「アレルギーですか…」
杏奈は沙羅と書斎のソファに並んで座っていた。今日はリフレッシュ保育ということで、沙羅は七瀬を足込保育園に預けており、午前中に二人そろって美津子から臨床研究の課題をもらったところだった。
沙羅がもらった事例は、昔あかつきに通っていたCさんという女性のもの。花粉症、アトピー性皮膚炎、喘息など、典型的なアレルギー疾患を併発している女性だった。どのような施術、生活指導をあてがうかを考えよというのが、美津子からの課題。この事例を見た時、沙羅は桃の節句の日に参加した、公民館でのこども料理教室を思い出したのである。
「今は昔よりも食物アレルギーを持つ子が増えたって言いますよね」
沙羅の娘たちは、幸運にも今のところ食物アレルギーはない。しかし、身近なところでは、祥子の長男・大地は七瀬くらいの時、白身の部分が半生状態だった目玉焼きを食べ、発疹が出たとのことである。
野郷婦人会の、自然に溢れた山間部で育った高齢の女性たちは、そうした最近の事情に疎く、うまく対応できかねている節があった。
「一人でも、牛乳がだめ、卵がだめってなると、そういうものを使ったお菓子は出さないんですか」
「そうですね…」
前回のメニューはフルーツポンチだったので、特定の食物だけ除去することができた。しかし、全体に混ぜ込まれてしまっているものは、除去しようがない。となると、十かゼロかという話になってしまう。みんなが食べている中で、自分だけ食べられないというのは、あまりにも可哀そうだ。
「うう…」
沙羅は、娘がそんな状況に置かれた場面を想像して、首を振った。想像するのも忍びない。
「私もアレルギー体質だから、他人事じゃないかもです」
杏奈はそう独りごちた。
「杏奈ちゃんにも、何か食べられないものがあるんですか?」
「そういうわけではないのですが」
決定的な症状が出るものはないが、おそらく水面下で悪さをしているものもあるだろう。
「昔から皮膚の疾患にかかりやすくて。小児喘息だったし、ちょっと花粉症もあります」
「へえ。今はとっても健康そうですけど」
「成長したら喘息は収まりました。まだ激しい運動をした後、ヒューユーいう音がしますけど…花粉症も、今年はなんとか」
けれど未だに、指には湿疹が現れる。それでずっと、小須賀が洗い物や、手が痒くなるような食物を扱うのをかって出てくれているのだ。
「だから、沙羅さんがどういう考察をされるか興味深いです」
「いやいや…杏奈ちゃん。プレッシャー」
沙羅は大仰に口を押えてのけぞった。
しかし、沙羅は冗談ではなくプレッシャーに感じていた。この一回りほども年下の新星は、すでに美津子からの臨床教育をいくつも受けているのだろうから。その差が浮き彫りになるかと思うと恥ずかしかった。
けれど、沙羅は元来、人と自分を比べて卑屈になるような性格ではない。スタートを切れただけでも、今は嬉しかったし、やる気に満ちていた。
「そういえば、あかつきの料理には特定の食材が入っていませんよね」
沙羅はふと思い出したように言った。それは、消化力を損ねないようにと、美津子が下した苦渋の決断である。
「やっぱり、グルテンを摂らないと、胃腸の調子って良くなるんでしょうか」
娘たちはパンが大好きだが…と沙羅は気になっている。
「グルテンフリー、流行ってますよね」
「さあ…人によりますね。なんでもですけど」
「あかつきは、パンを出さないでしょう?杏奈ちゃんはそれで、体調良くなりました?」
杏奈は首を傾げた。正直、あかつきに来てから食べなくなったものは、パンの他にもあるし、生活習慣も以前とは異なっている。グルテンを摂らなくなったこと以外の変化がある以上、単純にはその影響を図れない。けれど、明らかに以前との差はあった。
「お腹の張りはほとんどなくなったんですけど。でも、グルテンだけが理由じゃないと思います」
「へえ。他にはどんなことが効いたんですか?」
沙羅は興味深々で身を乗り出した。
「発酵したパンを食べないことですね」
「発酵したパン?」
それは、結局グルテンフリーと同義ではないのか。
「小麦のパンがだめなら米粉のパンを食べればいいじゃないと思って、一回米粉のパンを作ったことがあるんです」
イーストを使った米粉食パンだ。
「でも、イーストがガスを発生させるのか、米粉の食パンを食べた後、お腹が張ってしまって…」
美津子も、同じ感覚があったようだ。それ以来、杏奈は米粉の食パンを作るのを控えた。
「私の作り方が良くなかったかもしれないですけどね。ただ、チャパティやロティを食べても、お腹が張ることはないんです」
チャパティもロティも、原料は小麦や全粒粉である。にも関わらずお腹が張らないのは、膨張剤が入っていないからかもしれない。このことがあって、杏奈はアーユルヴェーダが「発酵したパン」を勧めない理由を、身をもって知ったのだ。
「面白いですねえ。イーストがお腹の中で空となったってことですか」
空は、アーユルヴェーダが捉える五大元素の一つで、ヴァータを構成する要素である。ここにも、ヴァータ体質の人にはパンが勧められない理由がある。似たものが似たものを増やすのだ。
「あとは、沙羅さんの施術のモニターになっている時に、反り腰を指摘されて…」
「ああ」
そんなこともあったなと、沙羅は思い出した。杏奈はお腹を引き上げ、おしりのしっぽを下げるイメージで、姿勢を正す努力をし続けたところ、お腹が前よりもずっと平坦になったのだ。膨満感を感じることも少なくなった。
「沙羅さんのおかげです」
「えー、よかった。嬉しい~」
沙羅は満面の笑みを浮かべた。
「でも、時々パンが食べたくなるんですよね」
杏奈はスーパーのパン売り場をあまり見ないようにしているが、それでも時々、こっそり買って食べたくなる。
「うーん。おいしいですよね」
沙羅も毎日ではないが時々パンを食べている。
「だから、この前ちょっとパンみたいなものを作ってみたんです」
「パンみたいなもの?」
「はい。ベサン粉って知ってますか?」
「あ・・・スクラヴで使うやつですか?」
ベサン粉は、ひよこ豆を粉砕した豆の粉のことだ。
「料理にも使えるとは知ってましたけど、使ったことはなくて」
「そうですか。ひよこ豆を入れると、米粉だけで生地を作るよりも、膨張性が良いんです」
「それで、パンができたんですか?」
杏奈は首をひねった。グルテン独特の、パンらしい伸びはない。甘くないパウンドケーキのようなものだったといえる。しかし、それは一つの発見だった。どうやら、ひよこ豆には卵が持っている役割を代替する性質があるのではないかと予想している。米粉で生地を作る時よりも、乳化させやすく、膨らみが良い。もっとも、生地がぼそぼそと乾燥してしまったので、改良が必要だが。
「でも、この粉を使えば、小麦なしで色々なお菓子が作れるんじゃないかと思って」
そうしたら、クライアントにも間食の提案の幅が広がる。
「クライアントのほとんどが、間食をしているじゃないですか」
だいたい市販の甘いお菓子や、塩辛いスナック菓子。
「一気にやめさせるか、ヘルシーな間食に置き換えられたら理想ですけど、そうはいかない場合もあります」
「そうですね」
「だから、ワンクッションとして、市販のお菓子に似た、しかしよりヘルシーなお菓子を提案できたらと、前々から思ってたんですよね」
「それいいですね!」
「まあ、美津子さんはあまりいい顔しないんですけどね」
杏奈は力なく言った。美津子の大賛成が得られないというのは、杏奈にとって一番の気がかりであった。
しかし、沙羅は力強く頷いて、
「美津子さんはほとんど聖人ですから」
その影響で、杏奈も常人とは違う食の見方をしつつあるように、沙羅には思えるのだが。
「でもほとんどの人は、そうじゃありませんよ」
お菓子やパンが大好きだ。
「ちょっとでもヘルシーに、かつ満足感のあるお菓子があるんだったら、みんなそれを知りたがると思いますけどね」
「そうですかね…」
料理やお菓子作りが好きであれば、作ってくれる人もいるかもしれない。
「それに、ベサン粉?すごい発見じゃないですか!」
小麦や卵が食べられない子でも、米粉とひよこ豆の粉なら食べられるかもしれない。
「それでお菓子が作れたら、こども料理教室で教えてほしいです」
きっと、母親たちも知りたがるように思う。
「じゃあ、おいおいですね」
こども料理教室なるもので教えるかどうかは別として、そう言われると、杏奈も開発に前向きになった。
「ところで、杏奈ちゃんは、どんな事例をもらったんです?」
沙羅は杏奈の持っている健康に関する質問票のコピーを覗き込んだ。
「まだ詳しく読んでいないのですが…糖尿病と甲状腺機能低下の女性の案件です」
杏奈は質問票を掲げて、ふうと吐息した。正直、未知の領域だった。このクライアントに対し、どんなアプローチを美津子がしたのかは伏せられている。
「難しそうですね」
沙羅は眉根を寄せた。
「杏奈ちゃんは、こういう事例に対してアドバイスを考える時、何を参考に見ますか?」
「多くは書籍なんですけど、海外の論文を見ることもあります」
その方が、最新の、より詳しい事例に出会えることがあるのだ。
「美津子さんは、一般論を探すより、その人の生活習慣を見ろっていうんです。だから、参考までにですが」
「なるほど。確かに、その人自身を見なければですけど、まず似た事例から学びたいですよね」
「そうなんです」
「ネットに情報があるんですか」
「はい。でも、ほとんど海外のサイトです」
しかも、本格的なアーユルヴェーダの治療法をあてはめた臨床実験が多い。あかつきは、クライアントが日常でできるアドバイスをするのだから、そのアプローチをそのまま組み入れることはできなかった。
「沙羅さんは、どういう調べ方をしますか?」
「うーん、案件にもよりますけど、身近に同じ症状を持っていた人がいて、改善した例があったら聞き取りもしてみたいと思います」
「いいですね」
自分にも、交友関係が広ければそういうことができるだろうが、いかんせん希薄である。
「三時には七瀬を迎えに行かなきゃいけないから、それまでに私も勉強しようかな~」
「大変ですね」
やろうと思えば時間を無限に使える杏奈と違って、沙羅には他に優先すべきことがある。
「そうなんですよ。今日は粟代で花祭があるので、快はそれに連れて行けってうるさいし」
まだ花祭は続いているのだ。杏奈は先日、どっぷりと花祭に参加した後なので、正直もう飽きたが。
「瑠璃子さんや祥子さんも来るんですけど、杏奈ちゃんも行く?」
「うーん…」
杏奈はちょっと考えて、
「私は…やめときます」
花祭の音楽は耳の中に三日は離れない。一日中、朝から晩まで(正確には晩から晩まで)見たらそうなる。
「実は、すでにあの音色が耳から離れないんです」
「あれ?佐藤さん、健診まだまだ先ですけど…どうかされました?」
「いえ、今日は…娘のほうなんです」
松下クリニックの受付。
美穂は、十三歳の娘・莉子の背中をそっと押した。いかにも不承不承に見えるその様子から、莉子が母親に引っ張られてここに連れて来られたのが分かった。
「問診票書いてお待ちくださいね」
母娘二人は、待合の一番後ろに座り、問診票は美穂が書いた。
「最後はいつだった?」
「覚えてないよ」
「莉子」
美穂は怒ったような顔を莉子に向ける。莉子は眉間に皺を寄せて、問診票に見向きもしない。
「ほっとけばいいよ。生理来ない方が楽だし」
「そういう問題じゃないの」
美穂は問診票を書き進めながら、ハンカチで口元を抑えた。美穂は今、妊娠している。
「先生、次、ここに通ってる妊婦さん、佐藤さんの娘さんみたいですね」
その頃、診察室にて、順正は前の妊婦の情報を素早く入力していたが、看護師にそう告げられると、左手を口元に当てた。
「娘…」
初診の患者である。重い案件でなければ良い。順正は無意識にそう思った。
美穂は中待合で待っている間、ドキドキしていた。診察が必要な当の本人である莉子は、頑強に不機嫌な様子を保ってはいたが、自分の番が近くなるにつれて、その表情にどこか心配そうな翳りが表れた。
─内診台に上がるのだろうか…。
莉子は、まだ十三歳。あれを受け入れられるのか、美穂は心配でならない。
「お母さんは待合でお待ちくださいね」
同席できないことを、美穂はそこで初めて知った。
莉子は一人で医師の前に座ると、急に不安になった。
医師は思っていたより若かった。それどころか、莉子が今まで出会ったどの男性よりも見てくれが良い。しかしそのことは、逆に莉子の羞恥心を煽った。ほとんど絶望だった。こんな人から、診察を受けなければならないなんて。
順正は問診票の内容をパソコンに入力しながら、目の前の少女を横目で観察した。年頃の娘にしては、飾りっ気がない。灰色のトレーナーに、ジーンズ。髪はとても短い。
「いつから生理が来てないか、分かりますか」
そこは空欄になっている。
「覚えてません」
莉子は、両手を強く握りしめていた。
「少なくとも、今年に入ってからは一回も来ていません」
順正は莉子と向き合う体勢になり、表情を和らげた。莉子の側には、彼女を見守るように、中年の看護師が控えている。
莉子は上目でちょっと順正を見て、すぐまた視線を下げた。
「これより前に、生理が長い間こなかったり、すぐにきたりしたことはありますか?」
「…分かりません」
莉子は自信なさげに、消え入るように言った。
おそらく、本当に分からないのだろう。月経が何日おきに来ているかなど、気にもしていなかったのだ。
─初潮は十一歳か。
順正はパソコンをちらっと見る。
「佐藤さん。正常な生理周期というのは二十五日から三十六日くらいです」
「…」
「でも、佐藤さんくらいの歳頃では、周期が安定しないこともあります」
初潮を迎えた後、排卵周期が確立されるまでには三から五年を要することもある。最初の数年は排卵されないまま出血が起こることがあり、何らかの月経異常がみられることもよくある。
「三か月以上生理がこないことを、続発性無月経といいます」
順正の低い声には、無機質さや冷たさではなく、穏やかに諭すような響きがあった。
莉子はすうっと息を吸った。
「それは、病気ですか?」
「多くの場合、体重が急に減ったり、逆に増えたりすること、激しいスポーツや精神的なストレスが原因になります」
莉子はちょっとほっとした。
─じゃあ、病気ではないということ?
「でも、病気が隠れていることもあるので、検査をして異常がないか確認します」
莉子の心臓はドクンと大きく鳴った。怖い検査だったらどうしよう。
「性交経験はありますか?」
順正はさりげなく聞きながらも、莉子の反応を視界の隅でしっかりとキャッチした。
「ありません」
はっきりとした返事だった。
経腹超音波検査の後、莉子は個室に移された。特に子宮や卵巣に異常があるというわけではなさそうである。
「今日は誰が出てた…?」
「ん?」
看護師の田中が首を突き出して、耳を澄ませた。順正の独り言なのか、何かを自分に訊いたのか、よく分からない。
「助産師は…午後は誰が」
「岡本さん、森さんです」
「…岡本だな」
若くて元気なタイプの森と、落ち着いた雰囲気の岡本。今の莉子の様子からして、その二人だったら岡本の方が適任のように思える。
「先生、呼びました?」
田中に呼ばれて診察室に入ると、岡本は静かに尋ねた。順正より年上だが、それを忘れるくらい、彼女は若々しい。順正の後ろ姿を見下ろす目には、長いまつ毛がかかっていた。
莉子の状態を一通り説明すると、順正は岡本に、問診票と彼自身の所見を印刷したものを渡した。
「佐藤さんの問診お願いします」
そこには、問診時に聞いてほしい内容がメモしてあった。
経験豊富な助産師ならば、問診で聞くことくらい分かっているし、自分のやり方だってあるというのに。
─ご丁寧なことね。
自分のほうを振り返りもしない医師から、岡本はバインダーを受け取った。
美穂はふぅ…とこっそりため息を吐いた。
その後、莉子と一緒に診察室に入って、柴崎医師から診察結果と、今後の治療方針について説明を受けた。莉子の場合、子宮や卵巣の異常は認められないので、ホルモン補充療法(内服薬の投与)にて経過観察することになった。
そして、助産師からは生活指針についても話をされた。周りの変化が大きく、知らず知らずに心配や不安を抱えることもある。親子でよくコミュニケーションを取って、なるべくストレスを溜めないようにと…
美穂は、莉子にかける言葉が見つからなかった。自分の月経周期はきちんと把握していた。新しい夫との子を望んでいたために。が、娘のことは無頓着だった。娘の洗濯物の中に、しばらく月経用の下着を見ていない…と思い、状況を尋ねたのが事の発端だった。
問診で、莉子は何を話したのだろう。
─私と夫のことがストレスになってるって言ったのかな…
それから、お腹の中にいる子供…
最近、日が長くなった。しかし、クリニックを出て家に向かう頃には、もうすっかり日は落ちていた。
美穂は車のハンドルを握りながら、後部座席にいる莉子の姿を、バックミラー越しに見た。
赤ちゃんだった頃の莉子。
危なっかしいよちよち歩きの頃の莉子。
あどけない笑顔で抱っこをねだって来た莉子。
元気な小学生だった莉子…
どの瞬間を切り取ってもいとおしい。何よりも大切な娘。娘のことを思って、様々なことを選択してきた。けれど、その娘は、自分の選択と行動によって、今、ストレスを抱え込んでいるのかもしれない。
ハンドルを握る美穂の手に力がこもった。唇をぎゅっと結んで、美穂は涙を流すまいと必死だった。
粟代花祭は午後四時頃、幕を開けた。
沙羅は夕食を済ませてから、母親に花宿まで送ってもらい、二人の娘たちと一緒に祭りを見ることにした。
今夜は満月で、いつもよりもひと際夜空が明るい。
「瑠璃子さん」
沙羅は人だかりから少し離れたところに瑠璃子たち母娘の姿を見つけ、娘二人の手を引きながら歩み寄った。
「ココちゃん!」
抱っこしていた万里子が、急に身体をジタバタさせたので、
「いたた…」
瑠璃子は急いで万里子を下ろした。その拍子に、もともと痛めている右肩から首筋に違和感が走り、瑠璃子は手で違和感のある領域をさすりながら顔をしかめた。
粟代花祭は、農作業のアドバイスをしにあかつきを度々訪れる老爺・柳の家が花宿となっていた。
「てーほへ、てほへ」
今日の万里子は、動きやすそうな黒いパンツに、黒と白の格子模様のトレーナー、お団子という姿だった。最初こそ駆け寄ってきたものの、同い年の快と遊ぶより、掛け声をあげながら体を動かすことのほうに夢中である。
「明日、湯の舞に出させてもらえることになって」
演目をする女子としては、最年少ということだった。
─お母さん似なんだな。
と、沙羅は思う。万里子は、お転婆で、気が強く、男勝りだ。そしてとても可愛い。少し底の厚い靴を履いているので、もともと快より背が高いが、いっそう大きく見える。長い手足。その線をはっきりと映す服装で、伸びやかに踊る万里子は、都会のダンススクールに通っている子のように見えた。
二組の母娘が民家の片隅でおしゃべりに興じていると、小さな男の子二人が全力疾走でこっちに近づいてきた。どちらも、よく知っている顔である。
「こら、大地、朝日」
困り顔で追いかけてきたのは、祥子だった。その後ろには、全身黒い服に身を包んだ、祥子の実弟・前原が続いていた。
大地と朝日は、祥子と手をつながなければ、手の届く所に留まろうともしない。こう見ると、女の子というのは穏やかである。
「こんばんは」
やっとのことで朝日を捕まえた祥子が、ママ友母娘に歩み寄る。朝日は足をぶんぶん振って、離せ離せと抗議している。
「晃、大地そこにいる?」
「祭場のほうに行っちゃったよ」
祥子は「えーっ」と項垂れて、朝日を前原に押し付けるように抱っこさせ、祭場のほうへ向かう。
「子守で来たの?」
黒い肌着に黒いスキニーパンツ。恰好からして、これから着付けをして踊るのだと分かっていたが、瑠璃子はそう言って、ちょっとこの幼馴染をからかってみた。
「冗談じゃねえよ」
前原は朝日をやすやすと肩車して、祭場の方を追いかけた。
万里子は前原と朝日の後ろ姿を、じいっと目で追いかけた。
前原と安藤は、式三番に出演した。粟代も、過疎・高齢化が進む地区の一つであり、地元出身・三十代前半というこの二人は、いくつもの演目に駆り出されることになる。
祥子曰く、保存会から電話がかかって来て、前原の仕事が休みの日を尋ねられるほどだという。それは、今年はこの日に開催する予定だから、仕事を調整せよという、遠回しな要求なのである。
そうまでして念を押さなければ地元民だけでは祭りが成り立たなくなっている。しかし、住民以外の人もすごく入りたがるので、地区の規約が変わり、これでも出演する人の範囲は、今までよりずっと広くなった。
「あきらー、ようすけー」
万里子は観衆の一番前で、よく知る兄貴分の二人に手を振る。前原はほとんど無視していたが、安藤はちょっと気にかかったらしく、視線がちらりと万里子に向いた。
万里子の目の輝きを見て、瑠璃子は、複雑な気持ちになった。この子が参加できるようになったことは、嬉しいようであり、地域の脆弱さを物語っているようであり、昔の自分を振り返った時にはせん妄を覚えた。瑠璃子は小さい頃、やはり祭場の外から、幼馴染二人が祭場の中で踊る姿を見てきた。見ることしかできなかった。女の子は参加しないものと端から決まっていたので、多くの女の子たちは、参加したいという気持ちがなかったようだ。でも小さい頃、瑠璃子は自分も踊りたいと思っていたのを、よく覚えている。
「あ、もうだめ。限界」
すぐ傍で、朝日が手をすり抜けようとするのを抑える祥子が、くたびれたように言った。
「ごめん、ちょっと親に電話してくるわ」
と言って、朝日を抱っこして観衆を抜けた。応援を呼ぶらしい。大地を置いて行ったのは、すぐそばにいる瑠璃子と沙羅を信頼してのことだろう。
「てーほへ、てほへ」
さっきまで祭りに興味があるのかないのか、庭で走り回っていた大地は、楽しそうにそこで踊り始めた。自分の叔父が出ていることもまた、彼の興味を誘ったのかもしれない。
瑠璃子は膝をついた姿勢で、万里子を後ろから抱きしめるようにしてその場に留まらせながら、大地がそれ以上前に出ないように見守った。
「あ、危ないよ」
ぴょん、と跳ねた拍子に大地が一歩前に出たので、瑠璃子は彼の腕をつかんで下がらせる。ふと目線を上げると、対面で祭場を見ていた人と目があった。首から一眼レフカメラをぶら下げているその人は、羽沼だった。
─あ。
羽沼は移住者だが、今はこの地区の住民である。
町のピーアール動画に含めるため、瑠璃子たち地域振興課は、花祭の撮影を依頼していた。おそらく、その撮影をしてくれているのだろう。
けれど、今羽沼の目は、演者ではなく、自分に向いていたような気がした。
─自意識過剰。
と、瑠璃子は心の中で呟きつつ、前髪を撫でつけた。
「ふう」
やっと演目が終わると、安藤は部屋に入るなりすぐに法被を脱いだ。前原も法被を脱いで、手で顔を煽ぐ。
「おめえさんたち、次の出番まで時間があるで、今のうちに寝るんなら寝とけよ」
支度部屋を仕切っている柳が、つっけんどんに言った。
「いや、一回寝たら起きる自信ないっす」
安藤は柳に聞こえよがしに言う。
「柳さんの力で、別の地区からもっと人引っ張って来てくださいよ」
「あほたわけ」
柳は取り合わない。にいっと口を横に広げて、薄笑いを浮かべるだけだった。
この地区も人口の減少が問題になっている。御殿山の麓の粟代地区は、足込町の中でも特に一時は林業で賑わっていたが、昭和五十年頃から衰退して町外に勤めに出る人が多くなった。しかしここ数年、感染症が蔓延したがゆえに地方の自然豊かな土地に魅力を感じる人が出てきて、この地域に移り住んだ人もいるのが事実である。柳としては、それでも地元民の力で、この地区の伝統を守っていきたかった。
「柳さーん」
柳と同じ白い法被を着た男性が、縁側の戸を開けて手を拱く。
「テレビの取材来てますけど、受けてもらえます?」
「はあ?お前答えとけ」
「いやあ、困りますよ」
不承不承ながら柳が縁側から一歩外に出ると、眩しい照明とマイクを向けられた。柳はちっと舌打ちする。
「今年の花宿の方にお話を伺います」
女性のリポーターの高い声は、部屋の中にいる前原と安藤にも聞こえてきた。
「大変だな、柳さん」
前原は水を飲みつつ呟いた。
いくつか質問をした後、リピーターはさらに別の質問をした。
「このお祭りの一番の魅力は、どんなところだとお考えですか?」
柳は眩しい光が気になってしょうがない。人工の光を入れないためにも、わざわざ満月を選んだというのに、これでは意味がない。柳は照明担当に眼(がん)をつけて「散れ」とばかりに手を振った。
「そりゃあ、子供から年寄りまで、縦のつながりがしっかりしとることじゃないですか。子供は小さい時から順を追って祭りのことを学ぶ。みんなで人を育てていく。それで心が一つになっとる。それが魅力です」
「ありがとうございます!それでは最後に、長生きの秘訣、教えてください」
柳がじじいだと思っていればこその質問である。それで柳は、ちょっとイラっとした。
「体を動かしてよう働け!あほたわけ!」
その言葉で、柳の後ろにいた地元民たちは大声を上げて笑った。
沙羅は二人の娘と一緒に、花宿の庭で迎えが来るのを待っているところだった。
「沙羅さん」
後ろから知った声が聞えて、沙羅は振り返った。声をかけてきたのは羽沼だった。
「もう帰るんですか」
「ええ。子供たち、飽きてしまったみたいで」
「かえる、おうちかえる?」
そう言っている間にも、七瀬は沙羅に抱きつき、可愛らしい子供の声で確認をする。
祥子の息子たちや万里子とは違って、二人とも花祭に興味が向かないようだ。
─まつりキライ。
快などはそう言っていた。祭りに行く前は、行きたい行きたいとねだっていたのに。子供はすぐ気が変わる。
─火のけむりがイヤ。
とのこと。
「次はいつ、あかつきにいらっしゃいますか?」
「ああ。どうだろう…二週間後くらいかな」
次に訪ねる時には、インスタのインサイト分析をする予定だ。やり方を変えてから一定期間、データが蓄積するまで時間をおく必要がある。
「それまでに、何か困ったことがあったら行くよ」
「頼りにしてます~」
沙羅はにこにこと笑顔を振りまいた。この人がコンサルに入ってから、あかつきのインスタは変わったと思う。
羽沼は沙羅たち母娘を見送ると、再び祭場に向かった。観衆の中をきょろきょろと見回し、任意の人を見つける。
「長谷川さん」
瑠璃子は羽沼に声をかけられ、すっと立ち上がった。万里子は一瞬、羽沼を見上げたが、すぐ祭場のほうへ目を向ける。
「いい動画撮れましたよ」
羽沼はそう言って、ぶら下げていたカメラを掲げてみせた。
「本当ですか?」
答えながら、祭りを見るのに集中している観衆の中で雑談するのは憚られて、瑠璃子は万里子を抱っこし、少し後方に移動した。羽沼もそれに続く。
「すみません、お祭り見てたのに」
羽沼は詫びた。
「ママ、みえないよう」
万里子は講義している。
「いいの。後で見よう」
そう言ってから瑠璃子は、羽沼に視線を向けた。
「うまく撮れましたか」
「ええ。着付けとか裏方の様子も、保存会の人に許可をもらってて、ちょっと撮影することができました」
外向けに発信することも、許可してくれたのだ。瑠璃子は笑顔で頷いた。
「羽沼さん、この前はありがとうございました」
「え?」
羽沼はよく聞こえるよう、ちょっと身を屈めた。
「住民タクシーの件。やっとタクシー会社との交渉が成立したんです」
「それは、良かったですね」
「羽沼さんがヒントをくれたおかげです」
「僕は何もしてませんよ」
羽沼は、瑠璃子と彩で会った時の会話を言っているのだろうとハッキリと分かったが、とぼけてみせた。
わざわざタクシーに乗って、羽沼が探りを入れてくれたのだと、瑠璃子には分かっていた。しかし、羽沼が何もしていないというなら、それを掘り返そうとは思わない。
─借りができた。
だが、そう思ってしまうのは、どうしようもなかった。
二人は、それきり沈黙してしまった。
「あーん。よくみえないよ~」
万里子が瑠璃子の脚にしがみついて、駄々をこねてきたので、その沈黙は破られた。
最前列の観衆はしゃがんでいても、その後ろにいる人たちは立っていて、万里子には中の様子が全く見られない。
「分かった分かった」
瑠璃子は万里子のお尻が前腕に乗るような形で、できる限り高く抱っこをした。
─いたた…
瑠璃子はまた、右肩から首筋へかけて痛みを覚える。そんな母親の状況はいざ知らず、万里子は嬉しそうに、にっこり笑った。
そんな万里子と、羽沼の目が合った。羽沼と目を合わせても恥ずかしがることなく笑っている。勝気な少女の姿が、そこにあった。母親に似た、少し垂れ目の大きな目。無邪気な笑顔。
子供とは、こんなにかわいいものか。
羽沼は万里子に微笑み返しながら、胸が少し締め付けられるような心地がした。
ふいに、万里子がニヤッと悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「はぬま、かたぐるまして」
「なに呼び捨てにしてんの」
万里子を抱えていた瑠璃子は、素っ頓狂な声を挙げる。
「あきらとよーすけだってよびすてにしてるよ」
「だーめ、そんな。降ろすよ」
万里子の減らず口に瑠璃子は真面目に取り合わない。そして高々と抱っこし続ける、瑠璃子の腕がもたなくなっている。
万里子は、羽沼に向かってぱっと両手を広げた。彼女がそうしたのは、先ほど前原にかたぐるまをしてもらう朝日の姿を見たからだった。
瑠璃子は万里子を支えきれずに手を離してしまうが、万里子は母親の腕を踏み台にして、羽沼の頭と背にしがみついた。
「かたぐるまがいいよう」
幼稚園の年中といえど、女の子。羽沼はそんなことをしていいのか、瑠璃子の手前どぎまぎしていたが、万里子は問答無用でよじ登ってきた。
「うわー」
頭上で嬉しそうな万里子の声を聞きながら、
─肩が…
羽沼はおそらく初めてするかたぐるまというやつが、ひどく疲れるものだと知った。
─これは長く乗せてあげられそうにないな…
しかし、かたぐるまは別の理由で、長く続けられなかった。
後ろを振り向いた羽沼は、そこに立っていた瑠璃子の形相が、険しくなっているのを見たのであった。
あかつきの檜風呂で、杏奈は鼻の下まで、湯の中に身を沈める。杏奈の身長では、脚を伸ばしても、湯船の端に足が届かない。やや広めの浴槽に、毎日のように湯を張るのはもったいないように思えたが、今ではもう慣れた。
頭の中では、仕掛り中の仕事が渦巻いていて、落ち着かなかった。あかつきに滞在したクライアントが、その後もメールなどで自身の状況を連絡してくれるのは、嬉しかった。あかつきを頼りにしてくれている証拠だ。しかし、返信するのには時間がかかる。
昨日、結衣から連絡が来ていた。キッチャリークレンズに関しての質問と、自身の近況について。第二子の件で、夫と不仲になりつつあると言っていたが、三月末に家族旅行を決めたそうだ。
ぱしゃ…
杏奈は顔に湯をかける。
オンラインキッチャリー教室の予約は、ぽつぽつと入っている。当日揃えておいてほしい食材の連絡や、スパイスの梱包、発送作業など、対面での料理教室と比べ、細々とした仕事がある。
あかつきから一番近いポストは、林道を下ったところにあった。杏奈はこれまでに、ポストまで何往復かしていた。今日もまた、間際で入った予約分に対して、スパイスを発送しなければならない。
ぱしゃっ。
杏奈は再び顔に湯をかける。
最近、インスタの投稿に時間がかかっている。
─十枚投稿が主流になりつつあるよ。
昔、インスタは「映える」写真が一枚あれば、それで投稿は事足りた。しかし、今は映えるだけでなく、見る人に有益な、独自性の高い投稿が見られるようになっているらしい。
羽沼の勧める十枚投稿に、どういう情報をのせるか。杏奈は頭を悩ませている。すでに確立されている、インスタの中でのあかつきの世界観。それを崩さないように、投稿の形式を変えるのは注意が要った。第一に、一日に十枚も、ただの写真ではなく文字やグラフィック入りの「有益情報を記載したカルーセル投稿」を用意するのは、時間がかかる。
─テンプレの蓄積が進めば、楽になる…か。
杏奈はふうっとため息を吐いた。
それから、美津子から出されている臨床研究と、新しいレシピ開発。明日の朝、杏奈は米粉とベサン粉の「デーツパン」を作るつもりだ。
これらのことは、やらなければならない仕事であるが、杏奈は実のところ、やりたくてしょうがない。時間の限り、前へ進めたいと、うずうずしているのだった。
風呂場の窓からは、あかつきの敷地を囲う生垣が見えている。生垣にしている槙の木が、一瞬ライトに照らされたような気がして、
─もう出かけたのかな。
と、杏奈は思った。美津子は今夜、河代花祭に行くと言っていた。
そのために、杏奈より先に、早めに風呂に入っていたのだが…。
美津子のエヌボックスの隣に停まったのは、車体が大きな黒いランドクルーザーだった。
順正は静かに扉を閉めた。今日は南天丸を連れていない。
まだ春といえるほどには暖かくないけれど、自然界に新しい生命が確実に芽吹き始めている。
空を見上げると、なるほど、今日は見事な満月である。この時期は水分が蒸発して大気中に放出され、霧や霞に包まれ、遠くの景色がぼんやりすることが多くなる。これが春霞というものだ。今日の満月も明るいけれど、冬に見るそれよりも朧げである。
順正は正門に回りながら、外の空気を存分に肺に吸い入れた。上沢も足込町と違わず自然豊かな土地だが、足込町のより静寂な風景は、順正にとっていつでも心休まるものだった。
呼び鈴を鳴らすことなく、門扉を開ける。母屋の窓からは煌々と明かりがさしている。玄関扉には不用心にも鍵がかかっていなかった。あかつきの中はしんとしていて、書斎にも居間にも、美津子の姿はない。応接間には、かすかに食卓のにおいが残っている。長テーブルの上には、閉じられたノートパソコンに、ノート、いくつかの資料、ペン、水が少し残ったコップと、保温ポット、一通の封筒。
順正はパソコンが置かれている席の向かい、いつも美津子が座っている椅子の背に、オフホワイトのマウンテンパーカーをかけた。その下には縦ストライプのシャツに黒いスラックスを着ていた。仕事帰りなのだった。
立ったまま、無造作に開かれたままのファイルを手に取る。
─女性の健康と生殖能力。
この間のあの資料だ。机の上に資料を置いたままパラパラとページをめくり、ある箇所で手を止める。
《十代》
男の子も女の子も、十代前半で思春期を迎えます。
女性は、排卵があれば妊娠する可能性があり、十代の後半には性的機能が活発になります。しかし、まだ体的にはまだ発展途上で、月経周期を練習しているところです。
経済的、社会的には、親に依存する時期であるのが事実です。子供を産むことはできますが、最適ではない、という時期です。
多くの女性は、二十代、三十代になってから子供を産む可能性が高いです。
しかし、十代は重要な時期です。十代の女の子は、外面的にも、内面的にも多くのことが変化します。交友関係、容姿、受験…。この中で十代の少女が、自分の女性性に対処し、親密な関係を築くことは、特に難しいことだと言えます。しかし、この時期にどのように性衝動を処理し、月経周期や生殖機能を管理するかによって、この先何年も彼女のセクシュアリティと健康全般に影響を及ぼします。
順正は資料を指で軽く抑えたまま、視線を虚空に向けた。
─親の再婚と実の母親の妊娠、か。
岡本が聞き出した、最近の莉子の周りの変化だった。よく、聞き出せたものだと思う。やはり岡本を選んでよかったのだ。
義理の父親と実の母親との間に子ができたことで、自分がないがしろにされるという将来の可能性を感じた。その不安がストレスとして募り、無月経になった…安易に想像すれば、そういうことである。もしかしたら、この変化に対する莉子の感情は違うものであるかもしれないし、別のことが無月経に関与しているかもしれなかった。だが、それを突き止めるのは、産婦人科の関わる範囲を超えていた。
莉子の月経が元通りやって来れば、産婦人科を訪れることはなくなるだろう。けれど、無月経をもたらしたストレス、または他の要因は、どうなるのか。
薬を飲むことは、明らかになっている問題を解決するが、別の問題を覆い隠すこととなる。
─十代の頃、どう月経周期を管理するかによって、この先何年も彼女のセクシュアリティと健康全般に影響を及ぼします。
資料はそう語っている。
「順正」
ホール側の応接間の入り口が開いて、美津子が声をかけた。
順正は背筋を伸ばし、顔を上げた。その手はまだ資料の入ったファイルを押さえたままだった。美津子は一瞬順正の手元に視線を走らせてから、再び彼の顔を捉えた。
「ごめんなさい。何件か電話をしていて…部屋にいたの」
「そうか。鍵が開いてたぞ」
順正はファイルから手を離した。パラパラッとページがめくれて、ひとりでにパタンと閉じる。
「さっき水やりに外に出てたから…そのままになっちゃってたのね」
「不用心だな」
順正が椅子に掛けていたマウンテンパーカーを手に取るのを見て、
「一件だけメールを打たせて」
美津子はそう断り、杏奈の席に座ってスマホを操作しだした。
「わっ」
居間から応接間に入った杏奈は、美津子の対面に順正がいるのを見て、パジャマの上に羽織っていたパーカーを胸元に手繰り寄せた。
順正はというと、杏奈をちらっと見たものの、そのまま仏頂面で座っているだけで、挨拶もしない。
「先生と一緒に行ってくるわ」
美津子は杏奈の顔をちらりと見て、初めてそのことを告げた。
「そうですか…」
杏奈はさりげなく順正に背を向けた。知らなかったとはいえ、風呂上りのままの恰好で、顔を合わせるのは決まりが悪い。
順正は立ち上がって居間へ移動すると、掃き出し窓にかかるカーテンをそっと開けた。網戸になっており、外からひんやりした風が入る。
「よし」
美津子はメールを送信すると、ぱっと顔を上げて杏奈を見た。
「まだここでやる?」
「はい。あの、美津子さん。これをポストに投函してきていただけますか?」
と言って、テーブルの上の封筒を、美津子に差し出す。キッチャリー教室の生徒に送るスパイスが入っている。美津子は頷いた。
「これは出しておくから、あなたはほどほどにして休みなさいよ」
咲子と結衣の滞在からこっち、杏奈は仕事詰めだった。何よりも、パソコンやスマホなど電子機器を触っている時間が長いのが気になる。
杏奈はこくりと頷いた。乾かしたばかりの背中まで届く黒髪が、サラサラと揺れていた。
「この間救命医をしている女性が来たわ」
夜道を走るランドクルーザーの助手席で、美津子は話をした。
先日受け入れたクライアント、井田薫は救命救急士。知らず知らずのうちに抱えていた感情、迷いを、どのように扱ったらよいか答えを出しかねていた。
─感覚が狂ったように感じるようになりました。
救える命と救えない命。それを目の当たりにすることが日常になりすぎて…
─あなたもそういうことはないの?
美津子はその問いが心に浮かんだが、でたらめに話すような話ではなかった。
「救命医はまったく情報のない中で、一刻を争う処置をする…」
順正は研修医時代、救命を回ったこともあった。何度も健診をし、既往歴や体質上の懸念事項を分かった上で、計画的に対処するのとは異なる。それは神経をすり減らす仕事だった。
─そうだ。だからシロダーラをしてあげたかった。
シロダーラは神経系に深いリラクゼーションを与える。しかし、薫は体に毒素がありすぎて、まずはそれを取り除くのに時間を要した。薫こそ、キッチャリークレンズを適用したほうがよかったかもしれない。だが、新鮮な料理を目の前にして、幸せそうに頬張る薫を見て、美津子は食事を節制せよとは言わなかった。美味しいものをゆっくり食べることが、彼女にとってプラスに働くと思ったからである。
「医者の不養生とはよく聞くけど、彼女も例外じゃなかった」
順正は、しかし、軽く鼻を鳴らして相槌をしただけで、取り合わなかった。次にお前も不摂生をしていないかと問われるのは、目に見えている。余計なお世話を焼いてくれるなと言われているようで、美津子は口をつぐんだ。
「仕事のほうはどう?」
順正は答える代わりに、ほんの少しだけ身を前に乗り出した。信号もないのに車の速度が落ちた。美津子が前方を注意深く見ると、暗くて分かりにくいが横断歩道があり、小学生くらいの子供何人かが脇道にいた。祭りの帰りだろうか。外灯が少ない足込町。子供だけで夜に出歩くなら、反射ベストでもつけていないと危ないところだ。
子供が渡り終えると、順正は再びアクセルを踏んだ。
美津子は横目でちらりと、ハンドルを握る順正のすらっとした長い指を見る。この手で何人もの子供を取り上げ、さらに執刀しているとは、未だに美津子には想像しがたい。
「無月経の客が来ることはある?」
質問をしたのに、逆に質問を返された。しかし美津子は、それに対して別に文句は言わない。
「あるわ。月経不順で誰か婦人科にかかったの?」
「中学生だった」
「そう…」
あかつきには、高校生以下の子供が問い合わせて来たことはない。しかし、その母親が自分のことと一緒に、子供について相談することはよくあることだ。
「不登校とか、アレルギーとか。病院に通ってもなかなか改善しない悩みがある場合、相談されることが多い。生理サイクルやPMSの相談も受ける。でも、子供が無月経になってますという相談はほとんどないな」
無月経は、ホルモン補充療法で治ることが多いからかもしれない。
「仕事や住む環境が変わった、という人が、月経遅延や無月経になっていたケースは覚えがあるわ。授乳が終わってもなかなか生理が再開しない人も」
「ミツのところに来る客は、医師の診断を受けずに自分で治そうとするのか」
「いいえ。診断は受けてるし、内服薬も飲んでるけど、同時に、根本原因を取り除きたいと希望する人も、結構いるのよ」
「賢明なことだ」
「そう思う?」
美津子はふふっと笑った。
「でも、中には医者に掛からず、できるだけ自然に正常な周期を取り戻したいという人もいる」
「どうやって治すんだ?」
「人による…」
「…ミツのところのやり方はいつもそうだな」
美津子はまた、ふふっと笑った。
「どの療法を取るにしても、最も大切なことは…」
それからまた美津子の声は、真剣さを帯びた。
「その療法を信じることだと思う」
アーユルヴェーダであっても、中医学であっても、アロパシーであっても。
「私たちのやり方についていえば、何にせよ、細かい聞き取りはするわ。思いがけないことが、少なからず影響を与えることもあるから」
「ホリスティックな見方というやつか」
「そうよ」
体が本来の自然な機能を取り戻すように、手助けをする。
「それにはクライアント自身が主体的に関わる必要があるのだけど、十代の女の子に、月経は健康状態の指標だよって言ったところで、本人が意識するのは難しいかもしれないわね」
昔は十代であっても、結婚・出産が目前だった(美津子とて、その時代の人ではないが)。しかし、現代の十代女子には、やらければならないことや、やりたいことがいっぱいある。その中で、月経は大切なもの。月経周期を安定させるために意識的になれと言われてもピンとこないかもしれない。
月経の状態は、体の不調・異変を知らせてくれる。無月経もその一つであるというのに…
「杏奈に訊いてみたらいいんじゃない」
善光寺が近くなるにつれ、交通量がにわかに増えてきた。
「何を?」
「無月経の中学生に対し、どういうアプローチをするか」
「それを訊いてどうするの?」
「あなたが訊いてきたんでしょう」
「ミツならどうするか訊いただけだよ」
他の人の意見を訊きたいわけではない。
善光寺に続く石段の近くの駐車場には、帰るのか、今来たところか、ちらほらと人がいた。順正は車をバックさせる。
「あのね、順正」
美津子はサイドミラーで後方を確認しながら言った。
「私はもう、長く第一線にはいないかもしれない。でも、その後もあかつきと関わってくれるなら、あの子と話ができるようになってほしい」
「今もあかつきとは関わってない」
美津子と関わっているだけだ。
「ミツ」
エンジンを切ると、順正は横から覗き込むように、閉口する美津子を見つめた。
「仕事の話をするな」
その声からも、美津子を見つめる切れ長の目からも、言葉面ほど非難めいた感じはしない。見慣れているはずの美津子が見ても、はっとするような端麗な顔が、ただそこで懇願しているだけだった。
「ごめんなさい」
美津子は声は囁くようにかぼそかったが、あたたかい響きをもっていた。
山にしろ、道路にしろ、上沢から足込の境をまたぐ時、順正は頭のスイッチを切り替えているのだ。順正と話したさに、彼が無心になる機会を盗んでしまった自分が、野暮というものだ。
長い階段を上っている間、二人はずっと無口だった。境内の方からは、すでに笛と太鼓の音が聞こえている。
山門をくぐり、庭園を抜けて、再び石段を上がる。折り返し地点には、地蔵堂がある。大きな観音様の石像と、小さなお堂がある。その一画は、何体もの地蔵像で埋め尽くされている。お堂の前にも、地蔵像の前にも、花、お菓子やジュース、ぬいぐるみ、千羽鶴などといった、お供え物が置いてある。
順正は静かに、地蔵像とその供物を見やった。彼に追いついた美津子は、呼吸を整えながら、順正の背中を見守った。
本堂の前から見晴台に向かって広がるスペースには、祭場が作られ、大勢の人が演目に見入っていた。月明かりに助けられ、松明以外の光源がなくても、祭場は十分よく見える。
少し離れた所から祭場の様子を眺める二人の後ろに、順正は何者かの気配を感じる。視線を下ろして地面を見れば、月明かりに照らされて、大きな影が近づいてくる。
「…先生」
順正は眉根を寄せて、顔だけを後方に向けた。順正が声を出して、美津子は初めて、加藤が二人に歩み寄っているのに気が付いた。いつもと同じ改良衣姿で、両手を体の後ろで組み、温厚な笑みを浮かべている。
「…会う度に襲い掛かろうとするのはやめてください」
順正はいかにも迷惑そうな声を出してみせた。
「私は何もしてないよ」
加藤は悠然と両手を開き、とぼけてみせる。順正はため息ついて、視線を祭場へ戻した。
美津子は加藤に会釈をした。加藤は、殊のほか嬉しそうだ。それは、間違いなく、順正の顔を見られたからなのだろう。
視線を加藤から、順正、祭場の方に移しながら、美津子は口元に微笑を浮かべた。
「お前も踊るか」
加藤は順正と並んで立ち、そう訊いた。二人の背丈は、ほとんど同じくらいだった。順正はかぶりを振って、
「桜台で踊り倒しました」
「ほう、それは見たかったな」
「しょっぱなから注意されました。無意識に裏で踊っていて…」
美津子も加藤も、声を立てて笑った。
「河代でよく踊ってたせいです」
「ハハハ…最後にここで踊ったのはいつだったか」
順正は首を傾げた。もう覚えていない。
「それに今日は満月なので…」
振り返って夜空を見上げると、低いところに月が見えていた。あるいは、松下医師と当直の助産師だけでは間に合わないくらい、お産があるかもしれない。
「早めに帰ります」
オンコール体制ではないが、もしもの時のために、近くにいる必要があると思う。
美津子は月と、月を見る順正を見やりながら、少し可笑しかった。仕事の話をするなとか言いながら、結局この男の念頭には、いつも仕事があるのだ。
「もう少し近くに」
と言って、祭場へ歩み寄る二人とは対照的に、順正は踵を返して、元来た道を戻り出した。
「えっ?もう帰るの?」
いくらなんでも早すぎだ。順正は少しだけ後ろを振り返って、
「少し散歩」
にべもなく言った。
美津子の視線は、順正の背中を追っている。その美津子をなだめようとするように、加藤の大きな手が、その腕に触れた。
順正は阿弥陀堂と鐘楼の前を通り過ぎ、階段を下って、再び地蔵堂の前で足を止めた。その目は観音像ではなく、小さな地蔵像に向けられている。
今週に入ってから、すでに二回、順正は人工妊娠中絶手術を行った。子宮外妊娠による、卵管切除のための開腹手術が一回。
産科に来た患者がその後どういう人生を歩むのか、医師や助産師には分からない。無事に出産しても、死産であっても、中絶しても、月経不順でも…だが、その後も、その子や、家族の人生は続いていく。幸せな道であれ、苦難の道であれ、産科はそのスタート地点に過ぎないのだ。
ここに来た者たちは、どんな気持ちで、この供物を置いていったのか。
善光寺から少し離れた場所で、杏奈は美津子の言いつけ通り、早めにパソコンの電源を落とした。傍らに開いていたファイルを閉じながら、その資料の題名を指でなぞる。
─女性の健康と生殖能力。
杏奈は顔を横に向けて、机の上に突っ伏した。この知恵とヒーラーの情熱をもって、本当に人を変えることができるのか。
─自分たちにできることは、ごく限られている。
そう思ったのは、順正でもあり、杏奈でもあった。
杏奈は離れに向かうため、荷物を持って外に出た。後ろを振り返ると、北の空に、朧げな満月が浮かんでいた。
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