第21話「夕闇」アーユルヴェーダ小説HEALERS

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 人気のないホームで、ゆかりたち一行は帰りの電車を待っていた。
「信じらんない」
 ベンチに座って、ゆかりは憤慨した様子で足を組んだ。
「土日のダイヤと見間違えるなんて、どういうことなの」
「すみません。もう、曜日感覚が薄れちゃって…」
 武井は肩をすくめた。電車の時間を見計らってあかつきを出たというのに、あと十五分は待たなければならない。
「寒い。なんかあったかいもの買ってきて」
「はい。ココアにしますか?コーンスープにしますか?」
「私を太らせたいの?」
「あっ、はい。お茶ですね」
 武井はぺこぺこしながら、いそいそと自販機を探しに行く。
 せっかく調理風景を見学する機会を作ったのに、すっぽかして居眠りしていた武井は、先ほどきつく叱られたばかり。それにダイヤの見間違いという失態が重なって、武井は恐縮しすぎているくらい恐縮している。
 時刻は夕暮れ。裏寂しいプラットホームには、乾いた風が吹いている。果歩はその風から逃れるようにマフラーに口元を埋めた。ホームの両側には鬱蒼とした山の木々が生い茂り、足込駅のホーム全体に影を作っていて、なお寒々しい。
「見つけたわ」
 ゆかりの独り言が聞えて、果歩は後ろを振り向く。愉快そうな表情で、ゆかりはスマホを眺めている。
「あかつきの料理担当が開いていたという教室」
 名前と場所で検索したら、ヒットした。講座の概要を記したページに目を通す限り、レジュメに書いていたような内容を教えていたのだろうと想像がつく。
「ふん」
 ゆかりは鼻をならした。
「あの子のアーユルヴェーダ料理で、本当に人は健康になったのかしら」
 果歩はゆかりと同じベンチに腰掛けた。立ったままだと、こちらのほうが目線が上になるからだった。
「食事は毎日のことですから。一度や二度、教室でいいものを食べても、健康を実感するには至らないかもしれませんね」
 果歩は杏奈をかばうように言った。自分の未熟さと杏奈のそれを重ね、杏奈を擁護したくなったのだ。
「そんなことは分かってるのよ」
 ゆかりはにべもなく答える。
「それでも結果を出せるメソッドを提供しなければ、アーユルヴェーダの料理教室なんてやったって意味ないでしょ」
 そう言った後で、ゆかりは果歩に念を押すように、
「伊豆では、今日言ったことを念頭に料理教室を作るのよ」
 と、低い声で言った。果歩はその言葉を、自分への指令ではなく、ゆかり自身への宣言なのだと受け取った。 
「なるほど、やっぱりあの子の教室は流行らなかったみたいね」
 ホームページ上で掲載されている開催予定を見るに、今年の春頃で終わっている。
「大方、教室の運営がうまくいかなくて、ああしてあかつきに身を寄せているんでしょう」
 ゆかりはそこでスマホを見るのを止めて、ポケットに手を突っ込み、ベンチの背もたれにもたれた。
「アーユルヴェーダの食事法をつらつら語れるようになっただけで、人を変えることができるなんてできないのよ」
 ゆかりは、どうしてあのスタッフを攻撃するようなことを言うのだろう。
「あの子には、それが伝わったかしら」
 果歩は心に雲がかかったように、もやもやとした気持ちになった。
─確信のないないやり方を教えて、お金をもらうなんて。そんなの、詐欺じゃない。
 ゆかりがそう言い放った時、静かに衝撃を受けたような顔をしていた杏奈のことを思い出した。
「あのう、先生?」
 ゆかりは目をわずかに見開いて果歩を見た。
「だからといって、詐欺とまで言ってしまったのは、良くなかったのではないですか?あのスタッフさんを傷つけるようなことを言ったのは…」
 果歩にしては、率直なことを言う。ゆかりは驚いた表情をしてみせると、果歩の疑念を笑い飛ばした。果歩は眉をひそめる。
「警告してやったの。浅はかな考えを」
 確信も実績もないまま、独りよがりなアーユルヴェーダの食事の解釈を、人に教えていたなど…
「お客さまから言われるよりはマシでしょう。アンチの声を知った方が、危機感を持って仕事ができるというものよ」
 果歩の脳裏に、施術室で話をしてくれた沙羅の顔が浮かぶと、冷たい風に吹かれているというのに、果歩は頭の奥から熱くなっていくのを感じた。
「考え方の違いがあったなら、議論すればよかったのではありませんか?」
 ゆかりは、今度は本当に驚いた顔をした。こんな風に、果歩が意見をしてきたことはない。しかもなぜ、あかつきのスタッフを守るようなことを言うのだろう。
「考えが違うからといって、相手に傷つけるような言葉をかけるのは、良くないと思います」
 たとえ言葉として発しなくても、人に物理的な痛みを加えなくても、心で誰かを攻撃した時点で、それはヨガの教え─アヒムサ(非暴力)─に背くことではないのか。
「傷つけて何が悪いの?」
 ゆかりは果歩の方を見ず、正面を見たまま憤然と言った。
「それで人が成長するなら、傷つけたことにはならないわ」
 むしろその逆であるとさえ思う。
「でも、もう少し違う言葉があったんじゃ…」
 果歩は後頭部がじんじん熱くなっていくのを感じた。手を揉んだ、その指が、しっとりと湿っている。けれど、果歩は信じた。これは杏奈のためでも、青山に残っているスタッフのためでも、ましてや自分自身のためなどではなく、ゆかりのために言っていることなのだと。
 しかし、次の言葉を継ぐ前に、果歩は口を閉ざすこととなった。果歩の後頭部に、がっしりと手の平を当てて、そのまま前に押しやり、こうべを垂れさせた者がある。
「申し訳ございません」
 武井が、果歩に頭を下げさせつつ、自分自身も深々と腰を折った。いつの間にか、二人の傍で話を聞いていたらしい。
「生意気なことを言って…僕から、厳しく言い聞かせます」
 ゆかりは、無言で二人を厳しく睨みつけた。果歩は、圧迫されている喉元の近くで、歯がガタガタと震えるのを感じた。
 ゆかりは颯爽と二人から離れ、ホームの一番端にあるベンチにどかっと腰掛けた。やがて電車が来ると、ゆかりと他の二人は違う車両に乗り込んだ。
「お前、クビにされたいの?」
 武井は隣に座る果歩の顔も見ずに、腕組しながら言った。もう厳しい口調ではなかった。どこか諭すような、静かな声音。果歩はかぶりを振る。
「でも先生からは、ライバルの身内をおとしめたいという気持ちを感じました」
「お前…」
 嗜めるように、武井はちっと舌打ちした。
「そういう気持ちを持つのは、ヨガではありません」
 果歩は震える声でそう言った。
「ヨガの教えは、武井さんが教えていることじゃありませんか」
 武井と果歩の座高は、ほとんど変わらない。同じ高さにある果歩の潤んだ目は、必死に何かをうったえかけていた。果歩の言う通り、武井は哲学を教える人間である。果歩の短い言葉からも、彼女が何を言わんとしているか分かる。
「武井さんはどう思っているのですか?」
「は?な、なにを」
 それでいて、武井はしらばっくれてみせた。
「先生は、確かに事業者として優れているかもしれませんが、ヨギの心を失いかけているように思えます」
「それは、確かに先生は、横柄なところも、高飛車なところもあるけど…」
 武井は聞こえるか聞こえないかの、くぐもった声でぶつぶつ言い、果歩の真剣な面差しから逃れるように、視線を車内広告に向けた。
「先生と親しい間柄なら、武井さんが、先生の行き過ぎたところを抑えてあげてください…先生のために」
「待て待て」
 だん、と片足で床を鳴らす。
「まったく、最近の若い子は」
 武井は声を潜めた。
「お前は何か勘違いしているぞ」
 いつも、あれだけゆかりのサンドバックにされているのに、そう言う武井の表情からは、迷いや疑いといった感情は見えなかった。
「確かに、先生はどぎつい。理不尽で、高慢で、わがままな女王さまだ」
 どうやら、ゆかりの愚痴を言い出したら、武井の右に出る者はいないようだ。
「だけどな、表面的な優しさだけが、優しさじゃない」
 果歩にもそれは分かっている。ゆかりには、次世代を担う者を成長させようという気持ちもあることは。
「あの厳しさと、離れていく者を追わない姿勢。それで今まで、力のない子はうちのサロンから自然淘汰されてきた」
 それは、力のある者を振り分けられるという意味では、都合が良いことでもあったのだが。
「先生は、アーユルヴェーダが日本でまだほとんど知られていない時からこの業界を引っ張って来られた」
 武井は遠くを見るような目をして言った。サロンのサービスを向上させ、富裕層のお客を相手にしてきた。当然、接客は難しく、厳しくなるばかり。接待もプレゼントもした。客の中には、身内に有名な音楽家や人形劇役者など、芸能に優れた者もいる。ゆかりは自分の趣味ではなくとも、遠くまでその講演を見に足を運んだ。そうしてお客に気に入られて、名だたる俳優のバックについてトリートメントを行ったり、人気のホテルや旅館でのリラクゼーション施設に、施術の知識やおもてなし法を指南したりするのを通じて、少しずつ、アーユルヴェーダトリートメントが受け入れられていった。
「先生のその苦労が、お前に分かるのか」
 果歩は、押し黙った。
─私は、先生のようにはなれない。
 社会の中で認められていないことでも、価値のあるものだと信じ、価値を提供し、支持を得る。その間の苦難を乗り越える精神的な強さや、硬い意志。そんなものを、自分は持っていない。だからこそゆかりに憧れた。尊敬できると思った。できるなら、この先生の経営するサロンに身を置き、学びたいと思った。
 そして、師であるゆかりはヨギの心を持った人であると、信じていたかったのだ。
 果歩は汗ばんだ手を、ぎゅっと握りしめた。
「ま、先生と一緒にいると、確かに寿命が縮むと思うことも多いけどさ」
 黙りこくる果歩を横目で見ながら、武井は明るい声を出した。
「先生といると、退屈しないんだよな」
 武井は、始終落ち着き払って微笑を浮かべていた美津子を思い出し、
「あかつきのオーナーは、物分かりが良すぎるというか、達観しすぎているというか」
 穏やかなオーナーも、それはそれでいいかもしれないけど、武井の好みには合わなかった。
「先生の方が人間臭くて、面白いよ」
 武井は、本心からそう言って微笑んだ。

「そうか。ゆかりさんがそんなことを…」
 一行が帰った後、美津子と杏奈は顧客管理表を記入していた。しかし、どうも杏奈が浮かない顔をしているのを見て、気になった美津子が事情を尋ねたところ、杏奈はキッチンでの一部始終を話した。
「ゆかりさんが考えていることを聞いて、私、確信がないことを人に伝えようとしているんだって思ったんです…」
 アーユルヴェーダ料理で、人を健康に導けるという確信はなかった。少なくとも、確信をもたせてくれるような生徒の声を得たことはない。体が軽い、便通が良くなったという、なんとなく不調が軽減されたという声をもらうことはあったけれど。
「杏奈。それを言ったらね、私だって、コンサルで確信を持っていることだけをお伝えするのではない」
 美津子は杏奈を励ますようにそう言った。
「あくまで提案なの。それに従うかどうか決めるのはお客さま自身。多くの人は、一貫性をもって提案を試すことなく、すぐにやめてしまう。私たちが改善するべきことがあるとしたら、それはいかに良い提案をするかということよりも、お客さまが実際の生活の中で健康的な選択をすることができるよう、サポートすることだと思うけど」
「…確かにそうですね」
 杏奈はそう言うと、顔を上げた。
─余計なことを言ってくれたものだ…
 と、美津子はさすがにゆかりを恨めしく思う。
─せっかく…。
 美津子は、杏奈の物理的な身体がまとう、見えないエネルギーの層─オーラ─を、心で見た。
─ここまで、修復したのに…。
 気落ちした様子の杏奈が、口を開いた。
「アーユルヴェーダの考え方が好きで、その食事法を伝えていきたいと思ってましたけれど…価値観は人によって様々ですね」
 杏奈はそう言うと、ため息のような吐息を漏らして俯いた。
「お金をもらうって…大変なことですね」
 大変、と言ったが、杏奈はそれ以上に、怖い。アーユルヴェーダを通して、人を良い方向に変えられると信じてきたけれど、もし苦しみから逃れようとする時、寄る辺としたものが、頼りないものだったなら…
「杏奈」
 しかし、杏奈が暗い思考に陥る前に、美津子がその思考を遮った。
「一人ひとりの理想の食を指導できなくても、ヒーラーにはなり得る」
 アーユルヴェーダのヒーラーになるために必要な要素は、教育を通して養えるものではない。かつて、美津子はそう言っていた。杏奈はそれを思い出した。結局その要素がなんなのかは、分からないけれど…
─大切なのは、そこではない。
 美津子は、心の中で独りごちた。
─そこではないのよ…
 それにしても、ゆかりは余計な置き土産をしてくれたものだとつくづく思う。
 苦味は、変わる必要性を感じさせ、人を成長させることもある。同時に、苦味は、不満足と恐怖を起こさせる。杏奈にも苦味は必要だ。しかし、長い間、それが過剰になっている。その中で、ようやく培われた変化の芽吹きは、ここに来てまた潰されそうだ。
─ずい分と苦い言葉を吐いてくれたものだ。
 脳裏に浮かべたゆかりに向かって、美津子は言った。
「杏奈」
 凛とした、しかし、いつもと変わらず優し気な声で、美津子は呼び掛けた。気を取り直して管理表の記入を進めていた杏奈は、手を止める。
「マットの外で、ヨガを実践している人を、なるべく多く見つけなさい」
「え?」
 それは美津子からの新しい課題のように聞こえた。
 「ヨガを実践している」の意味を、美津子は説いた。ヨガには多くの道がある。ポーズ(アーサナ)としてのヨガの種類ではない。
 ヨガは、自分の幸せ、自分自身を誰であるかという事を発見させてくれる方法である。自分を正しく理解して、どうやって使うのかを知り、実際に行動している人が、ヨギーである。その人たちの周りにいれば、自分にいい影響がある。
 ヨガには、四つの道がある。
一.カルマヨガ(無私の奉仕)
 無償の奉仕を意味する。他人の幸せ、他人が心地よくなるために、自分が無償で奉仕すること。
二.バクティヨガ(献身)
 心を開く、献身愛のヨガと言われる。神、あるいは絶対的な宇宙的存在(その対象は信仰により異なる)への愛と尊敬を、様々な方法で表現する。祈り、チャンティング(神の名前を唱えること)、経典を読む、歌や踊り、祭りや儀式。美津子がまめまめしく、花神さまへお供え物をし、手を合わせるのも、バクティヨガといえる。
三.ラージャヨガ(瞑想)
 王のヨガと呼ばれる。王とは心であり、心に関わるヨガであることを示す。心は人間存在の「王」であるが、人間はもろもろの中毒や妄執を抱えており、これらは静寂な心の境地への到達(瞑想)を妨げる。瞑想を行うのに適した状態にするため、ありとあらゆる手段がラージャヨガの実践である。有名な手段としてはアシュタンガヨガ(八支則)が知られている。
四.ニャーナヨーガ(自己探求)
 ニャーナはサンスクリット語で「知識または知恵」を意味する。瞑想、自己探求(自問)、熟考の実践を通じ、内なる自己 (アートマン) とすべての生命の一体性 (ブラフマン) の結合を達成する。ヨガの四つの主要な道の中で最も難しいと考えられている。まず上の三つを練習することで、ニャーナヨガへの道が開ける。
 ヨガを学んでいる杏奈には、美津子の言っていることが、完全には理解できなくとも、イメージをすることはできた。
「見つけたら、なるべくそういう人たちの傍にいることだ。その人たちから、サットヴァなエネルギーをもらうと良い…」
 杏奈が一番に思い浮かぶヨガの実践者といえば、美津子だ。しかし、美津子は他の場所でも、ヨギーを見つけろと言う。
「ヒーラーは、サロンの外にもいる」
 本当のヨギーは、どこにいるか分からないものだ。

 美津子が買い出しに出た後、杏奈は夕食用のつまみ菜を採るために、ザルを持って畑へ出た。これは美津子から頼まれていた仕事だが、外の風に当たるのは、気分転換になりそうだった。
 しかし、外の風は強く、気分を紛らわすには寒すぎた。それでも、杏奈は畑までわざわざジグザグに歩いて、歩数をかせいだ。体を動かすと、様々な考えが浮かび、うまくまとまることがある。
 杏奈は頭の中で引っかかっていることを、整理したかった。
─詐欺…
 ゆかりのあの言葉が、頭の中に反響している。
 まぎれもない自分自身に対して、同じことを思った経験がある。料理教室をしていた頃、ある生徒が返金を求めてきた。教室の質を批判された。お金を返してもらえるなら返してもらってやめたい、と言われたのだ。
 それは教室を始めて間もない頃の話だった。それからというものの、改善を重ねてきた。だから今の自分はその時と違うと、思っていた。
 けれど、今でも、アーユルヴェーダの食事法を伝えて、誰かの何かを変えられるかどうかは、確信がない。自分のしていることに、疑いをもってしまったからこそ、杏奈の心は重く沈んだ。
 膝を折った場所で、野菜を採る前に、目につく草を取っていく。風がゴウゴウと鳴っている。
 杏奈は傍にザルを置いて、無造作に葉をかきわけ、使えそうな葉を選別した。
 一人の男が門を開けた。近くの木の枝葉を揺らすザザッーという風の音が鳴り響いている。その音とともに、男はあかつきの敷地に足を踏み入れた。誰かが畑に身を屈めているのがすぐに視界に入った。風がその者の束ねた黒髪をすくい上げ、背中に落とし、また吹き荒らす。背中を見せているその女の様子を、男は静かに観察した。風に吹き飛ばされそうな、薄っぺらい濃い緑の葉を、ザルと手で挟むようにして押さえながら、もう片方の手でおもむろに葉をちぎっている。むろん、片手ではうまくちぎれはしない。ぎしぎしと茎をひねり、むしるようにして摘み取っている。
 雑な摘み方をしているその者が、顔を横に向けた。その顔を見て、男は眉をひそめた。
 その時、杏奈は圧迫感にも似た人の気配にようやく気付き、目を見開いた。振り向くと、一人の男が間近に立ち、高い位置から杏奈を見下ろしていた。
─え…!
 あかつきの敷地内に、見知らぬ大男を目撃した杏奈の心臓は、飛び上がるように早鐘を打った。思わずしゃがんだまま後ずさったために、足と臀部が畑の作物と土に埋もれ、手を離したせいでザルに置いた菜っぱは吹き飛ばされた。
「どなたですか…?」
 声にならない叫びを杏奈は挙げた。しかし、男は杏奈の恐怖に満ちた反応には少しも動じず、
「お前こそ誰だ」
 地鳴りがするように低く響く声で反対に問うた。
 風がゴウゴウと鳴っているとはいえ、門が開いたのにも、男がこの距離まで近づいたのにも、杏奈は全く気が付かなかった。イヤホンも押さずに、外に人がいるのに声かけもせずに、ずかずかと敷地に入ってきたのだから、杏奈は当然不審者だと思い、恐れた。しかし、おそるおそる男を見上げてみると、その印象は不審者のイメージとは程遠かった。
 驚くほどに端麗な顔立ちをしている。くっきりとした二重瞼の、切れ長の目。整った凛々しい眉、高い鼻、薄い唇。すっきりとしたフェイスライン。流れるように滑らかな黒髪は風に揺れている。
 痩せているが、体格も優れていた。とにかく、圧倒されるような背の高さだ。男は厚着をしていた。白いアウトドア用のジャケットに黒いズボン。靴は普通のスニーカーではない。ローカットの登山靴だった。
「私は、ここのスタッフですが」
 杏奈の心臓は相変わらず早鐘を打っていたが、男の相貌から、不審者ではないことを直感した。だから、なんとか声を出すことができた。
「スタッフ…セラピストがいたのか」
 つぶやくように言った男のその言葉で、やはり不審者ではないと確信した。少なくとも、ここがどういう場所なのか知っている人のようだ。
「いえ、私は…料理番です」
 腰を抜かしていたことに気が付き、杏奈はやっと腰を地面から浮かせ、土を払った。そうしながら、男が一匹の犬を連れているのに気付いた。中型だが、頑健で筋肉質な体格、立ち耳の精悍な顔つきをした犬だ。犬に詳しくない杏奈には、犬種が分からない。毛色は黒がベースで、淡い茶色の斑点模様が入っている。犬は静かに男の横にお座りしていた。
「料理番…」
 男は復唱したが、自分よりはるかに上の位置で発された低音は、杏奈にはうまく聞き取れない。
 なんとか立ち上がった杏奈は、男との身長差を改めて感じて、加藤と向かい合った時のことを思い出した。彼と同じくらいの背丈だろうか。
「なるほどな。あの男はいなくなったか」
 あの男とは、小須賀のことを言っているのだろうか。だとしたら、勘違いなのだが。
「この業界は出入りが激しいな」
 呆れたような声を出す男の目は虚空を捉えていたが、やがてゆっくりと、目の前で立ち尽くしている女を視界に入れた。女は、ひどく虚ろな目をしていた。ぼうっとしているように見えた。
「あのう、こちらにご用ですか?」
「オーナーは?」
「今、買い物に出かけています」
 出たばかりなので、あと二、三十分は戻って来ないかもしれないと伝えた。男はそれには特に相槌を打たずに玄関に近づき、扉の前で慣れた様子で犬を座らせ、そのまま犬を見ながら佇んでいた。杏奈は今気がついたが、犬は手綱をつけていない。
 男は手ぶらだった。登山靴を履いているが、ザックも、手提げも持っていなかった。
 車の音が聞こえなかったが、ここまでどうやって来たのだろう。あかつきに何度も来たことがある人なのか。様々な疑問が浮かび、杏奈は、男からせめて素性を尋ねたかったが、男に近づくことも、見ることすらも憚られた。先ほどとは違う怖さを感じた。嫌悪感を抱かれているように感じたのだ。
 杏奈は、吹き飛ばされた菜っぱをのろのろと拾った。用向きを尋ねたくても、喉で言葉がつっかえたようになって、声が出せない。
─なんだ、こいつ。
 男は犬に向かいながら、横目で女の動きを捉えていた。先ほどはこの女が恐怖を感じていることが窺われたが、それが収まると、ほとんど感情がないかのように、気が感じ取れない。来客の用向きを尋ね、中に導き入れることすらしない。
─気が抜けたやつ。
 思わず、舌打ちをする。顔を女の方に向けてみたが、女は視線に気づいているのかいないのか、視界から逃げるように、しゃがみこんだまま無心に菜っぱを拾っている。やる気のない動きと、その目からは、
─生きているのに、死んでいる。
 そんな印象を受ける。
「クライアントなのかと思った」」
 男はつぶやくように言った。犬に話しかけているようでも、独り言のようでもあった。
「え?」
 杏奈が振り返ると、男の視線はまっすぐこちらに向いていた。その眼圧と発された言葉の意味に、杏奈の心はかき乱された。
「す、すみません…ちょっとショックなことがあったばっかりで…浮かない表情をしていたかもしれません。
 狼狽えた心情が表に出ないように、杏奈はなんとか笑顔を作った。
「ショックなこと…?」
 そう言う割に女が中途半端な笑みを浮かべていることが、男には奇妙に映った。
「なんでもないんです…」
 杏奈は言いながら、射貫くような男の視線の鋭さに戸惑いながらも、自分が湿気た表情をしていたことについて弁明しなければと、そのことで頭がいっぱいになった。
「自分の仕事に自信がなくすようなことが…あっただけです…」
 初対面の見知らぬ男に、本来そのようなことを言う必要はないのだが、杏奈は緊張感に耐えられず、頭に浮かんだ本音がつい、口から出てしまった。
 杏奈がやっと言葉を発した時には、男は立ち上がっていた。犬も主人の意思を感じ取ったのか、すっと腰を上げる。男は杏奈の存在など完全に無視するように、まっすぐに門へと歩いた。
「えっと…美津子さんを待たれるのでは…」
 男は答えない。杏奈は菜っぱの束とザルを抱えながら、小走りで男を追いかけた。
「何か、ことづけておきましょうか?」
 数歩、男に歩み寄ったところで足を止めた。男が思い出したように、こちらを振り返った。杏奈はそのまなざしの冷たさに、その場に居すくんだ。
「それで人を癒せるのか」
 まなざしよりも冷たい男の声に、杏奈は心臓が止まったような心地がした。
「自分の仕事を信じてないのに、クライアントから限りある時間と財産を巻き取るなんて…」
 男は最後に、吐き捨てるように言った。
「…まるで詐欺だな」
 男の言葉に、杏奈は息が詰まった。この男がなぜそんな失礼な言葉を初対面の自分に突き付けるのかは分からなかった。しかし、男の言葉の意味は俊敏に理解ができる。杏奈も同じことを、ずっと考えていたからだ。
「価値のある仕事ができないなら、さっさと辞めろ」
 静かに踵を返しながら、やはり呟くような声で男はそう言い捨て、門へと歩みを進めている。
─私のしていることは、癒しか詐欺か…。
 風はまだビュウビュウと吹き荒れている。体は寒さですでに凍えているのに、杏奈は母屋に背を向けたまま、とぼとぼと門の外へ出て行った。左右を確認すると、左手─御殿山に向かう方向─に、男と犬の後ろ姿が見えた。
─幻じゃなかったんだ…。
 彼は、自分が生み出した幻影なのかと思ったのだが。
 犬は男の前を歩いたり、後ろを歩いたり、つかず離れず歩いている。男は一定の足取りで颯爽と歩き、あっという間に杏奈との距離を広げ、やがて見えなくなった。
 それまで彼らを見送っていた杏奈の顔には、逆光のために、影が差していた。
 後ろを振り返ると、西の空は、赤く滲んでいた。赤い空を瞳に映す杏奈に、あの人の言葉が蘇ってきた。
─そのことは、頭の片隅に置いておくんだ。
 尾形は、低く、少しかすれた、憂いを帯びた声で、かつて杏奈に言った。
─忘れるのとは違う。思い出したい時に、いつでも思い出せばいい。でも、一旦忘れないと、次に進めないよ。
 杏奈は、物理的にも、精神的にも、尾形から離れられなかった。その時、ほとんどすがりつくようにして、尾形にこううったえた。
─そんな器用なことできない。
 その声は、ほとんど悲鳴であった。悲しいままの、苦しいままの気持ちをどうすればいいのか、答えが出ないまま、その瞬間の感情をうったえた。
 尾形の言葉が受け入れられなかった。尾形は次に進むことを強調した。それは杏奈が尾形から離れなければならないことを意味していた。そして、尾形はそれを望んでいる。
 選び、選ばれなかった。
 そして残ったものは、己への深い嫌悪感と、不信感。取り返しがつかない後悔。
─いつになったら、この気持ちが癒されるのか…
 何をしたら、早く癒されるのか。救済のヒントを、アーユルヴェーダの中に見た。同じ状況にいる人を救うことで、己も救われるのだと信じた。
 杏奈は燃えるような赤い空を両眼に映しながら、かつて思い描いた夢を空に描いた。
 右手を目の前にかざす。次第に太陽は遠くの空へ低く沈み、杏奈が描いた想像は、夕闇が訪れた空に、薄く消えていった。
 誰のことも、何も変えられていない。いつになったら変えられるようになるのだろうか。それまで己が相手にするクライアントは、高いお金を払いながら、少なくはない時間を割きながら、何も得るものはないのだろうか。その人たちからしてみれば、自分はヒーラーではなく、詐欺師に映るかもしれない。悪意のない詐欺師に。そして真の癒し手となる時は、やってくるのだろうか。夢は、夢で終わるのだろうか。
─私の手には、負えないものなのか。
 杏奈は光を遮る必要がなくなった手を下ろした。それから、まだわずかに炎症の残る、力のなさそうな小さな手を、ぼんやりと見つめた。

 


 

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