薫は三月二日の昼下がり、大阪からあかつきにやって来た。素朴な風貌で、痩せたている。年齢は四十歳。
予約が入ったのは先週末のこと。あかつきへの滞在希望日が直近だったこともあり、事前コンサルは見送り、あかつき到着後に詳しい話を聞くこととなった。
健康に関する質問票から、その職業は医者であることが分かった。そして、あかつき到着後最初のカウンセリングの時に、救命救急士だと分かった。
肩くらいまでの長さの黒髪は、少しぱさついている。関西弁だったが、話をするスピードはそんなに早くなかった。健康診断的な異常はないものの、慢性的に疲労を感じており、あちこちの関節が痛いという症状を訴えていた。
「救命救急士というお仕事をしていると、生活のリズムはやはり不規則になりますか」
「そうですね、ムラがありますけど、仮眠っていうくらいの睡眠時間しか取れない時もありますね」
「食事の時間も、まちまちですね」
「ええ。食べれる時に、食べるって感じです」
食べている途中に患者が運び込まれてくることを知り、一口食べたサンドイッチをそのまま放置することも時折ある。
「職場では主に、買ったものを食べるのですか」
「はい。お弁当を持っていくことはまずないですね」
薫は言い切った。病院内にコンビニが入っており、そこで既製品を買うことが多い。
「カップ麺とかサンドイッチとか。それすら落ち着いて食べられないこともあります」
医者の不養生とはよく言ったものだ。
「簡単に食べられるものを、ということですね」
「そうです」
壮絶な日々を過ごしている割に、薫はごく穏やかな様子だった。というより、眠気が取れないままカウンセリングを受けていて、生気に欠ける、と言った方がよいかもしれない。
美津子はそんな薫に優しく話しかけた。
「薫さんの多忙さは、こちらでは分かりかねますが、それだけ、使命感を持ってお仕事をされているということですね」
薫は、しかし、うーんと唸って、
「使命感…っていうほど立派な動機があって、やってるつもりもないんですけどね」
「そうなんですか」
「ええ。研修医のころ、いろいろな科で研修させてもらい、救命に適正があるって言われて、まあやってみよかなーて」
それから、十年以上この仕事を続けている。
「なのでまあ、適性がないこともないんかなーと思います」
薫は淡々と話した。
「誰かの役に立つためにとか、大それた志を抱いてやってるわけじゃないですね」
自分が望んでいるかどうかに関わらず、人の役に立てる仕事をしているのは素晴らしいことではないか。杏奈は美津子と薫の話を聞きながら、お医者さんになる人というのは、土台の能力から違うように感じた。
それにしても、激務をこなして慢性疲労に陥っている薫が、アーユルヴェーダ施設の滞在中、ハイキングをしたいと希望しているのはどうしてだろう。
「リフレッシュ休暇みたいなのをもらったんですけどね」
薫は率直に答えた。
「趣味っていうほどのものもないんで、どうせ家で何もせず暇して過ごすのかなと思ってたんですよ。でも、テレビかなんかで、東洋医学の特集をやってたのかな。アーユルヴェーダっていう言葉だけは知ってたんですけど、そのテレビを見て思い出して、ああなんか東洋医学的な方法で癒されるのもいいなあと思って、いろいろ調べてるうちにここを見つけました。大阪離れるのも、そうしょっちゅうできることやないし、自然が多いところなら、登山などしてみるのもええなあと思いまして」
薫は理由をそのように述べた。
「では、この時期にご希望されたのは、花祭めがけてのことではないのですね?」
「あ、それも調べているうちに見つけました」
薫は興味があるようだった。
「愛知県では、有名なお祭りみたいですね」
「ええ、割と」
「機会があったら、行ってみたいなあと思います。でも、いきなり予約入れさせてもらったのは、さっき言ったとおりです」
偶然、リフレッシュ休暇を取れるタイミングが花祭の時期と重なっただけだ。
「分かりました」
美津子は頷いてから、薫に向かって微笑みかけた。
「これからのスケジュールですが、今日はアビヤンガという、オイルを全身にオイルを塗布する施術を行います」
関節に良いオイルを使っていく。痛みがある時、そこにはかならずアーマ(毒素)があり、経路(スロータムシ)の詰まりがある。浄化(ショーダナ)のオイルは過剰にアーマが蓄積している場合に有効であり、汚染されたスロータムシを綺麗にする。明日は、午前中がカティバスティ、午後がシロダーラ。明後日は、早朝に登山した後、フットマッサージ。
「施術後の様子を見ながら、必要に応じて予定を変更します」
「はい」
杏奈はメモを取った。美津子は今、施術の内容を決めた。そのため、杏奈もこの度のスケジュールを聞くのは今が初めてである。パソコンからウェブ版のラインを開き、沙羅にラインを送る。明日の午後は、沙羅が施術を担当するからだ。
「施術以外の時は、リラックスして過ごしてください」
その間も、美津子は薫に説明を続けていた。
「ここには、何もありませんが、何もない所で過ごすということが、とても良いリラクゼーションになると思いますよ」
薫は食欲旺盛だった。
グリーンピースライス、大根とスプラウト入りダル、芽キャベツのソテー、里芋ときのこのロースト。
夕食は軽めにというのがあかつきの掟だが、その前置きを忘れたかのように、もりもり食べている。
「おいしいですね」
水を運んできた杏奈に、薫は言った。薫の向かいでは美津子も一緒に食事を摂っていた。
「杏奈」
薫の空いたグラスに水を注ぐ杏奈に、美津子はおっとりと言った。
「薫さんに、三月の食事のコンセプトをお伝えしたら?」
「はい。今、良いですか?」
薫は口を忙しく動かしているところだったので、声を出す代わりにかぶりを振った。
杏奈は、お誕生日席に回り込んで、椅子に浅く腰掛ける。
「三月の食事のコンセプトって、どういうことですか?」
「心身を健康に保つために、季節ごとに、食事のポイントが変わるのです」
美津子は薫に分かるように言い換えた。
「へえ。それは興味深いですね」
季節限定のカップ麺とか焼きそばを買うことはあるが、正直、あまり変わり映えがしない。が、そういう次元の話ではないのだろうなと、薫は思った。
「年中同じようなものばかり食べてるんで、あまり考えたことのない話ですわ」
杏奈は苦笑いした。医者といえば、お給料がいいイメージだが、そのお給料で季節の変化を楽しむような食事や道楽を楽しむ暇もなく、日々を過ごしているのだろうか。
「三月から四月は、暖かくなって、自然界に、生命力にあふれた命が芽吹く時です」
木の芽、草花、山菜…
「旬のものを食べるのが良いので、春は、これらの生命力にあふれた軽い野菜を、むしゃむしゃ食べるのが良いです」
生命力は、アーユルヴェーダでは「プラーナ」と呼ぶ。新鮮な野菜や山菜は、プラーナが豊富である。
「サラダを食べたらええゆうことですか?」
「この時期は、生の野菜を食べることも丸切り推奨されないわけではありません。が、体質や体のコンディションにもよります」
野菜を食べる、というと、だいたいの人がサラダを思い浮かべるが、非加熱のものは消化がしにくいのが難点である。
「薫さんの場合はヴァータが優勢で、もともと冷たく、乾燥していて、軽い性質をもつ方なんです」
薫は頷いた。カウンセリングの際、美津子もそう言っていた。バランスするための原理原則は、「似たものが似たものを増やし、相反する性質がバランスをもたらす」である。
「ヴァータが強い場合は、火を通し油分を足します。できれば、サラダではなく、良質なオイルをかけた温野菜を食べるのが良いです」
この時期であれば、温野菜といえど、葉物野菜を入れるのが良い。葉野菜の苦味が肝臓(ヤクリット)を浄化してピッタを鎮静するからだ。この季節に優勢になるカパを鎮静する味でもある。
今薫が食べている豆スープに入っている、大根や、スプラウトも良いし、芽キャベツやグリーンピースも、この時期に良いものだ。他にも、カブ、ごぼう、小松菜、さやえんどう、春菊、菜の花、ふきのとう、山菜、みつば…この時期におすすめできる野菜はたくさんある。
「なるほど…」
薫は今食べているものを、改めて眺めた。
「無意識に食べてましたけど、季節のもの、いっぱい入ってたんですね」
「はい。お口に合いますか?」
「どれもおいしいです。こう、素材の味を感じるとゆうか」
新鮮な、出来立てのものを食べるということ自体が、薫には久しぶりのことだ。
「召し上がったら、月地区の花祭に行ってみましょう」
「いいんですか」
「ええ。食事の後、少し散歩するのは、消化のためにも良いんです」
「嬉しいです」
「ええ。でも、大分お疲れのようですから、無理はしないでくださいね」
薫はアビヤンガが半分ほど進んだところで、寝息を立てて眠ってしまったのだ。
薫はちょっと恥ずかしそうに笑みを浮かべた。
足込唯一の小学校のある月地区は、三月二日の十八時から、翌三日まで花祭を行う。月小学校は、月花祭の二日目は特別に休みになる。
花宿(花祭の舞台)は、花太夫を世襲している民家で行うのが、月の風習。
月小学校の校庭は開け放たれ、臨時の駐車場になっていた。美津子はエヌボックスを月小に停め、薫と二人で花宿へ向かった。杏奈はお留守番だった。
小学校から道路を超えると、そこには山間にひっそりと佇む民家がちらほら見られるが、ほとんど山の中、といって良い。夜になると森は黒く、暗くなり、外灯もまだらである。賑やかで明るい、夜の大阪の街とは大違いである。そんな山村の情景に、薫はどこか、淋しさと畏れを感じる。
「いつもは静寂に満ちているのですけれど」
先を歩く美津子が、静かに言った。
「今日は祭りの音でにぎやかですね」
確かに、さっきから笛の音や太鼓の音が聞こえている。それに混じって、男たちのものと思われる掛け声も。
「あの民家ですか」
薫は森の中に、こうこうと灯りがともる一軒の民家を垣間見た。
「そのようです」
「私みたいな外モンも、行っていいんですか」
「見物だけなら、誰でも出入りできます」
しかし、誰もが参加できるわけではない。祭りに参加できるのは、基本的にその地区に住んでいる男。今は範囲が緩み、その地区を故郷とするか、住人と関係のある男性ならば、事前の届け出をしていれば参加可能、ということになっている。地区ごとに参加者名簿も、前もって役所に提出する。土壇場で参加を決める場合も、運営者の了承を取らなければならない。
このあたりの民家は、一軒あたりがとても大きい。薫はまずそれに驚いた。花宿となるその民家の母屋は、縁側の扉が全て取り払われ、玄関も開けっ放し。
たくさんの人が出入りしているが、取り分け人だかりができているのは母屋の東側だ。笛や太鼓の音、男たちの掛け声も、そこから聞こえてくる。
「伝統的には、民家の土間が祭場になることが多いようですよ」
「土間…」
都会育ちの薫には、土間と言われてもよく分からなかった。
薫は人だかりの隙間から、中の様子を覗き込んだ。
土間とは、文字通り、土足で上がって良いスペースのことだ。昔の日本家屋でよく見られたつくりで、この家の場合、ここは炊事場であったらしく、部屋の隅には、もう使われなくなった釜が埃をかぶっている。土間の真ん中には、臨時に置かれたと思われる湯釜が置かれている。
天井には、白、赤、青、黄色、緑の五色の色紙を切って作られた「切り草」が下げられている。
男たちはこの湯釜の周りで踊っている(舞処(まいど))。壮年の舞い手が一人ずつ舞う。右手に扇、左手に鈴を持ち、扇を開いた時に鈴を鳴らし、閉じた時は鈴を握って鳴らないようにする。中心から四方へ向かい、前後にステップを踏んでいる。
テーホヘ、テホヘ
テーホヘ、テホヘ
掛け声によって、舞手と観客が一体となり、花宿は大変な盛り上がりだ。
ものすごい一体感である。ここにいる誰もが、祭りのことをよく知っていて、熱中しているように見える。この内輪の盛り上がりは、よそから来た観客が疎外感を抱く要因になるとよく言われるのだが、薫はそういった感慨は特別抱かず、中で何が行われているかよく見ようと首を伸ばした。太鼓の鼓動がドン、ドンと鳴る度に、自分の心臓もドクドクと鼓動を打つように感じる。
その頃、花宿より南西、道路沿いにある創作和食居酒屋「彩」では、本多翠が忙しく酒瓶を運んでいた。
「まったく、男たちはいい気なもんだねぇ」
酒瓶を割れないようにP箱に入れながら、翠は悪態ついた。
店は月花祭の時期だけ、二十四時間営業としている。
店の奥では、店にいる数名の客のために、姑である万喜が粛々と調理をしている。三角巾をつけた一人の若い女性が、万喜が作った料理をお客に運んでいる。
翠があくせくと、つまみのするめイカやら、裂きイカやら、みかんやら、袋入りのお菓子を車の荷台に積む中、その女性は特に急いだ感じを出さずに、お客に対応している。
「積み込み終わったよー!」
翠は花宿までの運搬をお願いするべく、その女性に向かって声を掛けた。
女性はくるりと振り向いた。横にぴょんぴょんとはねる、肩まで届く黒髪は、ところどころ金色のメッシュが入っている。
女性は三角巾を取ると、舌っ足らずな声で呟いた。
「せっかく、花祭に合わせて帰ってきたのになぁ…」
杏奈は二十二時頃、離れの寝室で布団の上に横になった。
この頃は部屋に暖房をつけるといっても、眠るまでの一、二時間で良くなった。
月花祭を見に行きたい気持ちもあったが、片付けもあるし、お風呂の順番が詰まるし、仕事もあるしで、留守番をした。仕事はインスタのアップと、キッチャリー教室の予約管理。
先日、羽沼からは、オンラインキッチャリー教室の枠が多いと指摘された。
─限定性を持たせた方が人が集まるよ。
開催側としては少人数で何度も開催するのは、効率が悪い。ぽつぽつと予約は入っていたが、確かに、日付はバラけてしまった。効率的な開催をめざすのは、四月からである。
杏奈はこのほかに、美津子と協働で行っている仕事─咲子と結衣へのフィードバックの作成─を少し進めた。
妊娠を望む女性には、望む時に、それが叶ってほしい。けれど、常に念頭にそれがあるのも、逆にプレッシャーなのではないか。今日、薫が美津子に連れ出されて花祭に行ったように、時には思いがけない楽しいことに、気持ちを移行させることも必要だ。
杏奈はフィードバックに連ねる提案事項を厳選した。あまり多すぎても、クライアントは混乱してしまう。
このように寝る間際まで考え事をしていたせいか、電気を消して横になった後まで頭が冴え、すぐに眠れなかった。
暗い天井に視線を向ける。
─母親が開設した利子のつかない生殖銀行口座を持って生まれ、最初に預けたものの一部が毎月使われることになる。
ふいに、美津子の言葉が蘇ってきた。多くの女性が、体内時計のプレッシャーを強く感じている。
杏奈は仰向けから横寝になって、体を少し丸める。
尾形と同じ部屋で過ごしていた頃、二人で寝ていると、お互いの体温で温まって、季節の変わり目でも薄着で平気だったし、窓を開けることすらあった。
脚をからませて、抱き合って眠った時の安心感…。
杏奈はかけ布団を手繰りよせ、自分と布団との間に隙間ができないように、体に密着させた。
─今年で二十八か…
体内時計を持っているのは、自分も同じ。タイムリミットまで、長い猶予があるわけではない。
小さな頃は、三十歳までに二人くらい子供を産んでいるものだろうと、漠然と思っていた。しかし、現実はそうではなかった。たとえ今すぐに、付き合う人ができ、運よく結婚までしたとしても、最初の子供を産む時、自分は何歳になっているのか。
─そもそもそこを最初に望むのは、間違いだぞ。
と、心の中で自分が言った。その自分の言葉に、杏奈は答える。
─分かっている。
その望みは、純粋ではないことも。
─それでも私は…
この思いにしがみついている。固執だと、執着だと分かっていて、なお。
─でも、それ以前に…
無事に産めるのか。
妊娠できるのか。
結婚できるのか。
心から愛せる人と出会い、その人に選ばれるのか。
自分は、誰かに選ばれるだけの価値ある人間だと思えるのか。
先のことを考えると、気が遠くなりそうだった。その想念から逃れるために、杏奈は硬く目を閉じた。
》》小説TOP
LINEお友達登録で無料3大プレゼント!
アーユルヴェーダのお役立ち情報・お得なキャンペーン情報をお届けします