一台のタクシーがあかつきの正門の前で止まった。すべてのドアとトランクが開き、次々に客が降りる。後部座席の運転手側の席から降りた女は、土埃が舞う地面の上に、パンプスの高いヒールを下ろした。トレンチコートに身を包んだやや背の高いその女は、挑戦するような視線をあかつきの正門に投げかけた。
「遠いところから、ようこそおいでくださいました」
美津子と杏奈は、東京から来た三人のクライアント─ゆかり、果歩、武井の三人を玄関先で出迎えた。美津子のほうはあかつきの正装、杏奈は白シャツに黒ズボン、いつもの紺色のエプロンを身に着けている。
「お出迎え恐れ入ります」
先頭に立っているゆかりは、少女のような可愛らしい高い声でそう言い、口角を引き上げた。後ろに立っている果歩はスーツケースを引き、大きなショルダーバッグを肩から提げている。そのさらに後ろには武井が続く。彼はスーツケースを二つ引き、黒い大きなリュックを背負っている。
先に荷物と上着を置いてもらうために、杏奈が三人を客間へ通す。身軽になった三人を美津子が引き受け、あかつきの中を一通り案内した。
「まあ、素敵」
改めてホールの佇まいを観察しながら、ゆかりが例の高い声で言った。トレンチコートの下は、ハイネックの黒いセーターと、黒いタイトスカートという姿だった。髪は黒く、後ろでシニョンにしている。身長は美津子より少しだけ高い。顔は細面だが、顎を引くと二十顎になった。着痩せするタイプのようだが、やや太っていて、お腹とおしりが前後に突き出ている。要は反り腰であった。
─施術の時の、癖なのか。
ゆかりは、アーユルヴェーダセラピストである。施術中の姿勢が、通常時の姿勢にまで影響を及ぼしているのかもしれない。美津子はそう思った。
三人まとめて案内をしていると、口々に感想を言い出したり、質問をしたりするので、一人を案内するよりも時間がかかった。
「パソコンを持ち込んでいるんですが」
書斎、居間、応接間まで案内した後で、武井が言った。
「どこか部屋を使わせていただけますか」
武井は二人の付き添いで来ているだけであった。事務仕事を持ち込んでいるらしい。
「応接間か書斎、どちらでもご自由にお使いください」
施術を受けずに、食事と宿泊だけを希望する客は時々いる。だいたい、男女ペアで滞在して、男のほうがそうなる場合が多い。
武井はゆかりよりも背が高く、やや肉付きのよい男性だった。丸い黒縁眼鏡をかけていて、おでこが広い。薄毛だった。茶色いジャケットに、グレーがかった水色のシャツ、濃い灰色のズボン。きちんとした服装をしている。
あかつきの設備を案内し終わった後、一行は書斎へ入った。
「それでは、さっそく施術前のカウンセリングをさせていただきます。ゆかりさんは書斎で、果歩さんは居間で」
応接間に控えていた杏奈と沙羅は、美津子のその声をきっかけに、それぞれの持ち場へ移った。
「果歩さん、こちらへどうぞ」
「はい」
あかつきの正装をした沙羅は、書斎まで果歩を迎えに行った。
─久々にあかつきで仕事をする。
沙羅は、本当はその感慨に浸りながら、仕事のことだけを考えていたかった。けれど、現実はそうはいかなかった。今日に限って七瀬が朝ごはんを全く食べず、祖父母のところに預けてここに来るまで、バタバタしていた。美津子と杏奈が一行を出迎えている間、沙羅は着替えと施術室の準備をするのに大慌てだった。といっても、美津子か杏奈が手を入れたのか、既に施術室の準備は整っていて、沙羅はそれを確認するだけだったのだが。
─切り替えなきゃ。
居間のひじ掛け椅子に果歩を案内すると、沙羅はそのそばの床に膝をつく形で、カウンセリングを始めた。
果歩は身長が高く、骨格がしっかりしている。肩先や腰は丸みを帯び、痩せてはいないが、顔にはあまり肉がつかないタイプらしい。穏やかな目をしていた。サーモンピンクのニットワンピースは、果歩の顔の印象の柔らかさを引き立てている。ダークグレーの髪は顎よりやや長いくらい。
沙羅は事前に担当するクライアントのプロファイルは読んできていた。この女性も、アーユルヴェーダセラピストであった。
「担当の伊藤です。よろしくお願いいたします」
同じくらいの年頃の同業のクライアントに対し、にっこり微笑みながら、沙羅は心地よい緊張を覚えていた。
「ずっとこちらへお伺いしたいと思っていたんです。どうにか、予定を空けられて本当に良かった」
ティーカップに指を掛けながら、ゆかりは目を細めた。
「東京からこんなところまで、わざわざありがとうございます」
美津子は朗らかに礼を言う。オレンジがかった髪を、今日は後ろに結って簪で留めている。
「ここは本当に…」
─なんにもない田舎ですね。
心の中に浮かんだ率直な言葉は、ゆかりはもちろん外には出さずに、
「長閑な、良い所ですね」
と言った。
「こちらのことは、どちらでお知りになられたのですか」
「どちらで…というわけでもないのです。前々からなぜか知っていました。お客さまから度々お名前を聞き、なんとなくホームページを見させていただいたことがあったかもしれません」
「そうでございましたか。私も、ゆかりさんのお名前は、前々から存じ上げておりました」
当然だろう、と思いながら、
「あら、それこそどうしてです?」
ゆかりはとぼけてみせた。
「ゆかりさんといえば、アーユルヴェーダセラピストの間では有名なお人ですから」
「そんな。ただ、長くセラピストをやっているだけです」
と言ってみたものの、ゆかりは、できれば美津子の口から自分の偉業を話させたい。
「どういう評判を聞いておられるのでしょう。恥ずかしながら、聞いておきたいです」
「私がゆかりさんを知ったのは、アーユルヴェーダ学会の学会誌に寄稿されている文章を読んだ時です」
「だいぶ昔のことです。私はずっと現場の人間で、学会にはめっきり足を運ばなくなりました」
「そうですか。セラピストの教育にも力を入れていらっしゃいますよね」
「サロンを代官山に構えていた時期に養成講座をしておりましたので。けれど、サロンを青山に移してからは、育成のほうは細々と」
代官山だの、青山だの、よくそんな地価の高いところでよくサロンの運営をしていられる。この女はアーユルヴェーダセラピストとしての実力もさることながら、経営者としても優れているのだろう。
美津子はゆかりの存在こそ知っていたものの、実は、深くはこのセラピストのことを知らなかった。話のネタを見つけておこうと、昔の記憶をたどりながら、急ごしらえで情報を集めたのは最近のことだった。やり手のセラピストだ。本人は努めておっとりとした喋り方をしているが、話をしていると、黒くて太い眉が、時々に勝気そうに吊り上がった。
「自惚れかもしれませんが、ずっと第一線で業界を引っ張ってきたと、自負しております」
ゆかりは、すでに謙遜するのをやめたようだった。
「セラピストという業種の地位の低さを、常々苦々しく思っておりました」
「地位ですか」
「私は若い頃から、この腕一本でやって来たのですが、若い頃は特に、周囲の風当たりを強く感じたように思います」
ゆかりは、例によって片方の眉を吊り上げた。
「セラピスト?金持ちの女性に娯楽を提供するだけの、社会的価値の低い存在…と」
誰かの言葉をそのまま真似るような口調で言った。
「けれど、そこで生まれた反骨精神のおかげで今があるのかもしれません」
それでゆかりは、セラピストの地位を向上させたいと必死に励んできたのだ。
「私は、自分の使命を常に言い聞かせて参りました。働く女性に一時の癒しを与え、現実の世界で頑張れる活力を与えること、と」
ゆかりが抱いている理念は、あかつきのそれと似ていた。
「たびたび理念を振り返ることは、重要なことですね」
「社会的意義は、そうやって自分に言い聞かせたものの、経営には苦労しました」
ゆかりは、今度は嘆くように両方の眉尻を下げた。
「若い頃は、遮二無二営業をしました。今でこそ、SNSでさらっと情報を流すことができますが、その頃は本当に泥臭いことをやっていましたね。サロンを運営しながら、一日に二百件は営業電話をかけていましたよ」
「二百件…それは大変な努力でしたね。その結果、今がおありなのですね」
「ふふふ。けれど、今の若い子には、そのくらいの気概がございません」
ゆかりはふう、とため息を吐いた。
「今の若い子は若い子なりに、大変だと思いますよ」
情報は流せるが、見られるような情報を提供しなければならない。情報が溢れかえる中で、差別化をして、戦略的で高度な情報発信を行う。美津子たちが若かった時代よりも複雑な時代になってきている。美津子は日々SNSの発信に時間をかけている杏奈を見て、常々そう思う。
「それぞれの時代に、違う厳しさがあるのでしょう」
ゆかりはそれには答えず、お茶を飲んだ。
─ふん、共感していればいいのに、若い世代の肩を持つなんて。
最近の若い子は…と、愚痴に乗って来ればいいのに。目の前の同業者は、さっきから楚々とした様子で、穏やかな微笑を浮かべているばかりだ。
「…業界の間で、美津子さんのことは有名ですよ」
ゆかりは話題を美津子に移した。
「独自のやり方で、アーユルヴェーダの癒しの時間を提供していると。滞在型サロンはすぐぽしゃってしまう中で、美津子さんは長年続けている。最大の賞賛に値することです」
都心にも、地方にもアーユルヴェーダサロンは多くなっている。個人経営の隠れ家サロンも乱立している。さらに、最近ではインドやスリランカのアーユルヴェーダ治療院を模した滞在型サロンも出て来るようになった。しかし、その中でもあかつきは異色だった。滞在型のサービスを提供するアーユルヴェーダ施設で、これだけ継続年数が長いところは珍しい。
「うちのサロンに来るお客さまの中にも、こちらへの滞在歴がある方が時々いらっしゃいますが、みな素晴らしいところだったと言います」
美津子は謙遜するでも、嬉しがるでもなく、ただ静かに口元に微笑を浮かべた。
「どういう所なのか…常々、滞在したいと思っておりました。けれど、私は同業者ですので、偵察するようなことは野暮かなと、来るのを憚っていたのです」
おそらく本心を言っているのだろう。
「仮に偵察されたとしても、何のからくりもなかったと、がっかりされるような気がいたしますが」
「ご謙遜です」
「いいえ。宿泊できることのほかには、他のサロンと比べて、特別なことをする場所ではないのです」
美津子としては、青山に店を構える熟練セラピストを相手に施術をするなど、できれば避けたいくらいだった。
「何もない静かなところで、生活のペースを落として、旬のものを食べて、トリートメントを受ける。ただそれだけです」
「美津子さん。何もない静かなところで、ペースダウンするのが、都会の現代女性には、とても難しいことなのですよ…」
だからこそ、あかつきでの体験が至極健やかで良いものに思え、良い意味で評判に尾びれがつくのだ。
─実際どれほどのものか、見せてもらおうか。
ゆかりの心の中で競争心が燃え上がった。
ゆかりに着替えをしてもらっている間、美津子は一瞬だけ一階に降りて、
「お土産を持ってきてくださったわよ」
キッチンにいる杏奈に紙袋を渡した。
「え、わざわざ…」
お金を払って滞在するというのに、律儀なことだ。
「沙羅はもう行った?」
「はい。美津子さんたちは、大分長く話していらっしゃいましたね」
応接間には、武井がいる。美津子は声を落として、
「なかなか、よく喋る人だ」
疲れた…と、美津子には珍しく、愚痴を吐いた。それでも、施術後は沙羅をフォローしてやってほしいと、杏奈にお願いをして去っていった。
再びキッチンに一人になった杏奈は、何の気なしに紙袋の中を覗き、思わず目を見開いた。
─こ、これは…
いかにも甘くてサクサクしていそうな、チョコレートがかかったミルフィーユ生地のお菓子が入っている。パッケージを見ただけで、杏奈は唾液が出そうだった。あんなにお菓子から遠のいていたのに、手の届く範囲にあるとなると、急に食べたくなる。
─よりによって、こんなアグニキラーなお菓子を…!
杏奈は紙袋の中がまぶしすぎて、しばしの間顔を背けたまま、お菓子の包みを直視することができなかった。
美津子とゆかりは、カウンセリングの質問事項以外に積る話があるのか、長いこと談笑していたが、沙羅は早々に果歩を施術室へ案内した。
一階の施術室は北向きなので、窓から降り注ぐ日差しは弱かったが、小ぢんまりとした空間は、これはこれで落ち着いた。
脚にアプローチしている間、沙羅は果歩に話しかける余裕がなかった。しかし、オイル塗布をするうちに、だんだんと感覚が呼び戻され、いくらか緊張がほぐれてきた。
左手を終え、右手に移る。
「手にオイル塗っていきます」
そう言ってから、果歩の大きな手のひら、長い指に触れると、
「大きくて柔らかい手ですね」
沙羅の好奇心はようやく発揮された。
「よく言われます」
大人しく目を瞑っていた果歩は、話しかけられると少し目を開いて、仰向けになったまま、わずかに顔を沙羅の方へ向けた。
「セラピストにぴったりの手ですね」
「でも、汗ばんでしまうんです」
果歩の声は、女性らしい甘い響きがあり、柔らかい猫なで声だった。
「確かに、オイルを塗る前から、しっとりしてるなと思ってました」
「そうなんです。こういうところは、私ピッタなんです」
果歩の本来の体質は、事前にチェックしてもらったドーシャ診断の結果、カパ・ピッタだった。
さて、今一度ここでドーシャについて説明する(※ドーシャとは何か、バランスをもたらすためのアーユルヴェーダの原理原則については「気(プラーナ)」のエピソードで軽く触れた)。
ドーシャは、アーユルヴェーダにおいては個性や行動様式、体調など、いわゆる「体質」を知るため、または説明するために用いられる概念である。
体質や体格、心身の状態は、一生を通して変動が少ないものもあれば、日々変わるものもある。普遍的な個人の体質や本質のことをプラクリティ(Prakriti)といい、何らかの原因で乱れた状態としての特徴や状態をヴィクリティ(Vikriti)という。今、果歩の本来の性質は「カパ・ピッタ」だが、体が湿熱を持ちやすいという現在の状況を「私はピッタだ」と表していたのを例に取ると、果歩のプラクリティはカパ・ピッタ、ヴィクリティはピッタが優勢(少なくとも、この会話から分かる範囲では)という風に読める。
体質はドーシャチェックまたはドーシャ診断表と呼ばれる体質診断で、ある程度把握できる。
よく「どういうエネルギーバランスが理想的なのでしょうか」という問いがあるが、ヴァータ、ピッタ、カパの比率が1:1:1であることが、必ずしも理想的ではない。
それぞれ生まれ持った体質(プラクリティ)が、その人にとっての理想といえるかもしれない。プラクリティは、物質世界におけるその人の本質だからだ。現在の心身のバランスがプラクリティに近いと、心身ともに心地よく感じる。プラクリティが決まるのは、受胎時である。その個人の母親と父親の状態によって決定される。プラクリティは永久に変わらない。
しかし、人は生きていると、環境、気候、生活習慣、仕事などから影響を受け、本来の一番心地よいエネルギーバランスから遠ざかったり、近づいたりする。このバランスが乱れた状態・ヴィクリティは、その乱れ方も時と場合によって可変的である。ヴィクリティがプラクリティ(本質)に近づけばより心地よく感じられ、プラクリティから離れるほど不調や症状が現れる。アーユルヴェーダの実践とは、自分のヴィクリティに気づき、プラクリティに近づけること、といえるのかもしれない。これは、自分のラジャスとタマスに気づき、サットヴァをもたらそうと試みることと似ている。
ヴィクリティとして示されるドーシャの乱れを整えるのに活用するのが、繰り返しになるが、「似たものが似たものを引き寄せ、反対の性質がバランスを取る」という基本原則である。増大しているドーシャの性質を把握し、反対の性質を取り入れることでバランスさせる。
それぞれのドーシャがもつ五大元素、およびグルヴァディグナ(世界の万物が持っている10対20種類の性質)は以下のとおりである。
・ヴァータ:空と風の要素に関連。冷、乾、軽、鋭、硬、動、流、微、荒、清。
・ピッタ:火と水の要素に関連。温、湿、軽、鋭、硬、動、流、微、滑、清。
・カパ:水と土の要素に関連。冷、湿、重、鈍、軟、静、固、粗、滑、濁。
ピッタは、火と水の要素を含む。グルヴァディグナの十の性質の中で、ピッタを代表するのが「温」だ。ヴァータも、カパも冷たい。ピッタだけが熱い。体が熱を持ったり、汗をかきやすかったりするのは、ピッタらしい傾向だ。
しかし、果歩の主たる体質はカパである。優しげな雰囲気も、おっとりした話し方も、体格の良さも、カパの特徴と言えた。そういえば、近くで見て見ると、髪も一本一本が太くて、わずかにうねっていた。
「こちらの施術は、果歩さんたちのサロンのやり方とは違いますか?」
「そうですね…もちろん手順や動きには違いがありますけど、オイルを塗られる感覚としては、似てるかな…」
「そうなんですね。私、南インドに行った時は、もっとゴリゴリオイルをすり込まれてたんですけど、日本で研修を受けて、やっぱり日本人は繊細だなと思いました」
「南インドまで行かれたんですね」
「若い時ですけど」
「すごいなあ」
果歩は羨ましそうに言った後で、眉尻を下げ、どこか儚げな表情になった。
「実は私、アーユルヴェーダのセラピストとしては、まだ新人なんです」
「そうなんですね!」
「ええ。それまで、普通のサロン…痩身とか、マッサージの方はやってたんですけど、ほんの数ヶ月前に先生に弟子入りをして」
沙羅は相槌を打ちながら、右手をバスタオルでくるむと、反対側に回り込んだ。
「お腹触っていきます」
初めて触る部位に移る時、必ず声をかけた。
「そうしたら、いきなり研修旅行とかで、こちらに来ることになって…」
「研修旅行なんですね!楽しそう」
「そうですか?」
なぜか果歩は、憂いを含んだ声を出す。
「お姉さんセラピストをサロンに残して、私だけついていくなんて、申し訳なくて」
女の職場だ。人間関係上の気苦労もあるのだろう。
カウンセリングの時から、果歩はにこやかな表情で沙羅の問いかけに答えていたし、施術室に入ってからの立ち回りも、従順というか恭しいというか、とにかく丁寧だった。人に嫌な思いをさせないようにと配慮するような節がある。周りが見えるからこそ、特別待遇が心苦しいのだろう。
「他のサロンの施術を身体で学びなさいってことじゃないですか?」
沙羅はあくまで楽観的に答えた。
「それに、誰かが残っていないと、サロンの営業ができませんし。仕方ないですよ」
「そうなんですけどね…」
「自己を向上させる機会として、めいっぱい利用しちゃえばいいんですよ」
明るくそう言われると、果歩はなんだか心が軽くなってくる。
会話をしつつ、注意深く果歩のお腹を触っていく。少しお腹が張っているような気がした。
「触られたくないところはありますか?」
「大丈夫です」
果歩は再び、目を閉じていた。
「あの男性の方も、セラピストですか?」
今度は果歩の頭の方へ回り込みながら質問をする。
「いえ、あの方は哲学を教えています。先生とはずっと前からのお付き合いなんだそうです」
「哲学?インド哲学ですか?」
「そう…ヴェーダとか、かなりマニアックな。私はよく分かっていないんですけど」
興味深い話だが、デコルテ部分へのアプローチに集中するため、沙羅は黙った。話をすると胸が動くので、果歩もそこまで喋って口を閉じた。
背面の施術に代わり、沙羅が脚に触れたところで、果歩の方から話しの続を始めた。
「でも、武井さん…ってあの男性ですけど」
「はい」
「ここ数年、サロンではスクール業をしていないこともあって、哲学の講義をしている姿は見たことがないんです」
「そうなんですね」
「はい。なんか、ほとんど先生の付き人っていうか、マネージャーっていうか…」
「先生、すっごく仕事できそうな女の方ですよね!」
「はい。でもやっぱり、売れっ子だから、すごく忙しくされてます」
その売れっ子セラピストは、この会話の少し前に、ようやくメイクルームにて着替えを終えたところだった。
ところで、ゆかりの心と身体の状態はというと。
─恥ずかしながら、たるんだ体が気になっています。
カウンセリングの時間を長らく別の話に割いた後で、ゆかりは恥ずかしそうにそう述べた。
施術室に入ったゆかりの身体を、美津子はさりげなく観察する。
「ベッドにどうぞ」
ゆかりはまだ胸元までサロンを巻いている。背中の肉はサロンの上端からはみ出し、二の腕の肉づきも豊かだ。着やせするタイプなのか、黒い服がスリムに見せていたのか、服を着た状態では太っていることにそこまで意識が向かなかった。
ゆかりがサロンを取り払って施術用の下着だけの姿になると、すぐにバスタオルで体を覆った。
左脚からオイルを塗る。白い脚だった。前ももが張っているのは、普段前かがみの姿勢になることが多いためか。
「たっぷり脂肪がついてしまって、お恥ずかしいことです」
「とんでもないです」
記憶にある限り、学会誌へ投稿していた頃の写真の中のゆかりは、色白で、艶やかな肌をしており、いかにも美容に気を付けているセラピストという感じだった。太っていた印象はない。もともとの顔の骨格がすっきりしているからかもしれない。年齢相応に顔には皺やシミがあるが、顔のパーツが整っており、若い頃はもっと美人だったに違いない。
しかし、美津子が施術をしていて気になったのは、肉付きではなかった。左脚を終え、右脚に移り、足指へのオイル塗布まで辿りついた時、美津子は両足のいくつかの爪先が剥がれたり、欠けたりしているのが気になった。
「足の爪が剥がれていらっしゃいますね。痛くはないですか?」
美津子は淡々と、ゆかりに話しかけた。
「ええ、痛くはありません。お恥ずかしいですわ」
─確か、ハイヒールを履いていた。
玄関で出迎えた時の、ゆかりの足元を思い出す。
─爪がこうなっても、ハイヒールを脱がないのか。
それは、この熟練セラピストの、プライドの高さを示していた。
正午前。ガチャッという音がして、キッチンでまかないを食べていた沙羅はびくっと飛び上がった。お勝手口が威勢よく開き、外から小須賀が颯爽と入って来た。
「こんちはーす」
「あれ?小須賀さん」
小須賀は沙羅の声かけには反応せず、棚から何か取るとすぐに踵を返して、
「さよならー」
と言って立ち去ろうとした。
「ちょっと待ってください。今日、お仕事ですか?」
「ちがいまーす。忘れ物取りに来ただけでーす」
「忘れ物って?」
「免許証…の入った財布です」
小須賀は右手に持った財布をちらりと見せた。
「案外、おっちょこちょいですよね」
「間抜けですみません」
「間抜けとは言っていません」
「同じような意味ですよ」
小須賀はお勝手口のドアノブに手をかけたが、思い出したように振り返った。
「沙羅さん、今日仕事っすか?」
あかつきの正装をしているので、そう思った。
「はい。ブランクが空いてから、今日が初めて…もうドキドキでした」
とはいえ、午前中の施術では大きな失敗をすることもなく、ちゃんとできたと思う。施術後のカウンセリングも終わり、今は午後の施術に備えて早めにまかないを食べているところだった。
クライアントがいる時、スタッフは交代で食事を摂るが、午後の施術を控えているセラピストがいれば、その者を優先して食事の時間があてがわれる。
「さすがっすね。じゃ、これで」
そそくさと帰ろうとする小須賀の背中に、沙羅は問いかけた。
「小須賀さん、杏奈ちゃんって、彼氏いるんですか?」
「は?」
突然の問いかけに、小須賀は素っ頓狂な声を上げつつ、
「いないんじゃないですか?」
即座にそう答えた。お勝手口のドアを開け、片足だけ外の石段を踏んだ姿勢で。沙羅はそんな小須賀に向き合ったまま、ごはんをひとすくいし、口に入れた。
「なんでそんなこと聞くんですか?」
「別に…」
「なんですか、合コンでもするんですか?」
こんなところばかり、察しがいい。
沙羅は素知らぬ顔で、顔を背けて食事を続けた。小須賀は片足をキッチン側に引っ込めて、扉を閉めた。沙羅は知らん振りしている。小須賀はその無言を肯定と受け取った。
「綺麗な子来ますか?おれも誘ってくださいよ」
「小須賀さん、彼女さんと別れたんですか?」
「いや。でも、それとこれとは別です」
「どう別なんですか」
仏頂面をする小須賀を、沙羅は素っ気なくかわす。
「男の人のほうは足りているので」
小須賀は大げさにため息をついてみせた。
「あーあ。悲しいな」
沙羅は咀嚼をしながら、顔だけ小須賀に向けて悪戯っぽくにっこりと笑った。
今日はお昼ごはんは、赤米、パリップ(レンズ豆のココナッツミルクカレー)、蕪のカレー、小松菜の炒め物だった。沙羅は玄人らしく、最終的には全ての料理を混ぜて食べているようだ。小さな口の動きが止まると、沙羅はもう一度確認するように、
「杏奈ちゃんを食事会に誘ってもいいですね?」
「だから、おれに訊かないでください」
「小須賀さんの妹分でしょ?」
勝手なことを言っている沙羅の相手を、真面目にするつもりはない。そう言わんばかりに小須賀は首を振り、無言で出て行った。
「で、どうだったの?」
昼食を摂りながら、武井がこそこそっと尋ねる。食事をしているゆかり、武井、果歩以外には、応接間に人はいない。
「先生の施術と、どっちが気持ちよかった?」
果歩は答えに窮した。正直なところ、どっちが気持ちいいか分からない。しかし、立場的にはゆかりの肩をもつべき。それは分かっているのだが、即答するのも嘘っぽい。
「いたッ」
テーブルの下で鈍い音がするのと、武井が上体を傾げながら悲鳴を上げるのとが同時だった。
「失礼な人ね」
非難するように目を細め、ゆかりが言った。
「私に決まってるじゃない」
そう言って、ゆかりはほほほと笑った。果歩は隣に座っているゆかりに分かるように、大きくかぶりを振った。
「あなたはどう思うの?」
武井とは対照的に、声を潜めることなく、ゆかりは唐突に武井に訊いた。
「はい?なにが…でしょう」
「なにがじゃないでしょう。伊豆と比べてどう思うのよ」
「そりゃもう、こっちに軍配が上がるだろう」
「こっちって、どっち?」
「うちだよ。当然だ」
武井はそう言いつつ、きょろきょろと周りを見回した。声を潜めてはいたが、自信に満ちた語調だった。
「うちのほうが広々とした中庭があるしな。第一、収容人数が違う」
「施術室は趣があったわ。この空間も、悪くはない」
和洋折衷のしつらえ。派手過ぎないが、質素過ぎず、品があった。それにセラピストのあの和装。
「でも、立地としては断然こっちの方が上だよ」
武井はニヤッと笑う。
「電車から降りた時、何もなさすぎてびっくりしちゃったよねぇ」
といってこちらを見る武井に、
─私に同意を求めないでほしい。
と思いながらも、果歩は遠慮がちに一回だけ頭を縦に振った。
「伊豆には海も、温泉もある。こっちは?侘しい里山の風景に、温泉があるとはいっても大衆浴場。名所といえば、隣の士に不気味な古戦場がある程度」
「立地はこっちが勝って当然よ。でも、結局はサロンの中も大事だ。あのオーナーは全くアクがなく、敵を作らなさそうだし、クライアントから好かれそうだ…」
「まあ、うちの社長さんはアクしかなく、人を選びますからね…イタッ!」
武井が鋭く悲鳴を上げたので、果歩はびくりとした。大方、また机の下でゆかりに蹴られたのだろう。
「イタタ…ところで、使っているオイルは?」
「スリランカから取り寄せていて、非売品。ベースはブラックセサミオイル。六から七種類くらいを使い分け」
ゆかりがすらすらと答えたので、果歩は度肝を抜かれた。そんなことを施術の間に聞き出していたのか。自分はただリラックスして、沙羅との会話を楽しんでいたのに…。
「正直、通わないと、どれほどの質のものか分からないわね」
「じゃあ、滞在日数を増やして確かめますか」
武井はまだニヤニヤと意地の悪そうな笑みを浮かべている。
「どうやら、部屋は空いてるみたいだし」
「だめよ。青山をそんなに空けられない」
「聞いたか?」
武井はまた果歩に向かって、
「キミたちが早く先生くらいの手腕にならないと、先生が羽を伸ばすことができないんだからね」
「そんな。何年かかっても先生には追いつけません。いえ、何十年かかっても…」
「ふふ。そんなに卑屈にならなくていいのよ」
と言ったものの、ゆかりはどこか満足げだった。
「あとはまあ、料理ね…」
ゆかりは皿の上に悩ましげな視線を落とした。
「先生、ぺろりと召し上がってますね」
「私のだけ、お米の量が少なかったのよ」
そして、おかずの量も、米に合わせて少なくなっていた。
「まったく、嫌味だわ。確かに、体型が気になっているとは言ったけど…」
ゆかりは空の皿の上でスプーンを遊ばせて、ぶつぶつ言った。
「質素で健康的だね、ここの料理は。味がマイルド過ぎるのが気になるけど。それに、僕はどちらかというと日本の米のほうがいいなぁ」
武井は赤米を少しだけスプーンですくい、落とした。カレーの汁気にあたっていない赤米は、ばらばらっと皿の上に落ちた。
「私もこの子もカパが上がってるから、その配慮なんじゃない」
「へえ。これはカパに向いているお米なんだ」
「糖質が低いのよ」
そんなことも分からないのか、とゆかりは呆れた顔をした。
「料理にしたって、うちのシェフが劣るとは思わないけどね」
「まあ、そうね」
そうは言ったが、ゆかりは食事に関して現状に物足りなさを感じている。しかしそれがなぜなのかは分からなかった。
「でも先生、ここは比較するほど、重要ですか?」
武井は率直な疑問をぶつけた。
「正直、規模も設備も、比較するレベルにないと思うんですけど。エリアだって違うし」
「競合になるかならないかは問題じゃないの」
ゆかりはぴしゃりと言った。
「勝ちたいのよ、私は」
ゆかりは美津子の立ち姿、喋り方を思い出した。
─すかした女だわ。
浮世事とは一切関わりをなくしたかのような、いかにも欲がないです、というような清楚さが気に入らない。同じくらいの歳であるのに、若々しく見えるのも、痩せているのも気に入らなかった。
─出産と子育てを経た自分とは、まともに比べてはいけないのだ。
とゆかりは自分に言い聞かせる。
二人の会話の中に、果歩はなかなか入れないでいた。皿に盛られた料理をただただ口に運んだ。
午後の施術までのわずかな間に、三人は二階の客間にこもった。ゆかりと果歩が寝るほうの客間である。武井は隣の部屋を一人で使っている。
青山とテレビ電話をつなぐ。窓際の小机にパソコンを置いて発信が始まると、ゆかりはトイレに行くと言って席を外した。青山の状況確認くらい、二人にもできるだろう。
午前中はすぐに施術室に案内されてしまったので、あかつきの中をゆっくり見物する時間もなかった。二階にもトイレはあるが、ゆかりはわざわざ一階まで降りて、あてもなく散策することにした。
まずは書斎へ。本棚にはアーユルヴェーダの本はもちろん、健康法、食事法、哲学書など、分野を問わず様々な本が収められている。ソファに挟まれたローテーブルの上には、どこかで摘んできたのか、コスモスを活けた花瓶。
─質素だこと。
自分なら、何を飾るだろうか。この時期なら、ダリアか、ベニアオイか。青山のアーバンな雰囲気のサロンには、西洋の花が似合ったが、今後大きく展開する予定の施設は純日本家屋なので、和風の花瓶とマッチするような花や草が良い。
ゆかりはふらりと居間の方へ足を向けた。掃き出し窓から注ぐ日差しが床に伸びている。その床を踏めば、足元がじんわりと温まりそうだった。
「美津子さん、お食事は召し上がりましたか?」
ゆかりの足はぴたりと止まった。応接間から、女の高い声が聞えてきた。一言ひとことが、跳ねるような明るさをもつ女の声。
「これからよ」
次に聞えてきたのは、落ち着いた、やや低い美津子の声。
「お持ちしましょうか」
「ありがとう」
「ご飯、普通くらいでいいですか」
「少な目にしてくれる?午後の施術まで時間がないわ」
お腹がいっぱいだと動きにくくなるし、眠くなる。ゆかりは美津子の意図が分からなくもない。
「分かりました。今日の蕪のカレー、とってもおいしかったですよ。私、蕪のカレーなんて初めて食べました」
どうやらスタッフたちも、クライアントに出したものと同じ料理を食べているらしい。確かに、普通に考えたら別々のものを作るより、同じものをたくさん作った方が効率が良い。
ホールの方からたたた、という小さな足音がして、ゆかりは咄嗟に、居間と応接間とを隔てる壁の影に隠れた。
「美津子さん、午後の準備は終わりました」
今度は、淡々とした女の声だ。先ほどの女の声より低く、抑揚がない。
「ありがとう。杏奈、一件メールの通知が来ていた」
「チェックしておきます。美津子さん、お食事は召し上がりましたか?」
「今沙羅が用意してくれてる」
「よかった」
「あなたは?」
「これからです」
「そう。メールチェックは後でいいから、先に食べちゃいなさい」
「はい」
なんとも長閑なやり取りをしている。
ゆかりはそうっと居間から抜け出して、一階のトイレに向かった。壁に下がっている絵画や、トイレの備品の置き方。普段なら、いろいろなものにアンテナを張って、良い要素を吸い取るゆかりだが、この時は違った。
─そうだ、これが足りていない。
ゆかりは料理に対する物足りなさの原因に思い至った。すると、その一念で頭がいっぱいになった。
客間に戻ると、ビデオ電話は終わったのか、二人は畳の上に座った状態で雑談をしていた。
「ゆかりさん」
武井がゆかりを振り返った。ゆかりは襖を閉じてからも入り口付近に突っ立ったまま、虚空を見つめていた。
「先生、青山のほうは午前中問題なく進んでいたそうです」
果歩もゆかりの方へ体を向けて報告する。しかしゆかりは微動だにせずに、虚空を見つめている。
─なーんか、ろくでもないこと考えている気がする…
不思議そうに首を傾げる果歩の隣で、武井は嫌な予感に目を細めた。
「美津子さん、お食事召し上がってください」
ゆかりがいきなり、猫なで声で言い、お願いをするように両手を組み合わせ、両ひざを少し曲げた。
─なんかの余興か?
武井が心の中でつぶやくのと、
「私にも、あんなことを聞いてくれる子がほしい!」
ゆかりが甲高い声を出すのとが同時であった。畳に座った状態の二人は、口をぽかんと開けた。三人の間に心地の悪い沈黙が流れた。それを最初に破ったのは、武井である。
「…でも、ゆかりさんに食事を用意するのは、とてつもなく難しいんですよ」
小さな声で、早口に言う。
「どういうこと」
対して、ゆかりはドスの効いた低い声でなじる。
「だって…ゆかりさんは食べるものに、並大抵でないこだわりをお持ちですから、下手なものを用意して、叱責されてはどうしようかと…」
「用意したこともないくせに、よくそんなことが言えるわね」
ゆかりは腰を下ろし、足を崩して、大げさにため息をついてみせた。
「ああ。この年になっても、一日中仕事をして。短い休憩時間に取るものといったら、鯖缶かプロテインか…」
「それはゆかりさんが糖質制限をしたいと言ったからでは」
ゆかりは近くにあった紙を束ねて、武井の額を叩いた。
「事務作業の人間とアシスタントは、私が仕事をしている間、好き勝手しゃべりながら食事をしてるじゃない」
そんなことを根にもっていたのか。
ゆかりが忙しくしている間も、手の空いているスタッフは昼時になれば弁当を食べる。確かに、非難されないまでも、ゆかりから何か言いたげな目線を感じたことがある。果歩はそれを思い出して恐縮した。
「す、すみません、先生」
とにかく謝った。
「これからは、手の空いているスタッフに、弁当を買ってこさせましょうか?」
「青山では、いい。私、お昼を食べちゃうと午後の施術が眠くなるのよ」
─食事をしたいのかしたくないのか、どっちなんだ。
もう一度、武井はゆかりに頭をぶたれた。
─心の中で言ったつもりなのに、なぜ!?
マインドスキャンか。
「伊豆では、シェフの賄いをゆっくり食べられることを期待するわ」
誰でもいいから、自分においしい料理を作って食べさせてほしい。
「はあ…申し付けておきます」
「ところで、あのシェフは本当にうちに来るんでしょうね?」
「本人は乗り気ですし、あれほど話をしておいて、今更…」
「外部の人間は信用ならないのよ。内部にも技術のある者が…そうだ」
ゆかりは果歩に視線を移して、にやりと笑った。果歩はなぜか背中に悪寒が走った。何を思いついたのだろう。しかし、ゆかりはそれ以上は心の内を話さず、またため息をついた。
「私も、もっと規則的にちゃんとした食事を摂れていれば、今でももう少しスリムでいられたのかしら」
果歩はすがるような目線を武井に向けた。今の独り言には、なんとも相槌の打ちようがない。ヘタなことを言えば、解雇されかねない。
「それにしても、美津子さんという方は、なんというか…あの歳でも、きちんと女でしたね」
武井は話の矛先を別のところに移そうとしたが、果歩は、どう考えても失敗だと思った。
「どういうことよ」
案の定、ゆかりの声がいっそう低くなる。
「いやあ、おしとやかというか、たおやかというか…贅肉もないですし、お顔の皺も…あれ?先生と同じくらいの歳じゃなかったっけ?」
「ぶたれたいの?武井」
ゆかりはもう一度紙の束を振り上げた。
─どうして武井さん、そういうこと言っちゃうんだろう…
果歩はこの主従のやり取りを背中で聞きながら、二人に聞こえないようにため息を吐いた。
「伊豆に、滞在型アーユルヴェーダ施設を作る予定なんですよ」
午後の施術前のカウンセリングで、なんの前触れもなく、ゆかりは美津子に言った。
「は?」
美津子はペンを構えてバインダーに向かっていたが、その情報は書き込まなかった。というか、体の状態を尋ねているのに、なんでそんなことを話すのだろう。
「伊豆なら、関東からも、中部エリアからも、お客さまが来やすいのです」
「…温暖な気候ですし、いいですね」
美津子はなんとか、それだけ言った。
「ええ。海に近く、温泉もある。少し足を伸ばせば、美術館も、牧場も、お城もあります」
足込町には、ないものばかりだ。
「滞在客は、施術の合間や帰りに、そうしたスポットへ行くも良し。またはそういった場所を調べていた人が、偶然私たちの施設に目を止めてくれることもあろうかと思いまして」
「…場所の力というのは、大きいものでございますね」
「うふふ」
ゆかりは愉快そうに笑った。
「偶然にも、地主の方がうちのサロンに通っておられましてね。広大な、趣のある素晴らしい日本家屋を借り受けることができ、今、張り切って設備を整えているところです」
「では、青山と伊豆と、二拠点でお仕事をされると?」
「ええ」
「それは、今でもお忙しいのに、さらに忙しくなりますね」
「けれど、南インドやスリランカのアーユルヴェーダ治療院さながらの施設が伊豆にできることは、同業者から大いに注目されておりまして。期待に応えなければならないと、その一心です」
ゆかりは鼻高々に語った。
「新しい正規のスタッフや、スポットのスタッフの教育に慌ただしくしておりますわ」
「まあ、従業員を増やす余裕があるとは、羨ましい」
「こちらこそ、あかつきさんが羨ましい限りです」
「はあ、そうでございますか?」
「こちらのお料理、とても気に入りました」
「…」
「アーユルヴェーダにおいて食事はとても重要。私どもの施設にも、アーユルヴェーダの料理人を置く予定です」
「…関東には多彩な人材が集まっておられる。人材には、困りませんね」
「確かに、レストランや自分のサロンを持っている料理人はたくさんいます。嬉しいことに、うちで働くことを希望しておられる方も。けれど…」
ゆかりは、そこで声を落とした。
「忠誠心があるかどうかが肝要じゃございません?」
「忠誠心ですか…」
「そうは思いませんか?」
美津子の背後、居間の方から足音がした。どうやら沙羅と果歩が施術室へ移動するらしい。いつもは一階と二階の部屋を交代で使うのだが、もともとゆかりからの要望があり、果歩には今回も一階の部屋があてがわれる。
「みんな、自分の看板を目立たせるために、私たちの施設を利用するつもりなのです」
ホールから足音が聞えなくなると、ゆかりは話のつづきを始めた。
「あわよくば、自分の活動を広めるための場にしようとしている。こちらにとっては不都合ですし、不愉快です」
移り変わりの激しい都会で働く、料理人たち。自分が目立つために、事業を継続するために必死なのだろう。力のある同業者や関連企業とコラボして名を広めようと思う者がいても、不思議ではない。
「それで私は、サロンのために尽力してくれる料理人がほしいものだと思うようになりました」
「外から呼んだ方は、サロンのためには働かないと?」
「表向きは私たちのためと言いますが、裏では…」
ゆかりは表情を曇らせて、首を振った。
「そこで、私はもともとうちにいるスタッフから、料理に覚えがあり、素直な若い子を、料理人として育てたいと思っているのです」
「…それは、良いかもしれませんね」
「そこでぜひ、あかつきの料理人の方から、調理法や心得など、教わりたいものです」
美津子は目を瞬かせた。
「調理場へ入りたい…ということでしょうか?」
「急なお願いですが、調理風景を見学させていただき、その場で出た質疑にお答えいただければ幸いです」
伊豆にアーユルヴェーダの滞在施設を作るのならば、あかつきは先行者。その同業者に、仕事の舞台裏を見せよと言う…。
─したたかだな。
遠回しだが、確実に目的を果たしたいという意志が見える物言い。大胆に要求した後で、少しも詫び入れることがない。腕一本でアーユルヴェーダサロンを育て上げ、事業を拡大する女性の強情っぷりを目の当たりにし、その不躾な要求に、さすがの美津子も心の中で舌打ちした。
しかし、あかつきの調理場を見せたところで、何になるというのだろう。あかつきの料理は、アーユルヴェーダの示す指針の中から、美津子の判断で抜粋した要素を反映させたもの。ゆかりが伊豆でどういう料理を提供したいのかは知らないが、同業他社のやり方を見た上で、差別化を図ろうというのだろうか。コンセプトが全く違えば、差別化など図らずとも、おのずと違うものになろうが。
「もちろん、レシピや調理法を盗むのが目的ではありません」
美津子の疑念など察しがついている、というように、ゆかりは率直な言葉を付け加えた。
「あかつきの料理人として、お客さまや、他のスタッフにどのような配慮をしているか。その姿勢をうちの若い子に見せていただければよいのです」
美津子は右手に構えているボールペンを無意識に指先でさすった。
「…何分、考えてもいなかったご要望でして」
「無理なお願いを致しまして、申し訳ございません」
ゆかりはようやく詫び入れたが、要望を取り下げる様子はなかった。
「あかつきの施術はお聞きしていたとおりの素晴らしさで、うちの若い子も感激しておりました」
先ほどから言っている「うちの若い子」とは、果歩のことを言っているのか。
「料理の面でも、ぜひ、うちの若い子に刺激を与えてやってくださいませ」
美津子はゆかりの真意を測りかね、その場は検討すると言って返事を後回しにした。
その後の施術では、ゆかりとの会話はとりとめのない世間話に始終し、真意を汲み取ることはできなかった。
「…え、夕食の支度の様子を、お客さまに見せるのですか?」
夕方になって、美津子は離れで一休みしていた杏奈を母屋に呼び出し、ゆかりから要望があったことを告げた。
「といっても、夕ご飯はダルスープと蒸し野菜、ご飯で…まったくテクニカルな要素はなく、あとは煮て、蒸して、炊くだけです」
説明が下手だが、とにかく見せるほどの内容ではないということは分かった。
「明日の昼にするか」
一行は明日の昼食を食べたらあかつきを去る。話をする機会が多ければそれだけ、先ほどの話になかったことまで、根ほり葉ほり聞かれる可能性がある。しかしすぐに帰らせてしまえば、その心配はなかった。もっとも、見られたり、話しをしたりしたとて、盗まれるようなものは何もないと、美津子は思っているのだが。
─あの方は、予想できないことをする。
ゆかりの言動に、美津子は不安を抱かないではない。
─あの方は、ラジャスに傾いている…
それは仕事のしすぎ、という側面だけではなかった。いささか、自分の目的のために、傍若無人になり過ぎている。彼女の付き人や新人に対する立ち振る舞いから、美津子はそれを感じ取った。
ラジャスに傾いている人のエネルギーを、キッチンには入れたくなかった。
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