第52話「変化の春」アーユルヴェーダ小説HEALERS

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「美津子さん、料理教室終わったのですが、撮影するので、ちょっと待っててくださいね」
 応接間の長テーブルまで、杏奈はいそいそとキッチャリーを運んだ。キッチャリーはインド料理の一つで、スパイス入りの豆粥のことである。アーユルヴェーダ料理の代名詞的存在であるこのお粥は今、高級な陶器に盛りつけられている。美津子と二人の食事の時には、こういった器は使わない。でも今日は撮影のため、これを使った。
 オンラインキッチャリー教室は、今日でニ回目。
「長かったわね」
 美津子はそう言いながら、席を立ち、居間へ移動する。
「はい。早く終わるかなと思ったのですが…」
 逆に長引いてしまった。
 マンツーマンだと、通常は早く終わる。しかし、生徒によっては、マンツーマンだからこそ、長引くことがある。
 今日の生徒・有希は、勉強熱心そうな、美津子よりやや年下らしい女性で、肩の下まで伸びる、剛毛といえるくらい豊かな髪をもっていた。
 講義やキッチャリー作りは円滑に進んだのだが、最後の質疑応答で、思いがけず会話が弾んだ。
「これ、使う?」
 美津子は居間から水盆を運んできた。その水盆には、タンポポが水に浮かんでいる。
「うわ、春らしくていいですね」
 杏奈はにっこり笑った。写真撮影において、小物はいい仕事をしてくれる。角度を変えたり、余白を作ったり、小物を入れたり抜いたりと工夫をしながら、何枚か撮影をした。
 それから、オンライン料理教室で作ったキッチャリーと、ほうれん草の胡麻和えでお昼ごはんにする。
「これだけで足りますか?」
「ちょうどいいわ」
 ちょうどいい量、というニュアンスではなく、ヨガをする前にはちょうど良いという意味だと、杏奈には分かった。
「羽沼さんに、キッチャリー教室の枠はあんまり増やさない方がいいって言われたんですけど」
 それは、限定性を持たせるためと、効率的に運用するためであった。
「やっぱり、予約ばらけちゃいました」
 三月は、羽沼のアドバイスを反映しないまま、予約枠を取っていた。案の定、バラバラに予約が入ってしまい、今日のように一対一で開催する日もあった。
「枠を絞るのは、何曜日に人が集まりやすいのか、傾向がつかめてからでも良い」
 と、美津子は言った。
「たった一人に対し講座をするのは大変だと思うけど、たった一人を大切にしなさい」
「はい」
 杏奈はキッチャリーを飲み込んだ。今日作ったキッチャリーは、無意識に食べていると、ほんの数回の咀嚼で飲み込んでしまうくらい流形に近かった。
「今日の生徒さん、間借りでランチを提供してる方でした」
「そう」
 ベジタリアンかつ、スパイスを使った変わった料理を出しているらしい。
─私、人に食べさせる仕事をしているんです。
 と、彼女は言った。
─隔週でですけど、友達の喫茶店を借りて。
 有希は役職付きのフルタイムワーカーだった。几帳面で、責任感が強く、面倒見の良い性格。それがオンライン上でも伝わってきた。
─スパイスって、香りが特徴的だから、同じ野菜でも、全然違う風に食べられるでしょう?
 有希は、友達の娘に対するような気軽さで、杏奈に話した。
─そこが楽しいと思っていて。だからかなあ、アーユルヴェーダ料理に興味を持ったのも。
 有希がしている料理の仕事は、それだけではない。友人の紹介で、依頼がある時には、ヨガスタジオでベジタリアンのお弁当を提供している。カフェもお弁当配達も、ほとんど売り上げにはならない。しかし、有希には、それはどうでもよかった。副収入を得るためにやっているのではなく、自分の人生をより充実させるためにやっていることだから。
─料理がお好きなんですね。
─料理が好きですし、自分の作ったもので人に喜んでもらえるのが嬉しい。先生もそうでしょう?
 杏奈はキッチャリーをスプーンでひとすくいすくった。
 尾形と同棲していた頃、杏奈は自分の分と一緒に、彼のために弁当を作っていた。職場で同じものを食べていることを知られないよう、二人は昼食の時間をずらし、離れたところで食べていたものだ。
─そうですね。
 人に食べさせるのが好きだ。
 しかし、杏奈は自分の経験を語ることはしないで、アーユルヴェーダの知識を交えた話をした。
─アーユルヴェーダが発祥したインドでは、伝統的に、食べ物を供物として捧げます。
 たとえば、神聖な火、牛、カラス、犬、人間に対して。自分の子供、家族以外の誰かにも、食べさせることがある。
─食べ物を食べさせることは、単なる自己満足のためではなく、すべての存在に対してより良い影響を与えようとする行為です。けれど近頃の日本では、分かち合うことが難しくなりました。
 たとえ家族の間であっても。自分がより良いものを食べる、よりたくさん食べることに満足感を覚える。
─本来、誰かに食べさせることは楽しいことなんですけどね。
 有希はやや日に焼けた骨ばった手を口元に当て、大きく頷いた。
─それは、子供が成長するのを見た時に、母親が感じる楽しさに似ているかもしれないですね。
 ハキハキと歯切れよく答える有希の声は、少女のように高く繊細であった。
─幸いなことに、息子たちは人と分かち合う豊かさは学んでくれているみたいで。
─息子さんたちが。
─ええ。昔、誰かのお母さんが、何種類かケーキを買ってきてくれたんです。子供だったら、自分が好きなものを一番に選ぶでしょう?でもうちの子は、先に選んでいいよって言われると、却って自分の好きなものは選ばないことがあるんです。それを食べたいと思っている子がいるのを察して。
 有希の話を思い出して、杏奈は表情が緩んだ。
 オンライン料理教室では、あかつきで実際に会うクライアントほど、多くのことを聞き出せないし、話もできない。それでも、わずかなレッスンの間に、経験や価値観を共有し、共感し合うことができる。
 杏奈は久しぶりに、料理教室の楽しさを思い出した。

 見積もり表が添付された沙羅からのメールが届いたのは、美津子が電車を降りた時だった。
 春は寒暖差が一年の中で、一番激しい時期である。河代花祭の頃は、いったん寒さが戻ったのが、今週に入ってから雨が続き、それが止むと、急に暖かくなった。
 桜の開花も、目前に迫ってきている。
 美津子は春物のトレンチコートに、細かい花柄があしらわれた、薄い黄色のストールを身に着けている。
 改札を出る前に、プラットホームのベンチに腰掛けて、沙羅が添付していたファイルを開いてみた。それは、スリランカから輸入しているアーユルヴェーダオイルの見積もり表だった。
「…」
 美津子はストールを口元まで上げた。
 元の値を記憶している美津子は、ほぼ全てのオイルの値段が上がっていることに、すぐに気が付いた。
 前年・二〇二二年のスリランカは、外貨不足が深刻な経済危機をもたらした。大規模な抗議活動が長期間継続し、政権交代が起こった。
 スリランカは観光資源が豊かで、観光産業が国の支えになっている。しかし、世界的な感染症の流行により、外貨をもたらしてきた外国人観光客がピーク時の十分の一以下に落ち込んだ。
 二〇二一年以降、イースター・テロや感染症の影響が薄れて観光客数は戻りつつあった。
 しかし、経済危機が国民生活に深刻な影響を及ぼすことになる。外貨不足により、全土で長時間の停電が頻発し、燃料不足によりガソリンスタンドには長蛇の列ができた。二〇二一年の有機肥料への転換命令の影響を受け、農産物の生産量は減り、物価の高騰に拍車がかかっている。これらの理由で、各国が自国の国民に警告を発したこともあり、観光客の来訪は再び落ち込んだ。去年の後半になって観光客数は回復したものの、感染症以前には遠く及ばない。
 対外関係ではスリランカをめぐってインドと中国の緊張感が高まり、スリランカは二つの大国の狭間で、難しい判断を求められている。
 二〇二二年の経済成長率はマイナス八パーセント強。すべての産業は低調。
─オイルの値段が高騰する理由も、分からなくはない。
 それにしても、今回の値上げ幅は大きすぎる。事に便乗して不当な値上げをしているようにも思える。
 美津子は立ち上がり、改札を出た。その動きは颯爽としていたが、心の中は穏やかではなかった。アーユルヴェーダのトリートメントは、手技も大事だが、クライアントの浄化と若返りを進めるのに、何よりもオイルの品質がものをいう。オイルの値段の高騰は、あかつきにとって大きな痛手となるだろう。

 午後、杏奈は一枚の見積もり表をコピーし、沙羅からのメールを元に、重要な数字に赤丸をしていく。在庫管理表として美津子が使っていたエクセルに、丸をつけた数字─今回の各オイルの単価─を打ち込むと、値上げ幅の大きさが明確になった。
 杏奈は沙羅に電話をかける。
「これって、最終的な値段ですか?」
『いえ、値上げの理由が不明確な部分もあって、まだ交渉の余地はあります』
 あかつきの施術に使うオイルは、スリランカから輸入しているハーブオイルである。ここ数年、オイルの値段は上昇する一方だった。しかし、今回は、今までよりも大幅な値上げとなった。販売元であるスリランカのアーユルヴェーダ治療院との交渉は、語学が堪能な沙羅が担当している。
『二〇一九年からの価格推移を送っていただけますか?』
「分かりました」
 電話を切ると、今しがた作ったばかりのエクセル表を、あかつきのグループラインに送った。
 杏奈は頬杖を付き、両手で頬を覆う。アーユルヴェーダトリートメントは、決して安価では受けられない。それは施術に使っている、薬効のあるオイルの値段が高いからだ。そして、日本の各種法令に違反しない形でそのオイルを輸入するために、気が遠くなるほどの手続きを踏み、書類を整え、管理している。今使っているオイルの品質や、その仕入にかけてきた事務的工数や労力を考えてみても、美津子が今更別の化粧品卸などが仕入れているアーユルヴェーダオイルに乗り換える判断をするとは思えなかった。
 沙羅の研修で杏奈がモデルとなる時、美津子はクライアントに使うオイルをそのままあてがっていたけれど、今後は普通の太白ごま油をキュアリングした、安価なオイルをあてがってくれるよう言った方がいい。
─今までもそうすべきだった…
 美津子の好意に、甘えていた。
 杏奈は窓の外の様子を見、
─そろそろ着いたところだろうか。
 と、美津子の居場所に思いを馳せた。
 せっかく、美津子がヨガインストラクターの当てを見つけたと聞いて喜んでいたのだが、次なる問題が発生している。

 一方、自宅にいた沙羅は、ようやくお昼ごはんの片付けに入ったところだった。
 ピコン。
 という音で、杏奈からの価格推移表が届いたのだと分かった。
─交渉事は、私の役目。
 七瀬が昼寝をしたら、治療院に向けてメールを打つつもりで、その文言を思案しながら食器を洗った。
 沙羅が片付けをしている間、七瀬は大人しくおもちゃで一人遊びしている、などということは少ない。
「ばあっ、ばあ~」
 子供向けのテレビ番組をつけろと、キッチンにまでリモコンを持ってきて訴えかけてくる。
「ちょっと待っててね、お母さん洗い物してるから」
「ばあ~っ」
 七瀬は顔をくしゃくしゃにする。ちっとも待っていてくれそうにない。
 リリリリン、リリリリン。
 沙羅が着信音に気付いた時、七瀬もそれに気が付き、顔をはっとさせた。沙羅は蛇口の水を止め、電話に出る。あかつきからだろうかと思ってスマホを見ると、沙羅はどきっとした。
─足込幼稚園。
「はい、伊藤です」
『あ、もしもし』
 足込幼稚園の職員からの電話だった。沙羅は快が熱でも出したのだろうと思った。
『来年度から保育室の利用が決まりましたので、そのご連絡です』
 決定通知は三月下旬と聞いていた沙羅は、思いがけない早い知らせに、目を大きく見開いた。

「栗原神社の近くに、そんなサロンがあったなんて知りませんでした」
 小さなカフェの、狭い二人掛けの席。美津子の対面に座っている若い男は、そう言って口元に微笑を浮かべた。
 濃い眉毛、薄い唇、アヒル口が印象的で、色が白く、女のように美しい顔つきをした男である。センター分けにした前髪は、左右に優雅に流れている。少し長めの髪は、真っ黒ではなくダークブラウン。
 美津子は先ほど、この近くのスポーツジムで、この男がインストラクターを務めるヨガクラスに参加してきたのだった。
「私も驚きました。まさか湯の花温泉の跡取りさんが、ヨガのインストラクターをされていたなんて」
「はは。僕は正式な跡取りではないんですけどね」
 この男、鞍馬は、静かにホットコーヒーを啜った。美津子もつられて、紅茶の入ったカップに口をつけた。こういうチェーン店に来たのは久しぶりだ。しかし、飲み物の選択には苦労する。
「僕のヨガ、どうでした?」
 コーヒーカップを持つ手を下ろさぬまま、鞍馬は尋ねた。その声は、男性にしては高いほうだろう。中性的な見た目をしていても、大きくて、少し血管が浮き出た男らしい手をしている。
「ええ。ちょうど良い強度で、心地よかったです」
 鞍馬は不敵な笑みを浮かべた。美津子が、自分の品定めに来ていることは、分かっていた。
 カップを置きつつ、美津子はスポーツジムでのヨガ風景を思い出した。
 鞍馬は体が細く、身長が低い。美津子よりわずかに背が高いくらいである。デモンストレーションをする鞍馬は、自信に溢れて見えた。生徒の間を縫って歩き、一人ひとりの様子を観察し、さりげないアシストをする。声の抑揚、テーマに沿ったメリハリのあるヨガクラスの構成。年齢的に経験は浅いのだろうに、そのクラスの中での統率力は稀なる才能を思わせた。さらに、生徒たちからの市民権を得ているようで、彼女たちは熱心にヨガの練習をするだけでなく、レッスン前後の鞍馬のトークをにこにこと聞いていた。
「生徒さんは、女性の方が多いのですか?」
「ええ。スポーツジムなんで男性も多いんですが、ヨガは女の人に人気で、僕のクラスはなぜだか特に女の人が集まりますね」
 なぜだか、と言ったが、鞍馬はちゃんと理由は分かっている。ジムに通っている、下はやっとを成年を迎える女性から、上は中高年の女性まで、鞍馬はそのルックスと人当たりの良さで人気があった。
「ところで、どうしてまた栗原花祭に?」
 湯の花温泉を経営する彼の実家は、三輪という、足込町最南東の地区にある。三輪は三輪で、花祭を開催しているというのに。
「ジムに通っている生徒さんの一人が、今年栗原の花太夫を務めた方の奥さんで、人が足りてないから、出てほしいって頼まれちゃったんです」
「そうでしたか」
 赤鬼に扮する鞍馬が踊っていた時、黄色い声を挙げていた集団を、美津子は覚えている。あれは、このジムの彼の取り巻きだったということか。
 あの日。栗原花祭が開催された日。
 美津子は直感が働いて、支度部屋に赴き、赤鬼を務めた踊り手に話しかけた。その踊り手こそ、今目の前に座っている鞍馬だった。
 果たして、鞍馬は家業をしながら、ヨガインストラクターとしても活動しているという。美津子は、あかつきの事業内容を簡潔に伝えた上で、ヨガインストラクターが不足しているという事情も話した。鞍馬はそれに対して、最初から話を聞かない態度を取ることはなかった。
 その場ではそれ以上細かい話はしなかったが、ヨガを受けに行っていいかと尋ねたところ、鞍馬は勤め先のスポーツジムの名を教えてくれた。
─見込みがあると思っていいのね。
 美津子は、勝手にそう判断した。
 鞍馬にとっても、足込町から離れたこのスポーツジム以外に就業先ができるのは、プラスになると思う。この子はそうとは言わないが、兼業でヨガインストラクターをしているのには、事情があることだろう。湯の花温泉は歴史ある旅館だが、この旅館とて感染症の影響を受けなかったわけではない。
─ここ数年、閑散期には出稼ぎに出なければと、当主が冗談交じりで言っていたよ。
 河代花祭で、美津子は加藤に鞍馬のことを話したのだが、その時加藤はそう言っていた。当主というのは鞍馬の父で、加藤と交流がある。
 おそらく、この若者がヨガインストラクターを兼業する一つの理由は経済的な問題だと思っていた。しかし、話をしてみると、鞍馬からはそのような、経済的逼迫感は感じられなかった。ヨガインストラクターとしての仕事に、やりがいと、自信を持っているようである。
─ヨガを教えるのが、好きなのね。
 経済的な理由から、必要に駆られてのことだけではない。それはむしろ、美津子にとっても望ましかった。となれば、あかつきでヨガを教えることの意義を強調した方が良いと考えた。
「鞍馬さんは、生徒さんに解剖学的なアドバイスをすることもできるんですか?」
「そうですね。まあなんとなくですけど」
 専門教育を受けたわけではないが、ヨガインストラクターのバイトをしていた時代に、自主的に勉強した。
「個人的な趣味もあって」
「そうですか」
 鞍馬自身は、目に見えて筋肉隆々ではないが、ほどよく鍛えているらしい。
「あかつきには、様々な不調や疾患を抱えた方が来ることが多いです」
 美津子は、さりげなく本題に入った。鞍馬もそれに気が付いている。
「もちろん、健康な方が、より若々しさと美しさを求めて来られることもありますが、多くは心身に何らかの悩みを抱えています」
「なるほど」
「あかつきでは、クライアントの滞在中、あらゆる方向から健康に向けてのアプローチを行います」
「はい。うちの旅館でも、リラクゼーションプランを立てています。同じようなことですよね?」
 美津子は頷いた。湯の花温泉が、アロママッサージや全身エステ、フェイシャルなど、女性に人気のプランを備えた和風旅館であることも、加藤から聞いていた。
「あかつきでは、食事やアーユルヴェーダ的な生活に加えて、健康のためのツールも提案しています。たとえば、呼吸法や瞑想。クライアントに応じて、自然体験やジャーナリングの指導などもあてがいます。けれど、問題はそのツールにヨガが抜けていることです」
「なぜです?」
「指導できる者がおりません…いえ、正確には、いるのですが、プライベートな事情もあって、ヨガに手が回せません」
 それはとりもなおさず、沙羅のことであった。
「あかつきでは、プラクティスとしてヨガのレッスンを行うだけでなく、セラピーの一部としてヨガをお伝えしたいと思っています」
「セラピー…?」
「はい。クライアントが抱える不調に応じたヨガの提案をし、実生活でも実践できるようサポートします。ヨガを、大きな処方箋の中の一部として提案するのです」
「ふうん…」
 鞍馬は、分かったような、分かっていないような、微妙な反応をした。
─つまり、パーソナルレッスンをしろってことか。
 単純にそう解釈した。パーソナルレッスンともなれば、単価は高くつくのだが。この女性は、それを分かっているだろうか。
 鞍馬のインスタや、ティックトックのフォロワー数は多い。時々パーソナルレッスンをしてほしいというメッセージをもらうことはある。自主開催すれば、レッスン代は全て自分の取り分である。もしあかつきのクライアントに、ヨガのパーソナルレッスンをするのであれば、自主開催する以上の旨味がなければ、意味がないと思うのだが。
 鞍馬は、しかし、心に浮かんだことをそのまま喋るほど子供ではなかった。
「鞍馬さん、そこでお願いなんですが」
─きた。
 鞍馬は顔を上げて、ただ美津子の言葉を待った。
「あかつきの足りない部分を、フォローしていただけませんか?」
 美津子は、ちょっと遠回しに言ってから、
「クライアントに対し、ヨガレッスンと、個別のアドバイスを行っていただくお仕事です。さっそくですが、直近で入っていただきたい案件があるのです」
「急だなぁ」
 鞍馬は、ちょっと戸惑ったような顔をしてみせた。心の中では、密かに算段をしている。まずは一回、そのあかつきというサロンに足を運んでみるのも、面白いかもしれない。ホームページやインスタで見た限り、和洋折衷の雰囲気のあるサロンだ。スポーツジムのありきたりな背景よりも、趣向が変わって、ヨガをする自分を映す背景として良いかもしれない。そうなれば、またファンが増える。
 鞍馬の心の内を知ってか知らずか、美津子は口元に微笑を湛えて、静かに鞍馬の反応を待っている。
「面白そうですね」
 一口コーヒーを飲むと、鞍馬は興味があることを示した。
 美津子はほっとした表情になって、
「では、詳しいお話をしてもよろしいですか?」
 美津子は居ずまいを正して、具体的な話をした。
 あかつきは健康に関する質問票を通して、クライアントの状況を把握し、より良い自分になるための提案を行っている。
 体のゆがみが気になっているという五十代の女性が、あかつきに滞在予定。これに対し、鞍馬に求めていることは三つ。
 一.クライアントが滞在中、ヨガレッスンを行う。
 二.滞在後、自宅で実践できるヨガの提案を行う。
 三.一、二の遂行にあたって、健康に関する質問票の内容を共有する時間を取る。クライアントに合ったヨガの指導を行うためである。
「レッスンの内容とおすすめのヨガポーズを、僕が考えるということですか」
「その通りです。ただし、その内容を事前に私か、他のスタッフにご報告ください」
 鞍馬は腕を組んだ。
─検査つき、か。
 ヨガレッスンを進行する能力と、クライアントに合ったヨガレッスンを考える能力は別だ。美津子は、後者の能力が自分にあるかどうか、確認したいのだろう。
「クライアントへのヒアリングは、あかつきさんが行うのをまた聞きする感じでいいですか?」
「ええ。けれど、ヨガレッスンを行うために必要な質問があれば、鞍馬さんからも聞いていただいて結構です」
 指導する上で、既往歴や、現在抱えている疾患があるか把握することは大事なことだ。クライアントの滞在目的や心身の悩みは、事前コンサルやカウンセリングで聞き取る。しかし、美津子たちが聞き取る情報だけでは不十分な場合もある。たとえば、体の左右差がどの程度あるか、体の硬さ、姿勢の癖。これらは、特別に申告されるか、コンサルティショナーが気付かない限り、ヨガインストラクターがその場で把握し対処することになる。
「業務委託という形になりますか?」
「そうですね。レッスンを成果物として、レッスンの開催を納品とみなし、納品事に報酬をお渡しするつもりです」
 給料ではなく報酬。雑所得となる。
「事前に提案事項を考える時間の分、レッスンフィーに反映されているということですね?」
「そのとおりです」
 鞍馬は薄い唇を結んだ。
 個人でパーソナルレッスンの客を取るよりも、報酬がいいとは思えなかった。しかし、アーユルヴェーダの癒しの館であるあかつきと関わることは、自分の知名度を上げ、ヨガセラピーに長けた者という印象を与えるかもしれなかった。その可能性がある以上、無下に断らなくてもいい。報酬のことは、実働時間を加味して交渉する余地もあるだろう。
 有意義な暇つぶしと思えば良かった。
「その案件を受けて、その後も続けるかどうか決めてもよろしいですか?」
「ええ。もちろんです」
「分かりました。それではいったん、今回の案件についてはやらせていただきます」
 鞍馬はにっこり笑った。それで美津子は、鞍馬があかつきの経営理念や、仕事の意義に、わずかでも賛同してくれたものと思った。
「ちなみに、あかつきさんはどのようにヨガインストラクターをプロデュースされているんですか?」
 だから、次に出た鞍馬の質問は、美津子にとって思いがけないものであった。
「…ん?」

 

 

 


 

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