第102話「刻まれた記憶」アーユルヴェーダ小説HEALERS

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 咲子と大樹が帰った後、昼下がりに呼び鈴が鳴って、美津子が出ると、大鐘がにこにこ顔で立っていた。
「大鐘さん…」
 今日は清掃を依頼していない日だが。
「やり残したと思ったことがあってね」
 大鐘はそう言うと、雑談もほどほどに、掃除道具を持って二階へ上がっていった。
 明日から三日間は、クライアントの来訪はない。あかつきにとって久しぶりの休業日となる。掃除などは、その間にゆっくりやればよかったのだが…
「杏奈、手伝おうか?」
 キッチンに入ると、美津子はそう声をかけた。昼食の片付けをしているはずの杏奈は、手を止めてスマホを見ていた。
「大丈夫です。ゆっくり片付けます」
 力のない声だった。
─燃え尽きてしまうかもしれない。
 中盤戦の十日の間、杏奈は気を詰めていた。中休みの間、できなかった片付けを杏奈にさせることを思えば、大鐘が少しでも作業を手伝ってくれることはありがたい。
「杏奈」
 もう一度名前を呼ばれて、杏奈は先ほどよりは釈然とした表情で、美津子を振り返った。
「咲子さんの生理周期について、分かっている情報を教えてくれない?」
 必要に応じて、追加のヒアリングが必要だ。二人は応接間に移動して話し合った。
「次の予定日は二十四日です」
「二十四日…」
 うかうかしていると、次の月はあっという間にやって来る。
─今日は日曜、か。
 順正に連絡を取るなら、早い方がいい。美津子は席を立った。
 杏奈が再びキッチンに戻ってほどなく。
「あれ?まだ片付けやってんの?」
 ストリングカーテンをくぐって現れたのは、小須賀と羽沼だった。二人は大樹と話をした後、空楽がバイトをする和食居酒屋・彩でランチをしてきたらしい。
─妊活は二人で楽しまないと。その先の人生も楽しめないよ。
 先日、小須賀は杏奈に、二人が楽しめるような提言をすることの重要性を説いた。
─男と女として見て、その時にちゃんと燃えられるか。
 小須賀は、旦那のほうはこっちに任せろと、あの時言っていた。今日、何らかのアプローチを、大樹にしてくれたはずだが。
「手伝うよ」
 まだ散らかっているキッチンを見渡して、袖をたくし上げながら、羽沼が言った。
「ありがとうございます…」
 素直に助かった。たった四人分の昼食の片付け。それすら、今の杏奈にはひどく億劫に思える…
 小須賀はため息を吐きながらも、シンクの中で水を張られたまま、ほったらかしにされている鍋やフライパンに手を付けた。
「あのう、小須賀さん」
 じゃあじゃあと水を出して洗い物を始めた小須賀に、後ろから杏奈は声をかけた。
「今日、大樹さんにどんな…」
「え?」
 小須賀は顔だけを後ろに向ける。杏奈の声は水の流れる音でかき消されてしまうほど小さかった。
「そういえば、行った?飲み会」
 小須賀に質問をしたのだが、小須賀から別の質問が返ってきた。
「はい、行きましたよ」
 先日、杏奈と空楽は足込町の青年町おこし協力隊の飲み会に参加した(空楽は上沢市民なのだが、そのあたりの区別はおおざっぱなのだ)。あかつき大作戦中盤もピークを迎える頃で、それもあって、杏奈は今こんなにくたびれているのだ。
「あ、参加したんだ」
 羽沼が口を挟む。実は羽沼も青年町おこし協力隊に参加するよう方々から勧められており、誘いがあったのだが、あかつきとは別の仕事の案件で納期が迫っており、参加できなかった。
「はい。美津子さんから、足込町ではご近所づきあいが大切だから、そろそろ顔を認知されたほうがいいって…」
「まあ、ド田舎だかんね」
 小須賀は手を動かしながら、自嘲気味に笑った。
「あかつきはそれこそ、十何年も前から、足込町では珍しい町外から人を呼べるスポットだし、地元の人の覚えもめでたいもんだけど、感染症の頃からあまりちやほやしてもらえなくなったからな。ここらで、あかつき再興してますって、地元のキーマンたちにも知ってもらうのは大切だよ」
 小須賀は珍しくまともなことを言っている。
「そうですねぇ」
 もちろん杏奈も、近所づきあいをするのが大事だということは分かってきている。
「で、どうだった?」
「どうだったって…」
 ざっくりした質問だ。杏奈はその日の夜のことを思い出した。ゲストハウスを営んでいる隊員の家に十人近くが集まり、夕食を共にした。最初は男女別で固まって喋っていたのだが、だんだんと混ぜこぜになり、特に実のない話をしていた。やけにみんな酒を飲んでいた記憶がある。杏奈も空楽も酒は飲まなかったが、空楽は途中から普通に隊員との会話を楽しんでいた気がする。杏奈は大勢の、しかもあまり知らない人の輪に入ってコミュニケーションを取るのが苦手であるから、最後まで面倒見の良さそうな女性隊員の傍で、当たり障りのない会話をしていた。杏奈と空楽は翌日からの業務に備え、二十一時頃には切り上げたが、他の多くのメンツは恐らく深夜まで飲んでいたことだろう。
 当時の状況をざっくりと説明をしたものの、面白くもなんともない報告になってしまった。
「んー、つまんなそうだね」
「意外と歳が離れた人が多くて」
「青年協力隊なのに?」
「二十代の子もいるけど、主要メンバーは三十代後半から五十代じゃなかったかなぁ」
 横から羽沼が助け舟を出した。
「おいどこが若手なんだよ」
 小須賀は体を揺らしながら、軽く突っ込みを入れる。
「まあでも、出会いがなくはなさそうじゃん」
「出会いですか…」
 実は、町おこし協力隊の集まりに呼ばれるようになってから、杏奈も良き出会いを期待しないわけではなかった。
「うん。いい人いなかったの?三十代後半とかなら、まだ狙えんじゃん」
「狙う…」
「こないだ、野郷の米作りの人が、杏奈を気に入ってそうだって空楽が言ってたよ」
「野郷の米作り…ああ、私より二年くらい前に足込町に移住してきたっていう方ですね…えでも気に入ったとかそういうことはないと思いますよ」
 空楽は何を見てそんなことを言ったのだろうか。そもそもあまり交流したことがないのだが。
「飲み会で話さなかった?」
「飲み会で話さなかった…ですね。こないだは来てませんでしたよ」
「二人でドライブでも行ったら」
「ドライブ…」
 杏奈は疲れているので、いつも以上に雑談に対して頭が回らず、どうしても小須賀の言葉の一部をオウム返しするだけになってしまう。
「いや、全然そんな中では…」
「もっとがつがつ行ったら。人の妊活応援してる間にお前が見逃すぜ。いろいろと」
 それはあまりにもぐさっと杏奈の心に突き刺さる事実だった。ぼんやりしていた杏奈は、ようやく我に帰ってきた。
「…いやでも、ドライブとかは」
「贅沢言うなよ。ドライブ以外に足込町じゃすることなくね?」
「…というか、特に用もないのに乗り合わせてたりするのを見られると、足込町じゃすぐ噂になっちゃうような話もしていたので…」
「ならないって。そういうのは人によるの」
 小須賀は小ばかにするような顔で杏奈を振り返った。
「杏奈が足込町の男の車に乗ってたって、誰も構やしないよ。瑠璃子さんとかなら別だけど」
「…ぅ」
 羽沼は、危うく声を出しそうになったが、なんとか抑えた。杏奈が言ったことは本当なのだろうか?確かに、住民数が少ない足込町では、そういった噂が立ったら速やかに大勢の人の耳に入りそうだ。そして、羽沼は先日、瑠璃子とドライブをしたし、なんなら二人っきりで夜道を歩いている。通りがかった車がどのくらいあったか、羽沼は記憶を巻き戻した。
「あの」
 杏奈は声を少し張り上げる。いつものことながら、すっかり小須賀のトークに巻き込まれてしまったが、今はそんな話をしたかったのではない。
「質問に戻りたいんですけど、大樹さんになんと言って、その…モチベーションを上げるような話合いを、したんですか?」
 二人の方を、羽沼は苦い表情をしてちらっと見た。
 小須賀はきゅっと蛇口を閉め、再びため息を吐く。面倒くさいからはぐらかそうとしたのだが、どうもそうはいかないようだ。棚からリュックを持ってきて、一冊の本を取り出すと、
「ほい」
 と杏奈に渡した。
「…うん?」
 杏奈はその本の表紙を見るや否や、片手で口を押え、硬直する。「まさか」という顔だ。
─あー、まあ、そうなるよね。
 杏奈の表情を横目で見ながら、羽沼は言うべき言葉が見つからなかった。
「…なんですか?これ」
 どう見ても、性行為のハウツー本にしか見えないのだが。
「真面目にやりすぎるんだよ、杏奈は」
「え?」
 杏奈は狼狽した。なんのことだ。
「クライアントの妊活を実らせたいなら、クライアントの旦那にこういう本を送りつけるくらいの気概を持ちな」
 小須賀から渡された本と小須賀とを、交互に見ながら、杏奈は「え?え?」といよいよ動揺する。
「あの…もしかして、この本を一緒に読んでたんですか?」
 まさかの表情で尋ねる杏奈に、小須賀はにべもなく頷いた。
「…え~」
 杏奈は力が抜けたように調理台にもたれかかった。
「大丈夫だったんですか?大樹さん、不快な思いをされたんじゃ」
「ほんと失礼なやつだな」
 小須賀は杏奈から本をひったくるようにして取り、その表紙を杏奈の目の前にかざした。
「こういう知識を忌み嫌うもののように言わんといて」
 傍から見る羽沼の目には、小須賀が今やっていることはセクハラに思えたが、本人は真面目な表情をしているので、口を挟めない。
「カマトトぶってんじゃないよ」
 小須賀の叱咤は続く。
「…何が書いてあるんですか?」
 確かに、内容を知らないまま不適切と言うのは間違っている。
「まあ読んでみなって」
 杏奈は本を受け取って、ぺらぺらとめくった。目次や表題に目を通したところ、この本のテーマは、いかに男女お互いが性行為から「満足感」を得るか、ということらしい。卑猥な写真などは一切載っていないが、絵で具体的なことを示した箇所がいくつもある。
「…猥談してたんじゃないですよね」
「はあ?猥談?」
 杏奈が声をひそめた甲斐もなく、小須賀は普通のボリュームを出した。
「ふざけんで。こっちは大真面目だったんだから」
 さらなる説明を求める、と言わんばかりに、杏奈の視線がこちらを向くのを感じて、羽沼は苦笑いした。
「…まあ、杏奈さんが心配するほどのことは、起こってないと思うよ」

『出産を考えている高齢の女性の多くは、子供に先天性異常があるのではないかと心配するよ』
 一通り、美津子からの問いに答えた後で、順正はそう言った。
『でもおれは、自分の健康や回復力についても考えるべきだと思う』
 美津子はノートの上にペンを置き、順正の言葉に耳を澄ませた。
『高齢で出産する女性は、子癇前症、妊娠糖尿病、前置胎盤(胎盤の一部が子宮頸管の上で成長する)、前置血管(赤ちゃんの異常血管が子宮頸管をふさぐ)、帝王切開のリスクが高くなる』
 他にも、低出生早産や、出生時の赤ちゃんの基本的な身体的・生理的健康状態を示すアプガースコアが低くなるなどのリスクが高い。
 不妊治療が長くなり、年齢が高くなったら、治療の継続を考える一つの基準として、出産に関わるリスクを見ることが大切だ。
 確かに、高齢でも不妊治療に成功する女性はいる。しかし、順正は長く不妊治療を続けることが良いとは、思っていない。
─自然界には、女性の妊娠可能期間を短くするまっとうな理由がある。
 子供が健全かどうかも重要だが、年齢を重ねるごとに、身体は変化や外傷に耐えられなくなる。出産は、女性の身体にとって究極の変化だ。
「…ありがとう。助かったわ」
 美津子はそう言って、電話を切った。
 タイミングを取る時期についての意見をもらい、大樹への回答はひとまずできそうだ。しかし、順正のいうとおり、高齢出産にはリスクが付きまとう。仮に受胎にこぎつけたとしても、それがゴールではない。気を長くして取り組んでもらう必要がある。
 部屋の外がざわめいているのに気付いて、美津子は居室を出た。玄関をふと見ると、存外に靴が増えている。
「すごい慌てぶりだったんだから。見てこれ、まだ蹴られたところ青あざになってんだよ?」
「あはー、痛そうねぇ」
 書斎を覗くと、ソファに小須賀、羽沼、大鐘、鞍馬が座っていた。お誕生日席にあたる位置で、居間から持って来た椅子に座っているのは空楽。
「あんな人目につくところで、ああいう話をし出したお前が悪い」
 小須賀と羽沼は、ソファに並んでだらんと座りながら、文句を言い合っている。
「外で話すつもりなんかなかったって。お前が外で話そうって言ったんだろ」
「で、通りすがった人が、偶然瑠璃子さんだったってわけですか?」
 詰るように、空楽が訊いた。
「そんな偶然通りますか?なんか約束してたんじゃないです?」
「してないよ」
「あやしい…」
「はーあ。相変わらず実がないなぁ。ここにいる人たちの会話は…」
 小須賀と羽沼に負けないくらい、だらんとした格好でくつろぎながら、鞍馬が憎まれ口を叩く。
「はあ?」
 小須賀は唸るような声を出した。
「じゃあお前はどんな実のある会話をしに来たんだよ」
 鞍馬ははあ~とため息をついて、
「仕事がひと段落したんで、気晴らしに来ただけです」
 そう言いながら窓の外を見て、
「僕って、働き者だなぁ…」
 小須賀はふんと鼻を鳴らし、
「働いてばっかでどうすんの。お前も若いんだから、女の子の一人や二人と付き合え」
「一人や二人ってー」
 空楽は男性陣ほどだらんとはしていなかったが、椅子の背に背中を預け、かったるそうな声を出す。
「若いっていいわねー」
 と、大鐘。
「はあ、心配してくださってありがとうございます、先輩」
 鞍馬は小須賀に、不敵な笑みを浮かべ、
「でも僕、女性には困ってないんで」
 それを聞いたとたん、小須賀はピキッと固まった。
「うわ~」
 空楽と羽沼が、笑い交じりの声を同時に上げた。
「小須賀、お前の負けだよ」
 羽沼は上体を起こして、小須賀の肩をぽんぽん叩いた。
 美津子は苦笑いして、ホールを横切り、キッチンに向かった。
「杏奈」
 こちらに背を向けて折り畳み椅子に座っていた杏奈に声をかけると、杏奈はびくっと肩を震わせて、読んでいた本を閉じ、
「美津子さん。なんですか?」
 体でその本を隠すようにしながら尋ねた。
「…書斎にみんな来てるわよ」
 美津子は順正と話し合ったことを伝える代わりに、そう言った。
 このところ、書斎はあかつきのスタッフのたまり場にされがちだ。今日も用もないのにスタッフが集まって、実のない会話に花を咲かせている。
「あなたもお茶の時間にしなさい」

 美津子の予想通り、翌日、杏奈は完全に燃え尽きていた。料理をするのも、インスタの投稿の内容を練るのも、掃除をするのも、身が入らない。仕掛り中の仕事や、クライアントたちへのフィードバックメールを打つのも、勉強するのも億劫である。
 朝食後、杏奈は離れに戻り、録画したテレビ番組をぼうっと見た。料理番組など、仕事につながる啓蒙的なものは避け、なんにも考えずに見ていられるような、軽い内容の番組にした。動かずにそんなことをしていると、体が冷える。体が冷えてしまった後では、外に出る気にもなれない。離れに籠って、何をするでもなく過ごした。
 もはや自分から能動的に何かをする気が、起きない。
─明日、明後日と…
 実家に帰ろうと思ったのは、それゆえである。実家に行けば、こちらから何も話さなくても、母や兄が起こったことを話してくれるだろうし、子供たちがいて賑やかだ。自分でごはんを作る必要もない。
 杏奈は、実家で夕食が終わる時間帯になるまで待って、離れでテレビ電話をかけた。ただの電話ではなくテレビ電話にするのは、そのほうが姪の芽衣が喜ぶからだ。
 すぐには電話に出ないことが多いので、座卓にスマホを置いたまま、ぼうっと待っていると、すでに電話が繋がっていた。
『なにィ』
 聞えて来た陶子の声には、苛立ちが現れていた。杏奈はスマホを取りながら、一瞬にして体が強張った。
「…あ、ごめん。また後でかけ直す。大した用事じゃないから」
 映った陶子の額に、深い皺が刻まれているのを見て、杏奈はもはや、帰省したいなどと話すべきではないと思った。
 急いで電話を切る。
「…」
 昔から杏奈は、陶子の機嫌に、とても敏感である。
 かけ直してくるかもしれないと思ったが、電話はかかってこなかった。
─また今度にするね。
 電話をかけ直す代わりに、そうラインを打った。その連絡に対し、「分かった」の一言も返事はない。
─機嫌が悪いのか。
 電話が繋がってから数秒、杏奈が言葉を発しなかったからといって、さすがにあそこまでは怒らない。仕事が忙しかったのか、芽衣と陽斗の世話を手伝うので忙しかったのか、正博と口論をしたのか。ともかくも、機嫌を損ねるようなことがあったばかりなのだろう。
─自分の都合の良い時に、帰省したいなんて言わなくてよかったかもしれない。
 平日は、陶子は仕事をしている。帰省すれば杏奈は家事を免れるけれど、陶子としては世話を焼かなければならない人が一人増えるばかり。
「…」
 ふいに、寂しさが押し寄せた。
 三十歳近くになって、こんな感情をもつことは大人げないと、分かっているのに。
─帰る場所があるのに、帰れない。
 琴音の気持ちが分かる気がする。
─家族に対し、所属感がないなどと感じなくてもいい。
 人にはそうは言うけれども、ずっと蓄積された感情は、少し打ち解けて話す機会があったからといって、そう簡単に修復できるものではない。
─…誰か。
 傍にいてくれないものだろうか。
 心から安心できる、誰か。
─ばかばかしい。
 冷淡に、自分に言った。
 寂しさを紛らわすためだけに、誰かの存在を求めるなど…。

 翌日、杏奈は少しやる気を取り戻した。昨日よりまともな朝食を食べながら、
「今日は結局どうなった?」
 美津子は杏奈に尋ねた。
「車なら、使っていいわよ」
「…いえ、実家には、帰らないことにしました」
「そうか」
 朝食後、杏奈はようやく、大学の研究室仲間のグループラインに、メッセージを送った。先輩が子供を産んだらしく、みんなでプレゼントを送ろうという話合いがされていて、どんなものが良いか、案を出し合っていたのだ。小さな子供がいる家庭に、何が必要なのか、杏奈には分からない。適当に調べて、当たり障りのないものを提案した。
 それから買い物に行って、掃除をして、仕事もした。
 そしてその日の夜。杏奈は早めに布団に入り、やすやすと眠りについた。
─内容がうっすーいのよ。
 誰かから、非難の声を浴びせられている。テーブルの上に、ワンプレートの食事が並び、何人かが席についている。
─お金、返してくれない?
 いやだ。だって、私はもう仕事を辞めていて、これで生きていくしかないのだから…
 杏奈は今、昔の料理教室にいて、生徒たちから白い目で見られていた。 
─いやだ、いやだ、いやだ。
 こんなの…。
 次に映ったのは、どこかのショッピングモールのフードコートのような場所だった。スーツ姿の人や、オフィスカジュアルの人がいっぱいいる。そこは社員食堂であった。杏奈はそこで料理を注文していた。その時、尾形とばったり出くわした。今の杏奈を見たらなんと言うのか、時々ぼんやりと思いを馳せることがあるけれど、実際に会った尾形は「頑張ってるな」などとは言わなかった。ただ杏奈を見て、罰が悪そうな顔をして、慌ててその場を立ち去っただけだった。
 自分はただの厄介な女だったのだ。
 研究室仲間のグループラインに、出産祝いのプレゼントについて、誰が何を買うのかが送られて来た。杏奈は自分のリストを見た。どうして自分のリストにだけ、高額商品が連なっているのだろう。経済的な余裕はないのに。みんなのほうが、社会的に認められた、大企業で働いているのに。理不尽じゃないの?本当は、子供を産んだ幸せな先輩なんかに、祝福のプレゼントなどしたくない。
─先輩へのプレゼント贈呈は、キラキラメンバーでやります。
 ラインにはそうも書かれていた。キラキラメンバーってなに?私はそのメンバーに入っていないの?
─そうなのか。
 私はこの仲間が好きだと思っていたけれど、今はへんてこりんな事業に関わっているから、馬鹿にされているのね。自分たちと違う価値観だからという理由で、迫害しようとしているのね。
 薄目を開けた杏奈は、カーテンの向こう側に光がないのを見て、嫌な予感がして目を瞑り続けた。
─まだ深夜だったらどうしよう。
 意識がはっきりしてきている。このまま、眠れない夜を過ごすのはいやだ。
 潜在意識の中で、自分はまだ拗ねた女のままなのだ。
 自分の能力のなさを恐れ、愛されないことを嘆き、所属意識が希薄で…
─あかつきの一員になれたことが、幸運に思える…
 暗い過去を走馬灯のように見た今となっては。
 杏奈は何度も寝返りを打ち、眠り続けようとした。
 疲れている。休める時に、頭も体も休ませなければ…
 杏奈が起き上がったのは、五時半。外はまだ暗い。
 明かりをつけて、パソコンを開く。勉強用のフォルダを開き、心に関するアーユルヴェーダの知見を参照した。
 主要なスロータムシにはそれぞれ、根(ムラ)、体内を通る経路(マルガ)、および開口部(ムカ)がある。心の経路(マノヴァハスロータ)は、心臓に根ざしている。体の外部につながるムカはいくつもあるが、そのうち主要なものは、目、耳、鼻、舌、皮膚の五つの感覚器官。
 感覚器官と、それらが日常的に受け取る感覚入力は、精神的健康に大きな影響を及ぼす。トラウマがあると、似た状況に陥った時に不安や怒りが発生する。一方、日常的に愛情深く安らかな環境にいる場合は、希望を抱く。こうした影響に対する感受性は、人それぞれだけれども。
 感覚体験の全体的な質を変えることは、心の状態を根本的に変える可能性がある。
 杏奈はパソコンを閉じ、もう一度布団の上に横になった。
 ここのところ、クライアントから様々な事情を聞き出していたからなのだろうか。それらの情報から刺激されて、古い記憶や感情が呼び起こされたのかもしれない。自分の能力のなさが浮き彫りにされ、恐怖を覚えた体験。尾形のことは、未だに忘れられない。そして…
─なぜ…
 知っている誰かが子供を産んだという知らせが、どうしてこうも疎ましいのだろう。咲子に対しては、あんなに一生懸命になれたのに。
─結局…
 一生懸命になっていたのは、咲子のためではないのだ。

 この日、鞍馬は山本にパーソナルヨガレッスンをするために、十時前にあかつきを訪れた。
「山本さん」
 レッスンの前に、鞍馬は必ずアイスブレイクを入れるが、今日は一方的な話ではなく、山本と会話をした。
「二週に一度のペースで、ヨガできてますね」
「はい」
 山本は、会う度に痩せてきている気がする。頬骨がよりくっきりして、目がぎょろっと大きい。
「最近、どうですか?調子は」
「最近は…実は、あまりよくないです」
 見た感じは、そんなにひどい状態には見えないのだが。少なくとも、最初の頃よりは、心ここにあらずといった様子ではない。
「どうしましたか?何か思い当たる原因は?」
「…なんなんでしょうね」
 山本は、首を傾げた。
「このところ冷え込んできましたし、朝夕と日中で気温差も激しいから、それで参っちゃってるのかもしれませんね」
 個人的な事情は分からないので、鞍馬は、気候のせいにするしかなかった。
「はい。天気のことは、あると思います」
 山本は否定はしなかった。
「…でも、親の目が気になってるんだと思います」
「親の目…」
「はい…」
 そもそも、山本があかつきに通い出したきっかけは。
 あかつきとつながりのある善光寺の僧侶・加藤が、山本の父親から息子のことで相談を受けた。なんとか外とのつながりを保ってほしいので、太極拳や写経など、寺のイベントに参加させてもらえないかと。しかし、山本が乗り気でなかったため、加藤はあかつきを紹介した。つまり、山本は自分の意思でなく、親の願望や期待のために行動していて、そこにもやもやを抱いているということだろうか。
「やっぱり、心配ですよね。息子がこれじゃ」
 嘲笑を浮かべる山本を、鞍馬は観察した。山本が、何に気を病み、何をすればその気が晴れるか。少ない情報から、できる限り察知しようとした。
「山本さんのペースで、大丈夫ですよ」
 俯きがちだった山本は、鞍馬がそう言うと、ゆっくりと視線を上げて鞍馬を見た。
 山本とのヨガレッスンの後。
「鞍馬さん」
 鞍馬は美津子に呼び止められた。
「ちょっと聞きたいことがあるのだけれど…いいかしら?」

 二階の施術室の掃除を終えた杏奈は、開け放った窓から外を眺めた。
 風がない日だ。
 今日は日中、気温が二十度まで上がるという予報であった。こうして窓を開け放っていても、寒さは感じず、心地が良い。 
 杏奈は日が高くなってから、栗原神社に向かって歩いた。
─体を動かさないから、熟睡できないんだ。
 そう考えてのことであった。
 いつものように、花神殿までの往復では足りず、杏奈は栗原登山道に向かう途中の分岐を右に折れた。快晴だが、小径は西参道のように薄暗かった。小径をしばらく進むと、一本の見事なアカガシと、そのすぐ傍に幹を横たえる、アカガシの倒木が目に入る。杏奈はそこで、足を止めた。
 明神山の森と栗原神社の杜の狭間で、ひっそりと暮らしているアカガシ。森の隠者か仙人のような風格を持つアカガシが密生するこの界隈でも、この二本は、ひと際存在感がある。生と死。相反する二つの状態を、端的に視覚化したような二本であった。
 アカガシは常緑広葉樹。冬の間も深緑色の葉がつやつやと枝についている。足元を見れば、軟毛があってフサフサとした殻斗をつけたどんぐりが、少しだけ落ちている。アカガシはたくさんのどんぐりを降らせるシラカシなどとは違い、どんぐりを多産させない。ところどころその樹皮に鱗片状の剥離が生じ、褐色の地肌が見えている。
 杏奈はその幹に背を預けた。ちょうどいい具合に張り出している木の根の上に座れば、ズボンが汚れることはない。鼻から大きく息を吸って、吐き出した。
 杏奈の瞼は、自然と閉じられた。しばらくそこで、ただ呼吸をする。
 今日は風がないせいか、あかつきの施術室までは香らなかったが、ここまで来れば明神山の森の木々のにおいが濃くなる。森の澄んだ空気は、気持ちが良かった。
 こうして目を瞑っていると、昔行きつけだったヨガスタジオで、やはり同じように目を瞑っていた時のことを思い出す。
 あの頃、何を思っていたのか。
 杏奈は一年以上もの間、尾形と同棲していた。単身赴任をしていた尾形が帰省している時も、仕事が終わった後も、尾形との約束の前も、ヨガに行った。
 寂しい、疲れた、浮き浮きした、憂鬱な……様々な気持ちを抱いて、ヨガをしたものだ。
 そして…あの数週間も。
 あれから実に、三年の時が経った。
 三回目の十一月。杏奈はもう、他のことにかまけて、思い出してやる暇もなかった。
 十一月の下旬に入ったというのに、今日は存外に暖かい。
 もし、尾形がここにいたら、汗をかいていたかもしれなかった。代謝のいい人だった。動いていないことがない性格だからかもしれない。冬に鍋を食べると、いつの間にかズボンのすそをまくって、上着を一枚脱いでいる。夏の間にお互いを求め合うと…尾形の背中に手を回したとき、その背中にびっしょり汗をかいていることに気づくのだった。
 尾形は体型の割に、すごくよく食べる人だった。最初にそれを知ったのは、横浜のイタリアンレストランに行った時だ。代謝がいいので、たくさん食べても太らないことが羨ましかった。杏奈はその店で初めてマリナーラを食べて、尾形の前で嬉しそうな顔をして見せた。
 先日、小須賀から青年町おこし協力隊の飲み会の様子を尋ねられた時、杏奈は、歳が離れていることを、交流がはかどらない理由にした。けれども、あの店で、尾形は悪意なく言ったのだ。
―すごく歳が離れているのに、離れている気がしない。
 あの時は、その言葉がひどく嬉しかったものだ。波長が合えば、歳は関係ないのだ。
 だが、その思い出も今思えば、ただ寒々しいばかり。
 目を閉じていると、無意識に尾形のことが鮮明に思い出されるが、もう恋しくはない。彼とのことは、もはや、ばかばかしいと。傍若無人な振る舞いだった、過ちだったと思い知らされるばかりだ。
 彼は職場の先輩だった。仕事を教える時、間近に聞こえる低い声に、どきどきした。杏奈は尾形を尊敬し、頼っていた。他部署の者から無理な難題を押し付けられた時も、尾形は一緒に考えてくれて、守ってくれた。仕事のことで杏奈を責めたことなど、一度もなかった。
─もう会いたいなどとは思わない。
 これは時の功だろうか。
 ようやく気付いたのだ。
 尾形は最初から本気ではなかったのだと。ただ杏奈が自分を好きだというから、させたいようにさせていただけ。けれど都合が悪くなると、尾形の杏奈に対する感情は、可愛いとか可哀そうとかいうより、面倒くさいが勝った。それだけの関係性だった。
 面倒くさければ、都合が悪くなれば、実の子だろうと、親だろうと、夫婦であろうと、愛情は薄れるのかもしれない。
 そんな頼りない人の愛情だけを頼りにしていた自分が、愚かで、浅はかだったのだ。しかも…
─人のものなのに。
 三年前の十月に、取り返しのつかないことが起こったことに、気付いた。わずかばかりの抵抗をしたが、心の中では、事実を覆せないことは分かっていた。
 その時、杏奈の自尊心は打ち砕かれた。
 ピンクのギンガムチェックの寝巻姿で、くらくらとして、急に吐き気を覚え、即座に吐いた。その後、涙がこみ上げ、声をあげて泣いた。迎えに来てくれなかった尾形を責めた。
 あの日は十一月上旬だったのに、とても寒くて、雨が降っていた。
 駅の前で、杏奈は傘を閉じ、尾形を思いっきり叩いた。尾形のことは忘れてもいいかもしれないが、どんなに月日が経って、色々な出来事を経ても、今でも自分の心に残り、一緒にい続けるものの存在は、忘れてはならない。
 その後しばらくして、ヨガスクールでアーユルヴェーダの存在を知った。
─将来なりうる疾患を予測し、予防し、若返りを促進する…
 アーユルヴェーダと関わる仕事をしていれば、きっと、自分が関わりたい人に会えるだろう。その人に真の癒しがもたらされた時、自分もまた、癒される。
─今回が…
 そのチャンスだったのだ。
「…」
 寂しさを感じると、杏奈が思い出そうするのは未だに、好きな男に抱きしめられた時の、あの心地よさ。
 たとえば、温かい蒲団の中で、尾形とただぴったりとくっついて眠る。それは、世にも幸せな行為だった。自分の体が温かく、柔らかく包まれていくような感覚。
 寂しかったからといって、あの時、その感覚にしがみついてしまったことで、自分は永遠に、二度と、その感覚を味わうことがないかもしれない。
 もし今後、尾形と同じくらい、好きになる人が現れなければ。
 そしてその人が、自分を受け入れなければ。
 杏奈は目を開けた。
 もし、その感覚が二度と手に入らなくても、自業自得。
 今杏奈が感じるのは、ゴツゴツとしたアカガシの幹の硬さだけ。
 頭部に鈍痛がある。まさに今、出産祝いをもらっている人がいる一方、自分は一人寂しく、頭痛を覚えながら、硬い木の幹に背を預けているだけだが、自業自得だと思う。しかし、今更、そのことに感傷的になって、泣くこともない。
 静寂の中、杏奈はただ呼吸を続けた。

 

 


 

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