女たちが高級車に乗ってやってきたのを見て、安藤陽介はため息を吐いた。
─スペックの高いやつばかり…。
といってもそれは車のことではなく、そういった車を買える持ち主のことであった。
安藤のエブリィワゴンの隣に停まった、赤いゴルフから降りた女を、陽介は昔からよく知っている。器量良し、成績良し、運動神経良しと、なにもかもが出来過ぎた幼馴染だからこそ、安藤はその女─瑠璃子─を、恋愛の対象として見たことがなかった。
一方、ミニを運転してきた女─沙羅─は人妻なので、端からチャンスはない。沙羅は車から子供を降ろした。もう一人、子供ではない、大人の女がミニから降りる。沙羅の同僚が来ると聞いていた。独身であるらしいので、もし進展が望めるとしたら、この女だけだろう。しかし、その女は眠そうな顔をしていた。
─いや、翳がある…
簡単に言えば、暗そうな女…という印象を受けた。
「さすがに、もう一台は置けないなぁ」
バーベキュー場として自宅を解放した羽沼は、敷地の前のスペースを見渡した。小さい車であればギリギリまで奥に入れてもらい、最後の車を横づけできると踏んでいたが、無理そうだった。
「あ、大丈夫。今朝、朝日くん熱出しちゃったみたいで、祥子さん来られなくなったから」
瑠璃子がさばさばと言った。
「そうなの?だめじゃん、前原家」
安藤はあけすけに言った。実は、祥子の弟の晃も来るはずだったのだが、謎の高熱が出たらしくドタキャンされた。絶対に嘘だと思っていたが、朝日が熱を出したと聞くと、本当だったのかもしれないと思えてきた。
「っていうか、至近距離なんだから歩いて来ればよかったのに」
瑠璃子の家も安藤の家も、ここからそう遠くない。二人とも実家暮らしだ。
「万里子が車がいいって効かなかったのよ」
それを聞いて、安藤は納得の表情をした。このおてんば娘が駄々をこねだすと、まったく歯が立たないのだ。
「それにしても…」
「まさか鮎じいの離れ小屋に住んでるとはねえ…」
安藤と瑠璃子はしみじみと、羽沼が住んでいる丸太小屋を見つめた。
この丸太小屋には、幼い頃、幾度も訪れた。野遊びの名人だった鮎太郎と呼ばれるおじいさんが所有する建物で、安藤、前原、瑠璃子の三人は、よく遊びに来ていたのだ。
今日も元気いっぱいの万里子と快は、屋外の屋根付きスペースに一目散に走り寄った。手作り感のある木製の机とベンチ。小さな焚火スペース。このアウトドアスペースの趣向が気に入ったようだ。
沙羅が食事会をしようと言ったのは、ほんの思い付きだった。独り身である人たち─瑠璃子、杏奈、羽沼、安藤、前原─に、良い縁が生まれればと思ったのだ。しかし、予期しなかったほど喜んでいるのは子供たちだ。ウィングチャンネルの人に会えるとはしゃいでいた。一緒に行くと言い出して聞かないので、子供も同席させられる場所を考えていたところ、羽沼のほうから、どうせなら撮影場所に来たらいいと言ってくれたのだ。
「ここで、カメラもってね、こうとる…」
万里子は瑠璃子のスマホを持って、向かいのベンチに座る快を映した。
「あれ、なんかちがう」
万里子は背景が違うのに気付いて、眉をひそめた。
「いつもはね、こっちからこっちに向かって撮ってるんだよ」
羽沼は指で差し示しながら答える。動画を撮る時は、たいてい、羽沼と快がいる位置から、万里子の方(家側)に向かってカメラを向け、撮っているらしい。
万里子は母親の瑠璃子に似て、くっきりとした目鼻立ちをしていると、羽沼は思った。大人になったら、どんなにか美人になるだろう。
「えっと…」
安藤は、先ほど「暗い」という印象を持った女に話しかける。女は子供たちとは対照的に、丸太小屋とアウトドアスペースを、関心の薄そうな目で見ていた。
「名前なんだっけ?」
「古谷杏奈です」
今日のメンバーの中では、杏奈だけが、沙羅を除く全員と初対面だった。軽く名乗り合った後で、さっそく男たちが中心となってバーベキューの準備をはじめる。
十一月上旬。幸いにも今日はよく晴れて日射しがあり、屋外でも厚着をしていれば凍えることはない。
杏奈は周囲を見渡して、
「民家の庭でバーベキューなんてできるんですね」
「まあ、そんなにおいの出るものやらないし、隣の民家も離れてるから苦情にはならんと思うよ」
安藤はテーブル中央の天板を外しながら言った。確かに、視界に入る限り民家は一軒も見当たらない。
「すごい、ここにコンロが入るんだ」
瑠璃子はそう言ってテーブル中央の窪みを覗き込んだ。羽沼がDIYで作ったというテーブルはバーベキューテーブル仕様になっているようだ。このくらいの限られた火源なら、小さな子供たちがいても、注意していれば火傷をすることはなさそうだ。
「でも、テーブルの下にもぐっちゃうと危ないね」
沙羅はテーブルの下を覗き込んだ。火元に近づくと火傷しそうである。
「だって。気を付けてよ、万里子」
「まりこ、もぐったりしないよ」
万里子は母親に向かってつんとした口調で言った。やわらかそうな髪をお団子にした万里子は、今日は屋外で遊ぶためか、ジーンズにトレーナーというボーイッシュな恰好をしているが、とても可愛い。
男たちがセッティングをし、母親たちが子供たちと戯れている間、杏奈は手をさすりながら、眠気を感じていた。沙羅に誘われて来てはみたものの、正直、乗り気ではなかった。もともと人付き合いが苦手。ましてや、初対面の人達や、母娘たちの混ざった集まりなど…
しかし、美津子は杏奈の外出に賛成だった。
─たまには羽を伸ばして来なさい。
せっかくの日曜日なんだから、と。
確かに、美津子からの新たな課題「マットの外でヨガをしている人たちを見つける」に取り組むにも、外の世界と繋がりを持たなければどうしようもなかった。足込町に来て半年が経とうというのに、杏奈がこの足込町で知っている人間といえば、あかつきのスタッフを除けば、未だに加藤僧侶と、柳老人くらいなものであった。
別のタイミングであれば、外の人たちと関わりを持ってみようと、前向きな態度で臨めたかもしれない。しかし、折しも先日ゆかりたち一行を迎え、キッチンで詐欺発言に遭ってから、杏奈の気持ちは晴れない。もやもやした気持ちを引きずったまま参加してしまい、初対面の人達の前で明るく、愛想よく振舞う気力が起きなかった。
一方、他のメンツは、程度の差はあれ、それぞれすでに顔見知りの人たち。話をして笑い合っている。
杏奈は心の中でため息をついた。すでにアウェイな感じがするのが否めない。
ぐう爺は今日も境内の中をうろうろしながら、落ち葉をかき集めている。少し前までは甚平姿で境内を歩いていたが、さすがに晩秋は寒さがこたえる。そのため、神職ならば当然であるのだが、今日は装束姿であった。白衣、白地に白い文様が入った袴を履いている。
時々神門の前を通り過ぎる人を見ては、
─また違った。
と、肩を落としている。
最近、七五三の前撮りのため、神社を訪れる親子が多かった。神社としては、七五三、初詣、この地域の伝統行事である花祭りと、これから三月まで一気に忙しくなる。
しかし、ぐう爺の気がかりはその準備のことではなかった。
─おかしい。もう何ヶ月も足が遠のいたままだ。
思わずうーむと唸って、神門の向こう側を凝視しながら目を細めた。来るとしたら、最も可能性があるのは日曜日。だいたい昼頃になると下山してくるから、それを期待しつつ境内の掃除をするのが、ここ半年のぐう爺の習慣だったのだが…
「はぁ…やめるか」
ぐう爺はしょんぼりした様子で、集めた落ち葉を袋に詰めた。
「おうい、そろそろ交代だで」
社務所で、紫色の袴をはいた神主が巫女に声をかけた。彼はぐう爺の息子だが、ぐう爺とは対照的に恰幅が良く、顔が角ばり、眼鏡をかけていた。
「お父さん、さっきからじいちゃん、様子が変だよ…」
「変?」
神主は素っ頓狂な声を上げた。
「変はいつものことだが。変じゃなかったら、逆に変だ」
わははは、と笑う。
─お父さんも、やっぱりあの変なじいちゃんの息子だな。
そんな祖父と父をもつ自分のことは棚に上げて、巫女はそう思った。
神主は笑いを納めると、目を細め、遠くで小さく体を折って落ち葉を集める父の姿を見る。
「ほとんど出待ちだなぁ」
「は?」
若い巫女は、訝しそうな顔で神主を見上げる。
「ありゃ、ほとんど恋患いよ」
「え?」
巫女は不審げに眉根を添えて、ぐう爺を見る。
─出待ち?恋患い?
およそ神社の、それもそのトップである老人に似つかわしくない言葉である。
巫女は、背中に悪寒が走り、ぶるるっと震えた。
「おお、なんでもない、なんでもない」
神主は快活にがははと笑った。
交代の巫女が几帳の間から現れて、若い巫女は、そっと席を立った。
サササ…
稲荷神社の竹林から、風に笹がすれる音がする。ふと空のほうを見上げたぐう爺だったが、次の瞬間、老人には似つかない早さで顔を神門の方へ向けた。
「あ!」
途端に、目を輝かせて、竹ぼうきをかなぐり捨てて駆け寄った。
「せんせ~い!」
神門の前を素通りしようとしていた男は、ぐう爺のその声を聞いて、顔だけを右に向けた。男の肩に乗っていたひとひらの紅葉が、ひらひらと舞い、地面に落ちる。
その男の傍には、黒と茶が混ざった毛色をした中型犬が、忠実そうに控えていた。
「ちょっと炭を入れすぎたかなぁ?」
ゴウゴウと燃える火を見て、羽沼が言った。炎は、網を通り越して宙に見えている。
「おい、大丈夫か」
安藤が心配そうな顔をする。
「何かあっても、今日は火消ししてくれる消防士はいないぞ」
「消火器はあるよ」
羽沼は網に乗っている野菜や肉を、トングを使って手際よく銘々のお皿に取り分けた。
「消火器あれば大丈夫ね。学校で避難訓練してるでしょ」
瑠璃子がしたり顔で安藤に言った。
「ボヤがあった場所に居合わせたなんて、知られるのはご免だね」
羽沼が網を上げ、その間に安藤が炭を減らした。
「この中で焼けそうじゃないですか?」
そう言ったのは沙羅であった。一瞬、杏奈以外の大人たちは何を言っているのか分からず、顔を見合わせる。
「あ、快ちゃんが焼きりんごをしたいって…」
周りの空気を察して、杏奈が言った。
「そう!やきりんご!」
快は車の中での会話を思い出し、顔を明るくした。完全に今まで忘れていたようだ。
杏奈はリュックからりんごと小さな瓶、アルミホイルを取り出した。
「それは、シナモン?」
羽沼が、小さな瓶に入った茶色い粉を見て尋ねる。杏奈は頷いた。
「りんごの芯をくり抜きたいのですが、何か良い道具ありますか?」
「ちょっと待ってね」
羽沼は差しさわりのない所に網を置いて、さっと家の中に入って行った。
「だめだよ、七瀬」
「うー」
網のなくなったスペースに手を伸ばそうとしていた七瀬を、沙羅がすぐに抱きかかえた。七瀬は人見知りを発揮し、最初の頃は泣きべそをかきながら沙羅にしがみつき、大人しくしていたが、場所に慣れてきたのか動きが活発になってきている。
杏奈はりんごの芯をくり抜き、あいたスペースにシナモンシュガーを入れて、アルミホイルに包んだ。
「よく考えると、肉の脂が落ちると、肉くさくなっちゃうかもね」
あとは入れるばかり、というところで、羽沼はそれに気が付いた。
「じゃあ、最後にすれば?まだアレが残ってるじゃん」
「そうだけど、みんな食べるかな」
「アレって何?」
瑠璃子が尋ねる。
「イノシシ」
予想だにしない答えに、女三人はそれぞれ驚いた表情をした。万里子と快は、食事もほどほどに丸太を積んで遊び始めている。
「彩っていう料理屋の女将さんからイノシシ肉をもらってさ」
においのあるものはやらないって言っていたくせに、思いっきりにおいが出そうである。
「一応解凍だけはしておいたんだけど、食べる?」
女たちは顔を見合わせた。
「俺はちょっと食べたいな」
安藤がそう言ったので、羽沼はもう一度準備のために家に入って行った。
ひとしきり他の物を平らげた後で、薄く切ったイノシシ肉を網で焼く。この脂肪が落ちた焚火の中で、この後りんごを焼くかと思うと、どんな風味になるのか予測不能であった。
「思ったより、においきつくないね」
と、瑠璃子が言った。もっと獣臭いと思っていた。
「すごく上手に処理されてたから」
片面が焼けたので、羽沼はトングを使ってひっくり返す。
「でも、一塊が五百グラムくらいあって。こういう時にでも使わないと、解凍しても一人では食べきれなさそうだから」
安藤は皿いっぱいに広げられた赤身の多い肉を見て、
「じゃあ、これの他にまだあるの?」
「そう。あと半分くらい」
彩の女将・翠は、男顔負けの豪胆そうな女性だった。そして、気前が良い。
「残りの肉はどうやって料理しようかなぁ…」
「シシ鍋じゃね?味噌入れて煮ればいいんじゃない」
しかも、動画のネタになりそうじゃん、と安藤。
「イノシシの肉でぼたん鍋って、王道すぎるんじゃない?」
瑠璃子が手厳しくその案を切った。
「動画にするなら、もっと意外性狙った方がいいんじゃないの?」
イノシシの肉を扱うというだけでも、十分意外性があると思うが…
「あ、杏奈ちゃんなら、どんな風に調理します?
沙羅がまた、いいことを思いついたというように、顔を輝かせた。どうやら、話題にあまり乗ってこない杏奈に話を振る、良い機会だと思ったらしい。
「杏奈ちゃんは日々、いろんなスパイスを使って、おいしい料理を作ってくれるんですよ」
と言っても、杏奈はジビエを扱った経験はほとんどなかった。赤身の多いイノシシ肉を一切れもらって食べてみると、まず硬いという印象があった。けれど、瑠璃子の言う通り、思っていたほどにおいはきつくなく、食べやすい。杏奈はせっかく話題を振ってくれた沙羅の好意を踏みにじるまいと、思考を巡らす。
「…ゴラカを使うといいかもしれません」
「え?何?」
思い付きで案を言ってみたものの、マニアックすぎて、何を言っているのか誰にも分からなかった。
「先生。次にいつ来るか教えてくれんもんで、わしゃあ、ずーっとあそこで待っとったんですよ」
参集所の入り口を入ってすぐのところ。赤い絨毯が敷かれる、複数のソファとローテーブルが並ぶ広間の一角。二階へと続く吹き抜けの階段から、一番近いところにあるソファに、男は深く腰掛け、ぐう爺は傍に突っ立っている。
「え…?」
男は唸るような低い声を出した。精悍な顔つきをしているが、どこか気だるそうだった。背もたれに背中をもたげながら、男はそれきり、沈黙する。
「先生、このところ、どうしてお見えにならんかったのです?」
男は何も言わず、横目でぐう爺を睨みつける。ぐう爺は下あごを引き、恐縮している様子を見せた。男は何も言わないが、何か問題があるのかとでも言いたげだ。ぐう爺は男の眼つきだけで、それを読み取る。
─先生がおらんと、わしの目の保養が…
男は組んでいた足を下ろして、
「宮司、帰るぞ」
年上も年上、この神社の最高権力者である(はずの)ぐう爺に対しても、男は敬語を使おうという様子は見えなかった。
「え、ちょ、ちょっとお待ちください」
ぐう爺は両手を前に突き出して、男が立ち上がろうとするのを制した。
「今、お茶を持ってきます。お茶だけでも飲んでってください」
すると、ちょうどいいところに、二階から一人の巫女が降りてきた。先ほど社務所でぐう爺の様子を見ていた、少しふくよかな、若い巫女であった。
「おうい、小夜、お茶もって来て」
「じいちゃん…」
小夜と呼ばれた巫女は、宮爺の傍に座っている長身の男を見て、目を見開いた。白いジャケットにグレーのズボンという、山仕様の服を着ているが…
─なに!綺麗な人!
相手は男だが、第一印象はそれであった。小夜は心の中で歓声を上げる。眉の下まで伸びる前髪の下で、涼し気な切れ長の目がこちらに向くと、小夜は自然と背筋が伸びた。
小夜はすぐに下がっていこうとはせず、一、二歩二人のほうへ歩み寄った。
「どちらさまですか?」
ニコニコとしてそう尋ねたのは、若い女性らしい好奇心からだった。
「こら、小夜」
小夜はぐう爺にたしなめられて、少し唇を突き出して見せたが、おずおずと奥の給湯室へ去って行った。その間にも時々振り返って、興味津々な顔を二人に見せる。
「わしの孫です。大学を卒業してから、ここで常勤の巫女としてゆるゆると働いているんですが…」
ぐう爺の言葉は耳に入っているのだろうが、男は返事をせず、参集所の外に待たせている犬を見ていた。ぐう爺も、男の視線の先にいる犬に視線を留める。
「あの犬も元気そうですね」
元気どころではない、と男は思う。前回久しぶりに山に登らせた時も、実に活き活きした様子だった。引退したとはいえ、まだ現役と同じくらいの働きはできるはず。
犬は賢そうな顔で、大人しく男を待っている。
「先生、もう半年以上、お会いしてませんでしたねぇ」
「…」
「夏場は暑すぎて、とても山を越えてこちらを通り過ぎて来られないのかと思ってました」
「ふん」
男は鼻で笑った。
─明神山のような低山で、暑いも寒いも関係あるかと言いたげだ。
ぐう爺は男の心を読み取る。
─いや、ほとんどの人には関係があると思うのだが…
そして、心の中で一人で突っ込みを入れる。口数が少ないこの男と一緒にいると、こうやって一人忙しく心の中で自作自演の問答をしなければならない。が、この感覚すらひどく懐かしかった。
「ま、忙しくなったんだと思ってましたけど。こちらへ来るたびにわざわざ明神山を登ったり下りたり…暇人のやることですからねぇ」
と言いかけたところで、鋭い一瞥が飛んだ。
「ま、ともかくも」
ぐう爺はおろおろしながら、ローテーブル越しに向かいのソファに移動して、浅く腰掛けた。
「先生がいらっしゃらない間のわしの活躍をお話しましょう。来年は花祭りも通常の規模で再開するもんで、方々へ挨拶しに回って鬼役の選出と、鏡餅の手配などにすったもんだしておりました。とはいえわしの一声があれば、それ伝統ある花祭りに貢献できるとは名誉なことと、すぐに快諾を得られるもんだで参ったもんだわ。なにしろわしはこの足込町で三人の─」
「じいちゃん」
「この三人さえ味方につければ足込町に敵なしと言われる─」
「じいちゃん、行っちゃったよ?」
「え?」
振り向くと、男はすでに靴を履き、参集所を出ていくところだった。
「あのう、今お茶が入ったところですが」
追いすがるようにぐう爺が玄関先まで走り寄ったが、男は振り向きもせずに引き戸を開け、
「南天丸」
その一言で即座に犬は立ち上がった。男は急いでいる足取りではなかったが、歩幅が大きいためか、その後ろ姿はあっという間に見えなくなってしまった。
「あーあ、行っちゃった」
ぐう爺は肩を落とした。
「じいちゃん、そういう趣味だったの?」
小夜はお茶を載せたお盆を持ったまま、あっけらかんと言った。
「なんだ、そういう趣味とは」
「男の人が好きだったの?」
「は?なに言っとんだお前」
ぐう爺はぶるるっと身震いして見せたが、視線を小夜から逸らしていた。
神社の前を何度か行き来している男を見て、ぐう爺はひそかに、男に憧れを抱くようになった。が、ぐう爺が男に特別な感情を抱いたのは、ある事件がきっかけだった。その時小夜はちょうど旅行先にいて、事件のことは後から知ったのだが。
それは、昨年末。朝から凍えるような寒さで、うっすらと雪が積もっていた。ぐう爺はその日、昼から少しばかり飲み過ぎていた。トイレに行くと言って席を立ったきり、なかなか戻って来ないので、家の者たちは心配した。ぐう爺は外の風に当たるため、ふらふらと外に出て行ったのだ。おぼろげな足取りで、意識も朦朧とする中、明神山への取りつきからしばらく進んだところまで登っていたらしい。しかし、その途中で木の根につまずき、前のめりになって転んだ。ぐう爺の意識はそこで途切れた。眠ったのだ。その時、偶然にも男が通りがかった。
年末に嫌なものを見てしまった。ちゃんちゃんこを着た、白髪の老人が下山地近くに倒れている。それを発見した時、男はその実、迷惑極まりないことだと思った。ちゃんちゃんこがわずかに上下しており、脈がある。それで仕方なく、老人を背中に背負って下山した。
神社に人があるだろうと思って寄ってみれば、すでに神社の者が外に探しに来ており、そこで初めて、この野垂れ死にしかけた老人が、栗原神社のトップだということを知った。
─命の恩人です。
老人の娘か、息子の嫁と思しき中年の女は、涙ながらに礼を言った。
命そのものも救われたが、社会的にも救われた。年の瀬に、神社の宮司が昼間から酒に呑まれ、外を徘徊しているうちに野垂れ死にしたとあっては、神社の面目が立たない。
老人は一旦、無造作に玄関先に寝かされていたが、家の者が布団を用意している間に、そこで目を覚ました。一番に飛び込んできたのは、見たことのない、端麗な男の顔である。
─おや?
これが、男とぐう爺の出会いであった。
─もしかして、来世の、わし?
つまり、男はぐう爺にとって、命の恩人なのである。ぐう爺は年齢差も関係なく、この男を崇めるようになった、というわけだ。
ぐう爺は湯飲みの上のほうをつまむようにして取って、口に含んだ。
「あちぃっ」
「大丈夫?じいちゃん」
訊きながら小夜の声は棒読みで、心配しているようには聞こえなかった。
「お前…再沸騰させてアツアツにさせたな?」
「うん。だってあったかいほうがおいしいかなと思って」
小夜は口をすぼめた。もう二十五歳という年齢なのに、この孫はいつまで経っても子供っぽいと、ぐう爺は思う。巫女の仕事は、定年が早い。その後も神社で事務方の仕事などをすることはできなくもないけれど、家族の者からは、早く次の就職先を見つけるか、婚活せいと言われている小夜であった。しかし、本人はどこ吹く風で、就活にも婚活にも一生懸命になることはなく、韓国俳優の推し活に忙しい。
「たわけ。舌を火傷したぞ」
とはいえ、危なかった。こんなものを出して、あの男の気を害したらえらいことだ。
「ところでじいちゃん。あの人はなんの先生なの?」
「は?」
「あの男の人のこと先生って…」
「あちち…あのお方はな」
ぐう爺は空を手で煽って、突き出した舌に風を送っていたが、その舌をひっこめた。
「上沢の産婦人科の若先生だよ」
「どう?もう頃合いかな」
焚火台の上で燃える炎の前でしゃがみこみ、手をかざしている杏奈に、羽沼が声をかけた。結局、コンロの炭も燃え尽きてきたので、テーブルから少し離れた、子供たちから遠いところで、改めて火を起こした。
「いえ、まだだと思います…」
杏奈は長いトングでりんごの入った包みを少しつついた。焼きりんごだけ作るにはもったいないので、ついでに焼き芋も作っている。
「さっきの案、なかなか面白いね」
羽沼は杏奈の隣にしゃがみこみ、両ひざの上に両肘を置き、脚の間で両手を組んだ。案というのは、イノシシ肉の調理方法のことだ。杏奈はイノシシをゴラカをはじめとするスパイスで煮込んではどうかと言ったのだ。
「ゴラカなんてスパイスがあるの、知らなかった」
物を柔らかくする性質のあるゴラカを使えば、イノシシの肉も柔らかくなるかもしれない。ほどよい酸味と、燻製の香りは、クセのあるジビエにも合うだろうと思われた。
「再現性のない案で、すみません」
「謝ることはないよ」
杏奈は隣にしゃがんで、相好を崩す羽沼の顔を見た。羽沼は、ジーンズ、白いティーシャツにネルシャツ、その上に、ダウンベストを羽織っている。平均よりやや高い背、痩せているがしっかりとした骨格、短い髪。笑うと、目尻のあたりの皮膚に皺ができる。屈託のない笑顔だ。
「僕も様子見に来るから、みんなのとこ戻っていいよ」
「あ、いえ…火がなくなっちゃったので…」
テーブル席のコンロの火は、すでに消えている。
「寒いの?」
杏奈は炎の前でかざしていた手をひっこめた。
「それほどでもないです」
一人になって一息つきたという思いだったのだが、その実、寒さを覚えてもいた。杏奈は青と白のネルシャツに、ジーンズ、グレーのパーカーベストという姿だった。冬用の肌着も身に着けてきたが、それでも少し冷えた。
「うちにブランケットがあるから、必要なら言ってね」
「あ、ありがとうございます…」
羽沼は返事の代わりに、ニッと笑った。杏奈は笑うとくしゃくしゃになる羽沼の顔から、目を逸らした。どことなく、羽沼の雰囲気は尾形を思い出させた。人当たりの良さ、面倒見の良さ、穏やかな性格、優しい声。ちょっと野暮ったいくらいの、こだわりのない服装。
「この木、ちょっと洗ったら使えるかな」
羽沼は手近に落ちていた、長くてまっすぐな木の枝を拾った。
「子供たちが喜ぶと思って、マシュマロ買ってあるんだ」
杏奈は、その木の枝を眺めながら、口元を緩ませた。男の優しさに触れると、木漏れ日に当たっているかのように、やわらかくて、あたたかな気持ちになる。かつて杏奈は、その陽気を求めて、男の近くに寄添っていたものだ。
「羽沼さんは、子供が好きなんですね」
しかし、一瞬だけ、羽沼は目を見開き、眉を上げた。即答で肯定されると思っていたのだが。
「…そうでもないよ」
羽沼は枝についていた土を手で払った。
赤や黄色に色づいた葉っぱがはらはらと落ちてくる。杏奈は足元に落ちた、黄色い葉っぱを拾った。
ウィングチャンネルのことは、小須賀を通して知った。チャンネル内の動画をそれほどじっくり見てはいなかったが、なんとなく、その管理者は野心あふれる起業家で、とことん陽気な人だと思っていた。しかし、実際に会ってみると、目の前にいる管理者は、至って堅実そうな、サラリーマン風情の男である。どうして、こんなところで動画配信など行っているのか。
「…あのう、動画はいつも、どういう機材を使って撮ってるんですか?」
「機材?」
羽沼はポケットに手を突っ込み、
「動画を撮るのは普通のスマホ」
スマホをかざしてみせた。
「スマホを固定する三脚と、編集用のパソコン。最低限この三つさえあれば、動画は作れるよ」
「そうなんですか」
「うん。でも、雑音拾っちゃうから、やっぱりマイクはいるなと思って、早々に買ったかな。あとは、ライトだね。でも僕の場合は、顔はほとんど映さないから、あんまり使わない」
スマホをしまい、羽沼は杏奈の方を向いた。
「動画配信に興味あるの?」
「そういうわけではないんですけど」
といいつつ、料理の動画を撮っておいて、ゆくゆくは動画を売ったり、料理教室で使ったりしたいと思っていた。小須賀と前に話していた通り、動画を発信できれば、あかつきの認知を広めることもできる。動画編集のスキルと効果的な配信。この二つは、業務委託の範囲を超えており、美津子から直接頼まれているわけではなかったが、自分が手を付けるべき仕事だと、杏奈は思っている。
「よかったら、機材見てみる?」
羽沼はりんごとさつまいもの位置を、トングで動かした。
「もう少し時間がかかりそうだし」
思いがけずだったが、羽沼とここで知り合えたのは、ラッキーだったのかもしれない。杏奈は仕事上のメリットを見出して、羽沼の提案に頷いた。
「あれ、部屋ン中に入ってったぞ」
羽沼の後ろに杏奈が従い、家の中に入っていくのを見て、安藤が言った。
「相性良いのかもね」
向かいに座る瑠璃子も、二人の姿を目で追った。
「二人でしゃがみ込んで、なんか語らってたし」
紅葉した落ち葉の絨毯の上で、焚火を見ながら佇む二人の後ろ姿を思い出して、瑠璃子は言った。
瑠璃子は、羽沼のことも、この日初めて会った沙羅の同僚である杏奈のこともよく知らないが、お互い真面目そうで、どこかお似合いのようにも思える。
先日、羽沼は最初の動画の案を、役所に持ってきた。瑠璃子は上司と一緒に確認した。足込町の飾り気のない四季の様子─初夏の新緑と清流、鮎釣り、秋の空を背景に舞う紅葉、冬の明け方の山肌、山桜─や、月を抱く翠湖の湖面、御殿山に自生するシャクナゲ、霧の中に佇む山近くの古民家。変わる変わる映像が切り替わって、最後に足込町のイメージキャラクターと一緒にメッセージを映す、という構成だった。
瑠璃子は、案外よく出来ていると思った。しっくり来た。これこそ、瑠璃子の知っている足込町だった。しかし、上司は、あまりにも何もないことが浮き彫りになっているのが、引っかかっているようだった。
─せめて、花祭のシーンは入れなければ…
この地域の伝統行事であり、日本国内での知名度は低いが、少なくとも愛知県の中ではニュースとして取り上げられることもある祭事だ。感染症以来、花祭りは自粛されており、羽沼もこの春は、動画を撮るチャンスを逃していた。
─来年は、今まで通りの規模でやるようですから。
上司は羽沼にお願いをした。花祭に行き、その様子を撮ってほしいと。
羽沼の懸念としては、動画に一般人の姿が写ることだった。それは、その時用意していた映像の選定の際にも、気がかりだった。鮎釣りや、稲刈り、ツーリングの様子など、人が写っている動画はいくつかあったのだが、一人でも、少しでも顔が写ってしまったものは避けてきた。瑠璃子は、羽沼の心配はもっともだと思う。
─羽沼さんに花祭を撮影していただくのなら、特等席を用意する必要がありますね。
瑠璃子は半ば上司に自覚させるように、念を押した。
羽沼と打合せを重ねる度に、彼の実直な性格を知ったからこそ、彼の現在の職業や生活ぶりとのギャップを感じている瑠璃子だった。
─こんなところに一人暮らしをして…
お金になるかならないかの、動画配信を生業としている。
─何を考えているのだろう。
瑠璃子には、皆目分からなかった。
万里子と快は、羽沼に貸してもらった、古いカメラやスマホをおもちゃにして、撮影ごっこをして遊んでいる。
実は、瑠璃子はプライベートで仕事の関係者と会うなど、まっぴらご免だったのだが、ウィングチャンネルの人に会いたいと万里子がきかなくて、不承不承で参加したのだ。万里子は楽しんでいる様子だったので、結果的にはよかったと思っているのだが。
「杏奈ちゃんは、大人しそうな子だね」
うとうとしかけている七瀬を膝に乗せ、体をゆすっている沙羅に、瑠璃子はそっと話しかけた。沙羅はうんうんと頷き、
「すっごく真面目で、しっかりした子なんですよ」
囁くような小声で言った。
「だって。あんたも、どっちかっていうとそういう子の方が好みなんじゃない?」
瑠璃子は頬杖ついて、安藤をちらりと見た。茶化すような口ぶりだった。
「意味不明なテンションのやつは嫌いだけど、別に好みの性格があるわけじゃないよ」
安藤は努めて関心が薄そうな口ぶりで言った。杏奈は、自分にはあまり話しかけてこなかった。かといって、安藤のほうから話しかけもしなかったが、それ以前に、そんなに自分に興味があるように見えなかった。
沙羅は、幼馴染二人の会話を聞くともなしに聞きながら、杏奈のことを気にかけていた。
─元気がないな。
それは、いつもに増してという意味で。
沙羅は、まだそれほどあかつきに出入りしておらず、したがって杏奈のことも深くは知らない。けれど、会っている回数や時間に関わらず、親しくなれそうな相手とは、一気に距離を縮められる沙羅である。杏奈とはまだそうなれていないのも、気がかりだった。決して、相性の悪い同僚とは思っていないのに…
その頃、羽沼の部屋の中で、杏奈は三脚やマイクをスマホで撮っていた。
「なるほどね、料理教室か」
もちろん羽沼の許可はもらっていた。羽沼は杏奈が撮影を終えると、機材を元の場所に戻した。
「最近はインスタへの投稿も、動画の方が見られるようになってきているようですし」
すでに出遅れてしまっている感はあるが、今から手を付けなければさらに出遅れる。
羽沼が住んでいる、ロッジやコテージのような外観の家の中は、寝室兼居間の一部屋に、小さなキッチン。いわゆるワンルームの間取りで、部屋にはベッドと、デスクワーク用の机と、手作りらしい木の棚がある程度だった。奥に風呂、トイレ、洗面などの水場があるらしい。アトリエのような空間があるとはいえず、これは屋外であのような撮影場所が必要になるわけだ。
杏奈と羽沼は早々に部屋から出て、焚火の前に戻ってきた。
「え、そんな高いランドセル持ってくる子いるの?」
「うちの学校にはいないけど、研修で集まった時にそう聞いた」
テーブル席では、大人三人が、学校ネタで盛り上がっていた。最近はラン活といわれるほど、人気のランドセルを買うために親たちが躍起になっているが、足込町に住む沙羅と瑠璃子は、もう少しおおらかに構えていた。ランドセルなど何でも良いと。中には、頑健で大きなランドセルを買ったばかりに、教室の棚に収まらず、棚の上に置かなければならない事態も発生しているらしい。
その三人から離れた所で、再び杏奈と羽沼は並んで腰を下ろした。
「もういいかな」
いったん、りんごとさつまいもを取り出して、中の様子を見てみる。りんごは頃合いか、すでに焼き過ぎてしまった感があった。さつまいもは、あともう一息というところである。
「このままだと熱すぎますね。少し冷ましてから持っていきましょうか」
子供たちがはしゃいで、すぐに手をつけようとして火傷するといけない。そういう思いもあったが、杏奈はもう少し、羽沼と話をしたかった。
「順正」
美津子は玄関先に現れた男を見て、目を丸くしたが、
「あがって」
すぐに彼を中へ入れようとする。
順正はちらりと南天丸を振り返った。南天丸は、順正の顔から何かを察知すると、ところを得たように走り回って、時々庭の草木や土中に鼻をうずめた。
「使う?」
居間まで入ると、美津子は順正にハンガーを差し出した。順正が白いジャケットを脱ぐと、美津子の鼻腔に、ほのかな森のにおいが届いた。
シャカシャカしたゴアテックスのジャケットの下は、意外にも、普通に街中で着るような深紅のシャツだった。順正は厚手のシャツの胸元の部分を軽くつかむと、バサバサと空気を送った。眉の下まで伸びる前髪がその風に煽られる。ぐう爺や小夜がここにいたら、むせかえるような男の色気に、圧倒されているところだろうが、美津子は順正のジャケットを持ったまま、ごく冷静に彼の様子を観察していた。
「暑いの?」
そう思うようなしぐさはしているものの、その顔を見れば、汗一つかいていない。
「お茶を淹れようと思ったんだけど、熱くない方がいい?」
「なんでもいいよ。まず水を南天丸に…」
美津子は書斎の本棚の隣にあるクラシカルなハンガースタンドにジャケットを掛け、いそいそとキッチンへ向かった。
順正はその間に、部屋の中を軽く見渡しながら応接間の椅子に腰かける。いつになく生ぬるい空気と、香辛料のにおいがする。他は、特に変わった様子がなかった。
「久しぶりに来たものだから。これでよかった?」
両手をポケットに突っ込んで、背もたれに背をもたげていた順正は、ちらと美津子の手元を見ると立ち上がった。そして美津子の持ってきた、ステンレスの犬用の給水器を受け取る。
「何か食べる?」
「餌はやって来た」
「あなたよ」
順正はホールへの敷居をまたいだところで、
「いらん…」
と呟くように言った。相変わらず、愛想がない。玄関に向かう順正の後を美津子は追う。
「先月まで付き合いが多くて…」
そんな美津子に、順正は付け加えるように言った。塩抜きが必要だとも言った。
後ろから順正の顔を伺う。頬から顎にかけての顔のラインは、もともと引き締まっていたが、今は引き締まっているというより、肉が削げているようにも見える。まともなものを食べているのだろうか。
玄関の戸を開けると、冷たい風が入ってきた。順正は美津子の追随を防ぐかのように、ぱたんと戸を閉めた。
美津子はしょうがなく、応接間に戻って、しばらく右往左往していたが、ふと思いついてキッチンに行く。杏奈に休暇を取らせているので、今日はまともな昼食を作らなかった。手頃な菓子鉢に、とりあえずすぐ食べられそうなフルーツを盛り、いつもはほとんど飲まない煎茶を淹れて持って行く。
南天丸がしっぽを振りながら水を飲む様子をしばし眺めると、順正は立ち上がって母屋に入った。応接間に戻ると、先ほど座っていた席に、バナナだの、柿だの、みかんだの、フルーツがてんこ盛りにされた鉢が置かれていた。
「…お供え物?」
向かいには、美津子が待ち構えていたように座っている。
「食べるならと思って」
バナナとみかんはともかく、柿をこのまま出すというのはいかがなものだろうか。
美津子は急須のお茶を湯呑に注ぐ。
「この間、永井さんに会ったんだけど」
湯呑をきちんと茶托に置き、順正にすすめながら、美津子は話しかけた。
順正は体の向きを美津子の正面には向けず、居間の方に斜めに向けながら、脚を組んでいる。顔も自然とそちらを向いていた。
「あなたのことを褒めてたわよ」
そう言われたが、誰のことか分からない。順正が首をひねったので、
「娘さんがこの間お産をしたはず。竹内さんっていうの。男の赤ちゃんが生まれた…難産で、会陰切開をしたって」
順正は目を細めた。妊婦一人ひとりの名前はしばらく経つと忘れてしまうが、美津子の話している妊婦は、まだ記憶に新しい。
「少し腰が曲がった母親が面会に来てた」
「そう。その永井さんの娘さんがね、縫合したのがあなたで良かったって」
「…」
「娘さんのご友人ね、同じように切開をしたんだけど、縫合がうまくいかなくて、退院してから再入院して、縫合だけやり直したんだって。そのことを聞いていて、娘さんすっかり怯えてたんだけど、あなたは評判通り手早くて正確だったって、喜んでたわ」
順正は切れ長の目を美津子に据えた。せっかく美津子が褒めてやったというのに、その表情からは少しも喜びが感じ取れない。
「縫合がうまくいかなくて再入院?」
それどころか、逆に眉をひそめた。
「どこの藪医者?」
「うーん、どこの産院かまでは聞いてないけど…」
「そんな藪医者と比較するな…」
声のトーンは低く、ごくそっけない物言いだったが、感じが悪い言い方ではなかった。美津子は微笑を浮かべ、
「研究のほうは、少しは落ち着いたの?」
順正の目は相変わらずどこを見るともなく虚空を見つめていたが、おもむろに頷いた。
「そう。まあ、いつもの仕事だけでも忙殺されるところなのに、研究や学会発表が重なったら、うちなんかに来てる暇はなかったわね」
美津子はお茶の水面に視線を伏せた。
「たまには、ご縁さまにも顔を見せなさいよ」
順正はそれにも、少し首をひねるのみ。
美津子は視線を順正に戻した。
─今日も山を越えてきたのか。
いつも通り、手ぶらで。徒歩であれば、善光寺は同じ町内といえど、行くのに時間がかかる。
「なんだったら送っていくわよ」
しかし、順正は迷惑そうに眉根を寄せた。
「行かないよ」
「だけど、ご縁さまもあなたの顔を見たがっていたわ」
「便りがないのは無事な証拠だよ」
美津子はふうと吐息して、お茶を啜った。この男の愛想のなさには呆れるばかり。もしかして、あかつきのことですら、犬の給水場くらいにしか思っていないのかもしれない。
順正は小須賀と同じくらいの年齢のはずだが、このような無愛想ぶりでは、やはり女の影は見るよしもない。
女、といえば。美津子は急に思い出した。
「そういえば、あなたこの間ここに来たでしょ」
順正に訊きたいことがあったのだ。
「その時に、ここにいた女の子と話をしなかった?」
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