「雨降ってきたよ」
小須賀はお勝手口からキッチンに入ると、独り言のように言った。
「帰り、送っていこうか?空楽」
正装姿で、キッチンでシミュレーションをしていた空楽は、手を止めて小須賀を見やった。
「…小須賀さん、その頃には帰ってるでしょ」
「あ、そうだった」
「大丈夫っす。沙羅さんが送ってくれますから」
「そっか」
早朝から、あかつきには一人のクライアントが滞在している。
鈴木愛子は、東京都と山梨県で二拠点生活を送っている五十代の起業家の女性だ。沙羅が主担当としてコンサルをし、午前中にアビヤンガをした。そして午後からは、空楽がウドヴァルタナをすることになっている。
「空楽、もう杏奈を抜かしてるじゃん」
「分担してるんです」
空楽が施術に入った後、息抜きにキッチンに入った沙羅は、小須賀のつぶやきに反応した。
「アビヤンガ以外のメニューは、習得にそこまで時間かからないんです。空楽ちゃんは二日おきのくらいのペースで練習してたから、十分ですよ」
空楽がウドヴァルタナの特訓に入ったのは、十二月を過ぎてからである。二週間と経たないうちにデビューすることとなった。
「もともと、センスありますしね」
それに空楽の手は、杏奈とは違い屈強だ。
愛子は、健康診断で腎臓の数値が悪かったことを気にしている。それから、太っていることも。起業家という立場もあり、外見はスマートに見せたい。だから彼女は、体重を減らしたいと思っている。彼女の希望に合わせ、夜ごはんのメニューはキッチャリーにする。
「こっちとしては助かりますね」
キッチャリーは至極調理が楽で、調達のことも考えなくて良い。
しかし小須賀は、クライアントの分とは別に、料理を作り置きしていた。
「にしても、腎臓が悪いクライアントの食事作るのは、神経いりますね」
「…まだ食事指導まで入る段階ではなかったので、今回はよかったです」
アーユルヴェーダでは、ホリスティックなアプローチをするため、腎臓だけに焦点を当てることはない。総体的にバランスを取ることで、問題が起こっている部分に癒しをもたらす。腎臓は、ヴァータ(風のエネルギー)に密接な関係があり、いわずもがな、尿を運搬する経路の起始点になっている。他の多くの場合と同様、ヴァータの鎮静、アグニ(消化力)を強くすることが、その機能を正常に保つための前提条件である。
しかし、腎臓病に対する食事療法が確立されている今、もし本当に慢性腎臓病のクライアントが来たら、献立を考えるにあたり、やはり現代栄養学の観点からの配慮も必要だろう。慢性腎臓病の重症度が上がると、たんぱく、塩分、カリウムの摂取を制限しなければならない。管理栄養士でもないあかつきの料理担当には、荷が重い話だった。
「旦那さん、年末年始には帰ってくるんですか?」
いきなり、話題が変わった。小須賀はコンロ台に腰を預けて、腕組みをしながら訊いた。
「帰ってきますよ」
「また去年みたいに喧嘩にならないといいですね」
「む…」
─覚えてたんだ。
去年の年始に、沙羅とその旦那・栄治は口喧嘩になりかかり(正確には沙羅が一方的に回りくどい嫌味を言われ)、その愚痴を小須賀にこぼしていたのであった。
「今年は喧嘩なんかしている場合じゃないですから」
それは、決して小須賀への強がりなどではなかった。
あかつきは年末年始も休まず営業する。稼ぎ時なのだ。幼稚園も休みになるため、子供たちのことは、夫を頼らなければならない。
─いや、頼るとかいう考え方自体が、おかしい…
別に夫は子育てのヘルパーではない。主体的に子育てをするべき立場にいるのだから。
「杏奈ちゃんも、年末年始は家に帰る予定ないみたいです」
「でしょうね」
「こ…」
小須賀さんはどうするのですか?と訊こうとした沙羅は、その言葉を飲み込んだ。小須賀にはもう実家がない。
「おれも通常運転っすよ」
が、小須賀は沙羅の飲み込んだ言葉を察して、飄々と言った。
「長年飲食業界にいるんだから、そのあたりはもう別に気にしてないっすよ」
「…そうですか」
「あとのメンバーは地元民だし、よかったですね」
「地元民…ああ、鞍馬さんと空楽ちゃんですか」
「うん。上沢も足込も同じようなものでしょ」
空楽の実家は上沢なので、細かいスケールではここは地元ではない。が、あかつきで仕事がある日は、月の姉夫婦のところに身を寄せることが多いようだ。近場ではあるが、空楽は二拠点生活を送っているのである。
「でも空楽ちゃんには、ちょっとまとまった休暇を出してあげないと悪いなぁ」
「どうして?」
「彼氏さんが、こっちに遊びに来るんですって」
「ええ~!!」
小須賀の声が思いがけず大きかったので、沙羅は急いで「しーっ!」と人差し指を口に当てた。
「二階まで声が届きますよ!」
「彼氏、こっちが地元?」
「さあ…そこまでは知りません」
「地元じゃなかったら、空楽の家に滞在するのかな?もうそういう関係?」
小須賀の態度は、冷やかしというより、狼狽だった。
「それとも、どっかのラ─」
「─やめましょう、そういう想像は」
沙羅は小須賀に向かって手を広げてみせた。
確か彼氏は名古屋で仕事をしていると言っていた。空楽がそっちに行くことも選択肢にあったはずだ。
「きっと、あかつきで仕事するために、こっちに残ってくれるんですよ、空楽ちゃんは」
小須賀は少し真面目な顔になり、それから、ふう…とため息をついた。
「技を仕込んでも、結婚したらどうなるか分かんねえなぁ…」
「…」
それは沙羅も同感だった。
美津子が空楽の教育に力を入れるよう、舵を切っているのは沙羅にも分かった。おそらく今後も、あかつき大作戦並みの波を乗り越えるための布石だろう。
幸いなことに、空楽は今、やる気がある。けれども…
─結婚するんで、退職します。
─内緒にしていてくださいね。自分のサロンをもつことになったので…
あかつきでスキルを覚えて、わずかばかりの貢献をした後、結局去っていったスタッフの存在を知る古参の二人は、その記憶が蘇った。
「実際、名古屋で働く彼氏と、フリーターの空楽が結婚したら、どう考えても空楽が融通を利かせることになる」
「そうですね…」
「普通に考えれば、そうだ」
「…」
「…空楽は普通じゃないってのは、おいといてね」
沙羅は苦笑いをした。
「こっちには仕事もないしな~」
小須賀は頭の後ろで手を組んだ。
「…まあ、結婚って言ったら、最初に心配するのは、杏奈ちゃんじゃないですか?」
「なんで?杏奈彼氏いるの?」
「いや…」
「なあんだ。沙羅さん、年齢順じゃないっすよ、結婚は」
沙羅はまた苦笑いした。余計なことを言ってしまったか。
「けれど、実際問題、今あかつきを動かしているのは杏奈ちゃんだから、杏奈ちゃんが抜けたら…」
「沙羅さんがいるじゃないすか」
「ふム…そうですけど」
「それに大丈夫っすよ。全然男の影が見えないし…」
と、言いながら、この間横に並んだ杏奈の髪の毛に指を通してしまったことを思い出して、小須賀は一人で苦笑した。杏奈は多面的な成長を遂げているが、外見的な部分もそこそこブラッシュアップしていた。
「?」
沙羅は小須賀の反応を怪訝に思いながらも、この問題の難しさと根深さを、まざまざと認識させられて気が重くなった。
あかつきから離れるリスクがあるのは、別に女だけではない。
今やあかつきは、美津子の個人営業の枠を飛び出して、チームで運営するスタイルを取りつつある。それを維持するには、強固なスタッフの結束が必要だった。しかしそのスタッフは、あかつきに留まる理由─使命感、やりがい、経済的安定─がないと、離れていってしまう。
「沙羅さんは、実質上、あかつきの二番手ですね」
と、また小須賀が突飛なことを言ったので、沙羅は小首を傾げた。
「もはや、経営者に近い立場でものを考えてるじゃないっすか」
「…よく言いますよ」
「へ?」
沙羅は唇を噛んだ。そんなことを言ったら、杏奈はとうに経営側の目線をもっている。あかつきで最初に会った時にはもう、そういう人だと分かっていた。そして、それを言うなら小須賀もそうだ。この人はたいがいふざけているが、常に経営側の頭で物事を見ている。
その日、沙羅は空楽と一緒にあかつきを上がった。
外に出ると、まだ雨が降っていた。
「ごめんね、子供たち迎えに行ってからその足で送ることになるけど…」
「全然。むしろすみません」
「ううん。いいの。月なら近いから…」
今日も、空楽は実家ではなく、姉・翠の家へ帰る。翠もまた、夫婦で経営する居酒屋がかき入れ時で忙しくしており、空楽はその手伝いをしているのだ。
「わー、結構強いね」
「ほんとですね」
二人は傘を差して、水たまりができている庭を小走りで移動した。門扉の前まで来た時、いきなりそれが開いて、
「わっ」
沙羅は足を止めた。扉を開けた人物は、傘でその顔が見えなかったが、門の軒下に立つと、傘を後ろにずらし、顔を上げた。
「あっ、杏奈ちゃん」
「おかえりなさ~い」
長野県でヨガニドラの合宿を終えた杏奈が、帰ってきた。
沙羅と空楽も軒下に入り、しかし雨をしのぐため、傘を差しながら話をする。
「小須賀さんが、杏奈ちゃんと美津子さんの夕食を、作り置いてくれてますよ」
「本当ですか?」
杏奈は驚きながらも、ほっとした様子だった。
「助かります」
憎まれ口ばかりたたく小須賀だが、よく気が回る人だ。
「どうでした?合宿」
「いや~…課題がいっぱいでして」
そう言うと杏奈は、リュックを優しくぽんと叩いた。杏奈が持っているスーツケースと、身体の背面は雨に濡れていたが、体の前側に背負っているリュックは濡れていなかった。この中には後生大事にしている、ありとあらゆる知識を詰め込んだノートパソコンが入っているのである。
「次の合宿までに、なんとかモノにしないとです…」
「ええっ、それは大変ですね」
「次、いつですか?」
「三月です。あと三か月ですね…」
杏奈と会話をしながら、沙羅は、先ほどの小須賀との会話を思い出していた。
─杏奈ちゃんは、全然心配なさそう…
少なくとも今は、あかつきの仕事に全力を尽くすことに対して、迷いのない目をしている。
今も杏奈は、疲れた顔は見せているが、一方でまた強い決意をしているように感じる。あかつきを強化する未知のスキルに対し、習得する困難さなどは問題にしていない。習得することなどは、当然だ。その先にどんなことをクライアントに施せるか。そんな期待を抱いているように見える。
─杏奈ちゃんはきっと、あかつきを軸に、今後のことを考える…
あかつきで働き続けるという前提で、他の選択をするに違いないように思える。もし、あかつきにいられなくなるような、人間関係の悪化だとか、怪我、トラブルが起こらなければだが…
「愛子さん、今日からでしたね」
杏奈に確認され、沙羅は頷いた。
「はい。進捗シートは記入しておきました」
「分かりました」
雨の中の立ち話は短かった。
「お疲れさまです」
三人は口々にそう言って別れた。
早朝、あかつきの台所に向かう頃、あたりは真夜中のように暗い。
やっとの思いで布団を出て、着替え、髪をとかして束ねると、ダウンベストを着て、杏奈は部屋を出る。ダウンベストはいい。袖が汚れる心配はないし、しっかりと体を温めてくれる。
台所に着くと、杏奈は一旦そのダウンベストを脱ぎ、エプロンを身に着けてから、もう一度それを着る。身体が温まるまで、脱がない。
冬の台所は、独特の良い匂いがすると、杏奈は思う。
「おはよう」
応接間のいつもの席から、美津子が挨拶をした。
「おはようございます」
杏奈は挨拶を返した。
朝食は蕎麦の実と玄米のお粥と、小松菜としらす、油揚げのお浸し。この蕎麦の実は、ゲイルが栽培したものだ。
美津子と杏奈は、朝食を愛子と一緒に取った。
愛子は一見おっとりとして見えるが、子育てがひと段落する頃から起業し、仕事のために新居を構えたほど、やり手の実業家だった。娘と息子がいる。夫とは数年前に離婚し、今は一人で暮らしている。仕事は主にオンラインで行い、あかつきに滞在中にも、客間に居ながら、大きなセミナーを開催する予定である。拘束時間や、場所を限定されないという意味で、愛子は自由な働き方をしていた。ここまで行くつくまでには、いろいろあったらしく、その始終を杏奈にも話してくれた。
「パソコン一台あれば、どこでも仕事ができる時代なんですね」
沙羅が愛子の施術をしている間、応接間に残った杏奈は美津子に話しかけた。
「最近は特に、そういうスタイルが広まってるわね」
感染症を経て、在宅で仕事をする人も増えた。もっとも、感染症が収束を見せてから、再び対面の需要が伸びているのが、最近の風潮であるが。
「ヨガニドラの次の合宿は、三月か」
「はい」
次の合宿までに自分のヨガニドラを作り、合宿ではそれを披露しなければならない。
「知識も受講歴もなかったので、これから色々なヨガニドラを聴き漁ろうと思っています」
まずはどんなヨガニドラがあるのか、知らなければならない。それと同時に、どんなヨガニドラが効果的だと感じるか、その要素を拾っていく。実際のインストラクションの言葉を決め、練習するのはそれからだ。
「杏奈」
「はい」
「じっくり取り組みたいところだと思うけれど、他の仕事と平行して練習してもらわなければならないわ」
「も、もちろんそのつもりです…」
美津子の声は、静かで穏やかだが、硬い意志が感じられた。こういう声で話す時、美津子はもう肚を決めている。
「三月に、あかつき大作戦の第二段をやる」
「第二段…!」
三月にやる、ということは、集客は少なくとも一月中旬には始めた方が良い。
すでに十二月中旬。企画を練る時間は一か月だ。あかつき大作戦が終わり、やっと一息ついたところだというのに…
─これが…
仕事をコンスタントに入れる、ということだ。あかつき大作戦の後から、美津子は普段の会話の中でも、しきりにその必要性を強調した。
「美津子さん、あかつき大作戦は、四半期に一度くらいの頻度で開催していく感じですか?」
「分からない」
「分からない…」
あかつき大作戦という名の、シーズンごとのキャンペーンは、一時的に利益を増大させる。しかし、これによって他の月の潜在顧客がこの月に集中し、年間を通しての売上アップにつながらないのでは意味がない。四半期に一度、という頻度も適切かどうか疑問である。
「あまりキャンペーンが多すぎると、限定感がなくなります」
いつでもキャンペーンをしているならば、いつ行っても一緒、ということになってしまう。
「杏奈」
「はい」
「あかつき大作戦で、私たちはあかつきの実力を知った」
正直、ギリギリのところで回っていた、という肌感だ。
「私たちの今後の課題は、これをギリギリと感じずに、コンスタントに回していけるよう、体制をととのえ、スタッフ一人ひとりの力量を強化すること」
それは、杏奈も認識していた。ここ数日、美津子とずっと話していたことだ。
「三月から、あかつき大作戦中特典としていたことを、通常のサービスとして見せていく」
「えっ?」
「受け入れ人数も、最大四人にしましょう」
「ええっ?」
杏奈は眉間に皺をよせた。美津子の言っていることを理解し切れているのか、分からなかった。
「…つまり、あかつき大作戦第二段というより…三月からはずっと、十一月の状態を維持していく、ということですか?」
「そのつもりで臨む」
杏奈は口をぽかんと開けた。
クライアントが相部屋を許す限り、最大受け入れ人数を四人に増やす。健康日記のチェック、テキストの付与も続行。ヨガや自然体験、料理教室といった付加価値も、需要がある限りいつでも対応できるようにする。
「まあ、実際に三月からずっとあの規模で来られたら、身がもたないけど」
そう言うと、美津子はふっと相好を崩した。
「そのくらいの心意気でないと、うまくいかないわ」
「…」
「難しいと思う?」
杏奈が口を開けたまま、気の抜けた顔をしているので、美津子は首を傾げた。
「…いえ、できるか、できないかではなく…そうなったら、嬉しいと思っていただけです」
やるかやらないかで言ったら、答えは最初から決まっていた。願ってもないことだ。
「ただ、正直、クライアントが来た時の対応よりも、クライアントをそんなにコンスタントに呼び込むことの方が大変だと思ってしまいますね」
「本当よ」
「集客に割く時間は、もしかしたらサービス提供の時間よりも多いくらいかもしれないですよね」
「ええ。集客の作戦もどんどん変えていかなきゃいけないだろうし、そこにスタッフの時間を割くことになるわね。となると、状況を見て、足込温泉へのお弁当納品は、ゆくゆくは止めてもいいかもしれない」
それは、本質的なあかつきの仕事ではない。ただ小須賀を引き留めておくために作った仕事だった。
「ヨガ部門については、杏奈がヨガニドラを習得したら、即戦力になってもらう」
「はい」
お腹が少しキリリとした。なんだかんだで、プレッシャーを感じているらしい。
「もう一人、力になってくれそうな人に声をかけている」
それが誰なのかについては、美津子は言わなかった。
「鞍馬さんは本業があるから、それを邪魔したくないけれど…これからもあかつきのヨガ担当として、表に立ってもらわなきゃならない」
そのビジュアルの良さは、集客の大きな武器になっている。ビジュアルだけが鞍馬の取り柄ではないが、ことインスタ集客においては、大切なのは「絵」だった。
「問題は、鞍馬さんの気持ちをどう保つかね」
鞍馬は、あかつきでヨガを教えることに前向きになったように見えるけれど、それに加えて他にうま味があれば心強い。
「施術部門については、一番伸びしろのある空楽を、どこまで伸ばせるかだと思う」
美津子が空楽について気にしているのは、施術のスキルではなく、アーユルヴェーダの知識のことであった。空楽は実践的なスキルを先行して身につけたが、知識が追い付いていない。ここの教育をしっかりやらなければ、カウンセリングとオイル選びの精度が上がらない。
「沙羅と空楽と話をして、契約を変える」
「契約を…」
美津子はこくんと頷き、まっすぐに杏奈の目を見た。
「正社員として雇いたい旨を、話そうと思う」
「え?」
急すぎる展開に、杏奈はついていけない。
「本当は小須賀さんもそうしたいのだけれど、さすがにこっちを本業にしてとは言えないわね」
確かに、仕事を多く取っていくのであれば、それに対応するスタッフの体制を整えることが必要だ。そのために社員を増やすことは、とても重要だと思うが…
─仕事が取れなかったら…
人件費だけ出ていく。あかつきの経営が厳しくなる。
杏奈は目線だけを上げて美津子の顔を見た。美津子の目には、この大胆な決断への憂いや迷いが、ほとんど感じられなかった。
「あ、そうそう。あなたのお給料もそろそろ上げなければね」
「えっ!」
美津子がさらっと言ったことに、杏奈は飛び上がるくらい驚いた。そんなことを言われたら、やるしかないではないか。
─いや、美津子さんは意外と、いつもこういうやり方だったな…
背水の陣を敷いて、戦う。仕事を取ってから、必要なことを洗い出し、必ず間に合わせる。
「そ、それは嬉しいですけど…」
杏奈は膝の上で、手を揉んだ。
「あかつき大作戦中のサービスを通常サービスに移行する際に、障害になる事項については、私がまとめて対策を練るわ」
美津子はいよいよ、核心に触れた。
「三月に向けて、杏奈にお願いしたいことは…」
ホームページの刷新、具体的な集客方法と、それを展開するスケジュールを引くこと。
「これを、沙羅と一緒に進めてほしいの」
「沙羅さんと…」
「それから、羽沼さんに」
「羽沼さん?」
美津子は頷いた。
「積極的に、外注していく」
「外注!?」
つまり、これまでボランティアでアドバイスをしてくれていた羽沼に対し、契約を結んで携わってもらうということだ。
「だから、羽沼さんに委託できる部分を明確にしておいて」
「…」
「杏奈」
「あ、はい」
「ポイントは、一人でやらないこと」
そこを美津子は、念押しした。
「これからのあかつきは、今よりもっとチームでの動きが大事になっていく。司令塔の部分は沙羅と一緒に、他の部分でスタッフが手伝えそうなことは分配して各々にやってもらう」
「…」
「と同時に、受け入れ人数、サービスとも、あかつき大作戦並みにしてこれを保つために、スタッフ一人ひとりがどんな通常業務を担うべきか、考えてほしい」
このタイミングで、美津子はあかつきの業務整理をしようとしている。
社員を増やすのであれば、社員に与える仕事も作らなければならない。むやみにどうでもいい雑用をあてがうのではなく、あかつきを強くするために、効果的なことを任せたい。そのために、今まで美津子や杏奈が必要性を感じ、その時々に応じてやってきたことを明確化し、誰でもできるようにするのだ。
「…頑張ります」
杏奈がそう言うと、美津子は微笑を浮かべた。
美津子にしては、せっかちというか、余裕のないスケジュール感である。
しかし、三月は、花祭があり、季節の変わり目でデトックスにも最適な時期。スタートダッシュを切るには絶好のタイミング。それに、あかつきでのサービスを効果的にアピールするには、あかつき大作戦の手法を覚えているうちがよかった。
「美津子さん」
話を終え、仕事に戻っていた美津子に、杏奈は小さく声をかけた。今の話の流れで、自分の思いを口にしておこうと思ったのだ。
「考えていることがあるんですけど…」
「困るよ、羽沼ちゃん」
創作和食居酒屋・彩で、忙しく立ち回りながら、翠は羽沼に当てつけるようにいった。
「こんな大変な時期に、うちの戦力を取っていくようなことは」
羽沼はいつものカウンターに座り、お猪口を手に持ちながら、言葉に詰まった。
空楽は、今日は美津子たちから夕飯に誘われているらしく、彩でのバイトをその間だけ休んでいる。一方、彩ではこのところ忘年会での利用客が増え、目が回るような忙しさだった。今日も、金曜日ということもあって、彩は混み合っている。
─あかつきへの愚痴を、僕に言われても困る。
と言いたいのは山々だが、自分はあかつきの身内でないとはいい切れない。
─今までのお礼です。
先日あかつきを訪れた際、美津子から心付けを渡された。
もともと、個人的な思い入れがあり、あかつきと関わらせてほしいと言い出したのは羽沼のほうである。報酬など、当てにしていなかった。しかし、美津子は封筒を差し出したまま、譲らなかった。
─十分すぎるほどに、サポートしていただきましたので。
そして今後仕事を依頼する場合は、どのようにしたらよいかと尋ねられた。もっとも、今度はボランティアではない。
─どのような仕事ですか?
そう尋ねたが、美津子は笑った。
─それは分かりません。
これから見つけると言った。しかも、羽沼の活用の仕方を考えるのは、美津子ではないらしい。
どっと笑い声が聞こえて、羽沼の思考はそこで遮られた。
座敷の奥の席。そこに座るお客の中の一人に、羽沼は柱の影から焦点を合わせた。瑠璃子がいた。
その集団は、町役場の面々。そこに瑠璃子がいるのに、羽沼はすぐに気づいた。
そして、瑠璃子も。
熱烈な視線を、送ってしまったのだろうか。羽沼が瑠璃子をちらりと盗み見ると、その度に目が合う。そうやって視線を交わし合うのも、もう何度目か。
─待っててくださいね。
そして先ほど、席を立った瑠璃子が、羽沼にこっそりそう告げた。
─参ったな…
瑠璃子との仲を深めることを、羽沼は完全にはポジティヴに捉えていない。
しかし、瑠璃子と視線を交わすたびに心臓が高鳴り、あとで二人で会う約束をして胸が膨らむのを、どうすることもできなかった。
ここから徒歩圏内で行ける飲み屋は存在しない。飲み屋どころか、喫茶店すらない。翠や空楽に冷やかされる可能性があっても、二人が彩で呑み続けるのは、だから、そのためである。しかし、羽沼からしてみれば、この酒づきあいが「秘めるべきことではない」という、最後の抵抗なのだった。
忘年会が終わった後、瑠璃子は適当なところで言い訳をつけて、彩に引き返してきた。そして、瑠璃子は努めてなんでもないような顔をして、羽沼の隣に座る。
─いや…。
その二人の様子を見て、心の中で激しい突っ込みを入れていたのは、翠である。
─なんでもないことはないだろう。
せめて二人を、隅っこのカウンター席に移した。このほうが視界に入らないし、声もあまり聞こえない。そうでなければ、翠は気になって仕事にならない。
地域振興課の忘年会は、もう何年か、彩で行われている。今年は少しいじりがいがある後輩・井上がいるが、それでも瑠璃子は退屈していた。そんな時、羽沼の姿を見た。
─待っててくださいね。
よくそんなことを言えたものだと、自分でも思う。そして、部署のみんなをうまく巻いて、ここへ戻ってきた。
なぜ自分がそんな大胆な行動を取るのか。
瑠璃子は今まで、心に芽生えた気持ちを認めようとしなかったが、少しずつ、受容の姿勢を取るようになっている。自分はただ、この人と一緒にいたくて、戻ってきた。
「あかつきが、羽沼さんをコンサルとして雇いたいと言ってきたんですか?」
羽沼は、今しがた瑠璃子に、美津子と話したことを伝えた。
「分からない」
どんな仕事を任されようとしているのか、それは羽沼には分からないし、美津子も現時点では決めていない。おそらく、それを考えるのは沙羅か、杏奈なのだろう。
美津子に今後も関わってほしいと言われたのは、もちろん嬉しかった。自分の能力を買ってもらえていると自覚できるのも嬉しかったが、またあの書斎で、あかつきのスタッフたちと実のない会話ができるかと思うと、嬉しかったのである。
「でも僕は、集客コンサルが本業じゃないから」
小手先のテクニックや、大枠は分かるが、専門家ほど詳しくはないし、日々の知識の更新が間に合っていない。集客を安定させたい、というのなら、頼るべきは他の業者またはフリーのコンサルタントである。
「携わるとしても、webコンテンツや動画の制作代行という形になるだろうね」
集客戦略を立てるのはあくまであかつきだが、羽沼に制作代行を依頼することで、コンテンツを作る手間が省ける。
「たぶん、あかつきが困ってるのは、集客メソッドよりも単純に人手」
人がたくさん来ても、対応できるだけの余力がない。
「今のメンバーがやってる情報発信を僕がする代わりに、他の仕事ができるようにしたいんじゃないかな」
「でも、情報発信は大切な仕事ですよね。私には、たとえばプレイヤーとしてのセラピストを養って、経営的な高度な仕事を今のスタッフがやっても良い気がします…」
「うーん」
羽沼は頷く代わりに、唸るような声を出した。
「東京だったら、それができるかもしれないね」
「…」
「でも足込町には、セラピストの成り手は少ない」
あかつきが求めるような雇用形態で働きたいという人が、都合よく登場するか分からない。それに、一からの教育が必要であれば、戦力になるまでに時間がかかる。
「それに、空いた時間にする他の仕事っていうのは、たぶん、情報発信より高度なことなんじゃないかな」
他には任せられないようなこと、あかつきの使命を果たすための本質的な仕事をするために、時間を割きたいのだ。
「じゃあ、あくまでメンバーは今のままで…」
「情報発信の一部を僕に」
これはいい判断だと、羽沼は思う。
正直、最近はSNSもブログも、SEOを優位に、認知されやすくするためのテクニックが高度化されすぎている。杏奈は素人ながら、今までそれに食いついて、割といい線をいっていたほうである。しかし、今後はもっとこれに特化した学びを続けなければ、とても太刀打ちできない。
SNSやブログは、集客の最初の入り口「認知」の段階であり、そこだけに注力するわけにもいかないが、多くの人が、この認知の段階でつまずき、時間を取られている。
「餅は餅屋。この方が効率的だよ」
特に羽沼は、動画部門に関しては専門性が高く、あかつきの不得意分野をうまく補える。
「それにしても、美津子さんっていう人は、不思議な人だね」
「あかつきのオーナーですか?」
羽沼は頷いた。心付けを渡され、これからもよろしく頼むと言われた時に、そう思った。
「最前線で仕事をしてるんだけど、どこか傍観してる」
「傍観、ですか…」
「うん」
けれど、見離しているとか、他人事にしているとかではない。
「美津子さんは、それでも最終的には、自分が責任を取るっていうスタンスの人だね。きっと」
それはもう、確実にそうだ。
「前の会社にも、そういう上司はいた。でも美津子さんは、そういう上司ともどこかちょっと違う…」
そう言われて瑠璃子は、美津子のことを思い出した。年齢を感じさせない、楚々とした美しい、聡明そうな女性。常に微笑を湛えていて、安心感がある。確か、足込幼稚園に勤務し、園長を勤めていたと聞いていたが…
「子供と関わってきたからじゃないでしょうか」
それで、瑠璃子はそう言った。
「子供?」
瑠璃子はこくりと頷く。
「分からないですけど。でも…」
美津子とそう何回も接触していない瑠璃子でも、それは感じた。母親が小さい子供を見守るような、包み込むようなあたたかさを。
「美津子さんはたぶん、保育現場で子供と関わってきた時間が長いので、上司が部下を見るというより、親が子を見守るような…そういう感覚で、スタッフを見ているんじゃないでしょうか」
子供のしたことに、無条件で責任を取るのが、親だ。そして、親は子供の成長のために、少し難しいようなことでも挑戦させて、後ろからその背中を見守る。
─あ…
それで、羽沼はすんなり納得できた。羽沼も、美津子と会って割とはじめの頃から、何かあたたかい雰囲気を感じていたが、そういうことだったのか。
「母親の目線でスタッフを見守ってるって…すごいね」
どうしたらそんなことができるのだろう。
「…美津子さんは確か、お子さんはいなかったはずだけど」
だからいっそう、羽沼は美津子に敬服できた。
「本当の子供じゃなくても、子供と長い間接していたから、そういう姿勢が身に着いたんでしょうね」
瑠璃子は控えめにふふふと笑った。
「それに、たぶん分かってるんですよ。親が子供を成長させるようで、実は子供がいるからこそ、親が成長できるっていうことが…」
「…」
瑠璃子はくいっと日本酒を飲んだ。恰好をつけたようなことを言った後で、相手に沈黙されると、ちょっと気まずい。
「…子供って、すごいです」
「…そうだね」
「あ、でも、普段は怒ってばっかりですけど」
「知ってる」
羽沼が笑ったので、瑠璃子は少しほっとして、
「私ももう一人くらい子供を生みたかったな…」
そんなことを口走ってしまった。そう言ってから慌てて、咳ばらいをした。
─何言ってるんだ、私…
ママ友に話すような勢いで、羽沼に話してしまった。さすがに気まずく思い、羽沼の様子を伺った。
羽沼は微笑を浮かべているが、その笑い顔が、瑠璃子には少し寂しそうに見える。それで、一つの仮説が立った。
─もしかして、羽沼さんも子供がほしかったんじゃ…
しかし、何らかの理由で妻と別れ、それが叶わなかった。
─だったら…
別の人と、その願いを叶えようとは、思わないのだろうか。
「羽沼さんは、再婚しようとは思わないんですか?」
瑠璃子は落ち着いた声で、そう尋ねた。感情が声に反映されないように、さりげなく。
─聞いてみたかった。これを。
いつからか、ずっと。
しかし、沈黙の間、瑠璃子はこの質問をしたのは間違いだったと自覚することになる。羽沼は朗らかな表情を装っているが、明らかに雰囲気が変わった。
─結婚に、トラウマがある人なのかもしれない。
その可能性に思い至った。
瑠璃子はようやく、そのトラウマを抜け出した。五年もかかった。しかし隣に座るこの男は、もしかしたら、まだ過去のトラウマを笑い飛ばすほどには、十分な年月を経ておらず、傷が塞がっていないのかもしれない。
「どうかな」
瑠璃子は、謝りたかった。しかし、思ったように声が出なかった。知ってもらいたかったのに。傷つけるつもりはなかったのだと。
しかし、それからの会話の中で、羽沼は気を害したような様子は見せなかった。粟城へと続く夜道を二人で歩いている間も、いつも通りだった。
それぞれの家への分岐で、瑠璃子は思い切って、来週も二人で呑まないかと誘った。けれど、
「ごめん」
ほとんど考える間もなく、断られた。
「仕事があるから、無理だと思う」
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