第66話「カーネーション」アーユルヴェーダ小説HEALERS

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 蓮は今、莉子と一緒に明神山を登っている。これは奇妙な事態だと思う。けれど、この事態を自ら招いたと思うと、蓮は自分が何を考えているのか、自分でも分からないのだった。
 昨夜、順正から連絡があり、予定をドタキャンされた。急診だと言っていたが、果たして本当なのかどうか。
─面倒くさがられてるよなぁ。
 蓮にだって自覚はあった。しかし、急に予定がなくなったからといって、莉子にラインをするとは…今となっては、蓮はその時の自分の心境を理解しかねる。まったく、思い切ったことをした。
─私も山登ろうかな。
 先日、ハイウォールからの帰り道、莉子がそんなことをぼやいていた。
─部活も行ってないし。
 もともと運動が好きな莉子は、体がなまっているのだろう。
 そういうやり取りが背景となって、順正からのラインを見た後、蓮は莉子のことを思い出したのであった。
 本文を書いてからも、ラインしようかどうか迷って、何回か本文を書き直して、結局送信するまでに、一時間以上かかった。
─明日朝から明神山登るけど、くる?
 そのたった一文を送るだけなのに。しかし、莉子からの返信は早かった。
─行く。
 蓮にとって、莉子は面倒くさい存在だった。
 幼い頃一緒に遊んでいた女子たちとは、中学に上がってから、急に話をしなくなった。莉子もそのうちの一人。何を思って、何をして毎日過ごしているのか、全く分からなくなった。
 莉子は特に、難しい家庭事情を抱えているし、クラスの中でも孤立した存在。一緒に山へ登ったって、楽しい登山になるとは思えなかった。
─面倒くさいやつを連れて登るって、こんな気持ちか。
 蓮は、今更ながら、順正や前原にすまないことをしていたという自覚をもった。とはいえ、じゃあこれから自粛するかというと、そういうつもりは毛頭ないけれど。
 元気がみなぎる中学生。しかも、莉子はもともと運動神経が良い方だ。明神山の主要登山道を登ることなど、わけもないようで、快活に足を運んでいる。
 二人ともジャージにティーシャツという恰好。莉子は白いキャップを被っている。
「お前高校、全寮制のとこ受けんの?」
 蓮は莉子より少し先を歩きながら、後ろを振り返った。
「分かんない」
 上沢にも高校はあるが、偏差値は中間ほどの普通科。
 上沢や足込の中学生は、家から離れた高校を選ぶ場合、寮に入ることも多い。
 莉子は成績が良かった。上沢の高校ではもったいない。でも、蓮が莉子は外に行くのではないかと思ったのは、莉子は家にいるのが嫌いなんじゃないかと察しているからである。でなければ、ゴールデンウィークの最終日に、自分と山に登るわけがない。
「蓮は?」
「うーん、おれは頭よくないからなー」
 上沢でも十分な気がした。上沢を出るのも、面白いかもしれない。けれど、寮は寮で窮屈そうだ。
─それに…
 蓮はひそかに、憧れていた。今は藤野が立つハイウォールのカウンターに自分が立って、
─いらっしゃい。
 と、クライマーたちを出迎えるのを。
─そこは、こう登ったらいいっすよ。
 カウンターに肘をついて、時々、クライマーにアドバイスする。それでもって、バイト代までもらう。好きな空間で、好きな人たちに囲まれ、お金までもらえたら、こんなにいいバイトはない。
 蓮にとって、家は完全に安らげる安心な場所ではなかったが、絶対に家を出たいというほどではない。
 二人は時々会話を交わしたが、言葉少なだった。ほどなく山頂に着いたが、素通りする。明神山は、小学校の遠足でも登る山だ。莉子もこれまでに何度か登ったことがあり、その頂上からは大した景色が見えないことは知っていた。
「休む?」
 屋根付きの休憩所に来た時、蓮は莉子に訊いたが、莉子は首を振った。
─そういえば…
 明神山にはトイレがないのだった。莉子は汗が額から頬をつたって、顎に流れるのを感じた。
─よりによって…
 こんな時に、あれを迎えるとは。

「柴崎先生…?」
 花屋の店員は、その人本人であると確証を得ない口ぶりで、花屋に来た男に声をかけた。
 順正はレジカウンターを振り返って、声の主を見た。柔らかそうで滑らかな髪の毛を後ろで一つに結んだ、華奢な花屋の店員が順正に微笑みかけていた。
「やっぱり、柴崎先生ですよね」
 順正はしばし、前髪をセンター分けにした女の顔を見て、それからようやく、
「はい」
 と小さく返事をした。
 最近、松下クリニックに通い始めた妊婦だ。花屋のエプロンを身に着けているが、まだ妊婦だと分かるほど、お腹は出ていない。
「お世話になってます」
「…どうも」
「お花…プレゼントですか?」
 順正はあいまいに首筋を掻いた。眠気のためか、視界がかすむ。
 夕方にオンコールがあり、クリニックで対応にあたっていた。小柄な妊婦が産気づいた。はっきりと児頭骨盤不均衡と診断するほどではないが、胎児は頭が大きく、もともと難産が予想されていた。本人が可能な限り経腟分娩を望んでいたため、予定帝王切開にはしなかったが、緊急帝王切開の可能性は大いにある妊婦だった。そして、陣痛が始まったのが昨日の朝。ゴールデンウィークの真っただ中でも、お産は関係ない。予想通りの難産で、会陰切開の上吸引分娩となった。
 それがなければ、今日は朝から明神山に登って、手ごろな花を手折っていくつもりだったのだが。
「ただいまー!」
 花屋の自動ドアが開き、二歳くらいの小さな男の子が、妊婦に走り寄った。
「おーい、転ぶぞ」
 父親と思しき男性はそう声をかけたが、中には入ってこなかった。舵付き三輪車を押している。
 順正は眉にかかる前髪をはらりと払った。子供を受け止めた母親─その店員─にも、その動作は視界の隅に映る。
「あ、すみません。お花何にしましょう」
「カーネーション」
「あ、来週母の日ですものね」
 この若い夫婦が経営しているらしい、小さな花屋の中には、既に母の日のプレゼント用と思しき商品が並んでいる。ボトルブーケやアレンジメント、フラワーリース…
 予算を伝えると、店員はショーケースから赤とピンクのカーネーションと、ユーカリを組み合わせた花束を作ってくれた。
「代わるよ」
 先ほどの男が店の奥から姿を現し、妻である店員に歩み寄った。店員の足元には、小さな男の子がまとわりついている。
「いーの、大丈夫よ」
 夫は妻の体調を心配しているのかおどおどしていたが、妻のほうは釈然としていた。
「松下クリニックの若先生」
「えっ、マジ?」
 夫は順正の前まで歩み寄って、頭を下げた。
「妻がお世話になっております!」
「お待たせしました」
 妻は夫をはねのけて、順正にブーケを渡した。順正はそれを受け取ると足早に店を出た。仲の良い夫婦らしいが、見ていられない。
 適当に予算を伝えたのだが、ブーケは、思ったより大仰なものになってしまった。

 明神山のシャクナゲは、四月末頃から開花していた。赤色系統の花を咲かせる、ツツジに似た植物。栗原登山口まであと少しというところで、このシャクナゲを両サイドに見ることとなった。
─わぁ…
 莉子は綺麗な花を見て、思わず笑みがこぼれた。それで、思い出した。
─母の日って、今日だっけ…?
 五月の第二日曜は母の日。年によっては、ゴールデンウィークとつながることもあった。
─去年は、どうしてたんだっけ…
 莉子は美穂のことを思い出した。ささやかなプレゼントでも、美穂は莉子が渡したものなら、なんでも喜んでくれた。
─高校から家を出たら…
 美穂は、生まれてくる子だけの面倒をみることになる。家には、新しい父と、その父との子と、美穂の三人。
─私とお父さんはもう、一番じゃないんだ…
「おい」
 蓮は鋭い声で、莉子を呼んだ。シャクナゲの花に手を伸ばしていた莉子は、声にびくりとして、手をひっこめ、体を蓮の方に向けた。
 その拍子に、瞼いっぱいに溜まっていた涙が、光るしずくとなってこぼれ落ちて、それを見た蓮は慌てた。
「あ、その…シャクナゲには毒があるんだ」
「えっ?そうなの?」
 涙がこぼれたことに気が付いた莉子は、顔を蓮から背けて、結果的にまたその毒をもつ花を目の前に見ることになった。
「そう。だから、触るなよ…」
 それを言おうと思っただけなのに。
─今、泣いてた?
 見てはいけないものを見てしまった気がする。蓮は踵を返して登山道を進みながら、頭を掻いた。
─ほんと、面倒くさいやつ。
 しかし、面倒くさい事態はさらに続いた。
「ここから一番近いスーパーってどこかな?」
「はぁ?」
 栗原登山口の道標を通り過ぎると、莉子がいきなりそんなことを訊いてきた。
「なんだよ。食うもん持ってきてないの?」
「そうじゃなくて…トイレに行きたいの」
「トイレなら、栗原神社にあるよ」
「…お、屋外の公衆トイレは、嫌なの」
 山に登っていたやつが何を言うんだと蓮は思った。言わなかったけれど。
─待てよ。
 頂上から栗原登山口に下ったものの、よく考えれば、こちらに下山したところでやることは何もない。
「どこに行くの?」
 莉子には、栗原登山口周辺の地の利がなかった。蓮は黙って、参道を西に向かって進んだ。

 あかつきの応接間で、杏奈と美津子は、ちょうど食事をし終わったところだった。
 あかつきを流れる時間は、規則正しい。朝はヨガあるいは農作業から始まり、決まった時間に食事をし、食後には少し散歩に出て、その日のタスクを行い、二十二時前には布団に入る。タスクがかさんでいる杏奈は、近頃では二十二時以降まで起きていることも多かった。
 この日は珍しく、全休。SNS向けの投稿作成など、細々とした仕事はあるものの、施術の練習さえ免除された。モデルの沙羅がいないのもあるが、美津子が思うに、自分自身にも杏奈にも、休息は必要である。
「今日は珍しい服を着てるじゃない?」
「あ、はい」
 杏奈は答えながら、少し恥ずかしそうに肩をすくめた。
 スクエアネックラインの、ペールアプリコット(白色に近い杏色)のワンピース。長袖の襟元にはギャザーが入り、丈は踝の上まで。ウエスト部分でブラウジングされているので、すっきりとしたボディーラインに見える。低身長の杏奈にもおすすめな通販サイトを瑠璃子が教えてくれて、自分に合いそうなものをやっと見つけたのだ。
「よく考えると、この服じゃ自転車にも乗れないし、動きにくいだけです」
「遠出したければ、車を貸してあげるわよ」
 そういう美津子は、淡いグリーンのワンピース姿だった。ラウンドネックの、着丈の長いワンピースで、ウエスト部分を紐で締めている。つまり、細部は異なるけれども、二人は同じような恰好をしていた。
「美津子さんは、お出かけしないんですか?」
 余所行きともいえる格好だったので、そう尋ねた。
「原稿を書かなければならないの。合間に、少しそのへんを散歩するくらいかしら」
 美津子には、あかつきとは別の仕事があるらしい。育児関連のメディアに寄稿する原稿なのだろう。
「片付けます」
 と、杏奈が席を立ちかけた時だった。呼び鈴が鳴り、来客があることを知らせた。
「私見てきますね」
 宅配など、すぐ済む用事だろうと思い、杏奈はそう言った。が、玄関扉の前に立っていたのは、思いがけない人たちだった。
「あ、蓮くん…」
「こんにちは」
 蓮は軽やかに挨拶をして、
「山登ってきたんですけど、ちょっと休ませてもらえませんか?」
 小声で、単刀直入に言った。
 杏奈は蓮の後ろにいる、同い年くらいの子供に視線を向けた。白いキャップから見えている髪はとても短いが、顔のつくりで、一目で女の子だと分かる。外が暑かったのか、幾分頬が上気している。休ませてほしいとは…体調でも悪いのだろうか。
「ど、どうぞ」
 杏奈は中学生相手にどもった。一瞬、美津子の了解が必要ではないかと迷ったのである。
「先に入ってて」
 蓮は、そのまま中へは入らず、外に出た。
「え、どこ行くの?」
「靴の土、落としてくるよ」
 女の子は蓮がそう言ったので、自分も足元を見た。女の子は登山靴ではなくスニーカーを履いていたが、土まみれになっていた。
「中へどうぞ」
 杏奈に言われて、莉子は戸惑いながらも、玄関を上がった。蓮がいないなら、今がチャンスだ。
 狭い廊下を抜けると、だだっ広い空間が広がっている。高そうな家具に、すずらん型のシャンデリア、赤いカーペット敷きの階段。普通の民家にしては、様相が洒落すぎている。とんでもないところに足を踏み入れたのではと、莉子は困惑した。
─というか、どういう関係?
 あのがさつな同級生と、この家とのつながりが分からない。
「あのう、すみません…」
 莉子は、頭に浮かぶ数々の疑問をそっちのけにして、まず頼まないといけないことがあった。
「あのう…トイレをお借りしたいのですが」

「どなた?うちに上げているの?」
 杏奈が応接間に戻ってくると、美津子が尋ねた。テーブルの上には、もう食器はない。美津子が下げておいてくれたらしい。
「はい、蓮くんです。この間ここに来た…」
「蓮くん…」
 美津子は目を見開いた。ということは当然、順正が来ているものと思ったのだろう。
「今日は同い年くらいの女の子と一緒です」
 美津子の期待を察して、杏奈はそう告げた。
「登山してきたらしいんですけど、その女の子が…」
 杏奈は声を潜めた。
「生理がきたみたいで。ちょっと体調が良くないのかもです」
 女の子は、生理用品をめぐんでほしいと言った。その時、彼女は顔を歪めていたので、杏奈は体調不良だと思ったのだ。もしかすると、同性であっても、初対面の女性にそんな申し出をすることに抵抗があったとか、恥ずかしがった、というだけなの
かもしれないが。
 美津子に一瞬見えた喜びの色は、今は既に落ち着いていた。
「そう。蓮くんはどこにいるの?」
「まだ外にいます」
 今思えば、蓮は何らかの挙動からそれに気が付き、女の子に気を遣ったのかもしれなかった。だとしたら…
─できるやつじゃん、蓮。
 杏奈は心の中で蓮を賞賛した。
「すみませーん」
 ほどなく、蓮の声が聞こえて、杏奈はもう一度玄関まで迎えに行った。
「こんにちは」
 応接間に入ると、蓮は改めて、ジムを訪れる時とは違う語調で挨拶をした。そこにいるのはクライマーではなく、楚々とした大人の女性二人なので、品を良くした方が良いような気がしたのだ。
「こんにちは。今日は柴崎さんは一緒でないの?」
 美津子はそう訊きながら、蓮に笑顔を向けた。
「はい。柴崎さんは急診とかで…」
 本当のところ、何なのか分からないが…ということは、伏せておいた。
「何にもないけれど、好きにくつろいで」
 蓮は頷いた。しかし、見たところ、中学生が時間を潰せそうなものは、何もありはしない。
 蓮はキッチンに向かう杏奈の後についていった。
─おや。
 美津子はテーブルに頬杖ついて、二人がキッチンへ消えるまで、その姿を見送った。

「今日も何か作ってくれるの?」
「え?」
 杏奈が後ろを振り返ると、蓮が両手を頭の後ろで組んで、期待を込めたまなざしを向けている。
 屈託のないその様子を見て、杏奈の顔にもしょうがないな、という笑みがこぼれた。
─本当に、何か食べたいのかな…。
 その確証を得ない。冗談なのかもしれなかった。
 杏奈はひとまず、昼食の片付けをした。美津子と杏奈と二人だけで食事をする時は、余剰を作らない。余っているものは何もない。ごはんも、みそ汁も、切っただけの野菜も、何も残っていない。
「明神山のどのルートを通ってきたの?」
「桜台登山口から、普通のルートだよ」
「桜台…」
「上沢」
 蓮は上沢の出であるらしい。
「普通に頂上まで登って下りて来たからさ。もうお腹ぺこぺこなんだよ」
 蓮はデシャップ台に肘をついて、向かいで皿を洗う杏奈に、挑むような視線を向けた。
「あの女の子も、何も食べていないの?」
「うん」
 あかつきに来るなり、南天丸に水をやれという順正といい、何か食べさせろというこの子といい…
─ここを何だと思っているんだろう…。
 蓮は勝手にキッチンに入り込み、杏奈の横に立った。上体を少し前に傾けて皿を洗っているこの人は、自分よりも少し背が低い。
「今日は髪下ろしてるんだね」
 杏奈はふっと笑いそうになって、慌ててこらえた。年頃の男の子というのはそういうところに目が行くのか。
 杏奈は大学生時代、中学生相手に塾講師のバイトをしていた頃のことを思い出した。あれは中三の男の子だったか。数学よりも、しきりに杏奈の髪型や服装に対して質問やら感想やらを述べていたものだ。
「分かった」
 杏奈は水を止めてそう言ったが、手のやり場に困った。
 いつもは、紺色のエプロンのポケットにハンドタオルを入れている。だが今日は、そのエプロンすら身に着けておらず、手を拭くものに困った。
 消耗品入れからタオルを出して拭きながら、杏奈は蓮に向き直った。
「あるもので何か作ってあげるから、戻ってたら?」
「本当?」
 しかし、蓮は顔を輝かせただけで、杏奈の言う通りにはしなかった。
 あの女の子は、もうトイレから出て来ているかもしれない。知らない家に上がって、知り合いが傍にいないのでは、きっと居心地の悪い思いをする。
「戻ったら?」
「邪魔?」
 はっきりと、でも相手を傷つけない陽気さで、邪魔だと言えばよかった。小須賀や空楽なら、それができたかもしれない。けれど杏奈は生来、人をうまくからかえる性格ではなかった。
「そうではないけれど…」
 自由に導線を踏めない。それにまだ何を作ろうか決まっておらず、右往左往するところを見られたくなかった。
 杏奈は、美津子の了承を得るために、一旦キッチンを出てまたすぐに戻った。
 冷蔵庫には、冷凍の鮭が一切れだけ残っていた。三切れ入りで、杏奈と美津子が食べ、余ったものだ。必要な食材を洗い出した上で買い物に行こうと思っていたものだから、野菜はあっても、中学生が好みそうな食材は見当たらない。
 だが杏奈は、二人の嗜好を無視した。いきなり踏み込んできた彼らに、食べ物を恵んでやるだけでも、良しとするつもりだった。

「すみません、あのう、蓮は…」
 莉子は手に帽子とリュックを持った状態で、所在なさげに視線を動かしながら、美津子のいる応接間まで入ってきた。
「キッチンにいるわ」
 美津子はキッチンの方を手で示した。応接間の隅には、蓮のリュックが無造作に置いてあった。
「体調はどう?」
 この邸宅の主と思しき美しい女性は、そう訊きつつ、体の前側にかかった髪を、後ろへ流した。美穂よりもずっと年上だと思われるのに、涼し気な淡い緑色のワンピースが似合う、若々しい女性だった。
「はい。大丈夫です」
 莉子は生理痛がひどいほうではなかった。
「…」
 莉子は、言葉に詰まった。この家の人たちが蓮とどういう関係があるのか。そもそも、誰なのか。民家にしては生活感がなさすぎるか、どういった場所なのか。これらのことを、まったく知らされないまま連れて来られた。何を話していいか分からないのも、無理はない。訊くとしても、蓮を通してだと思った。
 莉子は美津子に軽く会釈して、キッチンに向かった。
 華奢なドアストリングカーテンをくぐると、莉子はさらに混乱することになる。莉子の想像とはかけ離れたキッチンだったからだ。自宅のキッチンよりも大分広いし、ステンレスの調理台は、プロ仕様のようである。調理台の向こうのコンロ台の前に、蓮と、先ほどの女性が並んで立っている。
「ご飯と豆、調味料を入れたら、水を入れて…それから人参、きのこ…硬いものが下になるように」
 女性は大きな鍋にスプーンを入れて、中をかき混ぜた。
「ひじきはもう戻ってるかな?」
「うーん」
 蓮が調理台を振り返った時、莉子がデシャップからキッチンを覗き込んでいるのが視界に入った。
「お、莉子」
 蓮が名を呼ぶと、杏奈もくるりと振り返った。
「何してんの?」
 莉子は中の段差があるところまで歩み寄った。
「メシ、作ってもらってるんだよ」
「え?」
 予期しない状況に、莉子は目を丸くした。しかし、そう言われてみると、確かにお腹はもうぺこぺこだった。
「何もなくてね」
 杏奈はひじきをザルに上げると、蓮が莉子と呼んだ女の子と一瞬目を合わせた。それから、ひじきを鍋の中に移し、
「あるものでなんだけど」
 その上に鮭をのせる。
「これでね、加圧調理すれば、炊飯器よりも早く炊けるから」
「へー」
「ピンが上がったら、火を弱めてくれる?」
 杏奈は蓮にそう言い残すと、消耗品の入った棚の一番下から、手ごろなサンダルを取り出して、段差の前に置いた。
「土足じゃないと、ここには入れないんだ」
「あ、ありがとうございます」
 莉子はつっかけサンダルを履いて、キッチンの中へ入った。
 冷蔵庫も流しも複数あるし、戸棚には、見たこともない調味料がずらりと並んでいる。見れば見るほど、普通の家のキッチンではない。
「ここは何かの施設なんですか…?」
「あ、うん」
「ねえ、ピン上がったってこういうことでいいんだよね?」
 杏奈が答えるのと、蓮が問いを投げかけるのが同時だった。杏奈は鍋の前まで歩み寄って、状態を確認すると、蓮に火を落とさせた。
 莉子はコンロ台を覗き込んだ。どうやら、これも普通のコンロではない、業務用のコンロらしかった。
「この間に、お味噌汁でも作ろうか」
「うわ、めっちゃ普通のご飯じゃん」
 蓮は顔を綻ばせた。
「今日もパンしか持ってきてなかったから、めっちゃ嬉しい」
 莉子は表情を曇らせた。
─私に対する口調と、大分違う気がするんですが。
 自分も、大した食事は持ってきていない。
 キッチンに溢れる出汁のにおい。なんだかわけが分からないが、食事を準備してもらえているのはありがたかった。
「蓮くんの家には、いつも個包装のパンがあるの?」
「うん。母さんも車の中でそれ食べながら出勤するんだ」
 菓子パンは、安価で、手っ取り早く食べられるし、ジャンキーな美味しさがある。蓮もその母親も、実は好んで食べているのだ。
「そう。でも、この炊き込みご飯も、全然時間はかからないでしょう」
「うん、まあね…」
 蓮は肩をすくめた。正直、袋入りのパンを開けるのに比べれば大いに手間だと思ったし、自分でやろうとは、思えないけれど…
 莉子は、この場においても、自分の居場所がなく感じていた。キッチンの奥に視線を馳せると、扉があるのを見つけた。扉を開けると、外とつながっていた。
「外に出られるんですか?」
「あ、うん」
 杏奈は、莉子を振り返った。
「このまま外に出てもいいですか?」
 莉子は目線を、足元のサンダルに移した。
「あ、うん。いいよ」
 杏奈が返事をすると、莉子はさっさと外へ出ていった。
 あまり愛想のない女子中学生だ。はっきりした性格のようで、気の強さが顔に現れている。
「あの子は、莉子ちゃんっていうんだね」
「そうだよ。佐藤莉子」
「同級生なの?」
「そう」
「仲がいいんだ…」
「別に…お互いやることないから、暇つぶしにね」
 暇つぶしで、仲が良いわけでもない同級生と、山は登らないと思うが…
「蓮くん、莉子ちゃんと待ってて」
 莉子は完全にアウェイだと感じているに違いない。それで、蓮にそう言った。そもそも、ここに蓮がいると、やっぱり料理しにくい。
「ライン教えるからさ、これの作り方、あとでラインで送ってよ」
 しかし、蓮は呑気な顔をして、全然、返事になっていないことを言う。
 杏奈は困った笑いを顔に浮かべ、頭を垂れた。ちゃんと人の話を聞いてほしいのだが。

 外の日差しは暑いくらいだった。
 白い外壁の大きな建物と槙の生垣の間には、物干しが置かれていて、洗濯物がゆらゆら風に揺れていた。
 莉子は物干しの前を通り過ぎて、庭の畑の方へ向かった。母屋の日陰に身を置き、ポケットからスマホを出す。誰からも連絡は来ていなかった。
 何をするというわけでもなく、莉子はこの見知らぬ家の庭と畑を眺めつつ、しばし佇んだ。
 それも束の間。車が近くを通る音がして、駐車する音。それに続いて、人の足音。
─近くに民家があるのかな?
 敷地の外での音に気付いたものの、莉子はこの家への来客だとは思わずに、そのまま畑の傍にしゃがんでぼうっとしていた。
 キィ…
 しかし、ゆっくりと門扉が開くのを見て、莉子は慌てて、母屋の壁に身を寄せ、姿を隠した。
 門扉を開け、中に入ってきた男は、白い五分袖のティーシャツに生成りのズボンという、薄い色合いの服を着ていた。飾り気のない服装だが、体格が良いためか、シンプルな服装が逆に洗練されて見える。
 そして、右手には意外なものがぶら下げられていた。
─カーネーション?
 花に視線が吸い寄せられると同時に、莉子は息を殺して、体を建物の陰に隠した。男の視線が自分を捉えたような気がしたが。
 別に隠れなければならない理由はないのに、莉子がそうしたのは、男の顔に、見覚えがあったからだ。
─どうして…
 その男は、松下クリニックの若い医師だと、莉子は気づいた。一度診察を受けただけの医者の顔など、普通なら覚えていない。けれど、その医師はとても整った顔立ちをしていたので、莉子の印象にも残っていたのだった。
 莉子は物音を立てないように、キッチンへ戻った。

 呼び鈴は押したものの扉が開いていたので、誰かが出てくるより先に、順正は中へ入った。そのまま声をかけることなく玄関に上がり込む。ホールへの敷居をまたぐところで、美津子が応接間から出て来た。
「鍵、開いてたよ」
 開口一番、気をつけろとばかりに、順正は不愛想に美津子に言った。
「あらそう」
 それに対する美津子の返事は、呑気なものだった。前にもこんなやり取りをしたような気がするが…最後に母屋に入ったのは蓮だから、閉め忘れたのだろう。
 美津子は、蓮が来ていることを告げようと思ったが、順正が右手にぶら下げている花束に気づき、意識がそっちへ逸れた。大きな花束だが、順正は背が高いので、ぶら下げていても花の先端が床に着くことはない。その花束は次の一瞬で、美津子の目の高さまで持ち上げられた。
「はい」
 たったそれだけ。
 花束を渡す時、順正がかけた言葉は、たったそれだけだった。
 美津子が花束を受け取った時、順正はすでに美津子の横を素通りして、洗面所のほうへ向かった。
 あまりにも一瞬のことで、美津子はかける言葉が見つからなかった。けれど、その花がカーネーションであるのに気付いていたので、言葉はなくても、美津子には十分だった。足込町のスーパーわかばの隣にある花屋などでは、ちょっと買えないような、洒落た花束だ。
 美津子はその花束を抱きしめるように抱えた。
 テーブルに花束を置いて、物置へ花瓶を取りに行く。洗面所で桶に水を張ると、応接間へ持っていった。
 居間や書斎、応接間には、ガラスの花瓶や白い陶器の花瓶が合った。そして、和室である美津子の自室には、陶器でできた一輪挿し。美津子は花束を四つに分けて、花瓶に生けていく。桶に張った水の中で、茎を切りながら、美津子は浮かれる自分の心を抑えようとした。
─しおりさんに悪いな。
 居間の窓から外を眺めている順正の様子を、美津子は横目で眺めた。
「来るなら来るって言ってくれれば、みたらし団子でも買っておいたのに」
 順正は美津子の視線に気づいているのかいないのか、後ろに少し顔を向けると、
「蓮が来てるな…」
 と、つぶやくように言った。その顔は、呆れているようにも、うんざりしているようにも見えた。
「靴があった」
 なぜ分かったの、と美津子が訊く前に、順正はそう言った。美津子は、ようやく言おうと思っていたことを思い出した。
「そうなの。同い年くらいの女の子と一緒よ」
 美津子は次の花瓶のためのカーネーションとユーカリを切った。
「あなたは急診だったの?」
「うん」
「あら、大変だったわね…で、それがなければ、あの子たちと山に登っていたの?」
 休日に子供と登山する趣味ができたとは、どういう風の吹き回しなのかと言わんばかりだ。
 蓮はともかく、女子中学生を連れる予定はまったくなかった。しかし、順正は別に弁解するでもなく、先ほど庭でこちらを見ていた女の子を思い出していた。
─今日は休みの日なんだけど…
 脳裏に浮かび上がる残像を振り払おうとするも、気になってしまう。順正は美津子に気づかれないよう、小さくため息を吐いた。

「蓮。帰ろう」
 莉子は外から戻ってくるや否や、小声で蓮に言った。
「え?何でだよ。もう少しでできるのに…」
 莉子だって、お腹は空いているだろう。圧力鍋から蒸気が抜ける音は、もう大分小さくなっている。
「知らない人のうちだもん」
 莉子としては、お世話になるいわれがなかった。
「おれの知り合いだから」
 正確には知り合いの知り合いなのだが。けれど、莉子を留めるために、蓮はそう言うしかなかった。
「しかも、おれたちのために作ってくれてんのに、食べてかなかったら、そっちのほうが迷惑だろ」
 至近距離にいる杏奈の耳にも、二人の会話は丸聞こえだった。莉子が帰りたいと言った事情を知らない杏奈は、
「気にしないで…」
 お茶碗二つと、お椀二つを取り出しながら、そっと声をかけた。
 蓮とあかつきの関連性を莉子に教えてあげれば、莉子は安心するだろうか。そう考えたが、果たして、
─蓮くんとあかつきの関係とは…
 そもそも、その関係が極めて薄っぺらいものだと気づき、杏奈は閉口した。そんな薄っぺらい関係の男の子に、なぜ自分は昼ご飯を作っているのだろう。蓮は、とても飄々とした様子で食べ物をたかってきたが、山里の中学生とはこういうものなのか…
─これも田舎の洗礼か…
 足込町に引っ越してもうすぐ一年。杏奈は、自分には知らないことがまだまだあるのだと知った。
 莉子はキッチンの外から声が聞えないか、神経を研ぎ澄ませていた。先ほど見た男…産婦人科の医師の声は、聞こえてこない。
 キッチンにいる三人の他には、この家には誰もいないのではないかと思うほど、静まり返っていた。
「どのくらい食べる?」
「いっぱい食べれる」
「莉子ちゃんは…?」
「あ、私も…」
 莉子はあたりを見回して、折り畳み椅子があるのに気が付いた。
「ここで食べていいですか?」
「あ、おれも…」
「椅子、一つしかないよ」
「…あ、これでいいじゃん」
 蓮はゴミ箱に蓋をして、それを調理台の近くまで持っていった。
─なんで、みんなここで食べたがるんだろう。
 近々、もう一つ折り畳み椅子が必要だろうか。むしろ折り畳み椅子を撤去すれば、みんなここでご飯を食べることはしなくなるのか。
 蓮と莉子がご飯を食べ始めると、杏奈はようやく自分の気が済んだ。前回彼の話を聞いた時、小さな頃、家庭に居場所がないと感じていた自分と重なる部分があるように思えた。蓮には、自分をゴミ箱のように扱ってほしくはなかった(蓮は今ゴミ箱の上に座っているけれど)。取るに足らないものを放り込む、ゴミ箱のようには。
「おかわりしてね」
「ありがとうございます」
 二人は口を動かしながら、口々に礼を言った。
 なんだかんだ言って、莉子も一度口をつけると、もりもりとご飯を食べている。それを確認すると、杏奈はキッチンを出た。自分がいると、会話がしにくかろう。
 後ろで結んだ髪をほどきながら、ストリングカーテンをくぐると、杏奈はすぐに、居間に背の高い男がいるのに気が付いた。先ほど呼び鈴の音が聞えたので、誰かが来たのは分かってはいたのだが。
「…先生、こんにちは」
 控えめに声をかけると、順正は少し振り返って、顎を少し引いた。とっても分かりにくいが、会釈なのかもしれない。
 杏奈は頬を掻いた。美津子はどこに行ったのだろう。
 杏奈は順正が視界に入らないところ─書斎─へ逃げた。書斎の本棚の引き出しの一つは、パソコンや関連備品を入れるのに使用している。今日は仕事や勉強はほどほどにするつもりだったが、蓮たちが食べ終わるのを待っている間、メールチェックだけでも終わらせようと、ローテーブルにパソコンを運んだ。
 書斎には窓からの日射しが降り注いでいる。
 テーブルの奥のほうにパソコンを置こうとすると、そこにカーネーションが生けられた花瓶があるのを見つけた。さっきまではなかったものだ。
「…」
 杏奈は壁を隔てた向こうにいる男が、これを持って来たのだと思った。
 美津子は今、自室に入って、カーネーションの入った花瓶を床の間に置いているところだった。代わりに置きっぱなしになっていた空の花瓶を片付ける。
 杏奈はパソコンを起動しつつ、アームレストに体の右側をもたげて、窓の外に視線をやった。日射しがまぶしかった。
 順正は静かに書斎に入ると、ソファに座って窓の外を眺めている杏奈に視線を投げた。すんなりと長い黒髪が、肩を伝って、背中に流れている。この女にとっても、今日は休日なのだ。いつもと違う格好をしているので、順正はそう思った。けれども、パソコンを開いたということは、何かしらの作業を今からするところなのだろうか。
─信頼している…
 美津子はこの女に厚い信頼を寄せている…そう感じたのは前回来た時だっただろうか。
 人の目には、テージャスの光が宿る。初めて会った時、この女には光の片鱗も見えなかった。けれど今はそうでもない。顔つきは柔和だが、高次の目的に向かおうとする鋭い意識は感じる。その意識は、美津子とほぼ同じところに向けられている。
 杏奈の向かいのソファにそっと近づくと、順正は腰を下ろした。どうしたのかと気遣って声をかけてくれるものと思っていたが、やや迷惑そうな顔をされたのを見て、順正も顔を曇らせた(端から見たら、表情の変化が分からないくらいの微妙な変化だったけれど)。
 杏奈はというと、緊張して体が硬くなるのを感じていた。美津子は、この男と会う時嬉しそうだ。それだけで、この人が悪い人ではないことも、怖い人ではないことも分かる。けれども、初めて会った時の印象が痛烈に残っていて、未だに心も体も委縮してしまうのだ。
 杏奈が自分との間に壁を作っているのは、順正もひしひしと感じていた。
「蓮と一緒に女の子が来てるな」
 しかし、今はそんなことは関係なかった。尋ねてみると、怪訝そうにしていた杏奈は少し表情を変え、少し驚いた様子になった。
「はい」
 杏奈にとって、順正の第一声は意外なものだった。なぜ知っているのか。
「名前を言ってたか」
 杏奈は顎を引いた。教えて良いものか、一瞬迷った。そして視線を再び、傍らのカーネーションに向ける。美津子は信頼する師。その師が、嬉々として受け入れるこの男が、悪い目的でそんなことを聞くとは思えない。
「…佐藤莉子といっていました」
─やっぱりそうか。
 順正は数多い患者の一人ひとりの状態を、すぐに思い出せるわけではないが、彼女の母親は最近健診に来たので、記憶に新しい。そして、その母親は以前、娘を伴ってクリニックにやって来た。
「あの子はうちの産婦人科に来たことがある」
「えっ?」
 杏奈はその言葉を聞いて、はじめて順正の顔を真正面から見た。この男はあまり感情が表に出ない。何を考えているのか読み取れなかった。
「無月経で、クリニックに」
─無月経。
 しかし、今の彼女にはそれは当てはまらない。
「…莉子ちゃんの月経は、来るようにはなっています」
 まさに先ほど、生理用品を恵んでほしいと頼まれたのだから。しかし、女子のデリケートな事情を細かくは伝えたくない。
 順正も、なんとなく莉子の無月経は解消されているだろうことは、予想していた。あれ以来、彼女は一度も通院していないのだから。
「その子の母親はクリニックに通ってる」
「莉子ちゃんのお母さんが…?」
「新しい夫との子を妊娠した」
「…」
「おま…」
 お前は、と言いそうになって、順正は言葉を飲み込み、息を吸った。美津子が信頼している、大事な弟子だ。順正は手の平を上に向けて、杏奈のほうに向けた。
「…?」
 杏奈はその意図が分からず、少しだけ顔を前に突き出して、頭を傾げた。
 伝わっていない。順正は心の中でため息をついたが、もちろん外面には出さない。代わりに、また小さく息を吸って、
「名前…」
 吐く息とともに、つぶやくように言った。
「あ、名前…」
 杏奈は苦笑いした。下の名前が杏奈だということは知っているだろう。美津子やあかつきのスタッフからは、下の名前で呼ばれているのだから。
「古谷です。古谷」
 しかし、この男が求めているのは苗字なのだと察して、伝えた。
「古谷は、無月経がなぜ起こるのか知ってるか」
 杏奈はパソコンを閉じ、膝の上で手を揉んだ。
「…知っているつもりです。でも原因は複雑です」
 こればっかりは、杏奈は知識というよりも、自分の経験をもって知っていた。
 彼女の両親と母親の妊娠のことは初耳だが、それがストレス要因だったとしても、無月経の原因因子としての影響度は分からない。
 順正はカーテン越しに外を見やった。窓は開いているが、極めて微風なので、窓を覆うレースカーテンは動かない。
「薬の投与は問題を覆い隠すことがある」
「…」
「…そうは思わないか?」
 順正は何が言いたいのだろう。問答を通して、自分を教育したいのだろうか。美津子のように。
─知っているのか。
 杏奈は、ふとそのことに思い至った。そういえば順正は、アーサナという言葉を知っていた。ヨガやアーユルヴェーダの考え方に、見識があるのだろうか。
「クリニックでは、来なくなった患者のその後まで、追跡しない…」
 順正は再び視線を杏奈に戻した。莉子はすでに、アロパシーの医者が手を下す領域から外れた。だが、別のサポートを受けることはできる。
「おま…古谷ならどうサポートする?」
 杏奈は目を瞬かせた。
「一般的なアーユルヴェーダのアプローチのことを、言っているのですか?」
 順正は言葉が少なすぎて、杏奈はその真意をくみ取りかねる。
 順正は伏し目がちになって、わずかな間沈黙していたが、
「あの子に働きかけるとしたらどうする」
 視線がまた、こちらに向いた。杏奈は自然と背筋が伸びた。彼の声も、表情もきつく問いただすような感じではないけれど、至極真面目に訊いているのだということが分かったから、杏奈はそうした。
「個のアプローチなら、なおさら…彼女のことをよく知らない段階で、回答できません。莉子ちゃんとは、ついさっき初めて会ったんです」
 うちのクライアントではない。
 それに、向こうが求めてもいないのに、こっちから根ほり葉ほり聞き出したり、おせっかいを焼いたりしても、聞く耳を持たないのではないか。
 そもそもなぜそんなことを尋ねるのか。
 美津子の弟子としての自分の力量を計っているのか。薬で覆い隠した莉子の問題を除くよう、実際にアプローチをかけろということなのか。
 やはり、きちんと言葉で言ってくれないと分からない。
 しかし、順正はこちらを見たまま、まったく言葉を発する様子がない。杏奈はここで目線を逸らしたら、負けのような気がした。順正の瞳は黒々として光を放っていた。
─テージャス。
 杏奈は、微細身の一つをその瞳から感じ取る。
 それは火のように、光や内なる輝きをもたらす力であり、変容の燃料だ。内なる輝きであるテージャスは、目の輝き通してその存在を見ることができる。
─真面目に聞いてるんだから真面目に答えろ。
 杏奈は言外に叱られているような気がした。その声は順正の声のようでもあり、自分の声のようでもあった。
─アーユルヴェーダのヒーラーならばどうするのか。
 今や順正の問いは、杏奈が自分自身に向ける問いとなっていた。
 杏奈は呼吸を意識し、こわばった肩の緊張を解いた。
「私は先生のように賢くはありませんが」
 杏奈は落ち着いた声で話しながら、頭の片隅では、美津子からもらったアドバイスを思い出していた。
「莉子ちゃんと性別は同じなので…先生とは違う角度から彼女に言えることも、あると思います…」
 杏奈がそう言うと、ようやく順正は視線を逸らし、すみやかに席を立った。本棚に近づいてじっと本を眺める。やがてその中から一冊を選んで手に持つと、さっと踵を返した。
「えっ」
 杏奈は慌てた。まだ何も話していないのだが…
「先生」
 杏奈は居間へと歩みを進める順正に、追いすがるように声をかける。
「あ、あのう…話、終わりですか?」
 振り返った順正は、ぽかんとして見えた。
「え?」
 杏奈は目を丸くする。あまりにも拍子抜けするような反応をされた。
「…今彼女に言えることもあると言ったろう」
「え~…な、内容は聞かないんですか?」
 今しがたの話で、そもそもそんなに内容など練っているわけではないが…
「…任せる」
 今日は休日だ。もっとも、この女も休日だろうが。
 杏奈は困り果てた。
「そんなこと言ったって…しかも、すぐには、あのう…話のきっかけがあるかどうか」
「ボールは渡した…」
 杏奈は、目を見開いた。順正はそれだけ言い残すと書斎を出ていく。
 美津子は書斎の入り口付近に立って、二人の会話を聞いていた。盗み聞きするつもりはなかったのだが、なんとなく、姿を見せてはいけないと思った。
 杏奈はソファに座り尽くしている。
 美津子はそっと、応接間へ戻った。

 杏奈は、莉子の印象を思い出した。スクールカーストで上位にいそうな、活発そうな女の子。もし今自分が中学生だったら、おそらくこの子と友達にはなれない。タイプが違うのだ。自分の方が見下げられる方だろう。
 そう思ったのもあって、杏奈は、波長が合わなさそうなこの子と話をするのが、大人げないけれど億劫だった。順正から彼女の背景を聞いたからといって、それは変わらない。
 杏奈は絶望的な気持ちになった。
─そんなの、無理…
 実の親ですら、平常時でさえ腫物に触るように接するこの年頃の女の子。ましてや、今日初めて会った自分が、月経のことなど、聞けるはずがない。
─煙たがられるのが恐くて、機会を逃すのか。
 その心の中の声は、杏奈の気持ちだったが、順正の声となって聞こえた。
 この少女とは、これきり、もう会うことはないように思える。であるならば、どう思われようと、知ったことではないが…
 杏奈は両手で顔を覆った。
─違うな。
 杏奈は、自分が何かを言うことによって、この少女を傷つけることのほうを、恐れているのだった。
─それに…
 指の間から、カーネーションを見つめる。
 杏奈は席を立って、キッチンへ向かった。蓮と莉子は、時折ぼそぼそと会話をしながら、まだごはんを食べている。
 そっとキッチンを出ると、美津子のいる応接間を素通りして居間に向かった。体を少し動かすだけで、思考が湧き上がってくる。
 順正は椅子に座って、東側の壁に背をもたげていた。先ほど選んだ本の上に視線を下ろしていた。上背のある男だったが、部屋の隅にいる姿はやけに小ぢんまりして見える。それにしても…
─人にはこんなに考えさせておいて…
 自分は余裕をふかして読書か。
「先生…」
 おずおず声をかけると、すぐに視線がこちらを向いた。順正は杏奈が傍に立っても身動きしない。
「ここへやってくる時、莉子ちゃんに会いましたか?」
 杏奈は声を潜めて、淡々と訊いた。
「姿を見た」
「莉子ちゃんは、先生に気づきましたか?」
「気づいてた…気づかれたくなかったみたいだけど」
「…」
「隠れていたから」
「はぁ…じゃあ、すぐに私が啓蒙的な話をしたら、先生と私が自分のことを話していたことに気付くかもしれませんよ」
 美津子は耳を澄ました。が、二人の声は低く、くぐもっていて、途切れ途切れにしか聞こえない。
「自分の性に関することを、自分がいないところで話されていると知ったら、すごく恥ずかしくて、嫌な気持ちになると思います」
 莉子が傷つく。
─そういうものか。
 順正は片手で本を無造作に開けたままだ。
「それに…先生が患者のプロファイルを第三者に伝えたと気づかれたら、まずいのではないでしょうか」
 落ち着き払っていた順正だが、その言葉を聞いて、確かにそれはよろしくないということに気付いた。
「莉子ちゃんは今日、偶然ここへ来ました」
 どういう経緯だったのか、詳しく聞いてはいないが。
「もう二度と会えないかもしれません」
 だから、渡されたボールをなんとかできるとしたら、今日しかないのだ。
「でも、私が彼女に何か言えるとしたら、それは彼女のほうから月経の問題に言及した場合のみです」
 順正と杏奈が、彼女のことについて話したことは、秘密にしなければ。
 順正は吐息を漏らした。先日、美津子は自分たちの仕事は繋がっていて、アーユルヴェーダは女性とその子の健康に対し、広範に関与できると言っていた。頼る価値があるのなら頼ってみたいと思ったのだが、そう簡単な話ではないらしい。
「ということで…」
 が、意外なことに、美津子の弟子は粘った。
「先生もちょっと協力してください」
「…は?」
 杏奈は急ごしらえの案を、順正に話した。順正はまた吐息を漏らして、窓の外を見やる。こんな面倒な事態になるとは、思っていなかった。

「蓮くん」
 キッチンに戻った杏奈に名前を呼ばれて、蓮は後ろを振り返った。どうやらもう、二人はすっかり食事を終えていた。
「柴崎先生来てるよ」
「まじ!?」
 蓮は驚いた顔をして立ち上がった。
「片付けとくから…」
 杏奈がそう言うと、蓮は「すんませんっ、ごちそうさまでしたっ」と調子よく言って、キッチンを出て行った。
─はあ…男の子のほうが単純でいいよ。
 杏奈は心の中でため息をついた。
「莉子ちゃんも、ここを片付けるから、キッチン出てくれる?」
「あ、あの、手伝います」
 莉子がキッチンに留まろうとしたので、杏奈は慌てた。
「この床は…」
 杏奈は、顔を床に向けた。
「水で流さなきゃいけないの。そのサンダルだと、靴下が濡れてしまうから…」
 莉子はそれ以上食い下がることはできず、キッチンを出た。それを見届けると、杏奈はすかさずお茶の準備をする。
 順正は応接間のテーブルのお誕生日席に座って、莉子の姿を視界の隅に捉えたが、蓮がぺちゃくちゃ話しかけて来て、存外にうるさい。
 莉子は顔を隠すようにそっぽを向いて、しばらく応接間の隅に立っていた。
「お茶淹れたから、莉子ちゃんも座って」
 杏奈に勧められて、莉子は半ば諦めて長テーブルの端に座った。テーブルの真ん中に、急須と湯呑がいくつか置かれる。
 お誕生日席から、こちらへ向けられる視線を感じながら、莉子はいたたまれない気持ちになった。蓮はあの先生と知り合いなのか、ぺちゃくちゃ喋ってる。
 莉子がふと顔を上げると、先生と目が合った。そしてさらに具合が悪いことには、その視線はなかなか逸らされず、自分のほうを向いている。
 莉子は俯きながら、顔が熱くなるのを感じた。斜め向かいにいる美津子が、急須に入ったお茶を湯呑に注ぎ、みんなに配った。
「どうしたの?」
 蓮は、順正が全然話の相槌を打たないし(いつものことだが)、目線が一方に向いて固まっているので首を傾げた。彼の視線の先を見ると、莉が俯いている。
「…ああ、ちょっといろいろあって一緒に来た同級生」
 紹介されて、莉子は心の中で舌打ちしながら、蓮の方を振り返った。その時、また先生と目が合ってしまう。
─気づかれた。
 と、莉子は思った。さらにまずいことには、先生は何か納得した様子で、椅子から立ち上がった。こっちに近づいてくる。莉子は身を硬くした。
「ちょっといい?」
 くぐもった低い声が、ついに自分にかけられる。
「は…はい」
 莉子は誘われるままに、キッチンへ移動した。
「蓮くん」
 呆然とする蓮を、美津子が足止めした。
「先生とは、どうやって知り合ったの?」
 そしてこの際、ついでに興味のあることを訊いた。

 順正は莉子をキッチンへ導き入れると、自ら名乗った。当然、すぐ近くに杏奈がいる。
「前にクリニックに来たね」
「はい…」
 杏奈は、彼らのすぐ近くを行ったり来たりしながら、片付けをした。
「その後は問題ないですか?」
「大丈夫です、もう…」
 莉子は赤面した。こんな狭い所で、こんな顔のいい男が、わざわざ上半身を折って、心配そうに自分を見つめている…何に対して顔が熱くなっているのか、何も分からなくなった。
「よかった」
 とだけ言うと、順正は杏奈を一瞥し、そそくさとキッチンを出て行った。
 杏奈はほっとため息をついた。ボールは受け取った。
「莉子ちゃん」
 杏奈は胸に手を当てたまま、そこで立ちすくんでいる莉子に、声をかけた。莉子は赤面したまま、杏奈の方へ視線を向けた。
「ごめん、思ったより洗い物が多くて。床流し後でやるから、手伝ってくれないかな?
 明らかに居たたまれない様子の莉子に、役割を与える…そういう感じを出して、杏奈は頼んだ。
「すみません。ごちそうさまでした」
 莉子は思い出したように、生真面目にぺこりと頭を下げて、再びキッチンに入った。
「莉子ちゃん、柴崎先生を知ってるの?」
 杏奈は、実は芝居は得意だった。昔は、こんな風に同僚をだまし通し、尾形との関係に気付く者は一人としていなかった。
「知り合いというか…」
 幸運にも莉子は、正直に話してくれた。
「産婦人科に、通ったことがあって…」
「産婦人科?どうして?」
「生理が来なくなったんです…」
「そうなの。あれ?でもさっき…」
「あ、もう元に戻ったんですが…」
「そう。よかった」
 杏奈はそれだけ聞き出すと、洗い物に集中する(フリをした)。
「あのう、ここはあの先生のおうちなんですか?」
「ううん。ここはトリートメントをする施設なんだけど、産婦人科系の悩みを持つお客さまも来るの。先生は、時々私たちの相談役としてここへ…」
「へえ…」
 杏奈は話しながら、冷や汗をかいた。このあとどうアプローチしたものか。
 莉子は、洗ったものを拭いてほしいという頼みに従って、布巾を持ち、杏奈の隣に立った。
 水切り台に洗い物が置かれるのを待ちながら、自分よりも背が低いこの女性を、改めて横目で眺める。
─女らしい人。
 華奢で、髪の毛が長くて、ワンピースを着ていて、それに…
─料理が上手。
 即席で作った炊き込みご飯も、お味噌汁も、おいしかった。短い間に、この人が工夫と手間をかけたことが伝わって来た。だって、適当に作ったのであれば、あんなにたくさんの具材が、ゴロゴロと入っていない。
 蓮は、こういう女が好きなのか。蓮が、あんな風に人懐っこく、異性に話しかけている姿は、学校では見たことがなかった。
「山、登って帰るの?」
 淡々と食器や調理器具を洗っていた杏奈に、急に声をかけられて、莉子は一瞬たじろいだ。
「あ、はい」
「ふうん…今日が生理の初日?」
「…はい」
 先ほど、生理用品をめぐるやり取りがあったのだから、この問いはおかしくない。杏奈はわざと、ゆっくり手を動かした。
「車で送ろうか」
 子供を乗せる自信などない。杏奈はもし莉子がうんと言ったら、完全に順正に投げるつもりでそう訊いた。この際、彼らが気まずい思いをしようが、知ったことではない。
「あ、大丈夫です。私、生理痛とかないんで」
「そう。でも生理中は、あまり激しい運動はしないほうがいいよ」
 杏奈は、おせっかいを始めた。どのくらい莉子に響くかは、分からないけれど。
「生理をどう管理するかによって、この先何十年にもわたって、健康に影響を及ぼすから」
「…はい…」
 莉子は、理解できているのかいないのか、短く返事をした。
 もっとそっちから聞いてくれればいいのに。杏奈は心の中でため息吐きながらも、続けた。
「私もね、何回も、無月経になったことがあるの」
 今度は明らさまに、核心に触れた。
「十代の頃、月経が来なくなっちゃって」
 すすぎ終わった食器を、水切り台に置く。
「ストイックに、ダイエットしてたの」
 莉子は食器を手に持って拭いた。無月経になる若者は、自分の他にもいるのだ。というより、どのくらいよくあることなのだろう。にわかに興味が湧いた。
「でもそのせいで、将来骨粗鬆症になりやすくなっちゃったかもって、今はちょっと後悔してる」
「骨粗鬆症ですか?」
─骨粗鬆症って、骨がスカスカになるあれのこと?
 その言葉自体は知っているが、今の自分とは関係がない。でもなぜ、無月経が骨粗鬆症につながるのだろうか。莉子は首を傾げた。
「生理が順調に来ることは、健康の指標…つまり、栄養や運動が十分足りてますよーっていう、あかしなの」
─小学生に言っても分かるような言葉で伝える練習をすることね。
 またもや美津子のアドバイスが、杏奈の脳裏に浮かんだ。
「十代っていうのは、骨密度を高められる大切な時期」
 骨密度まではさすがに、言葉を選べないが。
「骨密度を高めるにも、栄養と運動が必要だから、そんな時期にダイエットしちゃったのは、まずかったかな」
「…でも、太ってたら気になります」
 莉子は、杏奈をフォローするように言った。
「ありがとう」
 杏奈は莉子の気遣いを感じ取った。意外といい子じゃないか。
「親に早くそのことを喋ってたら、早く対処できたのかもしれないけど、親には言いにくかった…」
「はあ…」
「私は女の子っぽくなかったから、生理みたいに…自分の性が浮き彫りになるようなことを、人に言うのが恥ずかしかったのかも」
 それには少し、莉子は共感を覚えた。
「お姉さんは、あの…女の子っぽく見えますけど」
「あ、ありがとう…でも、昔は、精神的な成長が遅いタイプの子だったから」
 莉子が自分を女の子っぽいと言ったのは、今日の服装がキーだろうか。いつもは、今日の莉子と同じような服装をしているのだけれど。
「私、それからも何度か、無月経になっちゃったの」
「また、ダイエット?」
「ううん。今度は、別の問題…」
 杏奈はキュッと蛇口をひねった。シンクの中はちょうど、空になった。
「環境が変わったの。一人暮らしを始めて、職場のストレスも多くて…」
「…大変でしたね」
 莉子は調理道具を拭き続けた。
「残業とか、人間関係とかね」
「へえ…」
「無月経を繰り返すということは、それだけ、心と身体に負担がかかっていることなんだって、早く気づけばよかった…」
 そこまで言って、杏奈は莉子の顔を真正面から見た。莉子は、杏奈の表情が極めて真剣なので、ちょっと緊張した。
「莉子ちゃんは、どうして生理が来なくなったのか、原因は分かっているの…?」
「…」
「聞かれたくないことだったらごめんね。でも、私は自分がそういう風だったから、気になっちゃうんだ」
 莉子は手を止めて、杏奈の目を見たまま、瞬きをした。目線は自分よりも下にあった。目を逸らしたいのだけれど、なぜかそれができない。
「何か…ストレスになっていることはない?」
 莉子は、何かが喉元までこみ上がるのを感じた。
「…ありません」
 やっとのことで、杏奈から視線を逸らす。
「蓮くんと同い年なら…まだ生理が安定しないのかもね」
 極めて楽観的な語調で、杏奈はそう言った。
「あの…」
 莉子は、遠慮がちに訊いた。
「お姉さんは、ここで何をしている方なんですか?」
 ここはトリートメントをするところだと言っていた。
「セラピスト…ですか?」
 莉子に訊かれて、杏奈は答えに窮した。自分はなんなのだろう。セラピストにはなり切れず、美津子のいうヒーラーでもない。
「…ここの、料理番」
 自信を持って名乗れるのは、まだこの分野だけだった。
 まだ疑問が残る様子の莉子に、杏奈は微笑んだ。
「洗い物、ありがとう。これでやっと床を流せる」
 莉子がキッチンから出て行った後、杏奈は本当に床を流して、予定外だった床掃除をした。これでさっきの口実は、嘘ではなくなった。代わりに、ほとんど新品のワンピースが濡れてしまったけれど。

 蓮と莉子は、順正の車に乗って、桜台まで帰ることになった。蓮は明神山を登って帰ると言い張ったが、順正が有無を言わさずその主張をへし折った。理由を尋ねることも堅く禁じられた。
「また来てね」
 美津子は、にこにこと子供たちを笑顔で見送った。
 杏奈の目に、今日の美津子はずいぶんと機嫌が良い。いや、いつも機嫌はいいのだけれど、それ以上に浮かれている。
 杏奈は玄関で、蓮を呼び止めた。
「蓮くんって、莉子ちゃんと親しいの?」
 さっきも同じようなことを訊いた気がするが、こっそりと再び訊いた。
「親しくないよ」
 蓮は、にべもなく否定した。
─莉子といい、蓮といい…
 この年頃の子供は、どうも扱いにくい。
 杏奈はしょうがないなという笑みを浮かべながら、はあ、とため息を吐いた。
 子供たちを引き取った順正は、心を無にして彼らを家まで送った。自分が蒔いた種ながら、巻き込まれた感が否めない。
 莉子の様子が気になりはする。しかし、杏奈が莉子にどのような話をしたかは、全く分からない。
「蓮」
「はい?」
「ここで降りろ」
「え?ここ、莉子ん家の前なんですけど」
 蓮のことは無視して、順正は自分もそこで車を降りた。
「あの、ありがとうございました」
 莉子は、送って貰った礼を言った。
─近くに寄るな。
 順正は視線で蓮を牽制し、距離を取らせながら、身を屈めた。
「また明神山に登ることがあれば…」
 莉子にだけ聞こえる音量で、順正は伝えた。
「あの家に寄るといいよ」
「ど、どうして?」
 順正は、できる限り優しく、微笑んだ。
「学校では教えてくれないようなことを学べるところだから。いろんな意味でね」
 もう二度と、月経の問題でうちのクリニックを訪れることがないよう。順正は言葉の裏に、念を込めた。
「蓮」
「あ、はい」
 話が終わるのを待っていた蓮は、順正にいきなり呼ばれて、気を付けをする。
「…」
 順正は、今日の約束の振り替えをするつもりだったが、蓮の顔を見ていたら、急にその気が失せた。
 バタン。
 結局何も言わないまま、順正のランドクルーザーはみるみるうちに遠ざかって行った。
─呼ぶだけ呼んでおいて、何も言わないのかよ!
 蓮は心の中で叫んだ。
 莉子はそんな蓮の姿を見ながら、今日一日起きたことを思い出していた。明神山に登って、見知らぬ邸宅へ行って、そこの人たちと話して…思いがけず、大冒険をしたように思えた。
 蓮は後ろを振り向くと、まだそこに立っている莉子の顔を見て、ちょっと驚いた。莉子は、ほんの少しだけ、笑っていた。
─さっきは泣いてたのに。
 蓮は、赤いシャクナゲに手を伸ばしながら、莉子が涙を浮かべていたを思い出した。
 莉子は本当によく分からない。面倒くさい。
「あのさぁ」
 蓮が声をかけると、莉子はすぐに真顔になった。
─お前も、なんなんだよ。
 誰も彼も、自分に対する当たりが、きつい気がするんですけど。
 蓮はため息つきながらも、リュックを開けて、ビニールの片紐巾着を取り出した。
「これ、おれが前に使ってたクライミングシューズ」
 新しいのに乗り換えたものの、これもサイズ的に、まだ使える。だから莉子にも、使えるはずだ。
「また登る気あるんなら…」
 蓮は莉子の顔を見ずに、巾着袋を突き出した。意外にも、莉子はそれを受け取った。蓮は、ちらっと莉子の顔を見た。莉子はその目線に気付くと、
「…ちゃんと洗ったの?」
 と、屈託のない声で言った。その声で蓮は、昔の莉子を思い出した。
「うるせぇな。ちゃんと洗ったよ。嫌なら返せ」
 莉子は莉子は巾着袋を、肩の後ろに下げた。
「ありがとう。でもすぐに追い越してやるから」
 そう言って笑った。蓮が久しぶりに見る、快活な莉子の姿だった。

 

 

 


 

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