第15話「母親業とキャリア」アーユルヴェーダ小説HEALERS

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 チェスナットブラウンのミニクロスオーバーを駐車スペースに寄せ、バックさせながら、二つ隣に停まっている赤いゴルフは瑠璃子のものに違いないと、沙羅は思った。案の定、沙羅が後部座席からベビーカーを出していると、瑠璃子が手を振りながら近づいてきた。
「瑠璃子さん!」
 高い声でママ友の名前を呼びながら、沙羅は満面の笑顔で手を振り返す。
「こんな時間に、珍しいですね!」
 と言ってから、こういう時間に保育園に来る理由は、ほとんどそれしかないと気づく。
「万里子ちゃん、熱出た?」
 瑠璃子は苦い表情をして、目を細め、頷いた。
「そう。呼び出されちゃった」
 万里子は朝から咳をしており、怪しいなとは思っていたのだが。
「大変…!」
 沙羅の声は抑揚があり、たった一言がとてもオーバーに響いた。が、この女の喋り方は、不思議と人を嫌な感じにはさせない。
 二人は園の門を入るところまで並んで歩いた。そしてそこで別れた。
 沙羅は最初に、ひよこ組にいる次女・七瀬から迎えに行く。次に、うさぎ組にいる長女・快(こころ)。七瀬を抱っこしながらうさぎ組に入ると、万里子が瑠璃子にべったりと身を預け、抱っこされている様子が目に入った。
 二人を横目に、沙羅はこの六月で五歳になった快に満面の笑顔を向けて、空いているほうの左手で抱きしめる。一方、瑠璃子は担任から万里子の様子について説明を受けていた。沙羅はなんとなく、瑠璃子が退出するのを見計らって、自分も廊下を渡った。
「万里子ちゃん、大丈夫?」
 沙羅は瑠璃子の右肩に頬を預けている万里子を覗き込んだ。
「まあ、大したことないよ」
 瑠璃子は釈然と答えてから、
「いたたた…」
 と、顔をしかめた。
「大丈夫?」
「うん。どうしても抱っこする時右側に体重が寄っちゃって…右肩が痛いんだよね」
 それは右利きだからだろうか。沙羅もどちらかというと、身体の右側を使う方が子供を抱えやすい。
 沙羅よりも頭半分ほど背の高い瑠璃子は、ブイネックの光沢のあるブラウスに、細身のボトムスを合わせている。シンプルだが、スタイルの良さが却ってよく分かる服装だ。顔は小さく、顔のパーツはすべてがちょうど良い大きさ、長い髪を後ろでふんわりと結っている。瑠璃子は、正真正銘の美人だった。しかし、性格は極めて男勝り。娘の万里子の負けず嫌いさと勝気さも、すでに園内で際立っているという。
 沙羅が瑠璃子と会ったのは久しぶりだった。瑠璃子はフルタイムワーカーで迎えが遅い。一方、沙羅は娘たちを午後二時に迎えに行く。なので普段二人が会うことはほとんどなかったが、年少の頃から万里子と快は同じクラスなので、自然と仲良くなった。
 瑠璃子は後ろを歩く沙羅を振り返った。沙羅は一歳九か月になる七瀬をベビーカーに乗せ、それを押しながら、快と手をつないで歩いている。
「今度、お茶でもしようか」
 沙羅はまん丸い大きな目を、さらに大きく見開いて、
「嬉しい。しよう、しよう」
 含みのない笑顔と、この反応の良さが、沙羅が周囲に敵を作らない理由だと、瑠璃子は思う。
「万里子ちゃん元気になったら」
「すぐ元気になるよ」
 瑠璃子は何でもない風に答えながら、万里子をチャイルドシートに乗せた。

 それから何日か経った、とある土曜日。
 薄い紫色のヨガマットの上で、沙羅は今日最後のチャレンジポーズに挑戦するところだった。四つん這いになり、肩の真下に肘がくるように腕をマットに下ろし、前腕、両手の平をマットにつける。両膝を床から上げ、お尻を持ち上げ、両足を肘のほうへ歩かせる。重心を前へ移動させながら、片脚を床から上げ、天井方向に伸ばす。顔がだんだん熱くなる。肘が外に開かないように意識しながら、今度は反対の脚を床から上げ、両脚を揃えて天井方向へ伸ばす。内腿同士を寄せ、肋骨を内側に入れる。沙羅は、その姿勢で数呼吸キープする。ピンチャマユラーサナ(クジャクの羽のポーズ)。
 この難易度の高い逆転のポーズは、沙羅の好むポーズの一つである。うまく体を使えていることを実感しやすい。片方ずつゆっくりと脚を下ろして、一旦、チャイルドポーズで休んだ。
「ふぅ」
 このポーズの練習を再開したのは、下の娘への授乳が終わって、なんとなく身体が元の調子を取り戻したように思えた頃だった。ポーズを決められるようになるまで、少し練習が必要だった。
 第一子の出産後よりも、下肢の脂肪が厚くなり、下半身が重い。子供を抱きかかえることが多いので、特定の筋肉は第一子の出産前より鍛えられているはずだったが、偏りがあり、衰えている部分もあるように感じた。弱くなった体幹。以前のように、このポーズでキープできるようになったのは、つい最近である。
 沙羅は座位の後屈のポーズをした後、仰向けになって、いくつかねじりのポーズを入れた。最後は、シャヴァーサナ(屍のポーズ)で終わる。
 太くて黒々とした黒髪が、床に流れている。
 裾が床まで長く垂れた、天然素材のレースカーテンが、風にふんわりと揺れる。ドレープカーテンも、同じくブレイクスタイルで、レースよりも丈を長く取っているが、こちらは掃き出し窓の両サイドで、タッセルで留めている。
─気持ちいいなあ。
 電気を灯さぬ部屋で、カーテン越しに入って来る光が心地よい。都会にいた頃と違い、ここは町の喧騒も聞こえなければ、車の音もしない。
 早朝。沙羅が唯一、誰にも邪魔されずに、ヨガの練習に励める時間だった。
 沙羅はゆっくりと起き上がった。肩下より長い黒髪が、ふさふさと揺れる。沙羅は髪の量が豊かだった。
 マットを片付けると、ささっとキッチンへ行き、あわよくば朝のお茶を楽しもうと、ニヤニヤする。
 ガラッ。ドタドタドっ。
「あ~、あ~」
 二階から娘の声が聞こえ、沙羅ははあ~とため息を吐いた。
─アーユルヴェーダでは、確かに早起きを推奨しているけど!
 小さな子供なのだから、もう少し遅くまで寝ていてほしい。沙羅のお茶の時間は、おあずけとなった。
「早いよ~、七瀬」
 沙羅は階段を登り、廊下で目をこすっている七瀬におはようを言って抱きしめた。一歳九か月になった七瀬は、まだ危うげだが、以前よりは上手に歩けるようになった。ほっぺがふわふわで、吸い付きたくなるようなみずみずしさ。この可愛い顔を見ると、自分の時間が終わってしまった落胆を忘れ、でれでれな笑顔になってしまう沙羅だった。
 子供たちが起きると、先ほどまで穏やかな空間だったリビングは、いきなり戦場になる。リビング横の小上がりになっている和室で、快は子供向け番組を見ながら踊っているし、七瀬はマイペースにおもちゃを手当たり次第に床に放る。
 朝ごはんの席でも、沙羅は休む暇がない。
「ママぁ、おちゃ」
「あ、ななちゃん、かぼちゃぽいぽいしてるよ」
「あはは、ななちゃん、泣いちゃったねえ」
「ねえ、ママ、バナナたべたい~」
 快はずっと何か喋っていて、その相手をするだけでも忙しい。七瀬の世話と、快の要求に応えるため、沙羅は食事の間中も、キッチンとダイニングテーブルを何度も行き来する。
─子供には、アーユルヴェーダの掟は通用しないよ…
 沙羅は心の中で涙目になる。
 本当は果物は果物だけで食べさせたいし、食事の間は席を立つことなく、食事に集中したい。しかし、子育てをしていると、教科書通りにはいかない現実にぶち当たることが多い。沙羅は今更それに落胆してはいない。快を産んだ時から、子育てのままならなさを実感する毎日。でも「想像ができないこと」に接するのは、沙羅は嫌ではない。むしろ、楽しいと思う。
 沙羅は生来楽天的な性格であった。
─子供も人生も、思い通りにはいかないよね。
 時にはそれを、もどかしいと思うけれど。
 足込町に注文住宅を建てて間もなく、夫・栄治は海外赴任が決まった。栄治について行くこともできたが、まだ七瀬を生んで間もなかったこと、新築を立てたばかりだったこと、新築に移ったら自分のやりたいことをやろうと思っていたこと…色々な理由があって、沙羅は子供と共に残ることにした。
 第二子を妊娠した頃から、海外赴任は免れるよう会社に打診してくれれば…と、沙羅は栄治に対して不満を抱かないでもなかったが、最終的に、沙羅は栄治を恨めしくは思わなかった。新築を立てる際、緑豊かなところ、自分の実家が近いところ、という沙羅の希望を汲んでくれた。これによって栄治は、車で片道一時間以上の通勤時間がかかるようになるにもかかわらず(といっても、自宅で週二回はリモートワークしていた)。それに、上沢に住む両親が家に来やすくなり、子育てを手伝ってくれている。なにより、石油会社で働く栄治は仕事熱心で、おそらく、海外赴任も、彼自身が望んでいたのだろう。
─知足(サントーシャ)。
 足るを知る。このヨガ哲学の教えが、沙羅は好きである。だから折に触れて、この言葉を思い出すようにしている。
 広い庭、ヨガをするのに十分なスペース、アーバンな内装の洒落たキッチン。心地よい環境での暮らし。栄治の給料がいいので、お金にも不自由がない。二人の娘たちも、今のところ健康で、大変ではあるが、毎日可愛い顔が見られて嬉しい。
 しかし、沙羅は気づいている。何かが足りないと思っているからこそ、知足を意識するのだ。そして、沙羅は自分が足りていないと思っているもの、正直な心の欲求が何か、気付いている。
 夫の海外赴任が決まると、沙羅は会社を辞めた。夫と同じ会社に勤めていた。社内恋愛であった。会社を辞めたのは子育てをはじめいくつか理由がある。最も大きな理由は、自分のエネルギーをどう活かしたいのか。自分が考えている方向性に進みたかったからである。
─私は、ヨガとアーユルヴェーダをツールに、人を元気にしたい。
 それが沙羅の夢であった。どこかで勤めるのも良いが、自宅サロンを開くのも良いと思っている。その前提で、注文住宅の構想を練った。駐車場、リビングのスペース、施術部屋。ベッドやヨガの道具もある。スキルと経験もある。すぐにでも、サロンを稼働させたいところなのだ。
 しかし、リフレッシュ保育として、月三回しか七瀬を保育園に預けられないこの状況の中では、未だほとんど何もできていない。今は子供たちを育てるのを優先させているが、本当は思いっきり、自分の力を発揮したいという情熱がある。
─そういえば。
 沙羅はまん丸い大きな目で、虚空を捉える。
─美津子さん、まだ声をかけてくれないな…
 沙羅はあかつきのセラピストコースの修了生だった。七瀬を妊娠する前までは、あかつきで業務を代行することも時々あった。授乳も終わったし、需要がある時はいつでも呼んでほしいと連絡してはあるのだが…
─ブランクが空いたセラピストに、そうそう声はかけてこないか…
 沙羅は、あかつきのサットヴァな空間が好きだったし、オーナーの美津子を、人として、ヨギーとして尊敬している。
─美津子さんにも会いたいし、久しぶりにマッサージしたいなあ。
 時々練習をしないと、技術が衰える。セルフアビヤンガと他人に施すアビヤンガは違う。自己練習では復習にならなかった。
─そのうち、練習だけでもさせてほしいって、頼んでみようかな!
 沙羅は持ち前の積極性と明るさで、そうしようと自分に言い聞かせる。

 その日の午前中、沙羅宅には瑠璃子と万里子が遊びに来た。三人の子供たちは、リビングと和室を行き来し、好き勝手に遊んでいる。数日前熱を出していた万里子も、今はすっかり元気だ。
「活動実績がないと認められない…?」
 沙羅と瑠璃子は向かい合ってダイニングテーブルに座り、沙羅の保活について話し込んでいる。
「活動実績がないと、働いているってみなしてもらえないっていうの?だって、準備する時間がなければ、そもそも計画すら立てられないじゃない」
「そうなの」
 沙羅はしょぼくれた表情でティーカップに入れたルイボスティーをすする。瑠璃子は沙羅の代わりに、眉を吊り上げて憤りを見せる。
「民生こども課の担当者は、よくできる子だけど、問題は上ね。仕組みが古すぎる」
「フリーランスって、こんなに就労証明大変なんだね…」
 会社で働いていれば、こんな障害はなかった。
「働き方も自由になってきて、フリーの人も多くなっているのにね」
 瑠璃子は長い脚を組んだ。スカートの長いスリットから、細い足が覗く。今日は体の線にぴっちりと沿う、黒いハイネックニットに、カーキのノースリーブワンピースという姿だった。
「結局、証明通らなかったの?」
「作るのやめちゃった。だって、まだ事業を始めたいと思ってるだけで、実際には何もしてないし、通りっこないよ」
 沙羅は仕方ない、と諦めた様子で、しかし笑顔を作った。
「真面目に書類に向き合う時間が取れないまま、億劫になっちゃって」
「そうなの」
 だから、七瀬はリフレッシュ保育という枠なのか。
「月三回しか二人同時に預けられないのに、自分のやろうと思ってることやるの、きついね」
「実家で面倒見てくれることもあるから、やろうと思えばできるんだけど」
 自分に覚悟と熱意が足りないんだな、と沙羅は反省する。それに、子供と接していると、子供との時間を思いっきり味わう時期にするのも悪くない、と流されてしまうのである。ただの言い訳かもしれないけれど。
「あっ、万里子」
 瑠璃子は足を下ろして、身を前に乗り出す。
「やさしくだよ、やさしく」
 と、七瀬の頭をなでなでしている万里子に言う。快もぴょん、と和室の段差を降りて、七瀬の方へ走り寄り、頭をなでなでする。このくらいの女の子というのは、年下の子の面倒を看るのが(おもちゃにするのが)好きらしく、二人とも七瀬によく構っている。
 万里子は母親に似ていると、沙羅は思う。目が大きく、顔も小さく、大変可愛らしい。幼い子供ならではのみずみずしさは残しながらも、すらりとした細長い手足を持っている。
─旦那さんも、それはそれは美男だったんだろうなあ。
 と、沙羅は思う。瑠璃子の前では、決して言わないけれど。瑠璃子とその夫・岡部は、万里子が生まれて間もない頃離婚した。瑠璃子は東京で働いていたが、会社を辞め、現在は実家に身を寄せながら、足込町役場で働いている。知り合ってすぐの頃、瑠璃子は簡潔に、淡々とそれを語った。
「悪いね、同じ役所の人間なのに、力になれなさそう」
 恐ろしいほどの縦割り業務で、他部署のことはよく分からないのだ。
 沙羅は首を振った。沙羅はいつも通り、黒くて太い髪の毛を一つに編み込み、後ろに垂らしている。身に着けているのは、生成りの丈の長いコットンワンピース。沙羅はいつも、自然素材のものを好んで着ていた。
「でも、就労証明さえ出しちゃえば、通ると思うんだけどなぁ」
 なにせ、この過疎地域は少子化が進む一途なのだ。待機児童がいるようには思えないから、希望さえ出せば通るような気がする。
 足込幼稚園は足込町で数少ない保育施設であり、現在、幼稚園と保育室の役割を共同の施設で担っている。
 未就学児の七瀬を預けているのは、足込幼稚園の保育所部分であるひよこ組。年中の快と万里子は、同じうさぎ組ではあるが、万里子は午後四時以降、保育室に移される。別々のクラスに分けるほどの人数がいないので、夕方にはまとめて保育されているというわけだ。そんな足込幼稚園は、足込善光寺の運営幼稚園である。
「今度園長先生に聞いてみたら?」
 沙羅は度々幼稚園で目にする、園長・加藤ちえみの顔を思い出した。明るく穏やかな雰囲気の人で、決して相談事をしにくい人ではない。ちえみの夫である加藤僧侶も、この地域では有名な水子供養の寺を運営しながら、幼稚園の運営にも携わり、仏教保育としてお経を詠みに来ることもある。人徳があり、武道の達人。定期的に、寺で子供たちに少林寺拳法を教えているとも聞いていた。
「それにしても」
 瑠璃子はため息をつきながら頬杖ついた。
「こども課も申請が難しいようなこと言わなければいいのにね」
 足込町は、典型的な少子高齢化地域。保育室も、まだ数名は受け入れ可能だろうに。
「そうだよね。これから足込町に人が増えたら、私みたいな働き方をしようっていうママも出て来るかもしれないし」
「そう?増えないんじゃない」
 瑠璃子は、いともあっさりと言う。
「こんなド田舎じゃ」
「そんなぁ」
 沙羅は両手を拳にして、小指の側をテーブルにつけた。
「だめだよ、地域振興課の職員がそんなこと言っちゃ」
 少女のような声で抗議する沙羅を、瑠璃子はかわいいと思う。実を言うと、沙羅の方が瑠璃子よりも五、六歳は年上。卵型の可愛い顔に高い声。表情がコロコロ変わり、身振り手振りが大げさ。そんな少女っぽさからは、年上のように思えないが。
「足込町に人が増えるよう頑張ってよ」
「無理だよ」
 瑠璃子は苦笑いした。観光客を呼ぶことすらままならない。ましてや移住者など。
「まんまー」
 七瀬はニコニコ顔で、かわいい口をアヒルの形にして沙羅に近づき、抱き着いた。
 七瀬を受け止めながら、沙羅は自分が保育室利用の手続きを申請できない理由を、まざまざと認識した。面倒くさいという理由だけなら、戸惑わない。
 自分の野望のために、乳離れが終わったばかりのこのかわいい小さな幼児を毎日、長い時間預けることに、沙羅は一抹の後ろめたさを感じているのだった。

 あっという間に、お昼時になった。
「あっ、ななちゃん、だめーっ」
 お気に入りの人形の耳にかじりつく七瀬を、快は押しのける。七瀬はうわーんと、顔をくしゃくしゃにして泣き始めた。沙羅は七瀬にささっと歩み寄り、代わりのおもちゃを与えてあやした。
「まだまだ、穏やかな方だよね、姉妹喧嘩」
 瑠璃子もリビングに歩みより、万里子の傍で両膝をついた。
「祥子さんのとこは、激しいみたいよ」
「そうなんだ。やっぱり、男の子だと違うのかな」
 祥子はママ友の一人で、長男・大地がうさぎ組に、次男・朝日がひよこ組に属する。祥子は経理事務所に勤めていて、瑠璃子と同じフルタイムワーカー。
「相変わらず物がないね」
 正座の膝に万里子を乗せて人形ごっこに参加しながら、瑠璃子はこの部屋全体を見渡した。テレビや、子供用のおもちゃは、全て小上がりの和室に寄せていて、リビングには、ソファもテーブルもない。物の少なさは、ここでヨガをするためなのだろう。ダイニングと反対側の壁は、ライムストーンを再現したエコカラットで、いかにも沙羅好みだ。この部屋をナチュラルな空間に演出するのに一役買っている。自然光が惜しみなく入る大きな掃き出し窓、床を引きずる長さの天然素材のカーテン。薄い色合いのタモ材の床。観葉植物。新しい木材のにおいがする綺麗な部屋は、瑠璃子が東京にいた時のマンションを思い出させる。
 あの頃は、住みたい街の上位に入るような都会の街で、気楽なマンション暮らしをするものだと思っていた。しかし、今瑠璃子がいるのは、統一感のない物が雑多に置かれる、昭和の雰囲気を残したあか抜けない実家だった。そして、シングルマザーという立場。
─もし、沙羅さんがこんな性格でなかったら…
 背負っているものと、生活水準の差に、自分は沙羅を嫌っていたかもしれない。と、瑠璃子は思う。
 海外駐在員の妻。新築の一軒家。子育てという足枷はあるものの、経済的な心配はなく、自分の好きなことに集中できる環境。
 しかし、嫌いにはなかったのは、裏表のない沙羅の明るさ、陽気さ、純粋さを、単純に友として好ましいと思ったからだ。沙羅は英語をはじめ、複数の言語に堪能で、元は石油会社の社員。自頭も相当よく、優秀な人間であるはず。にもかかわらず、ヨガや、アーユルヴェーダというものに興味を持ち、キャリアを捨てて、わざわざ選んで今の環境にいる。瑠璃子は、こういう沙羅の奇妙さもまた、面白く感じるのだった。
「そういえばうちの課、とうとうyoutuberと結託することにしたんだよ」
「え?」
 沙羅は好奇心に満ちた目を瑠璃子に向ける。お役所の人間が個人と協働するということなのだろうか。
「街のピーアールをしてもらうんだってさ」
 上司のおじさんたちには、動画など、作りたくても作れないらしかった。瑠璃子にその仕事が回ってきそうになったこともあるが、瑠璃子は他の仕事で忙しいという理由で、一貫して拒否し続けた。瑠璃子は、SNSが嫌いだ。
「誰?そのyoutuber」
「ウィングチャンネルを作ってる人」
「あ…それ見たことあるかも…」
 娘たちが大きくなったらキャンプに連れて行きたいなと思い、この界隈でキャンプできるところを検索したら、その動画がヒットしたのだ。キャンプの様子をひたすら映して、くだらない独り言にもテロップがつく。何にも考えないで見られるタイプの動画だ。忙しい子育ての合間に見るには遅すぎるテンポだったので、すぐに視聴を止めたことは、言わないでおいたが。
「そのチャンネルで、すでに足込町のピーアールしてくれてるようなもんだよね」
「でも役所的には、公式動画を発信したいんだって」
「そうなんだ」
「私、なぜか窓口にならないといけなくなっちゃってさ」
 抜擢の理由は「綺麗な女性が窓口の方が、相手も喜ぶだろう」という、いささかセクハラ的な問題がありそうなものだった。あれだけ拒んでいたというのに、瑠璃子が動画を作成するのではなく、動画の作成を依頼するだけならいいのだろうと、上司は勝手に判断した。
「面白そーう!」
 沙羅は自分がやりたそうに、正座の姿勢で、上体をバウンドさせた。快と七瀬も、それを見て、体を上下に動かす。ひどく滑稽な様子だった。この親にして、この子ありだ。
「ウィングチャンネル作ってるの、どんな人なの?」
 瑠璃子は首をすくめた。まだ会ったことはないらしい。
「瑠璃子さん、出演するの?」
「まさか。嫌だよ」
 誰が見ているとも分からないのに、自分の顔を公開するなど、とんでもない。
「瑠璃子さん出たら、絶対視聴率上がると思うんだけどなあ」
 沙羅は唇に指を当てて天井の方を向き、呑気に言った。
「絶対イヤ。ムリ」
「イヤ、ムリ、イヤ、ムリ」
 今度は万里子が母のマネをする。いかにも小バカにしたような目つきだった。
「万里子、あんたそんな目して…」
 瑠璃子は万里子を膝から下ろして、こちょこちょっと脇腹をくすぐる。万里子は仰向けになって、きゃははっと笑い、体をずり動かした。美しい母子の様子を、沙羅は尊いものでも見るかのように、目を細めて見ている。
「そうだ、沙羅さん、神社の近くにあるサロンで働いてたよね」
「あ、うん」
 沙羅は、恍惚の表情を慌てておさめた。働いてた…というほどでもないが。
「普通のサロンじゃないんだよね」
「そうなの!」
 沙羅は急に目を輝かせて、
「国内では珍しい、滞在型のアーユルヴェーダ施設なの。マッサージも受けられるし、食事も美味しいし、ヨガをして、リラックスして。サットヴァを取り戻せる場所なの」
 自分が褒められたかのように、意気揚々と話す。
 瑠璃子は、沙羅の最後の言葉が、よく分からない。けれど沙羅がよく分からないことを喋るのは、いつものこと。今更そこには突っ込まない。
「観光資源になりそう?」
「え?」
「足込町の」
「…」
 思ってもみなかったことを言われた。
─観光資源?
 確かに、こういう施設は国内では珍しいと言った。しかし、リラクゼーション施設を併設する旅館と、ある意味同じだ。アーユルヴェーダに特化しているという違いがあるだけ。
「どうだろう…」
 困った表情になる沙羅を見て、瑠璃子は手を振った。
「いいの。地方での自然体験って流行ってるし、足込町にも受け入れ先があるなら、ピーアールのネタになるかなと思ったんだけど」
 それは、あかつきとしても、メリットのある話ではないか。沙羅はそう思いながら、瑠璃子が可笑しかった。仕事熱心なこの女は、四の五の言いながらも、街をピーアールすることにアンテナを張り始めているようだ。
「今もそこ、行ってるの?」
「今は…全然」
「そっか」
 瑠璃子は、励ますような笑顔を沙羅に向けた。
「早くやりたい仕事、できるといいね」
 沙羅は頷いた。心に秘めた火が、風に煽られ、パチパチと火花を散らした。

 

 


 

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