この日の料理教室のメニューも、夜ご飯用ということで、消化に軽い料理が中心となった。
テーマは、ヴァータ・ピッタをバランスする料理。体質診断の結果、宇野はピッタ優勢であった。季節的にもピッタが乱れやすい。しかし、直近の「不眠」という症状は、ヴァータが関与している可能性もあることから、ヴァータにも配慮する。
「サフランは、クラッシャーなどで粉々にして、お湯に浸しておくことで、発色が良くなります」
宇野に、スパイスクラッシャーでサフランを潰すという作業をしてもらいながら、杏奈は説明した。サフランの色素成分の一つ、クロシンが睡眠障害を緩和してくれるとも言われている。浸けている間、バスマティ米を洗ってもらう。主食のサフランライスを作るのだ。
「かぼちゃは甘くて、重みがあって、体を潤します。ヴァータにも、ピッタにも良い野菜です」
メインは、かぼちゃとムングダルのカレー。カレーといっても、ルーを使ったそれとは似ても似つかない、スリランカ風のカレーだ。スパイスの入りの、かぼちゃとイエロームングダルのぽってりとした煮物、といったところだろうか。
「宇野さんは、ご自身がピッタだなと思うところ、どこかありますか?」
体質診断や、昨日の講義を振り返ってみて…と、杏奈は付け足した。宇野は杏奈の指示の通り、鍋にオイルと、マスタードシードを加える。マスタードシードが弾けるのを待ちながら、宇野は少し首をひねった。
「なんだろう。短気かもしれない。平均くらいの背格好とか?」
つい最近入れたばかりの知識なので、そう自分に当てはめて考えてみたこともない。
「競争心は、少しあるかもしれないですね」
「スポーツやってらっしゃるんでしたね」
「はい。あと勉強とかも。負けず嫌いですかね」
うんうんと杏奈は頷く。数歳年下だが、受け答えが素直で、話しやすい人だ。日頃、相当アクの強い小須賀と接しているからか、落ち着いた宇野との方が、スムーズに話せる気がする。
時々何気ない会話を挟みながら、調理を進めていく。次は、アボカドとカッテージチーズのマリネだ。
「乳製品の重さは、グラウンディング、つまり地に足がついた感じのことですが…それを助けます」
それは、ヴァータを鎮静することに繋がる。ヴァータは風の要素をもつ。心がふわふわ、ざわざわして落ち着かなかったり、フットワークの軽さが過剰になって動き回ってしまう場合、どっしりと地に足をつけるということが大切なのだ。
「酸味があって発酵した、塩気の強いチーズは、ピッタを増やすので、こうして牛乳からカッテージチーズを作ると良いんです」
牛乳を沸かし、レモン汁を入れてしばらく煮ると、あっという間に分離して、固形物が浮かび上がる。それを濾すだけだ。
「宇野さんは、ご自宅ではどんなものを作られるんです?」
「そうですね…」
考えながら、アボカドを適当な大きさにカットする。事前に切ると変色するので、これだけは和える直前に切る必要があった。
「焼き餃子とか、シチューとか…」
一人暮らしの大学院生とは思えないほど、まともな料理の名前が出た。
「すごい。きちんとしたもの、作ってますね」
自分でさえ、一人暮らしの時代、そんなものを作っていた記憶はない。宇野は謙遜するように首を振った。
「でも、バイトのない休日だけ。平日は、弁当買ったり、学食で済ませたりすることが多いです」
「休日だけでも、ちゃんとしたもの作ってるの、すごいですよ」
宇野は杏奈の方を見ず、鍋の中に視線を向けたまま、口元に微笑を浮かべた。
カッテージチーズとアボカドに調味料を加え、和える。これで副菜は一つ出来上がった。
杏奈はバインダーに挟んでいるレシピをめくる。
「ここまでで何かご質問ありますか?」
宇野は唇を結んだ。品の良い、薄い唇だった。
「調理道具なんですけど」
「はい」
「うちはこういう業務用の鍋とかがなくて」
宇野は、カレーを煮ている鍋を見た。
「普通の鍋なんですけど、煮込み時間とかあまり変わりませんか?」
多分、素材はアルミか、ステンレスだったと思う、と宇野は伝えた。
「そうですね、多少熱伝導率とか、保温性が違うと思いますけど、そこまで変わらないと思います」
今使っている鍋も、別に業務用のものではない。弁当作りの時など、ロットが大きければ業務用のものを使うが、たかだか三人分では、家庭用の鍋で足りる。
「今お持ちの鍋の特徴を知っておくといいですよ。さっき、油にマスタードシードを入れて弾けさせましたが、あれも、鍋やフライパンによって、弾けるまでの時間が大分変わってくるんです。同じ火力であっても」
「そうなんですか」
「はい。いろいろな道具を試せると、自分にとって使いやすいものが分かってくるんですけどね」
そう言った後で、杏奈は苦笑した。
「と言っても、私は結局、同じようなものを使い続けちゃうんですが」
冒険心がないといえばそれまでだが、物持ちが良いのである。
「一回いいと思うと、そのメーカーのもの使い続けちゃいますね」
「どこのメーカーの、持ってるんですか?」
杏奈は以前使っていた鍋やフライパンを思い出して、メーカー名を列挙した。そのほとんどを、あかつきに引っ越す際、実家に置いてきたのであるが。
「こういうのも、サンスカーラなのかもしれないなぁ」
杏奈は、自分は過去の印象に固執しやすい、と思う。
「なんですか?」
ここ二日間、アーユルヴェーダの講義で、さんざん聞き慣れない専門用語を聞いてきた。そしてまた、この先生は奇妙な横文字を繰り出す。
話の途中だったが、二人は、豆とかぼちゃの煮え具合を確認した。火を入れすぎると、かぼちゃがとろけてしまうので、注意が必要なのだ。
「サンスカーラ、日本語に訳すと残存印象。これはヨガの言葉です」
宇野に仕上げのレモン汁を絞ってもらいながら、杏奈は説明をする。
「過去の経験がある物事への印象を残すと、人はその印象に基づき行動をしがちです。でも、それが続くと考え方の癖ができて行動パターンが狭まってしまう」
たとえば、と杏奈は先ほどの話を例に挙げる。Aというメーカーの鍋を使って、すごく使いやすいと思ったとする。後日、別の調理道具を買いに行き、たくさんのメーカーの商品が並んでいるのを見る。それでも、過去にメーカーAの鍋は優秀だと思った経験から、メーカーAの製品を購入する。もしメーカーAのイメージから離れ、他の製品を使ってみたなら、別の発見をしたかもしれない。
「こういう例えで合っているか、分からないですけど」
カレーにレモン汁と香り付けのパウダースパイスを加え、優しく混ぜる。
杏奈は、自分の昔の経験を例に、残存印象の説明を続けた。杏奈は小学生の頃、ハードルが苦手であった。股関節の柔軟性に欠けるのか、飛び越えた後、じいんと痛んだのだ。だから、体育の授業で、またハードルを練習すると知ると、憂鬱な気分になる。同じように、スピードや、体の柔軟性を求められるような競技を行う際には、ハードルのことを思い出して、自分には向いていないと思う。あわよくば避ける。
「だから私は、陸上部にはとても入れません。運動ができる人は、羨ましいなって思います」
宇野が陸上部に属していると聞いたので、そんな例を挙げた。サンスカーラについて、宇野は「なんとなく、分かりました」と言ってくれた。
杏奈は再び、レシピをめくった。まだ最後の料理が残っている。小松菜のフェヌグリーク炒めだ。レシピを読み上げてから、杏奈はちょっと反省した。いつものことだが、一方的に、自分だけがマニアックなことをしゃべり過ぎたような気がする。
「宇野さんは、そういうの、あります?」
それで、聞いた。
「過去の印象に引っ張られてるなーって感じること」
宇野は少し肩をすくめた。宇野に話を振ってみたのものの、難題すぎただろうか。
反省しながら、自分と同じように肩をすくめている杏奈を、宇野は横目で静かに観察した。若く見えるが、ちっとも若く感じない雰囲気をもっている人だ。翳があるのだ。暗闇の中で息を潜めて、じっと何かを待っている。宇野は杏奈を見ながら、ここ半年間の自分を見ているような気がした。
このようなところで働いているということは、彼女もアーユルヴェーダから何かを見出そうとしてのことなのだろうか。きっかけは、自分と同じようなことではないだろうかと宇野は思った。真実は分からないが、
「それって、物だけが対象ですか?」
宇野は杏奈に尋ねていた。勝手に抱いた共感がそうさせたのだろうか。
杏奈はフライパンを五徳に置きながら、わずかに口角を上げた。分からないで終わらせずに、ちゃんと考えてくれているのが嬉しかったのである。それを見て、宇野はこの人も笑えるのだと思った。
「例えば?」
宇野は鍋、杏奈が置いたフライパン、そして、杏奈のほうを見た。気づけば、喉元に熱いものがこみ上げていた。
「こうして、女の人と二人で料理を作っているっていうシチュエーションが─」
杏奈は瞬きをした。口角はまた、元の位置に戻った。得体の知れない緊張感が走る。
「彼女のことを思い出させます」
宇野は、ぽつりと言った。
「これも、残存印象ですか?」
杏奈は嫌な予感がした。しかし、杏奈は分かっていた。聞かねばならない。
「宇野さん、彼女さん…いらっしゃったんですね」
宇野は、頷いた。杏奈の表現は、正しい。
「いました。半年前に、くも膜下出血で亡くなりましたけど」
─いたッ。
結月は、真新しいミル付きのブラックペッパーの包装フィルムを爪で破こうとして、その尖った部分で、指を擦ってしまった。長い指の先を、口に含む。宇野は、ブラックペッパーをひょいと掠め取った。
─どんくさいなあ。
フィルムを取り、結月に渡す。
─こんなんじゃ、いい看護師になれんよ。
─いいなァ、勇紀はなんでも器用にこなせるもんなァ。
心底そう思う、という風にため息を吐いた。
並んで立つ二人の背丈は、宇野のほうがわずかに高いが、ほとんど同じ。結月は、すらりと長い手足をもっていて、スタイルが良い。
結月は幾分背中を丸めて、横から宇野の顔を覗き込んだ。そうすると、少し上目遣いになる。宇野が結月に顔を向けると、彼女は急ににっこり笑った。
─でも私、看護実習ではテキパキしてるって褒められるんよ。
─あっそ。
そっけない返事をして淡々と料理をする宇野に、今度は結月は、頬を膨らませてみせた。表情豊かな娘だった。
─私ね、凄腕の看護師になれると思う。
宇野は、片方の眉を吊り上げた。
─みんな、私に注射されたいって、きっと思うよ。
宇野はすう、と息を吸っただけで、それには答えず、黙々とパスタに使う食材を切った。
─なになに、なんで無視するん。
宇野はにやっと笑って、口笛拭きながら、手際よく野菜を切る。料理の腕は自分の方が良いという自信があった。
─感じワル…。
「彼女はアーユルヴェーダに興味を持ってました」
宇野はフライパンを火にかけた。ゴッと音を立てて、火が燃える。
「看護師の仕事は、死に向き合う仕事でもあるから」
学校で教わることのできないことを、様々な方面から学ぼうとしていた。
「看取りをする側になったら、今の自分じゃ、絶対にメンタルやられる。今のうちに自分自身をケアする方法を知りたいって」
宇野はフライパンに油を入れ、フェヌグリークを入れた。杏奈はそっと、刻んだ小松菜の入ったボウルを宇野に差し出す。
「それから、患者さんの家族にどういう言葉をかけるべきか、とか」
宇野の彼女は、とても心の優しい子だったらしい。
フェヌグリークがこんがりしてきた。
「もう、いいですよ。入れて」
宇野は小松菜をフライパンに投入する。
「グリーフケアっていうんですよね、そういうの」
「はい…」
杏奈は、死別の悲しみを抱える遺族のサポートについてはよく知らなかった。言葉だけ聞いたことがあるくらいで。
「でもまさか」
自分のほうが、その必要性を感じることになろうとは。
心の扱い方を、どのように学ぶことができるか。結月は常にアンテナを立てていた。そんな時、インスタであかつきの投稿を読んだ。クライアントの声を紹介した投稿だった。
結月はマインドを安定させるヒントを、アーユルヴェーダが持っていると感じるようになった。
─ねえねえ、勇紀。
─ん?
─あたし、ここ行ってみたいなァ。
─どこ、それ。
─アーユルヴェーダの施設。足込町ってとこにあるらしい。
─マジで、どこ?
─わっ、すっごい田舎。
─ホントだ、一面クソ緑やな…。
─あたし、運転できやんやん。連れてって。
小松菜の炒め具合を見ると、もう火を止めてもよさそうな塩梅だった。
「あっ、塩を加えてなかったですね」
杏奈はうっかり味付けを忘れていた。料理教室を完遂しなければと思う一方、個人的な話を明かしてくれた宇野に何かフォローをしなければと、内心焦っていたのだ。
「彼女さんが亡くなって半年前って…まだ、最近のことじゃないですか」
「はい」
宇野には感傷的な様子はあまり見られない。けれどそれは、必ずしも彼女の死を乗り越えたことを意味しない。
「その経験は、宇野さんの中で…その、受け入れられているのでしょうか」
杏奈は言葉を選ぶのに苦労した。そして、あまり憐れんだ話し方になるのもどうかと思い、できるだけしゃきしゃきと話した。宇野は首を傾げ、苦笑いした。
「いやぁ…受け止められへんよ」
宇野は、敬語を忘れた。本音が出てきたらしい。
「とてもまだ、現実とは思えん。正直どうしたらいいのか分からん…」
料理するものはもう何もないのに、二人は並んで、コンロを見つめていた。
「大学行ったら友達に慰められるけど、お前に何が分かるって思う。実家に帰ると、家族に生やさしい対応されるから、今まで通り下宿先におるけど、一人でおると、どうしていいか分からん」
特に、二人が一緒に過ごしていた土日は。
杏奈は宇野の言葉を聞いて、下手なことは言えないと思った。こういう場合、同じ経験をしている者にしか、心を開けないのではあるまいか。そう思ったのである。
「カウンセリングで、美津子さん…オーナーに、そのことはお話いただいてますか」
「いえ。すごい、個人的なことですし」
宇野は元の口調に戻った。
「僕自身も…そのことについて話すのが、まだ、ちょっとキツいんで」
「思い出させてしまって、申し訳ありません」
「いえ、僕が勝手に話したので」
杏奈は、とりあえず、できた料理を盛りつけにかかった。
「…ごはん、食べられそうですか?」
悲しみの感情を抱いている者は、消化力が弱っている。悲しみの根源となる記憶が蘇った今、すぐに食事をするのは適切でないように思える。
「はい、大丈夫ですよ」
宇野は、気持ちを切り替えたように、さっぱりと答えた。
気丈に振舞っているだけで、本当は、泣きそうなくらい辛いのではないか。杏奈は盛り付けの指導をしながら、いったん美津子に相談しようと、心に決める。
宇野は、不眠を解決しに来たのではなかった。喪失感にどう対処すればよいのか。自分の心をバランスするための方法を、知りにきたのだ。
宇野が夕食を食べている間、杏奈は片付けをしながら、頭の中では先ほどの宇野との会話を思い出していた。
手を動かし、体を動かして片付けをしている間に、杏奈の思考はいろいろなところを行ったり来たりする。
苦い後悔を思い出した。それは、つい最近経験したものだ。
炎天下の中、汗をかき、疲れ果てた顔で、彼女は悪態を吐いていた。彼女の悪態は、今思い出してみれば、悲鳴のように感じられなくもない。
─美真さん。
杏奈は食材をしまう手を止め、キッチンの壁を見るともなしに見やった。
彼女はきっと、ずっと話したかったのだ。自分がその話をしたことを、他の誰にも知られる心配のない誰かに。親でも友人ではない誰かに。誰でもいいから、心の中で思っていることを外に出すきっかけが欲しかったのだ。
けれど杏奈は、彼女の話を引き出せなかった。あの後、あかつきに向かって歩いている間、体を動かしている間に、言葉はいくつも出てきた。しかし、その時にはもう、美真は遠いところに去っていた。
でも今は違う。宇野は、まだここにいるのだ。
─男の人は、女の人とは違うだろうか…
男、女で区別がつけられるわけではないが、女の方が、より感情を外に出し、共感を求めるきらいがあるように杏奈は思った。宇野は、一体どっちなんだろう。
食事の時間の合間に、美津子の居室にて、杏奈は早口に彼の事情を説明し、美津子に意見を求めた。
「彼はご自身の胸の内を、外に出したいとは思っていないのでしょうか?」
宇野から離れた所にいるというのに、杏奈は声を潜めていた。美津子は涼やかな目を杏奈に向けた。
「彼が望むか望まないかに関わらず、彼の今の感情は、間違いなく体に影響していることでしょうね」
「個人的なことなので、カウンセリングでは話さなかったと言っていましたが…できれば、話してほしかったですね」
「そうね。事情を知っていれば、また違ったアプローチもできただろうに」
杏奈は瞬きをして、美津子を見つめた。美津子は杏奈の瞳に、期待の光が宿るのを見た。
「あのう…美津子さんは、事情を知っていれば、どんなアプローチを取ったのですか?」
「私には今すぐ答えられない」
柱にもたれかかって、美津子は両肘に両手を当てた。
「でも最初に話してくれれば、少なくとも、考える間はあった」
そう言ってから、美津子は不思議そうな顔をして、
「どうして今になって、宇野さんはそのことを話したのかしら」
今思い出したように訊いた。杏奈は肩をすくめた。
「分かりません。でも、いつ話してもおかしくはなかったような気が…します」
美津子は杏奈の方を見て、顎を少し引いた。
「これは私の感覚なので、宇野さんがそうとは限らないのですが…そんな苦しいことが起こっているのなら、その気持ちを、どうして外に出せないでいられるのだろうと思うのです」
そして、彼はきっかけを得たのだ。彼女に言及できる話題になった時に。
料理教室での会話を聞いて、美津子は沈黙した。料理をしながらヨガのサンスカーラ(残存印象)のことなど話題に出せる杏奈が不思議だったが、そこから彼女の死に話をつなげた宇野も、不思議だった。彼にそうさせたのは、杏奈の言う通り、気持ちを外に出したいという思いが高まったからなのだろうか。
「あなただったら、どんなアプローチを取った?」
美津子に訊かれて、杏奈は再び瞬きをした。
「私には分かりません」
だからこそ、美津子ならどうするのか知りたかったのに。
「でも…」
美津子は杏奈から続きの言葉があると思っていなかったが、
「分からなければ、本人に訊いてみるのがいいような気も…します」
もごもごとした杏奈の言葉に、美津子は気づけば神経を集中させて耳を傾けていた。その割に、なんだか拍子抜けするような意見だった。
「小須賀さんがそう言ってたんです」
杏奈はごまかすように、小須賀の名を挙げた。
「出した料理について、お客さんが何を知りたいのか、察することができないのなら聞けばいいって」
美津子は目を細めた。
「料理とこれとでは、次元が違う」
杏奈もそこに気付いているはずだが。
「おかしな聞き方をすれば、相手の気を損ねかねないわ」
「宇野さんに、彼女のお話を伺うのはダメなことなんでしょうか」
少し性急な面持ちで、杏奈は尋ねた。
美津子はまた、不思議だなと思った。杏奈は確かな策もなく、ただ気持ちの赴くままに、宇野から話を引き出したいと思っているようであった。それは、感情よりも知性が先を歩くような、普段の杏奈の素行態度からはかけ離れている。
美津子は杏奈の瞳に、火(テージャス)を見た気がした。普段は大きな翳に埋もれて、見られないものだ。
「どのタイミングで、それを聞くの?」
「皿を引いた時でしょうか」
美津子は思わず、ふっと笑ってしまった。何気ない会話をするような場面で、杏奈はさらりと重い話を切り出そうというのだろうか。
─思ったより、大胆なのだろうか。
それともただの向こう見ずなのだろうか。どちらにせよ、杏奈の大胆さと向こう見ずさは、極端な場面で現れるようだ。
カーテンを閉めていない掃き出し窓から外を眺めて、美津子は言った。
「月が明るい。お月見に、宇野さんを誘ってみるといい」
「お月見ですか?」
「そういう話をする前提で…彼を誘い出してみなさい」
「…」
「満月は、ソーマが月に満ちる時。その癒しが、彼にも届くといいのだけど」
ソーマは、癒しのエネルギー。
杏奈は美津子に言ったとおり、皿を引くタイミングで、宇野に尋ねた。
「宇野さん、先ほどの話してくださったことについて、私やオーナーにもう少しお話ししてくれませんか」
宇野は、ほとんど無表情で、沈黙した。
「まだ話すのが辛いと仰っていたので、無理にとは言いませんが…」
杏奈は、実に飄々として尋ねた。杏奈は拒否されることを怖れてはいなかった。受け入れるか拒むか…その選択肢すら与えられずに、何もしないでいることのほうが、怖かった。
宇野は身を縮めて、唇を結んだ。混乱したような表情に見えた。
「僕は、自分が何を話したいのか、知りたいのか、分からないです」
宇野は顔を上げ、杏奈を見た。そして意を決したように、息を吸った。
「それでもいいですか?」
杏奈は二度、首を縦に振った。
「かしこまりました」
美津子の白いエヌボックスは、夜道を駆けていた。運転しているのは美津子、その隣に座っているのは宇野、杏奈は、運転席側の後部座席にひっそりと座っている。杏奈の隣には、大きなトートバック。
「今日はコーンムーン」
運転席で、美津子が言った。
「中秋の名月です。偶然ですが、とても幸運ですね」
「そうなんですね」
杏奈は後部座席に座りながら、少しどきどきしていた。このクライアントに対しどのような話をするか。美津子と杏奈の間で、何のすり合わせもしていない。
しかし、美津子が話を進めることになるのだろうと、なんとなく杏奈は感じていた。自分はただ、きっかけを作っただけだ。
─美津子さんはこれまでにもきっと、死別に苦しむクライアントと接してきたんだろうな。
そんな予感がする。美津子は宇野の恋人の話を聞いても、動じた様子は見せなかった。
「着きました」
三十分くらいで目的地についた。ダム湖である翠湖だった。午後九時になる頃だったが、月明かりが明るいので、湖畔周辺の景観がなんとなく分かる。ダム湖沿いには桜の木や、もみじの木が立ち並んでおり、春には桜が、秋には紅葉がどんなにか綺麗だろうと思われた。散策路には、ほんの数組だが、中秋の名月を見に来たと思われる人々が、手すりに手を掛け、佇んでいた。
「見晴らしの良いところで、お月見しましょう」
美津子が先頭に立って散策路を進んだ。杏奈は二人と少し距離を取って、後ろに従った。
「そのことについて、お話いただいてもいいでしょうか」
美津子が切り出したのは、雑談をしながら散策路を進んだ末、少し開けた空間に、ベンチがある見晴台を遠くに見つけた時だった。
「結月さんが亡くなってから今までのことについて…宇野さんの心情を交えて、お話を伺っても…?」
宇野は感情を昂らせることなく、目を細めて、こくりと頷いた。
結月が倒れたのは、一人暮らしをしている自宅であった。助かる余地はあったはずだが、発見が遅すぎた。当たり前だが、両親は大変な落ち込みようであったらしい。特に母親は、気が狂うかと思うくらいの嘆きようで、ショックから、対面構わず、泣いていたという。先天性の問題だったのではないかと、自分を責めていた。丈夫に産んでやれなかったからだと。両親は娘の死に納得がいっていなかった。
高校時代から結月と付き合っていた宇野は、結月の両親とも面識があった。時々、食事を共にするくらいに、親しかったと言ってよい。
宇野は、結月が大阪の看護学研究科に進学して以降の、両親の知らない結月の顔を、話してやった。両親から与えられた人生という贈り物を、謳歌していたことを。結果的に、とても短い人生だったけれど。
半同棲になっていたという事実を知られるのを覚悟で、宇野は結月の様子を伝えたのだ。両親はそんな宇野に対して、怒らなかった。
─結月に、幸せな経験をさせてくれて、ありがとう。
とさえ、彼女の母親は言った。
葬式の時も、結月のアパートで、遺品を整理している時も、宇野は両親を励まそうと、気丈に振舞った。
自分自身の感情について、誰かに話すことはできなかった。宇野は胸が張り裂けそうだったけれど、それが身体に影響を及ぼすとは思っていなかった。不眠を自覚したのは、結月の死から、三、四カ月ほど経とうという時だった。
「僕は今、自分がどういう状態なのか、よく分からないんです」
宇野は、さっきも同じことを言っていた。そう思いながら、杏奈は二人と距離を取った場所に座って、羽織って来たパーカーのフードをすっぽりと被った。
「怒りたいのか、泣きたいのか。こんな状態でも、就職は決まりました。ちょうど、就活の時期と重なって。彼女がいなくなったこと以外は、何も変わらず、生活できていると思っていたんです」
二人の後ろ姿を見ている杏奈は、美津子が、少し首を傾げるのを見た。
大きなまん丸い月を映した湖面が、微風にゆらゆらと揺れている。美津子はその様子を眺めた。
「悲しみに対する感受性は、人によって異なります」
美津子の羽織った、丈の長い、ゆったりとした白いカーディガンが、湖面を揺るがすのと同じ微風に、ふうわりと揺れる。
「悲しみは病気ではないかもしれませんが、長期にわたって解決されない悲しみは、精神的にダメージを与えます。ひいては身体の健康や免疫力にも、影響を与える可能性があります」
解決されていない悲しみは、心理的なアーマ(毒素)になり、オージャス(生命力)を枯渇させ、免疫力を下げる。悲しみ自体が病気でなくとも、病気の原因となる可能性はあるのだ。
「僕は、そのことが原因で、病気になりかけてるんでしょうか」
眠れないのは、神経系の乱れと思っていたが、何か別の不調の症状なのだろうか。自分の身体の中で起こっていることについて、宇野はそれほど真剣に考えて来なかった。
美津子は先ほどとは反対側に首を傾げた。
「宇野さんを怖がらせるために、こういう話をしているのではないんですよ。でも、だからといって、そう何でもないことだと捉えないでほしいという気持ちもあります」
彼の睡眠障害は、明らかに、心と体の何らかの不調和の兆候だ。
不眠は、主にヴァータの乱れと見ている。そして、ヴァータのバランスを損ねるものには、悲しみがある。
「僕は…」
絞り出すような宇野の声は、震えるように弱弱しく、緊迫性を帯びていて、料理教室の時に聞いた、落ち着いた冷静な声とはかけ離れている。
「彼女との記憶を薄めたい。でも、夜になると、夢の中で彼女に会うために眠ろうとする自分がいるんです。早く普通の日常に戻りたくて、忘れるにはどうしたら良いのか考えています。そのくせ、明け方、彼女の残像を見ながら目を覚ますと、目覚めたくないって思う」
矛盾している。
「そうだったんですね」
美津子は穏やかに言った。湖面を通った風が頬を撫でる。ぬるくもなく、冷たくもない。とても、気持ちの良い風だった。
ふいに美津子が、後ろにいる杏奈を振り返った。ベンチの上で体操座りをし、身を縮こませていた杏奈は、しゃきっと背筋を伸ばす。
「そろそろお願い」
杏奈は承知して、トートバックからカセットコンロと、鍋、いくつかの瓶を取り出した。こんなにたくさんの物を入れてきたので、持ち歩いている間、重くてしょうがなかった。
宇野は大事な話の途中で、後ろでがちゃがちゃと作業され、ちょっと気を損ねたというか、蔑ろにされているようで傷ついた、というような顔をする。
「えっと」
杏奈は材料を一通り出した後で、遠慮がちに声をかけた。
「ムーンミルク、作ります」
「はい」
「?」
杏奈の傍に寄って、作り方を見ましょうと、美津子は宇野を誘った。
鍋に牛乳を入れて中火にかける。ふつふつしてきたら、火を弱め、ターメリックパウダー、カルダモンパウダー、ナツメグパウダーを、それぞれ少しずつ加える。ガラス瓶に入ったギーを加え、泡だて器で攪拌する。ギーは、今日の満月と同じ色をしていた。
「どれも、睡眠をサポートする食材、スパイスですよ」
なぜか杏奈は、ギーをスケールで計量しながら作業を進めている。その手元を見ながら、美津子は宇野にそう説明した。
牛乳がふわーっと吹き上がってきたところで、杏奈は火を止める。
「お二人とも、はちみつは入れますか?」
「ええ」
「…お願いします」
「では、少し待っててください」
杏奈はキャンプ用のコップを三つ取り出す。なぜあかつきにこんな都合の良い備品があるのか分からなかったが、美津子に言われて持って来た。
「これは、誰にでも話している話ではないのですが」
美津子は、宇野に話しかけている。同時に、近くに控えている杏奈にも、完全に聞こえるように話している。
「私は小学二年生の時に、実の母親と死別しました」
乳がんだった。
ムーンミルクを最初のコップに注いだちょうどその時に、美津子の話が聞えてきて、杏奈は頭を垂れた。なかなかに重い内容だ。でも、初めて聞く美津子の幼少期の話。悪い意味ではなく、杏奈は興味をもった。一言も聞き漏らすまいと耳を傾ける。
「私には、三歳年下の弟がいてね。母の死後、私が弟を守る立場になったんです」
美津子の母が病気になった時には、弟はまだ幼く、まともに育児をできなかった母と、十分に触れ合うことができなかった。美津子はそれを、可哀そうに思った。
食い入るように聞いているのは、宇野も同じだった。愛する人の死を、どう乗り越えるか。彼にとって最も関心のある話題だからだろう。
「成長するにつれて、母親がいない生活にも慣れて、不自由も感じなくなった。夜寝る時に母を思い浮かべることも減った」
美津子はそれに罪悪感を抱いたけれど、その方が楽であると感じていた。
「なのに、私は成人を過ぎても、自分の選択するものごとの中に、母との関連性を発見するようになった」
好きな色は、母が好きだった色。本を読むと、母が絵本を読んでくれたことを思い出す。子供に関連する職についたのは、母がそうだったから。
ダイアモンドの結婚指輪が、右の薬指にきらめくと、美津子は寂しくなった。母が最期に美津子に渡したのは、自身のダイアモンドの結婚指輪だったのだ。
─ありとあらゆるものに、お母さんの残存印象を見たということか。
杏奈は神妙な面持ちで、時々、コップに手を添えた。まだとても熱い。
「悲しみを抱く、その都度、その都度に、その感情から目をそらさずに向き合った方が良かったのだと、後々になって思いましたよ」
けれど美津子は、それができなかった自分を責めはしなかった。母の記憶を思い出すのがつらかった時期に、どうやって自分の感情に意識を向けることができたというのだろう。外を見て、気を紛らわすことでしか、悲しみを紛らわせなかったというのに。
「私は、ずいぶん時間が過ぎてしまったけれど、自分の感情を消化したいと思ったんです」
まだ二十代前半の頃、口寄せで有名な青森県の恐山に行った。母を近くに感じれば、その昔、抑圧してきた感情が、前に出てきやすいと思ったからだ。
「感情を消化することって、どうやったらできるんですか」
宇野の問いかけに、美津子は、ここでも首を振った。恐山で、その答えを知れたわけではない。
「その答えを、私はずっと探してきた」
今ももしかしたら、探しているのかもしれない、と美津子は言った。
「ある程度、時間が解決してくれるとは思いますが、時間が解決してくれないこともあるかもしれません」
時が解決してくれないならば、自分が解決しようと、試みなければならない。
「その方法は、人それぞれ違うのだと思う」
けれども、向き合おうとしなければ、その方法を知ることはない。
「僕は、それ以前の問題です」
宇野は小さな声を漏らした。
「向き合っても平気になるまで、まだ時間がかかりそうです。時間が解決してくれるのが、待ち遠しいですが…その時まで、僕は、どう過ごしたらいいのかわかりません」
宇野は、すがるような目線を、美津子に寄せた。
「ええ。向き合えるようになるまで、時間はかかりますとも」
美津子は、宇野の視線を、受け止めた。
─あなたの気持ちは分かります。
心の中のその声に、美津子は念を込めた。
杏奈は二人の様子を見ながら、自分の直感が外れたのではないかということに思い至った。宇野から話を聞き出すのが正だと思っていたけれど、彼はまだ、そのタイミングではなかったのかもしれない。
宇野は、今夜の明るい月に、視線を移した。美津子も再び、湖面に目を向ける。二人はそれきり会話もなく、月と、反射した月を見ていた。鈴虫と松虫の声だけが、やけに騒々しい。
─感情を消化するって、どういうこと?
杏奈は、心の中で、誰にともなく問いかけた。
美津子は、ふと杏奈の存在を思い出して、後ろを振り返った。
「何をしているの?」
その言葉に、宇野も後ろを振り返る。今、杏奈はスケールにコップを乗せて、ゆっくりとはちみつを落としていた。
「ギーとはちみつは同量摂取してはいけないので」
杏奈は、ごく真面目に答えた。
「はちみつの量を、ちゃんと測らないと」
愛する人に会いたいと思う。二度と叶わぬと知りながら求めてしまう、その苦しい時間をどうやり過ごせば良いか。
帰りの車の中で、美津子は、先ほどの宇野の疑問に答えるように、アーユルヴェーダの目線から話をした。
「マハグナの話を覚えていますか?」
ほとんど車通りのない山道を、白いエヌボックスはするすると走っていく。
「杏奈が、一日目の講義で話していましたね」
「…なんとなく」
マハグナは、心の性質。悲しみは、このグナのバランスを崩す。喪失感に襲われている時は、通常よりも、タマス(無気力)や、ラジャス(落ち着きのなさ)に傾きやすい。
「それでも」
美津子は、こんこんと語る。
「そんな状況であっても、サットヴァを高めるよう、試みることです」
サットヴァは、自然で明晰なマインドの質。サットヴァを高めることで、より早く癒しが得られる。
「杏奈。サットヴァは、どんなことによって高められる?」
美津子は大切な話をしているのだが、杏奈はここ数日料理教室の準備による疲れが出たのか、眠くて仕方なくなり、ドアに寄りかかってまどろみかけていた。それとも、ムーンミルクによる効果があったということなのだろうか。しかし、美津子の問いかけで、しゃっきりと体を起こす。
車の中はラジオがかかっていて、今三人がしている話題とはひどく不釣り合いな、陽気な音楽が流れている。
「サットヴァを高めるのは…」
ゆっくりしてストレスを軽減すること。
新鮮な食べ物を食べること。
規則正しい生活。
瞑想、呼吸法、ヨガの実践。
「その他にも、自分の心の声に意識を向けること。ご自身の信仰に応じた追悼の儀式を行うことも、サットヴァを高めるのに役に立ちます」
美津子が補足をした。
杏奈はまた、美真のことを思い出した。水子供養をしに、寺に足を運んだ美真。彼女も、おそらく自分の悲しみを軽減するために、供養という追悼を行いたかったのだろう。
音楽が止み、ナビゲーターが、夜の番組らしいネタを挟みながらの、快活なトークを繰り広げている。だが、三人の耳にはただのBGMであった。
アーユルヴェーダはメンタルヘルスを、総合的な方法で扱う。その方法は、サットヴァを養うための全ての行動と、ほとんど一致するのだという。サットヴァを養うとは、悲しみに対処する時にだけ必要な、特別な方法ではない。発生している問題が心に関することであれ、体に関することであれ、ほとんどどんな時にも、アーユルヴェーダは「サットヴァを養え」という。
「僕はずっと理系で、数字を使った証明とか、論理的な思考とかは、得意だと思っているんですが、アーユルヴェーダのやり方は…」
少し、理解が難しい。いや、理解が難しいというよりは、信じることが難しいのかもしれない。
「アーユルヴェーダは、基本的に定性的な医療システムです」
しかし、この定性的な、概念によるものごとの捉え方ができなければ、この伝統医療を活用することによる恩恵は、分からない。
「すぐに解決したいと思うかもしれませんが、急ごうとしないでください」
「…」
「私も、自分では平気なつもりでいたのに、母の死から十数年経ってから、まだ全然解決できていないということに気付いたものですよ」
だからこそ、恐山に行った。
「そんなに、時間がかかるものなのですか」
宇野は、呆然とした声を出した。
「先ほども言ったように、感受性は人それぞれです。けれど、私は一般的に、長い時間がかかると思っていますよ」
美津子は、いかにも当然、というように頷いた。
「時間をかけて、自分に優しくしてください」
杏奈は眠気を覚えながらも、美津子の話す内容、声のトーン、雰囲気を、全身で感じ取ろうとしていた。クライアントに対するヒーラーの態度がどのようなものか。
美津子は始終、朗らかであった。
「私たちは皆、いつか行かなければなりませんね」
誰かが早い便に乗った。そして自分たちも、等しく、後の便に乗らなければならない。
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