第20話「詐欺」アーユルヴェーダ小説HEALERS

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 あかつきでは、アーユルヴェーダ的ライフスタイルを実践することを推奨している。一日の自然のサイクルに沿った生活がアーユルヴェーダの推奨する生活法だが、現代ではこの通りに生活することが難しくなっている。
 アーユルヴェーダは「理想的な1日の過ごし方」を定めている。これをディナチャリヤという。サンスクリット語で「1日の叡智に従うこと」という意味だ。ディナチャリヤは、サーカディアンリズムに則したものである。生物は地球の自転による二十四時間周期の昼夜変化に同調して、ほぼ一日の周期で体内環境を積極的に変化させる機能を持っている。体温やホルモン分泌などの基本的な機能も、約二十四時間のリズムを示すのだ。この約二十四時間周期のリズムはサーカディアンリズム(概日リズム)と呼ばれている。アーユルヴェーダは、この自然のリズムに合わせた睡眠や食事が、最適な健康のために必要であることを何世紀にもわたって教えてきたのだ。
 アーユルヴェーダは自然のサイクルに沿って1日の時間を六つに分類する。それぞれの時間を支配するエネルギー(ドーシャ)があり、それが何かを遂行するのをサポートしたり、妨げになったりすることを教えている。
・カパが優勢になる時間帯…6:00~10:00、18:00~22:00
・ピッタが優勢になる時間帯…10:00~1400、22:00~2:00
・ヴァータが優勢になる時間帯…2:00~6:00、14:00~18:00
 さて、今あかつきに滞在しているゆかり、果歩、武井の三人も、漏れなくこのディナチャリヤに沿った生活をするよう勧められていた。したがって、午後九時にはすべての電子機器の電源を落とし、午後十時までには就寝すること、朝は日の出の前(そうでなくとも早い時間)に起き、朝日を浴び、アーユルヴェーダのセルフケア(舌磨き、鼻うがいなど)をすることが勧められている。アーユルヴェーダの朝の日課は多いが、それをすることで、病気の予防と健康増進に繋がるのである。清々しい気分で一日をスタートさせることにもつながる。
「頭痛いわ」
 しかし、今のゆかりの気分は、清々しいとは程遠かった。
 滞在二日目の朝、一行は朝食の前に書斎に集まり、太極拳の講師の到着を待っていた。
 こめかみを押さえるゆかりを、隣に座る武井が横目で見る。
「一杯だけって言ってたのに、結局一本空けちゃったからじゃないですか」
 こそこそっと耳打ちする武井の身体を、ゆかりの肘が突いた。
「うるさいわね」
 昨日は午後五時半には夕食になり、赤米、ダルスープ、蒸し野菜という、ごく質素な食事を摂った。
 普段昼食をスキップしたり、プロテインだけで済ましたりするゆかりは、しっかりした夕食を摂ることに慣れている。
─は?あれを開けるのですか?
 それで、物足りなくて、そんなこともあろうかと持ち込んだ赤ワインと、いくつかのつまみを客間で開けた。
─でも、ここの食事以外を召し上がるのは、あかつきの人たちは快く思わないのでは。
 武井は一応、そう進言した。トリートメントの結果に影響が出るかもしれない。
─一杯だけよ。それに、禁じられているわけじゃない。付き合うでしょう?
─は、はい!
 その時、果歩は席を外していた。長いこと、書斎にいたらしい。
 二人が晩酌をしていた部屋は、ゆかりと果歩の寝室であるはずだったが、武井の方が滞在時間が長くなった。
─予定通り、明日、帰りますか?
 見どころがあれば、滞在日数を増やしても良いと武井は思っていた。
 青山のサロンのほうは、ゆかりがいないことによって逆にのびのびと仕事をしている。
─もちろんよ。こんなところ、そう何日も居られるもんですか。
 夜出歩けるスポットもない。裏寂しい田舎だ。
 癖のあるブルーチーズはゆかりの大好物。クラッカーと一緒に口に含み、いくらか咀嚼をすると、赤ワインと一緒にそれを流し込んだ。
 その赤ワインが、今、ゆかりを苦しめている。
「あのう、先生。そんなに痛がっていたら、夕べ晩酌していたことがバレてしまうのでは?」
「うるさいわね」
 武井は先ほどの二の舞を食らった。
「先生、今回の視察では、何に目を向けていればよかったのでしょう」
 今更ながら、果歩は遠慮がちに尋ねた。残り僅かな滞在時間で、注目すべきポイントがあれば把握しておきたかった。ゆかりは、今こそ不養生によって体調を崩すというアーユルヴェーダセラピストらしからぬ事態になっているが、仕事においては抜け目がなく、あかつきのことをよく見ていた。それを見習わなければと思ったのである。
「大丈夫よ。あなたは最後に、キッチンの様子を見ておいてくれれば」
「はい」
「それに、偵察するほどのからくりはなかったわ」
 サロンに来たお客たちが感銘を受けた決定的な要素は、施術や料理の中にはないと思う。
 確かに、癒しの要素はある。アーユルヴェーダに触れたことがなければないほど、この施設での体験は新鮮に、良いものとして映るだろう。施術室の雰囲気に酔い、非日常を味わい、健康的な生活習慣と食習慣を、否応なしに実践できる。
 しかし、お客たちの満足度を決める勝負は、実は滞在前に決まるものだと、ゆかりは思う。
「どうして、勝負が決まるのが滞在前なのですか?」
 ゆかりが持論を垂れると、果歩は急き込んで尋ねた。
「滞在前にファンになってるからよ」
「ファン?」
「そう。推しが素晴らしいことは最初から分かっているの。実際に推しに会ったら、やっぱり私の推しは素晴らしかった!って再認識するだけ」
「どうやって、滞在前にファンにさせるのですか?」
「あなたも、事前コンサルを受けたでしょう」
「はい」
「口コミ、SNSで情報に触れるたびに、教育されるのよ。うちのサロンは素晴らしいって。そこに、あの丁寧なコンサルが加わると、さらに信頼感が増してモチベーションが上がる」
 そのピークに達した頃滞在をするので、満足感が高くなるというわけだ。
 果歩は感心した。この先生は、ちょっと人間的にどうかと思う側面もあるけれど、洞察力が素晴らしい。
 その時、玄関が開く音がした。一瞬全員押し黙った。直にホールから聞こえてきていた足音も消えると、
「ほら見ろ。僕がブログの更新とか、SNSとか頑張って、先生が全然行かないアーユルヴェーダスクールとの縁も細く長くつないでるおかげで、うちに来るお客さんも、来る前から満足してるっていうわけだ」
 武井は、先ほどのゆかりの話を自分ごとに置き換えて、胸を張った。
「ふん。なんのためにあなたを雇ってると思ってるの」
 ゆかりはつっけんどんに言ったが、武井の功績に対し、否定はしなかった。
「先生がやりたがらない仕事は山ほどありますからね」
 ゆかりは、今度は武井の頭を平手打ちした。
「男手があると何かと心強いからね」
 言葉では褒めているが、やっていることは散々だった。
「先生…何気に僕のことを、頼ってくれてますよね…!」
 武井は両手頭を守りながら、自分に言い聞かせるように言う。
「あかつきは見たところ、女所帯みたいね」
 ゆかりはまた、ふん、と鼻を鳴らした。
 その時、再び足音が聞えてきた。どんどん書斎に近づいてくる。
 三人が居ずまいを正すのと、書斎の扉が開くのとが同時であった。
「おはようございます」
 入って来た長身の、坊主頭の男に、三人の目は釘付けになった。
「お待たせして申し訳ございません。こちらで太極拳の講師をしている加藤です」
 書斎の扉を閉めるために、加藤が三人に背中を見せた、その一瞬のうちに、ゆかりは武井を肘で小突いた。
─いるじゃない、男…!
─いないとは、誰も…!
 もはや、以心伝心であった。
 三人は居間に移り、それぞれ間を開けて立った。応接間を隔てたキッチンのほうからは、すでに炊事のいいにおいがしている。
「まずは呼吸法から始めましょう」
 加藤は右手を拳に、左手を掌にして合わせ、お辞儀をする。三人も見よう見まねで、同じ動作をする。
 加藤は生成りの作法衣を着ていた。腹式呼吸の後、ゆったりとした太極拳を行っている間、ゆかりの目は加藤の逞しい身体に釘付けになる。
「もっと腰を落として」
 と、傍に来てその低い声で囁かれた時は、不覚にも耳が熱くなった。
 太極拳が終わると、加藤は三人に挨拶をして、いつの間にか傍に控えて様子を見ていた美津子と連れ立つ形で、早々に居間を出て行った。
 居間の床に座ったまま、ゆかりは顔を赤らめて武井に八つ当たりを始めた。
「なんでうちの男は前髪禿げ散らかしてて、あかつきの男はあんなに精悍なのよ」
「先生、ひどい…ていうか、あの人なんて全体が剥げてるのに」
 ゆかりはぷいっとそっぽを向いた。
「顔のパーツがいいから、いいのよ」
─結局、顔か!
 武井は涙目になってみせる。
「先生、ひどい…ていうか、さっきからすごいパワハラ発言」
 その時、キッチンの方から鈴が鳴った。朝食の合図だ。ゆかりはそろそろと立ち上がって、居間を出て行った。武井はしんみりした様子で黒縁眼鏡を取り、目をこすった。
「武井さん、元気出してください。先生は、ほとんど冗談で…」
 果歩は武井を慮るような視線で見やった。
「分かってるさ」
 いつものことだ。武井はそれほど落ち込んではいなかった。涙目も演技なのだろうか。この男はこの男で、大分したたかである。
「飯、食べに行くか」
「はい」
 応接間に入って椅子に座ると、果歩は改めて、
「武井さんがいてよかった」
 つぶやくような小声で言った。
「私と先生二人だけだったら、先生も楽しくなかったと思います」
 武井という緩衝材がなければ、他のセラピストたちも、とっくに辞めてしまっているように思う。
「ばか言うんじゃない」
 武井はふんと鼻を鳴らした。

「あかつきのオーナーさんは、優しそうな方ですね」
 今日も果歩の担当は沙羅、施術室は一階である。うつぶせになっている果歩の腰に、沙羅はハーブボールを当てている。
「それはもう」
 沙羅は謙遜することなく答える。
「今まで、怒っている姿を見たことがありません」
「それは羨ましい」
 言った後ですぐ、横を向いている果歩の顔には「しまった」の色が浮かぶ。
「ずっと保育士として仕事をされてきた方なんです。だからなのか、とても面倒見が良いというか、スタッフの個性を尊重してくれて。個性に対して白黒をつけないというか…」
「保育士さんだったんですか。ずっとアーユルヴェーダを仕事にされていたのかと思っていました」
「最初は私もそう思っていました」
 沙羅は正直な述懐を果歩に明かす。
「オーナーからしてみれば、私たちスタッフも、幼稚園児みたいなものなのかもしれないです」
 そう言って朗らかにふふふと笑った。沙羅とは対照的に、果歩の表情は憂いを帯びている。
「うちの先生は…」
 華やかな事業家に見せかけているが、裏の顔がある。うっかり、本音を沙羅に言いそうになってしまうのを、果歩はすんでのところで飲み込み、
「先生は、ずっとアーユルヴェーダのセラピストとして、第一線で活躍してきた方なんです」
「ああ、まさにそんな感じですよね!」
「ええ。プロ意識が高くて、勉強熱心で、誰よりも一生懸命働いて…」
 果歩の声は、だんだんと小さくなる。
「それだけに、スタッフに求めることもレベルが高くて…」
 沙羅は果歩の身体の筋肉が硬く収縮するのを感じた。
─緊張している。
 話したい気持ちと、話してはならないという自制心が拮抗しているのだろうか。果歩へのカウンセリングだけでなく、普段の挙動を見れば、果歩が上司に気を使い過ぎていることは明らかだった。もっとも、沙羅からしてみれば、果歩も確かに必要以上に気を遣い過ぎる節があるけれども、上司にも癖がある。
「私が未熟なので、なかなかついていけません」
 果歩は自分を卑下することで、本論から逃げた。沙羅は極めて明るい語調で、
「果歩さんが未熟だって、誰が言ったんです?」
 ささやくように問いかけた。果歩の腰を緩めるようにボールを当てる。
「私が、自分でそう認識しています」
 果歩はふう、と長く息を吐いて、体を脱力させる。
「仕事に対して、自分は完璧主義というか、きちんとできる子だって思っていたんですけど」
 言動から、果歩が人に気を遣える、しっかり者であることは沙羅にも分かっていた。
「人から認めてもらえないと、自分に価値がないと思っちゃうタイプで。頑張り続けていたら、体が壊れちゃった」
 果歩は複数回転職をしている。前向きな理由で転職したこともあるが、直近の仕事を辞めた理由は、病気だった。病院で療養中に、アーユルヴェーダを知ったのだ。
「アーユルヴェーダに出会って、私がこれから極める道はこれだと思いました。綺麗なサロンに就職できて、喜んでいたけれど…」
 腰へのアプローチはもう終えていたが、沙羅は果歩の話を遮るまいと、アドリブで背中、肩回りへのマッサージを続けた。
「考えが浅かったんです。先生の経歴、青山、サロンの高級感…そういうところばかり見て、自分が働きやすい環境か、正しく判断できなかった」
 そこまで言って、果歩は「あ…」と声を挙げた。愚痴になってしまっていることに気付いた。
「大丈夫。施術中の会話は、他の人には喋りませんから」
 沙羅はやはり、なんでもないようにさらっと言った。
 沙羅は施術が始まる直前に出勤し、片付けが終わると、すぐに帰らなければならない。そのため、美津子たちとクライアントについて議論するには至っていないが、自分なりに観察をしている。
 ゆかりのことは、確かに成功者なのだと思う。しかし、沙羅は「施術室を入れ替えない」と聞いた時に、ひっかかるものがあった。ゆかりは広さと意匠が勝る二階を使い続け、果歩は一階を使い続ける。これは先方が指定してきたことだ。その理由については美津子も分からないと言っていた。
─より格調高い方を自分にあてがうためなら…
 高慢ではないか、と沙羅は思う。
「私はまだ、雇われて間がないので、それほどでもないんですが…」
 内緒ですよ、と前置きして、果歩が遠慮がちに本音を吐露する。
「先生は青山のスタッフの陰口を言っていることがあって」
 でも、本人たちの前では、むしろ大仰に褒めることもある。果歩はゆかりが武井以外の者に取る態度の全てが、演技に見えて仕方がない。
「いずれ自分も、そうなるのかな…」
 いや、今ですら何か言われているに違いない。
 沙羅は、ゆかりと武井と一緒にいる時の果歩が、恐縮している姿を見ている。今の職場は、決して風通しが良い職場とはいえないのだろう。仕事に対する知識や自信をもっていれば、もともとの性格的に、果歩は雰囲気を変えようと動くに違いない。しかし、今は新人という立場と、年齢を重ねたことによる思慮深さが足かせになって、改革への熱意と勇気が鼓舞されない。
「でも、私が一番気になっているのは…」
 果歩は顔の向きを変えて、薄目を開ける。
「先生は、アーユルヴェーダのセラピストなのに、言っていることややっていることが、全然アーユルヴェーダじゃないんです」
 普段食べているものや、武井やスタッフに対する物理的・精神的な攻撃。果歩が憧れてきたアーユルヴェーダではなかった。
 果歩は具体的には説明しなかったけれど、沙羅は果歩が言わんとしていることがなんとなく分かった。
「間違ったことをしていると思ったら、そう言ってみてもいいんじゃないですか」
 押しつけに聞こえないように、やんわりと沙羅は言った。
「雇われて間もないとか、関係なく」
 果歩は視線を斜めに向けて、沙羅の目を捉えた。沙羅は目を合わせながら、いたずらっぽく笑って、
「私なら、言っちゃいますね」
 と言って肩をすくめた。
「すごいなぁ…私にはできない」
 果歩はこのセラピストのことをよく知らないが、
─本当に、できちゃいそうだな。
 沙羅の雰囲気から、そう感じた。
「私は先生に指示されたことですら、ろくにできない状態なのに…」
 意見することなど、できるはずがない。
「私、先生からいろいろ指示されると、焦ってしまうんです」
 あれもこれもやらなければならないと思うと、逆に何もかもができなくなる。
「頭がいっぱいになって、何も手を付けられないうちに、眠くなってしまうんです」
 困難に対し逃避する。果歩が本来持っているカパ的な傾向が現れるのだ。
「だめですねぇ…」
 沙羅は気分を変えてもらおうと、果歩に仰向けになってもらう。
「そんなに自分を卑下しないでください」
 バスタオルで体を包み直し、果歩の頭の方へ回る。
「仕事のことが分かってこれば、先生の良いところだって、いっぱい見えてくるかもしれないじゃないですか」
「…そうですね。先生は、悪い人ではないんです」
 果歩は先ほどの言葉を撤回するように、語気を強めた。
「沙羅さんは、ずっとアーユルヴェーダのセラピストをされてきたんですか?」
「私も何回か転職してますよ」
「前は何を?」
「最初はサロンだったんですけど、アーユルヴェーダじゃなかったです。その前からずっとヨガをしていて、ヨガやアーユルヴェーダの道に進みたいっていう気持ちはあったんですけど、次の転職では普通に会社員でした」
「へえ…見えないですね。あのう、悪い意味じゃなくて」
 沙羅は少量のオイルを指に取り、「お顔のマッサージしていきます」と言いながら大きく頷いた。
「古風というか、堅い職場でしたね。初めて出勤した時、会社って感じ~!って叫んじゃって、白い目で見られたのを覚えてます」
 可笑しそうにくすくすと笑う沙羅につられて、果歩も笑った。
 沙羅はそれからのことも、端的に果歩に明かした。
 第一子を出産した頃、まだ名古屋に住んでいた沙羅は、赤ちゃんとのスキンシップを増やすため、ベビーマッサージを習うようになった。それをきっかけに、アーユルヴェーダの施術を本格的に学びたいという欲求に火がつく。アーユルヴェーダはヨガと平行して学んでおり、もともと、そのオイルマッサージには興味があったのだ。
 里帰り中、実家から車で行ける距離に、あかつきというアーユルヴェーダ施設があるのを見つけ、運命だと思った。
 産休が明け、沙羅は仕事に復帰したが、土日にあかつきのセラピストコースを受講。その後、あかつきの仕事を度々手伝うようになる。だが、場数はまだまだ少ない。
 アーユルヴェーダのセラピストといえるほど場数を踏んでいないことは果歩には伏せていたが、
─私もまだ、卵みたいなものだ。
 と、沙羅は思った。
 果歩は時々話の邪魔にならない程度の相槌を打つ程度で、大人しく沙羅の話を聞いていた。これも聞き役が上手なカパ優勢な者の特徴だった。
「私、性善説を信じているんです」
 沙羅はいきなり、突拍子もないことを言った。
「性善説、ですか?」
「はい。おぎゃあと生まれた時から、悪い人なんていない」
 それは、もともとの持論であったが、子供二人を出産した後では、なおのことそう思う。
「先生の今の状態は、もともとそうだったっていうわけじゃなくて、環境や、必要に迫られてのことなんでしょうね」
「はい」
「でも、行き過ぎたことをしていたら、それを教えてくれる人がいないと、自分に気づけない」
 本来は、自分が気付き、理性でもって手綱を引かなければならないのだが。それが、ヨガだ。
「沙羅さんが私の立場だったら言いますか?」
 果歩は先ほどと同じことを重ねて尋ねた。
「言いますよ」
 沙羅はやはりあっけらかんとして答える。
「でも新人の立場で」
 沙羅は苦笑いを浮かべた。自分の立場をわきまえるのは良いことではあるのだが。
「昔私がいた会社で、こんなことを言われましたよ。新人のほうが気づけることもあるから、変えるべきことを見つけたら、率直に言いなさいって」
 小学生のような素直さで沙羅はそれに従い、言うべきことを言ってきたので、さすがに周りは引いていたけれど。
「沙羅さんと私も、きっと土台が違うんです…」
 果歩は口元に微笑を浮かべていたが、作り笑いだった。果歩がまた自分を卑下していることなど、沙羅にはお見通しだ。
「いいえ。人間として意見する時に、その人に何ができるとか、どういうキャリアがあるかとか、背景にあることなんて気にしなくていいですよ」
 思わず声に力が入ってしまったので、沙羅は自分を落ち着けるように「きっと」と付け足した。
「だって、アーユルヴェーダの知恵や技術が、その人より劣っているからといって、心もそうであるとは限らないじゃないないですか」
「心が?」
「ええ。心の扱い方が優れているなら、立派なアーユルヴェーダの実践者であり、ヨギーです」
 ー般にヨガをする人のことを、男女含めて、ヨギーまたはヨギという。ちなみに、ヨギーニという言葉もあるが、これはヨガをする人の中でも特に女性を指していう言葉である。
「みんな、アーユルヴェーダの実践者は、アーユルヴェーダに詳しい人だと思ってる」
 確かに、それも一理あるのだが。
「でも、それだけじゃない。サロンやスタジオじゃないところで、無意識にアーユルヴェーダやヨガの実践をしている人はたくさんいます」
 海外赴任している夫の代わりに、子育てを手伝ってくれている父や母。落し物があったら拾って落とした人に渡す人。嵐の後林道を整備する人。すぐそばに、どこにでも、ヨギーやヨギーニはいる。逆に、ヨガやアーユルヴェーダを仕事にしている者が、必ずしもヨギーやヨギーニであるとは限らない。それは、その人の心にかかっている。
「でもどうやったら、心の実践ができるんでしょう」
「そうですねえ」
 沙羅は少しだけ考えて、あけすけに答えた。
「まずは自分なんて、と思わないことじゃないですか?」

 施術が終わった後、果歩は少し心につかえていたものが取れたような、気持ちの軽さを感じながら、応接間でお茶を飲んでいた。施術前後のカウンセリングより、施術室で沙羅と話せたことの方が、自分の気持ちを軽くしたように思う。
「果歩さん」
 ほっとした表情で一息ついている果歩に、杏奈は声をかけた。果歩の準備が整い次第、料理を進めておいてほしいとの美津子からの指示であった。
「あのう、そろそろ料理を始めましょうか」
 料理風景を見学するために、果歩の施術は少しだけ時間が短縮されていた。まだゆかりの施術は終わっていない。
「はい!」
 沙羅と話して気分がすっきりしたのと、アーユルヴェーダ料理作りを見られることもあって、果歩はここに来て以来一番明るい笑顔を見せた。
 杏奈は、アーユルヴェーダ料理の要となるポイントを簡単にまとめた数枚の資料を、三部用意していた。料理風景を見せてほしいというゆかりからの要望は急なものであったが、もともと料理教室の準備をしていたこともあり、即座に対応ができた。
「果歩さんは、アーユルヴェーダの食事を召し上がったはありますか?」
「いいえ。ここに来るまでは、アーユルヴェーダの食事のイメージすらできなくて」
 アーユルヴェーダには自分の知らない顔がまだまだあるものだ。
 資料を両手に持って佇む果歩に、杏奈は微笑を向けた。
「アーユルヴェーダ料理には、厳密な定義があるわけではなく、曖昧な部分もあるのですが」
 その個人の健康を維持し、増進するような料理であれば、アーユルヴェーダ料理といえる。誰のための料理かによって、全く違う特徴を見せる。
「アーユルヴェーダ料理を召し上がったことがないと仰っていましたが、そういう意味では、知らないうちに食べたことがあるのかもしれません。例えば風邪の時に、お母さんが消化に優しい料理を作ってくれたら、それはアーユルヴェーダ料理の要素を含んでいます」
「なるほど」
 レジュメには、アーユルヴェーダ料理の八つの要素を挙げている。
一.消化に優しい
二.消化力に合った量
三.作り立て
四.食べ合わせ
五.六味のバランスが取れている
六.体質を考慮している
七.旬の食材を使っている
八.地産地消
 杏奈は調理台とコンロの間に立って、果歩に渡したのと同じレジュメを見ながら説明する。
「六番目の体質を考慮する、ですが、今日のように複数人に対し同じ料理を作る場合は、完全には一人ひとりに合わせられないので…」
 果歩はレジュメから視線を上げて、杏奈を見下ろした。このスタッフは自分よりも頭半分ほど背が低い。
「基本的には季節に応じた食事を作ります。もし共通の性質があれば、その反対の性質を持ったものを取り入れます」
 さらりと話すが、果歩には意味があまり分からなかった。
 杏奈は調理台に並べた食材で調理を始めた。すでに野菜は洗ったり、切ったりという下処理が終えられて、バットに収まっている。
「先生たちから、ゆかりさんと果歩さんはカパが優勢だとお伺いしました」
「はい」
 ゆかりは、マインドとしてはヴァータ・ピッタの要素が強いが、精神的・身体的な傾向として、カパの要素も散見された。色白、大きな垂れ目、太い唇、体の豊満さ。大きなカパ性の乱れとしては、肥満、むくみ、鼻づまりなど副鼻腔の問題、そして性格の粘着性─頑固さ─である。
「なので今日は、お米はバスマティ米です。日本米よりも軽くて、乾燥しています。重く、湿った性質をもつカパと反対の性質を持っているので、カパをバランスするんです」
 果歩はなるほどと頷いた。
「普段はどんな穀物を召し上がっていますか?」
「私は、普通に白いご飯で、時々五分づき米とか、雑穀米を食べます。先生は、発芽玄米を推されてます」
 杏奈は頷いた。
「玄米は本当のところ、栄養に溢れているのですが、消化が難しいです」
 消化力を強く保って、玄米を消化しその栄養が摂れれば、地球環境的にも実に効率の良い栄養の摂り方だとは思うが。
「消化が弱いけれど、栄養を補いたいときは、赤米のようなパーボイルドライスを使います」
「え?」
 マニアックな単語で、果歩はよく聞き取れなかった。
「パーボイルドライス。脱穀される前に半茹でにされたお米です。半脱穀米と言ったほうが分かりやすいですね」
 一応説明をする。アーユルヴェーダ料理が初めての人に、こういう話をするつもりはなかったのだが。
「半茹での過程で、ビタミンやミネラルなどが穀物の奥深くに移動するので、精米の間に栄養素が少ししか失われません。玄米よりも消化しやすく、完全に脱穀したお米よりも栄養価が高いお米なんです」
 果歩は感心したように頷いた。若いように見えるが、さすがに料理担当というだけあって、食事のことに詳しい。説明も小慣れた感じがする。
「杏奈さんは、ここで長く働いてらっしゃるのですか?」
「いいえ。まだ四カ月くらいです」
「四カ月…」
 果歩は落胆した。また、自分と他の人を比べてしまったのだ。
─四カ月で料理担当を任されているのか…
 とはいえ、先ほど果歩の施術を担当した沙羅など、実質的に数日の研修を経ただけで、セラピストとしてのデビュー戦を果たした(そのことは果歩は知らないけれども)。人手の少ないあかつきに足を踏み入れたスタッフは、否応なしに即戦力として活躍することを求められる。
「季節的にはヴァータが優勢なのですが、食べる人はカパが優勢」
 杏奈は次の料理を調理しながら、淡々と説明を続ける。
「ヴァータとカパは、冷たいっていう性質は共通なので、温かい性質をもつ食材を温かい状態で摂ることはおすすめできます」
 鍋にオイルを入れ、スパイスを加えていく。マスタードシード、丸のままのブラックペッパー、スターアニス、クローブ。
「これは全部体を温めるスパイスです」
「へえ。この小さな丸い粒つぶはなんですか?」
「マスタードシード」
 お鍋の中を覗き込んでいた果歩は、パチッという音と共に熱いものが頬に当たって、
「あつっ」
 びっくりして後ずさった。杏奈は慌てて蓋で鍋をカバーしながら、
「大丈夫ですか?」
「はい」
 果歩は頬を押さえた。何かが頬に当たった瞬間、火傷というほどの痛みはなかったが、ピリッとした刺激を感じた。
「マスタードシードは、火が通るとパチパチ弾けて飛び散るので、気を付けてください」
 言うのが遅かった。
 杏奈は鍋の中をざっとかき混ぜると、みじん切りにした生姜と、小さくダイスカットした大根を次々に入れていく。
「何ができあがるのか、わくわくしますね」
 いろいろなスパイスを使った、未知の料理の調理過程を見るのが初めてだった果歩は、目を輝かせて鍋の中を見つめた。 
 杏奈はマスタードシードの件で果歩が気を害していないことにほっとしながら、
「果歩さんは料理好きですか?」
「はい。好きです」
 それならばと、杏奈は鍋の中をかき混ぜる作業を果歩にしてもらった。その間に、杏奈は別のフライパンで小松菜を炒める。
「さっき、性質って言ってましたけど」
 ヴァータとカパは冷たい性質を持つ。食べる人に共通の性質があれば、反対の性質を取り入れるとかなんとか言っていた。
「性質ってどういうことですか?」
「アーユルヴェーダでは、人や食べ物など、様々な物質や状態の性質に着目するんです。万物が持っている十対二十種類の性質を、グルヴァディグナといいます」
 専門用語は、ことごとく横文字らしい。
「私たちの状態を表すのに使われるドーシャも、それぞれ、この二十種類の性質のうち十個をもっています」
「はあ」
「例えば、秋から冬にかけて優勢になるヴァータは、冷たくて、乾燥していて、軽くて、動きがあります」
 他にも六つあるが、分かりやすい性質としてはそれくらいだろう。
「似たものが似たものを引き寄せ、相反するものがバランスをもたらす、という考え方に従って、料理にはヴァータが持っている性質と反対の性質を取り入れます」
 だから、温かく、湿っていて油分があり、どっしりとした、穏やかな性質のものを取り入れる。
「ただ、今回は食べる方がカパ優勢なので、もともと湿っていて重くて、静かであるっていう性質があるんです」
 ヴァータとは異なる性質である。
「なので、ヴァータの季節にヴァータっぽい食事をまるまる適合すると、今度はもともと持っているカパが乱れてしまう可能性があります」
「ええ?どうしたらいいんですか?」
「どちらかの性質に偏りすぎない、中間を狙っていくか、どちらかの顕著な乱れがある場合は、乱れが強い方に合わせるか」
 このあたりは、判断が難しいところなのである。
「といっても、これはとっても微細な部分でして」
 逃げるようだが、詳細に目を向けすぎると、分からなくなることもある。
「まずは大枠をクリアするのが大事です。六味のバランスが取れたものを、その人の消化できる量食べるっていうポイントができていれば、細かい性質の話は、プラスアルファで考慮できればいいな、というレベルだと私は思います」
 答えがあるようで、ないらしい。
「一足す一は二、っていうような、完全な答えが決まっていないと嫌っていう人にとっては、難しい考え方ですね」
 果歩は率直な感想を伝えながら、大根に振りかけられたパウダースパイスの香りをかいだ。炒めるほどに、その香りは濃くなっていく。
「アーユルヴェーダの考え方が合っている人と合わない人は確実にいると思います」
 杏奈は大根に水を注いだ。
「昔の生徒さんの中でも、合う合わないが分かれてましたね」
「昔の生徒さん?」
 杏奈は一旦口をつぐんだ。が、話して悪いことはあるまい。
「ほんの少しの間、個人でアーユルヴェーダの料理教室を開催していました」
「すごい、それでそんなに詳しいんですね」
 教科書的な説明も小慣れているわけだ。
 大根の鍋が沸いたので蓋をする。
「これは、圧力鍋ですか?」
「はい。大根を煮るのに時間がかかるので。今日は、調理工程をお見せすることになってましたから、ぐつぐつ煮込む時間がなく…」
「そうでしたか。すみません」
「いいえ。普通の鍋だと時間がかかるので、かえって良かったです」
 最後はメイン料理。脂ののった鮭に、オイルとスパイスをコーティングし、オーブンで焼く。
 どの料理も至極シンプルな調理法で、あっという間に、あとは火が通るのを待つのみという状態になった。
 雑談をしながら調理が終わるのを待っている二人の背後で声がした。
「こちらです」
 美津子に導かれて、ゆかりがキッチンに入って来た。施術が終わった直後であるためか、ゆかりの頬は血色がよく、艶やかだった。
「杏奈、出来上がり次第、食事にしてくれる?」
「はい」
 美津子は杏奈にそれだけ言うとキッチンを出て行った。片付けの続きがあるのだろう。
 ゆかりはキッチンの中を見渡して、なぜか眉根に皺を作っていた。大方、武井が不在なのに腹を立てているのだろう。果歩にはそう察しがついたが、ゆかりの表情が意味することが分からない杏奈は、何か不都合があるのだろうかと訝しんだ。
「もう料理はほとんど終わってしまいまして」
 ゆかりは杏奈を見ると、険しい表情は引っ込み、相好が崩れた。
「まあ、お忙しいところ、ご対応いただきありがとうございました」
 そう言いつつ、ゆかりはデシャップに置かれたレジュメを一部手に取る。
「資料まで準備してくださったんですか?」
「簡単なものですが」
「急なお願いでしたのに、さすが、あかつきのスタッフさんですね」
 目尻を細めて杏奈に言うと、視線をレジュメに落とし、内容に目を通した。
 ピーッとオーブンの音が鳴る。オーブンを開き、十分焼けている様子を確認すると、再びオーブンを閉め、
「もう食べられる状態ではあるのですが、再度料理の説明を致しましょうか?」
 杏奈はゆかりに尋ねた。ゆかりは目線を杏奈に向け、それから果歩に向けた。
「お料理のことはご説明いただいた?」
「はい」
「そう」
 ゆかりは再び目線を杏奈に向けて、
「説明はうちのスタッフから聞きますので、重ねてのご対応はなくて構いません」
「分かりました。今から盛り付けをしますが…あのう、応接間で待たれますか?」
「見ていてもよろしいですか?」
「はい」
「それでは、お邪魔します。この靴を使ってよろしいですか?」
 杏奈は頷いた。ゆかりは調理場への段差のところで外履きに履き替え、調理台に寄る。
 杏奈が盛り付けをしている間、ここで見聞きした内容について、ゆかりは果歩に問いかけ、果歩はそれに答えた。
─気まずいなぁ。
 アーユルヴェーダセラピストの第一人者に、自分がたった今教えたことを、人の口から言われるのは気恥ずかしかった。しかも果歩の説明は、ところどころ微妙に自分が教えたことからズレている。しかし、杏奈は果歩の説明を途中で切って訂正できるほど、立ち回りが上手くなかった。
「特にこの、レジュメの六番目の、体質を考慮しているっていうところを、具体的に教えていただきました」
 果歩はレジュメを指差し、にこやかな表情でゆかりに説明する。
「自分にない性質のものを取り入れるのが大事だと」
「性質…」
「初めて聞くことばかりでしたけど、ドーシャ別の食事についてなんとなく分かった気がします」
 三つの皿に米をのせる。その皿を調理台に置いた時、果歩と目があった。果歩は目を細めて杏奈に微笑みかけた。
「ドーシャ別の食事か」
 その横でゆかりは、くぐもった声を出した。
「ありふれたテーマね」
 杏奈は二人に背を向け、フライパンの柄に手をかけながら、今の言葉がひっかかった。
「ありふれていて、誤解を招きやすいテーマだわ」
 杏奈は目を見開き、背後を振り返った。自分に言っているのかと思ったが、ゆかりは果歩に視線を向けている。
「え?」
 果歩は面喰った様子で、目をぱちぱち瞬いた。
「私は、ヴァータ、ピッタ、カパの食事というものは、ありはしないと考えているの」
 ゆかりは、あくまで果歩に持論を展開している、という姿勢で話を続けた。至近距離にいる杏奈の耳に入ることも、もちろん分かっているのだろうが。
 杏奈は再び盛り付けを進めながら、後ろで繰り広げられる会話に神経を集中させた。ゆかりの見解が気になった。
「ヴァータタイプの人間といっても、いろいろなヴァータタイプがあるわ。アーユルヴェーダの食事というのは、超個人的にカスタマイズされるべきものなの。そこをよく知らない人に、タイプ分けをした食事を教えると、その枠の中から出られなくなってしまう可能性があるの」
 果歩は目を瞬かせた。頭の中が真っ白になっている。
「は…はい」
 ゆっくりと返事をしながら、
「厳格に三分することができないからこそ、個人に合った料理を考えるのは難しいって…先ほど、杏奈さんもそうおっしゃってました」
 なんとか言葉を捻出する。
「杏奈さんは個人で、アーユルヴェーダ料理教室の先生をされていたそうで、深い知識をお持ちなんです」
 果歩が話題を杏奈に逸らしたのは、ゆかりに矛先を転じてほしかったからだった。ゆかりの饒舌は、時に果歩を圧倒するのである。
─余計なことを。
 杏奈は心の中で呻いた。果歩に話をした自分が悪かった。二人に背を向けたまま、話を振られませんようにと強く念じる。しかし、残念ながら背中に視線を感じた。
 ゆかりは口元をきつく引き締めているが、その目は好奇心に光っていた。
「あら、そうでしたの?」
「…少しの間だけ、ですが」
 さすがに無視はできない。杏奈はほんのちょっと顔を後ろに向けて、小さく言った。
「良い取りつきを見つけましたね」
 ゆかりはほぼ本心からそう言った。
「食事は、アーユルヴェーダに興味のある人にとっても、最も関心の高い分野といっても過言ではないでしょう」
 トリートメントをしなくても生きていけるけれど、食事をしなければ生きることはできない。食事は最も身近な関心事である。
 だからこそ、ゆかりは常々考えていた。伊豆でオープンする予定のアーユルヴェーダ施設では、アーユルヴェーダの観点から食について講義をする機会を持ちたいと。
─でも、料理をすることはできても、理論を正しく伝えられる者はそうそういない。
 それも、ゆかりの思う通りの理論を。
 ゆかりは心の中で、舌打ちをした。世俗的な欲望から一切解放されているような、余裕のある美津子の顔が脳裏に浮かんだのである。その美津子はちゃっかりと、アーユルヴェーダの食について知見のある料理人を囲っている。
─こちらで料理教室でも、するつもりなのか。
 少なくとも、調理風景を見せてほしいと言ったら、その翌日にはレジュメを渡せるくらいには、準備を進めているようだ。
─涼しい顔をして…
 ゆかりの脳裏に再び美津子の微笑が浮かび上がり、嫉妬の炎が沸いた。
「杏奈さん。一つ教えてほしいのですけれど」
「はい」
 ピリッとした空気を感じ、杏奈は小さく返事をした。ゆかりの前では、果歩が遠慮がちな、恐縮した様子になる理由が分かる気がする。
「アーユルヴェーダ料理で、人は本当に健康になるのかしら?」
 突拍子もない漠然とした問いに、杏奈はその場で固まった。なんと応えたら良いだろう。
「先生?」
 詰るようなゆかりの口調から、常日頃スタッフを叱る直前の気配を感じて、果歩は牽制するように呼び掛けた。相手は身内ではなく、よそのスタッフなのだ。
「単純に気になるのよ」
 ゆかりは果歩の方を向くこともなく言った。
「確信がないまま教室をやっておられたわけではないでしょうから」
 杏奈は無意識のうちに、口をぽかんと開けた。
─確信?
 ゆかりの言葉が重く突き刺さる。
─確信をしていたか…?
 自分の指導する通りに料理を作れば、心身が整うと…
「…アーユルヴェーダの考え方を知れば、少なくとも、直近の指針ができて…」
 杏奈は思考を巡らし、ゆかりへの返答を捻出した。
「健康に近づけるだろうとは思います」
 なんとか言葉をつなぎながら、杏奈は気が重くなった。それは、ゆかりに曖昧な返答しかできない後ろめたさのためではない。
─確信していたと、言えない…
 その事実が、暗く重く、杏奈の心に覆いかぶさってきたのだ。
 料理教室をしていた頃、杏奈はある特定の調理法や食材が良いというよりは、自分には合うものを選び取るための考え方を教えていた。しかし、その後生徒がその考え方を用いて、自分に良い変化が起こったかどうか尋ねたことはない。
─結果を聞くのが、怖かった。
 何も変わりはしなかったと言われるのが怖かったから。もちろん、アーユルヴェーダのレシピを二つや三つ学んだところで、変化が得られるわけではない。料理教室で学んだ考え方を、食生活全体に反映させれば、あるいは変化を遂げられたかもしれないが。
─でも私は、アーユルヴェーダ的な食生活を継続するためのサポートもしていなかった。
 ずっと言った通りにやってるけど、全然変わらない。そう言われるのが怖かったのだ。
 つまり杏奈は、
─アーユルヴェーダの食事で人は健康になると確信している。
 そう言い切れるほど、食事を通して生徒を変えた経験が希薄なのである。
「私は、アーユルヴェーダのトリートメントに関しては、いいものだと確信しています」
 自分の過去の仕事に後悔の念を抱く杏奈の傍で、ゆかりの自信に満ちた、張りのある声が響いた。経験と実績が、彼女に自信を持たせているのだろう。
「トリートメントは、結果が数字で出ます。お客さまから、変化があったという声をもらうことで、さらに確信が強くなる。けれど、料理に関しては、私はアーユルヴェーダの主張をむやみやたらに信じようとは思えない。アーユルヴェーダの食事法は、定性的で感覚的な理屈が多くて、正直苦手なんです。アーユルヴェーダが推奨する食材と推奨していない食材の分類にも、疑問を感じている…私はそれよりも、科学的に根拠づけられた食事法の方が、信じられるんです。何より、分かりやすいし」
 杏奈は沈黙した。ゆかりの言葉は、分からないでもない。
「でもあなたは」
 ゆかりは不敵な笑みを浮かべて、
「アーユルヴェーダ料理が人を健康にすると確信しているから、それを究めようとしているのですよね」
「…はい」
「そう…実績があるんですね?お客さまから、それを食べて体調が整ったと言われたことが」
 杏奈は口を閉ざした。
「あら、そうではないのですか?」
 ゆかりは杏奈から即答が出てこないと、気を良くしたように目を細め、
「気をつけなきゃだめよ。確信のないないやり方を教えて、お金をもらうなんて」
 盛り付けが完成したお皿を調理台に置く杏奈と、頬杖をつくゆかりの目が合った。
「そんなの、詐欺じゃない」
 ゆかりは独り言のようにつぶやいた。お皿に乗る料理に据えた、杏奈の視線が揺らいだ。

 

 


 

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