第99話「観点を広げる」アーユルヴェーダ小説HEALERS

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 ヨガから帰った後、朝食の準備をするため、杏奈はすぐにキッチンに入る。
「あれ?」
 が、やろうと思ったことはすでにしてあった。誰か親切な人が、柿の皮を剥き、種を取り出しておいてくれたのだ。
 朝ごはんは、柿シチュー。
 隣の土地の持ち主、笹塚が昨日持ってきてくれた柿を、ギーと少量の水、少しのスパイスで煮、柔らかくしたもの。これだけでは少し足りないと思われるかもしれないが、これから施術を受ける体には、消化に優しいものが良い。特に、咲子は昨夜断食をした。その後初めての食事ならなおさら、消化に優しいものでなければならない。
「美津子さん、柿、ありがとうございました」
 杏奈は自分と美津子用の朝食を準備しながら、キッチンに入って来た美津子に礼を言った。笹塚の持って来た柿は、四人分の柿シチューで、全てはけた。
「鞍馬さんは…」
「もう帰ったわ」
 普段、なんだかんだキッチンでうだうだしていくのだが…
「今日から咲子さん、チャワンプラシュだったわね」
「はい。菜奈さんも…」
 杏奈は棚から、新しいチャワンプラシュ(chyavanprash)を取り出し、美津子に渡した。
「ギー漬けデーツも用意したんですが、ちょっと甘味が過剰になるでしょうか」
 杏奈はガラス瓶に詰まった茶色い物体に視線をやった。美津子もギーとデーツを漬けた瓶を見る。
「…いいんじゃない」
 薬効はチャワンプラシュほどではなくても、新鮮だし、きっと杏奈が思いを込めて作ったはずだと、美津子は思った。
「他の皆さんの分もある?」
「数に余裕がなくて…」
「オーケー。玲さんと琴音さんには、トリファラを出すわ」
 クライアントの状況に応じ、最適なアーユルヴェーダハーブを選ぶ。チャワンプラシュとトリファラ…その味には大分差があった。
「うっ」
 朝食の席に着いた玲は、最初に出されたパウダータイプのトリファラを水で流し込むと、切ない顔をした。琴音も渋い顔で、だんまりする。
 三つのアーユルヴェーダハーブを組み合わせた、この天然の整腸剤はまさに、「良薬口に苦し」。
 一方、チャワンプラシュは伝統的なアーユルヴェーダの若返りのジャム。生命の妙薬として知られているが、その味は甘酸っぱく、香りは複雑である。
「目安は、小さじ一から三を一日一、二回。朝の空腹時、食事の十五分前くらいに摂るのがおすすめです。体調を見ながら摂ってみてください」
 美津子は咲子と菜奈にそう告げながら、容器ごと渡した。本来、ハーブやサプリメントの摂取量について、アーユルヴェーダのセラピストが指示することはできない。医師ではないからだ。あくまで、目安を伝えて、最終的な管理はクライアントにしてもらう。
 他のクライアントたちは、咲子が蓋を開ける様子を興味深そうに見ていた。黒々とした、濃厚そうな、ねっとりとしたペーストがそこには入っている。味は…
「甘くて、おいしい…」
「ほんと!」
 組織から過剰なドーシャやアーマが取り除かれた後、チャワンプラシュを食べることで、栄養が深層深部に行きわたると言われている。このジャムは、アムラをはじめとするスーパーフードやハーブ、その効能を組織へと運ぶアヌパンで構成されている。アムラの他に、ピッパリ(ひはつ)、カルダモン、シャタバリ、アシュワガンダ、ハリタキ、グドゥチ、レーズン、ジャガリー、蜂蜜、ギー…
「これはどんな効能があるんですか?」
 玲が目を輝かせて訊いた。
「体組織の若返りです」
 他にも、免疫力を向上させ、活力とエネルギーを生み出す。
 柿シチューの朝食の後、咲子にはギーに漬けたデーツも一つ、サーブされた。

 この日も二つの施術室で、四つのベッドがフル稼働する。
 杏奈は咲子へアビヤンガ。
 美津子は菜奈へシロダーラ。
 沙羅は玲にアビヤンガ。
 空楽は琴音にアビヤンガ。
 大鐘はその間に客間を片付け、小須賀は昼食の仕込みをする。
「はいはいはいはい」
 大鐘は施術を終えた空楽がキッチンにやって来ると、折り畳み椅子を用意して、そこへ座らせようとした。
「お疲れさま。何か飲む?」
「あー、ありがとうございます」
 と言いつつ、空楽は椅子には座らずに、キッチンの中を見渡す。
「なんか手伝いますか?」
「いいよ。間に合ってるし」
 小須賀は既に、昼食の仕込みを終えているのか、余裕ありげだった。
「休んでたら?」
「午後はお休みなので、大丈夫っす」
「そうなの?誰?午後出るの」
「永井さん、沙羅さん、美津子さん」
 杏奈も午後はフリーのようだ。だから、夕飯の仕込みは不要と言われているのだと、小須賀は今更ながら気づいた。毎日のように仕事内容が変動するので、それぞれの配置をもはや把握しきれていない。
「ねえ、誰か来たら訊こうと思ってたんだけど」
 にこにこ顔で、大鐘は空楽に尋ねた。
「この瓶に入ってるのは、一体なあに?」
 大鐘はデシャップの隅に置かれた、コップ大の瓶を指差した。バターのような黄色みがかった固まりの中に、焦げ茶色の物体が埋まっている。
「ちょっと不気味なんだけど…」
「それは、ギー漬けのデーツです。ラサーヤナのためのオージャスアップフードらしいですよ」
 大鐘はしょぼくれた表情になって、口をすぼめた。
「何語?呪文?」
「澄ましバターになつめやしを漬けた、若返りを促す─」
「やめときなよ」
 日本語に置き換えたところで、言っても無駄だと言うように、小須賀は言った。大鐘は口を「いーっ」の形にして、抗議するような顔を小須賀に向ける。
「つまりこれは食べ物なの?」
 空楽に向き直った時には、大鐘の表情は元に戻っていた。
「はい。そうみたいです」
「何に使うの?」
「…咲子さん向けの強壮剤みたいなんですけど…」
 空楽も、詳しくは知らないのだ。
 ただ、咲子が滞在して以来、毎食のように、生殖能力を高める食品を積極的に取り入れる工夫がなされている。妊活に良い食事は、他のクライアントにとってもいいからと…
「大鐘さんは、お子さん二人いるんでしたっけ」
「そうよ。みんなもういい年したおっさんで、とっくに家出てるけどね」
「子供を授かるために、何か心がけてたことありますか?」
「さあ…ずい分昔のことだから、忘れちゃったわ」
 大鐘は首を左右にリズミカルに振った。その姿を見て、空楽は首振り人形を思い出した。
「玄米と卵を食べろって言われてた気がするけど…」
「ふうん…」
 妊活中に摂りたい栄養素というのは、その時代それぞれに、一般的に何が食べられる傾向にあるかによって、強調されるものが違うようだ。
 大鐘の若かった頃、足込町では、畑で採れる野菜や全粒穀物を食べるのは当たり前だっただろう。妊活中に勧められないものとして、脂肪の多い食品、添加物を含む食品、カフェイン、スパイシーなものなどがあるが、その時代は注意を促されるほど、こういったものはあまり出回っていなかったに違いない。今日では、これらの食品は安く、どこにでも出回っているため、妊娠を望んでいる人も手に取りやすい。
「なあに?空楽ちゃんもそろそろお子さんを考えているの?」
「いや、私じゃありません」
 まだ結婚もしていないのだし。
 小須賀は調理台に腰をつけてスマホをいじっていたが、そういう系統の話は耳ざとく、聞き耳を立てた。
「妊活されてるクライアントさんがいるから。どういう料理が妊活にいいのかなって、気になっただけです」

 この日の昼食は、応接間の長テーブルに、クライアント四人が固まって座り、杏奈と沙羅が同席していた。杏奈は既に施術着から、シャツとズボンに着替え、髪をほどいて後ろで一つ結びにしている。
「今日で菜奈さん、帰っちゃうんですね」
 いただきますの挨拶をするとすぐ、咲子が寂しそうに言った。
「え?そうなんですか?」
 と玲も残念そうな声を出す。菜奈はにっこり笑いながら、
「うふふふ。また明日からは仕事でーす!」
 と明るく言った。
「どのくらい滞在してたんですか?」
 そんな菜奈に、玲は尋ねた。
「三泊四日かなぁ。本当は連休にぶつけて、もうちょっと長く滞在したかったんだけど、やんごとなき用事がありまして…」
「ち、ちなみに、なんかあったんですか?体の不調…」
 琴音がおずおずと尋ねた。
「何も」
 菜奈はあっけらかんとした表情で言った。他のクライアントたちは驚いた顔をして菜奈を見つめる。
「だって、アーユルヴェーダは不調がある人だけじゃなくて、元気な人も、さらに若返るっていうから」
 菜奈は同意を求めるように、沙羅と杏奈の顔を交互に見た。聞き役になるスタンスを取っている二人は、どちらからともなく頷いた。
「今日のシロダーラで、完全に浄化されました!」
 びしっと手を挙げてそう言い切る菜奈を見て、沙羅も杏奈も、笑みを漏らした。ここまで快活にポジティヴな感想を発表してくれるクライアントも、そうそういない。
「お三方は、何かしらお悩みが?」
 菜奈は手のひらを上向きにし、三人の方へ代わる代わる向けた。
 数回食事を一緒にしてようやく、打ち解けて話せるようになってきたのか、
「私は腸の調子が悪いとかダイエットとか、いろいろあるんですけど…」
 玲はもぞもぞと体を動かしつつも、滞在理由を皆に述べた。
「自分の感情に対処する方法を、知りたいなあと思って」
「ほう」
 菜奈の相槌のあとに、
「どんな感情になることが多いんですか?」
 と、咲子が訊いた。
「イライラですかね…」
 玲はパートナーとの関係性で悩んでいることを明かした。
「仕事と育児を両立するのは、大変ですねえ」
 玲の話を聞いて、菜奈は自身には子供がいないにも関わらず、深く共感しているかのように、頷いた。
「こんなことなら、もう少し育休、長く取ればよかったって思いました。まあ、これでも伸ばしたんですけど」
 玲は困ったような笑みを浮かべた。
「夫は仕事が忙しくて…でも私、職場復帰してすぐは、仕事と子育て、家事を担っていることを、どこかで誇りに思っていました」
 そう言った後で、玲は「それは今の時代、普通かもしれないですけど」と慌てて付け足した。他のクライアントたちはかぶりを振る。
「いや、そんなことないですよ」
「一人で三役は大変です」
 杏奈と沙羅はごはんを口に運びながら、みんなの話を傾聴する。
「性格悪いかもしれないんですが…」
 玲は恐縮したように肩をすくめながら、
「友達の中には、妊娠をきっかけに仕事をやめた人も、子供が幼稚園に行く年齢になってゆっくりと職探しをする人もいるんです。そういう友達に対して、心の中でマウントを取っていました」
 自分はたくさんの役割をこなす、スーパーウーマンだと…
「でも、仕事と子育てが拮抗して、どちらも中途半端になって、けじめがつかず、イライラを募らせている時、仕事をせず子育てに専念していたそのママ友たちが、ひどく賢明に思えたんです」
 彼女たちは、子供たちに心地よく遊んでもらうことに注力できるよう、時間にしても、パートナーとの関係性にしても、自分で環境を揃えたのだと。
「なのに、私は…」
 怒涛の朝の支度をし、子供の相手をろくにせず、テレビに子守をさせて、家事を全て終わらせる。毎日同じような服を着て、美容院にも行けず、体重計にも乗らない。
 そのうち、パートナーの行動が目につくようになってきた。自由に仕事をしていること。子供が生まれても、彼の生活は何も変わっていないこと。
「子供に全力を注いでいないことに対する後ろめたさもあって…」
 直に、疲労感が抜けなくなった。
「私、一回流産した時に、軽いうつ病を発症したんですけど…」
 その時のように、気持ちが塞いでいくのを感じて、まずいなと思った。
「自分の身体が悲鳴をあげていることに気が付きました」
 鏡の中に映る自分の顔が、ひどく血行が悪く、寂し気であるのを見て、ようやく。
「そうなんだ…そしたら、旦那さんに、もっと手伝ってって言えばいいんじゃない?旦那さんが忙しいのも分かるけどさ」
 菜奈は、飄々とそう言い放った。
「それとも、旦那さんは育児に参加する気がないのかね?」
「いえ、そんなことはないんです。私が、なんか任せておけないっていうか…」
「なぜ」
「子供って、親が思う通りにならないじゃないですか。それで、時々旦那がわあってなってると、子供にきつく当たるんじゃないかと思って、心配しちゃって」
「きつく当たってるの?」
「そうなる前に、私が面倒見るよって引き離しちゃってるんで、今は…」
「うーん…でもそしたら、旦那さんは子供さんとの接し方を学ぶチャンスが、なくなっちゃうと思うけどなぁ~」
 菜奈は腕を組んだ。
「どうされてましたか?菜奈さんは」
「いや、分かりません」
 玲の問いに、菜奈はまたもやあっけらかんと答えた。
「私、子供いませんから。夫と二人です」
「そうなんですか」
 玲はどうしようという顔で琴音を見た。
「わ、私は独身なんで…」
 残る咲子に、玲は視線を移したが、
「私は今、妊活中なので」
 と言われ、
「すみません」
 なんだかクライアントたちに対してもマウントを取ってしまったように感じ、玲は謝った。謝ってしまうこと自体も、申し訳なく感じたけれど。
「いいんです」
 首を振りながらそう言う咲子に、菜奈は視線を向けて、
「そうだったんだ。うまくいくといいね」
 はっきりとした口調で言った。咲子は少し迷っているようだったが、
「菜奈さんは、旦那さんとの間に子供がほしいと思わなかったんですか?」
 と思い切って尋ねた。
「うん」
 が、菜奈が出した答えは、咲子にとってあまり参考になるものではなかった。
「私ね、ずっとやりたいことをやってたから。出会いも求めず、子供も考えなかったよ」
 なぜか今の旦那とは知り合って結婚したけど…と付け加えた後で、
「全部を得られるなんて思ってないんだ。私は自分のやりたいこと思いっきりやってきたから、それで満足。悔いはない」
 どうしてそこまで明るく言い切れるのだろうか。
 達観したような菜奈の言葉に、杏奈も思わず聞き入った。クライアントの誰かが気を悪くするような会話になったら、介入しようと思って聞いていたのだが…
「自分のやりたいことを思いっきり…」
 咲子は難しい顔になって、視線をプレートの上に落とした。
「でも、その代償が、子供を持てない…って、代償として大きくないですか?」
 なぜそれを、菜奈は許容できたのだろう。そもそも、子供がほしいという意識が希薄だったのか。
「お、おう…でもねぇ…」
 菜奈はちょっと考えるような顔になって、虚空を見つめた。
「うーん…かといって、子供を育てながらは、きっとああいうことはできてなかっただろうからなぁ…」
 腕組をして、菜奈は目を瞑った。在りし日を思い浮かべているようであった。
「ほら、玲さんだって悩んでいるでしょ」
 菜奈は思い出したように、玲を手で示した。
「子供はとてもエネルギーを使うんだから。たぶん、あの時子供を持ちたいって思って、もしできてたとしたら、私はパンクしてたと思う…」
 菜奈は腕をほどいて、再びスプーンに手を伸ばした。
「でもさ、結局は自分が、何を望むかだから」
 明るい語調で、微笑みながら菜奈は言った。
「子供育てながら仕事したいと思うならそれでよし、子供を産むことに専念したいと思うならそれでよし。でも、自分が望んですることには、自分が責任を持たなきゃいけないと思うなぁ」
 菜奈の言葉に、その場にいた者は誰も、すぐには同調できなかった。
 きっと、葛藤に苦しみ、悩み尽くし、ある程度の時間を経てからでないと、こんな風に、他人事のようにそれを言えるようにはならないのだろう。
 菜奈以外のクライアントは、静まり返ってしまった。
「ところで菜奈さん」
 そろそろ、頃合いだった。沙羅と杏奈は、何事もなかったかのような顔をして、菜奈に注目した。
「あかつきのトリートメントは気持ちよかったですか?」
「お料理は口に合いましたか?」
 口々に訊かれて、菜奈はもぐもぐと口を動かしながら、何度も頷いた。
「はい!絶対また来まーす!」

「ごちそうさまでした」
 杏奈はあいた食器をキッチンに運びつつ、小須賀に挨拶をした。
「美津子さんと空楽さんは?食べました?」
「今美津子さんの部屋に持ってったとこ。空楽は食べ終わって、今大鐘さんと洗濯してる」
「そうですか」
 それを聞くと踵を返して出て行こうとする杏奈を、小須賀は呼び止めた。
「今日、夕飯仕込みしてないよ」
「はい。大丈夫です」
「これ片付けたら、帰るからね」
 小須賀はそう宣言して、食器やグラスを洗う。いつも帰り際は、やり残したことがないか、やっておくべきことはないか、さりげなく確認してくれるのだ。
「小須賀さん」
 杏奈は再びキッチンの中に戻り、小須賀の隣に立った。
「明日から、咲子さんに、特に栄養のあるものお願いしますね」
 キッチャリーを食べるのは、今夜まで。今まで浄化を促進する、消化に良いものをメインで出してきたが、これからは積極的に栄養のある食品を摂ってもらう。
 現代栄養学の観点から言えば、妊活中に摂りたい栄養素としては、次のようなものが挙がる。 
 ・たんぱく質(肉、魚、卵、大豆製品など)
 ・葉酸(ほうれん草、ブロッコリー、アボカド、枝豆など)
 ・鉄分(レバー、納豆、ひじき、パセリなど)
 ・亜鉛(レバー、牡蠣、うなぎ、まいたけ、ごまなど)
 ・ビタミンA、C、E(かぼちゃ、ピーマン、パプリカ、ブロッコリーなど)
 特に、妊娠1ヶ月前~妊娠3ヶ月までは葉酸を積極的に摂ることが推奨されている。もちろん、これらは妊活・妊娠中に限って必要なものではない。つまり、日ごろから様々な栄養素をまんべんなく摂っている人にとっては、妊活中も、同じような食生活を送っていれば良いということになる。
「ここにアーユルヴェーダが勧める食品も書いていたので、できるだけ献立に含めていただければと…」
 杏奈は棚まで歩いて、A4サイズのカードケースを取り、小須賀の前にかざしてみせた。中には裏表に印刷された紙が一枚挟まっている。現代栄養学およびアーユルヴェーダの観点から、妊活のための食事に必要なことが、そこに書かれているのであった。献立の細かい部分は、小須賀が考えている。
 小須賀は鬱陶しそうな目をして、それを眺めた。
 アーユルヴェーダでは、プラーナを多く含む食品が、女性ホルモンを活性化し、栄養を与え、性の健康をサポートすると考えられている。
 プラーナを多く含む食品とは、たとえば、全粒穀物、緑豆、ギー、牛乳、ヨ-グルト、ナッツ、新鮮な果物や野菜などだ。
 小須賀はきゅっと蛇口をひねった。まだ洗い物が終わってないのにおかしいなと思いながら、杏奈はケースを調理台の上に置いた。
 小須賀はため息交じりに、
「あのさぁ」
 と言って、杏奈に向き直った。
「一生懸命になるのは分かるんだけど。今更食事の細かいところを気を付けたって、咲子さんの問題がどうにかなるわけじゃないっしょ」
 穏やかに諭すような口調であった。
「…」
 自分がやっていることに有用性はないと、否定されたようなものだ。杏奈は目を見開いた。反対に、口は硬く結んだまま。
 小須賀は、沈黙してしまった杏奈を見て、鼻から大きく息を吐いた。
「もう、おれたちの頑張りでコントロールできる範囲を超えてるんだよ」
 タオルで手を拭いながら、
「その段階まで来たらさ、真面目なことばっかりやってても、だめなんだって」
 そのタオルをサロンにひっかけると、小須賀は片手を腰に当てて、もう片方の手を流し台に置いた。
「男のほうはどうしたんだよ。旦那のほうは」
「大樹さんなら、最後の土日に、来られますけど…」
 咲子と一緒に、一泊だけ滞在する予定になっている。
「それは分かってるんだけど。そうじゃなくて、妊活は夫婦二人でするもんだって言ってんの」
 小須賀はちょっと目線を杏奈から逸らしたが、
「楽しくね」
 と強調した時には、再び杏奈を正面から見た。
「旦那さんとの関係。ここをちゃんと、突っ込むべきなんじゃないの?二人は楽しく、幸せに行為ができる仲なの?」
 杏奈は小須賀から目を逸らした。こんな誰が入って来るか分からないところで、小須賀とそのような話をするのは気が引けた。
「そこのところに満足感があれば、結果子供ができようができまいが、夫婦二人で仲良くやっていけると、おれは思うよ」
 小須賀は杏奈の隣まで歩み寄って、調理台に腰を落ち着けた。
「妊活ってさ、子供を授かるだけがゴールじゃないでしょ。どんな結果でも、パートナーの手を放さないって、それを覚悟するためでもあるでしょ」
─パートナーの手を…
 杏奈の脳内には、小須賀の言葉が反芻した。
 新しいようで、美津子との議論の中で何度か出て来た観点であるようにも思えた。しかし、杏奈はゴールを「受胎」に置きすぎて、しばしばそれを忘れそうになる。
「妊活は二人で楽しまないと。その先の人生も楽しめないよ」
「…小菅さんは、どうすればいいと思いますか?」
 大樹ともコンサルをし、健康管理を一緒にしろと言えばよかったというのだろうか。
 大樹との仲を深めるようなノウハウを、咲子に伝えればよいのだろうか。
 大樹に直接、アプローチをかけるべきなのか。
 何にせよ、大樹が意識的でなければ、積極的でなければ、無理やり参加させても効果はないと思う。
「ううーん」
 小須賀は唸った。
「まあやっぱり、お互いを子作りの道具とみなすんじゃなく、男と女として見て、その時にちゃんと燃えられるかってとこじゃないの」
 杏奈は項垂れた。
 アーユルヴェーダでも、子供を生み出すのは、子供がほしいという気持ちではなく、性を求める気持ちだと言っている。小須賀の言うことは外れてはいない。
─咲子さんを綺麗にして帰す。
 今回の咲子の滞在の、あかつき側の目標もまた、幸せな性行為につなげることを意図したもの。
 が、やっぱり小須賀とこういう議論をするのは、小恥ずかしい気持ちがする。しかし、咲子には、どうしても願いを叶えてほしかった。ここで躊躇っていても仕方がない。
「小須賀さんに、妙案があれば、ぜひ伝授していただきたいです」
 途方に暮れたように、力なくつぶやく杏奈を、小須賀は横目で眺めた。
 誰かを美しく生まれ変わらせ、生命力を鼓舞するために、アーユルヴェーダがまったく役に立たないとは、小須賀は思っていない。
─現に…
 この一年半の間で、杏奈は、大分人間らしくなった。かつては、ぼうっとした、やる気のない、生気のない顔つきで、何を考えているのかさっぱり分からなかった。何も考えていないようにも見えた。
 けれど今は、意欲が生まれ、熱意が生まれ、声にはならない「気」を感じる。それが、他の人に影響を及ぼすまでになった。でなければ、羽沼はこんなにあかつきと関わらなかっただろうし、空楽にしても、あかつきで働こうと思わなかったに違いない。
 コミュニケーションがうまくないのは変わらないが、そこそこ改善し、口数も増えている。少なくとも、ほんの少しいじっただけで、もう関わりたくないと壁を作り、内側に閉じこもることはなくなった。
 小須賀はちらりと横目で杏奈の手を見た。セラピストとしても役に立ちたいと言うから、美津子と二人してひそかに守ってきた手だ。
─白い…
 視線を首にうつす。常日頃アップスタイルが多い杏奈の首筋は見慣れていたが、以前は特に何も思わなかった。けれど、今はそのうなじの白さがやけに目につく。
─お、つまり…
 人間らしくなっただけでなく、小須賀が女として認識できるようになるくらいには、女性としての輝きが増したということだ。
─今なら、口説けそー。すげーじゃん。アーユルヴェーダ。
 小須賀の基準は、最終的にはそれであった。アーユルヴェーダによるものなのかは不明だが、自分がそう思ったということは、杏奈は確かに変わったということだ。小須賀は内心、少し調子に乗ってきた。
「…ん、なんですか?」
 杏奈は妙に、視線を感じて、おずおずと尋ねた。小須賀は今や、邪な目線を露骨にうなじに向けながら、
「…うん?なんの話だっけ」
「く…お二人の仲を近づける妙案があるなら、教えてほしいって言ってるんですけど」
「どうやって、教えてほしい?」
 小須賀は、いつもより低いところで束ねられている杏奈の髪の毛を絡め取り、少しくねらせながら、すうっと下まで引いた。
「…」
 杏奈は小須賀を直視しないまま、調理台からすっと腰を離し、静かに、しかし彼女なりに猛スピードで、キッチンの端まで移動した。
─あ、しまった。
 無意識に、手が出てしまった。
「冗談だよ」
 小須賀は努めて何でもない風に装った。
 杏奈は顔を正面に向けたまま、恨めしそうな、非難するような、冷たい視線を小須賀に向けている。
─あ、まずい。
 確実に怒っている。小須賀は内心焦った。
「分かった、分かった。じゃあ旦那くんのほうはこっちに任せなって」
 驚くべきことに、ピンチになると、小須賀という男は平常時にも増してぺらぺらと言葉が出るのであった。
「お互いのことを分かり切った夫婦が、もう一度情熱的になるまでの過程って、おれにはよく分かんないんだけどさ」
 誰かと夫婦関係になったことがないのだから、無理もない。
「どっちかっていうと、全てを分かりたくないって思ってるからね。少しくらいミステリアスなところがあったほうが、燃えるっしょ」
「…」
「つまりそういう意味でいうと、今まで知らなかったお互いの一面を見させられるような手を打てばいいってことかも…天才だな、おれ」
「分かりました。じゃあお任せします」
「うん。でさ、うまくいったら、その時はどうする?」
「は?」
「どんなこと伝授したか、教えてあげようか?」
「いいです」
 いつになく声を尖らせて、杏奈はすたすたとキッチンを出て行った。
「は…」
 小須賀はしばし呆然としていたが、ふう~とため息をついて、髪の毛をかきむしった。
─やれやれ…

「ふぅ…」
「どうしたんですか?杏奈さん。ため息多いですよ」
 午後、施術の担当になっていない杏奈と空楽は、あかつきの畑に手を入れていた。
「はぁ…なんでもないです」
「?」
─面倒くさいなぁ。
 と、杏奈は思った。
 杏奈は口説かれ慣れていない。小須賀のさっきのあれは、冗談だと分かっているが、ちょっとした接触や言葉で、心が動揺してしまうのは面倒臭かった。
─今後は、あんな真似をしてきませんように。
 それは置いておいて…
 小須賀からの指摘は、あながち間違っているとも思えない。
─楽しいほうがいいじゃん。
 小須賀は、常日頃からそう言っている。
 楽しめと。
 なぜ楽しむことに貪欲じゃないのか、と。
 杏奈にはないものを、小須賀はもっている。
 そして、もしかしたら、今の咲子と大樹に必要なのは、小須賀が重視する側面なのではないかとも、思うのだった。
「う~ん…」
「杏奈さーん」
「はぁ…」
「あっ!虫!」
「ひゃっ!」
 即座に立ち上がり、今いる場所から身を引く杏奈を見て、
─こんなのに引っかかる?
 と、空楽は呆れてしまう。
 心ここにあらず、という状態になっていた自分を、現実に引き戻すための策略だったと知って、杏奈は反省しつつも安心した。
 そして、キッチンで小須賀と議論したことを、空楽に伝えた。もちろん、小須賀にちょっかいを出されたことは、言わなかったが。
「幸せな性行為って…そんなところまで、おせっかいを焼くんですか」
 声には出ていなくても、空楽が「引くわ」と思っているのが、杏奈には伝わってきた。
「おせっかいを焼けないから、どうしようという話だったんですけどね…」
 が、この件は小須賀に丸投げてしまった。
「だいたい、お二人は仲がいいかもしれないじゃないですか」
「だといいんですけどね。健全な性交渉には、欲望と興奮が不可欠ですから」
 真昼間から、外で、そんなことを至極真面目に言い放つ杏奈を、空楽は完全に変わり者を見る目で見た。
「アーユルヴェーダでは、妊娠するためだけに性行為をするのは、良くないって言われるくらいだから」
 興奮してないのに性行為をすれば、痛みが伴う。潤滑剤を入れるのは、心は子供のために性交渉をしたがっていても、体はそうではないという事実を覆い隠すだけだ。そんな時に行為をしたら、組織を傷つけてしまう危険性すらある。
 もし、肉体的な欲求を感じていないのに、心が赤ちゃんが欲しいと言っているのであれば、心と体の間に明らかな断絶があり、それに対処する必要がある。
「自然妊娠を目指す場合、体の欲求が心の欲求に勝ってるってことも、必要なのかも…」
「はぁ」
 空楽はそう相槌を返すのがやっとだった。
「自然に妊娠したいのであれば、体がその計画に賛同していなきゃなんですよね…」
 他のことに気を取られている時にセックスをするのは、病気の原因の一つ─カラ・パリナマ(自然のサイクルに調和していない)─である。
「やっぱり、不妊治療を長年してると、夫婦関係、ぎくしゃくしちゃうんすかね~」
「二月に会った時には、夫婦仲が悪いように見えませんでしたし、今回のコンサル以降も、夫婦仲のことはあまり問題に挙がりませんでした。実際にはどうか分かりませんけど」
「杏奈さんのキャラ的に、そういうことは聞きにくいかもしれませんけど…」
 空楽は淡々とした口調だったが、いきなり語調を変えて、
「どう?そっちのほうは。最近うまくいってる?って、聞いてみたらどうですか?」
「はぁ…」
「小須賀さんの真似をすればいいんですよ」
「しません」
 杏奈はぞくっとして、軍手を脱ぐと、一つ結びにした髪の毛をすいた。無意識だった。

 その頃一階の施術室では、沙羅が玲にオイルを塗布していた。全身に塗り終わったら、ピンダ・スウェダをする。
「本当にだめですね、私」
 仰向けになっている玲が、つぶやくように言った。
「はい?」
 他の二人は二階で施術を受けていて、この部屋には玲一人。話を切り出しやすい環境だ。
「私、咲子さんの気持ちを考えず、あんなこと…」
 玲は、昼食時の会話を思い出していたらしかった。
「すみません。みなさまの滞在目的を、こっちとしても、事前にお伝えしていなかったので」
「いえ、できませんよね。それは…」
 滞在目的は、繊細な理由を含む。話の流れでクライアント同士が明かすまで、あかつきが積極的に開示しないのも無理はないだろう。
「咲子さん、私と一緒の部屋で、嫌じゃないでしょうか?」
「きっと大丈夫ですよ…」
 と言いながら、沙羅はちょっとまずいなと思った。相部屋になったクライアント同士でトラブルが起こらないよう、それとなく咲子の様子も伺ってみるか。
「菜奈さんのおっしゃってることも、もっともで」
 玲はずい分自省的になっている。
「考えてみれば、夫が子供にきつく接していると思うこと以上に、自分が子供にきつく接してると思うことも多いんです」
「それは、お母さんの方が接している時間が長いですから」
 沙羅は励ますように言った。
「私の子供への態度を傍から見られてたら、旦那だって、私には任せておけないと思うかもしれません」
 時々、厳しくものを言ったり、苛立つあまり物を投げてしまったりすることすらある。
「それは、私にも身に覚えがあります…」
 あはは、と笑いながら、沙羅は白状した。
「けれど、おうちの中で子供のことを気にかけ、旦那さんの様子も伺い、仕事もして忙しいっていう状況だと…便秘も疲労感も良くならないかもしれないですよね」
 常に交感神経が優位になった状態になってしまう。
「緊張しっぱなしってことですもの」
「確かに」
「家を、安心できるところにしていきたいですよね。両親とも、安心しているということが、子供にとっても、とても大事だと思うんです」
「…」
 玲は、自信がなさそうな、切なげな表情をした。プレッシャーをかけてしまっただろうか、と沙羅は動揺した。
「…夫も、安心してないんでしょうか。私と一緒にいて…」
 疑問をなげかけられ、沙羅はオイルを手に取りながら、
─まあ、玲さんが感じているようなことは、相手も感じているだろうなぁ…
 玲ほど明確に、頻繁にではないにしろ…そう思いはしたが、さすがに思ったことをそのままは言えず、沙羅はしばし沈黙した。
 ボールを温かいものに変え、まずは手で体に触れる。それから少しずつ、ボールをポンポンさせる。
「…怖いかもしれませんが、訊けるのであれば、訊いてみるのもいいかもしれませんね。旦那さんが何に対し、どんな感情を抱いているのか」
 沙羅が話の続きを始めると、もぞもぞ、と玲は動いた。夫とのコミュニケーションを困難に感じているに違いない。
「私も、夫とよく喧嘩するんです」
 沙羅は、自分のことを話した。
「そういう時、私は結構感情的になって、自分のことをいろいろ喋っちゃうんですけど、夫がそうなるのは本当に稀で」
 男性の中には、自分の感情を表現することが苦手な人もいる。
「私、ある時、夫の心の中で何が起こっているのか、彼が教えてくれない限り、知ることができないって気づいたんです」
 他人の行動を説明しようと思っても、限られた情報に基づいてしか説明できない。パートナーの心の状態を知るためには、それを教えてもらうことが必要なのだ。
「他人の心の中を推測することはできません」
 心は予測不可能だ。
「自分をその人の立場にあると考えて、その立場で自分がどう感じるかをもとに、その人の心の中を推測することはできます」
 沙羅は玲の肩関節のあたりにボールを当て、じわっと熱を浸透させていく。
「でも、その人が本当はどう考え、感じているのかを理解することはできません」
 教えてもらわない限り。
 玲は、心細そうに吐息した。
「話を聞こうとしても、真摯に向き合ってくれなかったらと思うと、それが恐い…」
 ボールを肩先から、肩の外側を通って、肘のほうにゆっくりと滑らせる。肘関節に、またじんわりとボールを押し当てる。
─今まで話をしようとしたのに、聞いてもらえなかったか、話した後ですごく嫌な気持ちになったことがあるんだろうな…
 相手に同じことをした時、また同じ反応をするとは限らない。しかし、その過去の情報がある限り、玲は彼や自分の反応を色眼鏡を通して予測してしまうだろう。ある人を見る時、心の中にあるもの─記憶、信念、期待、記憶、人生の経験─を混ぜて見てしまいがちだ。この、影響を受けた心で人や物事を見ていると、間違った判断をしかねない。
「けれど、この先も旦那さんと一緒に生きていくつもりであれば、いつかは話合いをすることが、必要になりますよね…」
─結局は自分が、何を望むかだから。
 菜奈が言っていたことは、本当にその通りだなと沙羅は思う。
 もし、夫と一緒に生きていきたいのならば─それが愛情ゆえであれ、子供のためであれ─夫と良い関係性を構築する努力をするべきだ。もし、夫と一緒に生きていくつもりがないのなら、パートナーとの関係性の修復ではなく、他にやるべきことがあるだろう。どちらを選んだとしても、その結果は自分に降りかかってくる。責任を取るのは自分自身なのだ。
 だからこそ、色眼鏡をかけることなく、クリアな心で、最良の判断をしてもらいたい。
 沙羅はその施術後のカウンセリングで、「見る練習」の方法を、玲に伝えた。

 鞍馬はダイニングで、父と義兄・芳紀との夕食を終えたところだった。
「はぁ…」
 スマホで調べものをしながら、ため息をつく。
「浮かない顔をしてるね」
 芳紀が鞍馬に声をかけた。彼はまだ、おかずをつまんでいる。
「うん。お義兄さん、まだ姉ちゃんと子供作らないの?」
「ぶっ」
 と、お茶を吐いたのは、芳紀ではなく父だった。
「…ななな、なにかな、急に」
 芳紀は飛んできたしぶきをティッシュでぬぐいながら、愛想笑いを浮かべた。
「姉ちゃんももう若くないじゃん」
「いや、世間一般からすれば、全然まだ子供がいなくたって不思議じゃないよ…」
 鞍馬の姉・希歩は二十七歳。もはや、この年で子供がいなくても、どうこう言われるような時代ではない。
「それに今は、仕事、楽しそうだしさ」
「ほしいと思ったらすぐにできるわけじゃないから、早めに試しといたほうがいいよ」
「グフッ!」
 今度は変なところにお茶が入っていったらしく、父はむせた。
「ちょっと、あんたたち」
 希歩が、どんどんと足音を立てて、ダイニングに入って来た。若女将らしく着物姿だった。
「いつまでもゆっくり食べてないで、こっちの仕事代わってよ!」
「は、はーい」
 芳紀はしおらしく返事をした。完全に尻に敷かれている。
「あ~、行くかね」
 父はそう言ったものの、なかなか椅子から立ち上がろうとしなかった。
 紅葉シーズン。湯の花温泉は繁忙期のピークに入っている。
「女性陣は、よく働きますね」
 家族は交代で夕ご飯を食べるが、男性陣のほうがいつもゆっくりしていた。
「うちの家系は、女のほうが働き者だからね」
「ああ、そうですね」
「そうですねって、お義兄さんは、関係ないっしょ。直系じゃないんだから」
「ゴホッ」
 また、父がお茶をふくんでむせた。
「お前…またそういう、繊細な話を…」
 ぬけぬけとした長男の発言に、父は冷や汗をかいた。
 その日の夜遅く、鞍馬は部屋で、昔読んでいたヨガの教科書を手当たり次第に開いた。
 今日のヨガは、クライアントが他事を考えず、ポーズに集中するよう、動きを多くした。咄嗟の判断でそうしたのだが、それが「空を生む」ために効果的だったのか、自信がない…
─どんなヨガをすれば…
 明日も三人のクライアントに対し、レッスンを行う。鞍馬が念頭に置いているのは、その中の一人。
─生まれてきただけで…そのままで、素晴らしい存在なんですよ…!
 そう言った時の咲子の顔が、鮮明なイメージとなって鞍馬の脳裏に蘇る。
 あの時は、身長は低くても完全な姿で生まれてきたことに感謝すべきだと説教されたかのように感じ、腹を立ててしまった。何にも知らないくせにと。
 けれど、今は咲子の一連の言葉に対し、不思議な感慨を抱いていた。幼い頃、母から何かを褒められた時に抱いたような。
─温かくて、優しい…。
 鞍馬は妊活という観点から、ヨガを見たことがなかった。
 今までの教科書の中から、自分が見逃してしまっていた部分を抜き取ろうとした。
『ヨガは受胎力を直接改善するものではありませんが、間接的に役に立ちます』
『ヨガを日常生活に組み込むことは、生殖能力と心身の健康を促進する可能性があります』
『まだヨガをしたことがない場合は、妊娠する前に習慣化しておくことがベストです。なぜなら、妊娠初期は適切なサポートなしにヨガを実践することは難しい上、つわりなどの体調不良に悩まされる可能性もあり、初めての習慣を取り入れる余裕はありません』
 生殖能力向上に、ヨガが役立つという説があることは、分かった。ストレスと不安の軽減、リラクゼーション、ホルモンバランスの調整、血流改善、心と体の繋がりの強化…ヨガのこうした側面が、妊活に向くというようなことは。
 しかし、そういった知識は、明日のレッスンの内容をブラッシュアップするために、直接役立ってはくれない。
 どのポーズでも、何かしらのストレス改善効果やリラクゼーション効果はある。だが、だからといって適当に組み合わせていいものでもないだろう。
 キープ時間は、スピードは、声掛けは、どのようにしたら効果的か。
 咲子をもう少し観察していれば、何か見えたかもしれない。どういうヨガが必要なのか。
─分からない。
 鞍馬は、その時その時で、生徒の身体の特徴や弱点を、瞬時に見抜く才能を持っていた。それらを調整するために、体のことに集中してもらうだけでいいのだろうか。
 例えば沙羅なら、どういうヨガをするのだろう。彼女は二人の子をもうけている。妊活として、ヨガを利用したことがあるのだろうか。その時、どういった側面に焦点を当てたのだろうか。
 鞍馬はあかつきのメールを開き、クラウド上の共有フォルダを開き、咲子の情報を見た。
─九年…
 妊活歴は、九年とあった。
 クライアント情報を、今の今まで、鞍馬は真剣に把握しようとしていなかった。
 明日レッスンに参加する、他のクライアントたちの情報も眺めてみる。
 ジムに来ている生徒たちの、細かな背景は、鞍馬は知らない。しかしあかつきに来ているクライアントたちの背景は、こうして開示され、把握した上で対応することを求められている。なぜなら、あかつきは一人ひとりの体質を知った上で、それに合わせたアプローチをするアーユルヴェーダ施設だから。それに見合ったお金を、もらっているから。
─そのあかつきでヨガを教えているのに…
 ジムでヨガを教えるのとほとんど変わらない準備しか、今までしてこなかった。美津子や杏奈から、課題を課されない限り…
 鞍馬は唇を噛んだ。
 性格、抱きやすい感情、痛みがある部分、現在感じている体の不調…
 三人の健康に関する質問票に、今一度目を通す。
 鞍馬の直感が、本を見るよりは、質問票を見ろと言っていた。

 

 


 

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