第100話「チーム」アーユルヴェーダ小説HEALERS

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 yogaḥ citta-vṛtti-nirodhaḥ
 ヨガは心の動きを止滅することである(ヨガ・スートラ第1章第2節)。
 あまりにも有名な詩である。
 短い詩には、しばしば重要な意味が複数含まれている。
 ヨガとは、感覚のリーダーである心の様々な活動と変動を抑制すること。
 「Cit」は常に同じである。「Nirodha」しなければならないのは「Citta」である。変わるのはCittaでありCitはそれを見ているだけ。これは心と魂の関係に似ている。
 ニローダは活動を完全に停止することではない。今、注意を向けるべきでない他のことを抑制すること。
 ヨガとは、自分の選んだ方向から気をそらすような活動に、心が巻き込まれるのを止めることだ。
 ヨガは心を、今起こっていることに向ける。
 Citta Vṛtti Nirodhaの別名はDhyānam(ディヤーナ)。Dhyānamは八支則の7段階目としても知られている。Dhyānamは個人がĪśvara(至高の存在、特別な自己)に集中し、それを視覚化し、そこに留まっている心の状態である。静慮、集中の対象物との絶対的一体感を得ている状態。対象となるものへの意識を途切れさせずに瞑想することでもある。
 理想的な瞑想は、練習すればするほど容易になる。この練習を通し、神経質になったり、興奮したり、無気力になったりなどという、心が乱れる傾向を減らすことができる。
 これらの準備の中で最も重要なのは、適切な食事とプラーナヤーマ。
「吐いたほうから吸って…閉じて…」
 ポーズの練習をした後、鞍馬はナディショーダナをクライアントたちに行わせた。左右交互の鼻呼吸を行う、エネルギーの流れを浄化する呼吸法。
 呼吸法をしている間に、体や頭が傾いてしまう癖があるクライアントには、そっと声をかけるか、嫌がらなければ体に触れて修正する。
 鞍馬は部屋の中全体を見渡した。レッスンを受けているのは咲子、玲、琴音の三人。今日も杏奈が撮影のため付き添いをしている。
 咲子の顔が下向きに傾いていることに気が付いて、鞍馬は静かに歩み寄った。
 今日は音楽をかけている。その音楽は呼吸法の練習になった時点で、やや穏やかな曲調に変わった。適当に流していたにしては、絶妙なタイミングであった。
─何度も練習して、タイミングを計っていたような…
 曲調が切り替わることで、アクティヴなポーズから、穏やかな呼吸法への移行が助けられる。
 鞍馬は咲子の背後に歩み寄った。細い体の線と、少しだけ前に傾いた背中を見て、鞍馬は切ない気持ちになった。
─おれが中学に入学した頃から…
 この人は、妊娠しにくいという体の事実と、向き合ってきたのだ。果てしない年月の積み重ねに、鞍馬は重みを感じる。それだけの長い時間をかけて取り組んできたことに、咲子は終止符を打とうとしている。
 だがその最後に、ヨガとアーユルヴェーダに望みを託した。
 鞍馬は咲子に触れられなかった。
─応えられない。
 自分のヨガでは、この人を導ききれない。
 鞍馬はぐっと顎を引いた。
 杏奈はそんな鞍馬の様子を、静かに眺めていた。

「帰ってからも、健康日記を書くことは、できれば続けてくださいね」
 午前中に、最後の施術─シロダーラ─を終えた後、沙羅はカウンセリングの席で玲にそう言った。
「健康日記、毎回愚痴日記になってて、申し訳なかったです」
 玲は肩をすくめた。沙羅は笑って、
「愚痴になっていいですよ。感情の捌け口が必要ですから」
「感情の捌け口…」
 華奢なティーカップを口元まで運び、玲は一口飲んだ。
「確かに今まで、捌け口無く過ごしてたんです。内に溜めてたんだな…」
「頭の中に浮かんだことを外に出すことは、心のデトックスを助けますよ」
 頭に思い浮かんだことをありのままに書くことは、ジャーナリング、書く瞑想とも言われる。これにより自分の頭の中を整理し、ストレスを軽減し、健康度を上げる。書いたことに対して、分析をしたり、解決策を探したりしてしまうかもしれないが、それは二の次。ただ書き出した事実を、受け止めれば良いのだ。
 玲は、昼食後にあかつきを去った。
 昼食の後、午後の施術が始まるまでの間、沙羅は書斎のソファに座って、白湯の入ったマグカップをじいっと見つめていた。
─捌け口がなかった、か…
 一か月弱の間、なんとかほぼ毎日欠かさずチェックしコメントを書いた、玲の健康日記。休息の時間を割くのはつらかったし、大変だと文句も言ったけれど、やってよかったのだ。この日記のやり取りがあったからこそ、あかつきで顔を合わせた時、「よく知った人」として接せられた。何に悩んでいるのか、背景にあることやエピソードがよく分かっていたので、相手の話をよりよく理解することができた。玲にしても、一か月間毎日日記を通してやり取りしていた沙羅だから、すぐに心を開けたのだろう。
─対面で会わなくても、できることっていっぱいあるんだな。
 沙羅はヨガサロンを開いたら、こういうことをやりたいと思っていた。ヨガを教え、身体を楽にすることだけが目的でなく、誰かが気軽に話ができる場所を作りたかったのだ。話すだけでも、心は軽くなるものだから。
─旦那さんとの関係性が、良くなるといいんだけど…
 彼女の末路を追いたい気持ちもあるが、これからまた新しいクライアントを抱えていくことを思うと、いつまでも動向を追うわけにはいかない。
 いつまで健康日記のやり取りを続けるべきか。沙羅は美津子に相談しようと思ったが、先ほどから姿が見当たらない。
 沙羅はソファから立ち上がった。

 杏奈は美津子の居室で、午前中の施術の間、琴音と話したことを共有していた。
─私も、産まれてくるまで、あんな風に親に求められてたんでしょうか。
 琴音は咲子の姿を見て、子供は望まれて生まれてくる存在だということを強く意識したらしい。
─それなのに、どうして私は、親に求められてると感じないんでしょう。
 琴音は不安症と診断されている。
 不安はヴァータドーシャの不均衡であり、その原因は、不規則な日常生活、ヴァータを乱す食習慣、睡眠不足、精神的ストレス、トラウマ、環境要因など多岐にわたる。
 琴音は職場環境、特に人間付き合いが良くなかったので、その仕事を辞めたことで、今後は精神的安定を得るかもしれない。一方、同時に経済的に不安定になり、仕事が変わるという変化が起きるため、ヴァータが乱れる素因は今なおたくさんある。
 けれども、これらの不安要素の他に問題となるものとして、長年の思考の癖がある。それは、琴音の両親に対する意識。家族への帰属感のなさである。
「それで、杏奈は琴音さんに対し、どういう話をしたの?」
「自分のことを話しました」
 同じような経験をし、同じような気持ちを抱いていたと。幼い頃、両親の関係性に橋渡しができなかった自分を恥じ、陽気な兄と比較して落ち込んだこと。自分が家族に対して心を閉ざしたからこそ、家族が自分に歩み寄れない状況を作ってしまった。
 杏奈は、詳細は話さなかったが、琴音の気持ちは自分にはよく分かるということも、美津子に話した。
「なるほどね」
 美津子はひざ掛けを腿上にかけ直しながら、相槌を打った。
「帰属感のなさは、不安を生み出す」
「はい」
「琴音さんのその気持ちが形成されたのが、幼少期であればあるほど、その後の経験が不安定な土台の上に立っていったということになる」
「経済的な余裕がない家だったようで、琴音さんは、小さい頃から我儘を言っちゃいけない。我慢しなきゃ、両親を困らせるっていう思いを抱いていたようです」
 彼女の実家は米屋で、両親は家でも経営のことで議論し、経済的な余裕のなさを認識することが多かったようだ。
「それから、妹さんとの差を認識した小学校中学年の頃から、劣等感を抱き、物静かな子供になっていったそうです」
 琴音の妹は見目好く、明るい性格で、人当たりが好い。
「ふうん…」
 美津子は頬杖ついた。琴音は、肯定的に自分を見ることに、慣れていないのだろう。
「杏奈」
「はい」
 美津子は、斜め向かいに正座で座っている杏奈に視線を向けた。
「私には、実家がないわ」
「…」
「そのことで、寂しいと感じたこともあった」
 美津子は、幼いころ母親と死別している。父も既に他界し、弟がいるものの、実家はもう残っていない。
「でもね、実家があるのに、そこが帰れないような場所だったとしたら、そのほうが寂しかったのではないかと…ふと思うことがあるの」
「帰れるようで、帰れない…」
 美津子はどういうタイミングでそれを思うのだろう。
「琴音さんや杏奈のように、自分と両親との関係性が、兄弟のそれよりも希薄であると感じるのも…寂しいことね」
 実家に行く度に、それを認識させられるのであれば、自然と足が遠のこうというものだ。
「…小さな子供でもないのに、大人げないなと思うこともあります」
 杏奈は少し恥じ入るように言った。
「どんなに大人になろうと、小さな子供が母親を取り合うような心は、完全になくなるわけではないわ」
 それは愛されたいと思う気持ち、本能であり、悪いことではない。
「大人になると、素直に自分の気持ちを表現できなくなるから、やっかいなのよね」
 美津子は苦笑した。たとえ親を恋しがっていても、そんなことを言ったり、そういう素振りを見せたりできない。
「それでいて、心の中ではひがんでいたりするの」
 美津子は深淵な表情になって、
「同じ権利があるはずなのに、誰かは得られて、自分は得られない…と」
 羨望。
─同じ権利があるはずなのに、誰かは得られて、自分は得られない…
 その言葉は、別の誰かに対しても、突き付けられている気がした。
「今日の午後は、彼女はピンダ・スウェダだったかしら」
 美津子は、ふいに杏奈に訊いた。
「はい。そうだ、そのこともお話したかったんです。カティバスティのほうが良いのではと思いまして…」
「ん?どうして?」
「ムーラダーラチャクラに特にアプローチできるかと思ったんです」
 チャクラは、サンスクリットで円、円盤、車輪、轆轤(ろくろ)を意味する言葉。人体の頭部、胸部、腹部などにあるとされる中枢を指す言葉としても用いられる。身体的には腺、マハ・マルマ(エネルギーの中心地)に相当し、思いや感情を身体とつなげるツボである。
 ムーラダーラチャクラは第一チャクラと呼ばれる。主要な七つのチャクラのうち、身体の一番下部に存在するチャクラだ。尾骨の近くに位置し、「基盤」を象徴する。このチャクラのバランスが取れていると、ぶれないしっかりした基盤ができ、深い部分からの安心感と満足感を持てる。
「この部分を強化することが必要かと」
「なるほど…でも、カティバスティは昨日私がやっている」
「…あ、そうでしたね」
 どのクライアントに何をしたか、杏奈も混乱してきている。
「そういえば、明日の午後も、琴音さんはカティバスティでした」
 明日は杏奈が担当する。
「じゃあ、今日は予定通りピンダ・スウェダでもいいわ」
 これとて、ムーラダーラチャクラに当たるし、ヴァータの鎮静にも役立つ。それに、様々な施術を体験できたほうが、琴音も嬉しいだろう。せっかく長期間滞在し、いろいろな施術を受けるチャンスがあるのだから。
「そうですね。よかった」
 朝作ったハーブボールも、無駄にしなくて済む。
「琴音さんは、みんなの前ではしゃべらないわね」
「はい」
 食事の席でも、他に喋る人がいると、聞き役に徹し、だんまりしていることが多い。
「残りのカウンセリングで、琴音さんが話したいことを、しっかり引き出してあげなさい」
「はい」
 杏奈はこくんと頷いた。とはいえ…
─クライアントが話しやすい場面っていうのは、施術中や、散歩、ドライヴなど、他事をしている時なんだけど…
 特に琴音は、面と向かって話し合うカウンセリングや食事の場面では恐縮してしまいがちで、なかなか本心が口から出ない。あとわずかな滞在時間のうちに、琴音の「隣」で話ができる機会を持てるだろうか…
「あと…」
「あのう、すみませ~ん」
 襖の向こうから沙羅の声がし、杏奈は話を切った。
「どうぞ」
 美津子が声をかけると、ゆっくりと襖が開いて、沙羅が入ってきた。
「すみません。お話し中」
 沙羅は杏奈の対面、美津子の斜め向かいにあたる場所に移動し、ちょこんと座った。
「ちょっと相談したいな~って。杏奈ちゃんもここにいたんですか」
「はい。私も相談で」
「私、お邪魔じゃないですか?」
「杏奈、なに?」
 美津子は先に、杏奈に話の続きを促した。
「鞍馬さんのことなんですが…」

「これは相談というより、私の感想ですけど」
 杏奈は、ここ二日間のヨガを見ていて思ったことを話した。
「なんか、いつもとは違う気がしました」
 ヨガのシークエンスが、意外性のあるものだったとかいうことではなくて。クライアントに対する姿勢。何を意図して、ヨガを指導するか。そのあたりの鞍馬の意識が、変わったように思えた。
「鞍馬さん、あかつきでヨガを教えるの、正直面倒くさがってましたよね…」
 沙羅は小さな声で、みんな思っていたが言えなかったようなことを言った後で、気遣うような視線を美津子に向けた。美津子は頷いたり肯定したりしないが、さりとて否定もしない。
「私も、いつ辞めると言い出してもおかしくはないなと思っていたのですが…」
 杏奈も美津子に視線を向ける。
「あかつきに留まるメリットを伝えられるように、理論武装しておかなきゃと、思っていたほどです」
 美津子は目を細めた。沙羅も杏奈も、鞍馬に対し、同じ印象を持っていたようである。
「でも、昨日、今日の鞍馬さんを見ている限り、メリットなんか伝える必要は、なさそうだと思いました」
 あかつきでヨガを教えることの意義を、彼は知った。
 杏奈は、けれど、違う意味で鞍馬があかつきに留まらない選択をすることのほうを恐れる。
─いかさま師には、なりたくない。
 それは杏奈とて同じだ。咲子からの二回目の予約が入った時、咲子を出迎える日、杏奈はお腹が痛くなるような思いだった。彼女が本気であればあるほど、「荷が重い」と感じたのだ。それを、自分の未熟さと感じてしまったら、出直しが必要、身を引こうするのはごく自然な流れだ。でも、鞍馬には、逃げてほしくない。
「そうか」
 杏奈が告げた言葉を黙って聞いてた美津子は、一言だけ、柔らかい声を発した。どこか満足げである。
「どうして…何が、鞍馬さんを変えたんでしょう」
 沙羅は唇に指を当てて考えている。
 美津子は足を崩し、ふふっと笑った。
「人の感情を動かすのは、人の感情だ」

 翌日から、朝のヨガレッスンの場所はあかつきの居間になった。クライアントが二人なので、ここで事足りる。
 美津子は時々、それとなくクライアントの様子、そして鞍馬の様子を見に行った。
 鞍馬は、あかつきでヨガをする意義に関しては、迷いはなくなっただろう。しかし…
─別の迷いが生じた。
 指導する様子にはほとんど変わりがないが、鞍馬の顔つき、目線、声色から、美津子はそれを感じ取った。
 今、彼にできることは何もない。到達すべき山の上から、こっちだよと鞍馬を呼んだとしても、行く手を覆う藪は、鞍馬自身の力でかき分けねばならない。その過程で、彼は多くを学ぶだろう。
─ようやく、自分が登るべき山を見つけたか。
 美津子は彼の様子をしばらく見守った後、そっとその場を立ち去った。
 その日の朝食は、作り分けをした。
 咲子と琴音は、ヴァータの乱れがあるという点では一致しているのだが、身体の体質としては、咲子はヴァータが優勢で、琴音はヴァータとカパが優勢だった。そのため、使う食材やその量が、まったく同じではいけない。
「ブレックファーストオーツ…」
 提供時に告げられた料理名を反芻しながら、二人はスープボウルの中を覗いた。クイックオーツを牛乳やギー、デーツと一緒に煮込んだ、栄養価の高い朝食。カルダモン、シナモンの香りが、心にも栄養と満足感を与える。
「寒い日には、こういう温かくて、こってりとした、甘いお粥もいいですよ」
 一日の始まりを心豊かにしてくれる。
 オーツ麦は、小麦よりも消化が良く、牛乳やギー、デーツと一緒になって、オージャスを作り出す。
 咲子のお粥には、アーモンドとココナッツファインを加えている。生アーモンドは一晩浸水し、皮をむき、スライスまたは千切りに、他の食材と煮込むのだ。アーモンドには、豊富なミネラル、健康的な脂肪、少量のタンパク質が含まれている。オージャスを形成する食材の一つでもある。
 琴音のお粥には、アーモンドやココナッツファインを加えず、シナモンとカルダモンの分量を増やしている。これらのスパイスは、重いオーツ麦と牛乳を軽くし、消化を良くして粘液を作りにくくする。咲子のものに比べて、ミルクを減らし、水の分量を増やしている。
 昨日は、消化に優しい夕食を早い時間帯に食べた。そして、朝から運動量の多いヨガをした二人は、お腹が空いていたのか、あっという間にこの朝食を平らげた。
 その後、咲子はチャワンプラッシュを食べ、琴音はトリファラとゴツコラジュースを飲んだ。
 午前と午後に施術、夕食後に瞑想をし、早く寝てもらう。
 翌日の朝食はビーツのパンケーキと、豆入りの具沢山スープにした。
 午後の施術が終わってから、杏奈は二人をキッチンに入れて、中盤戦で初となる料理教室を開いた。作るのは、食事ではなくおやつ。二人には「全粒粉とオーツ麦のクッキー」という名称でレシピを渡している。しかし、このクッキーの裏の名は、「オージャスアップクッキー」。二人に、オージャスを上げてほしいという思いから、このような名前をつけた。
「アーモンドプードルやオートミールパウダーは、買うこともできますが、その場で砕いた方がよりプラーナがあります」
 咲子に、丸のままのアーモンドとオートミールをフードプロセッサーにかけ、粉砕してもらった。
「ピッタが悪化していて、皮膚の炎症が起こっている場合は控えてください」
 ナッツの熱性が問題を悪化させる可能性がある。
「でも今のお二人には、大丈夫です」
 溶かしたココナッツオイルに、常温のメープルシロップを加えて混ぜる。パウダー状にしたアーモンドとオートミール、全粒粉、シナモンパウダー、カルダモンパウダーを加え、混ぜ合わせる。この時期、室温が低いと、ココナッツオイルが固まって作業がしにくくなるので、手早く行う。
「生地を手で丸めて、手の平で押して平たくします」
 咲子と琴音が、生地を少しずつ取って、成型する。
「どろんこ遊びみたいで、楽しいですね」
「はい」
 咲子と琴音のペアだと、会話は少ないが、朗らかな雰囲気で作業が進む。
 杏奈は二人の様子を写真に収めながら、時々話題を提供した。
「手を使うと、手が汚れてしまうという意見もありますが、こうした方が、より温かみのあるクッキーになります」
 大きさの微妙に違う、少しいびつな生地がニ十個ほど出来上がった。これを百八十度のオーブンで、十一、二分焼く。
 一、二枚はその場で食べてもらい、残りは一旦、杏奈が預かった。

 同じ頃、仕掛り中の仕事が進まなくなってきて、羽沼は、自分の集中力が切れたのだと分かった。
「ふぅ…」
 すとん、とワークチェアの背に背中をもたげる。
 名もない、実績もない自分に、仕事を任せてくれた足込町の事業者たち。彼らのことを思うと、一日でも早く成果を上げたいのだが、根詰めて作業をすると、良いアイディアが浮かばない。
 そういう時、羽沼は御殿山に登る。中腹まででも良かった。とにかく体を動かすと、予期せぬアイディアが降ってくることがある。
 週に一度、土曜午前の野球部の練習に参加するのも、思考を一度リセットするために役立つ。
 座り仕事が多くなると、お腹があまり空かない。そうなると、一人だけということもあって、料理をする気などは起きなかった。料理に時間をかけない代わりに、ちょっといいコーヒーを淹れる。
 羽沼はアウトドアスペースの机にコーヒーメーカーを置いて、豆を挽き、その挽きたての豆を使ってコーヒーを淹れた。外気が寒いので、コーヒーから上がる湯気が白く見える。それがまたひと際、このコーヒーを魅力的なものに見せていた。
 明日、咲子の夫・大樹があかつきを訪れることになっている。
─僕は、逃げました。
 今年の初春の頃、大樹と一緒に山に登った時のことを思い出す。
 立ったまま、コーヒーを啜った。座り仕事が続いたので、立っていたかった。
─負い目を感じて、妻と一生過ごしていくことから。
 大樹には、逃げないでいてほしい。二人には、願いを叶えてほしい…
 羽沼はコーヒーカップを左手に、スマホを右手に持って、クラウド上の写真フォルダにアクセスした。昔の写真は、ほとんど残っていない。
 羽沼は昔から、写真を撮るのが好きだった。妻の写真も、妻と一緒に映った写真も、たくさん保存していたが、そのほとんどを消してしまった。けれど、彼女が傍にいた時代に撮った、何かの書類だとか、仕事の出張先で取った風景の写真なんかは残っていて、作業の合間にそういう写真をぼーっと見てしまう癖があった。
 明日、咲子と大樹は明神山に登るが、羽沼は案内役を依頼されてはいない。一度登ったことがある山だから、案内役はそもそも必要ない。二人の時間を楽しむための登山だ。それでも、羽沼は明日、あかつきを訪問してみようと思っている。
─会って、何を話すか。
 それを考えてはいないけれど…
「あ、はぬま」
 弾むような高い声が聞こえて、道路の方に顔を向けた。瑠璃子と万里子が、手を繋いで立っていた。
「…こんにちは」
 コーヒーカップを持ったまま、二人に挨拶をする。
「こんにちは」
 瑠璃子も挨拶を返した。
「なにしてんの?」
 万里子は瑠璃子の手をぱっと放して、テーブルに近寄った。コーヒーメーカーが気になるらしい。
「これなに?」
「コーヒーだよ」
「なんだ、コーヒーか」
 ベンチの上に両ひざついて、テーブルに身を乗り出した万里子だったが、コーヒーだと分かると、ちょっとつまらなさそうに声量を下げた。
 瑠璃子は二人に近づきながら、先ほど見た光景がなかなか脳裏から離れなかった。羽沼は厚手のネルシャツに、ジーンズという恰好で、コーヒーを片手にスマホを見ながら、どこか寂しそうな顔をしていた。
「散歩?」
 羽沼に訊かれて、やっと瑠璃子は我に返った。
「ええ。夕飯前なんだけど、万里子の元気があり余っちゃってて」
「なんかのむ」
 万里子はテーブルに肘をつき、ベンチの上で膝を交互に動かしながら、羽沼に飲み物をせがんだ。
「牛乳ならあるよ」
「あったかいやつがいい」
「長谷川さん、コーヒー飲みますか。淹れ直しますよ」
「あ…」
 瑠璃子はちらっと、ミルサーとコーヒーメーカーを見た。もうすぐ夕食時だし、今までなら、断っていた。
「ありがとうございます」
 けれど、そう言った。
「ちょっと待ってて」
 と言って、羽沼は丸太小屋の中に入っていった。

 羽沼は万里子に牛乳を渡し、コーヒーメーカーに新しい粉をセットした。コーヒーが落ちる間、無心にそれを見つめる。
「どうしてすわらないの?」
 万里子が尋ねた。
「ん?ああ…さっきまでずっと座っててね。立ってたいんだよ」
「どうしてずっとすわってたの?」
「仕事に決まってるでしょう?」
 瑠璃子は万里子をちゃんと座らせようと、体を抱えながら言った。もう小学一年生になろうというのに、男の子のようにやんちゃなままだ。
「今も、仕事のことを考えてたんですか?」
 微笑ましそうに二人を見ていた羽沼に、瑠璃子が視線を向けた。
「いや、あかつきのお客さんのことを考えててね」
「あかつきの…」
 羽沼は視線をコーヒーカップに向けた。半分くらい入った。
「前に少しだけ関わったんだけど…個人的に少し気になっちゃってね」
 どういう客なのだろう。どういう意味で、個人的に気になるのだろう。羽沼は大樹のことを考えていたが、瑠璃子は、あかつきのクライアントだと聞いて、勝手に女性のイメージを抱いた。羽沼が積極的にその人のことを話そうという雰囲気ではないので、それ以上のことは聞かなかったが、
「羽沼さんはどうして、あかつきと関わろうと思うんですか?」
 代わりにそう訊いた。
「なんでだろうね…」
 羽沼はコーヒーカップの取っ手をつかみ、瑠璃子の前に置いた。
「単純にサービスがいいと思ったのかな。あ、オイルマッサージとかがいいなって思ったわけじゃなくて、なんていうか…」
「そこに来たお客さんが、何を得られるか、ですか?」
「そうそう…さすが」
 羽沼は相好を崩した。
「ね、ママ。あそぼ」
「えっ」
 せっかく、羽沼と話をしているのに…しかも、ここには万里子が遊べるようなおもちゃがない。
「どんぐり拾っておいで」
 と、羽沼が言った。
「まだある?」
「うん。落ち葉をかき分けてみてごらん。あとでどんぐりすごろくやろう」
「うん!」
 ぴょん、とベンチから降りて、万里子は家の周りの、落ち葉が重なっているところにしゃがみこんだ。
「あと、あれかな」
 万里子の様子を立ったまま見守りつつ、
「面白いんだよね。関わってるのが」
 他の仕事に時間を使うためにも、あかつきと関わる時間を減らさなければと思っていたが…あの書斎に行けなくなるのは、なんとなく寂しい。
「僕はずっと、チームの中で動くことが多くて」
 野球部、調達部、海外赴任の時も現地のグループと…
「やっぱりチームで、何か一つのことを頑張るっていうのが、好きなんだよね」
「チームですか」
「あかつきの人たちって、基本的に悪い人がいないからさ…」
 年齢も身の上もバラバラだし、正直全然彼らのことを知らないのだが。
 瑠璃子は羽沼をちらっと見ると、ふふっと笑った。
「なに。なんかおかしかった?」
「だって、私が知ってる羽沼さんは…」
 youtubeに一人キャンプの動画を投稿して、時々一人で登山をして、一人で呑んで、今は一人でできる仕事をしている。
「一人行動が多いなって。もちろん、集団行動も苦じゃない…ってことは分かってましたけど…」
「とってきたよ~」
 万里子は瑠璃子と向かい合うほうのベンチに上がって、テーブルの上にコロコロとどんぐりを置いた。
 羽沼は再び小屋に戻って、油性ペンと、ボールペン、ノートを持ってきた。万里子の隣に座り、ノートを万里子の前に置いて、何も書いていないページを開く。
「すごろく書いて。あとどんぐりに顔を」
「わかった」
 なぜ万里子と普通に遊べるのだろう。瑠璃子は不思議に思いながら、対面に座る二人を眺めた。
「確かに、一人行動が多くなったね」
 羽沼は苦笑しながら、さきほどの話の続きをした。
「僕は一人で何かをするのは、向いてないんだろうなと思ってたんだけど…案外大丈夫みたい。それは、こっちに来て初めて知った自分の一面なんだよ」
「…でも、あかつきに惹かれてるじゃないですか」
 瑠璃子はテーブルの上に頬杖ついた。
「やっぱり、チームを求めてるんじゃないですか?」
 羽沼は、自分でも気づかなかったようなことを指摘されたような気がして、少し驚いた。
「そういうことなのかな」
 あるいは…
─人恋しいんじゃないの?
 そう思ったが、瑠璃子はそれは言葉にしなかった。
「これ、ママで、これまりこね」
 万里子は小さな、しかも球体のどんぐりに、苦戦しながらも顔を描いている。
「長谷川さんは?」
「え?」
「こっちに戻ってきてから知った、自分の新しい一面、ある?」
 そう訊かれて、瑠璃子はちょっと考えた。足込町に戻る前と後では、トラウマを経てしまい、家族構成も変わってしまったので、ネガティヴな要素にばかり目が向いてしまった。
「いやぁ…自分は案外希薄な人間だなって、思いました」
「希薄?」
「ええ。会社で働かなくなったら、なんにもなくなっちゃったっていうか」
 そこまで話して、瑠璃子は愚痴になる前に、少し話の矛先を逸らした。
「私、沙羅さんを見ててすごいなって思うんですけど、私はこういう風にはなれないなって自覚するばかりです」
「沙羅さんを見てて、すごい…?」
 確かに、羽沼からしても、沙羅はあらゆる意味ですごいと思うけれど…
「彼女、やりたいことがたくさんあるじゃないですか」
 瑠璃子が言っているのは、その部分らしい。
「あかつきでセラピストをして、企画を任されて、子供を二人も育てて…それでいて、自分のヨガサロンを持つ夢も諦めてなくて」
「これ、じじとー、ばばとー、はぬまね」
「え」
 その面子の中に自分が含まれて良いものだろうか…羽沼がちらと瑠璃子を見ると、瑠璃子と目が合った。瑠璃子は慌てて視線を万里子の手元に逸らし、
「…手に職持ってる人って、強いなって思っちゃいました」
 先ほどの話を続ける。
「私、会社辞めたらなんのスキルも強みもないってことに気が付いて…」
 万里子は、ノートの上にすごろくの線を大胆に引っ張っていた。いつの間に、こんなに上手に遊べるようになったのだろうか。
「僕らは、右腕ですからね」
「え?右腕?」
 瑠璃子は、再び羽沼のほうを見た。そういえば、羽沼はこの前も自分を右腕だと言っていた。
「長谷川さんの前の仕事も、僕が今している仕事も…自分たちには商品がないけど、人の持っている商品やサービスをプロモーションして、商品を持っている人たちのサポートをする仕事じゃないですか」
 なるほど。
─それで右腕、か。
「それはそれでスキルといえるんですけど、一人では成り立たないんですよね」
 自分が「これいいな、売りたい」と思う商品と、それをもつオーナーに出会う必要がある。
「だから僕も、沙羅さんのことをすごいと思う気持ちは、分かりますよ」
 沙羅だけでなく、あかつきの人たちはみんなすごい。企画者に、カウンセラーに、料理人に、セラピストに、ヨガインストラクター…みんな自分の強みを持っている。
「私からしたら、羽沼さんだってちゃんと強みを持っていると思いますよ」
 ノートの切れ端を折って、サイコロを作っていた羽沼の手が止まる。肯定的な言葉を放った瑠璃子は、大きな目でじいっとこちらを見ている。どきりとして、羽沼は一瞬呼吸が止まったかのようになった。
「…ありがとう」
 そう言いながら、手元の作業に戻ることによって、動揺をごまかした。

 夕食後、いつものように美津子と杏奈が二人で散歩している時、やたらとラインの通知が鳴った。
「鞍馬さんと沙羅さんが、あかつきに来るそうですよ」
「え?」
「今日の夜…」
「今日の夜?」
 どういうことだ。
 杏奈は沙羅に電話をかけた。
『鞍馬さんが相談があるって…』
「今日じゃないとだめなんですか?」
『ダメらしいんです。申し訳ありません…』
 遅くなるが、少しの時間場所を貸してほしいと頼まれた。
「なんでしょうかね。鞍馬さん」
 あかつきを話し合いの場所に選んでいるということは、あるいは、美津子や杏奈をも話に巻き込みたいのかもしれない。
「あ…」
 あかつきの正門の前に、誰かがしゃがんでいた。
 まだ十九時とはいえすっかり日は暮れている。この寒いのに誰かと思えば、
「空楽さん…」
 空楽は二人の姿を見ると、すっと立ち上がった。手には紙袋を提げている。
「午後から柳さんちの畑の手伝いに行ったら、新城の知り合いが送ってくれたって言って」
 また差し入れを持ってきてくれたようである。
「いちごですか!」
「ええ、採れたてです。琴音さんが帰るまでにと思って…」
 朝食べるといいからと、今日持ってきてくれたのだ。
「ちょうどいい…」
 美津子は空楽と杏奈を代わる代わる見て、ある提案をした。

 鞍馬があかつきの駐車場にバイクを止めた時、一台も車がなかったので、おかしいなと思った。美津子に聞くと、杏奈と空楽、咲子と琴音は、美津子のエヌボックスに乗って、足込温泉へ行ったらしい。
 十五分くらい経って、沙羅があかつきにやって来ると、美津子は同じ説明を沙羅にもした。
「みんないないんですね」
 沙羅はコートを脱ぎ、ハンガーラックに掛けながら言った。
「温泉とは、羨ましいですよ」
 バイクだと、実家からあかつきまでの距離でも、身体が冷える。鞍馬は肘をさすりながら言った。
「何言ってるんですか。鞍馬さんの家も温泉でしょ」
「…自分ちが温泉だと、逆に入らないんですよ」
「そうなんですか?で、なんですか?話って」
 沙羅は鞍馬の向かいのソファに腰掛けた。しかし鞍馬は、すぐには話さず、ホールの方に目を向ける。
「美津子さんは?」
「お風呂に入るって」
「なんだ…美津子さんにも断っておきたいのに」
「なにを、ですか?」 
 鞍馬は沙羅を見据えると、すうと一息吸った。
「明日から、ヨガレッスンを代わっていただきたいんです」
「なぜ?」
 即座に返された問いに、鞍馬は面喰った。いつもの明るく人懐っこい沙羅の口調とは異なり、鋭い響きを持っている。
「なぜって…」
 鞍馬は唾を飲んだ。
「いつも同じインストラクターじゃ、つまらないでしょう」
「…」
「それに、実家の仕事が忙しくなっちゃって。朝抜けるのが難しいんですよ」
「…私は、仕事ではありませんが、子供たちのお世話をしなきゃなんないんです」
 沙羅は、淡々と言った。
「特に土日は、なるべく仕事に来なくてもいいように、美津子さんたちが配慮してくださってるんです」
 鞍馬は、ぐっと言葉に詰まった。沙羅は鞍馬の目をまっすぐに見ている。
「けれど、鞍馬さんがお仕事で忙しいのなら…仕方ありませんね」
「…すみません」
 沙羅は口を閉ざして、鞍馬の目を凝視し続けた。普段、人当たりが好く表情豊かな人から、こう厳しいまなざしを向けられると、いかに神経が図太く調子のいい性格をした鞍馬でも、居心地が悪い。たまらず、視線を逸らす。
 二人の間に、短い沈黙が流れた。
 カーテンは閉め切られ、視界に入る限り動くものはなく、家の中には人気がなくて音もない。
「…嘘はいけませんね、鞍馬さん。あかつきの中で」
 そう言った沙羅の声は、いつもの温かさを取り戻していた。ふっと表情を和らげ、微笑さえ浮かべている。
「あかつきはアーユルヴェーダの施設であり、ヨギの心を持つ人が働く場所です」
「…」
 鞍馬は沙羅に視線を戻し、その言葉に耳を傾けた。
「ヨギは嘘をつきません。他人にも」
 そう言って沙羅は、また口元に微笑を浮かべる。
「もちろん、自分にもね」
 鞍馬は真顔のまま、黙っていた。時々、少女のような天真爛漫さを見せる沙羅だけれど、自分よりも一枚も二枚も上手な大人なのだと、この時実感した。
「…僕は、女性ではありません」
「ええ。知っていますよ」
「妊活をしたこともありません」
「…」
「彼女にとって、何が必要なのか、分かりません。沙羅さんのほうが、彼女に親身になって、彼女に必要なヨガができると思うんです」
 沙羅は鞍馬の言っている内容だけでなく、身体の動き、表情、目…それらをしっかりと観察した。
 ただ面倒くさいから、丸投げするつもりなら、この若造の愚痴に付き合うつもりは毛頭なかった。けれど、今の鞍馬は、そうではない…
─この人も、変なところで不器用なんだから。
 相談したい、と言えばいいのに、なぜ代わってほしい、などという言葉しか出てこないのだろうか。
「…鞍馬さん」
 沙羅は背筋を伸ばした。
「私は、代われませんよ」
 人のチャンスを盗むことも、ヨガでは禁止されている。
「だけど、相談に乗ることはできます」
 沙羅は体をやや前方に移動させ、身を乗り出した。
「一緒に考えましょう。ベストなヨガを、一緒に」
 鞍馬は眉をひそめた。目の前にいるこの女性は、主張を曲げそうにない。

「あれえ?」
 杏奈とクライアントたちと一緒に、あかつきに上がり込んだ空楽は、書斎で鞍馬と沙羅が額を合わせて何事か話し合っているのを目撃した。
─なにしてるんだろ。
「じゃあ、お湯沸かしておきますね」
「はい。お願いします」
 咲子と琴音は、杏奈と話が終わると、二階へ上がっていく。
「杏奈さーん」
 キッチンでやかんを火にかける杏奈に、空楽は話しかけた。
「鞍馬さんと沙羅さん、何やってるんでしょうか」
 杏奈は空楽を振り返った。
 クライアントの水筒に新しい白湯を淹れ、二階へ持って行くと、今度は別のポットに白湯を入れ、生姜をすりおろした。
 空楽は、杏奈からは何も頼まれていないのに、グラスを準備し、お盆に乗せた。それも四つも。
「こんばんはー」
 沙羅と鞍馬は声がした方に顔を向け、
「あ」
 と口々に声を出した。
「空楽ちゃん。温泉行ってたんだって?」
「はい」
「何それ」
「ジンジャーティーです」
 空楽はポットを机の真ん中におき、コップを二人の前と、空いたスペースに置いた。
「あとで杏奈さんがはちみつもってきます」
 紙に何かを書いていた鞍馬は、ペンを回して、
「…コーヒーとかの方がいいな」
 とつぶやいた。
 空楽は無言で、鞍馬に席を詰めるよう手で示し、ソファに座った。
 ほどなく杏奈もやって来て、沙羅の隣に座る。
 沙羅と鞍馬の議論に口出しするでもなく、空楽と杏奈はスマホをいじったり、時々喋ったりしながら、ただ二人の作業を眺めていた。

 翌日。
 咲子と琴音は、おのおのマットを絨毯の上に広げ、マッサージをしたり、自分でアーサナを取ったりして、講師が来るのを待った。
 いつもクライアントが降りてくる時には、講師の方が待っているのだが、今日は誰もいない。
「今日も寒いですね」
「そうですね」
 二人は足裏を揉みほぐしながら、軽く会話をした。
 間もなく足音が聞こえて、咲子と琴音は居ずまいを正す。
 講師が、二人の真ん前にマットを敷き、その上に直立した。
「おはようございます」
 講師が、落ち着いた、でも明るい声で挨拶する。
 鞍馬は二人に向かって、いつもと変わらぬ、爽やかな笑顔を向けた。
「今日もよろしくおねがいします」
 鞍馬が合掌して挨拶するのに合わせ、二人も合掌し、お辞儀をした。

 

 

 


 

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