悲しみを乗り越えるプロセスで拠り所となるヨガとアーユルヴェーダ

アーユルヴェーダ鍋 アーユルヴェーダ

ヨガとアーユルヴェーダ仲間との鍋パーティー。
明るく、前向きかに見える彼女たちが乗り越えてきたこととは……

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悲しみを乗り越えるプロセスの暴露はそれ自体が癒し

生きていれば、つらい経験をすることは絶対にある。

平和そうに生きている人であっても深い悲しみを経験したことがある。

器用に踏ん切りをつけているように見えても、本当は不器用な対処しかできていない。

感情の波に振り回されないようになるまでに、ものすごい年月がかかる。

それってある人たちにとっては普通のことなんだけど、「普通なんだ」って認識し直したり、誰かに話すことってあまりない。

でも、「普通なんだ」って認識し直したり、誰かに話すことは、それ自体が深い癒しになる。

自分の気持ちを話した後で、それを実のない(はた目には、自己陶酔に見えるかもしれない)独白のように感じ、「なんで話しちゃったんだろう。浅はかだった」と後悔してしまうかもしれないけど、そんな必要はなくて、何かの時に必ず実になる。

なぜなら、話すという行為は、マインドのデトックスで、心のブロックを溶かすことになるから。

そうやってほどけた心は、新しい何かを受け入れたり、新しいことを始める準備ができる。

逆にほどけていない心は、すべての物事をネガティヴな方に偏ったところから、色眼鏡を通して見てしまう。

そんなことを改めて感じた同窓会でした。

 

ヨガ・アーユルヴェーダ仲間との同窓会

アーユルヴェーダ料理教室(森の時計ではなく、外部の)で一緒だった皆様と忘年会をしました。

ほとんどが、ヨガやセラピーをやっていらっしゃる方。

ココナッツミルク鍋とトマト鍋、チャツネ数種類、マドゥワダやコフタを作り、ほふほふ、はふはふしながらパクリ、パクリ……

私のスリランカ体験のことも話せたし、他にも色々なことをわいわい喋っていました。

現在のみんなの活動や、これからの夢を聞いていると、共通の部分が多い。

つまり気の合う仲間です。

だからこそ、心もほぐれ、温かいアーユルヴェーダ鍋で体もほぐれたからか、みんな、口を割り始めました……

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悲しみを乗り越えるのに四苦八苦した

わたしたちのほとんどが、最も身近な人との死別を味わっていました。

「ずっとその人が自分のそばを離れていない気がした」

「ヨガをしていたから、永遠なんてないって分かっていた。頭では分かっていたんだけど、悲しくてどうすることもできなかった

「人の幸せを喜べなくなってしまっていた」

「昔だったらこういう話を人にできなかった。泣いてしまう」

「隣で寝ていた人がいなくなるって、他の誰かを失うことと、ちょっとちがう」

私たちのそれぞれが、そのきっかけとなった出来事から立ち直るのにかかった時間は、とても長いし、今もその途上のように思えました。

そして、立ち直る過程でみんながした寄り道。

それは、たとえば違う仕事をしてみたり、ヨガであったり、セラピー、パワースポットに行く、パワーのある人に出会う、食事の改善、占い師のところに行く、など……

様々であり、そのどれもが、すごく不器用な感じがしました。

ダメージのせいで行先がはっきり見えなくなった目だから、身体を左右にぶつけながら、行き当たりばったり。

体当たりでしか、進めないんですね。

 

悲しみの乗り越え方は人さまざまです。

中には、生まれ持った性質として、切り替えがうまい人もいます。

でも、私たちはそうではなくて、一人じゃどうにもできなくて、悲しみを乗り越える過程でヨガやアーユルヴェーダ、あるいは他のスピリチュアル的な実践を、「杖」のように使ってきました。
(そこが今回集まった仲間の共通点だったんだね)

だけど、立ち直りがどんなに遅く、不器用であったとしても、尊重すべきその人のパーソナリティだし、個人の、それぞれの癒しのプロセスです。

悲しみに陶酔していたわけではないけど、そうやって話を聞いていると、相手が、また一つデトックスできているのが分かり、こっちまで、やすらかな気持ちになりました。

 

ティッシュを一枚一枚重ねるような変化ができなかった人に

「本当は、変化って少しずつするのがいいのよね。ティッシュを一枚重ねるくらいの変化。で、振り返ってみたら、こんなに厚く変わっていたんだ、というような」

と誰かが言いました。

でも、ある日突然ティッシュがいきなり積み重なったような変化が起こることがあります。

そういう時、一人じゃどうしようもなくて、何か拠り所になるものが必要。

なのに、日本人の、それも若い女の子って、拠り所にできる絶対的なものがない。

日本ではもはや、「にわかに宗教(仏教でも、キリスト教でも、イスラム教でも)に走った人」は、危険視される傾向にあるように思えます。

だから、もし、宗教のような絶対的なものにすがりたくても、それもできなくなっています。

私は、だからこそ、ヨガやアーユルヴェーダ、セラピーに傾倒する女性もいる、と思えました。

昔はどうあれ、今は「おしゃれ」「『映え』る」「意識高い系」なイメージがある一方で、宗教並みに、土台がしっかりしている哲学で、奥行きのあるものだから。

それをやっても、おそらく誰も「危ない」と言わないから。

ティッシュがいきなり積み重なってしまった人には、ちょうどいい杖なのかも。

 

ちなみに、私は自分のことは、まったくしゃべりませんでした。

昔は、誰かに聞いてほしくて、その相手を探していました。

でも今は、誰か話そうとする人がいるなら、さえぎらず、なるべくたくさん、長い時間、しゃべらせてあげたい。

私も、前進したなぁ!(笑)

 

感情の共有はほどほどに

「悲しい経験は共有した方がいい!」

という風に受け取れることを、ここまでに書いていますが……

誰もが、そうではありません。

いつまでも、そうしていいわけでもありません。

……話し過ぎも、よくありません。

私の周りにそういう人がいるのですが、その方は、個人的な悲しい経験を、通常の仕事の最中に、しみじみと、事あるごとに喋っています。

心の深いところを暴露し続けるのは、それはそれで、自分自身との分離を招くように思います。

話すことが自分の立ち直りのために必要な時期があります。

でも、その時期が過ぎたら、話す相手を選ぶことが必要だろうし、その時には、自分の癒しのためではなく、相手のために話す、というように、目的も違ってくるだろうと思います。

中立的な心で自分と周りを見ることを忘れないで。

何事も、程々に、ですね。