第82話「怒り」アーユルヴェーダ小説HEALERS

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 創作和食居酒屋・彩の手前で車を降りた瑠璃子は、少しそこで呼吸を整えた。
 ママ友たちと久々に呑むと言って親に送ってもらったのだが、実は、羽沼と会う約束をしている。
 午後六時過ぎ。
 狭い店の中には、座敷に二組、カウンターに一人、客がいる。カウンターに座っているその人が羽沼だと、瑠璃子はすぐに分かった。
 羽沼は白いティーシャツに九分丈のベージュのチノパンという、至って普通の普段着。
 瑠璃子は、実は、どんな服装で今日ここへ来るべきか、長い間迷っていた。あまり小ぎれいにしていくのは、ふさわしくないと思った。だからといって、白シャツにジーパンなど、カジュアルすぎる格好も、不適切。
─営業先に、謝りに行くと思って…
 結局、選んだのは、白いシンプルなカットソーと、大人しい色合いのタイトスカート、ヒールのないパンプス。この間の遭難事件のきっかけを作ったのは、万里子のように見えて、実は自分だと言われるのではないか。瑠璃子は説教されるのを予期して、わざわざそういう恰好を選んだ。
 羽沼は瑠璃子に気が付くと、軽く会釈をした。会釈を返し、隣に座ると、翠がおしぼりと水を置きにくる。
「だめじゃん、羽沼ちゃん」
 二人が会話を交わす前に、翠は太い声で言った。
「そういうことなら、別の店に行きなよ」
「そういうことって…なに言ってんの」
 羽沼は苦笑いし、瑠璃子は肩をすくめた。
「なんで知り合いに筒抜けなとこで逢瀬をするかな」
「逢瀬じゃないから」
 羽沼がこの店を選んだのは、逢瀬だとは思わないからこそだった。それに、知り合いがいた方が緊張が安らぐ。 
 翠は呆れたように息を吐いて、
「ま、いいや。私だと邪魔になっちゃうだろうからさあ。妹が来たら、妹に対応させるよ。とりあえず酒持ってくわ」
 有無を言わせぬ口ぶり。なんという豪胆さ。翠はそれだけ言うと、金髪の短い髪を揺らし、カウンターの向こう側へと消えていった。
「足はどうですか?」
 捻挫した足は、この前までテーピングされていた。捻挫は二週間ほどで治った。
「部活にも参加できるようになったところだよ」
「よかった…」
「あ、この間は料理ありがとう。容器を持ってきてるから、帰る時に渡すよ」
 椅子についている収納棚に、紙袋に入ったそれが置いてある。
「おいしかったよ」
「…そうですか。よかった…」
 瑠璃子はなんとか笑いを作った。
 いつの間にか、羽沼は少し打ち解けた話し方をするようになった。料理を褒める言葉も、いかにもさりげなく、今日の服装にしても、少しも気取った感じはない。瑠璃子は自分のほうが緊張しているような気がした。
「万里子ちゃんは今日どうしているの?」
「万里子は、じいじとばあばと一緒に夕飯を…」
 じいじとばあばなんて、普段使っている言葉が出てしまい、瑠璃子は恥ずかしく思った。いつまでも若々しい女でいるはずだったのに、いつのまにか、ずい分普通のお母さんになってしまったものだ。
 ぼそぼそ会話する二人の間に、翠は冷酒の入った徳利とお猪口を二つ置いた。
 羽沼は、瑠璃子がお酌をしようとするのを制して、自分で酒を注いだ。
 当たり障りのない会話を少しした後で、
「僕はね」
 羽沼はすぐに本題に入った。
「万里子ちゃんが、もしかしたらお母さんに伝えてないことがあるんじゃないかと思って…」
 それを確認するために、瑠璃子を呼び出したのだ。翠が期待するような、親密さを深めるための飲みではなかった。
 
 羽沼の口調は、重苦しさがなく、朗らかだった。
 正直、あんなことが起こった後でなければ、余計なお世話だと思わなくはない。しかし、万里子が自分に伝えていないことが何なのか、気になった。
「あ、その前に」
 居ずまいを正す瑠璃子の隣で、羽沼は今気が付いたように、
「旦那さんと会うことにしたの?」
 質問の内容に、瑠璃子は狼狽した。
「どうしてそれを?」
 別れた夫と万里子を、定期的に面会させる決まりになっているが、いろいろな事情があり、会わせるべきか迷っていた。そのことを、親族以外に知っているのは、陽介たち幼馴染と、沙羅だけだ。
 悩んだ末、やはり会わせることに決め、向こうから候補日の連絡が来たが、今度はそれに対して返信しかねている…
「渓流遊びの後、うちでバーベキューした時に、万里子ちゃんが話してくれたんだよ」
 瑠璃子はその時の情景を思い出した。
 岡部との面会をどうするか、両親と話をしてしていたところに、寝ぼけた万里子が入ってきた。それから間を開けずにみんなで遊んだ時、羽沼と万里子が二人で何か話していた様子を、瑠璃子は見ている。しかしそれが、岡部のことだとは思わなかった。
「会うことにしました」
「ふうん。万里子ちゃんにはそう言った?」
「いいえ…まだ日程が決まってなくて」
 かれこれ、三週間ほどもメールの返信を怠っている。
「万里子ちゃん、お父さんに会えるって知ったら、喜ぶのかな」
 瑠璃子は、ぐさぐさと胸を刺されるような心地がした。
「分かりません。万里子が父親と会いたいと思っているのかどうか、よく分からないんです」
 瑠璃子は俯きながら正直に話した。
「お父さんと会うべきか、会わないべきか。万里子ちゃんの判断基準は、お母さんですよね」
 羽沼から核心を突かれて、瑠璃子は不意に涙腺に涙が溜まるのを感じた。本当は瑠璃子にも分かっていたことだ。
「万里子ちゃんは、お母さんはもうお父さんと会わないほうがいいって、はっきり言ってましたよ」
 それは初耳である。
 瑠璃子は両手を膝の上で量ね、正面を向いたまま、身を硬くした。
「パパのことになると、ママは嫌な顔をするって。万里子ちゃんはあの日、ママがもういやな顔をしないようにって…怒らないでほしいって願いを込めて、花神岩に…」
 そこまで言うと、瑠璃子は口を押えて、肩を震わせて泣き出した。今までなんとか溢れさせまいと抑え込んでいた気持ちが限界に達し、ついに決壊したのだ。
 羽沼はふうと息を吐くと、冷酒を一口飲んだ。瑠璃子のおちょこには、まだ酒が一滴も注がれていない。

─あ~あ。泣かせちゃった。
 その二人の姿を、遠目で見ていた者がある。翠の妹、空楽であった。
─あれえ?
 翠が勝手に拵えた料理をお盆に乗せて、二人に近づいた空楽は、奥に座っている男が、見知った人であるのに気付いた。
 羽沼は店員の存在に気づき、顔をそちらへ向けると、明らさまに驚いた顔になった。
「ちょっとごめんね」
 小さくすすり泣きしている瑠璃子を残していくのは憚られたが、羽沼は立ち上がった。
 それ以上近づけず、突っ立ったままになっていた空楽は、羽沼に促されるように、回れ右をした。小鉢がのったままのお盆をデシャップに置いて、二人は外へ出る。
「なーにやってんの」
 厨房でその様子を見ていた翠は、ため息交じりにつぶやいた。厨房の奥では、万喜がせっせと料理の下処理をしている。
「ここでバイトしてるの?」
 店の軒下で、羽沼は単刀直入に訊いた。空楽は翠と同じエプロンをしている。
「はい」
 空楽は、いつも通りの、あっけらかんとした様子で答えた。
「ここが姉の店なので」
「え?翠さん?妹?」
 空楽はこくんと頷いた。大分似ていない姉妹だ。似ているといえば、髪を金色に染めたがるところくらいか。
─私だと邪魔になっちゃうだろうからさあ。
 と、先ほど翠は言っていたが…。
─いや、もっと邪魔なんですけど…!
 空楽は、あかつきへの出入りが激しい。何を告げ口されるか分からなかった。
「デートですか?」
 空楽は真顔で訊いた。
「違うよ」
「彼女さん、泣いてましたね」
「彼女じゃない」
 しかし、彼女でもない人と二人で呑んで、しかもその相手が泣くというシチュエーションは、なかなかレアなものだろう。
「ふ~ん」
 空楽は鼻から声を出したきり、沈黙する。納得していない。言葉には出していないが、全然納得はしていない。
「戻ったほうがいいんじゃないですか?」
 羽沼はため息をついたが、空楽の言うとおりにした。
 席に戻ると、瑠璃子はやや落ち着きを取り戻し、ハンカチを鼻に当てていた。もともと眉尻が垂れた大きな目が、今は涙袋を赤く腫らして、さらに大きく目立って見えた。
「強気な女性がたまに見せる弱弱しさがまた男心をくすぐ─」
「─僕が持ってくからもう戻って」
 超棒読みで、誰の代弁とも分からぬようなことを話す空楽から、羽沼はお盆をひったくった。
 やっぱり翠が言う通り、別の店にすればよかったか。別にやましい気持ちがあって瑠璃子に会っているわけではないけれど、知り合いに見られるのはちょっと気まずい。瑠璃子にしても、同僚と会うかもしれないこの店を選んだ羽沼を、恨めしく思っているかもしれなかった。
 しかし、そんなことを考えている余裕は、今の瑠璃子にはなかった。岡部に対しいつまでも感情的になっていた自分が恥ずかしくもあり、万里子に親の顔色を読ませてしまっていたことが、今更ながら悔やまれた。
「信じられないッ!」
 羽沼が戻って来たのに気が付くと、瑠璃子は非難するような声を発して、睨みつけるように羽沼を仰いだ。
「人を泣かせておいて、その後すぐ席外して放置するなんて、なんなんですかッ!」
 元夫のことに対しての憤りを発したのかと思いきや、自分の対応を咎められてしまった。
「あ…ごめん」
 空楽を引き離すためだったとはいえ、さすがに自分の対応がまずかった。羽沼は素直に謝った。
「…す、すみません…」
 しかし、羽沼に怒るのはお門違いだ。瑠璃子はすぐに反省したように謝り、鼻をすすって、ハンカチをしまった。
「…」
 羽沼はどぎまぎしながらも、おそるおそる瑠璃子の表情を横目で盗み見る。思ったより感情を丸出しにしていることに、少し驚いていた。瑠璃子は、仕事のことを話している時は優秀なキャリアウーマンそのものだったし、その他の時に会っている時も、母親としての態度を保っていた。
 だが今、少女のように目を腫らしている瑠璃子は、あらゆる役割を背負っていない、彼女の素の一面のように見えた。感情が豊かで、喜怒哀楽が激しい。

「万里子が私の気持ちを気にしたのは、今回が初めてじゃないです」
 瑠璃子は小鉢に入ったお通しを口に運びながら、しおらしく言った。
「私は、よく怒ってますから」
 瑠璃子のお猪口に、まだ酒が入っていないのを見て、羽沼は徳利を持った。意表を突かれた瑠璃子は、慌ててお猪口に手を添える。
「すみません」
「ああ…注いでよかった?」
 瑠璃子は頷いた。どの道、酒の力を借りなければ話せないことを話すことになると、思っていた。
「何に怒ってるの?」
「仕事のこと…いつも、ここでこの仕事をやってていいのかって、葛藤してるんです」
「長谷川さんは、仕事が好きなんだ」
「はい」
 それは、今更聞かなくても分かっていたことだったが。
「前は何の仕事をしてたんだっけ」
「広告代理店です」
「へえ。優秀なんだね」
「いや、それほどでも」
「じゃあ、僕なんかより、こっちの世界によっぽど向いてるんじゃないか」
 羽沼の言うこっちの世界とは、ホームページの制作代行やウェブマーケティング、動画制作などのこと。
「でも…仕事に納得感を持っていないのと同時に、いつも思い出すのは、夫への怒りなんです」
 瑠璃子の心を最もゆすぶるもの。未だに燃え盛る怒りの火の根源であった。
「離婚の原因は…旦那さんの不倫が原因だったっけ」
「はい」
 瑠璃子は羽沼に話した記憶があるだろうかと記憶を辿った。安藤から聞いたのかもしれない。
 とにかく、それさえなければ、今でも自分は好きな仕事をして、東京に住んで、もう一人くらい…子供を産んでいたかもしれない。
 手にできるはずの幸せが、遠く離れてしまった。岡部のせいで…
「いつまでも引きずっていたらいけないって、分かってるのに」
 瑠璃子は冷酒を少し飲むと、自嘲気味に笑った。
「今回のことで、ようやく、いい加減けじめをつけなきゃって思いました」
 そうでないと、万里子と、目の前にある人生を大切にできなくなる。ようやくそれに、気付いたのだ。
「けじめをつけるって、どうやって?」
 羽沼は尋ねた。瑠璃子は、そう言われると困ったように、虚空を見つめた。
 羽沼には、瑠璃子が自分の感情を抑圧しようと思っているという風にしか思えなかった。
 感情といえば、あかつきは、お盆にうつ病のクライアントを受け入れていた。うつ病とは違う種類かもしれないけれど、瑠璃子が自分の感情と経験をうまく消化できないのは、同じ心の問題である。
 美津子やあかつきのスタッフなら、そういう人に対し、効果的なアプローチができるかもしれない。
─参ったな。
 ここに来る前に、その知見を仕入れてくるのだった。瑠璃子が何に心を悩ましているのかは、想像がついていたというのに。
「誰かに、悩みを打ち明けたことある?旦那さんとの関係性について…」
「親には離婚した経緯を話したことはありますけど、詳しくは…」
 瑠璃子は、プライドが高い。それは羽沼も見ていて分かった。それが邪魔をして、親しい友人や周りの人に、相談できなかったのだろう。きっと沙羅や安藤は例外だったのだ。人の心に歩み寄ることに天性の才能のある沙羅と、幼い頃から損得勘定なしに付き合ってきた幼馴染は。
 空楽がお盆に次の料理を乗せて、二人の数歩前まで近づいてきた。気づかわし気な視線に気が付いて、羽沼はそこに置いておくよう、目で言った。
 瑠璃子に料理を引き寄せてもらいながら、羽沼は酒を呑んだ。瑠璃子のお猪口が空いているのを見て、再び酒を注ぐ。
「話してくれないかな」
 一つ咳払いをした後に、羽沼はそう言った。瑠璃子の眉間に、少し皺が寄る。
「え…旦那のことですか?」
 羽沼は頷いた。
 瑠璃子の目はあてもなく左右に動いた。この人とは、そんなことを話す関係であるのかと、今更のように自分に問いかける。

 羽沼は、ここへ来る前、自宅から彩まで歩く道中、自分のことを振り返っていた。
 過去のトラウマを引きずっていた状態から、どういうプロセスを経て、これからの生き方を考えられるようにまでなったのか。
 まず住んでいる環境を変え、働かず、趣味の延長のようなことをしていた。もともと自然が好きで、何か作ったりすることも好き。それを動画に撮って配信していたら、意外にも人気が出て、ちょっと気持ちが明るくなった。お金にはならないけれども、集中できることがあるのはいいことだ。
 動画のネタを探している時に、もともと好ましく思っていた足込町を、より好きになり、そこに住む人たちと関わるようになった。
 あかつきの存在を知り、あかつきが対象にするクライアントには、過去の自分と同じような悩みを持つ人たちも含まれることを知ると、一つの期待が芽吹く。あかつきの事業に貢献することで、間接的に、その人たちに手を差し伸べることができるのではないかと。羽沼は、自分がやりたいと思えるようなことを、見つけた気がした。
 そして、そのあかつきにいた小須賀という男に、思いがけず、自分のトラウマを暴露してしまった。その飄々とした風貌に加え、自分と関わりがあまりなかった男だからこそ、話せたのかもしれない。思いがけないことに、小須賀と話をすることで、自分の頭の中が整理できたような気がした。
 大樹と明神山に登っている時に、思考がゆらゆらと揺らぎ、今までは考えなかったことが思い浮かんだ。
 そうして、やっと、今自分ができることに目を向けようと思えたのだ。
 自分が辿ったプロセスを振り返り、羽沼は、瑠璃子に対してできそうなことを探った。
─話を聞くことくらい、か。
 愚痴の捌け口になることくらい。それでも、自分一人で過去のつらい記憶を押し込めてしまうよりは、幾分ましではないか。
「長谷川さんも、後輩の愚痴を聞いたことはあるでしょ」
 話していいものか迷っているらしい瑠璃子に、羽沼は笑いを含んだ語調で言った。
「まあ一応、年齢は僕の方が上だから。先輩にちょっと愚痴ってみるつもりで」
 瑠璃子はそれでもまだ、迷っていたが、お猪口に残っていた酒をごくりと呑むと、覚悟したように話し出した。

 岡部とは広告代理店で働く同期だった。
 水泳部上がりの岡部は背も高く体格も良く、逆三角形の身体。目鼻立ちも整っており、新入社員の頃から、グループで何かを行う時には、よくリーダーに選ばれていた。
 研修中に付き合うことになった岡部と瑠璃子は、同期の中でも突出した美男美女カップル。東京と北関東の中距離恋愛を経て結婚。別居婚だったが、それぞれの舞台で営業としての成果を上げ、夫が東京に異動すると、ようやく新婚生活が始まった。ほどなくして妊娠。
 妊娠しても、瑠璃子はそれまでと同じように精力的に働いた。仕事は楽しく、生きがいであった。
 しかし、その頃から、夫との喧嘩が増えた。
 夫はコミュニケーション能力が高く、飲み会などの付き合いもうまい。飲み会に呼ばれることが多く、休日も付き合いのゴルフなどで、家を空けがち。万里子を出産してからも、夫の生活は変わらない。
 一方、瑠璃子の生活は激変。両親は遠くに住んでおり、なかなか頼ることができない中、初めての育児は、ほぼワンオペ。早く仕事に戻りたかったので、万里子を預ける保育園を必死に探した。つまり、産後一人で子育てをしている人なら、誰でも抱く可能性のあるもやもやを、瑠璃子も抱いていたのである。
─別にどっちが育休取ったっていいはずだけど。
 岡部にそう言ったこともある。
─キャリアも人間関係も全部中断して、私が育休取ってるんだよ。感謝してよね。
─毎日メリハリあって人と話せていいよね。
─生活が何一つ変わらなくって羨ましい。
 今思うと、自分はかなりモラハラ発言をしていた気がする。
 瑠璃子は多少、自分が奢っていたことを否めない。自分は自慢できる妻だと。顔もプロポーションも申し分なく、仕事ができ、歳を重ねても女らしさを失うこともなく、女性からも慕われるさっぱりとした性格。
 その誇りがあった分、岡部の不倫を知った時の衝撃は激しかった。
 岡部が社内の他の女性社員と関係を持ったことは、同期からの情報で知った。相手は岡部の直属の部下ではないが、同じ部署の後輩。岡部が仕事の面倒を見たり、一緒に飲み会に参加することもあったらしい。
─帰国子女。頭良いけど、営業では苦戦してることもあるらしくて、弱いところを、彼に見せていたって…
 同期のうちの一人が、瑠璃子にそう告げ口した。
─彼女、一重瞼で、妖艶な顔つきなの。背は瑠璃子より高くないし、細くもないけど、グラマラスだよ。
 一時の気の迷いなら、許してやるべきか。そう考えたこともある。しかし、家に帰れば一緒にいることになる夫。
 万里子のためにも、離婚は避け、ただ金を運んでくるロボットのように思おうとしたこともあるけれど、それでは鬱憤が収まらなかった。夫の気持ちが自分から離れていることにも気づいた。
 それまでと違う、微妙なかみ合わなさ、すれ違い。
 もう一度、夫と愛情を育もうと思えるようになるまで、耐えていくしかないのか。
 万里子が一歳になる前に、瑠璃子は仕事に復帰した。その時に知った。部署内では、一時期、瑠璃子が浮気されたという噂が立ち、酒の肴にされていたようだ。夫のことを許した寛大な妻くらいに捉えられているかと思ったら、浮気されても別れられない、かわいそうな女という評価になり下がっていた。自分の知らないところで染みついたイメージをもつ同僚たちと、仕事をするのはつらい。
 夫と会社から離れる決意が固まるのに、時間はかからなかった。
「不倫された時、どう思った?」
 瑠璃子の話がひと段落すると、羽沼は単刀直入に尋ねた。
「浮気する男も最低だけど、人の旦那に手を出す女も最低…」
 囁くような声だったが、語尾のほうは震えていた。
 羽沼はふと視線に気が付いて、カウンターの向こう側に目を向けた。一瞬、空楽と翠が、さっと頭を引っ込めるのが見えた。
「単純に、怒りと、失望と、侮蔑と…悲しかった」
─家族って、そう簡単にできるもんじゃないのに…。
 瑠璃子はその時、自分が抱いていた悲しみを鮮明に思い出すことができる。
「毎日毎日、オムツを変えて、あやして、眠いのを我慢しておっぱいあげて…そういう時間を積み重ねて、少しずつ、家族を作っていっていると思ってたのに」
 その時間と、その瞬間ごとに抱いていた気持ちは、そう簡単に奪っていいものではないのに。
 やすやすと踏みにじられたことが、悲しかった。
「自信も失いました」
 女としての尊厳を失ってしまったように思った。
「確かに私も、あの頃旦那にひどい態度を取ったこともあったけど、不倫されるほど、魅力がないと思われているとは思わなかった」
「まあ、不倫する時って、奥さんの魅力とは関係なく、不倫になっちゃうことってあるからね…」
 羽沼としては、瑠璃子に魅力がなかったことにはならないという意味で言ったつもりだったのだが、瑠璃子から浴びせられた視線は厳しいものだった。
「羽沼さん、不倫したことあるんですか?」
「いや、一般論として。一般論としてだよ」
 瑠璃子はそう言われても、ちょっと気を害したように、唇をつんと尖らせた。
「私は自分が不倫されるような、離婚してもいいと思われるような女だったんだって…そう思って、本当に落ち込んだんです」
 無意識にか、瑠璃子の声のボリュームは大きくなっている。羽沼は慌てて周囲を見回したが、客は自分たちの様子にはお構いなし。
 空楽が近くまで歩み寄って、新しい徳利をそっと置くのが見えた。
「くれる?」
 瑠璃子はそう頼む羽沼に、徳利を渡した。
「離婚を切り出したのは、長谷川さん?」
 羽沼は瑠璃子のお猪口に酒を注いだ。
「そうです。でも、向こうは素直に応じましたよ」
 瑠璃子は不貞腐れたような顔をする。
「きっと、離婚したいと思ってたんじゃないですか」
「旦那さんは、その後再婚したの?」
「ええ。子供もいると思います」
 瑠璃子の目は、立てかけてあるメニュー表をぼんやりと捉えていた。
「ああいいですよね、男性は!子種を植えるだけですから」
 瑠璃子は鬱憤を晴らすように皮肉った。その言葉は、ぐさりと羽沼の心に突き刺さったが、奥歯を噛んで耐える。瑠璃子には、悪意はないのだ。
─いいんだ。
 羽沼は深呼吸を意識する。
─吐け。ここで全部、吐いてしまえ。
 そのために、今日こうして会っているのだ。その途上で、自分が傷つくようなことがあったって、構わない。
「長谷川さんは、再婚を考えたことはないの?」
「ありません」
 瑠璃子の答えは、明確すぎるほど明確だった。
 その質問は、別にしなくてもいい質問だったが。羽沼は話の流れでつい訊いてしまった。

 やっと次の料理を空楽が運んできて、二人はしばし会話を中断して、食事を摂った。
「なんかもうちょっと、腹の足しになるようなものが食べたいね」
「なんか好きなの頼んでください」
 瑠璃子はそう言ってメニュー表を渡した。
「長谷川さんは何が好き?」
「私は…」
 瑠璃子は傍らからメニュー表を覗き込んだ。枝豆、出汁巻き卵、揚げ出し豆腐、えいひれ、納豆を使ったおつまみはなんでも。
「酒のつまみだな」
「お酒呑んでますから」
「最近はあかつきの料理の味を覚えちゃって。居酒屋の料理は味が濃く感じるよ」
 ずい分と健康的なことだ。
 空楽に注文をすると、空楽は「お待ちくださ~い」と言いながら、しきりに二人の顔を覗き込んでいる。羽沼が手を振って追い払うと、空楽は小股でさささっと歩き、カウンターの向こうへ消えて行った。
「こっちに戻って来てから、ストレスに感じたことは?」
 話を元に戻す。瑠璃子は少し考えた。
「故郷とはいえ、私、高校から外へ出ていたので、今更ながら、ずっとここで暮らしていくのかと思うと、住環境のギャップが激しくて…」
 長らく生活していた東京とは違い過ぎる。
 それでも故郷を選んだのは、実家があったから。子育てするにも、自然がたくさんあるのはいいと思った。瑠璃子は都会が好きだが、かといって、自然が多い所が嫌いなわけではない。
「確かに、東京とは違い過ぎるね」
 東京とまではいわずとも、愛知県の中でさえ、ここは田舎すぎる。流行の最先端を追う飲食店どころか、普通の飲食店ですら少なく、大型ショッピングモールもない。スーパーは町に一軒。コンビニは町外れまで行かなければない。
「お店もそうですけど、学校とか、習い事とかを考えると…」
 自然豊かな環境は、情操教育には良いかもしれないが、もう少し子供の年齢が上がってくると、都会の方が有利だと感じざるを得ないだろう。
「でも、とにかく子育てが大変なので、しばらくは親の手を借りながら、安定した仕事をしようって思ったんです」
 けれど、いざ足込町役場で働いてみると、納得感のなさを感じることばかり。前の会社の人間は嫌いになったけれど、仕事自体は好きだったということが浮き彫りになった。
 仕事に納得感を得られていないことに苦しんでいることは、瑠璃子を見ていればなんとなく分かる。
「僕はね、足込町に住んで一年半になるけど、ここは良い所だよ」
 人の手が入った里山も、山深い場所でも確かに感じる生活の気配も、花祭も。最近は物を買うにもネットを使うので、手に入らない物もよっぽどない。何より普段の生活の中で、自然が近くにあることは、羽沼にとっては魅力的で楽しいことだった。
「広告代理店の仕事の、どこが好きだったの?」
「うーん…ヒアリングしたり、相手と交渉したり、実際の広告を考えたり…仕事のプロセス自体も好きだったし、やっぱり広告は影響力が大きいので、成功した時の喜びも大きいし、やりがいがありました」
 優秀だった瑠璃子からすれば、結果が分かりやすく出るところも好ましかった。
「大変な仕事だよね」
「ええ。まあ、ブラックはブラックでした…」
 しかし、それでも楽しいと思えるほど、瑠璃子は仕事に打ち込んでいたし、おそらく適性があった。
「その経験を買われて、役場では地域振興課に?」
「いや。それはどうでしょう…たまたまかもしれません」
「それでも、町役場では唯一、前の仕事に似たことができる部署に思えるけど」
 足込町の魅力をアピールできるところにいる。もちろん、営利を求める企業の広告を作るのとは異なるが。
「羽沼さんにお願いした仕事は、かなりイレギュラーな案件で」
 足込町のホームページなどに掲載する動画の制作代行を、課として羽沼に依頼したのは去年のことだった。
「普段は、地味な仕事ばかりです」
「もう一度、自分のやりたい仕事をするつもりはないの?」
 運ばれてきたばかりの油揚げの納豆巾着を取り皿に取りながら、羽沼は尋ねた。
「それは…ここを出るということになるので…」
「自分一人だったらどうする?」
「え?」
「万里子ちゃんがいなくて、自分一人だったら…」
「そんな現実的でないことは考えません」
「万里子ちゃんは自分の世話のために、お母さんがやりたいことやれなかったって知ったら、気持ち良くないと思うけど」
「…それはそうですけど、綺麗ごとじゃないですか?私が万里子を養っていくんですから、無鉄砲なことはできません」
「ごめんごめん。怒らないでね」
 またもや瑠璃子に、守るものがあると好き勝手できないと叱られそう。羽沼は先手を打って謝った。
「怒ってません…」
 瑠璃子は、ついムキになってしまい、声が大きくなってしまっていることに気付いて、声を落とした。
「私ばかり吞んでます」
「そうでもないよ」
 羽沼はまた、お酌をしようとする瑠璃子を制して、自分で酒を注いだ。
「そうだ。ちょっと込み入った話になっちゃうけど、旦那さんの養育費は当てにできないの?」
 万里子が、養育費をもらうためには父親と会い続けなければならないことを匂わせる発言をしていた。
「いや…」
 瑠璃子は、さらに声量を落とした。
「慰謝料はたくさんもらいましたし、今のところ、養育費は毎月支払われています」
「そうなんだ」
「それもまた、気に入らなくて」
 と、ここにも瑠璃子の怒りの種があるらしい。
「遅滞なくお金を納めてもらっているっていうのも、ちょっと癪で」
 余裕を見せつけられているよな気がして。
「旦那は、前の会社でそのまま働き続けていて、経済的にも余裕があって…私と万里子の人生は、あいつらのせいでめちゃくちゃになったのに、彼は、私から全然影響を受けていないんだって知らされてるようで…」
「ふうん…」
「あ、すみません。愚痴になりました」
 愚痴というなら、さっきから言っていることは、すべて愚痴だが。
「それから?」
「…え、それからって?」
「他にストレスに感じてることは?」
 どこまで洗いざらい話させる気なのだろう。羽沼にはあまりにも借りが多いので、一応訊かれたことに答えているのだが、この会話の目的はいったい何なのだろう。
「…出戻りって思われてるって…被害妄想を」
 瑠璃子は羽沼の目的を推し量りつつも、ストレスの種をさらけ出した。親から、それから、周りからも、そのような目で見られているのではないかという被害妄想は常にあった。
 羽沼は首を傾げた。
「僕は安藤や前原くんを見ていて、少なくとも彼らは、長谷川さんのこと、そういう風には見てないと思うよ」
 ちょっと腫れ物のように扱っている感は否めないが。けれど、中傷しているわけでも侮蔑しているわけでもない。
「心配してるだけだよ」
「心配…?」
「うん」
 瑠璃子は鯵の南蛮漬けを羽沼の方へ押しやりながら、全然、自分とは違う見方をする人なのだと思った。
 この人は優しい。他の人も、当然自分と同じように、瑠璃子のことを見ているだろうと思っている。でも実際は、そうではないだろうと、瑠璃子は思う。他人の不幸は蜜だ。
 それとも、この人は自分に気があるから、優しいことばかり言っているのだろうか。警戒心を抱きながらも、普段気にかけていることを喋り出したら、次から次へと喋りたいことが出てきた。
「親は、失望したと思います」
 娘は自立したと思っていたのに、まだまだずっと、守り続けねばならないと。
「…僕はね」
 話を切り出す時、「僕はね」というのが羽沼の口癖のようだった。
「離婚をして仕事も辞めた時にね、実家へは戻れないって思ったけど…親は、もしかしたら戻ってきてほしかったかもしれない」
「離婚して…?」
 瑠璃子は、目を見開いて、羽沼を見た。
─あれ…そうなんだっけ。
 羽沼がバツイチだという情報を、どこかで耳にしたような、していないような。情報がごちゃごちゃになってしまっていた。
 混乱する瑠璃子の横で、羽沼はその決心をした頃のことを思い出していた。
 羽沼が実家へ戻ることを選択しなかった理由の一つは、母親だった。
─私のせいかもしれないねぇ…
 やっとのことで離婚理由を聞き出した時、母は、居たたまれなさそうにしていた。
─ちゃんと精子を造れる体に産んでやれなかった…
 自分がいることでそう思わせてしまうのは忍びない。そんな母の姿を見たら、こっちもより惨めになる。それが実家に戻らなかった決定的な理由ではないけれど、一つの判断要素ではあった。
 瑠璃子の視線がこちらを向いていることに気付いて、羽沼は何の話をしていたか思い出した。
「…親御さんたちは、子供や孫が家にいたほうが、きっと嬉しいよ」
 羽沼はさっきから、ずい分前向きな捉え方を提示してくれるものだと、瑠璃子は思う。

 瑠璃子が直近のストレスの根源をひとしきり話し終えると、二人は店を出た。
「ありがとうございました~」
 空楽は羽沼に意味深な目線を送ったが、羽沼は、その目線を無視した。あかつきの人たちには言うなと言うべきか、一瞬迷った。しかし、
─やましい気持ちがあったわけじゃない。
 そう思えばこそ、敢えて空楽に念押しする必要はないと思った。
 ここまでは親に送ってもらったという瑠璃子に、親を呼んだらと言ったのだが、
─途中まで、一緒に帰りましょう。
 と言うので、二人は縦に並んで夜道を歩いた。どの道、同じ区に住んでいるのだ。
─ママが、もうイヤなかおをしませんように…。
 万里子にはその願いを自分に預けろなどと言ったものの、羽沼は、自分がその願いを叶えてやれるはずがないことを、思い知った気がした。こうして話を引き出すことくらいしかできないのだから。
 林道とはいえ、日中、夏の日差しをたっぷり受け止めたアスファルトは、まだ熱を持っている。
 瑠璃子は足元から伝わってくる熱気に加え、酒を呑み、幾分顔が上気していることを自覚していた。とろりとした目で羽沼の後ろ姿を見ると、自然にその体の線を、視線でなぞってしまう。野球をしている割には、お尻も大きくないし、下半身の筋肉もそれほど太く、ガッチリしていない。
 ふいに羽沼が振り返って、瑠璃子はさりげなく視線を足元に移した。時々振り返ってくれるのは、自分がついて来ているのを確かめるためか。
「星が明るいね」
 空を見上げて、羽沼が言った。明るい夜空には、夏の大三角形が見えている。
「今度茶臼山に行こうと思っててさ」
「ん…星空観察ですか?」
「そう」
 茶臼山高原は、全国でも人気の高い星空観察スポット。
「足込町の星見が丘でも天体観測ができるみたいだけどね」
 よねと言われたが、いくら地域振興課にいるとはいっても、瑠璃子はそこまで情報通ではない。
「そうなんでしたっけ」
 瑠璃子の喋り方は、やや舌ったらずになっていた。あれだけの酒で、酔ったとも思えないのだが。
 空など、東京に住んでいた時はほとんど見上げなかった。
 美しいものは、すぐ近くにあるのだ。探さなければ気づかないけれど。
「あかつきも、星空企画をすればいいのにな…」
 羽沼はぼんやりとつぶやいた。
 アーユルヴェーダでは早めの就寝時間を勧めているらしいが、美しい星空を見ることと引き換えになら、ある程度許されるような気がする。
「羽沼さん」
 瑠璃子から羽沼に声を掛けたのは、栗原地区へ向かって北の伸びる分岐を曲がったあたりだった。
「今日の話合い…なんか、意味あったんでしょうか?」
 別に飲みの席で話すことに、意味なんかなくていい。同僚や女友達と呑んだって、そこで話すことは四方山話。しかし、今日の会話は、明らかに何らかの意図があるように感じられた。
「万里子のことは、分かりました。あ、あのことをもう怒るつもりはないので、ご心配なく…」
 そもそも、万里子が花神岩へ行った事情を話す、というのが、今日の名目だった。しかし、その後の会話のほとんどは、瑠璃子の過去の暴露と、最近の愚痴になってしまった。
「私ばっかり話してしまって…よかったんでしょうか」
 言いながら、瑠璃子は早歩きをして、羽沼とほぼ平行になる。主要道と違って、ここは車通りが少なかったよ。
「よかったんです」
 ほぼ真横に並んだ瑠璃子を見下ろして、羽沼は真顔で答えた。
「あんなに胸のうちを誰かに話したことは、あまりなくて…」
 感情を外に出して、興奮してしまったのだろうか。あれだけのお酒でもこんなに頭がぼうっとするのは。
「そうなの?」
 頬を撫でた風は熱をはらんでいるが、心地がいい。
「どうして。もっと沙羅さんとかに、話せばいいじゃん」
「あ、はい…沙羅さんには、時々お話してます」
 あの日も、夫のことを話している間に夢中になって、子供たちから意識が離れてしまった。
「人に話すとさ、思いがけない気づきがあるでしょ」
 羽沼は微笑を浮かべた。
「僕はね、今日の話を聞いて…そうだなぁ。共感できることも多かったけど、共感できないこともあったかな」
「すみません。私、なんか間違ったこと言ってましたか?変でしたか?」
 瑠璃子は一層、顔を上気させた。
「そういうわけじゃないよ」
 労わるように、羽沼は言った。
「むしろ、否定的に見ていることを、肯定的に捉えていってほしいから…否定的になっていることを、否定したかったというか」
 たとえば、不倫されたことに対して自信を失ったこと。
「自分に魅力がなかったからなんて思う必要は、ないと思う」
 瑠璃子は横目で羽沼を見た。この人は、相手が自分でなくとも、こういうことを言うのだろうか。
「どうしてそんなこと言ってくれるんですか?」
「前に進んでほしいからだよ」
 いつの間にか栗原地区の集落が見えてきて、二人の歩く速度は緩くなった。
「僕もね、トラウマに縛られて、前を見れなかったことがある」
 羽沼は足元にやっていた視線を横に移すと、かつて鮎太郎が奥三河一番の佳人だと評した瑠璃子の顔がそこにあった。頬が上気しているせいか、いつもに増して麗しく見える。
「…だからかな」
 瑠璃子から目を逸らした羽沼は、しかし、瑠璃子が美しく見えれば見えるほど、自分の翳が濃くなる気がした。
「羽沼さんのトラウマって?」
 瑠璃子は訊いたが、羽沼は作り笑いを浮かべるばかり。
「今日は、長谷川さんの話でお腹いっぱいだよ」
─なにそれ。
 瑠璃子は心の中で、拗ねた声を出した。
─ずるい。
 自分にはあれだけ、洗いざらい話させておきながら。
「家はどのあたり?」
「あ、もうすぐそこです」
 視界に入るところに、家の輪郭が見えている。
「じゃあ、ここで」
 羽沼は、瑠璃子の家の前までは一緒に行こうとしなかった。
「羽沼さん」
 瑠璃子は、心臓の鼓動を早くしながら、思い切って尋ねた。
「一つ訊いてもいいですか」
 羽沼は少し先まで歩いていたが、足を止めて瑠璃子を振り返った。
「あの…私は、夫と万里子を、会わせ続けていいんでしょうか」
 羽沼はわずかに眉をひそめた。それは、瑠璃子と万里子、そして今二人を支えている家族が決めること。自分が意見することではない。
 それに、瑠璃子の中ですでに、気持ちは固まっているのだろう。だが彼女は、いろいろなことを考えて、その答えを出していいものかどうか、考えあぐねている。
 背中を押すか、逆に思い留まらせるか。
 どちらにしても、自分が影響を及ぼすことは不適切だ。なんの責任も負っていない自分は、この件に関わるべきではないと、理性では分かっていた。
 しかし、宝石のようにキラキラと光って見える瑠璃子の瞳を見て、
「あくまで一つの意見として受け取ってほしいんだけど」
 羽沼は自分の感情と直感を優先させた。
「もう、旦那さんとは関わらないほうがいいと思う」
 その言葉を聞いた時、瑠璃子は、今まで自分のどこかに蓄積していたものが熱く燃えて、溶け出していくような感覚を味わった。内側では、そんな熱を感じるが、表情としてはそれを出さずに、ただ沈黙する。
「じゃあ、おやすみなさい」
 そう言って去っていく羽沼に、瑠璃子は挨拶を返すのがやっとだった。

 

 


 

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