八月末。あかつきはいつになくバタバタとしている。
杏奈は急ピッチでタイピングをしているし、小須賀は柳老人相手に、美津子の監督の下、フットマッサージの練習をしていた。
─クライアントが来る前に…
杏奈は急いでレジュメを作り、レシピのたたきを作っていた。九月上旬に来訪するクライアント向けの、アーユルヴェーダ料理教室の準備だった。
─それも二コマ、か…
試作に、修正。それが終わったらパワーポイントでスライドの作成。
─間に合わせるぞ。
杏奈は焦ってはいたが、水を得た魚のように活き活きとしていた。自分の得意分野で、ようやくあかつきに貢献できるチャンスを得たのだ。
「押しちゃいけない」
一階の施術ルームでは、美津子が小須賀に軽く注意をしていた。オイルマッサージなど練習したのは初めてで、小須賀はキッチンに立っている時よりもよほど汗をかいた。
「若い女の子がモデルならやる気になるんですけど」
小須賀は柳の日に焼けた、老木の幹のように粗っぽい素足に視線を向けながらしょぼくれた声を出す。
「ずい分余裕があるのね」
美津子は苦笑いをして言った。小須賀ははあ~とため息を吐く。
「マッサージなら、柴崎先生に頼めばいいんじゃないですか?」
「なぜ先生に?」
美津子は、ふっと笑った。小須賀は彼のことを多分に勘違いしている節があるが、彼はあかつきでマッサージを行ったことはない。
「それに、先生は学会発表を控えていて、来られる状況じゃないと思う」
フットマッサージくらいなら、美津子が担当しても悪いことはないのだが、同性のほうがクライアントも安心だろう。
─だからって、なんでおれが。
オイルマッサージの練習をしなければならない。しかも、よりによって、畑仕事に明け暮れているじいさんがモデルだった。
柳老人は当初、ベッドに腰を掛けながら施術を受けていたが、途中からしんどくなったと言い出し、今はあおむけになっている。先ほどからしばらく目を閉じたままだ。
「柳さん、気持ちいいですか?」
美津子が朗らかに声をかけるが、柳老人は答えない。美津子と小須賀は、ぎょっとして柳を見る。
「死んでるんじゃないですか?」
と、小須賀が言うのと、ぐ~という寝息が老人の喉元から漏れるのとが同時だった。
クライアントから問い合わせのメールが入ったのは、お盆が明けて何日も経たない頃。珍しいことに、若い男性からのお問い合わせだった。彼は大学院生で、夏休みの期間中に、二泊三日ほど滞在したいという。
─出てきたよ、宇野勇紀くん。
分かっているのは大学名と本名だけだったが、小須賀が調べたところ、大阪大学工学部の大学院に所属する学生だということが分かった。大学院に進学した先輩として、彼の声が掲載されたページを見つけたのである。滞在者が男で、女性を同伴しないケースというのは、今までほとんどなかった。常時男性スタッフが駐在しているならまだしも、美津子と杏奈二人だけなので、小須賀としても、なるべくクライアントの素性を知っておきたかった。
インタビュー記事とその写真を見る限り、宇野はいたって勤勉そうな好青年だった。
─なんなら、おれもその日ここに泊まりますよ。帰るのは真夜中になると思いますけど。
と、小須賀は申し出た。
そういうこともあって、原則、男性客は女性の同伴が必須だが、今回は受け入れることにした。
いつものように問診票を送ると、ニ、三日あけて返信がきた。
問診票を三分の二ほど流し読みしたところで、変だな、と美津子は思った。これという体の不調がないのである。若さというのはそういうものかと思いながらさらに読み進める。やはり、健康そのものだ。気になるのは、睡眠くらい。寝つきが悪い、眠りが浅い、よく夢を見る…
最後のページの記載事項には、滞在目的が含まれている。美津子は最後まで目を通した後、杏奈を呼んだ。
─料理教室を考えておいてと言ったね。
─はい。
─最初の教室を、九月に開催してほしい。
─…え?
こうして、小須賀と杏奈は、クライアントからの要望に応じるため、その日から準備に取り掛かることとなったのだった。
夏のような暑さが続く九月上旬、宇野はあかつきにやって来た。
第一印象は精悍なサッカー選手だった。背丈は中間よりやや高いくらい。やや痩せているが、腕を見る限り、ほどよく筋肉がある。さっぱりとした短い黒髪、よく日に焼けた小麦色の肌、唇は薄く、整った顔立ちをしていた。
「若い男性が、感心なことですね」
カウンセリングのはじめに、美津子は言った。
「どうしてアーユルヴェーダに興味をもったのですか?」
宇野は書斎のソファに浅く腰掛け、幾分緊張しているのか、かしこまった様子で答えた。
「彼女がアーユルヴェーダに興味をもっていて知ったんですが、今彼女は来られないので、僕が先に体験したいなと思って」
大阪弁といえるほど濃くはないが、関西っぽいイントネーションがある。彼は、現在は大阪に住んでいるが、生まれ育ちは三重の松阪だった。
「そうなんですか」
美津子は問診票を見ながら、
「最近の睡眠の状態はどうですか」
「いや…前とあんまり変わらないですね」
宇野は三か月ほど前から、不眠症のような状態に陥っている。睡眠の問題を自覚した頃に、何か大きな生活の変化やストレスがあったか尋ねたのだが、特にないという。
「先日の事前コンサルでお話した実践項目、何か試してくださいましたか」
「はい。一応、全部…」
宇野の受け答えや、雰囲気、提案したことをきちんとやってくることから、真面目で誠実な人柄がうかがえる。
─おかしいなぁ。
宇野は一人暮らしをしているが、生活がとても乱れているというわけではなく、勉強は大変だが、大きなストレスになるほどではないという。高校時代から陸上部に所属し、今でもほとんど毎日、大学のグラウンドで体を動かしているらしい。食べ物の好き嫌いはなく、消化力も強い。
つまりいたって健康体なのだ。なのにきっかけもなく、なぜ睡眠障害に陥ったのだろう。
「あかつきに滞在している間に、少しでも、睡眠の質をよくするサポートをしていきます」
「はい」
「今日からのスケジュールですが」
美津子はをメモ書きを宇野に渡す。宇野の希望に沿って組み立てたスケジュールが、そこに記されている。
一日目。アーユルヴェーダに関する座学、フットマッサージ、太極拳、昼食、ヘッドマッサージ、アーユルヴェーダ料理教室、夕食。
二日目。座学の続き、フットマッサージとハンドマッサージ、昼食、ヘッドマッサージ、アーユルヴェーダ料理教室、夕食。
三日目。シロダーラ、昼食。
「料理を学びたいとご希望でしたね」
「はい。スパイスとか、自分でも時々使うんですけど、使い方がよく分からなくて」
「そうなんですね。今回、二時間から二時間半くらいの料理教室を予定していますので」
「ありがとうございます」
宇野はスケジュール表に目を通し、軽く頭を下げた。
今回、異例なことだが、美津子の出番は少ない。その代わりに、この数週間、それぞれ準備と練習を重ねてきた、杏奈と小須賀の頑張り処だ。
杏奈はレジュメを宇野に渡し、アーユルヴェーダの基礎知識について講義した。美津子も傍らに座ってそれを聞いた。アーユルヴェーダの目的、原因と結果の法則、西洋医学とのちがい。アーユルヴェーダの基礎概念。マハグナ、五大元素、ドーシャ…
「不眠は一般的に」
講義の中では、今の宇野の状態に当てはめて、マハグナやドーシャの説明をする部分もちらほら見られた。
「主にヴァータ、ピッタの乱れです。対処療法的な処置をすることはできますが、ヴァータ、ピッタを乱す根本的な原因を排除することが大切です」
ヴァータ、ピッタそれぞれが乱れる原因は、先ほど述べた。
「過剰なラジャスも、睡眠に影響を与えます」
ラジャスとは、心の性質、マハグナの一つであり、過活動になった状態である。
「忙しいスケジュール、刺激的な情報、夜中のネットショッピング。こういったことも、ラジャスを生みます」
一通りの講義の後で、自律神経の調整に役立つナディショーダナ呼吸を実践した。
次に、二階の施術室でのフットマッサージ。膝上から足先までアプローチする。ここには、美津子は同席していない。
「綺麗な女の人にやってほしいっすよね、こういうの」
宇野にはベッドに座ってもらい、小須賀は片膝ついて、マッサージをしながら話しかけた。
宇野はどう答えるべきか、非常に困った顔をした。
─恥ずかしいわ。
小須賀はこの場から早くも逃げ出したい気持ちになる。意識が逸れるとマッサージがおざなりになるが、美津子が監督していないので、多少間違っていても問題あるまい。
小須賀は珍しく、黒いズボンに白シャツという恰好だった。さすがに、ジーパンで施術するわけにはいかなかった。
フットマッサージではそんなに時間が稼げないので、昼食までのつなぎとして、困った時の加藤僧侶。暑いので、太極拳は居間で行った。
キッチンに立つ杏奈の耳には、居間からの声は聞こえない。加藤とはあれ以来一度も会っていないが、見知らぬ少女にガイド付き瞑想をしたことを、美津子に話しただろうか。
あのICレコーダーは、結局、その日のうちに美津子に返却した。美津子は、あの日起こったことを尋ねなかったし、杏奈も話さなかった。
昼食後、午後のヘッドマッサージは美津子が担当した。セラピストの経験が全くない小須賀が、短期間でいくつもの手技を習得するのは、さすがに無理があった。
その間、杏奈は料理教室の仕込みを行った。
一日目のテーマは、「消化力」。消化力がなぜ大事か、アグニという概念を使って説明をし、消化力を損ねず、逆に増進するような料理を提案する。
「消化力が弱い時の兆候に、当てはまるものはありましたか?」
宇野は杏奈が急遽作ったレジュメを食い入るように見つめた。料理教室の前半は講義。杏奈はいつも美津子が座っている席に座っていた。お誕生日席には美津子が座って、講義を一緒に聞いている。
「…最近は眠りが浅いっていうのはありますけど、他は…特にないですね」
一生懸命考えたあげく、絞り出したのがこれであった。
─若いってこういうことか。
といっても、杏奈とは数歳しか違わない。
杏奈が東京で開催していた料理教室に来ていた生徒と、あかつきに来るクライアントは、客層が非常に似ており、三十代後半から五十代の女性が一番多かった。何かしら不調を抱えている人が多く、そういう人にはたいてい、消化力が弱いサインがある。
しかし、宇野にはそれがない。これほど不調がないと、逆に、何を指導するべきか分からなくなる。「よし!その調子!」とでも言えば良いのだろうか。
講義を終えると、杏奈は宇野をキッチンへ案内した。
美津子は応接間に残った。あとの様子は、オンライン会議システムを使ってパソコンを通して見ることにしている。スタッフの方が多いと、宇野にプレッシャーがかかると慮ってのことだった。もちろん、杏奈が緊張しないようにとの配慮でもあるが。
料理教室で作る献立は次の通りだった。
・コラキャンダ
・ひよこ豆と野菜のスパイス炒め
・かぼちゃとカシューナッツのソテー
・カンバリカ(バターミルクドリンク)
・ジンジャーアペタイザ(生姜の前菜)
・ホーリーバジルティー
聞き慣れないメニュー名に、宇野が戸惑った表情をしているのを見て、杏奈は苦笑いした。アーユルヴェーダの要素を含むものを多めに取り入れたら、こうなった。代謝の良い二十代前半の男性には、物足りないように思えなくもないが。
「アーユルヴェーダには、朝食は王様のように、昼食は王子のように、夕食は貧乏人のように食べる、という考え方があります」
これは三食の量を示す格言である。
「夕食を多く食べると、消化力に負担がかかって、睡眠の妨げにもなります。なので今日の献立は、ボリュームやパンチはありませんが、消化に優しい物を軽めに」
杏奈はこれから作る料理の方向性をそのように説明した。
最初にコラキャンダを作る。お米と水を鍋に入れ、火にかける。コラキャンダとは、スリランカアーユルヴェーダの代名詞のような料理で、青菜を使ったお粥である。コラは葉っぱ、キャンダはお粥。現地では、この「コラ」はゴツコラ(Centella asiatica)であることが多い。セリ科の植物で、つぼ草、ブラフミーとも呼ばれる。ブラフミーとは、ヒンドゥー教の神の名前である。神の名前がつくほど、アーユルヴェーダにおいて優れているとされるハーブである。脳組織に作用し、記憶力と知性を増強させ、ストレスを和らげ、心を鎮める。
ちなみに、ブラフミーと呼ばれる植物は別にもある(Brahmi:Hydrocotyle asiatica)。この植物はゴツコラと近縁種であり、同様の特性を持っている。
「宇野さんは睡眠でお困りでしたので、このハーブを使ったお料理が良いと思って」
沸騰するのを待つ間、杏奈はそんな風にゴツコラの説明をした。
宇野は、調理台に置かれた、脳のような形をしている小さな葉っぱを見る。
「これ、苗は普通に売ってるんですか?」
「ネットで買うことはできます。ただ、冬越しが難しいですね」
杏奈も東京にいた頃、鉢植えで育てていたが、一冬もたなかった。
「フレッシュなものを使うのが難しい場合は、このお粥を炊くお水をゴツコラ茶に変えるか、ゴツコラパウダーを入れると良いですよ」
代替案を提示しながら、杏奈は鍋の様子を見つめた。作業は基本、宇野にしてもらった。ゴツコラと生姜、ヒングをミキサーにかける。杏奈は横から、次の手順を読み上げたり、指示を出したりする。
お粥を作っている間に、次の料理「かぼちゃとカシューナッツのソテー」のレシピを読み合わせる。
「宇野さんは、料理好きですか?」
慣れた手付きで料理を進めるのを見て、普段から料理をしているに違いないと思いながら、杏奈は尋ねた。腰に巻いたサロンも、普段から使っているもののように見える。
「はい、好きです。僕居酒屋でバイトしてるんですよ」
「どんな居酒屋ですか?」
「串料理のお店です」
「あ、串カツのチェーン店って、ありますよね。確か、関西発祥の」
「はい。でも、僕がバイトしてるのは個人のお店です」
「そうなんですか」
「揚げ物だけじゃなくて、炭火焼とか、味付けした野菜とか、いろんな串ものを出してます」
「へえ」
「デザートもありますよ」
年齢が近いからか、料理の話だからか、杏奈は宇野との会話に窮屈さを感じなかった。
煮込む時間のかかるコラキャンダ以外は、とても簡単な料理ばかりで、炒め物系はすぐに出来上がった。
杏奈は次に、カンバリカの説明をするために、ヨーグルトを冷蔵庫から取り出し、宇野の隣に立って蓋を開けた。
「ヨーグルトは、そのまま召し上がることが多いですか?」
「あまり食べないですけど、食べるとしたら、そのままですね」
むしろ他に食べ方があるのか、と言いたげだ。杏奈はふむふむと頷く。
「そのままの状態のヨーグルトは、体を冷やし、カパを増やすと言われています」
と言った後で、
「カパっていうのは、午前中の講座で出てきたドーシャの一つです」
杏奈は慌てて付け足した。もっとも、宇野はドーシャ理論はなんとなく理解できているようであった。
「ヨーグルトを希釈する…つまり、水で薄めたり、乱れているドーシャに適したスパイスやハーブを入れることによって、より消化しやすく、むしろ消化を促進する飲み物になります」
杏奈はそこまで一気にしゃべってから、隣の宇野へ顔を向けた。
─えっ。
どきっとして、杏奈の頭の中は一瞬真っ白になった。
杏奈が手に持つヨーグルトを見ていたからだろうが、宇野は、顔を杏奈の方に近づけていた。その目は、思い詰めたような、切なげな光を帯びていた。
動じているのを気取られないように、杏奈はわざとゆっくりとした動作で身をひるがえし、調理台にヨーグルトを置きつつ、ほんの少し宇野との距離を取った。
「では、宇野さん。レシピ通り、材料をミキサーに入れていきましょう」
宇野は動じている様子などなく、先ほどまでと同じように、手順を確認しながら、淡々と調理を進める。
─なんだったんだろう、あの表情は。
やましい感じではなかった。むしろ、悲しげな、寂しげな表情だった。痛ましいとさえ思えるような。
宇野は布団に入ってから、もう何度目かの寝返りを打った。
時計を見たくなかった。時計を見ると、絶望感に駆られてしまうから。
夕食の時間が早く、消化に良いものだったからか、心なしか、すでにお腹が空いている気がする。
しらばく横になって戦っていたが、一時間ほど経った頃、宇野は体を起こし、水筒に入ったお湯を飲んだ。あかつきのスタッフから渡された水筒だ。滞在中、こまめに白湯を飲むようにと言われている。
カーテンを開けると、月明かりが差し込んできた。九月は、月が明るい。北向きの窓から、真上のほうに月を見ることができた。上限の月。あと一日か二日で満月か。
─どうしてよりによって、こんな明るく。
月さえも、眠りを応援してはくれない。むしろ、月はいっそう、結月─月の名を持つ彼の恋人─を恋しくさせた。
あかつきの若いスタッフと料理をした。結月とそのスタッフとは、顔も背丈も、体格も異なっていたが、並んで料理を作るというシチュエーションが、過去の幸せな日々を思い出させた。
宇野の心が月の海に沈んでいく。手放せない自分の心を責める。
意を決して、もう一度、月明かりの下で眠りについた。
─眠りたい。
うとうとしているまどろみの中で、宇野は、結月のことを思い浮かべる。この瞬間のために、宇野は夜を待っている。夢で結月に会うことができたら、目覚めたくないのだが、そんなことを、誰に話せるというのだろう?目を開けたら結月がいないのが怖いのだ。
─眠ることができたなら。
目覚めたくない。永遠に眠っていたい。
宇野は月明かりの下で涙を流した。
「うわ。小須賀さん、こんなところで寝てたんですか」
早朝、杏奈が母屋に入ると、書斎のソファで肌掛けもかけずに小須賀が寝ていた。スウェットズボンに白いTシャツ姿で、無造作に足を投げ出している。杏奈が声を掛けても微動だにせず、起きる気配はない。
「小須賀さん、あかつきに泊まってもいいって、冗談じゃなかったのね」
いつの間にか、美津子が杏奈の背後に立っていた。
昨日も夜の仕事があったのだろう。小須賀からは、かすかに酒のにおいが漂っている。
「宇野さんが起きる前に移動してもらわないといけないけど」
女所帯のこの家に男の客を迎えることを心配して、あかつきに泊まりこんでいる小須賀を、美津子は無下には扱えない様子だった。
美津子が小須賀を起したのは、朝食のベルを鳴らす直前だった。前室に布団を敷き、そこで仮眠をとってもらうことにした。
「今日は、ヘッドマッサージを先にしますね」
朝食の席で、美津子は宇野にさりげなく、施術の順番を変えることを告げた。酒のにおいが抜ける前に、小須賀にマッサージをさせるのは憚られた。
杏奈は午前の講義─アーユルヴェーダの食事法と、ドーシャ別の食事─を終えると、すぐに昼食の準備に取り掛かった。午後は料理教室があるのでその準備もしなければならない。
「おはようございまーす…」
かすれた覇気のない声で挨拶をし、小須賀がキッチンに入ったのは、昼食の準備がほぼ終わった頃だった。
「おはようございます。大丈夫ですか?」
小須賀は目を瞑ったまま、片方の手でこめかみのあたりを押さえていた。だるそうな様子を見せながらも、杏奈の問いかけに小須賀は頷く。
「大丈夫?」
小須賀も同じことを尋ねた。
「準備…いろいろと」
「はい」
「ふうん…シャワー浴びてくるわ」
その前に水、と言って、小須賀はグラスに水を注いだ。
「小須賀さん、起きた?」
しばらくして、美津子がキッチンに顔をのぞかせた。ヘッドマッサージは終わったらしい。
「午後の施術できそうだった?」
「はい。一応…大丈夫と言ってましたけど」
「そう。杏奈、宇野さんだけど」
「はい」
「昨日も、眠れたのは日付を過ぎてからだったらしい」
「本当ですか」
睡眠に関する問題はほとんどない杏奈だが、それはつらかろうと思った。
宇野は寝つきは良くないが、一度眠りに落ちさえすれば、ある程度の時間眠れるらしい。そうなると、今度は遅い時間まで寝てしまうので、生活のリズムが崩れてしまう。
「思っていたより、アグニが弱いのかしらね…」
美津子は意味深なことを言った。
アグニは、物理的な食べ物の消化だけでなく、感情や経験の消化にも関わる。杏奈は、昨日の料理教室で、思いつめた表情で宇野がこちらを見つめてきたことを思い出した。一心に視線を顔に注がれてどぎまぎしたが、やましさがあるようには感じなかった。
「宇野さんは…」
なんとなく、美津子にも知らせておいたほうが良い気がする。
「寂しそうな目をする時がありますよね」
「寂しそうな目…」
思い当たることがなかった美津子は、どんな時にそれを感じたのか、杏奈に尋ねた。聞いた後、美津子は沈黙した。顎を引いて、見えない何かを追うように、視線を一点に集中する。美津子が熟考している時の特徴であった。
「行ってくるわ」
身なりを整えた小須賀は、午後一番の施術に臨む。
「お酒、もう抜けましたか?」
「たぶん。まあ、抜けてなくても問題ないよ」
何が問題ないというのだ。
「ほろ酔いセラピスト」
─はあ?
謎のセリフを残して去っていく小須賀を、杏奈は呆れた顔で見送った。
一見、純朴そうな青年に見える小須賀が、ソファの上で眠りコケている姿を見せるほど酔っぱらうとは、意外だった。飲酒は、仕事の付き合いだったのだろうか。美津子が心配だからあかつきに泊まるとは、体のいい口実で、実は遅刻するのが心配だっただけじゃないか。そんな風にも思える。ある意味、あかつきの仕事をおざなりにしていない証拠ではあるが。
施術室で、小須賀は昨日より口数少なくマッサージをしていた。まだ酒気をはらんでいたら嫌だし、何よりも思考が回らなかった。
あおむけになった宇野の肩先から指先まで、小須賀はオイルを塗り、スクロールをかけた。
「こんなの、綺麗な女の人にやってほしいよね」
それでも、やっと口を開いた小須賀は、昨日と同じことを言った。よほどその念が強いらしい。
「はぁ」
と、宇野は否定するでも肯定するでもなく、うやむやに返事をする。流された、と思った小須賀は、仕方なく別の話題を出す。
「宇野さん、眠れないんだって?」
「はい」
小須賀は右腕にタオルを被せた。手を拭き、オイルをのせたワゴンを引いて、反対側に回り込む。
「宇野さん、酒飲む?」
「はい。でも、飲み会の時くらいですね。普段は…」
「そう。酒飲むとね、気分がふわーっとなって、眠りやすくなるよ」
と、言ってから、小須賀はしまった、と思った。
「あ、おれがそう言ってたってこと、他のスタッフには内緒ね」
語尾に少し、笑いが混じってしまった。
マッサージの後の掃除には、美津子が入った。小須賀は掃除のやり方は知らないし、杏奈は料理教室の準備がある。フットマッサージとハンドマッサージの後は、ホットタオルで余計な油を拭き取るだけで、シャワーは使わない。つまり、宇野はすぐに施術室を離れる。空室になるから、異性が入っても問題なかった。
キッチンに入ると、小須賀はふにゃっと冷蔵庫にもたれかかった。
「もうごめんだわ。こんなん」
小須賀は心底疲れた様子だ。
「お疲れ様です」
「おれ、男に触れる趣味はないわ」
「世の中の男性セラピストが聞いたら怒られますよ」
杏奈は仕込みをしながら、小須賀の愚痴に相槌を打った。料理教室では基本、生徒に包丁を持たせない。切る工程は、事前にやっておくのだ。
「なんかさ、今のメンバーでこなせないこと多いよね」
小須賀は、あかつきの直近の課題について触れた。
「今回は、例外的に男を受け入れてるから特別なのかもしんないけど。セラピストは不足してるよね」
「まあ」
アシスタントとしての役割しか果たせない杏奈としては、耳が痛い。
「滞在中のアクティヴィティにしても、加藤さんの時間が取れれば、太極拳。でも、アーユルヴェーダといえば、普通はヨガでしょ」
アーユルヴェーダはサーンキヤ哲学(六派哲学の一つ)の思想を根本においている。六派哲学の中で、サーンキヤ学派とヨーガ学派は、互いに補填関係にある。サーンキヤ学派は形而上学的な世界観を確立し、ヨーガを理論面から基礎付ける役割を果たす。ヨーガ学派は「心の諸作用の止滅」を主目的とする救済技術を発達させ、これに心の理論を整え、解脱に至る実践的な行法の体系を示す。そういうわけで、ヨガとアーユルヴェーダは昔から「姉妹科学」と呼ばれ、平行して行うことを勧められている。
「ヨガの指導もできないし、足込町の自然を感じられるようなアクティヴィティもできないし」
足込町の観光資源には、自然がある。小須賀も杏奈も、ウィングチャンネルを見て、初めて、足込町にも楽しめそうな場所やイベントがあるのだと知った。そのレベルだった。ネイチャー体験をクライアントが求めたとしても、同行して案内ができるようなスタッフはいない。
「あかつきに足りてない項目を、書き出しておいたら」
「書き出すのですか?」
「そう。TODOリストっていうか。料理教室とか、トリートメントは、今提供できるサービス。今は提供できてないけど、あったほうがいいサービス。書き出しておいたほうが、取り組むべきことが明確になるじゃん」
─珍しくまともなことを言ってる…
と、杏奈は思ったが、余計なことは言わないでおく。
「なるほど。でも、そういうのはあらかた、美津子さんがすでにまとめてるんじゃないでしょうか」
「そうかもしれないけど、だからって、スタッフは考えなくていいってことでもないじゃん」
「小須賀さんはあったほうがいいサービス、なんだと思います?」
「さっき言った、ヨガ。男性が来た時のセラピストの確保」
それは小須賀自身のためにも、急務と思えた。
「美津子さんは、レシピとかの整理も望んでるんだと思うよ」
「レシピの整理?」
「そう。おれらは感覚で作れるけど、今後、例えば杏奈がセラピストの仕事をして、誰かがキッチンに入ることもありうるじゃん」
業務をマニュアル化することは、チームで働く上では重要なことだ。
「あと、ネイチャー体験のガイド、かな」
レシピを整理することはすぐにでもできるだろうが、それ以外は、すぐには達成しにくい項目であった。すでに知識や技術、経験がある人を雇うのなら別だが。
「いけね、おれ帰る準備しないと。仕事遅れるわ」
小須賀はそう言いつつ、なんか飲もうかなとか言って、冷蔵庫をあさり出した。言っていることとやっていることが反対だ。終わりの時間が決まっている割には、それからも小須賀の口はずっと動いていた。杏奈は「はい」とか「はあ」とか短い相槌しかしていないのに、ほぼ一人でしゃべり続けていた。
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