「杏奈さん、来たよ~」
「うわ…」
杏奈はいきなりお勝手口が開いたので、びっくりした。不審者が来たのかと思った。ひょっこりと顔を覗かせたのは、空楽である。
ちょうど、昼食の片付けがひと段落ついたところだった。
「行きましょう」
「はい。玄関に回るので、待っててください」
杏奈はお勝手口の鍵を中から締め、かごとはさみを持って外へ出た。
二階の施術室では、美津子が今日から滞在するクライアント・樹里にカティ・バスティをしている。
杏奈はそうっと玄関の扉を閉めた。空楽が庭の真ん中から、あかつきの畑を眺めている。ちょうど昨日、夏野菜の苗を植えたばかりだ。きゅうり、オクラ、とうもろこし、ラディッシュ、かぼちゃ、それにスイカ。
五月に入ってから、一貫して暖かい。
新緑、鳥や虫…自然界がエネルギーに満ちる、素晴らしい季節だ。
「杏奈さん、気付いたんですけどぉ」
門を出ると、空楽はいつもと同じ、舌っ足らずな喋り方で言った。今日も空楽は飾らない格好をしている。オーバーサイズの白いティーシャツに、生成りの綿パン。それに、黒いキャップ。
「明神山まで行く必要、ないかもですよ?」
「え?どうして?」
空楽は言葉では答えずに、西方向に少し歩き、道路端の草木の茂みを指差した。そこには、草花とともに、高さ三十センチから七十センチほどの、大きな葉を先端につけた植物が自生していた。
「里芋ですか?」
杏奈は最初、その葉はゴツコラに似ているなと思ったが、里芋にも似ている。大きな葉っぱは、その一部が切れたハート形をしている。幅は大きなものだと三十センチほどもある。
「ちがう、ちがう」
素っ頓狂なことを言う人だと、空楽は思った。ここは畑じゃないし、第一、自分たちは今、ふきを探しているのではないか。
「ふき、ふき」
杏奈はぽかんと口を開けた。こんな身近なところに生えているとは思わなかった。
ゴールデンウィークの三日間、あかつきに滞在する樹里は、生理が重い、というのが最大の悩みだった。
三十八歳、既婚女性。名古屋で事務職をしており、市内のマンションに夫と二人暮らしである。
友達と旅行で遊びに行ったバリで、アーユルヴェーダ施設に滞在し、そこで初めてアーユルヴェーダを知った。もともとヴァータが優勢で、本人もそう認識していたものの、今現在はピッタとカパの乱れも強く出ていた。
特に、子宮内ポリープが多数個見つかっており、これまで摘出したこともあるが、再発し、今は経過観察をしている。月経が重く、血量が多めで、腹痛で動けなくなるほど。これまでにも貧血で倒れたことがあり、今は薬を処方されている。
そういうこともあって、年齢的にはまだ希望はあるものの、彼女は、子供を持ちたいという意識が希薄だった。
今回は月経の期間を避けて、あかつきに滞在する。
「で、子宮内ポリープに苦味がいいんですか?」
「うーん、ダイレクトにその疾患にいいというよりは、優勢になっているピッタを鎮めるためで…」
アーユルヴェーダの見解では、子宮内ポリープには、複数のドーシャの乱れが関与する。
樹里の場合は、生活習慣や食事の傾向が、ピッタを増大させるもので、イライラなどピッタが優勢な時の感情のパターンが優位である。
さらに、月経の状態や、月経時の症状からも、ピッタが優位であると判断できた。
─五月に旬の野菜で、苦味をもつものは何だと思いますか?
苦味はピッタにとって良い味だ。軽い気持ちで、空楽にそんなラインを入れたら、いきなり、
─ふきを取りに行きましょう。
と提案されたのである。
ふきのほろ苦い味は、解毒と清熱作用を発揮し、特に肺や大腸の熱毒を取る。
二人は電動自動車に乗って、栗原神社に向かった。近くにふきを見つけたものの、数がそんなに多くなかった。それに、杏奈は明神山に登りたい気分だったのだ。
駐車場の隅に自転車を停めると、二人は西参道の鳥居をくぐった。ここからは徒歩でないと進めない。
「子宮内ポリープと子宮筋腫って、何が違うんですか?」
と、空楽は訊いた。二つともよく聞く病名ではあるけれど、違いが分からない。
「子宮内膜ポリープは、子宮内膜に生じるポリープで、子宮筋腫は、子宮の筋肉組織にできる腫瘍です。多くは良性の」
「へえ。子宮内膜ポリープの原因ってなんなんですか?」
「それは…」
杏奈は口ごもった。
子宮内膜ポリープは、子宮の内壁に付着し、時間の経過とともに子宮を増大させる可能性がある、非癌性の増殖として定義される。子宮内膜の細胞の過剰増殖は、子宮ポリープを引き起こす。原因は明らかではないが、炎症や分娩、流産、女性ホルモンの影響などが考えられている。
樹里を受け入れる前に、西洋医学の方面からもいろいろと調べてみた。しかし…
「そらで言えるほど、西洋医学的に精通していなくて」
割と単純な内容であっても、西洋医学の知識は記憶しきれない。
「アーユルヴェーダ的にはどんな見解なんですか?」
「ああ、そっちの方が分かりやすいです」
杏奈は、アーユルヴェーダの考え方ならば、なぜか、割と苦労なく理解し記憶することができた。記憶頼みではなく、概念により、イメージすることができるからかもしれない。
「どんなですか?」
アーユルヴェーダでは、生殖器系の障害をヨニヴィアパット(Yonivyapat)と呼び、その症状を二十に分類している。子宮ポリープも、このヨニヴィアパットに含まれ、ラクタヨニ(Raktayoni)と関連している可能性がある。ラクタは血を意味し、ヨニは膣を意味する。これは、膣からの過剰な出血が主な症状であることを意味している。
「アーユルヴェーダによれば、子宮内のうっ血によって、子宮ポリープが発生する可能性があります」
そして、その原因はトリドーシャの悪化である。カパが子宮内膜上を厚くし、ポリープの成長を促す。ピッタが子宮内膜ポリープの腫れや炎症を引き起こす。これらが発生する時、ヴァータ(特にアパーナヴァーユ)の正常な流れが遮断され、毒素が排出されずに停留する。このように、トリドーシャの悪化が月経血量の増加、不正出血や断続的な出血につながるのだ。
三つのドーシャはすべて体内のエストロゲンを増加させる。ヴァータは、エストロゲンを分泌するよう信号を送り、ピッタはエストロゲンを産生し、カパはエストロゲンを増やす。
アグニ(消化・代謝機能)が弱化していると、体が過剰なエストロゲンを適切に処理できず、体外に排出されずに子宮内を循環することになる。この循環性エストロゲンが子宮ポリープに栄養を与える。
三つのドーシャが悪化すると、消化力も弱化している場合が多いが、そうなると適切な体組織が形成されず、組織が不健康になる。
・アルタヴァヴァハ(月経を運ぶチャネル)
・ラサヴァハ(リンパを運ぶチャネル)
・ラクタヴァハ(血液を運ぶチャネル)
・マンサヴァハ(筋肉組織を運ぶチャネル)
これらの経路(スロータムシ)における過剰な流れ─つまり子宮のうっ血と循環の亢進─が、月経血の量を直ちに増加させる。
そのため、子宮ポリープの管理、予防には、これらのドーシャのバランスを取り戻し、消化の火アグニを整えることが必須。
アーユルヴェーダのやり方で不調にアプローチする場合に必要なことは、訴えてこられた不調に対して、どのドーシャが悪化しているのか特定することだ。特定の病気に関する西洋医学的な見解を把握することはマストではない。
「結局は、ドーシャとアグニを整えることが、大事ってことですね」
杏奈はそう締めくくった。
「…?」
どこが、分かりやすいのだろう。
空楽は杏奈の後ろを歩きながら、首を静かに左右に傾けた。
五月はカパとピッタが優勢になる季節である。
春の気まぐれな最後の寒波は終わり、日照時間はより長くなる。
五月は一般的には、一年の中でも快適な月。しかし、体はまだ暑さに対応できておらず、温度管理に苦労しているところ。
冬に蓄積したカパ(余分な脂肪や、鬱血や鬱滞を起こしている原因となるもの)は、この時期にはほとんどなくなっている。しかし、日照時間が伸び、日射しが強くなり、それに伴い活動量も多くなるので、体の中に熱が溜まりがち。これは、この時期は誰にでも、ピッタが増大し、それに関連する不調が発生しやすいということである。
したがって、五月の食事は、冬に蓄積したカパの最後の部分を一掃すること、身体から熱を駆逐することに焦点を当てなければならない。
それをサポートするのは、苦味と渋味をもつ季節の野菜やスパイス、ハーブ。特に採り立ての野菜やスプラウトは、晩春のクレンジングをサポートし、プラーナ(活力)を高める。
そこで、「そこらへんのふき」を取って、夕食のおかずに出そうと計画したのである。
杏奈と空楽が向かったのは、二人が初めて会った場所。三ツ沢ルート沿いの、ふきのとうがたくさん採れる山の中の小さな平原である。
「もしかして…ふきって、ふきのとうから伸びた茎なんですか?」
杏奈は、その二つの名前の類似性から、そう想像した。
「違います」
が、にべもなく空楽に否定される。
「ふきのとうは、ふきのつぼみですが、ふきのとうがそのまま成長して、ふきになるのではないですよ」
「そうなんですか?」
「ええ。先にふきのとうが出てきますが、ふきが生える頃には枯れます。花茎とは別に、地下茎から葉柄を伸ばして地表に葉を出すのがふきです」
つまり、ふきのとうとは別のところからふきが出てくるというわけだ。だからふきのとうを採らずに成長を待っていても、ふきにはならない。
「へえ~」
自然に沿った生活、旬の食べ物を食べる。それがアーユルヴェーダの健康的な生き方であると説いている割には、杏奈は、野菜や野草、山菜のことを、よく知らなかった。この若い女性のほうが、よっぽどそういった知識を持っている。
空楽ははさみを使って、根元のほうからふきを採った。
「葉っぱがでかくなくても、茎が太い方を採ったらいいですよ」
その方が栄養がある。
「細いのはむくのが大変なんです」
「分かりました」
杏奈は空楽のアドバイスに素直に従いながら、ふきを採取した。
「この葉は、雨水を効率よく受け取るために、全体が皿状にくぼんでいて、葉の切れ込みから茎を伝って集めるようになっているんです」
「へえ、賢いですね」
自然は、よくできている。
持って来たかごはすぐにいっぱいになった。
一時間ほどでキッチンに戻ることができた。まだ施術は終わっていないようである。
採ってきたふきを調理する。赤い根っこの方を揃えて、先を切る。葉っぱはボウルに入れておく。
「葉は刻んでよく水にさらして、炒めたら佃煮とかに使えますよ」
調理も、空楽に手伝ってもらう。
大き目のお鍋に湯を沸かし、その鍋の大きなに合わせて、茎を切る。まな板の上に粗塩を振り、まな板の上でゴリゴリと板ずりをする。表面についている綿毛を落とし、色を鮮やかに仕上げるためである。沸騰したお湯の中にふきを入れ、一分三十秒ほど、茎が柔かくなったら冷水にとる。爪で皮をむいていく。これを一周やる。そうしたら、全ての皮をつかんで、一気に引く。余計な筋も取る。
茎を煮た後の湯で、ふきの葉も茹でる。
「重曹をちょこっと入れた方が、アクが抜けやすいですよ」
茹であがったら水にさらす。
「何回か水を替えるといいです」
「分かりました」
空楽は若いのに、田舎のおばあちゃんのように、この手のことをよく知っている。
「おばあちゃんに囲まれて育ちましたから」
空楽は淡々としゃべる。
知り合って間もない間柄だというのに、杏奈は空楽に対しては、最初から心の壁を作らないでいられているような気がした。それは空楽が、杏奈に対して抵抗感や曲がった感情を抱かず、むしろ、興味を持っているからかもしれない。あるいは、この女の子は誰に対してもそうであるのか。
「何を煮てるんですか?」
今も、杏奈がふきとは別の作業を別の鍋でし始めたのを見て、空楽はすかさず質問をした。
「シャタバリ・グリタを作ります」
「?」
空楽は、またもや目を丸くした。
「今回のクライアントにシャタバリは良いものなので、薬用ギーを作ろうかと」
シャタバリは、女性の生殖器系に栄養を与えサポートする、アーユルヴェーダの有名なハーブである。グリタ(ギー)は、ハーブの薬効を深部組織に運ぶ優れた媒体(アヌパン)。この二つを組み合わせたシャタバリ・グリタは、若返りの力が、最大限に引き出されているはずである。
杏奈は、鍋でバターを煮溶かしていた。そして調理台の上には、得体のしれない液体。
「これは?」
「それが、シャタバリの成分を抽出した煎じ薬です」
煎じ薬のことは、アーユルヴェーダの言葉で、カシャーヤという。カシャーヤは、渋味という意味もまたもつ。シャタバリパウダーと精製水を沸騰させ、長い間弱火で煮詰め、濾したもの。
「ギーができたら、ギーと煎じ薬を合わせて、弱火で煮ます」
「水分が蒸発するまでですか?」
「…そうです」
空楽は察しが良い。予備知識、あるいはこういったものを作った経験があるのではないか。杏奈はそう思った。
ギーは純粋なオイルである。ギーを作る過程で、バターに含まれている水分は飛ぶ。カシャーヤと混ぜると、再び水分が混ざるため、さらにこれを飛ばすのだ。
「ふーん…」
空楽は鍋の中でギーになっていくバターに、静かなまなざしを向けた。その様子から、杏奈はなんとなく分かった。
「まこもオイルも、同じような作り方をしました?」
空楽の口が、わずかにぽかんと開いた。それも束の間、空楽は唇を結ぶと、杏奈の顔を見て頷いた。
「はい。生の新芽をすりつぶしてから、水で煮出して成分を抽出しました。パウダーを使うより、時間がかかってると思います」
まこもはミネラルと水溶性ビタミンが多いようである。そのためまず水で煮出してエキスを抽出し、最後にホホバオイルと混ぜる方法を取った。
杏奈は微笑を浮かべて、頷いた。まこもオイルがどのように作られたのか、偶然にも知ることができた。
「杏奈さん、なんでふきの下処理の仕方は知らないのに、こういうのは作れるんですか」
「…」
杏奈はどう答えて良いやら分からなかった。自分でも変だと思う。
シャタバリ・グリタの水分を飛ばすのには、時間がかかる。
杏奈は出来上がるのを待っている間、樹里を迎えるにあたり、独自にまとめていた資料に目を通していた。子宮内ポリープに関するアーユルヴェーダ的知見をまとめた資料である。
樹里は、もともとヴァータが優勢だが、今はピッタが顕著に乱れ、同時にカパも乱れている。そのため、食事の方針を決めるのが、やや厄介だ。ピッタとカパにとって良い味は、苦味と渋味である。苦味と渋味は、共通して、乾燥させる性質、軽くする性質、収斂作用がある。しかし、このヴァータと類似する性質を摂り過ぎると、ヴァータが増大する。
何事もほどほどさというものが必要なのであった。
─アーユルヴェーダにおける子宮ポリープの管理に適した食べ物は…
ギー、消化に良い豆、緑黄色野菜、亜麻仁、カルダモン。
いや、むしろ、不適切な食品を避けることの方が重要かもしれない。この場合、ピッタを増大させる酸味、塩味、辛味の強い食べ物、酢、アルコール、肉、甲殻類、刺激的すぎるスパイス。さらに、カパを増大させるねっとりした食べ物、たとえばチーズやヨーグルト、ごまペーストなど。
「…」
空楽は、資料をじいっと見たまま、微動だにしなくなってしまった杏奈をちらと見て、また視線を鍋に戻した。
杏奈が今日より三日間の食事の方向性について熟考している間、空楽は折り畳み椅子に座って、シャタバリ・グリタの火の番をした。
「うーん…食事よりも、間食のほうが問題か」
ぼそっと、杏奈が声を漏らした。完全に独り言である。
樹里は間食を一日二回していた。甘い菓子類だ。間食の必要性は、特になかった。感情で食べている。特にチョコレートは、やめられない。一日三から五包装食べる。
杏奈は今度は、樹里の健康に関する質問票を見ていた。
─病気を見るな。
かつて美津子に言われた言葉を、杏奈は心の中で自分自身に言った。
樹里は、様々な不調を抱えている。子宮ポリープはその一つにすぎない。不調は様々でも、その原因は共通であることが多い。
─私たちにできることは、原因を認識してもらい、その根を断つこと。
美津子が口を酸っぱくして言っていることだ。
樹里の場合は、間違いなく、一日の中で空腹になる時間がないことが、諸悪の根源だ。チョコレートをはじめとするお菓子をやめられなければ、空腹状態を生み出すことは、不可能だろう。
翌朝。鞍馬がヨガレッスンのため、早朝からあかつきを訪れた。
杏奈と美津子も樹里に混じって、彼のレッスンを受ける。
樹里は、背の高いスレンダーな女性だった。目鼻立ちが整っていて、髪はセミロング、ストレート。
レッスンは、まず呼吸法から始まる。
「お腹をへこませて、リズミカルに息を吐きます。スタッカートの音のように」
鞍馬の比喩表現に、杏奈は心の中で「なるほどな」と呟く。
「吐き出した後の吸う呼吸は、受動的に、リラックスして」
彼が今指導しているのは、カパラバティという呼吸法。kapalは「頭蓋・前頭」、bhatiは「光・輝き」を意味する。呼吸に意識を向けやすいので、プラーナヤーマの練習の導入に利用されることがある。
「一セット当たり十五回吐きましょう」
鞍馬は、吐く息と同時に、手拍子を鳴らす。
「体を安定させて。意識を眉の中心、この一点に集中させます」
呼吸法の練習が終わると、体の正しい位置を認識させるボディーワークを行った。樹里も、いわゆる反り腰だった。それからアーサナ。
「ポーズの間中、先ほど確認したように、骨盤の位置を正しく保つことを意識してください」
鞍馬は最初のポーズを取らせながら、樹里に声がけした。
「呼吸を忘れずに」
軽いウォーミングアップが終わると、立ちポーズ。ダイナミックなスタンディングポーズは、脚を活性化し、骨盤、胴体、四肢の統合を助ける。手足が長い樹里がヨガをすると、初心者だけれども、どことなく優雅に見えた。
それから、座位のポーズ。後屈、ねじり、前屈。最後に、シャヴァーサナ。
「鞍馬さん、お疲れさま」
ヨガレッスンの後、樹里の対応を杏奈に任せ、美津子は鞍馬に声をかけた。
「ご指示のあったポーズをシークエンスに組み込みました。ああいった感じでよかったでしょうか?」
言葉選びは丁重だったが、鞍馬の口調はやや挑戦的というか、高飛車だった。美津子は、悠然と微笑んだ。
立ち話もなんなので、美津子は書斎に鞍馬を誘う。
「鞍馬さんは、アパーナヴァーユをご存知かしら」
「調べましたが、詳しくは…」
鞍馬はわずかに表情を曇らせた。今回のヨガレッスンの依頼書にその用語があったので、自分でも調べてみたのだが、理解しきれている自信がない。
アパーナヴァーユは、ヴァータのサブドーシャの一つ。骨盤と下腹部で最も活動するアパーナは、排泄、排尿、月経といった排出機能と、下方および外向きのエネルギーの流れを支配する。
アパーナが除去するのは、物理的な老廃物だけではない。もっと微細なレベルでは、望ましくないものや健康を脅かすあらゆるものを除去する。それゆえ、アパーナが弱ると、病気、恐怖、疑い、混乱、不安、目的の喪失などに陥りやすくなる。
「樹里さんは」
美津子は説明の途中で声を落とした。
「そのアパーナヴァーユの力が弱っています」
便秘、月経困難、不妊、子宮内ポリープ、尿意を我慢できない。これらは、アパーナヴァーユのアンバランスが影響している。
「少し意識して練習すれば、ほとんど全ての古典的なアーサナが、アパーナヴァーユにアクセスできると思います」
アパーナを適切な方向へ流し、活力を与える。あるいは、アパーナのエネルギーを節約する。
「けれど、今回は特に有効と思われるポーズを前もって選出しました」
・プラサリータパドッタナーサナ (開脚立位前屈)
足を大きく開き、座骨を持ち上げ、恥骨を内腿の間に引き戻し、骨盤底を持ち上げて下腹部を収縮させてへこませる。
このポーズは骨盤底とアパーナを目覚めさせる。
・ヴリクシャーサナ(木のポーズ)
下腹部、仙骨周囲の筋肉、立っている脚の太ももの内側を使って、ポーズを定位置に保つ。
このポーズはアパーナを目覚めさせ、適切な方向へ流す。
・アルダパドマジャヌシルシャーサナ(半蓮華座を組んで頭から膝に結ぶポーズ)
骨盤ニュートラルな状態で前屈する。かかとと下腹部が近づき、下腹部と骨盤底を動かす。
呼吸をしながらこのポーズを取ることにより、エネルギーが生まれ、アパーナとの繋がりを強めることで、エネルギーを深いレベルに閉じ込める。
・バッダコナーサナ(合蹠のポーズ)
太ももの内側、腰、骨盤底はアパーナと密接に関係し、アパーナによって支配されている。
このポーズはこれらの領域を活性化するため、アパーナを目覚めさせ、支持するための最も強力なポーズの一つである。
・シャラバーサナ(バッタのポーズ)
骨盤の裏側全体、脚、腰椎を強化し、アパーナを活性化する。
最初に行ったカパラヴァティも、アパーナを活性化させる。呼気に重点を置くカパラバティは、下腹部のアパーナの座に働きかけながら、老廃物の排出を促進し、だるさやうっ血を解消する。
「もしこういった具体的なアーサナの指示がなかった場合、鞍馬さんならどういうヨガをしますか?」
「僕は、骨盤底括約筋を活性化させることが、そのアパーナヴァーユを活性化することなのだと解釈していました」
鞍馬は率直に、自分の意見を述べた。
そもそも鞍馬は、あかつきからクライアントの状態は提示された時、同時にいくつかのポーズを指定されたことを嬉しく思っていなかった。それは、自分が考えるべき事項である。
つまり、今回のクライアントに合わせたポーズを、自分は選出できないと言われているように思えた。
「ムーラバンダにアプローチすることが、アパーナを整えることに繋がる。そうではないのですか?」
ムーラバンダとは、エネルギーを封じ込めるテクニックだ。
その方法として、確かに最初に骨盤底括約筋を締めることは、重要である。そうして土台を強固に安定させたうえで、下腹部の奥深くから各ポーズをすることによって、アパーナを活性化することができる。
「それも、そうなのかもしれませんね」
美津子は、別に決まりきった正解を教えたいわけではなかった。鞍馬が今回の仕事にあたって、どのようなヨガが、クライアントにとって効果的だと考えたか。鞍馬なりの考えを、確認しておきたかったのだ。
ヨガが終わった後、杏奈は急いでアロエヴェラジュースを作った。朝食と一緒にサーブするためだ。
庭で育てているアロエヴェラは、冬の間に元気がなくなってしまったが、最近、ようやく持ち直したところだ。
アロエもまた、代表的な苦い食材である。サンスクリット語でアロエヴェラは「美しい若い女の子」を意味する「クマリ」と呼ばれる。アロエヴェラは若返りのハーブ(ラサーヤナ)である。
─体内浄化が進んでいなければ…
どんなにいい食材を使っても、組織に栄養は届かないのだが。
杏奈は、アロエの果肉を取り出すのが、ずい分とうまくなっていた。
─後でアロエヴェラ取ってきて、中の果肉だけ取っといて。
ここにやってきて間もなく、小須賀にそう指示された時には、どきっとしたものだ。
─すみません、私、アロエを調理したことがないんです。
─ええ?アーユルヴェーダ料理の先生やってたのに?
そういう小須賀も、アロエの調理はその時が初めてだったようなのだが。
─おれ、イタリアン専門だから!
あの時は、二人でアロエの果肉の取り出し方を調べたものだ。
杏奈はその時のことを思い出し、顔を綻ばせた。
「シャタバリ・グリタを小さじ二分の一ほど、牛乳に溶かしたものです」
朝食後しばらく経ってから、杏奈はぬるい牛乳を樹里に差し出した。
「あ、ありがとうございます」
樹里が受け取ると、杏奈はにっこり笑って、片付けのためにキッチンへと去る。
樹里は、どんよりした顔でその飲み物を手に持っていた。得体の知れない薬草の入った、油分のある、ちょっとぬるい牛乳。飲み干すのは結構苦痛である…
沙羅は午前中、あかつきに出勤し、単発のお客にアビヤンガを行った。
足込町に住む三十代の女性で、最近ここの存在を知ったという。
冬になると、肌に粉がふくほど体が乾燥するが、それに加えて、フケが気になっているとのことであった。フケは、三つのドーシャのバランスが崩れることにより現れるが、主に関与するのはピッタとヴァータである。消化力が弱く、体内毒素が頭皮の深層深部に蓄積すると同時に、ピッタとヴァータが乱れることで、頭皮は熱をもち乾燥する。そして、頭皮にかゆみや斑点が生じる。これにより、頭皮から通常よりも大量の死んだ表皮細胞が剥がれ落ち、フケの問題を引き起こす。
しかし、単発のお客に対しては、施術を行う上で必要な事項以上の聞き取りは行わないため、日常の行動の何が、ドーシャとアグニに影響しているかを、緻密に把握することはできない。
「頭皮にも、オイルをたっぷり染み込ませました」
少しでもお客の気持ちが安らかになればと思い、アフターカウンセリングの場で、沙羅はそう言った。
─そういえば、まこもには体を浄化し、体の熱やほてりを取る作用がある…
もし、空楽の作ったオイルを使えるとしたら、ヘッドマッサージに良さそうだ。話をしながら、沙羅はそんなことも考えていた。
対面に座っているお客は、書斎の中にも漂ってくるにおいに気を取られて、
「なんか、いいにおいがしますね」
沙羅はバインダーから顔を上げて、相好を崩した。
「もうすぐ、ここに滞在しているお客さまの食事の時間なんです」
「ここは、宿泊もできるんですよね」
「はい」
お客は、思案顔になって、
「実は、滞在しようか迷ってたんですが、家も近いし、もったいないかなぁと思って…」
沙羅は目をぱちぱちさせた。
─宿泊はしなくても、食事付きのプランがあったら、この人は食事を希望されるだろうか…
今まであまりそういうクライアントはいなかったが、地元民にはその需要がありそうだ。
沙羅は、宿泊を除いて滞在客と同じようなサービスが受けられないか、確認の上連絡すると約束をした。
「やっぱり、食事も大事ですよね」
「そうですね」
沙羅は答えながら、素早くメモを取った。
「フケには、シロダーラという施術も良いです」
「そうみたいですね。それも、今日受けようか迷いました。でも、最初はアビヤンガがいいと書いてあったので…」
沙羅は頷いた。
本来ならば、シロダーラは体の浄化を行った上で行いたいものである。そういう意味でも、継続して通ってほしかった。シロダーラ以外にも、シロピチュやシロアビヤンガなど、フケに対してできるトリートメントはある。
沙羅はできる限りの生活指導を行い、次回お勧めのメニューまで提示してから、お客を帰した。
「沙羅、お疲れさま」
お客を玄関まで見送った後、応接間に入ると、美津子が机に資料を広げた状態で、いつもの席に座っていた。
「これ、まかない。片付けはあとでもいいから、冷めないうちに食べて」
お誕生日席に、ラップをかけられたワンプレートが置かれていた。
「今、杏奈が料理教室をしているから、キッチンが使えなくて」
温め直すことができないのだ。
沙羅は先に、食事をすることにした。今日は子供たちは、実家に預けていた。
食事をしながらも、沙羅は、先ほどお客から聞き出した需要を美津子に話した。
「宿泊なしだけど食事付きのプランか…」
午前中にトリートメントをする場合は、確かに食事付きにしてもいいのかもしれなかったが、料理担当の意見が必要である。それに、今後杏奈がセラピストの役に回ったら、小須賀が出勤していない限り対応は難しいだろう。
「今の体制では難しいけれど、足込町にお住まいの方限定で、ということならありかもしれないね」
「なるほど、足込町民限定ですね」
「そのプランを入れるメリット、デメリットを考えてみないといけないけど」
「そうですね。メリット、デメリット考えてみます」
「現行、偶然そういう対応ができる時もあるかもしれないけど、きちんと定まるまでは、公にはしないほうがいいかもね…」
「分かりました。もしこの方からご要望があれば、相談しても良いですか?」
「ええ」
沙羅はにこっと微笑んだ。
「ところで、今日はどんな料理教室をやってるんです?」
「チョコレートよ」
「チョコレート…?」
それは、意外すぎる答えだった。
「どういうことですか?」
美津子は声を低くして、説明した。
昨日から受け入れているクライアント・樹里は様々な症状を自覚しており、その背後にはカパが上がる食生活も関連している。
樹里は甘いものがやめられなかった。特にチョコレートに関しては、ほとんど執着といえるほど。
─やめられたら一番ですけど、その前のワンクッションとして、チョコレートの代替を提案したいと思います。
と、杏奈は言っていた。
「チョコレートの代替がチョコレート…?」
「市販のチョコとは、材料が異なるらしい」
杏奈が言うには、チョコレートが何でできているかを知ることも、今の自分には適していないものだと認識するのに、役立つであろうと。
「任せることにした」
美津子は、ふふ、と笑いながらそう言った。
沙羅は食事を続けた。気になる内容なので、また時間が取れそうな時に、趣旨を聞いてみよう。
食事が終わると、沙羅はふとテーブルの上に広げられている資料に目がいき、美津子の了承を得てそれを手に取った。そこには、樹里へのアプローチ方法が認められているらしかった。
「ずい分細かく、書いてありますね」
「ええ」
美津子は顔を上げ、沙羅の持っている資料に視線を移した。
「杏奈と一緒に計画したの」
─じゃあ、これを作ったのは、杏奈ちゃん…
自分が理解できるように、詳細に説明をのせているのだろう。
─よくできてる…
同じように、自分は思案できるだろうか。
美津子は、真剣な表情で資料とにらめっこしている沙羅に向かって、微笑みかけた。
「ようやく、トータルヒーリングセンターっぽくなってきたわね」
トリートメントの専門家、食事の専門家、ヨガの専門家。それぞれが得意分野を活かし、クライアントのヒーリングにあたる。
「そうですね」
沙羅は美津子の顔を見て、微笑み返した。それから再び、樹里へのアプローチに関する計画書に視線を戻す。
「美津子さん」
「ん?」
「セラピストの数は、もっと増やしていこうとお考えですか?」
「…どうかしらね。施術室が、二つしかないから」
正確には、離れを入れれば三つであった。しかし離れには今、杏奈を住まわせている。
沙羅はふふっと笑った。
「杏奈ちゃんがきて、鞍馬くんがきて、みんなでクライアントにアプローチできるの、とても心強いし、楽しいです」
「そうね」
気心の知れた仲間がいるということは、良いことだ。一人でもクライアントをサポートすることはできるが、複数人いたほうが、多方面から、より手厚いサポートができる。
「美津子さんの仕事も、他のスタッフができるようにしていかれるんですか?」
沙羅は、さりげなく、立ち入った質問をした。美津子の表情に、変化はなかった。
「トータルヒーリングを行うには、プレイヤーはもちろん必要ですが、管理する人も重要だなと思って」
沙羅は首をすくめながら補足した。美津子は今度は目を閉じて、口元に笑みを浮かべ、
「そうね」
と言って机の上で手を組んだ。
「私と同等の役割を担える人を育てなきゃとも思ってる。そろそろ私も引退することを考えないと…」
「引退…美津子さんはまだまだ、現役ですよね?」
そうであってほしい、というように、沙羅は言った。美津子は、肯定することはしないで、口角を引き上げた。
「アーユルヴェーダのヒーラーを仕込むのには、十年かかる」
「十年…」
そういえば、美津子はアーユルヴェーダコンサルのノウハウを、あかつきのスタッフ以外の者には、伝えてこなかった。アーユルヴェーダコンサルテーションができるようになりたいという生徒を集めて、講座を開催することもなかった。真にその能力を身につけるには、それだけの時間がかかるから、安易な資格を渡すことなどはできないと思ったのかもしれない。
「十年後といったら、私も後期高齢者よ」
美津子は今度は、自嘲気味に笑った。
「今から育てても遅いくらいだわ」
沙羅は内心ほっとした。
─少なくとも、まだ十年は指導してくださる…
一方で、別のことが気になる。
「たとえば…杏奈ちゃんは、経営の目線も持っているし、何より熱心なので、美津子さんの仕事を引き継ぐとしたら、身につくのが早そうですね」
「おっとりして見えて、せっかちだからね。人の三倍のスピードで、ことを進めるわ」
美津子は沙羅の言葉のニュアンスを分かっているのかいないのか、まともな答えを返した。
沙羅は話を聞きながら心の片隅で、
─一番に私に引き継いでくれてもよかったのにな…
と思ってしまうのを、どうしようもなかった。自分は、あかつきと関係を続けている、唯一のセラピストだったのだから。
─でも、私はヨガサロンを経営したいと思っていたのに…
どうしてこのことに関して、悔しがるのだろう。
ヨガサロンと、セラピスト。この二つの夢を思い浮かべる時、それは楽しい夢であるはずなのに、ある時に突然、憂鬱の種となる。
美津子は沙羅の持っている資料に視線を注いだ。
「沙羅」
「はい」
「経営の目線があれば、あかつきを担えるわけではない」
「…」
「あかつきを担える人がいるとすれば、その人は真のヒーラーでなければならない」
「ヒーラー…」
沙羅は目を瞬かせた。
その一つの言葉には、様々な意味が込められていそうで、沙羅はでたらめに次の言葉を発せられない。
ヒーラーとは何なのか。
ヒーラーとはどのような素養とスキルを備えている人なのか。
誰が一番ヒーラーに近しいのか。
「もっとも、あかつきにいるスタッフは、みんなヒーラーでなければならないのだけれど」
美津子は、当然のように言った。
─どういうこと?
美津子の後継を担えるのはヒーラーだが、あかつきにいるのはみんなヒーラー。
─みんなが同じ立場で支えていくということ?
それとも、美津子の後継者は、ヒーラーの中でも、突出した何かをもつ人ということになるのか。
美津子のいうことは時々、よく分からない。沙羅は、しかし、もう詮索するのはやめた。
翌朝も鞍馬はヨガレッスンのため、あかつきを訪れた。
レッスンを終え、着替えを済ますと、鞍馬は退勤の挨拶をしにキッチンに入った。が、杏奈は不在だった。朝食の準備はもう済んでいるのか、キッチンにはごはんのにおいが充満している。
─お腹すいたな。
ヨガの後すぐには食べ物を欲しない鞍馬だが、ごはんのにおいをかいで、ことの他空腹を覚えた。せめて帰るまでのエネルギー補給に、牛乳でも失敬しようかと、キッチンの中に入って冷蔵庫を開けた。
─ん?
透明のタッパーに入った物体に、鞍馬の視線は吸い寄せられた。
─これは…!
その頃、杏奈はゴツコラを摘んでいるところだった。庭の片隅、槙の生垣の傍一帯に育てている。四月後半になって、ちょこちょこと芽が出て来て、今はかわいい葉が地面を覆っている。
─ほんとうに、ふきの葉みたい。
けれど、大きさはずいぶん違う。ゴツコラも樹里にとって良いものだ。
杏奈は両手に収まるほどのゴツコラを摘むと、お勝手口からキッチンへ入った。鞍馬はそこにはもういなかった。
樹里と美津子と一緒に朝食を終えた後、杏奈はふと昨日作ったチョコレートの存在を思い出した。
チョコレートは、そのほとんどが油脂で構成されている。高級な本当のチョコレートは、カカオバターやカカオマスを原料とする。しかし、市販の安いチョコレートは、植物油脂と添加物により、成型されていることが多い。質の悪い油は、ピッタを増加させる。
そのため、杏奈は昨日、ココナッツオイル、メープルシロップ、カカオパウダーのみで作る、シンプルなチョコレートのレシピを、樹里に教えた。
レッスンは楽しかった。樹里は礼儀正しい人で、杏奈の質問にも丁寧に答えてくれた。コンサルテーションや、その準備を通して、クライアントのことを深く知ると、自然と会話の糸口が見つかる。
そして、その時作ったチョコレートは、タッパーに数個残っているはずだった。
─ちょっと、食べちゃおうかな。
かれこれ一年近く、杏奈は間食をほとんどしない生活をしてきたが、やはり手元にあるとなると、触手が伸びる。
冷蔵庫を開けた杏奈は、しかし、愕然とした。
─ない!
おかしい。少量しか作らなかったものの、確実に、三粒は残っていたはず。
そんな杏奈のスマホに鞍馬からのラインが入ったのは、その一時間ほど後のことだった。
─お疲れ様です。冷蔵庫にあったチョコレート、食べちゃいました。すみません!
久しぶりのチョコレート。しかも、罪悪感少な目のチョコレート…
シンクに置かれていた、空のタッパを洗いながら、杏奈は身を震わせた。
樹里の最後のトリートメントとなるシロダーラは、沙羅が担当した。
杏奈と美津子とが協力して、快と七瀬の子守をした。よく晴れていたので、あかつきの周りをぐるりと一周したり、野菜の収穫を手伝ってもらったりした。
「あ」
七瀬は何かを見つけてしゃがみこんだ。どうやら、ダンゴムシのようである。平気でつまむ姿を見て、杏奈は血の毛が引いた。ダンゴムシなんて、他の虫と比べれば、まだかわいいものだ。田舎に住み、農作業を手伝うようになって一年。
しかし…
ニヤッと笑った七瀬を見て、杏奈は後ずさりした。
「投げちゃダメだよ」
ダメと言われると、やりたくなるのが人の心理。
七瀬はニタニタ笑ったまま、杏奈にぺっとダンゴムシを投げつけた。
「だめー!」
杏奈は、やはり虫が苦手なのであった。
その日の昼食は、樹里が子供たちが一緒でも構わないと言ってくれたので、沙羅たち母娘を含めた六人で摂った。
樹里を見送ると、沙羅も帰り支度を始めた。
「片付けの手伝いできなくて、すみません」
お昼ご飯をご馳走になったのに。本当は手伝いたいが、子供たちがいると、逆に足手まといになってしまう。
「いいんです」
杏奈は玄関先まで、沙羅たちを見送った。子育てを一手に担いつつ、あかつきのセラピストとして手腕を発揮する沙羅に、自分ができることはやらなければならない。杏奈はそう思っている。
「杏奈ちゃんは、今日はまだ仕事?」
「ええ…クライアントが帰った後が、大変なんですよね」
今後の生活方針など、推奨事項をまとめて、フィードバックをしなければならないのだ。
「今度、うちにも遊びに来てください」
「はい」
「バイバイ」
快は杏奈に手を振った。快は、すっかりあかつきの人たちに慣れてきている。問題は七瀬だった。このところ、イヤイヤ期の片鱗が見え始めている。庭を横切り、門に向かうだけでも、一筋縄ではいかない。七瀬は畑へ走って行って、そこにしゃがみこんだ。
「七瀬、行くよ」
「いやだ、いやだ」
この調子である。
沙羅は、ふう、と吐息した。自分に対して聞き分けがないのは仕方ないのだが、七瀬はあかつきの人たちにも、こんな感じだった。
─美津子さんの仕事を引き継ごうだなんて…
小須賀が変に自分を煽るから、その気持ちが芽生えてきていたものの、現実問題、そんなわけがないと、沙羅は思った。
美津子と杏奈には、世話になってばかりだ。トリートメントの機会が与えられ、給与をもらうばかりか、その間の子守や、食事の世話まで。
杏奈は今も、クライアントへの推奨事項の作成に、頭を痛めているのだろうか。
「いーくーよー」
沙羅は次女を呼びながら、顔が離れの方に向いた。ここに、杏奈は住んでいる。
年始に、ここに泊まった時のことを思い出した。
─償いたいんです。
なぜあかつきに住み込んでまで、アーユルヴェーダの仕事に没頭するのかと聞いた時、杏奈はそう言った。
─人を癒して、助けになることで…
杏奈は段階を踏んでいる。人生を意識を向ける方向に動かすために、段階を踏んでいるが、そこには不明確なリミットが設けられている。そのリミットまでに、杏奈は自分の人生を動かしたいのだ。人の人生を変えることによって。
その熱量を、今の自分のモチベーションが上回るとは思えなかった。
深い自責の念と、悲しみをにじませながら、沙羅に本当のことを話した杏奈の表情を思い出して、沙羅は自分自身に確認した。
─あの子を羨んだりはしていない。
五月のうららかな陽気を全身に感じ、沙羅は目を瞑って、大きく息を吸った。
─むしろ、応援さえできる。
そう思って目を開けるのと、快の手が沙羅の手をすり抜けるのとが同時であった。
「ナナちゃん、いくよ!」
このところ、ずい分とお姉ちゃん精神を発揮して、面倒見がよくなった快の背中を見ながら、沙羅は微笑んだ。
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