第81話「鬱」アーユルヴェーダ小説HEALERS

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杏奈があかつきへ戻ったのは、日曜日の夕刻だった。
電車と高速バスを使う、最も所要時間がかからない経路でも、実家の最寄り駅から足込駅まで、二時間半近くもかかった。
この日は、杏奈は初めてコミュニティドライバーサービスを使った。地域住民による移動サービスである。
─料理の提供だけお願い。
美津子からはそのように連絡があった。この日は、杏奈にとってまだ休日だったが、午後から新規の客が訪れていたのである。岐阜県岐阜市から来た、四十八歳の女性。
「直美さん、こんばんは」
「あ、杏奈さん。こんばんは」
美津子が作った夕食を提供した時、杏奈はそのクライアント・直美と挨拶を交わした。
対面で会うのは初めてだが、事前コンサルや、コンサル後のラインのやり取りで、なんとなく彼女の人となりは知っている。礼儀正しく、穏やかな女性、という印象だった。恥ずかしがり屋というか、人見知りで、うまく自分のことを話せなかったり、途中で喋っていることが支離滅裂になったりする。それでも、根本的に善人だということが伝わってくるような人柄だった。体格は、やや痩せ型から平均的。
その日アビヤンガを施した美津子は、直美は顔も、体も、皺が多いと感じた。
無理もなかった。今でこそその体格だが、ほんの一年ほど前まで、身長百五十八センチの直美は、体重が九十キロあったのだから。

─鬱。
九年前に発症した鬱と、その薬の副作用が発端と思われる様々な疾患。
直美の健康に関する質問票を見た時、杏奈は驚いた。メールでのやり取りをする中では、直美がうつ病であることなど、とうてい想像できなかった。
─まさかこんなに不調がある人だとは…
直美は二人の子供がまだ小さい頃、三十代前半で夫と別居し、岐阜市にある実家へ帰って来た。
─元夫は…いわゆるアスペルガー症候群というやつでして…
事前コンサルの際、直美は別居の理由についてそう話した。コミュニケーションが取れず、自分の主張はしても、直美の意見はほとんど聞かなかったという。仕事人間で、子供や家庭、直美の体調になにかあっても、まったく彼の生活は変わらない。小さなことでもよく怒鳴られ、人格否定されることが多かった。
別居からしばらくの間、直美は元夫と連絡を取ることに耐えられず、数年経ってからようやく、メールで連絡を取り始めた。それまで養育費の支払いは全くなかったという。
─離婚したのは五年前です。
─それまでは、どうして別居という形を?
─本当に一人でやっていくとなると、自信がありませんでした。でも、周囲から離婚をすすめられ、長い時間をかけて気持ちが変わっていきました。
しかし、三十九歳の時に母親が急死し、直美はうつ病を発症した。
─どのような状態になったのですか?
─気分が落ち込むという表現ではとても足りないくらい…奈落の底に落ちていくような、そういう感じでした。
子供の送迎ができないほどで、一日中寝ていることも多かった。
─体重が急増したのは、薬を飲んでからです。
一年と少しの間に、二十キロ以上も増えた。そのため、しばらく肥満外来に通っていた。
─医師から副作用の説明はなかったのですか?
─食欲が出るようにはなると。だから薬飲んだら太る人が多いと言われていましたが、まさかこれほどとは…
それから、様々な高度肥満症の関連疾患にかかり、十回以上も手術をしている。変形性膝関節病、乳がん、胃の縮小手術…
─胃を小さくする手術は、減量のために?
─それもありますが、血液検査の数値が悪く、肝臓がんになる可能性があると言われて…
直美の体調が激変したのは、その手術の後だった。健康診断の結果は全て標準値に戻り、体重も落ちた。今は抗うつ剤と、抗エストロゲン薬を服用している。
─今の抗うつ剤に副作用は?
─ありません。量も、以前よりすごく減りました。
しかし、一つ気になることは、その胃の手術をしてから、何時間も寝付けない日がある。不眠というほどではないのだが、横になっていると将来への不安や恐れを感じてしまいがちで、ストレスになっている。
─通院は続けているのですか?
─はい。町のメンタルクリニックへ。
直美は現在、実家にて実父、子供二人と暮らしている。
養育費は子供が二十歳になるまでという約束で、現在は十九歳の娘に対してだけ払われている。わずかな養育費と、父親の年金、直美の障碍者年金でなんとかやりくりしているが、経済的な余裕はない。
直美はそれで、数カ月前から、学童での仕事をし始めたところだ。
子供との関係性は良好だが、直美の悩みの種は、二十二歳になる長男の体調である。長男は中学生の頃不登校となり、パニック障害を起こした。厳しい担任との関係性が発端にあったようである。その後、学校を休みがちになり、大学まで進学したが、ほとんど学校には行けないまま中退。医師からは不安症と診断されており、その他に、常に疲労感がある。就職はしておらず、一日を家で過ごしているとのことだった。
アーユルヴェーダを学ぶことで、息子と関わる上でのヒントを得られればと、直美は思っている。
─このクライアントには、物事に対する捉え方の癖を修正する機会を、設けることになるだろうと思う。
と、美津子は杏奈に話した。
─それにあたって、自分の心と、本質的な魂との違いを理解しておいてもらいたい。さりげなく、少しずつ、教育してくれる?
─…え?
この指令に、さすがに杏奈は戸惑った。杏奈はアーユルヴェーダのテキストを作っているところだったが、実践的な部分─生活習慣や食生活─がメインであり、心の分野は網羅していない。精神的な分野については、まだ知見が足りていないのだ。しかも、さりげなく、少しずつ教育せよとはどういうことか。
─生まれもった気質はあるけれど、その本質と、日々揺れ動く自分の心は違うということでしょうか。
杏奈はプラクリティとヴィクリティの教えを脳裏に浮かべながら、そう問うた。
─心と魂の違いについて。
美津子は一冊の本を杏奈に渡した。美津子はこのクライアントを通し、杏奈にも教育をさせようとしているのだった。
杏奈はその本を読んで必要箇所を抜粋するのに、半日は時間を要した。
頭に叩き込んだばかりの知識をもとに、「心」と「魂」とは何か、平易な、杏奈自身の言葉で書き連ね、美津子が添削をする。その内容を三日に一度の頻度でインスタに投稿し、ある程度まとまってから長いブログを書いた。
一連の発信の内容は次のようなものである。

─よく「心、体、魂は繋がってるんだ」という言葉を耳にします。
心と身体が繋がっていることは分かると思います。職場に行くのが嫌だなと思ったら、朝起きられないですよね。
では魂とは何でしょうか。
魂についてお話する前に、まず「心」についてお話させてください。マインド、ですね。「心のことなんて知ってるよ」と思うかもしれないですね。心は、感情、思い、考え、価値観、記憶、知識などを司ります。マインドには明るい面も、影の面もあります。
心は状況によって、コロコロと変化します。一度注意されたら、「〇〇さんは怖い」「私を嫌っている」という印象をもってしまいます。私たちは心に翻弄され、エネルギーを消耗します。
私たちは心を元にして、あらゆる物事を判断しています。しかしその心は、知らないうちに様々な想像、制約、クセ、思い込みをもっています。心は自然なもの、自由なものではないんです。つまり、私たちの本質ではありません。そんな心の求めに応じて、行動したり何かを手に入れたりしても、本当の意味で自分を幸せにしてはくれません。
では何が私たちの本質なのでしょう。それが「魂」です。
魂は他のものによって、影響を受けていない状態です。いわばダイヤの原石のようなもの。私たちはみんなそれを持っているのですが、表層にある心とばかりつながっていて、それに左右されながら生きています。
ではどうやったらその魂とつながれるかというと、ダイヤを覆っている氷─心─を浄化して、ダイヤを見えるようにすることです。
つまりこれまでの経験の中で固められた「これが私」「これが自分らしさ」と考えている思い込みをクリアにすることです。これにより、自分の可能性が引き出されます─

直美はアーユルヴェーダに興味津々で、あかつきに来る前からラインでやり取りすることが多くなった。
杏奈は、直美との健康日記やラインのやり取りを通し、さりげなく「そういえば、こんな投稿をしたので見ておいてください」と、投稿や記事のリンクを伝えた。あくまで、直美一人に対してではなく、「全体に対して」こんな発信をしました、というスタンスを取ることで、直美に余計なプレッシャーを与えずに済むという目論見だった。もともと真面目で、心の取り扱いに対する関心が深く、家で自由に使える時間がたっぷりある直美は、必ずそれを見るだろう。現に、投稿に直美からのいいねが毎回ついた。こうして、杏奈と美津子は、さりげなく、少しずつ、直美を教育することに成功した。
─これからの人生をなるべく健やかに生きたいと思います。
それが、直美がアーユルヴェーダに寄せる期待であった。

翌日、朝からヨガレッスンをするために、鞍馬があかつきへやって来た。
「仰向けになっている間も目を開けておきましょう」
縦に置いたボルスター(補助道具)に背中から頭を預けている直美に、鞍馬はそっと言った。
「呼吸に意識を集中してください」
直美はヨガのクラスに通っていたことがあったし、今も毎朝五分程度のヨガを、動画を見ながら実践しているらしい。しかし、体は硬く、十数回もの手術を経た体は、丈夫とはいえない。さらに変形性膝関節病で骨切り術を受けている。端から、強度の高いポーズは行うつもりはなかった。
「このポーズは休息のポーズです」
仰向けの安楽座のポーズ(スプタスカーサナ)。
「不快なところはありませんか?」
「大丈夫です」
支えのある後屈は、胸を開き、呼吸と血行を改善し、副腎と甲状腺の機能のバランスを回復させる。呼吸が自由に動けるような空間を作り、呼吸によって気持ちが軽くなる。
直美のためのヨガシークエンスは、鞍馬だけでなく、沙羅、美津子の意見も交えながら組み立てられた。杏奈もその時傍で聞いていたが、ほとんど傍聴であった。
ポーズの間中目を開けておいてもらう、というのは沙羅の提案。
─そのほうが、感情という暗い海へ落ち込まないようにできるのではないですか?
直美にかける言葉まで、一緒に考えた。
─前屈の代わりに、胸を開かせたい。
美津子はシークエンスの順番を、穏やかなリストラクティヴのポーズ、胸を開くポーズ、エネルギーを高めるポーズという風に指定した。
直美が感じている不調は、心の問題だけではない。けれど、まだ薬に頼らなければ、心の安定を得られない以上、今の彼女にとって最も必要なのは、鬱に対処するポーズなのだ。
─前屈は、興奮状態にあり、気持ちを落ち着けたい時にはいいのだけれど、悲しみや絶望を感じている時にやりすぎると、閉じ込められているように感じてしまうと思う。
それよりも、胸を開くポーズのほうがより適していると判断した。
─鞍馬さんは、ヨガニドラの指導をしたことは?
と、美津子は尋ねた。
─ありません。
ヨガニドラ(眠りのヨガ)ができるヨガ講師がいれば、取り入れてみたかったが、残念ながら沙羅にも鞍馬にも、学習歴がなかった。もちろん、杏奈にも。
「すみません」
肩立ちのポーズ(サーランバサルヴァンガーサナ)の途中で、鞍馬がまだ合図を出さないうちに、直美はポーズから出た。
「すみません。私、下半身が重くって、腕が痛くなってしまって」
サポートとしてブランケットを敷いていたが、それでもキープが難しかった。
このポーズは、ショルダースタンドという英名がついているが、その名の通り、肩に体重をのせ、足先を浮かせ天井方向へ伸ばすポーズ。逆転のポーズは、酸素を多く含んだ血液をより自由に身体に巡らせ、頭や喉とその周りの分泌腺を落ち着け、活性化させる。力強さ、安らぎ、新たな目的意識を促す良いポーズだが、直美にはしんどかったかもしれない。
「いいですよ。不安や痛みを感じたら、一旦ポーズを止めて正解なんです」
鞍馬はどんな時もクライアントに対して、努めて肯定的な言葉をかけようとするインストラクターだった。そういうところは、沙羅や杏奈と似ているな、と美津子は傍で聞いていて思う。
「呼吸に集中しながら力を抜いて、感覚を落ち着かせましょう」
直美は五分以上のヨガのレッスンは長いことしていなかったようで、ふうふうと息が上がっている。
鞍馬の言うことに従順に、深い呼吸をしていた。

アーユルヴェーダでは、うつ病もほかの疾患と同じく、体内の生理的機能を司る三つのドーシャのアンバランスによって引き起こされると考えている。ヴァータとカパが複合的に乱れて起こる、カパ・ヴァータ性疾患とみなされる場合もある。
アーユルヴェーダは鬱に対し、総合的なアプローチを試みる。
・パンチャカルマ
・経口薬
・カウンセリング
・生活習慣や食事の指導
・リラクゼーションテクニック(ヨガ、呼吸法、ウォーキングなど)
・瞑想
・マインドコントロール(他者との会話、楽しい活動への参加など)
・ダイウィヴィパシュラヤ チキツァ(精神的な本を読むこと、マントラを唱えること、神の名前を書くことなど)
日本では、医師法、薬機法の関係でできないケアがあるが、できるケアも多い。直美が滞在する四日間、できるだけこれらのアプローチを試みる。朝食後に設けた三十分間のカウンセリングセッションも、その一環である。
このセッションを担当するのは沙羅。テレビ会議システムをつなぎ、自宅から、オンラインにて対応をする。専門知識があるわけではなかったが、沙羅はコミュニケーション能力に優れており、直美との相性も良好と思われたため、美津子が決めた。
「アイドルの〇〇さんが好きで、この前握手会に名古屋まで行きました」
沙羅はアイスブレイクとして、直美の趣味を聞き出していた。直美は意外にも推し活しているアイドルや俳優が複数いた。
『あ、最近ラジオでよく流れてます!その曲』
「そうなんです。でも私は有名になるちょっと前から知ってて…」
美津子と杏奈はそのアイドルを知らず、首を傾げるばかり。こういったところでも沙羅の反応はさすがであった。
沙羅は、自己紹介の延長のような項目から、カウンセリングに入った。
カウンセリングの目的・内容は多岐にわたる。
・感情や思考の傾向の特定
・長所、短所、能力などについての誤認を解く
・状況の変化や、出来事に対する見方の教育
・気分に合わせてどのような対処をしていくか
・ストレスの多い思考をニュートラルまたはポジティヴな思考に置き換えるワーク
・自分自身や過去の出来事について、否定的な認識をしていることを、肯定的に捉える提案
・単純に会話を楽しむ、自分のことを話して心をすっきりさせる
実際にはこれらのカウンセリングは定期的に行い、精神状態を振り返り、今後に向けた軌道修正を図っていくことが望ましい。
沙羅は、効果的な話ができるか心配していたが、美津子は、沙羅の個人的な見解を伝えるだけで良いと話した。
沙羅には生まれ持った明るさがある。しかし、無法な明るさではなく、相手に合わせてテンションを調整する配慮を常に持っていた。また、ほとんどのことをポジティヴに捉える。カウンセリングでの問答を通して、自然と直美に、新しい気づきを与えられるのではないかと、美津子は期待している。
『人の前で発表することが苦手なんですね。でも、今話してもらっている感じでは、そんな風に思えなかったですよ~』
やんわりとした口調で沙羅は話した。
『とっても的確に、言いたいことが伝わってきます』
「そうですか」
直美は恐縮したようにペコペコしている。
直美には言わないが、沙羅はいくつかの項目に沿った質問をしている。思考過程、出来事をどう捉えるか、印象に残りやすい記憶、正常な欲望があるか、気質・精神活動・行動に異常があるか。
『最近、心がもやもやした経験はありますか?』
「もやもや…」
『いきなり聞かれても分からないですよね。そうですね…ちょっと私のことを話させていただくので、その間に考えてみてください』
沙羅は例として自分の話をした。
『もう大分前のことになるんですけど、お正月に海外赴任している私の夫が帰国して、子供も一緒に義理の実家に帰ったんですね』
その時、普段は育児をしない夫が義母の前で、急に子供をあやしはじめたのを見て、沙羅はもやもやを感じた。普段は子育てに関わらないし、たまに帰国しても、子供のことは私にまかせっきりなのに、お義母さんの前でだけ、いい顔をしている!と…
直美は沙羅の話を聞いた後も、少し考えていたが、
「働いていないので、基本的に人間関係は希薄なんですが…娘とのやり取りで、感じたかもしれません」
『娘さんとのやり取り、ですか』
直美は話した。
娘は今、大学生で一人暮らしをしているのだが、お盆の予定を聞かれたので、帰省してもお母さんは出かけているからいないよと、と伝えたところ、
─お母さん、なんだかんだ楽しんでるんじゃない。
娘はそんなことを言った。もちろん、その出かけている先とは、あかつきのことだ。
「仕送りもなかなかしてやれないので、バイトをして生活の足しにしている娘からすれば、贅沢に思われたのかもしれません。仕事をし始めたから仕方ないとはいえ、何もお盆の時期に行くなんて、娘からしてみれば、自分と会いたくないのかと思われたのかも…」
直美はそう感じたらしい。それで、娘に対して申し訳ないと、滞在タイミングを間違ったと、自分を責めた。
「すみません、あかつきさんを悪く言っているわけではないんです。私がうっかりしてたので。娘は一昨日まで帰省していたので、会うことはできました」
直美は慌ててそれだけ言うと、肩をすくめた。
カウンセリングを隣で聞いている美津子は、出来事に対する直美の評価の仕方について、なるほどなと思った。

午前中の直美へのケアはアビヤンガで、永井が担当した。杏奈に経験を積ませたいのは山々だったが、杏奈はこの日料理担当で、夕方から料理教室を予定していたので、永井が呼ばれた。もっとも、あかつき大作戦に向けて、永井にも施術の機会が必要だった。
午後は、美津子によるナービーバスティ(腹部に土台を作りオイルを溜め、温める)。腸と脳はつながっている。腸の状態が良くなると、脳にも良い影響があるのだ。発汗の間、ナシヤオイルで点鼻をした。嗅覚と脳も、密接なかかわりがある。副鼻腔のデトックスを促すことは、彼女の神経系にもいい影響を及ぼすはずだ。
直美は、複数の器官を摘出している。乳房に、胃。美津子は、直美の体を見、皮膚に触れるたびに、労わりたい、自分を労わってほしいという念を込める。アロパシー(対処療法)では、正常に機能してない、または問題の原因となっている器官や腺を摘出する。しかし、アーユルヴェーダでは、もうそこに特定の器官や腺はなかったとしても、エネルギーは残っていると考える。摘出した組織があった場所にオイルを浸透させれば、ハーブがそれらをエネルギーのレベルで支える。
オイルに使われているハーブは、器官や腺の機能を回復させる。しかし、マインドがクリアリングされていなければ、アーユルヴェーダオイルの薬効を届けることは難しい。マインドは時に、物理的なレベル、エネルギーのレベルで、流れを遮断するのだ。
夕方からは料理教室。教育よりも「楽しいことへの参加」を目的としている。
「どのドーシャの食事を意識したらよいのか分からなくって」
キッチンで、直美はそう話した。
直美はドーシャチェック表による体質診断上、プラクリティはピッタカパ、ヴィクリティはヴァータカパだった。とはいえ、ピッタ性の症状も出ている。
「どのドーシャのことも配慮できればいいですが、毎日完璧にするのはなかなか難しいので、消化できているかどうかという感覚を大事にするのが一番です」
推奨・非推奨の食材は存在しても、実際にそれが正しいかは、感じてみないと分からないのだ。
「でも、直美さんにとってより大事なのは、サットヴァなものを食べることだと思います」
サットヴァとは、心の性質の一つで、バランスの取れた状態を指す。新鮮な野菜、果物、山菜、穀類、豆…作り立ての食事、愛情のこもった食事は、サットヴァ的といえる。
鬱は、極端なタマスの状態(心の性質の一つ。惰性。暗闇、エネルギーを低下させる)ともいえる。そのため、タマス的なもの(タマシックアハーラ)は極力避けるべきだ。たとえば、作ってから時間が経ちすぎたもの、腐ったもの、冷凍食品、加工品、缶詰。
「旬の野菜は、ほとんどがサットヴァの質をもっています」
調理台には、庭で採れたばかりのゴーヤが置いてあった。サットヴァな食べ物からは、エネルギーを得られる。
今日作るのは、米粉とベサン粉のソーダブレッド、ダルスープ、ゴーヤのマッルン、ハーブを入れたルイボスティー。
何かパンに変わるものを作りたい、というのが直美の希望だった。美津子はその希望を知った時、杏奈が言った通り、パンやお菓子の代替案を求めている人が多いということを実感した。
「米粉のパン、ずっと作りたかったんです」
直美は嬉しそうにそう言った。
「今回のパンは、思っているようなパンではないかもしれません」
期待を裏切るようで悪いが、今から作るソーダブレッドにはイーストを入れず、名前の通り重曹で膨らませるため、パン独特の香りはしない。
「膨張剤の存在は、ヴァータを増加させるので、小麦のパンでなかったとしても、ヴァータが乱れている時は注意したほうがいいんです」
あくまで一般論を話しつつ、釘を刺しておく。
「米粉と玄米粉を使うので、栄養価も上がりますし、ベサン粉から植物性たんぱく質をはじめ、いろいろな栄養が摂れます。簡単だし、おいしいですよ」
杏奈はこのパンの良い側面も強調する。
「お腹が減っていると思いますので、さっそく作りましょうか」
杏奈は直美に向かって微笑んだ。学習より、その場をただ楽しむことが、直美には必要だった。

二日目のヨガレッスンは、呼吸法から始まった。
ポーズの前にはナディショーダナ(片鼻呼吸法)を、リストラクティヴのポーズで休んでいるときには、ウジャーイ呼吸(勝利の呼吸)を行なってもらう。
呼吸は、身体と心の橋渡しをするもので、身体、心、魂を結びつける。呼吸により、エネルギーが安定しやすくなる。
今日のヨガは、昨日のシークエンスとは順序が逆で、より活発なポーズから始まり、徐々にリストラティブのポーズに移行する。まずは神経の余分なエネルギーを取り除き、徐々に落ち着かせていく。そして、瞑想につなげるのだ。
今日はガイド付き瞑想ではなく、ただ静かに座っているだけの瞑想の練習だった。たったの五分。たとえわずかな間でも、瞑想をすることで多大な恩恵を受けることができる。
「ここ最近、心と魂についてのお話をインスタで発信していましたが、ご覧になられましたか?」
朝ごはんまでの自由時間に直美と雑談する中で、美津子は尋ねた。
「ええ。読みました。でも読んだだけといいますか…難しくて、きちんとは理解はできていません。あかつきさんの投稿はすごく分かりやすいのですが、私が不勉強なので」
直美はいつでも、自分を卑下することで、あなたは悪くないのだ、ということを強調する人だった。相手を嫌な気持ちさせないようという配慮だろうが、いささか過剰である。
美津子は、要点を簡潔におさらいした。心(マインド)は、想像、制約、クセ、思い込みによって日々影響を受けるもので、私たちの本質ではない。魂は、そういったものから影響されない私たちの本質。生まれながらに持っている内なる輝きである、と。
「マインドは常にせわしなく動き、過去のことを考えたり、将来に思いを馳せたりしています」
体はマインドの影響を受け、心の働きに翻弄され、リラックスする暇がない。
「マインドの働き…つまり、考えたこと、思ったこと、感じたことを消化する時間がもてないままでいると、エネルギーを消耗しますし、抵抗力は弱まり、ゆくゆくは病を引き起こす一因となります」
ケーキを食べてしまったという罪悪感が、過食を。
やりたいことではなく、やらななければならない仕事しかしていないという、納得感の欠如が、鬱を。
過去に起こったことに対する執着が、腫瘍を。
そんな風に、特定の病気と関連しているかもしれない。
「様々な現代病に悩まされるのは、魂ではなくマインドと繋がってしまうからだ、ともいえます」
応接間の長テーブルに両肘を置き、美津子は朗らかに言った。
「マインドは、気持ちのいいものを選ぶものです」
過去の美しい記憶を呼び起こし、おしゃれなカフェでケーキを食べることを望む。
嫌な上司に今日も叱られるかもしれないという杞憂を引き起こし、家に留まっていることを望む。
しかし、それが自分に被害をもたらすなどとは、考えていない。その時さえよければいいのだ。
「本当にそうですね」
直美は頷いた。
「そのため、たびたびマインドの働きを停止することが必要なんですね。頭の中を整理して、心にたまった不要な情報を消化する時間が」
記憶、感情、考え、価値観などに影響されたマインドの欲求が、魂の意思を覆い隠してしまわないように。
「様々な方法がありますが、中でも効果があるのが瞑想です」
「…はい」
「瞑想は、気持ちよかったですか?」
「…はい。あかつきという環境があったから、できましたが…」
普段の生活の中で、こんなことが取り入れられるかどうか。
「一日たった、二、三分からでいいのです」
一週間に一日だけ、三十分も瞑想するより、毎日わずかな時間だけでも瞑想をした方が功を奏すると、美津子は思う。
「自分がどう感じているかに意識を向けてください。ほんの少しの自分の変化も、見逃さないように」

その日、午前中は美津子が、アビヤンガ、およびアロマを炊きながらのシロピチュを行った。午後は、杏奈がカティバスティを行った。直美の滞在に間に合うようなんとか研修を終わらせたのだ。
バスティは、パーリ(Pali)と呼ばれる土手の中に「オイルを溜める」トリートメントである。パーリは通常、ウラド豆や小麦粉で作る。料理番をしている杏奈は、むろん粉ものにも慣れているが、体の特定の部位に土手を作る作業だけでも、意外と難しい。なにしろ、バスティはアビヤンガ中、あるいはアビヤンガの後に行うのだが、その時には、とにかく手がオイルまみれなのである。それを素早く拭き取るのも一苦労だ。あまりクライアントを待たせるわけにはいかない。それに、温かい部屋で、温まった手で粉ものを扱うのにも苦労する。びちゃびちゃとなり、スムーズに土手ができない。
「うまくできた?」
トリートメント後、美津子は杏奈に尋ねた。
「背中のカーブを考慮しきれてなくて…」
カティヴァスティは、腰にパーリを作る。
「背中側にオイルが寄っちゃいました」
「まあ、多少仕方ないけれど。写真は撮れた?」
「いいえ…」
手は常にオイルまみれ、土手を触った後は粉で汚れ、スマホを構える余裕はとてもなかった。
「オイルの温度管理は?」
「それはたぶん、できたと思います。でも、親指から注ぐの、難しいですね」
アーユルヴェーダのトリートメントは、一つひとつに、とても意味がある。オイル補充も留意時点はいろいろあったが、杏奈は、パーリ作りに比べれば、それらは大して難しくないと感じた。

夕食前には、前日と同じく、カウンセリングセッション。沙羅はこの日も、自宅からオンラインにて対応した。
「様々な現代病に悩まされるのは、魂ではなくマインドとつながってしまったからだと、朝方言いましたが…」
美津子が口を出したのは、三十分のカウンセリングの終わりがけだった。
「それでは、どのようにしたら、魂とつながることができるのか。最後に、その方法についてお話ししていきますね」
魂とつながることによって、マインドが生み出した欲求と、本当の自分の欲求とを区別できる。また、マインドによるコントロールを外し、物事を曇りなく捉えることができる。
「この練習は、マインドが働くたびにできることでもあるので、ぜひ日常で心がけていただきたいです」
そう言って、美津子は直美の顔を覗き込んだ。直美は少し緊張した面持ちで、それでも二度ほど、首を縦に振った。
「最近は、人間関係の中で心が疲れるという人が増えてきました」
たとえ家族の中であっても。
「それは無意識にマインドを働かせすぎて、マインドに振り回され、エネルギーを消費するからです」
そう言ってから美津子は、モニターの中の沙羅を振り返った。
「たとえば、昨日、もやもやした経験として、沙羅が夫と子供との関わりについて話してましたね」
普段は育児をしない夫が、義母の前で急に子供をあやしはじめた。彼のことを何も知らない人からすれば、子供をあやしていること自体は良いことなので、良いことをしているなあと感じるはずだ。しかし、普段の夫の素行を知っている沙羅はこう思った。
─お義母さんの前でだけ、いい顔をしている!
「これがマインドのコントロールです」
美津子は巧みに沙羅の例を取って、説明を続けた。
「この時、心は過去にも未来にも旅しています」
夫はこれまで子育てに積極的でなかったという過去に戻る。
はたまた、これからも私は義母の前で夫がいい顔をするのを見て、嫌な思いをするのね、とまだ起こってもない将来に思いを馳せる。
「その時、私たちは“今”から不在になっています」
こういうことが多いと、心が混乱し、精神が摩耗して疲れるのだ。
ではどうしたら、マインドのコントロールを外せるのか。
「今ここに身を置き、自分のマインドの動きをただ見て、気づく練習をすることです」
直美はさっきから、ずっと難しい顔をしている。
「難しいことではありません」
だから美津子は、その緊張を解こうと笑ってみせた。
「起こったことに対し、こういう認識をしてるんだ、こういう思いをもっているんだ、など自ら気づくような状態に自分をもっていくことです」
自分の内側で起こっていることを客観視するのだ。
「例えば先ほどの例でいうと、夫の行動は演技だと思っている自分がいる、そんな夫に腹立たしさを覚えている、どうして私はそんな風に思うのだろう、と自分を見つめることです」
そして、それを習慣にしていくのだ。
「そのうちに、自分には物事をこういう視点から捉えてしまう癖がある、この状況になるといつも邪推してしまう、などの癖が見えてきます」
この「見ている状態」を練習するのだ。
「見ている時、私たちは心の働きに巻き込まれない、中立的な立場にいます。そしてその時、私たちは“今”にいます」
情報や記憶を拾ったり、計画を立てたりと、過去や将来へ目まぐるしく動く心を「見ている自分」は“今”にいる。
「この練習が熟達してくると、同じことが起こった時にも心の働きに惑わされず、自然と真ん中に戻り、静かで落ち着いた心になってきます」
そうした静かな心の状態になって、初めて本質である魂とつながれるのだ。

翌朝、杏奈は朝食後に、直美を連れて散歩に出た。
今日の午後、直美はあかつきを去る。ヨガレッスンはお休みなので、これがあかつき滞在中にできる、最後の運動らしい運動かもしれなかった。
まだ八時前だというのに、すでに日射しは厳しい。栗原神社の西参道までは、少し早歩きだった。参道まで入ってしまえば、薄暗くはなるが木陰が続くので、小涼しい。
猛暑は続くが、季節は確実に移ろいでいる。これまでよりも日が短くなり、湿度が低くなり、空気が乾燥する。八月には既に、秋の軽さと透明感が出てきているのだ。
「ごめんなさい。私、膝が弱くて、山を下るのは自信がありません」
栗原登山口から、二合目のご神木あたりまで行ってみるかと訊いてみたら、そんな答えが返って来た。
「そうでしたね」
杏奈は栗原登山口の方へ視線を向けた。この神社の中を右往左往して、子供たちを大捜索したのはほんの数週間前のことであるのに、大昔のように感じた。キッチャリークレンズに、帰省に、直美の受け入れに。毎日が矢のように過ぎていく。
「では、森の中を歩きましょうか」
一年以上も前、杏奈はクライアントを連れて、紫陽花の群生地までを歩いた。山道らしい道ではあったが、極めて傾斜は緩やかだった記憶がある。
─たぶん、こっちだったと思うんだけど。
あの時は、スマホの地図アプリを見ながら歩いていた。そのため、目印になるようなランドマークは覚えておらず、杏奈は東西に走る参道から、南方向へ繋がる分岐を進んだ。
「うちの近くにも小さな山があって、昔は学校の行事とかでも登ってたんですけど」
「あ、金華山ですか?」
直美が岐阜市出身であることから、杏奈はそう推測した。
「よくご存知ですね」
「私も、登ったことがありますから。途中で哲学者の言葉とかが道標に書かれてるんですよね」
「そうです」
直美は懐かしむように答えた。
まだ早朝とはいえ、すでに暑い。空気がからっとしていることと、周囲に背の高い木々が立ち並んでいるため、狭い小径のほとんどが木陰になっているのが救いだ。
「あかつきのみなさんはよくああして、瞑想をするんですか?」
今日も、朝食前に呼吸法と瞑想だけは練習した。
「みんなで一緒にやることは、クライアントさんが来ている時でもない限り、滅多にありませんが、どうなんでしょうね…みんな、個人練習しているかもしれません」
「そうですか…私、ちっとも無になれなくて」
直美は、瞑想とは「無」の状態を生むものだというイメージがあった。
「慣れてこれば、無の状態に至るのかなって」
「私も無になれませんでした」
杏奈は正直に答えた。
ガイド付き瞑想の方が、ガイドに意識を集中するので、まだ意識が分散しにくいと思う。何も見つめたり聴いたりせず、ただ座っている状態を保つのは、難しいものだ。
「何を思っていたんですか?」
直美は、この二日間、カウンセリングで多くの問いに答えたが、今後は立場が逆である。直美は自分が問う立場に回った。
「…この間帰省した時に」
杏奈は正直に話した。かつての恋人や友人と会った時に、暗い感情ばかり抱いてしまい、ニュートラルな気分でいられるあかつきへ早く戻りたくなったと。
「でも、今度は、いつかあかつきが拠り所でなくなる日が来るんじゃないかと思ってしまって…」
今は美津子が目を掛けてくれているが、そうでなくなった瞬間に、あかつきが居心地の悪い所になる可能性はある。杏奈は瞑想の間、そんな杞憂が浮かんだ。自分でないものに頼っている状態は、頼りない。
「すみません。こんなこと、お客さまに話すことじゃなかったですね」
「いいえ。私にも、似たような気持ちを抱いたことはありますから」
杏奈はふふふ、と笑った。
行く手に、一つの倒木が見えた。その倒木の手前には、同じ種と思われる木が枝葉を伸ばしている。どうやら、紫陽花の群生地へ繋がる小径とは、別の道を進んでしまったらしい。杏奈はそこで足を止めた。あまり遠くまで行って、迷ってしまってはいけない。
「精神的なバランスを取ることって、難しいですね」
直美はしんみりと言った。傍から見ると、直美は情緒が安定して見えるのだが。それに、推し活や、音楽などを楽しんでいる。ある程度精神的に健全でないと、楽しいことでさえ、楽しいとは思えないのではないだろうか。
「でも私、昔は本当に、何の希望もない、光が見えないっていう時があったんですよ」
杏奈が直美の印象について言及すると、直美は首を振った。
「どうやって、今の状態までご自身を癒していったんですか?」
人はどのように癒され得るのか。
食事を変えることなのか、生活習慣や環境を整えることなのか、仕事上の安定を得ることなのか。おそらく一つではないのであろうその答えを、杏奈はずっと知りたいと思っている。
だからつい、クライアント自身の口から聞いてみたくて、訊いてしまった。
「自分が癒したという風には…思えないんですけど」
直美は首を傾げた。そもそも「癒し」という言葉が抽象的過ぎて、何を指しているのか不明確だ。
「胃の手術をしたのは、大きかったのかもしれません。でも、その手術をするまでなんとかやって来れたのは…父がずっと傍にいてくれたからなのかも」
杏奈は木の幹に手を置いて、続く言葉を待った。その木の樹皮は灰黒色で分厚く、鱗状に割れ目ができて剥離した部分は、やや赤みがかっていた。
「鬱の人が家族にいたら…ちょっと、大変じゃないですか」
直美はそう言って、杏奈と目を合わせた。
父・正博が精神を病んでいた時代のことを思い出すと、その意味は分かるが、鬱を患っている本人を前に頷くわけにもいかず、杏奈は沈黙した。
「きっと煙たかっただろうと思うんですよ」
自分から気を貰ってしまうようなことも、あったと思う。鬱が鬱を呼ぶのだ。それが嫌で、その人との関係を切り離してしまう人もいるかもしれない。
「だけど、父はずっとそばに居てくれました」
直美は樹幹から空を眺める。
「喧嘩することもあるし、意見が対立して、理解できないこともあるけど…」
それでも、絶対的な味方だった。
ずっと一緒にいる人と、どういう関係であるかは、心に大きな影響を与える。直美はかつて、夫からは、魂を抜き取られた。
「だから、あかつきのみなさんは、すごいと思いますよ」
「そうですか?」
「ええ。だって、毎日会うわけでもない、そんなによく知らない人を、癒す…健康に導くって大変じゃないですか」
難しい。
だからこうして、人の癒し体験を聞き取って参考にしようとしているのだ。
「でも最近は、気持ちが明るく、前向きになってきました」
直美はほがらかに言った。杏奈は口元に微笑を浮かべ、
「なぜです?」
「アーユルヴェーダと出会ったからです」
「ええと…アーユルヴェーダを知ったのは、胃の手術をされてからでしたか?」
「そうですね。…ごく最近です」
直美は、東洋医学の考え方を自分の健康のために取り入れようと、ネット状で調べていたところ、アーユルヴェーダを知った。そして、あかつきのインスタを見たのである。
「初回のコンサルからここに滞在するまで、健康日記に毎日のようにコメントが入力されていて、ラインでの質問にもすぐ答えてもらえて。毎日健康にいい学びをしている、素晴らしい考え方に出会っていると思えたことが、前向きな気持ちを取り戻させました」
直美は杏奈に向き直って、
「健康日記への入力やラインの返答は、杏奈さんがしてくださっていたんですか?」
杏奈はこくんと頷き、
「主には私ですが、オーナーの意見を取り入れたことも多いです」
「そうだったんですね。本当に、ありがとうございました。滞在後は、健康日記やラインでのサポートは終わると聞いて、ちょっと寂しいなと思っているところです」
直美は、困ったような笑いを浮かべて言った。
健康日記の確認やライン上でのやり取りは、正直、負担だった。しかし、このタッチポイントの多さが、クライアントの心の支えとなり、来る前からあかつきを信頼してもらうことにつながる。
─これは当分、やめられないな。
そして、杏奈は直美の話から、あることに思い至った。
「関わらないと、その人を癒せないですね」
特にアーユルヴェーダのやり方で、人を癒すのならば。
アーユルヴェーダは、自分が、自分自身のヒーラーになるよう、その方法を教えてくれるものだ。しかし、時に他者からの介入・サポートが必要な場合もある。
─アーユルヴェーダで人を癒すには、ヒーラーがクライアントと関わらない限り、達成できないんだ。
関わると言うと、当たり前のように思えるが、杏奈はその難しさを以前よりも強く感じる。関わろうと思えば終わりはないのだ。そして、絶妙な関わり方をしないと、単に接触回数を増やすという関わり方では、功を奏さないどころか、逆効果になることすらある。
ヒーラーとして関わるとは、その人に寄添い、言動では把握できない本当の気持ちまで理解し、そして、継続的に支えるということなのかもしれない。
杏奈は、正博が精神病にかかっていた頃の自分を思い出した。
─関わろうとしなかったな。
時間が、自分以外の誰かが、少しずつ問題を解決してくれるのを待った。それどころか、家庭の事情で自分の精神まで歪んだのではないかと、被害妄想にさえ陥ったものである。
もし今、もう一度、自分の一番近くにいる、たった一人が傷ついてたら。あの時には持ち合わせていなかった知性をもって、その人を癒せるだろうか。苦しい時間を止め、穏やかな時間に留まらせることが。
杏奈はその木の幹に背中をもたげた。周りの木から比べれば、まだ樹齢が若そうに見えるけれども、不思議なエネルギーを感じる。ふと倒木のほうに目を向けると、苔むしたその木も、今杏奈が背を預けている木と、樹齢に差がなかったように見えた。
─関わらないと、その人を癒せない。
杏奈がぽつりと言ったその言葉を、直美は直美で、自分ごとに当てはめて捉えていた。
─逆に言えば、いつも顔を合わせるような家族が、一番、その人を癒すチャンスをもっている。
二人の頬を、少し乾いた温かい風が撫でる。
「戻りましょうか」
杏奈は、思考を止め、声をかけた。
「はい」
せっかく瞑想によってマインドをクリアにしたというのに、直美も何か深い思考の海に潜り込んでしまったようである。
それは、けれど、瞑想をしてそれまでの雑念を整理していなければ、思い浮かばなかった思考かもしれなかった。

「杏奈さ~ん」
あかつきに出勤した沙羅は、数週間ぶりに杏奈の顔を見ると、顔をとろけさせ、キッチンまで入って来た。
「お久しぶりです~」
と、沙羅は言ったが、そうでもない。昨日も一昨日も、オンラインで顔を見ている。
沙羅が久しぶりだと感じたのは、旅行をして、物理的にあかつきと離れたからかもしれなかった。
「カウンセリング、お疲れさまでした」
朝食の片付けの続きをしていた杏奈は、そう言って沙羅を労う。沙羅は今度は、泣き笑い顔になって、
「オンラインでよかったです…めちゃくちゃカンペ見てました!」
とこっそり教えた。
沙羅にとっても、鬱の女性を相手にいつもと違うカウンセリングを行うのは、荷が重かったのだ。
しかしながら、その場のやり取りの中で、臨機応変にふさわしい言葉を用意できるのが、沙羅のすごいところだと杏奈は思う。
「分かります。私も、事前コンサルをオンラインで行う時は、手元の資料めっちゃ見てますから」
共感の言葉に沙羅はうんうんと頷いた。
「鳥羽、どうでした?楽しかったですか?」
「ええ!子供たちに、大分サービスできたと思いますよ~」
沙羅は「おみやげです」と言って、紙袋を渡した。あおさとわかめだった。美津子と杏奈の食習慣をよく把握している沙羅だからこそのチョイスである。
「杏奈ちゃんも、帰省楽しかったですか?」
「…ええ」
杏奈は作り笑いを浮かべた。
「カティバスティをしたのは、昨日でしたっけ?」
「はい」
「うわ~、アビヤンガとカティバスティのデビュー、おめでとうございます。今度、みんなでお祝いしないといけませんね!」
杏奈はふふっと笑った。
沙羅は思いっきり子供たちを遊ばせることができて気分が晴れたのか、いつもよりいっそう明るく見える。
沙羅は、直美への最後の施術─アビヤンガとシロダーラ─を担当した。その間、杏奈と美津子は、直美への今後の生活指導案を固めた。
「今回は大分、予定を詰め込んだな…」
美津子は、改めて滞在スケジュールを手に取って見た。
「料理教室も、瞑想の練習も、カウンセリングもありましたものね」
「インプットする情報が多くなりすぎたかもしれないな…」
本当は、もっと自然体験をしてもらおうと思っていた。しかし、季節柄、屋外に出るのがはばかられたのだ。
「座学よりも、アクティビティや実践を増やした方が良かったのでしょうか」
たとえば、ヨガや呼吸法、瞑想の時間を長く取るなど。
「それもやり過ぎは良くないわね。クライアントが緩やかに過ごす時間を取るのが、実は大切だから」
クライアントは、普段、多くの情報と触れ、多くの行動をし過ぎる。あかつきにいる間、のんびりすることも薬なのである。
「私たちスタッフも、クライアントと関わる時間が多ければ多いほどいい、アクティヴィティを用意してやればやるほどいいと考えがち」
でも、実際にはそうとは限らない。クライアント一人ひとりに、絶妙な塩梅がある。それを見極めることが大事なのだ。
その日の昼食は、美津子と直美の二人で摂った。
直美は料理を平らげた後、さりげなく美津子に尋ねた。
「息子の精神状態は、親の別居や私の心の病が関係していたと思いますか?」
美津子は、まだ食事を続けている。口に入れたものを咀嚼しながら、直美の顔をこっそり観察した。
息子の精神病のきかっけは、中学の時の担任との関わり…と話していたはずだが。
美津子はここに来ている小さな子供たち、保育士時代に関わった子供たち、古い友人の子供のことなどを思い出し、回答を考える。
「影響度は分かりませんが、五歳であれば、いろいろなことが分かっていたでしょうね」
そう切り出すまでに、少し時間を要した。直美はこくこくと小さく頷いた。
昼食が終わると、直美は車に乗って帰っていった。
どうやら沙羅も施術の片付けが終わると早々に帰ったらしい。休日に出勤する場合は、仕事をするにしても、なるべく早く帰る。沙羅はそう、自分で取り決めをしたようだ。
「私も少し出かけてくるわ」
「はい」
美津子は杏奈にことわると、帽子を被り、外に出た。クライアントが来ている間は、あかつきに拘束されがちだ。たまにはこうして外に出た方が良い。
美津子は栗原神社の方角へ向かった。木漏れ日の差す西参道を歩きながら、美津子の脳裏には、玄関先まで見送った、直美の背中が浮かんでいる。
─息子との関わり方について、ヒントを得たい。
事前コンサルの時、直美はそう言っていた。
─自責の念。
はっきりとは言わなかったが、直美は明らかに、それを持っていたのだろう。
─息子が癒されなければ、彼女も癒されない、か。
あかつきに来るのは直美であり、その息子の精神疾患の背景を知らない美津子たちは、彼にアプローチするための直接的なヒントを渡せなかった。
しかし、直美は息子との日常の関わりの中で、マインドをニュートラルに誘導にするよう、試みようと決意したのかもしれなかった。カウンセリングセッションでやったように。
─家族にそれをするのは、仕事として第三者にそれをするのとはまた、別の難しさがある…
専門知識がないまま試みるのは難儀であり、得たい結果を得られる可能性は低い。
美津子は花神殿に入ると、まっすぐ祠の前へ進んだ。手を合わせて、美津子は心の中で、いつも通り祈りの詩をうたった。
─でも彼女は、諦められないだろう。
美津子は直美とその息子が癒されるよう、念を込めた。
自分ができることは何でも、子供にしてやりたい。それが親というものだ。

 

 

 


 

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