第47話「救える命、救えぬ命」アーユルヴェーダ小説HEALERS

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 三月三日、薫が滞在して二日目。
 朝から加藤の指導のもと太極拳を行い、そのまま講師が美津子に変わって呼吸法、瞑想を行った。
「痛みのある場所があれば、そこに意識を向け、そこにある毒素を洗い流すイメージをしてください」
 瞑想の際、美津子はそうガイドした。
 薫には、昨日からギーを服用してもらっている。薫の訴えている関節の痛みは、ヴァータが乱れていてアーマ(毒素)が溜まっている場合、発生しやすい。ギーはヴァータの乱れを鎮静するのに良いものだ。体の深層深部まで浸透し、栄養を与え、毒素を巻き取り、汗や排せつ物と一緒に毒素を追い出す。
 薫はよく分からないまま、美津子のガイドに従い、イメージをした。管のようなものを思い浮かべた。そこに茶色い、どろっとした、ヘドロのような物体が張り付いている。美津子が思い浮かべるように指示した、小さなアシスタントたちに、そのヘドロを掃除してもらう。薫が思い浮かべたアシスタントは、なぜか子供じみた風貌の妖精だった。その妖精たちは、デッキブラシでヘドロをこすり、バケツに入れて、黄金の液体と一緒に排出経路へ流そうとする。しかし、取っても取っても、茶色いヘドロは、とめどなく溢れ出てくる。
─ああ。
 とめどなくあふれ出るヘドロをイメージしろとは、美津子は一言も言っていない。だからそれは、自覚なのだろう。あかつきの人たちがどんなに一生懸命、体の中を綺麗にしようとしても、自分がヘドロを生産している限り、それはなくならない。
 薫は午前中の施術前のカウンセリングで、瞑想中に浮かび上がってきたイメージを、そのまま美津子と杏奈に話した。
「問題はここを出た後、ヘドロを生産するようなものを、きっと自分は体の中に入れてしまうってことなんですよね」
 薫はあかつきに来て二日しか経たないというのに、もう日常に戻った時のことを考えている。
「あかつきさんで出してもらってるような食事を、毎日食べたいのは山々ですが、現実問題、そうはいかないですし…」
 自分の生活を振り返ってみても、自炊することなど不可能だ。せめて、コンビニで買うものをヘルシーなものにするか、食堂をうまく利用するくらいならできそうだが…
「食べ物については、そうですね。改善する余地はあります」
 このような食習慣では、近いうち体調を損ねてしまうかもしれない。
 杏奈は質問票をめくり、薫の勤務時間と、食べているものを交互に見やった。薫が救命医である以上、アーユルヴェーダが考える理想的な生活習慣をそのまま適合するのは不可能だ。だからせめて、無理のない範囲で、食生活を改善する具体策を組み立てる必要がある。
「食べ物以外に、体の中でヘドロを生み出すものってあるんでしょうか?」
「ええ。消化力が弱ると、ヘドロのようなもの…つまり毒素が蓄積しやすくなります」
 美津子は、薫のいうヘドロを、アーマ(毒素)と置き換えた。
「消化力を弱める原因は、食べ物だけではありません」
「たとえばどういうことが消化を弱める原因になるんですか?」
「食間を空けずに食べる、空腹でないのに食べる、早食いといった食べ方。不規則な生活習慣。ストレスの多い生活。不安や悲しみ、怒りといった感情…」
「ぐ。だいたい、あてはまってます」
 薫は肩をすくめた。
「食べ物だけじゃなくて、ストレスや感情も関係するんですね」
「そうです。食べ物もストレスも感情も、入ってきた時にその都度消化することが大事です。そうでないと、蓄積して、そこで悪さを起こすかもしれません」
「ははぁ…」
 薫は両手の指を組み、机の上においた。
 心臓の鼓動が、いつもより強く感じられた。昨夜、月花祭の花宿に響いていた、太鼓の音。太鼓のリズムが波動のように薫の心臓に響いて、薫は自分の心臓がドクドクと強く鼓動した、これより前の出来事を思い出してしまった。
「薫さん」
 美津子は、薫の表情を伺うように、顔を覗き込む。
「大丈夫ですか?」
「あ、はい」
「何か気になることがあれば、話してくださいね」
 薫はちらりと美津子の顔を見、それから視線を手の上に落とした。はあ、と薫はため息をついてから、唇を舐めた。
「昔は、救えない命を目の当たりにする度に泣いていたんです」
 薫は視線を美津子に向け、
「けれど、それも度々のことになると、涙も出なくなりました」
 再び視線を両手の上に落とした。その手は、硬く組まれたままだ。
「感情を消化できないまま、次の感情が押し寄せる。そんなことの繰り返しですわ」
 感情が消化できず、蓄積して、それが毒素になることがあるというのなら、自分の中できっと、そういうことは起こっていただろうと薫は思う。
「医者はみんな、感じていることかもしれませんけどね。いつしか、感覚が狂ったように感じるようになりました」
 悲しいと感じても、悲しいと感じていることに意識を向けなくなったのかもしれない。
「けど…この前ある知らせを受けて、さすがにもう、しんどいなぁって思いましてね」
「知らせ?」
「ええ」
 地元ではニュースになっていて、薫は看護師からそれを伝え聞いた。その時、薫の心臓はバクバクと強く鼓動し、気が付けば手や足に冷や汗をかいていた。
 ある母親が、自分の子供を殺害し、自殺した。その子供は、交通事故に遭い、救命に運ばれてきて、薫たちが助けた子供だった。その子供は命こそ助かったが、寝たきりになった。母親は三年間介護していた。介護するようになってしばらく経った頃から、夫は頻繁に実家に帰るようになり、子供の面倒を看ていたのは、実質その母親一人だった。そして、母親は子供の呼吸器のチューブを外し、その後自殺した。
「救命医は、その時運ばれてきた患者を助けることに、全力を尽くします。その時、その後のことまで考えていません」
 よかれと思ってその時命を助けた。しかし、その結果はどうであったか。
「でも、結局、二つの命がなくなりました」
 もし、子供が助かっていなかったら、命を落としたのは、一人で済んだかもしれない。
 杏奈は議事録を取りながら、鼻の頭がじんじん痛んだ。
 薫は、湧き上がってきた感情をごまかすためか、組んでいた両手を膝に置き直して、ため息をつくように笑った。
「自分の仕事の意味が分からなくなってしまいまして」
 ミスが続いた。実は、薫は、バーンアウトしかけていたのである。見かねた上司が、休暇を取るよう勧めた。
「だけど、一人でいると、余計悪いことを考えてしまいそうで…」
 美津子と杏奈は目を見合わせた。
 
 同じ日の午前中。
 足込町で最も人口が集中する野郷。その南東にある野郷公民館には、乳幼児を連れた保護者たちが集まっていた。
 小さな子供たちは、ままごとをしたり、おもちゃの車を走らせたり、絵本を読んだり、自分の思うがままに好きに遊んでいる。
 座敷にいる児童は総勢十名ほどだが、その人数でも大変な賑わいだ。
 保護者に混じり、野郷婦人会の面々─野郷に住む中高齢の女性数人─が支援スタッフとして相手をしている。
 野郷公民館はおやこの広場として、曜日決めで開放される。保護者はここで子供たちを遊ばせたり、子育て支援員として活動するスタッフたちに、育児の相談をすることができた。
 この日は桃の節句にちなんだプログラムが開催される、とあって、いつもより賑わっている。
 七瀬はおもちゃのキッチンで遊ぶのが好きで、さっきからマイペースに、フライ返しでお鍋の中を突っついている。
「あら、沙羅さん」
 そんな七瀬の後ろに座り、見守っていた沙羅に、一人の老婆が話しかけてきた。
「大鐘さん」
 沙羅は懐かしい人に会って、顔いっぱいに笑顔を広げた。
 七瀬はちょっと大鐘のほうを向いたが、やはり鍋の中をかき回すのに必死。
「お久ぶりです~」
 沙羅は、大鐘を足元から頭まで眺めた。
 婦人会で揃いのエプロン─桃色で、お腹の当たりに、虹と子供の絵が描いてある─を身に着けているが、その下はオープンカラーの白いシャツに、黒いスラックス。若々しい着こなしだ。髪の毛はさっぱりと短いシルバーヘア、唇には赤い口紅をさしている。
「大鐘さん、いつ見てもおしゃれですね」
「やだわ」
 大鐘はそう言ったが、まんざらでもないように手を振った。
「あなたも歳を取らないじゃない」
 沙羅はえへへ、と笑った。
「まーあ、二人目のお子さん?」
「ええ。七瀬、こんにちはって」
 七瀬は大鐘を見ると、恥ずかしそうに沙羅にしがみついたが、
「…こんちは!」
「あーら、元気だこと。こんにちは」
 大鐘はそこに両膝ついて、手を膝に置き、お辞儀をしてみせた。
「ここに来るの、久しぶりなんじゃない?」
「はい」
 沙羅は普段、あまり公民館を利用していなかった。
 四月から七瀬を保育室に預けられるなら、七瀬と二人で過ごす時間も、今後はそんなに多く取れない。そこで、思い出になるようなことには、積極的に参加したいと思ったのである。
 あかつきでの仕事は、いつもは午前中に引き受けているが、今日は快の迎えは両親に頼み、午後に仕事を入れた。
「土日にも他のプログラムで、ここを解放することがあるのよ」
「そうなんですか」
 たとえば先週までは、小学生を対象とした草鞋づくり、その前は、未就学児を対象としたバレンタインのお手紙づくりなどをしていた。
「だから、お休みの日は上のお子さんもご一緒にどうぞ」
「ありがとうございます。でも、すごいですね。小学生が草鞋づくり…ですか」
「そう。花祭で自分たちが履く草鞋ね」
「そんなの作れるんですね」
「ええ。器用な子はね。どんくさい子は、できないわ」
 相変わらず率直な口ぶりである。そう言ってから、大鐘は急に悪戯っぽい顔で笑った。
「でも人のことは言えないわね~。私も作れないから」
「そうなんですか」
 無難な相槌を打ちながら、沙羅は心の中では
─作れないんかい!
 と激しく突っ込んでいた。
「そ。私くらいの年代だとね、花祭の道具すら、女は作っちゃいけないって言われてたの」
「ああ…」
「そんな時代でも、関わりを持とうとした女性は技を覚えていて、次世代に伝承しているのよね」
「なるほど」
「ま、私はやらなくていいって言われたら、フーン、そう?ラッキー。って思って全然手伝わなかったわ。こういうおばあさんは役に立たないのよね~」
 大鐘は、別に言わないで良いことまで、つらつらと話した。

 それから一時間が経過した頃、今日のプログラム「おやこ料理教室」の時間になった。
 メニューは、花型に抜いた牛乳寒天を入れたフルーツポンチ。料理教室といいつつ、婦人会のメンバーがカットしたフルーツを、子供たちと保護者に器に盛ってもらうだけ。それも、既に各親子の取り分だけ、小皿に取り分けられている。
 七瀬は平皿に盛られたカットフルーツをスプーンですくって、慎重に、少しずつガラスの器に移している。缶詰の桃、みかん。フレッシュなキウイ、バナナ。
 同じ折り畳みテーブルの隣に座っている、七瀬より少し大きい男の子は、平皿を手でつかんで、一気にガラスの器に流し込んでいた。なるほど、子供それぞれやり方がある。
 沙羅と、その男の子の母親は顔を見合わせ、どちらからともなく笑った。
「シロップくださぁい」
 他の座席に座っていた、三歳くらいの男の子が誰にともなく叫んだ。すでに器に、フルーツと寒天を盛り終わっているようだ。
「はいはいはいはい」
 大鐘はどたどたと足音を立てながら、計量カップに入れたシロップを運んだ。
「これで足りるかしら」
「わかんない!」
 沙羅は大鐘の様子を遠目に見ながら、大鐘があかつきで働いていた時のことを思い出す。その挙動を小須賀に監視されては、叱られていた。
─危なっかしいからウロウロしないでください!
 が、ここではさすがに大人の役割を果たしていた。
「あ、これは入れちゃだめだよ」
 沙羅の隣の母親が、男の子が七瀬の牛乳寒天の平皿に手を伸ばすのを制した。沙羅は男の子の前には、牛乳寒天がないことに気が付いて、
「あれ、寒天ないですね」
 スタッフが配り忘れたのだろうか。母親は沙羅の方を向いて、
「この子は、乳製品にアレルギーがあるので、牛乳寒天は食べられないんです」
 沙羅はなるほどと頷いた。
 スタッフたちが、急にバタバタとし始めた。沙羅はその様子を不審に思い、大鐘に声をかける。
「ちょうど良いわ」
 大鐘はいきなり沙羅の腕を引っ張って、台所へ誘った。
 広場から廊下を挟んだ隣の部屋は、二つのコンロとシンク台があるだけの、小さな台所である。そこに、大鐘を入れて三人のスタッフと、沙羅たち母娘が入って、にわかに人口密度が上がる。
 七瀬は台所の隅の台の上で、作ったばかりのおやつを食べ始めた。
「ねえ、今日のシロップ、この缶詰のやつよね?」
 コンロの前に立つおばあさんが、シンクに置かれた空き缶をじーっと見ている。大鐘と同じシルバーヘアだが、大鐘ほど髪は短くない。背が低く、肩が少し内巻きで、顔だけが前に出ている。
「桃缶とみかんの缶詰のシロップを水で割って、シロップを作ってます」
 大鐘でない方のスタッフがそう答えた。
 参加者の子供の一人が、桃にアレルギーを持っていた。スタッフはたった今、それを知らされたのである。桃そのものは、その子のお皿に入れなければ済むのだが、問題はシロップだった。桃缶のシロップも入っているので、アレルギー反応が敏感な場合は、漬け液といえど、症状が出てしまうかもしれない。
 そこで急遽、その子の分のシロップだけ別で用意することになったのである。
 沙羅は三人の会話を小耳に挟みながら、七瀬の様子を見守りつつ、スマホでシロップの作り方を検索した。大鐘がそう頼んだのである。
「大鐘さん、とりあえず、このレシピで作ってみたらどうですか」
「ああ、そうね」
 とにかくも、その親子に早く変わりのものを持っていってあげるべきだ。
 大鐘は沙羅からスマホを預かった。コンロに向かおうとする大鐘は、しかし、背が低いおばあさんスタッフに阻まれた。
「いい。私がやる」
 おばあさんは釈然と言って、コンロの下の棚から小さな小鍋を取り出す。
 大鐘が驚きとともに、非難めいた表情をしているのであろうことは、大鐘の後ろにいて、彼女の顔を見られない沙羅にも想像がついた。
 このおばあさんは久保といって、大鐘とは犬猿の仲である。
「だから、最初っからシロップも手作りでって言ったのよ」
 久保は砂糖と水を火にかけながら、ねっとりとした口調で言った。自己流レシピでシロップを作るらしい。
 大鐘は沙羅の方を振り返って、目線を上げて白目になり、べえっと舌を突き出してみせた。沙羅は失笑するしかない。
「缶詰にしても、自然生活じゃもっと上等な缶詰があるのに」
 また、ぼそっと久保が言った。いつもにこにこ顔を絶やさない大鐘が、天敵を見るような目つきで久保を後ろから凝視した。
「こういう安い缶詰にはね、添加物が多いのよ」
 久保は缶詰の空き缶を持って、ラベルをまじまじと見た。
「沙羅さん、ありがと。お嬢さんと一緒におやつ召し上がって」
 大鐘が沙羅と七瀬に声を掛けた。二人を元の席まで送り届けながら、
「やっすい補助金の中から工面しないといけないんだから、材料なんてこだわってられないわ」
 こそこそと、吐き捨てるように言った。
「自然生活って何ですか?」
 沙羅は大鐘に訊いた。
「生協よ。添加物や農薬に厳しい基準をもうけて、国産食材にこだわってますっていうのがウリなの。別に私は、自然生活に文句があるわけじゃないけど、自分がそういうのに気をつけてますっていうの、他人に押し付けないでほしいわね」
 大鐘は声を落として、沙羅に耳打ちした。
「あのおばあさん。嫌味ったらしくて嫌な人なのよ」
 小さな婦人会の中でも、人間関係はいろいろらしい。そんなバックヤードのやり取りとは裏腹に、広場では親子がわいわいと、和やかにおやつを食べていた(一部では荒ぶる子供とそれを抑える保護者との戦場になっていた)。
 子供がまだ乳飲み子である親にも、フルーツポンチが振舞われている。
「なにかあったんですか?」
 隣の母親が、こそっと沙羅に尋ねた。沙羅は声を潜め、ことの経緯を簡単にその母親に明かした。
「桃にもアレルギーある子、いるんですね」
 母親は、自身の子供が食物アレルギーを持っているためか、同情するような顔になった。
「結構いるんですよね。前この子を入れてた保育園でも、乳製品と卵はアレルギーの子が多いんで、給食には使われていませんでした」
「そうなんですか。前は、町外にいらっしゃったんですか?」
 足込幼稚園では、除去しているのは卵だけなので、沙羅はそう思った。母親は頷いた。
「神奈川に住んでたんですが、私の地元がこっちで、最近引っ越してきました」
「へえ、神奈川から。ご主人も?」
「はい。夫の実家は上沢なんです」
 ユーターンしてきたというわけだ。聞くと、どちらもテレワークで対応できる職種で、子育てしやすい環境の方を選んだということだった。
「自分たち二人もアレルギー体質で、この子もそれを受け継いでいるので、住む環境も考えなきゃなーって」

 おやつの時間が終わると、自由解散となった。そのまま遊んでいてもいいし、帰ってもいい。
 沙羅は隣の母親と喋っていたので、器を台所へ戻しに行ったのが、ほとんど最後になった。
「ごちそうさまでした」
 シンクで洗い物をしているおばあさんに声をかけた。それは久保だった。
「ああ、その棚に置いておいてね」
「はい。七瀬も、ごちそうさまでしたって」
 七瀬は、しばし久保をじーっと見つめた後、
「ばいばい」
 と言って、手を振った。
「お家に帰ったら、お昼ごはんもちゃんと食べるのよ」
「そうだね、ちゃんと食べようね」
 大鐘からの前評判の割には、今目の前にいる久保は善良な顔つきをしていると、沙羅は思った。
 久保はきゅっと蛇口を締め、ハンドタオルで手を拭きながら、しゃがんで七瀬の顔を覗き込んだ。
「可愛らしいお嬢さんね。おいくつ?」
 七瀬は、急に怖気づいた様子で、沙羅の足に縋りついてしまう。
「二歳三か月です。こら、七瀬」
「そう。まだまだこれからね。二人目は?考えてらっしゃるの?」
 今のご時世、こういうことを聞くのは憚られるものだが、久保は実に自然に尋ねた。
「いえ、この子が二人目なんで」
「あらそう。上のお子さんは?男の子?女の子?」
「女の子です」
「そう。姉妹なの…」
 久保はもう一度、七瀬の顔を見降ろした。
「いいわよね、姉妹って。私の子供もね、姉妹だった」
 そう言うと久保は、しんみりとした表情になった。
「私ね、子供四人産んでるのよ」
「すごい」
「二男二女」
 久保は、それを誇りに思っているのか、堂々と胸を張って言った。こんな小さなおばあさんが、四人も子供を産んだとは思えなかった。
「だけどね、最初の子供…長女は、ニ十歳になる歳に交通事故で死んじゃった」

 公民館を出ると、沙羅はジェットコースターのように、目まぐるしく動き回った。七瀬を実家に送り届け、ご飯を食べさせ、自分もご飯を食べると、休む暇もなくあかつきへ移動した。
 到着した頃、ちょうど薫は客間で休憩中とのことで、沙羅は美津子から彼女の状態について説明を受けた。
 そして今、沙羅は二階の施術室で、シロダーラの前のオイル塗布をしているところである。
「背中にオイル塗布していきます」
 沙羅はそう呼びかけた。
 薫は、施術中に積極的に喋りたがる人ではなかった。そのため、沙羅も黙々と施術を行っている。
 その頃、一階のキッチンでは、杏奈が忙しく料理をしていた。食材を調理台に置き、刻み、鍋をかき混ぜ、スパイスを調合し、使わない野菜を冷蔵庫に戻し…
 午前中は、昼食と栗原花祭の炊き出しの仕込みをした。今は、明日のお昼ご飯の仕込みしている。明日は早朝から登山する予定なので、昼食の準備をしている暇がなかった。小須賀はあかつきに出勤するが、足込温泉に納品する弁当の準備で忙しいことだろう。
 これだけ一気にいろいろなものを作ると、ミスが起こりがち。杏奈は事前に、ノートにやるべきことをメモし、終わった作業から、丸をつけていった。丸がついていない項目も、あとわずか。
 杏奈は少し、作業を急いでいた。明日薫が帰るまでに、やっておきたいことがあるのだ。
「薫さん、どんな様子?」
 沙羅が一階に降りてくると、美津子は尋ねた。
「シロダーラに入った途端、寝ちゃいました…」
 沙羅の言葉に、美津子は少し笑った。今、薫は発汗の段階に入っているのだが、寝たままだ。
 アフターカウンセリングは書斎で行った。
「すみません、私、後半意識が落ちてしまって…」
 測定器の結果を聞き終わると、薫はそう言って頬を掻いた。
「いいんですよ」
 沙羅は柔和な口調で答えた。正直、シロダーラ中寝てしまう人は少なくない。
「頭がすっきりした感覚はありますか?」
「あるような、ないような。なんだか、ぼーっとしています」
 あまり表情豊かなほうではない薫は、淡々と言った。率直に、正直にものを言う人だ。
「そうですか。頭皮にも、たっぷりオイルが染み込んでいるので、ちょっとぼうっとするかもしれないですね」
「はい」
「失礼します」
 杏奈は書斎にハーブティーを運んだ。杏奈が書斎を出て行き、しばらく体調に関する質問をした後で、
「コンサルの内容をお聞きしたのですが、薫さんは救命救急士なんですね」
 沙羅はさりげなく話を変えた。
「救命に運ばれてくる患者さんって、多いんですか」
「ええ。特に感染症の時なんかは激しくて。もうわんこそば状態でしたわ」
─わんこそば…
 沙羅は心の中でその言葉を復唱し、苦笑いを浮かべた。
「大変なお仕事ですね」
「ええ、まあ…」
「感情が揺さぶられることも、多いですか?」
 薫はちらっと沙羅を見た。おそらく、このセラピストにも先ほど自分が話した事件が共有されているのだと思った。
 沙羅はこのことに言及して良いか迷ったものの、美津子に相談をした上で、こちらから話を引き出すことにした。なぜなら、薫はこちらから聞かなければ、自分のことを話すようには思えなかったからだ。
「そうですね…そういうことが積み重なって、今、どうもバーンアウトしかけてる感じですね」
 そういう薫の口調には感情がこもらず、やはり淡々としていた。どこか他人事のようでもあった。すごく思い詰めているようには見えないが…
「運ばれてきた命は救うことが当然だと思ってました。時にはね、もう助けてくれるなーって叫ぶような、浮浪者の男性とかもいるんですが」
「はぁ…」
「正直、運ばれてきてほしくないような患者もわんさかいます。このまま死なせた方がええんちゃうかなっていう患者も…」
「…」
「でも、子供の場合は違います。助けるのが正。そこに迷いはなかったんですが…」
 薫はそこまで話すと、ふうーっと息を吐いた。
「自分の仕事の意義を疑ってしまうのは…キツいですよね」
 呟くように、薫は言った。沙羅は薫の顔をまっすぐに見て頷いた。
「命を救うのと同時に、助からなくても、よくあるケースの一つで終わらせてる自分もいて、正常な感覚とか感情とかが分からなくなったように感じていたんですけど、今となっては、いっそ何も感じない方が良かったと思いもします」
「どうしてですか?」
「考えてしまうようになったんです。ここでこの命を救ったら、その後、この人はどうなるのか。周りの人に、どんな影響を与えるのか」
 それを考えたところで、自分のやるべきことは、変わらないというのに…。
「そうなんですね」
 薫はその実、かなり混乱しているのだろう。通常であれば、より良い見方ができるようなことでも、身体的にも精神的にも疲労が蓄積していた場合、そうできないことがある。
「私からすると、救命できるお医者さんはすごいと思ってましたが…やっぱりつらいこともたくさんあるんですね」
 沙羅は背筋を伸ばし、すうと息を吸うと、ちょっと笑顔を浮かべて、
「私、小さな子供がおりまして、今日も実は午前中、地元の集まりに子供と一緒に参加してきたんです」
「そうなんですね」
 薫は、話題が急に変わったことにも嫌な顔をすることなく、微笑を浮かべて相槌を打った。
「婦人会のおばあさんたちがおやつの世話をしてくれるんですけど、そのうちのおひとりが、交通事故で娘さんを亡くしておられました」
「そうでしたか」
「その方が仰っていたこと、お話しても良いですか?話したからといって、私から何か言えることがあるわけではないのですけれど」
 薫は顔色を変えず、
「はい」
 と返事をした。沙羅は彼女にハーブティーをすすめ、先ほどの久保との会話の一旦を話した。
─生きていればねぇ…。
 と、久保は交通事故で亡くした娘のことを語った。
 眉尻が下がり、眉根に皺が寄っていた。
─自分がこの歳になっても、考えるの。あの子が生きていれば、この子のように可愛い孫や、ひ孫が、あと何人いたんだろうって。
 沙羅は、残念でしたねと言う他、言葉が見つからなかった。久保は、今までどのくらいの人に、この話をしてきたのだろうか。おそらく多くの人に、同じことを語っているに違いないのだが、この時もまだ、目に光るものを宿らせていた。
─時間が経って、少しは悲しみが薄らいだと思っていたけど、ことあるごとに、思い出すの。これが、母親なのよねぇ。
 久保は細い目をこすった。
─娘のお誕生日には、家族で料亭へ行ってお食事するんだけど、その料亭の方は、ちゃあんと、娘の席も作ってくれるの。お嬢さま、今日でおいくつになられたんですか?って。そのたびに、はぁ…やっぱり思い出して、泣いちゃうわ。
 突如として暴露された話を聞いて、沙羅は居たたまれなくなった。
─なんというか、本当に、悲しい思いをされてきたんですね。
─ええ…あらやだ、ごめんなさいね。
 久保は涙をぬぐって、健気そうに笑って見せた。
─もう取り返しがつかないと分かっていても、どうしても思ってしまうの。
 あの日、家を出て行く時間がもう少し早ければ。あるいは遅ければ。その道を通らなければ。もっと近くに病院があれば。
 娘は、頭を強く打っていた。
─助かっても、後遺症が残る可能性が高いと言われてた。それでも私は、娘には生きていてほしかった。
 久保はそのように話をした。
 薫は華奢なティーカップをソーサーに戻した。ハーブティーは、半分ほど飲み終わっていた。
「どっちに転んでも、悲しんだり、つらい思いをすることはあるかもしれませんね。けれど、本人やその家族がその先も、幸せな時間を積み重ねられる可能性がある以上、その命を救う仕事は、尊いものだと私は思います」
 そう言うと沙羅は、肩をすくめた。
「私の感想みたいになってしまってすみませんが」
 薫は沙羅がそう言うのを聞くと、苦笑いのような、愛想笑いのような笑顔を浮かべて、
「まあ、多くの場合は、救えて良かったと思いますが」
 実際、感謝を述べに、後日病院まで来る患者と、その家族もいる。
「結局、結果論なんですよね」
「そうですね」
 沙羅は頷いた。
 沙羅だって、もし自分の大切な人の命が危ないって思ったら、なんとしてでも救ってほしいと思う。救命できる医者は素晴らしい存在だと思う。
 だからといって、薫がこれからもその仕事をするよう鼓舞することはできない。それは薫が決めることだから。

 

 

 


 

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