訊いた。
「いえ、大丈夫です」
 杏奈は時々トリートメントマニュアルを見て流れを確認しながら、沙羅の立ち振る舞いを観察する。姿勢、クライアントへの声掛け、手技。
 二階の施術室に流れているのは、心地よいピアノ。
 今回のクライアントの名前は、真奈という。五十三歳。オンラインで行った事前コンサルの時には年齢より若く見えたが、実際に本人を見ると年相応な感じがした。色が白く、痩せている。
 沙羅は足元に立つと、足から脚の付け根に視線を這わせる。左脚だけを見ると分かりにくいのだが、今回のクライアントは、体のゆがみがひどい。脚はO脚で、左右の長さが違う。それは骨盤の水平面の高さが異なるからだ。右脚の方が、わずかに長い。
─普段の体重のかけ方に癖があるんだ。
 アビヤンガを覚えたての杏奈に、沙羅はこのクライアントの体を見せたかった。そしてどうアプローチしていくべきか、考えを共有したい。しかし、沙羅は自分の独断で実際にそうすることはなかった。

「真奈さん。五十三歳。今日から二泊三日滞在します。今、二階でアビヤンガを受けています」
 美津子は書斎で、若い男性のヨガインストラクターと相対していた。この男、鞍馬は、黒いライダースジャケットに、ジーパンという姿だった。あかつきまでは、バイクで来ているらしい。ジャケットを脱ぐと、その下は薄水色のヨガウェア。若く、色が白く、目鼻立ちが整った鞍馬に合う色だった。
「体のゆがみが気になっています」
 巻き肩、内臓下垂。そして、軽度の側弯がある。
「針治療や整体に通ったものの、お金がかかるので、自宅でできるヨガを教えてほしいと希望しています」
 鞍馬は、美津子が差し出した健康に関する質問票を手に取って、
─げ。
 と声が出そうになった。文字がびっしり。そんなのが八枚も綴られている。一瞬で、読む気が失せた。
「ヨガの経験はありますか?」
 質問票に書いてあるのかもしれないが、ざっと目を通しても見つけられない。鞍馬は美津子に訊いた。
「ヨガの経験はほとんどなく、本人曰く、体は硬いとのこと」
「ふうん…針治療では良くならなかったのでしょうか」
「効果が出るまで、継続できなかったのかもしれませんね」
 お金がかかるから、自分でできることを…と言っていた。
─こんな施設に滞在しておいて。
 鞍馬は書斎を見渡した。あかつきの内装は重厚で奥ゆかしいが、金持ちの別荘と言ってもおかしくないほど高級感がある。あかつきへの滞在を通して一時的に体に投資し、あとは自宅で、お金をかけずに体を整えたいというわけか。
「真奈さんはすでに、閉経しています」
 その情報は鞍馬にとって、なくても良いが、あるに越したことはないものだった。
 ジムでヨガを受ける女性は、閉経しているのか、生理中なのか分からない。決まったプログラムをするため、生徒が誰であろうと、そのコンディションがどうであろうと、同じポーズをする。そのポーズをするかどうかは自己責任であるが、実際、生理中は行わない方が良いヨガポーズというものは存在する。真奈に関しては、生理中の禁忌は気にしなくて良いということだ。
「他に留意しておくべきことはありますか?」
 鞍馬は質問票をめくったが、読んだ情報がすぐに頭から抜けてしまう。家族の既往歴、普段食べているもの、生活習慣、感情の傾向…情報がいっぱいありすぎて、逆に何も把握できない。
「今はそうでもないようですが、三年前まで、精神安定剤を服用していたそうです」
「精神安定剤ですか?」
 真奈は不安を感じやすいタイプだった。かれこれ、十二、三年もの間、安定剤を服用していた。何か一つの大きな原因があるわけではなく、小さな、様々な要因が不安をもたらしていたのだと自己分析している。家族との関係性、職場での人間関係、自分のやるべき仕事…
「真奈さんは薬膳などを学び、占星術や数秘術などを通して、自分を知ろうとしてきたそうです」
「はい」
「それを通じて、人に目を向けていたのが、自分に目を向けるようになり、薬膳の学びを深めようと思っていたようですが…」
 インスタで、あかつきの投稿が目に飛び込んできたのである。キッチャリーに関する投稿だった。
「今回はアーユルヴェーダを通し、自然に沿って生きる方法を身に着けたいとのこと」
─体を良くするために良いものを取り入れることが必要…と思っていたけれど、その前に出すことが重要だという教えに、深く共感しました。
 と、先ほどのカウンセリングで、真奈は言っていた。
 現状、真奈はヴァータが過剰になっている。不安や恐怖を抱きやすいし、考えや行動が変わりやすい。しかし、本来の性質は、必ずしもヴァータが優位ではない。
「鞍馬さんは、アーユルヴェーダをご存知?」
「ええ。ヨガの資格を取ったスクールで、何回か講義がありました」
 しかし、鞍馬はアーユルヴェーダの概念をほとんど覚えていなかった。
「真奈さんはヴァータが優勢で、不安になりやすく、体も痩せていて、あまり丈夫というわけではありません」
 美津子は施術を通して真奈の体を見ていないので、あくまで先ほど見た限りでの話なのだが。
「このところを考慮して、ヨガの指導をしていただきたいのですが」
「そうですね…」
 鞍馬は唇に指を当てた。相変わらず、恰好だけは質問票を見ているが、もはや文字は追っていなかった。
 優勢なドーシャにより推奨されるヨガの大まかな方向性があることくらいは、鞍馬も知っていた。ヴァータとピッタはゆったり系、カパはアクティヴに、というくらいのざっくりした方向性だが。
「マットを出して、そこで練習していていいですか」
 鞍馬は、質問票を置いた。クライアントの状態を見ないまま、考えてばかりいてもしょうがない。美津子が頷くと、鞍馬は立ち上がった。

「親指をここにつけて、そうです」
 アビヤンガとアフターカウンセリングが終わると、間もなく、鞍馬のパーソナルヨガレッスンが始まった。
 真奈は白い長そでのトップス、灰色のストレッチパンツに身を包んでいる。身長は沙羅と同じくらいだが、沙羅よりも骨格が細い。
 その真奈は、今、一つのヨガブロックを両足の間に挟んで立っていた。
─O脚だな。
 と、鞍馬は思った。足先が外側を向いていることが原因か。それに…
「内踝がブロックについているの、分かりますか」
 真奈は戸惑っていたが、鞍馬の指が内踝に触れて、やっと意味が分かったようだ。
「はい」
「本来これは、ブロックに触れないはずです。足裏のアーチが潰れていると、こうなります」
 邪魔にならない位置で、美津子、沙羅、杏奈の三人が、そっと鞍馬のレッスンを見守っている。
─というか、監視されてる。
 鞍馬は、内心やりにくさを感じていた。杏奈に関しては時々写真を撮りにくる。クライアントへのフィードバックのためかもしれなかった。
「親指と小指、かかとの三点で、しっかり床を押してください」
 真奈は言われた通りにした。ただ立っているだけだが、とても違和感がある。
「あの、先生。これはヨガですか?」
 次々に流れでポーズを取るという、真奈のヨガのイメージからかけ離れている。
「これは、タダーサナという、最も基本的なポーズの練習です」
「タダーサナ、ですか。私は横文字が苦手で…」
「山のポーズです」
 鞍馬は日本語の名前を教えて、相好を崩した。
「それに、ポーズを取ることに、あまりこだわらなくても良いと思いますよ」
 鞍馬はすんなり答えた。
「それよりも、普段から正しい姿勢でいることが大事です」
 美津子と杏奈と沙羅は、なるべく気配を消して、鞍馬の指導を見守っている。
「それに、立ち姿勢を整えるには、まず安定した土台が必要なんです」
─スティラと、スッカ。
 沙羅の心には、そのヨガの教えが浮かんだ。
─アーサナには安定と快適(スティラとスッカ)が必要である。
 これは、ヨガの経典ヨガ・スートラの有名な教えだ。スティラは強さと緊張状態、スッカはリラックスした状態。この二つは対極にあるが、アーサナ(ヨガのポーズ)を練習するにあたっては、両方が必要だ。そして、アーサナをする時だけでなく、普段の姿勢においても。
「壁に背中をくっつけてやってみましょう」
 今度は鞍馬は、書斎と居間とを隔てる壁に、真奈を誘った。ブロックを挟んだまま、かかとを壁につけてもらう。
「どんなポーズを取るにも、今やった支持基底面…足裏の安定と、骨盤ニュートラルが基本なんです」
「初めての言葉で、よく分かりません」
「大丈夫です大丈夫です。今から体感できます」
 言葉で説明するよりも、体を使った方が早い。
「手のひらを背中と壁の間に挟んでください」
 真奈は右手を、言われた通りの位置に差し込んだ。
「すんなり手が入りますね」
 真奈の背中と壁との間には、ぽっかりと隙間が空いていた。
「これは骨盤前傾、いわゆる反り腰というやつです」
 鞍馬は軽く説明をした。骨盤の一番高い所、上前腸骨棘と恥骨結合を結んだ三角形が、壁と平行にある状態が、骨盤が正面を向いている状態。しかし、真奈は上前腸骨棘のほうが、恥骨結合よりも前側にある。
「お腹を引き上げて、おしりのしっぽを下に下げるような意識をして、壁と背中との間に、手の平がぎりぎり一枚入るくらいの空間を作ってください」
 真奈は戸惑いながらもやってみた。なんだか、体が全体的に後ろに倒れている気がする。
「今度は、水平面での骨盤の高さです」
 先ほどの上前腸骨棘を結んだ線と、床が平行になっているかどうか。
「右の方が、上前腸骨棘が高い位置にあります」
「ああ…やっぱり左右で違いますか」
 アビヤンガにて真奈の体を見ている沙羅は、
─そうだ。真奈さんは、右脚のほうがわずかに長い。
 同じことを、鞍馬もすぐに気づいたのだと分かった。
「左脚に重心をかける癖はありますか?」
「右利きなので…あれ?右利きだと、左脚に重心が乗りますか?」
「保育園の給食を作っていると聞きました。よくお料理されますか?」
「はい…もしかして、右手で何かを切る時、無意識に左脚に重心がかかっているのかも」
 料理が引き金か、もともと左脚に重心がかかりやすかったのでそうなったのか…
「いずれにしても、普段からどちらかの脚に体重をかけないほうがいいですね」
「はい」
「それから、足を組むことも」
「足、よく組んでます」
 鞍馬はさもあろうと頷いた。
「最後に、回旋していないかどうかです」
 これは、仰向けになったほうがよく分かる。そして、これも沙羅は答えを知っている。
「左のほうが高く、右のほうが低いですね…」
 つまり、真奈はいつも、体の左半分が前に向いていて、右半分が後ろを向いている。体が回旋した状態にあるのだ。顕著ではないが、見る人が見れば、明らかな身体の歪みがある。
「理学療法士さんには、特発性側弯症と…」
 特発性側弯(構築性側弯)症は、原因は不明だが、一般的に急成長の時期、思春期に発生、悪化するといわれている。
「体のゆがみ、左右差は、腰痛や肩こり、頭痛の原因にもなりますからね。予防や改善を期待して、ヨガをやっている方も多いですよ」
 起き上がった真奈に、鞍馬は明るくそう言って励ました。
「そうなんですか…私にもできますかね…」
「はい、今から一緒にやってみましょう」 
 沙羅は、ヨガを指導する鞍馬の様子を見ながら、心がざわつくのを感じた。
 去年の今頃…美津子と連絡を取る少し前まで、沙羅は、自宅でこんな風に、ヨガレッスンをすることを夢見ていた。あかつきで働けることになり、一旦、自分の優先順位から抜け出てしまったが、その夢がもたらしてくれるわくわく感を、今、再認識した。
─やっぱり、ヨガを教えたいなぁ。
 七瀬を預けられるようになって時間ができた。
─こんなことなら…
 あかつきでヨガ講師をしたいと、名乗りを上げるべきだった。美津子が鞍馬を探し出す前に。鞍馬と自分のスタイルは、全く同じではない。鞍馬だからこそできる、ヨガの指導があり、それは自分にも同じ。
 自分はこの若い男性からも、学ぶことがあるのだろう。沙羅は、今はただひたすら、鞍馬の指導を見守った。

「なんでここにたむろするかな」
 調理台に横並びになって、一台のパソコンを見つめる沙羅、鞍馬、杏奈。折り畳み椅子に座る鞍馬を、左右から沙羅と杏奈がはさむ格好だ。
─いきなり女に囲まれてるのかよ。
 この状況を見て、小須賀はちっと舌打ちした。新参者の鞍馬が、小須賀の目には、ちゃっかりしたいけ好かない野郎に映っている。
 何よりも、昼食の準備を進めている小須賀としては、ここに三人も人がいると、邪魔でしょうがない。
「左脚に体重がかかりやすくて、反り腰…」
 鞍馬が口頭で述べる指導案を杏奈が入力し、沙羅が画面を覗き込む。
「今日やったワーク…」
 鞍馬は、綿密に記録を取ろうとする二人に挟まれながら、少しうんざりしていた。
「今時、こんなの紙に印刷して見るんですかね」
 若い鞍馬としては、メソッドを習得しようとする時、基本的に動画に頼る。紙の資料など、あったところでほとんど見返さない。
「紙のいいところは」
 鞍馬の問いに答えたのは、意外にも小須賀だった。
「いつでも見返したい部分を、すぐに、文字で追えるところだよ」
 動画だと、任意の部分が何分何秒後に再生されるかメモしておかない限り、すぐに情報を拾えない。
「真奈さんは五十三歳なんでしょ。紙資料のほうが重宝する年代だって」
 小須賀は話しながら、平皿を数枚調理台においた。
「あんたらね、不衛生なのよ。今から盛り付けるから、どいてくれる?」
「すみません、真奈さんがいるのに書斎や居間でやっていたんじゃ、うるさいかなと思って…」
 と、沙羅。
「おれのことも考えてくださいよ。多少声聞こえても大丈夫でしょう。あとは書斎でやってください」
「書斎の机は低くて、入力しづらいんですよ…」
 と、杏奈。
「そんなの知らないね。で、おれはいくつ盛り付ければいいの?真奈さんと一緒に食べるのは誰?」
「美津子さんと、鞍馬くんと、沙羅さんと、私です」
「おれ以外の全員ってわけね」
 小須賀は少し、不貞腐れた表情をした。杏奈と沙羅はぱたぱたと撤退し、鞍馬だけがのんびりと、折り畳み椅子を片付けた。
「小須賀さんって、麻雀できます?」
「はい…?」
「大学時代の友達と、時々麻雀してたんですけど、最近みんな忙しくなっちゃって…」
 小須賀は少し呆れた。今日は土鍋でごはんを炊いた。炊き上がりの塩梅を確認している自分は、そんなに暇そうに見えるのだろうか。
「今日の夜十一時から、一人欠員が出てるんですけど、どうですか?」
「…お断りっすね」
 今日の夜は、あいにく夜の仕事が入っていた。が、鞍馬にはそれは言わないでおく。
「一応、ズームのURL送っときますから」
 ピコン、と通知の音が来て、小須賀は鞍馬に背を向けたまま嫌な顔をした。あかつきのグループラインから、小須賀個人のアカウントを辿ったらしい。
─かんべんしてくれよ。
 あいにく、若い男と遊ぶ趣味はない。
 
 数分後、杏奈がキッチンに戻って来て、盛り付けを手伝った。
「ここの仕事辞めるつもりだって、半年以上前から言ってるよね」
 小須賀は杏奈が隣に立つと、何の前置きもなしに言った。
 杏奈はようやく、小須賀の状況を見て、自分がやるべき仕事を拾うことができるようになった。一年近く、この先輩にどやされてきた甲斐もあり、彼の求めていることが、瞬時に把握できるようになったのだ。
「そうでしたっけ…?」
 杏奈はしらばっくれた。小須賀が前々からそう言っているのを、もちろん聞いてはいるが、本気とも受け取れない。
「なのに、最近呼び出しが多くない?」
 隔週の弁当納品日にだけあかつきに来ていたのが、最近では平日にも呼び出されるようになった。
「今日は、午前中は施術の見学、それに続けてヨガの練習の見学があったので、私が料理当番できなかったんです」
 早朝から仕込めばできないこともなかったが、美津子は、これ以上杏奈が時間外労働をすることを認めなかった。
「鞍馬の審判は、美津子さんと沙羅さんだけで十分っしょ」
「美津子さんが、食事は小須賀さんに任せておけばいいって…」
「あいつ、使いものになるの?」
 小須賀はぼそっと訊いた。
「…私は、すごくいい指導だと思いました」
 しかしそれは、小須賀にとっては良くない知らせなのだろう。小須賀は明らかに嫌そうな顔をした。
「癖強めじゃない?」
 見た目は爽やかだが、ちゃっかりしていて、物怖じしなくて、初対面なのに上司を学生に毛が生えた連中の麻雀に誘い…
「なんか、厚かましくない?」
 杏奈はもはや愚痴ともいえる小須賀の小言にほどよく答えつつ、料理を盛った。真奈と美津子の分を運び、次に、鞍馬と沙羅の分を運ぶ。
「あとは、自分でやって」
 小須賀は、杏奈の分は盛り付けていなかった。杏奈の適量は人より少ないので、皆と同じだけ盛ると、多くなってしまう。
「はい」
 逆にこれが自分への配慮なのだと、杏奈にはもう分かっていた。
 食べ過ぎないようにするコツは、自分に合ったサイズの食器を選ぶことである。アーユルヴェーダが考える適量とは、両手を合わせた時に、軽く盛ることができるくらいの量。つまり、両手を合わせたくらいの大きさの食器を使うのがベスト。しかし、今日はクライアントがいる手前、杏奈はみんなと同じ食器を使った。
「そういえばさ」
「はい」
 杏奈は土鍋から、しゃもじでひとすくいご飯をすくった。つやつやでおいしそうな白米だ。
「羽沼の心の闇の出どころが分かった」
 いつもの小須賀の雑談だと思っていた杏奈は、その言葉で小須賀のほうを振り返った。
「…闇?」
「うん。あの人、普通にしててもどこか顔に翳りがあるっしょ。憂いがあるというか」
 杏奈は小須賀の言っていたことが分かる気がした。
「なんです?その闇って」
「精子の数が極端に少ない。それが離婚のきっかけになった」
 小須賀は、包丁をかざして見ていた。少し、切れ味が悪くなった気がする。この際研いでおくか。
「え…?」
 杏奈は続きを求めるように、小須賀を見た。が、思い直して、一旦キッチンを出た。先に食べていてもらうようお願いをするためだ。そしてキッチンに戻るなり、小須賀に説明を求めた。
 小須賀はさっきの一言で説明を終わらせたつもりだったのだが、杏奈に尋ねられて、先日羽沼から聞いたことを一通り喋った。
─…あ。
 最後に羽沼が言っていたことを、ようやく思い出して、小須賀はちょっとまずいなと思った。
─このことは、誰にも言わないでくれ。
 そう羽沼が言っていた気がする。
「ちなみに」
 難しい顔になった杏奈に、小須賀はさりげなく付け加えた。
「羽沼はこのこと、おれしか知らないっていう認識だから」
 羽沼の事実に驚き、言葉をなくしていた杏奈だったが、小須賀にそう言われると表情を曇らせた。
「…だから?」
「だからって、分かるっしょ」
「…」
 杏奈は、目を細めた。
「口止めされてたんですね?」
「…」
 小須賀は、うそぶくようにそっぽを向いた。
─されてたんだな。
 杏奈は、このおしゃべりな先輩に、非難がましい視線を送った。

 翌朝、鞍馬は七時半からという早い時間帯に、ヨガの指導にやって来た。
 昨日はヨガのポーズをシークエンス仕立てで練習するというより、ほとんどボディーワークだった。しかし、今回は細かい指導は挟まず、一連のポーズを取る。
 杏奈と美津子も参加した。
─ちっ。
 鞍馬は内心、ギャラリーの存在が目障りだった。美津子は、自分の品定めをしているのだろうが、杏奈は何のために居合わせているのだろう。
─タダじゃないんだけどな。
 自分のレッスンには、お金を払って受けにくる生徒がいっぱいいる。同僚だからといって、受けるのであればお金を払ってほしいという気持ちが浮かんだ。
 真奈のレベルに合わせ、鞍馬は難易度の低いポーズを選んでいった。ポーズを次々に行うよりも、長い時間キープすることを優先させる。
「いかがでしたか?真奈さん」
 最後のポーズ、シャヴァーサナが終わると、鞍馬は真奈ににっこりと微笑みかけた。心の中では黒いことを思っていても、クライアントにはおくびにもそんな様子を見せることはしない。
「気持ちよくポーズ取れましたか」
「あの…ええと…」
 純真無垢、といえるような、若く爽やかな男の笑顔を目の前にして、真奈はいくぶん戸惑った。
「体の左右差があるんだなぁって…つくづく感じました」
 真奈は恥ずかしそうに、首筋に手を置き、鞍馬から視線を逸らして言った。
「どのポーズで感じました?」
「ねじりのポーズですね」
「そこに気が付けたことが、素晴らしいですよ」
 鞍馬の声のトーンは明るかった。
「体の状態に気づけたのが第一歩です」
「ええ。自分の体の硬さを、身をもって知りました」
「体が硬いか、軟らかいかは、それほど重要じゃありませんよ。うまくポーズを取ることもです」
 鞍馬はそう言うと、その場に座って、両脚を揃えて前方に伸ばしだ。ダンダーサナ、杖のポーズ。
「例えば、このポーズのポイントは、骨盤を立たせたまま、股関節を屈曲させることです」
 支持基底面の安定、脊柱軸伸展、骨盤ニュートラル、肩関節外旋。単純に見えても、実は心がけるべきことが多いポーズだ。
「座骨で床を押し、背骨を伸ばして、骨盤を立たせる。この状態で、股関節を屈曲させます」
 そう言うと、鞍馬は上半身をぱたんと脚に近づけ、一昔前の携帯電話のような形になった。非常に体が軟らかい。
 真奈は息を呑んだ。鞍馬のポーズは美しかった。
「でも、ハムストリングが硬いと、前に進めません」
 鞍馬は、ハムストリングが硬いという想定で、もう一度ポーズを取ってみせた。背中が丸まり、骨盤が後ろに寝てしまう。
「無理に前傾しようとすると、このポーズで守るべきことを守れません」
 そこで、鞍馬は膝を曲げ、さらに足幅を広げた。
「でも、こうすれば、骨盤を立たせたまま、背骨を曲げずに、股関節を屈曲させることができるでしょ?」
 鞍馬は真奈の方を見て、にこっと笑った。
「体を軟らかくしなきゃとか、ポーズをうまく取らなきゃとか、思わなくて良いんです」
 鞍馬はそう言いながら、立ち上がった。
「本来の正しい姿勢を意識しながらヨガをすることが大切なんです」
 そうすれば、側弯を治すことはできなくても、これ以上悪化させないことにはつながるとは思っている。
 真奈は戸惑ったような表情を浮かべ、目線を美津子と杏奈の方に向けた。美津子は、穏やかな微笑を浮かべて、
「アーユルヴェーダのトリートメントで、体は一時的に柔らかくなりますが…」
 諭すように、真奈に話した。
「骨折した時に副木をあてるように、内臓や骨をあるべきところに固定しておくことはできません」
 真奈は頷いた。
「ですから、正しい姿勢を保つ意識が、重要になります」
 この意識が、副木の代わりとなって、真奈の体を支える。
「一日一回、たとえ数分でもヨガをすることで、自分の身体に意識を向けやすくなりますよ」
 しかし真奈は、自信がなさそうに、手を口元に当てた。
「その数分が…自分だと、なかなか時間が取れなくて…」
 真奈がそう言うと、鞍馬はにこっとして、真奈に歩み寄った。
「そしたら、真奈さん」
「…え?」
「僕と約束してください」
「は、はい…?何を?」
「一日三回、これをするんです。一緒にやってください」
 鞍馬は、真奈の真正面に立った。
「背筋を伸ばして立ちます。昨日やった、内踝を引き上げる意識を忘れないでくださいね」
 それから、足裏の三点で床を押す。真奈は、見様見真似で鞍馬と同じ動きをした。
「鼻から息を吸う。お腹を風船のようにふくらませて…できたら、おしりの穴をきゅっとしめます」
 杏奈は、鞍馬が何の動きを練習させようとしているのか、分かったような気がした。
「息を吐いて、お腹をへこませて」
 これはドローインだ。キッチャリークレンズの際、杏奈もこのプラクティスをクライアントに勧めたことがある。
「へこませた状態で、自然な呼吸を三十秒続けてください」
 真奈は、無意識にか、お腹に手を当てていた。
「そうそう、お腹を引き上げる意識、いいですね」
 鞍馬は、隙があれば真奈を褒めた。真奈はまんざらでもない顔つきになって、ひたすら呼吸を続けた。
「はい、楽にして」
 ぷはっと、真奈は息を吐いた。
「これを一セットとして、一日三回練習してください」
「一日三回…ですか?」
「はい。一日三回だけです」
 鞍馬はにこっと笑った。口調は柔らかいが、否とは言わせない意志を感じた。
「これは何にいいんですか?」
「今のはドローインといって、内臓下垂に効くワークです。真奈さんは胃下垂でお困りですよね。最初に山のポーズをして、体の正しい位置を意識して行ってくださいね」
 肋骨と骨盤の間、内臓の入っている空間を腹腔という。腹腔を囲む四つの筋肉(腹横筋、多裂筋、横隔膜、骨盤底筋群)がインナーマッスル。腹腔を上下左右から囲んで圧力をかけることで初めて、内臓は正しい位置に収まることができる。このインナーマッスルを鍛えるのに効果があるのが、このドローインである。言葉自体には、「ひっこめる」という意味がある。インナーマッスルを鍛えるとともに、この動き自体が内臓を正しい位置に戻すのだ。
「毎日続ければ、二週間後くらいには、胃下垂が軽減していることに気が付くはずです」
「本当ですか?」
「真奈さんが継続できるか次第ですけどね」
 そう言って鞍馬は、悪戯っぽい笑みを浮かべてみせた。真奈はその茶目っ気のある笑顔に、心がほぐされたのか、ちょっと挑戦するような笑顔で答える。
「あ…できないと思ってますね」
「え?そんなことありませんよ?」
 鞍馬は、戸惑ったように視線を動かして、首を傾げてみせた。それで真奈は、ふふっと笑った。
「分かりました。やってみます」
「約束ですよ…」
 鞍馬は、美津子と杏奈というギャラリーをそっちのけにして、すっかり二人だけの世界を作り上げていた。
「それでお腹がすっきりしてるなって思えたら、ヨガのポーズにも挑戦してみて下さい」
「はい」
「小さな変化を感じることが大事なんですよ」
「分かりました」
「大丈夫。真奈さんならできます」
 杏奈は、聞いている自分が少し恥ずかしくなった。隣にいる美津子にそっと視線を移すと、美津子にしては珍しく、ニヤニヤした笑いを浮かべている。
─鞍馬さん…
 美津子は、胸の内で独りごちた。
─噂に聞いていたとおり、おばさんキラーだな…

 杏奈はヨガの後、すみやかにキッチンに入って、朝食の準備にかかった。
 鞍馬は思っていたよりも、やり手らしい。
 杏奈は、自分のヨガの指導力を見る目は、一般人並みだと思っている。しかし、鞍馬が生徒のやる気を鼓舞する能力に長けていることは、杏奈にも分かった。
 可愛らしい笑顔を向け、不自然すぎない程度にクライアントを褒め、導く。指導はしっかりしているが、時々からかうようなことを言ったり、わざとからかわれたりして、相手の心を揺さぶる。大人の、熟達した男性ヨガインストラクターとは、ちょっと違う感じがする。そのビジュアルと、若さを巧みに使った、今の鞍馬だからこそできるクライアントへの接し方。
─すごい。
 クライアントだけでなく、雇用主と先輩スタッフが近くにいても、鞍馬は全く動じていなかった。肝が据わっている。実力があり、自分のやり方に自信があるのだろう。
「杏奈さん」
 急に声をかけられて振り向くと、すっかり帰り支度を済ませた鞍馬が、デシャップ台から身を乗り出していた。手にはスマホを持っている。
「はい、どうされました?」
 杏奈は火を止めて、鞍馬に近づく。
「今日、写真撮ってましたよね?」
 杏奈はそう訊かれて、見せてほしいという意味だと解釈し、エプロンのポケットからスマホを出した。
「…こんな感じです」
 鞍馬はスマホの画面を覗き込むと、
─アマチュアの写真だな…
 悪くはないのだが、スタジオでプロに写真を撮ってもらうこともある鞍馬は、その精度の差に内心がっかりした。
「あ、いいですね。僕にも送っておいてくれませんか?」
 が、おくびにもそれは出さないで、営業スマイルを浮かべる。
「いいですよ。朝食の準備が終わってからでいいですか?」
「ええ」
 鞍馬は上体を起こして、キッチンを眺めた。
「鞍馬さん、朝ごはん食べてきていないんじゃないですか?」
 ヨガの前に食事をすると、動きにくくなるし、気分が悪くなることがある。
「ええ。帰ってから食べます」
 黒いライダースジャケットを羽織った鞍馬は、戦隊モノに出てくる俳優のようだった。
「帰ったら実家のお仕事をされるんですか?」
「ええ、まあ」
 鞍馬はうやむやに答えた。詮索されたくはなかった。
「朝早くからヨガなんて…エクストリーム出社する気分ですよ」
「あ、前に流行りましたね、それ」
 スポーツや習い事など、余暇に行うようなアクティヴィディを行ってから定時までに出社することをエクストリーム出社といい、大分前にちょっとしたブームになった。
「そうだ、動画は撮りましたか?」
「今日のは撮ってないです」
─はああ?
 鞍馬は心の中で非難の声を出した。
─それじゃあおれのプロデュースはどうやってやるんだよ。
 が、あくまで顔には営業スマイルを浮かべ、
「じゃあ、今度から撮ってもらえるとうれしいな」
 と言った。
 杏奈は目をぱちぱちと瞬かせた。意味が分かっていなさそうな杏奈の顔を見て、
─鈍い…
 鞍馬は苛立った。
「動画があれば、ティックトックにものせられるし。インスタにのせるにしても、拡散しやすいんで」
「はあ…」
 杏奈は、鞍馬は自分をプロデュースする習慣が身についているのだろうと感心した。若いのにしっかりしている。
「あかつきをタグ付けしてもいいですよね?」
 しかし、鞍馬はどういう名目で、あかつきでレッスンをしたと発信するつもりなのか。
「鞍馬さん、あかつきでの活動をSNSに上げるのは、もう少し待ってもらえますか」
「え?」
「鞍馬さんがここを気に入ってくださり、今後も関係を続けていくことが決まれば、それなりの紹介をさせてもらいたいんです」
 美津子が鞍馬を本格的に採用すると判断することが前提だったが、敢えてそれは言わないでおく。
 鞍馬は杏奈の真意を図りかねる、といった表情で、少し考えていた。
─それなりの紹介の仕方、か。
 自分がドン、と目立つような投稿をしてくれるのだろうか。
「ローンチ前に情報を小出しに見せていくのも、手だと思いますがね」
 鞍馬は意外にも、ローンチという言葉を知っていた。マーケティング用語でいうところのローンチ(プロダクトローンチ)とは、商品・サービスを発売する前から見込み顧客を獲得し、発売に合わせて情報を小出しで発信していくことで、徐々に見込み顧客の購買意欲を高めていく手法だ。この場合のプロダクトとは、鞍馬のヨガレッスンのことだ。もっとも、単体で売るのではなく、あかつきに滞在するとこの先生のヨガが受けられます、という風に見せていくに留まるのだけれど。
 ちなみに、ローンチという言葉を杏奈に教えたのは羽沼である。オンラインキッチャリー教室の開催にあたっては、このローンチができなかった。
「ローンチをするにしても、戦略的にやっていきたいと思いますので、しばらくお待ちください」
 戦略など、今の時点ではありもしなかったが、杏奈はにこやかにそう言った。
「…分かりました」
 鞍馬は、情報発信のネタをすぐに活用できないと知り、少し残念そうだったが、不貞腐れた顔をするほど子供ではなかった。
「期待してますよ、杏奈さん」
 鞍馬は不敵な笑みを浮かべてそう言うと、踵を返し、颯爽とキッチンから出て行った。
「…期待してるって…」
 自分はプロデューサーか何かと勘違いされているのだろうか…。

 

 


 

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