第91話「山頂にて」アーユルヴェーダ小説HEALERS

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「いらっしゃいませ」
美津子がその店へ入ると、お腹の大きい女性店員が出迎えた。
アンティークな机の上には、色鮮やかな花の他、それを引き立たせる葉や実物。レジ台の周りには、季節の花でつくったアレンジメントやブーケ、インテリア雑貨、フラワーボックス。飾り棚には、雰囲気のある小物やドライフラワー。
狭いが雰囲気のある花屋である。足込町の食品館わかばで買えるものとは異なる雰囲気の花が数多く揃っている。
「こちらは初めてですか?」
髪の毛を後ろで一つに束ねたその店員は、愛想のよい笑顔で、美津子に話しかけた。
「はい」
「気に入ったものがあればお声がけください」
女性はにっこり笑うと、作業台に向き直った。
美津子は一通り花を見て回って、
「ダリア、まだあるんですね」
「そうなんです」
店員と美津子は並んで、ショーケースの中のダリアを見つめた。色が何種類かある。
「この、オレンジ色っぽいやつにしようかしら」
「これですね」
店員はショーケースを開いた。なるべく小さめのものを、という美津子の希望に合わせて、店員はいくつかのダリアを選んでいく。
「アプリコットカラーのダリア、かわいいですよね」
にこにこしながら、店員は言った。赤みがかったオレンジ色と黄色のグラデーションが美しい。
「部屋の印象が明るくなりますよ」
「そうですね」
美津子は頷いたが、これは部屋に飾るのではなかった。
「ポンポン咲きのダリアは、ダリアの中でも日持ちもよくて、花弁に傷も付きにくいです」
「そうですか。こちらは、配送もしてくださるの?」
「ええ。ただ、生ものですので、翌日配送できるエリアに限るのですが…」
「大丈夫です。うちは足込町なので」
「それなら、大丈夫ですね」
店員は作業台にダリアを持っていくと、すばやく、丁寧に、それを包んだ。
「母の日に、知り合いからカーネーションをもらったのですが…」
店員の作業の手際の良さに内心感心しながら、美津子は話しかけた。
「たぶん、こちらの花だったと思います」
「そうですか」
店員はにっこり笑って、ダリアを美津子に渡した。
「それは嬉しいです」

「うーん、やっぱり思いつかない」
同じ空間─応接間─で、パソコンに向かっていた沙羅が、パソコンを閉じ、その上に突っ伏した。
「杏奈さん、アイディアに煮詰まった時って、どうしてます?」
杏奈は手を止めて、
「体を動かしてみるといいんじゃないでしょうか」
煮詰まると、花神殿まで往復するのが、杏奈の常であった。時々、境内の杜の中まで散歩することもある。
「なんなら、今日明神山に行く予定ですけど、一緒に行きますか?」
「え?明神山ですか?」
それでは、ちょっと体を動かすどころではなくなりそうだ。沙羅はそう思いながら、掃き出し窓に目を向けた。
「あれ?誰か来たみたいです」
レースカーテンを通して、うっすらと人影が見える。
「こんにちはー」
やって来たのは空楽だった。手にビニール袋と、紙袋をぶら下げている。
「マコモダケ採れたので、持ってきましたよ」
そう言って空楽は、杏奈にビニール袋を渡した。
「いつもありがとうございます」
杏奈はそれを受け取って、
「わざわざこのために?」
「あと、美津子さんのおつかいです」
杏奈は、美津子は外出中であると告げた。
「実はお昼ごはんまだなんです。美津子さん帰ってくるまで、食べながら待ってていいですか?」
サンドイッチを持ってきているらしい。空楽は沙羅にも挨拶をし、書斎のソファに座った。
「あとこれ、さっき郵便屋さんが外にいて、渡されました」
美津子宛ての小包である。
「ありがとうございます。今お茶淹れてきますよ」
小包を受け取って、杏奈はキッチンに向かった。
空楽に淹れるお茶は何がいいかと探している時に、急にお勝手口の扉が開いたので、杏奈は腰が抜けそうになった。
「びっくりした…!」
入ってきたのは小須賀だった。
「どっかにおれのスマホない?」
昨日の仕事の後、忘れてしまったようだという。
荷物置き場として使っている棚を見ると、黒いスマホカバーのついたスマホがあった。
「ありました」
「ありましたじゃないよ」
せっかく探して持ってきてあげたのに、小須賀は悪態ついた。
「なんでこんな大切なもの忘れてるのに気付かないわけ?」
「なに言ってるんですか。小須賀さんが忘れていったんでしょ」
杏奈は呆れたように言った。
「それに、ライン電話かなんか、すればよかったじゃないですか」
「スマホ忘れてんのにどうやってそんなことできるんだよ」
小須賀は「あ、そうか」と呑気に言う杏奈を見て、ため息ついた。
「小須賀さん、もしかして起きたばっかりですか?」
「なんでわかんの?」
「声が掠れてるので」
小須賀はちょっと咳払いして、髪を撫でつけた。
「昨日は夕方からラストまで仕事で、疲れてんの」
「お茶淹れるところですけど、休んでいきますか?」
「うーん…いいや。せっかくの休みだし…」
「空楽ちゃん、来てますよ」
「玄関から入り直すわ」
パタン、と扉が閉まった。
美津子が帰って来たのは、杏奈がお茶を書斎に運んでいる時だった。
「美津子さん、これでよかったですか?」
空楽が差し出した紙袋を覗き込むと、美津子は頷いた。
「杏奈、水盆を四つ、キッチンに持ってきてくれる?」
美津子は買ってきたダリアと空楽の持ってきた紙袋を持って、キッチンに入った。杏奈は言われた通り、ガラスの水盆を四つキッチンに運ぶ。
「綺麗な花ですね」
華やかで可憐なダリアは、目の保養になった。そのダリアの茎のほとんどを、大胆にも切り落として、水盆に浮かべる。そして、紙袋から空楽の持って来た浮き玉を取り出し、浮かべた。
これは、施術の時にベッドの下に置く水盆。クライアントの視覚を楽しませようと、このような花や浮き玉を選んだのだろう。
「冷蔵庫の中が窮屈になってしまうけど」
「離れの冷蔵庫が空いてますから」
杏奈がそう言うと、美津子は微笑んだ。
「そうだ、美津子さん。郵便が届いてましたよ」
応接間に戻ると、美津子に小包を渡した。
「昔ここの常連だったお客さまからだわ」
中に入っていたのは、アーユルヴェーダのお香だった。
「いいわね。さっそく焚いてみましょうか」
杏奈は居間の飾り棚にお香立てを置き、キッチンコンロ用のチャッカマンで火をつけた。
「…ん、いい香り」
スランプに陥っていた沙羅は、居間から漂っている匂いをかぐと、とろんとした顔になって、視線をお香に向けた。
鼻は脳への入口といわれるほど、鼻は大事な感覚器官。お香は心身に影響をもたらす。
「この香りはなんですか?」
「ラベンダーと、イランイランです」
杏奈はパッケージに書いてある英語を読んだ。
「アーユルヴェーダのお香なのにずいぶん西洋的ですね」
空楽は淡々と言った。
「あれ?また誰か来ましたよ」
人影が視界に入って、沙羅はそう告げた。
「上沢までパーソナルレッスンしに行ってたんですけど」
次にあかつきに来訪したのは、鞍馬だった。
「シャリバテして死にそうなので」
「シャリバテって、山じゃないんだから」
ソファにぐったりと寝そべった鞍馬に、空楽がまた淡々と言った。小須賀は、せっかく女子に囲まれていたのに…と不満げな目で、鞍馬を眺めている。
「どっか、店に入ればよかったじゃん」
「ダイエット中なの」
「それ以上どこを削るんだよ」
鞍馬はしばらくして、むくりと起き上がり、上沢のスーパーで買ったという弁当を食べ始めた。
「ダイエット中とか言ってる割に、チキン南蛮かよ」
「この季節は温かくて、油分があって、濃厚な食べ物がいいって言ってましたよ」
「誰が」
鞍馬は空楽を指差した。
「杏奈さんの受け売りです」
噂をすれば、杏奈が書斎に入ってきた。
「なんか、弁当食べるの見てたら、おれも腹減ってきた。食べ物残ってない?」
杏奈が開口する前に、小須賀は食べ物を請うた。
「ごはんと、しらすと青菜のふりかけなら残ってますよ」
「ふりかけて。貧民か」
「ちゃんと新鮮な材料から手作りしたやつですよ」
杏奈はややむっとして、無意識に唇を尖らせた。
「この前インスタに載せてたやつですよ~」
と、空楽が口を挟む。ふりかけながら、いろいろな栄養が摂れる優れものだ。
「ふ。僕はチキン南蛮。小須賀さんはふりかけごはんですか」
「むかつくわ」
「あのう、私これから山登るんですけど」
杏奈が話を遮るように、片手を上げて言った。
「芝刈りに行くの?」
と、小須賀。
「違います。あかつき大作戦中に登山をするので、登山計画書を書き直すんですよ」
実地見分をしつつ、気分転換をしようと思っている。無我夢中で仕事をしていたら、今日の午前中にはあらかた落ち着いたが、脳はエンスト気味である。
「別にいいですよね。なんか、用事があって来てるんじゃありませんよね」
その言葉に、鞍馬と小須賀はフリーズした。
─暇だって思われてる?
「こんにちはー」
今日は来客が多い。杏奈が玄関扉を開けに行くと、訪ねて来たのは羽沼だった。
「羽沼さん、どうしたんです?」
「朝からパソコンで動画作ってたら、目がしょぼしょぼしてきちゃって」
羽沼は話しながら、玄関に置かれているたくさんの靴を眺めた。
「やっぱり。皆来てるんだ」
車やら自転車やらバイクやらが停まっていたので、そうではないかと思っていた。
「午後から明神山登る予定だったでしょ。ガイドするのは僕だし、同行しようと思って」
羽沼は母屋に上がりながら、来訪の理由をそう説明した。
「みんなも行かない?」
羽沼は書斎を覗くなり、そう言った。小須賀と鞍馬はぎょっとした顔で羽沼を見た。
「いや、いいです。おれ朝飯前だし」
「朝飯て…もう昼過ぎですよ」
小須賀の言葉に空楽がもれなく突っ込んだ。
「なになに、みんなで明神山行くんですか?」
みんなの楽しそうな(?)声を聞きつけて、沙羅が書斎に顔を覗かせた。
「あー、だめだめ。僕、今日登山靴履いて来てないんで。残念だなァ」
わざとらしくそう言って、鞍馬はソファにもたれかかり、足を組んだ。
「主要登山道なら、スニーカーでも登れますけどね」
空楽がすかさず突っ込む。
「いいじゃないですか!」
沙羅はぱっと顔を輝かした。小須賀と鞍馬は、嫌な予感がした。
「みんなで明神山登りましょう!」

 その頃、松下クリニックの個室では、陣痛の痛みに耐える美穂に、莉子と、文也が付き添っていた。
逃げ出さずに、自分の背をさする莉子の手を握りながら、美穂は泣きそうになった。出産に臨む自分の姿を見せるのはプレッシャーだなどと思った自分が、ひどく狭量に思える。
莉子の手を握りながら、
─私も、そばにいるよ。
美穂は心の中で言った。莉子がこの胎内に宿ってから、ずっと、そばにいる。これから先、離れることがあったって…
「み、美穂…」
文也はおどおどするばかりで、不安そうに美穂を眺めている。
莉子は、背中をさする手を一旦離した。
「…!」
文也は、莉子が自分の手を取ったことにびっくりした。
莉子は、自分と美穂が繋いでいる手に、文也の手を乗せた。
額に汗を浮かべて、母親の背中をさすり続ける莉子のまなざしを見て、文也は泣きそうになる。
個室の扉が開いた。
─柴崎先生…!
莉子は入って来た医師に視線を向けた。順正と莉子の目が、一瞬合った。
「美穂さん、一旦仰向けになりましょう」
岡本に言われて、美穂は体を仰向けにした。莉子が背中に当てていた手は、そこで離れる。
もう大分、子宮口が開いているようであった。
「分娩室に移りますよ」
莉子と文也は、廊下で待つよう言われた。
分娩室に美穂が移された後、間もなく扉が開き、順正が出て来た。 
「せ、先生…」
莉子は、立ち去ろうとする順正の背中に、声をかけた。
「そばにいてくれないんですか?」
不安そうな顔をして、医師に声をかけに行く莉子の後ろ姿を、文也は目で追った。
順正は、少し身を屈めて、
「医師が介入しないということは、順調にお産が進んでいる証なんだよ」
穏やかに、そう言った。莉子はその言葉を信じ、廊下の椅子に座る。
「大丈夫だよ」
そう言う文也の顔が今にも泣き出しそうで、莉子は、思わず笑ってしまった。
「なんだよ」
「ふふふ。ごめんごめん」
莉子が笑ったことで、文也の顔にも、わずかに生気が戻った。
分娩室の扉は、なかなか開かない。一分が五分にも、十分にも感じた。
─生まれた?
終学活の間、蓮はこっそり、莉子にラインを送った。送った後で、こんなラインをするのは、恥ずかしいなと思った。
─まだ
莉子からのラインは、思いがけず早く返ってきた。
─怖い
そのラインを見ると、蓮はスマホをポケットにしまい、机の上で盾にしていたリュックを肩にかけた。
チャイムの音と同時に、蓮は教室を飛び出した。今まで一度も行ったことのない場所へ直行する。

「じゃ、みんな楽しんできてね」
栗原神社の神門の前で、美津子はみんなに手を振った。
「いってきまーす」
沙羅はすでに楽しそうな顔をして、美津子に手を振った。この中で最年長とは思えないはしゃぎぶりである。
小須賀と鞍馬は、最後尾で、げっそりとした顔をしている。
─あかつき大作戦の前に、みんなの結束を高める絶好の機会です!
沙羅がそう主張し、小須賀は空楽にひっぱられ、鞍馬も不承不承に、この登山に同行した。
「小須賀さんも鞍馬さんも、そんな湿気た顔しないで」
先頭を歩く沙羅は、後ろを振り返って、なかなか痛烈な言葉を浴びせた。
「同じ釜の飯を食う中って言うでしょ?」
小須賀と鞍馬は、どちらからともなくため息を吐いた。
美津子は一行から離れると、花神殿へ向かった。祭壇の前に進み、そこで手を合わせて目を閉じる。
いつもの祈りの言葉を捧げる。
─闇から光へと導いてください。
─偽りから真実に導いてください。
─死から生へと導いてください。

 分娩室の扉が開き、助産師の一人が出て行った。莉子と文也はその助産師の後ろ姿を目で追った。
扉が開いた時、美穂のいきむ声が聞こえてきたが、今どうなっているのだろう。
助産師は、順正と一緒に戻ってきた。
「全開」
順正はそれを確認すると、
「もう少しで生まれますよ、佐藤さん」
と、美穂に声をかけた。
美穂は顔を真っ赤にしながら、その呼びかけに頷いた。莉子と文也が分娩室に通されたのも、この時だった。
「お母さん」
「美穂」
文也と莉子は、美穂の傍に駆け寄った。
「手を握ってあげていいですよ」
岡本は、文也にそう言った。文也は美穂の手を、両手で握った。
「いきんで!」
「んんー!!!」
美穂が顔をくしゃくしゃにしていきむのと、文也が握る手に力が入るのとが同時だった。
─!!!
ものすごく、痛い。
─こいつ…どんな握力してんだ。
しかし、文也には確信があった。
─今、絶対におれが痛いと言ってはイケナイ…
莉子は文也の反対側に回って、美穂の手を握った。
「頑張れ、頑張れ」
文也は、分娩台の手すりに目を向けた。そこには、ここで出産に臨んだ妊婦がつけたものと思われる、ひっかいた跡のようなものが、無数に残っている。文也はそれに気を取られ、
「いきんで!」
再び手を握られる心の準備ができていなかった。激痛に耐える。
莉子は全然表情を変えていないが、美穂はこの状況でも、力の加減をしているのだろうか。
こんなことが何度も繰り返された後…
「うぎゃー、うぎゃー」
「佐藤さん、生まれましたよ」
こんな時でも順正の声は昂ぶっていない。
赤ちゃんは岡本に抱きかかえられ、美穂と文也の間に運ばれた。
莉子は喜ぶ二人の顔を見ながら、涙が流れそうになるのをこらえて、美穂の手を握り続けた。

「ちょっと…今アイディアが湧きました」
五合目に差し掛かったところで、沙羅は急に立ち止まった。
「ちょっとすみません」
登山道の脇に身を寄せて、そこでスマホを開いてメモを取る。
沙羅に合わせて、みんなもそこで足を止めた。
「結構、紅葉が進んでますね…!」
杏奈は来た道を振り返った。針葉樹林と広葉樹林が混在するこのあたりの景色は、植林地帯を登るよりも、季節を感じられる。
赤、黄色、オレンジ色に色づいた葉。
「今、このあたりですよね」
「そうそう」
杏奈と羽沼は地形図や登山計画書を広げて、現在地の確認をした。空楽はその間、あたりの植物を観察して、
「あ、円錐香を作るのにこの木片とか良さそう」
そう言って木の根元に落ちている木片を拾い始めた。
「なにやってんの」
風変わりなことをしている空楽に、鞍馬が尋ねた。
「あかつきでお香のにおい嗅いだら、自分でも作りたくなっちゃって」
「お香を作る?」
「うん。こういう自然の材料ベースにして燃やすんだよ。知ってました?」
「知るか」
鞍馬はそう言いながら、後ろを振り返った。登山道に落ち葉の絨毯が広がり、紅葉の進んだ広葉樹が枝を風に揺らしている様は絵になった。
「このあたりを背景に写真撮ったら、僕が映えそうじゃないですか?」
鞍馬は木の幹に片手を当て、ポーズを決めながら、誰にともなく言った。
「自分が映えそうとか言う人始めてだよ」
羽沼は呆れたように笑った。少し進んだところから、小須賀の声が聞こえる。
「おーい、真面目に登ろー」
結束を高めるとか言いながら、みんな好き勝手なことをやっていて、収拾がつきやしない。
せっかくの休みに、なぜこんな連中と山に登っているのか、小須賀は甚だ謎であった。

─来てみたけど。
蓮はクリニックの外から、窓を眺めた。
─関係者でもないし、中には入れないか。
入口には、診察時間外という札がかかっている。
だいたい、このクリニックのどこに、莉子やその母親がいるのか、分からない。
蓮はリュックを下ろし、花壇のブロックに腰を下ろした。莉子からのラインは、入っていなかった。
その頃、美穂たちは個室に移り、生まれたばかりの赤子との時間を過ごしていた。
そして、順正は、二階のスタッフステーションに戻ってきたところだった。ふと窓から外を見ると、駐車場の脇の花壇に、誰かが座っている。白いシャツに黒いズボン、黒いリュックに、白いスニーカー。その学生が蓮だということに、順正はすぐに気が付いた。
ピコン。
ラインの通知音が聞こえて、蓮はすぐにスマホを取り出す。莉子かと思っていたが、違う人からだった。
ザー。
クリニックの入り口の、自動扉が開く。そこに立っていたのは、蓮がよく知る人だった。
莉子はその頃、個室が並ぶ病棟の端にある談話室で、一人ソファに座っているところだった。自分はただ見守っていただけだけれど、疲労感があった。それに、安心感。
─よかったね、お母さん。
どうして自分はこう、他人事なんだろう。弟の誕生は、喜ぶべきことなのに。
先ほどまで、あんなに美穂との距離が─物理的にも心理的にも─近かったというのに、美穂が無事であると分かった今はもう、距離が開いてしまったようである。
「莉子」
ふいに名前を呼ばれて、莉子は、声のした方を見た。階段を登り切ったところに、蓮がいた。息を切らしている。
「蓮…」
莉子は顔を上げて、立ち上がった。
「どうして…?」
「弟、生まれたの?」
「う、うん」
「母さんは?無事?」
「うん。無事…」
莉子はようやく、自分が蓮にラインを送ったことを思い出した。
─怖い
どういうわけか、自分の胸の内を、素直に送ってしまっていたらしい。そのことが今は、少し恥ずかしくもあった。
「なんでここにいるの?」
蓮は莉子に、そう言った。
「それはこっちのセリフ…」
「母さんと弟は?それにおじさんも…」
「今みんな、個室にいる」
蓮はため息をついて、莉子に歩み寄ると、手首を掴んだ。
「どこ?個室」
廊下の両側に、個室の扉があるが、そのどれが莉子の家族の部屋か、蓮には分からない。
「待って。何するの?」
「何って、一緒の部屋で、喜んでやれよ」
蓮は談話室を顎でしゃくった。
「なんであんなとこに一人でいるんだ」
この期に及んで、拗ねているのか。自分の居場所は、もうこの家族の中にはなくなったと…
「逃げんなよ」
蓮は莉子の背中を押した。押しながら、突き放すような物言いしかできない自分が、分からなかった。
─寂しいよな。お前も。
俺はお前の気持ちを分かっていると言いたい。でも言えない。蓮が抱いている寂しさと、莉子のそれは、そもそも違う種類のものだろう。
莉子が寂しい時、自分も、ハイウォールの仲間たちも、傍でバカをやる準備がある。話を聞く準備がある。お前は一人じゃないと言ってやりたい。でも言えない。
蓮は知らなかった。人が人に何かを伝えようとする時、言葉だけがすべてではないのだと。その時、蓮から発される熱が、心臓の鼓動や脈を打つ波動が、空間を伝わり、莉子の体を、心を振るわす。
莉子は不思議なエネルギーが満ちてくるのを感じた。
莉子は蓮に背中を向けたまま、わずかな間、逡巡したように動かなかったが、後ろを振り向くことはない。三人がいる個室の扉の前まで歩み寄り、体の向きを変えた。
ドア越しに、三人の姿が見えるような気がする。喜ぶ母と、義父。それに、本当の父と母に愛でられている弟。
かつて…
─こんな風に、お父さんとお母さんは、喜んだのだろうか。
自分の誕生を。
莉子は俯いた。そんな自分に向けられている視線を、莉子は十分に感じている。
すうっと、息を吸った。
「蓮」
莉子は蓮の名を呼び、蓮を振り返った。
「私、もう逃げない」
そう言った莉子の目は、潤んでいたが、口元は笑っていた。
「お父さんと、弟と…家族になるよ」
そう言うと、莉子はふう、と吐息して、扉を開いた。
「莉子!」
「莉子、こっちこっち」
個室から文也と美穂の声が聞こえる。
蓮は扉が閉まるまで、そこに立っていた。
逃げないといった莉子の潤んだ目から、蓮は確かに感じたものがある。
それは、莉子の強さだった。

 この急坂を登れば、山頂。もう行く手には、屋根付きの休憩所が見えている、というところまで来た時だった。
「いいこと思いついちゃった!」
沙羅が再び顔を輝かした。
「山頂に着いたら、みんなで決意表明しませんか?」
「しません」
どうせろくなことではないと思っていたというように、小須賀と鞍馬が声を揃えた。
「お二人は、今日は何かと、気が合いますねえ」
と、空楽。
「いいじゃないですか」
沙羅は少しむっとした顔をした。
「よくそんな恥ずかしいこと提案できますね」
小須賀が呆れ顔で言う。
「あ」
杏奈は、古い記憶を思い出した。
─より覚悟を固めたいのなら、明神山に登ることだ。
あれは杏奈が、東京から来たアーユルヴェーダセラピストに己の未熟さを思い知らされて悩んでいた時、ぐう爺から、そんなことを言われたのだ。
それを杏奈は、みんなに伝えた。
「おーい」
鞍馬は失笑して、
「スピリチュアルですか」
「いや、いいです。素敵じゃないですか」
沙羅はいっそう顔を輝かせた。杏奈より始末が悪いのは、この最年長のお姉さんかもしれなかった。
「魂の声を、みんなで叫びましょうよ」
「え~、魂の声って、なんですかぁ」
空楽は、そんなもの思いつかない。
「そうですねえ。今日は決意表明式だし、あかつき大作戦の先に、自分がどうなりたいか叫ぶっていうのはどうですか?」
─いつから決意表明式になったんだ?
小須賀は心の中でぼやいた。が、沙羅はこうなるともう手に負えない。
「自分がどうなりたいかって言われてもなぁ…」
羽沼も、困った顔をした。
「叫ぶのは恥ずかしいですね…」
杏奈は苦笑いした。
「じゃあ、心の中で叫ぶことにしましょう」
沙羅は譲歩した。
木の棒を拾い、登山道を横断するように線を引く。
「よーいドンで、山頂めがけて一気に突っ走りましょ。そして山頂に着いた人から、心の中で思いを叫ぶんです」
それが今考えたルールであった。
「突拍子もない…」
鞍馬は、もはや笑った。
「はい、位置について」
沙羅は線の一番端に立った。
「え?もうやるんですか?」
杏奈はどぎまぎした。まだ、何を叫ぶか考えていない。
「ていうか、走る必要ある?」
小須賀はそう尋ねながらも、沙羅と反対側の端っこに立った。
「あまり考える時間が長いと、マインドが邪魔して、魂の叫びにはならないかもしれないじゃないですか」
「説得力があるようなないような…」
羽沼は沙羅の隣に並んだ。
はあ、とため息をつきながら、鞍馬は羽沼の隣で靴の爪先をトントンと叩いた。
空楽は小須賀の隣に陣取る。
杏奈は、鞍馬と空楽の間に立った。
「狭いんですけど」と、鞍馬
「誰か捻挫しないようにね」と、小須賀。
「それって嫌味?」と、羽沼。
「なんかドキドキしてきました」と、空楽。
「じゃあ、行きますよ…」と、沙羅。
「よーい…ドン!」
沙羅の合図で、全員一目散に山頂まで坂道を駆け登った。
小柄な鞍馬だが、スタートダッシュが早い。ぐんぐんそれを追い抜いていく羽沼はさすがであった。小須賀は本気で走っているのかいないのか、空楽と歩調を合わせ、沙羅は腕を大きく振って、男性陣に続く。
運動神経の悪い杏奈が、やっぱり最後であった。行く手を見上げると、みんなの背中と、山の木々、それから、青い空が見える。
─自分がどうなりたいか…!
考えようとしたが、自分なりに全力疾走していると、なかなか思考が回らない。
羽沼、鞍馬、小須賀、空楽、沙羅の順に、山頂に着いた。誰も何も叫ばないが、心の中では、決意表明をしたのだろうか。
最後に山頂にたどり着いた杏奈は、そこで、自分の思いを叫んだ。

 

 


 

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