第67話「経験の意味」アーユルヴェーダ小説HEALERS

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 ゴールデンウィーク
 いかがお過ごしでしたか?

 帰省先や旅行先で
 ご馳走を召し上がる
 機会も多かったのでは?

 GW明け
 なんとなく身体が重いな
 胃がもたれているな
 と感じたら

 キッチャリーを
 作ってみてください。

 そして、キャプションの文章はキッチャリーの紹介に続くのだった。
 瑠璃子は古民家カフェ・フォレストの日当たりの良い座敷に座って、インスタを眺めていた。もちろん、娘の万里子も一緒。
 今年度から年長となった万里子は、また手足が伸び、昨年の夏物の服が小さく感じられるようになった。
 土曜の午前中。
 足込町一番の繁華街、野郷にあるこのカフェは、ほぼ満席である。古民家カフェというと聞こえは良いが、このあたりの民家はみんな「古民家」というべき様相なので、足込町の人たちにとっては、別にそそられる要素ではない。それなのに、このカフェが人気なのは、単純に、足込町にはカフェと呼べる店が少ないから。この店は最近オープンしたばかりで、オーナーは町外から移住してきた、まだ若い夫婦だった。
─よく毎日続けられる。
 瑠璃子は内心感心しつつ、少し呆れた。瑠璃子が今見ているリール(インスタ内のショート動画)を発信元は、あかつきの公式アカウント。ママ友である沙羅の勤務先である。頻繁に投稿をしているので、だいたいフィードの先頭に上がってくるのだ。
 ちなみに瑠璃子は、インスタは見る専門。投稿するネタなどないし、仕事と子育てで、そんなことをしている暇もなかった。
 瑠璃子は左肘をテーブルにのせ、頬杖をついた。
─プロっぽい。
 動画がプロっぽくなった。カメラを一か所に固定しての撮影ではなく、被写体を写す範囲や角度が変わり、専門的なカメラワークも加わっている。
 ゴールデンウィーク明けに胃腸を休めることを勧めるこのリールは、視聴回数が五千程度。以前投稿されたリールの中には、再生回数が一万を超えるものがあった。和室で女性がシロダーラを受けているリール(沙羅がモデルだと、瑠璃子には分かった)。若い男性が、ボディーワークやヨガを教える風景を撮ったリール。
─羽沼さん、だよね。
 撮影や編集をしているのは。
 瑠璃子はあ~とため息を吐いた。花祭の時以来、瑠璃子は羽沼に、素っ気ない態度を取るようになってしまった。羽沼はただ、瑠璃子の一人娘・万里子の相手をしてくれていただけなのに…。
 瑠璃子は、自分自身や、万里子に近づこうとする男を遠ざけてきた。夫の不倫が分かってから、ずっと。
─自意識過剰。
 羽沼が悪い人ではないのは分かっているし、他意があって自分たちと関わっているのではない。そんな風に邪推するなんて、彼からしてみればいい迷惑だ。
 問題があるとしたら、それは自分の心。瑠璃子はそれが分かっているのだけれど、独身男性との関係が知り合い以上のものになることに、無意識のうちに拒否反応を示してしまうのだった。 
─晃と陽介は、別だけど…
 あの二人も独身男性だが、昔からお互いの家族諸共よく知っているという、根本的な安心感があるのだった。
「なにみてんの?」
 万里子はしばらく、人形の髪の毛をスタイリングして遊んでいたが、瑠璃子に身を寄せ、スマホを覗き込んだ。
「ユーチューブみたい、ユーチューブ」
「だめ。夕ご飯の後だって」
 万里子は時々、ユーチューブで子供向けアニメを見たがる。
─それにしても…
 瑠璃子は、パタンとスマホカバーを閉じながら、心の中でつぶやいた。
─うまくいってそうじゃん、沙羅さん。
 花祭以前に町役場に来た時は、子供を預けられるかどうかで悩んでいたのに。今はこのあかつきで、楽しく仕事をしているようだ。
 それに、こうして見ると、あかつきというサロンは、瑠璃子の目にも魅力的に思える。
 これまで、瑠璃子はサロンと名のつく所に何度か足を運んだことがある。ネイル、まつ毛、オイルマッサージ、アロマ…一口にサロンといっても、規模感や雰囲気、提供するサービスは様々である。
 あかつきは、重要伝統建築物といっても過言でないような建屋の中で、アーユルヴェーダトリートメントを提供する。それだけでなく、宿泊施設を兼ね、食事やヨガなどのサービスを受けられる珍しい滞在型のサロンだった。むしろ母体は民宿で、それにアーユルヴェーダサロンがくっついた、というような。
 瑠璃子があかつきの投稿をつい見てしまうのは、沙羅の勤務先だからということもあるが、単純にそこで体験できることが気になり始めたからだった。

「瑠璃ちゃん」
 澄んだ声がして、瑠璃子は顔を上げた。前髪を左右に流した、すらっとした女性と小さな男の子二人が座敷に上がってきた。古い友人であり、今はママ友である祥子、その息子の大地と朝日だった。
「ごめーん、遅れて。朝日が駄々こねててさ…」
「ううん」
 瑠璃子は首を振った。
「祥子さん、髪の色変えた?」
 瑠璃子は対面に座った祥子の、セミロングの赤茶色の髪を見て、そう尋ねた。
 祥子は髪先に触れて、
「染め直しただけ」
 と短く答えた。
「もう五月の半ばなんて、信じられない」
 税務関係の仕事をしている祥子は、激動の確定申告を経て年度末からの記憶がほぼなかった。
 飲み物と、子供たち用のおやつになるものを注文すると、二人は近況を報告し合う。
「ゴールデンウィークには、旦那の弟家族もうちの実家に来るから、もう大変でさ」
「旦那さんの弟家族が?珍しいね」
「名古屋に住んでるんだけどね…」
 弟がキャンプが好きとかで、新緑を求めて、奥三河へ来るらしい。そのついでに寄るのだそうだ。
「旦那の弟は結婚が早くてさ。年上のいとこが何人か来ると、朝日なんかは大はしゃぎで」
「ぼくも、おにいちゃんたちくるとうれしいよ」
 壁にもたれかかって、ゲームで遊んでいた大地が、そう言いながら身を起こした。
「あんたは、割と自分の世界じゃん」
「そうだっけ」
 大地は、ややかすれた声で、首を傾げてみせた。
「子供が大勢で楽しそうだね」
「楽しんでる暇もないよ。小学生が二人、未就学児が二人いるだけで、いつもめちゃくちゃ」
「いとこは、二人とも男?」
「男…」
「うわ…」
 瑠璃子は思わず、声が出てしまった。やんちゃざかりの男の子が四人も揃ったら、大人が何人いても手を焼くだろう。
「瑠璃ちゃんは?連休どっか出かけた?」
「名古屋まで行って、万里子の服買ったくらいかな…」
 瑠璃子は実家で暮らしているし、夫方の実家へ行くことももうないから、瑠璃子と万里子は大型連休に帰省する先がなかった。
 動きが少なくなったと、瑠璃子は思う。東京で夫と暮らしていた頃は、連休にどっちの実家に戻るかでよくバトルになったものだ。足込町には、小さな子供連れで安全に遊べるところが少ないので、瑠璃子はたいてい、そのバトルに負けた。夫の実家に行った方が、帰省した先で、さらに遠くに足を運ぶ楽しみがあった。
 足込町にも、子供たちや、孫たちの帰省を楽しみにしている住民がたくさんいるはず。しかし、町としての規模が小さく、ネイチャー体験を除いて遊べる場所、観光資源の乏しさゆえに、帰省先に選ばれない。
「まあ、山とか川とかに入れる季節は限られてるし、目を離せないしね」
 瑠璃子のそんな意見に、祥子は頷いた。
「こっちは古い家が多いから、そういうところで連休を過ごすっていうだけでも、街の子には大きいイベントになるんだろうけどね」
 そう言われると、確かにそうか。
 注文したものが運ばれてきて、子供たちはテーブルの上に置かれたシフォンケーキに群がった。
─祥子さんは子供が二人、弟夫婦にも、子供が二人、か…。
 瑠璃子は大地、朝日兄弟を見て、ため息が出そうになった。こっちサイドには、自分と、万里子だけ。
─万里子に、きょうだいを作ってあげたかった…
 と、瑠璃子は思う。
 子供を授かれない人もいる。ただ一人でも、授かったことを幸運に思わないといけない。それは分かっているけれど、あと二人くらい、本当は子供を生みたかった。
 瑠璃子は未だにそう思ってしまうのを、どうしようもなかった。

「そういえば、コミュニティードライバーサービスに、うちのお父さんも登録したみたいよ」
「え?」
 瑠璃子は目を丸くした。
 祥子の父は、定年後再雇用で、時短で働いていたものの、去年の春頃から体調を崩していたのではなかったか。
 コミュニティードライバーサービスは、瑠璃子が苦労して、この春から本格的に稼働が始まった制度だった。足込町では、地域の足としてタクシーが必要であるものの、利益を上げられず、一社を除いて全てのタクシー会社が撤退した。
 瑠璃子は、残っているタクシー会社のシステムに目をつけ、そのシステムの利用料金を月額で支払う代わりに、そのタクシー会社の管轄エリアに、民間人のドライバーサービスを入れることを容認してもらった。ドライバーは地域住民である。地域の住民同士で助け合おうというコンセプトだった。
「胆石取ったし、今は元気だよ」
 祥子は朗らかに答えた。
「そうなんだ。よかった」
 祥子は、同い年で幼馴染の晃の、歳が離れた姉である。だから二人の父親のことは、瑠璃子も小さい頃から知っていた。夕暮れ時まで外で遊んでいると、たびたび晃を迎えにきたものだ。その父親が、自分が一役買ったサービスの担い手になってくれるのは嬉しかった。
 そして、今回の瑠璃子の働きは、町役場の中でも相当評価された。タクシー会社を説得したことが大きい。
─でも本当は…
 羽沼がヒントを与えてくれたからこそ、その案を出せた。自分一人で導き出した説得の糸口ではない。だから町役場の人たちや、こうしてママ友経由で誰それが運用・利用していると聞く度に、瑠璃子は羽沼に対して借りができるような気持ちになった。
「ココちゃんとココちゃんママは、きょうこないの?」
 シフォンケーキのクリームだけすくって、ぺろぺろ舐めていた万里子が、瑠璃子に訊いた。ココちゃんとは、快の呼び名である。
「だから、ココちゃんのママはお仕事だって」
「え?そうなの?どようびなのに?」
 家を出る前に何回か言ったはずなのだが、万里子は初めて聞いたというようにきょとんとした。
「その旦那の弟の妹さんがさ…」
 沙羅と快の名前が出て、祥子は思い出したように言った。
「沙羅さんの勤め先のこと知っててさ。足込町まで来ることもそうそうないから、行ってこようかなって、ずっと迷ってた」
「そうなんだ。で、行ったの?」
「ううん。でも、ゴールデンウィークってどこも混むし、近場で異空間が味わえるならそこ行きたいって、最近幼稚園の別のママさんもよく話してるよ」
 ひっそりと足込町に根を張っていた、知る人ぞ知るあかつきだったが、最近認知度が増している。
─宣伝効果、あるんだな…
 つい先ほどまで見ていたインスタを脳裏に浮かべて、瑠璃子はそう思った。
「そういえば、晃は彼女とうまくいってるの?」
 瑠璃子は手元のティーカップの取っ手に触れた。
「そうみたい。あの子もぼんやりしてたけど、なんとなく将来を考え始めたみたい」
「結婚したら実家を出るつもりなのかな?」
「さあ……残るんじゃない」
 祥子はあっさりと言った。
「出て行く理由の方が少ないもの。職場は実家から近いし、晃の遊びといえば、山に登るか、岩に登るかだし、なんだかんだ足込町が好きなのよ」
「そういえば、祥子さんもずっと足込にいるよね」
「出て行ったことないね」
「外に出て行きたいって、考えたことないの?」
 祥子はしばし目を宙に泳がせて、首をひねった。
「うーん」
 祥子はコーヒーカップをゆらゆらさせながら、
「私は、一人暮らしするのが怖かったから」
 答えを探しながらゆっくりと言った。
「寮に入るのも嫌で、実家から通えるような学校とか、職場に行ってたから、自然と結婚してもそのままでいたいと思ってた。一瞬、夫とアパートに二人暮らししてたけど、やっぱり夫婦二人だけで子育てするより、じじばばの助けがあった方が圧倒的に楽だもん」
「それは、分かる」
「都会に染まってもみたかったけどね」
 祥子はそう言って、いたずらっぽく笑った。
「今の仕事も、人間関係は悪くないし。面白いってわけでもないけど、ストレスもないから、しばらくこのままかな」
 瑠璃子は聞きながら、祥子からも町役場で感じるのと同じスローなリズムを感じた。
 足込町に帰って来た頃。瑠璃子は町民たちのスローさと、貪欲さに欠ける姿勢に、しばらく違和感を感じていた。しかし最近では、そのスローさを、彼らの「怠惰」ではなく、沙羅が時々言うヨガ哲学でいうところの「知足(サントーシャ)」なのではないかとさえ思えるようになった。
─そんな風に落ち着けたら、どんなに楽だろう。
 瑠璃子は今でも、思ってしまうのだった。この町とは違うところで、別の仕事をして生きていた可能性を。

「いち、に、さん」
「いち、に、さん」
 栗原神社の境内の中で、快と七瀬は、砂利を積み上げたり、時々快がふいに歌い出す歌に合わせて、二人で踊ったりしている。美津子と空楽は、少し離れたところに立ち、そんな二人を見守っていた。
 小須賀や杏奈が相手なら、何の意味もなくても、言葉が自然と口から出る空楽だったが、美津子の前では、そうはいかなかった。
 あかつきを切り盛りしている、美しい女性。いつもどこか微笑んでいるような、柔和な顔つきをしていて、話しかけにくい雰囲気では決してないのに、空楽はなぜだか、美津子の前に出ると緊張してしまうのだった。
 どうしたら、こんなに穏やかな女性になれるのだろう。空楽は、穏やかな女性になりたいと考えたことはなかったが、美津子の醸し出すオーラに触れているだけで、一種の憧れのようなものを抱いてしまう。
 結婚もしていないし、子供もいないと聞いている。しかし、快と七瀬への接し方を見るに、子供の相手をするのには、とても慣れているようだ。
「お、これは美津子さん」
 竹ぼうきを持った、甚平姿の白髪のおじいさんが現れた。空楽は、日本昔話に出てきそうなおじいさんの風貌に、しばし目が釘付けになった。
「宮司さま」
「ぐう爺でよいよい」
 ぐう爺と名乗ったおじいさんは、空楽の視線に気が付いたのか、怪訝そうな顔で、空楽を見る。
「ん?今日はあの…杏奈とは違う子ですね」
 そればかりか、小さな子供を二人連れている。
「ええ。うちによく手伝いに来てくれている子で」
 美津子は空楽に顔を向けながら、ぐう爺にそう紹介した。
「この子たちは、うちのセラピストの娘さんたちです。今ちょうど、母親が仕事をしてますので」
「ほう…子守ですか。えりゃあもんだなあ」
 七瀬は竹ぼうきに興味を示したのか、ぐう爺のほうへ両手を上げて走り寄った。
「これはいかんっ。これ、これは遊び道具ではないっ」
 しかし、この頃の子供は、一度「こうしたい」が決まると、なかなか引き下がらない。
 ぐう爺は竹ぼうきを上へ上げたり、持ち手を変えたりして、つかませまいとしたが、七瀬は執拗にぐう爺の竹ぼうきを追いかけまわした。
「柄のあるものは、男の子はつかみたがるもんだが…」
「すみません。少し触らせてやっていただけませんか」
 美津子の頼みで、ぐう爺は仕方なく屈み、柄を七瀬に触らせてやった。そうなると、快まで竹ぼうきに歩み寄って、
「ナナちゃん、これ、おおきいからナナちゃんにはもてないよ」
 と、世話を焼こうとする。
 ぐう爺が子守をする形になると、美津子と空楽は、彼らと少し距離を取ったところから、その様子を眺めた。
「子供はいいわね。なにもかもが楽しそうで」
 美津子は微笑ましげに快と七瀬の様子を見やった。
「そうですね」
「空楽さんも、楽しい?あかつきのキッチンで料理をするのは」
 空楽は「あ…」と言って、
「すみません。勝手にお邪魔して」
 小さな声で遠慮がちにそう言った。
「いいのよ。うちのスタッフたちも、楽しんでいるから」
 空楽は少しほっとした。いい年してフラフラしている自分がどう思わているか、気になっていた。
「仕事をしているのに、楽しいって、素敵なことよね」
 美津子は並んで立つ空楽に微笑んだ。空楽は美津子より、少しだけ背が低かった。
「空楽さんは、どんなことをしている時に楽しいと感じるの?」
「私は…」
 そう訊かれると、すぐには思い浮かばない。
「自分が何かをして楽しいというより、楽しい場面や、楽しい人たちと接することで、楽しい思うのかもしれません」
「ふうん」
 美津子はふんわりと相槌を打った。
「前の仕事は、まさにそういう、楽しくて幸せな場面を演出することで…」
 結局、一度たりともその演出に携われないまま、終わってしまったが。
「でも、ものづくりをしている時も、楽しいなって思います」
 アクセサリーであれ、農作物であれ、料理であれ。その先に、それを手に取った人が喜んだり、より美しなるのを見ることが、楽しい。
「杏奈が、あなたはとても器用な人だと言っていた」
 美津子は、空楽の手元を見て、
「その指輪もご自身で作ったの?」
 空楽はそう訊かれると、恥ずかしそうに、ピンキーリングをつけている指を反対の手で覆った。
「私は、地味な作業を続けることしかできないんで」
「そう。でもそれも、一つの才能よね」
「でも仕事にするほどの腕ではないんです。私は集中力がないし、気まぐれで、何をやっても続かなくて…」
 淡々としながらも、しぼんでいく空楽の声。美津子が横目で見ると、空楽の表情はどこか寂しそうだった。
「…今度、寛子さんというクライアントが来るんだけどね」
 美津子は、視線をぐう爺と子供たちに戻して、別の話をした。
「杏奈がコンサルを担当するの。寛子さんは…」
 他者からの評価や言葉に強く影響を受けてしまい、なかなか自分に自信が持てない人らしい。
「そういう精神的な傾向にどうアプローチするべきか、頭を悩ませているわ」
「そうなんですか…」
 そんな人に、どうアプローチすべきかなんて、空楽には全く思いつかない。
「美津子さんは、杏奈さんにアドバイスをするんですか?」
「…そうね。でも、杏奈は最初からは聞いてこない」
 それはあかつきで働き始めた時から、そうだった。
「あの子は答えを自分で見つけてくる。私がアドバイスをするのは…杏奈が考えた答えを聞いてからね」
「へえ…」
 空楽は、あかつきは楽しそうな職場に見えるけれど、仕事をする場所である以上、楽しいだけではなさそうだなと思った。
「自分にかける言葉って、すごく大事なの」
 静かな声が、空楽の心に浸透した。
「たとえば、そうね…快くらいの年齢か、もう少し大きくなると、補助輪なしで自転車に乗る練習をするでしょう」
 美津子の瞳は、竹ぼうきを七瀬と一緒に持って、木の葉を突いている快を捉えていた。
「でも、最初は転んでしまう。乗れなくて当然だわ」
 初めて挑戦することなのだから。
「だけど、そんな子供に対して、まただめったのか。あなたはまたできなかったのね。なんて、言わないでしょう?」
 子供を傷つけることになるし、その子の親が傍で聞いていたら、なんて失礼なんだと思うだろう。
「それなのに私たちは、自分が相手だと、やすやすとそんな言葉をかけてしまう」
 美津子は寛子の話にかこつけて、自分に対して、教訓を与えようとしているのだと、空楽は察した。
「自分が自分にかける言葉にだって、私たちは傷つくわ」
「…」
「だから、たとえ口には出さなかったとしても、心の中で思うことって、とても大事なの」
 美津子が空楽の方を向いたので、空楽も美津子を見た。美津子はにっこりと口角を上げた。
「私は、寛子さんが自己認識を変えて、自分にポジティヴな言葉をかけられるよう、促すことが大事だと思う」
 美津子は少し顎を引いて、ふふっと笑った。
「杏奈がそれに気づいてなかったら、私はそうアドバイスするつもりよ」
 森のにおいを含んだ風が流れてきて、空楽の髪が、風に揺れた。
「宮司さま」
「…おん?」
「ちょっと花神殿へお参りしてきますが、そのまま少し…よろしいでしょうか?」
「お、おん…」
 美津子は空楽を誘って、花神殿に入った。空楽は花神殿へは、入ったことがなかった。
「時々、ここへお供え物を持って、花神さまへお祈りに」
 美津子は花神さまの前まで進んで、足を止めた。
 花神さまは薬師神の分身、健康に関わる神様だという朧げな記憶が空楽にもあった。美津子たちは、人の健康をサポートする仕事をしているから、こうしてここに祈りに来るのだろうか。
 空楽は美津子に倣って、花神さまの前へ歩み出ると、そこで両手を合わせた。

 単発のお客が帰ると、沙羅はホールに立って、うーんと伸びをした。
 母屋の中は静かである。聞こえてくるのは、キッチンからの、わずかな水音だけ。
─子供たちは、どこに行ったんだろう。
 沙羅は今日、新規・単発のお客の施術に当たった。その間、子供たちは美津子が面倒を看てくれていたはずだが…
 沙羅は唯一、人の気配のするキッチンに入った。施術がない日でも、いつだって、キッチンという場所には人の気配がする。
「お疲れさまでーす」
 キッチンの中は散らかっていた。足込温泉へ納品する弁当作りが終わると、いつもこんな状態になる。今日は杏奈が配送に出ているのか、キッチンにいるのは、小須賀一人。
 小須賀は相変わらず痩せている。服が夏物になると、よりそれが浮き彫りになった。
「お疲れさまです」
 沙羅は小須賀に声をかけつつ、正装のまま、キッチンへ入った。
「子供たちを知りませんか?」
「邪魔になるといけないからって、散歩に出かけましたよ」
 さすがに新規の客に、子供の声が騒がしいサロンという印象を与えるわけにはいかない。
「そうですか…申し訳ないですね」
「いいんじゃないっすか?美津子さん、子供が好きだし。それに、空楽も一緒に行ったから」
「空楽ちゃん、また来てたんですね」
「ええ。いっそここで働いてくんないかな~」
 沙羅は浄水をコップに注ぎつつ、思わず笑ってしまった。
─節操がないというか…
 この前まで、自分はここを辞めるだのなんだの言っていたのに。
「相当、気に入ったんですね、空楽ちゃんのこと」
「だって、可愛くないっすか?」
 臆面もなく、よくそんなことが言える。
 沙羅はごくんと水を飲み込んで、コップを調理台の上におく。その沙羅の顔を小須賀はじい~っと覗き込んで、
「あ、ちゃんと沙羅さんのことも、可愛いって思ってますから」
 何が大丈夫なのか。沙羅はコップに残っている水を、軽く小須賀に浴びせたい衝動をなんとか抑え込んだ。
「小須賀さん、ちゃんと脳で考えて言葉を選んでください」
 脊髄反射的に適当なことを言わないでほしい。
「大丈夫です。心で考えてますから」
─は?
 沙羅の相槌が途絶えても、小須賀は全く気にする様子はなく、さっさと散らかったキッチンを片付けていく。
「沙羅さんは天真爛漫系ですけど、あの子はちょいメンヘラが入ってます」
 メンヘラとはメンタルヘルス(心の健康)の略語。自己否定的な感情を抱き、心が不安定な状態である人を指す言葉だ。
「なんか、私が悩み事のない能天気おばさんみたいに聞こえるんですけど…」
 被害妄想だろうか。
「それに、空楽ちゃんはメンヘラには見えませんが」
 むしろ、物事に動じず、淡々としていて、感情の起伏が少なく見える。
「そんなことないっすよ。彼女は、いろいろと悩んでるし、考えてます」
「どうしてそんなこと…何か話したんですか?」
 小須賀は作業をする手元に向けていた顔を上げて、
「勘」
 思いっきり、真顔で言った。
 沙羅は飲み込んだ水が変なところに入ったのか、むせてしまう。
「あん…なちゃんは?」
 ゴホゴホと急き込みながら、沙羅は訊いた。どちらかというと、空楽よりも杏奈の方が、繊細な心の持ち主のように思える。
 しかし、小須賀はとんでもないというように顔を振った。
「あいつは、メンヘラではないですよ。実は、めちゃくちゃ楽天家です」
「え?」
 沙羅は目を丸くした。杏奈を楽天家だと思ったことはない。
「でなきゃ、おれがあんなにけなしてるのに、ヘラヘラして聞き流せるわけがない」
「…自覚してるんじゃないですか」
 小須賀は、杏奈への風当たりはきつい。この頃は、それも少し落ち着いてきたが…
「杏奈はメンヘラとはちょっと違うな…発達障害系?」
 沙羅は口をつぐんだ。本人には決して言わないが、沙羅もそう感じたことがなくはない。人との間に壁を作り、人の言葉を冗談か本気か読み取ることが困難。一つのことを見始めたら他が見えなくなる。興味や行動が偏っている。
「ちょっと分かります。でも、完全に黒ではないですよね」
「まあね」
 小須賀は軽く返事をした。小須賀としても、確信的にそう思っているわけではないらしい。
「コミュニケーションは、最初の頃より大分マシになりましたよ。でも、一つのことに傾倒しやすいって部分は…前より拍車がかかっているような」
「それだけ、仕事熱心ってことですけどね」
「まあ、アーユルヴェーダの専門家で食ってくんなら、それくらい極端じゃないとやっていけないのかもしれないですね」
 それにしても、他の楽しいことを見なさすぎるのではないかと、小須賀は思う。
 確かに、沙羅も、杏奈がコミュニケーションが苦手ということは分かっている。しかし、生活や対人関係に決定的な支障が出るほどではない。一定の関係性がある人と対する時や、よく考えたことを話す時には、話すのが苦手…という印象は受けなかった。
「楽しさって、人生の糧じゃないっすか」
 てきぱきと調味料や調理道具を定位置に戻しながら、小須賀は話を続けた。
「でも、杏奈は楽しさに貪欲じゃないんすよ。なんというか、負の感情のほうによくなじむというか…だからって、厭世的ではないんだけど…分かります?」
 小須賀は杏奈の性質を、言葉で表現するのに苦戦している。が、沙羅にはなんとなく伝わった。その性質は先天的なものなのか、それとも…
─結局、あのことがキーになっているのだろうか…。
 強い自己否定的な感情を抱いた経験によって、負の感情への感受性の方が、強くなっているのかもしれない。
「要するに、おれや沙羅さんとはタイプが異なるってことです」
 小須賀は、そう結論づけた。沙羅は、小須賀が言うことが分からなくもない。似た者が似た者を引き寄せ…これは人間関係においてもそうだ。
「私も小須賀さんも、陽の部分が多い人に吸い寄せられて、そのエネルギーを感じるのが好きですもんね」
 沙羅の言葉のチョイスは、中医学的というかアーユルヴェーダ的というか、独特なものがあった。
 小須賀は苦笑いをし、首を傾げた。
「まあ、そうっすね。明るくて楽しい人の方がいいっすね」
 そういう人と一緒にいると、相乗効果で明るく楽しくなる。
 もっとも、沙羅はただ陽気なだけではない。人の悲しい気持ちや、つらい気持ちにも、寄添ってあげられる。そういう自負がある。だが、沙羅は基本的には、陽気でサットヴァな雰囲気が好きだ。
「でも杏奈ちゃんは、少し違うみたい…」
 小須賀がさっき言っていたことに、沙羅は同感だった。
「人の闇とか、暗い部分に、最初に目がいくみたい」
 陽の気に吸い寄せられる二人とは異なる。
「陰の部分が多い人に吸い寄せられて、そのエネルギーに触れる…なのに、そのエネルギーに引きずり込まれてしまうかというと、そうでもない…」
 先ほど小須賀が、杏奈は楽天家だと言ったように。
─そして…
 美津子は、人のネガティヴなエネルギーを感じやすく、それでいて引きずり込まれにくいという、杏奈の性質を買っている。
─経験したことしか、人には話せない。
 美津子は、常にそう言っている。そしてあかつきには、何らかの暗い経験と、それに伴う身体的・心理的不調を持った人が来ることが多い。
─杏奈ちゃん自身が、そういう経験をしてきたからこそ…。
 彼女は、クライアントに心から共感できる。共感してくれる人に、人は心を開く。沙羅は、ようやく、納得できたような気がした。美津子は杏奈の暗い経験ごと、杏奈の可能性を見出したのだ。
─でも杏奈ちゃんが、その冷たい経験を昇華できたら…
 それはもはやネガティブな過去でなく、杏奈の宝物となる。
 抑圧された感情、選ばれないことへの絶望、圧倒的な自己否定…その気持ちを忘れないまま、アーユルヴェーダを通して、人を癒す術を身につけたら…
─その時杏奈ちゃんは、あかつきを支える、とても強固な柱となれる…。
 全ての経験には、意味があるのだ。それがたとえ、誰もが経験したくないと思うような経験であったとしても。
「なにをぼんやりしてるんです?」
 小須賀は、突っ立ってぼうっとしている沙羅に、鋭い声を浴びせた。
「暇なら手伝ってくださーい」

 

 


 

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