第37話「適性」アーユルヴェーダ小説HEALERS

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 奥三河の低山の麓。山道具を持ち出して、テントを張る。風の音、薪ストーブの火の弾ける音を聞きながら、食事を楽しむ。ほとんど会話はない。キャンパーの目線からの映像がほとんどであり、撮影者は、映ったとしても、上半身まで。
「顔出ししんの?」
 羽沼の丸太小屋の外。屋根下に設けられた木のベンチに座り、机に上半身を乗り出した状態で、安藤は対面に座る羽沼に尋ねる。youtubeにアップされた羽沼の最新動画を、今しがた見終わったばかりだ。
「うーん、ちょっとね」
 別に、絶対嫌だという理由はないが、これまでも顔出しせずに再生回数を稼げているのだから、このままでいこうと思う。
「それにしても、淡々とした動画だな」
「この淡々とした感じがいいって思ってもらえるみたい」
 羽沼は、キャンプ用のコップにドリップコーヒーを淹れて、安藤に渡す。
「いいねぇ」
 安藤はさっそく口元にコップを寄せ、息を吹いて冷ました。コップからもくもくと、白い湯気が立ち上る。
「外で飲むコーヒーはうまいよな」
 ところで、安藤は今日、丸太小屋へ仕事をしに来ている。だが、どうも先ほどから他事ばかり。
「安藤、もうちょっとで料理教室始まるから、聞きたいことがあるならその前に言えよ」
 安藤はコーヒーを啜りながら、渋い顔をした。明らかに、気が進まないという顔だ。
─なんでおれがこんなことやらなきゃいけないんだ…
 羽沼に急かされて、安藤はようやくパソコンを開くと、動画エディターでおばちゃんたちが踊っている動画を編集し始めた。卒業生を送る会のダンスの練習。その動画を見やすく加工する役目を安藤は押し付けられた。おばちゃん先生たちは、機械に疎い。若い女性の教員たちは、育児中だの体調不良気味だのと何かと理由をつけて、こういう面倒な役は、独り身の男である自分ばかり。
「安藤、自分一人で編集できるんじゃん」
「まあね」
「じゃあ、家でやりゃいいだろ」
 人の家に来て…wifi泥棒か。
「一人だとやる気にならねぇんだよ」
 友人と話しているうちにやってしまえば、時間外労働をしているという意識も薄らぐというものだ。
「にしても、動画作るのも地味な仕事だな」
 世のyoutuberもきっと、撮影の時は頑張ってテンションを上げて、裏ではこういう地味な作業を黙々とやっているに違いない。
「そう思うと、お前がyoutuberしてるのも違和感ないわ」
「おれが地味ってこと?」
 羽沼は、コーヒーを啜りながら目を細めた。安藤は、羽沼から目を逸らして画面を見つつ、ごまかし笑いをする。
「いや、お前、どちらかっていうと、パフォーマーとして前へ出るより、裏でサポートする方が向いてそうじゃん」
 褒めているつもりで、そう言った。
「自分の動画を撮って、自分でプロデュースしようなんて奴に見えないよ」
「まあ、前の職場でも調達部だったしな」
 どちらかというと、目立たない仕事をしている。それでも部署の中では、羽沼は決して目立たない存在ではなかった。海外のサプライヤーの担当者も、何かというと羽沼を頼り、羽沼は調達部で一目置かれる存在だった。
─地味、か。
 しかし、今の自分は、人からそう見られるらしい。根暗な安藤が自分には寄り着くのは、そのせいもあるだろう。
「とはいっても、youtuberもお笑い芸人と一緒で、頭が良くないとできなさそうだよな~」
 安藤は飽きたように顔をパソコンから背け、足を組んだ。
「安藤はどうして小学校の先生になったの?」
 羽沼は、この少し年下の友人に尋ねた。教員とは、勉学面だけでなく人間的な成長という側面からも、児童や学生を導いていこうという熱意が高い人だというイメージがあった。安藤が、youtuber=テンションがやたら高く見えるが、実は根暗タイプの引きこもり人間という固定観念を持っているように。しかし、羽沼がもってる教員のイメージとは裏腹に、安藤はどちらかといえば、冷めている。
「よく聞かれるよ、それ」
 安藤は一回転職をしているということを羽沼は知っている。前の仕事は、自動車部品メーカーの営業であった。
「頭がいい奴には分からないと思うけど、転職するっつったって、よりどり緑じゃない」
 安藤は皮肉るように言った。
「できそうな仕事の中で、選んだだけさ」
 帝大を出て、大企業に勤めていた経歴のある羽沼に、安藤は少し引け目を感じている。そんな経歴を、羽沼はもうちっとも、意味のあるものと考えてはいないが…そう言えばそれも嫌味になるだろうか。
 羽沼はコーヒーを啜った。
「でも少なくとも、子供が好きだろ?」
「少なくとも、嫌いではないよ」
 そう言いながら、安藤はこの間あかつきで会った小さな女の子たちを思い出す。
「まあ、大人しくて、聞き分けのある子供に限るけど」
「なんだそれ」
 羽沼は顔を上げて、口元を緩めた。

 自分の仕事を十分程度で片付けた安藤だが、その後羽沼の仕事を、一時間以上手伝うことになった。
 オンライン料理教室を受けている羽沼の様子を映すという仕事である。
─キッチャリー作りをネタにする。
 オンライン料理教室のテスト開催に協力してほしいと杏奈から頼まれた時、羽沼は、わざと交換条件を出した。教室に参加している様子を、ウィングチャンネルのネタにすること。もちろん、ネタバレは避けて。羽沼としては、実際にネタにするつもりはなかった。ただ、そう言った方が、「お願いするばかり」という意識を持たれずに済む。
─まったく、なんだっておれがこんな手伝いなんか。
 安藤はスマホスタンドが風で倒れないよう支えるという地味な役割を実行しながら、心の中でぼやいた。
 屋外のテーブルには、パソコンとカセットコンロ、鍋、両手で数えられる程度の食材が置かれている。
「止めて」
 羽沼に言われてから安藤がスマホをタップするのに、ちょっと間があった。安藤はぼーっとしていた。
「古谷さん、やっぱり、ちょっと声が聞き取り辛いな」
 画面の中の杏奈は、困ったような顔をした。
「換気扇の音と鍋の音かな…パソコンに内蔵されてるマイクでやってる?」
『はい』
 さすがに、そこにはコストをかけた方がいいだろう。料理教室では、講師は激しい動きはしないものの、同じところにずっと座ってもいない。とすれば、マイクは固定するタイプのものより、マイク付きイヤホンのほうが向いている。
「オッケー、続けよう」
 羽沼は安藤に目配せした。安藤はただ、スマホをタップする。
『豆やお米が柔らかくなってきたら、ターメリック、塩を加えましょう』
「はい」
 羽沼は小さなジッパー付きポリ袋を開ける。
「先生、ターメリックの量はどのくらいですか?」
『小さじ六分の一程度です』
 安藤は小さじ六分の一ってどのくらいだ?と思う。羽沼は、分かっているのだかいないのだか、ティースプーンでちょっとだけターメリックをすくい、投入した。ポリ袋の中の空気を抜いて封をしようとすると、少量のターメリックが空気に押されてぶわっと出てくる。粉がジッパー部分に入りこむと、閉めるのにもてこずる。
「はい、入りました」
『軽く混ぜてください。そのまま、豆と米がとろけるまで、コトコト煮込みましょう』
「はーい」
 羽沼は返事をしながら、もう一つ別のスマホを取り出し、安藤が支えているスマホとは別のアングル─真上─から、キッチャリーの様子を撮影する。
 パソコンからは杏奈の声が流れて来た。懇切丁寧に、ターメリックを入れることの利点を説明している。安藤にもその声は聞こえているのだろうが、退屈なのか、一つ大きなあくびをした。
─料理教室の撮影に参加しても、出来上がるのはお粥か。
 他では食べられないような、美味しい料理がご褒美でないと思うと、安藤はイマイチやる気が起きなかった。もっとも、他では食べられないという点では、キッチャリーも当てはまるのだが。
 教室が終わると、杏奈から確認事項がいくつか飛んだ。羽沼からも、気が付いた点を列挙する。
「画面共有はスムーズだったけど、やっぱりマイクは買ったほうがいいね」
『はい』
「それから、実際に生徒になったつもりで受けてみたけどね…」
 安藤は用済みとなったスマホスタンドをたたんで、羽沼の横に並び、画面の向こうの様子を見た。杏奈が真剣な面持ちで、羽沼からのフィードバックに耳を傾けている。
「キッチャリーの説明は、分かりやすかったよ。作り方もよく分かった」
 とはいえ、羽沼はキッチャリーを食べたことがないので、うまく作れているのかどうかは分からないが。
「もう少し、声に抑揚があるといいかもしれないけどね」
『ああ…話し方ですか?』
 画面に映る杏奈は、身に覚えがある、という顔をした。
「うん。強弱があったほうが、こっちとしてもなんというか─」
「─眠くならない」
 羽沼は、安藤の背中を叩いた。
「メリハリがある印象が残るよ」
 言葉を選べ、とばかりに背中を叩かれて、安藤は背中をさすった。
「あとは、スパイスを入れてくれた資材だけど、もうちょっとなんとかならない…?」
 豆や米は固形物なので良いが、パウダータイプのスパイスは、袋からの出し入れがしにくい。
『うーん、資材ですね…検討してみます』
 オンライン料理教室のテストを引き受けるにあたって、食材やスパイスはどうすればよいのかと杏奈に尋ねた時、杏奈は必要な食材を一式、適当な袋に入れて羽沼に渡した。
─実際には、生徒さんたちは自分でこれを揃えるの?
 そう尋ねたら、杏奈はぽかんとした表情をした。あかつきには、当たり前のように必要な食材が揃っている。それが受講生の家に、当たり前にあるものではないことは分かっていながらも、受講するなら当然、生徒が買うものと思っていたのだろう。
─ハードルが高いと思うよ、それ。
 羽沼は、これは大切なポイントだと思った。
─郵送したら?計量済、使い切りの食材が届く。いい宣伝文句にもなると思うんだけど。
 キッチャリーを作り続ける前提で教室に参加するのだから、生徒は食材を仕入れる先も把握しておくべきだと、杏奈は当然のように思っていたのだが、それはあかつきの意見であって、生徒の望むところではないかもしれない。
─まずはお試しとして体験したいだけの人もいるでしょ。そういう人には、特別な食材は届けますって言ったほうが、ハードルが下がると思う。
 少なくとも、自分なら食材を届けてくれた方が良い。キッチャリーなんて、聞いたこともない、得体のしれないものを作るのに、材料まで自分で買わないといけないとなると、初めの一歩が踏み出せない。
『羽沼さん、今日もありがとうございました』
 終わりがけに、杏奈は丁重にお礼を言った。
『安藤さんも…』
「おれは何もしてないけどね」
 時々、スマホをタップしていただけだ。
「マイクは当たりを付けて、URLを送っておくよ」
『ありがとうございます!』
「またなんかあったら、手伝うから言ってね」
─お人よしだな。
 羽沼は鷹揚な性格だと、安藤はつくづく思う。
─暇なんだろうけど。
 こんなにも協力的なのは、それとも、杏奈に気があるのだろうか。
『羽沼さん…えと…たとえば、クライアントを連れて山に登るっていうようなお話でも、引き受けてくれたりしますか?もちろん、お礼はさせていただきます。あのう…オーナーも望んでいることで』
「いいよ」
 羽沼はあっさり頷いた。
「植生の説明とかできないけど、それでもよければ」
─いいのかよ。
 安藤は、一つ返事で快諾する羽沼を「まさか」という表情で見やる。
─どんだけ暇なんだよ。

「よし」
 杏奈は、立ったまま右の太ももを、右の手のひらでポンっと叩き、思わずガッツポーズをした。傍でオンライン料理教室の様子を見ていた美津子は、思いがけない杏奈の喜びぶりを、珍しいものを見る目で見つめる。
「あの…」
 杏奈は、幾分恥じらった表情を見せて、美津子を振り返った。
「これで、大樹さんが退屈することもないなと思って」
 二月にあかつきへの滞在を決めている咲子。その夫・大樹も、咲子を迎えがてら、最後の二日間、あかつきへ滞在したいと申し出があったのは、つい先日のこと。
 大樹はマッサージを受けるよりも、登山を望んでいた。勝手に行っても良いのだが、案内役がいるとより安心とのこと。
「それは良いけれど、やっぱり食材郵送の件はちゃんと考える必要がありそうね」
 美津子としても、珍しい食材は送るという約束があったほうが、生徒のハードルは下がると思う。
「はい」
 杏奈は、ひとまず出来上がったキッチャリーを器によそった。今日はこれと朝作った蒸し野菜の残りで、お昼ごはんである。
「資材と配送手段を検討してから、受講料の決定、宣伝ですね」
 応接間に移動し、キッチャリーの入った器を美津子の前に置くと、コト…と小さな音がした。
「教室の募集開始はいつにする?」
「ええと」
 杏奈はお盆を脇に置き、椅子に座った。とりあえず、いただきますと合掌する。
「受講料が決定してから…」
「キッチャリーに興味を持ちそうな人へ向けての発信は、今からできるはずね」
 杏奈はキッチャリーを口に含みながら、目を見開いた。
「興味がありそうな人を今のうちにひきつけておいて、限定性を持たせて宣伝しよう」
「限定性ですか?」
 具体的には、先着何人まで受け付け可能、特定の日にちまでのお申込みで早割を適用する、あるいは特典をつける、など。
「とにかく初回は安い値段でもいいから多くの人に参加してもらおう」
 値段は、生徒の反応を見てから決めてもいいくらいに思っている。商売っ気のなかった美津子が、意外なほど意欲的な姿勢を見せていることに、杏奈は内心驚いた。
「インスタでの興味付けや教育に、少なくとも八投稿は必要ですね。三日に一度関連投稿をするとして、二十四日」
 マーケティングにおける教育とは、見ている人の望みを叶えるために、発信する側の商品やサービスが有用であるということを印象付けることである。
「じゃあ、だいたい三週間後から受付開始にして、それから一か月以内に開催でいいんじゃない?」
「ええと…?」
 逆算が難しい。杏奈は食べ物を咀嚼しながら、頭の中では美津子が言ったことを咀嚼する。
「教室の宣伝と受付を二月中旬頃から始めて、開催は三月中旬…ですか」
「そうね。定員を設けて、どのくらいの日数で埋まるかを見ておいて」
 そうすれば、次回からは、開催のタイミングが早い方が人が集まるのか、遅くした方が良いのか判断材料になる。
「定員は少な目で」
「分かりました」
「開催は三月か…春はデトックスの時期だし、ちょうどいいわね」
 杏奈は蒸しただけのカブに、お手製のつけダレを付けるとパクリと食べた。その方向性で教育せよということか。
 先日課したばかりの仕事もある中、新しい仕事が増える。が、杏奈にはそのくらいの仕事をこなすキャパシティーはあると、美津子は見込んでいる。
 それにしても、羽沼という人は、至極まともな指摘をする。講師としての改善点にしてもそうだ。杏奈の口調は淡々としすぎている。さすがに教室の時は、いつもよりは幾分ましだけれども。この抑揚のなさこそ、美津子が、杏奈にはヨガインストラクターとしての適性に欠けていると考える理由だった。参加者を鼓舞し、ひっぱっていく力に欠ける。
─全てのヨガのクラスに向いていないとは思わないけれど…
 ある種のヨガのジャンルであれば、逆に杏奈のこの特徴は活きるかもしれなかった。が、それはまた、別の話。
「プレゼンがうまい人のチャンネル送っておくから、それを見て、トークの練習もするといいわ」
「youtubeですか?」
「ええ。話の進め方も、感情を乗せて喋る表現力も、よく学べると思うわ」
「あ…はい」
 杏奈は自信がなさそうに頷いた。つまり、話の進め方や表現力を改善せよということだ。
 美津子としては、杏奈の知識量やそれを言語化する力については十分認めている。しかし、それをトークで伝える力はまだ足りない。料理講師であろうがヨガインストラクターであろうが、人に刺さる何かを伝えたいというのなら、伝える力を磨くべきだろう。杏奈は特に、その能力を養うべきだ。
─それを磨くことで…
 実生活にも、メリットがあるだろう。
「ところで…キッチャリー教室に参加した人に、どういう特典を付けて、あかつきへ誘導しようか」
 美津子は思案顔で言った。
「キッチャリー教室に参加したお客さんを、あかつきに誘導するって…大仕事ですね」
 やることは山ほどある。それを認識するとそのことで頭がいっぱいになって、杏奈は美津子からの問いに答えるより先に、不安が口から出ていた。
「すぐに回収できるとは思ってないわ」
 美津子は事も無げに言う。街中のサロンに誘導するのとはわけが違う。休日を取って不便な足込町までご足労いただくのだから、生徒が実際にその気になって行動に移すまでには長い時間を要するだろう。
「だけどこういうことをやっていかないと、クライアントは増えないし」
 美津子は杏奈の方を見て、挑戦するような笑いを浮かべた。
「あなたも経験が積めるでしょう?」
 その気になったら、背水の陣を敷いてでも、スタッフを奮い立たせるのが美津子なのだ。
 口に入れようと箸でつまんだ人参が、杏奈の口元からぽろりと転げ落ちた。

「うわ…なんだこの味」
 安藤と羽沼は、寒くても、より開放感のある外のテーブル席で、食事を摂った。キッチャリー教室で作ったキッチャリーと、カップラーメン。
「何からにおいがすんの?」
「スパイスはターメリックとクミンしか入れてないよ」
 安藤は首を傾げた。ターメリックとクミンの香りと言われても分からないが、スパイスとはまた別のにおいのような気もする。
「…て、何撮ってるの?」
 羽沼は勝手に、安藤の食事の様子を撮影していた。
「動画を上げるなら、食べてみた様子も入れたほうがいいじゃん」
「おれの顔は映すなよ」
 児童やその保護者に見られたらと思うと、空恐ろしい。
「分かってる」
 羽沼はスマホを下ろした。
 カップラーメンを食べた後にキッチャリーを食べると、ほとんど味を感じないことに気が付く。食べる順番を間違えた。
「にしても、あの子、勉強はできるけどクラスには貢献しないタイプだな」
 あの子とは、杏奈のことだろう。
「何それ?」
 羽沼は聞いてからキッチャリーを口に含んだ。
「ああ、ごめん。子供をそういう目でみることあるからさ」
 安藤は話ながら、自分が今受け持っている生徒を思い浮かべた。
「あの子は、ほっといても勉強する楽な優等生。だけど、クラスを盛り上げることには貢献はしない」
 そういう子は、クラスに一人はいる。マイペースで、和を乱しはしないが、クラスの雰囲気を変えるほどの影響力はない。
「僕は?」
 羽沼は早々とキッチャリーを食べ終えて、今度は麺をすすった。
 安藤は顎に手を当てて、しばし考えた。基本的に、運動ができる奴は、クラスをひっぱっていく素質を持っている。それに羽沼は、なんだかんだ、面倒見がいい。
「羽沼、成績良かったろう」
「悪くはなかったよ」
 聞くまでもなかった。帝大に入り、大企業で働いていたのだから。
「まあ、トップではないけど、クラスにいてくれるとありがたい存在かな」
「へえ」
 そんな評価を貰って、羽沼はニヤッと嬉しそうに笑った。
「他の人の例も教えてよ」
「お前、おれがこういう話してたこと、中学校とかで言うなよ」
 安藤は先に、心配の芽を摘んでおく。
「言わないよ」
 羽沼は当然のことのように言いながら、久々のカップラーメンの美味しさに感動を覚えていた。寒い屋外で食べると、めちゃくちゃうまい。
 安藤は数少ない、羽沼との共通の知り合いを探した。
「沙羅さんは、ちょっと未知数だな…」
 いきなり、評価不可能な人が思い浮かんだ。
「天才肌っぽいもんね」
「うん。羽沼、晃には会ったことない?」
「まだ」
 前原晃のことは、安藤や瑠璃子といると、会話の中で出てくるので知っているくらい。
「そうだ、今度ジムに連れてってよ」
 前原がよく登っているという上沢のクライミングジム。かねてから、羽沼は行ってみたいと思っていた。
「ドロップインだと、割高だから損した気分になるんだよな」
 安藤は渋い顔をした。それこそ、自分ではなく前原と一緒に登ればいいと思う。
 麵がなくなってスープだけになったところで、羽沼は、それを飲み干すのはやめた。
「長谷川さんは…?」
 おもむろに、安藤に訊く。
「瑠璃子がどうした?」
「いや…さっきの話のつづき」
「ああ…」
 安藤は、羽沼が躊躇って飲まなかったスープまで飲み干した。カップを置き、昔の記憶を呼び起こす。今度は、想像する必要はなかった。中学までずっと、瑠璃子と同じクラスだったのだから。
「瑠璃子は、自分ではそうしようとしていないのに、どうしようもなく目立つし、クラスをまとめる力に長けてたよ」
 飛びぬけて容姿がよいが、男勝りの性格で、女子からも人気があった。支持されていた…という表現でも良いかもしれない。頭も良く運動もでき、対人スキルがある。瑠璃子は何年も学級委員長だった。本人は、不承不承であったが。
「そうか」
 羽沼は、手持無沙汰にお茶の入ったコップを持った。
「そんな感じだね。この間も役所で見かけたけど、なんか存在感があった」
「お前、よくそんなに役場に行く用事があるな。仕事?」
「ううん。税務課に相談があって」
 しかし、瑠璃子の存在感を大きく感じるのは、別の理由だろう。羽沼はそう思ったが、安藤には言えるはずがなかった。
「そういえば、お前事業主だもんな。確定申告は自分でやるの?」
「うん」
「へえ…大変だな。知識あるの?」
「ないから、手探り。保険料の減額の申告をする時も、すごく戸惑っちゃった」
「保険料の減額…?」
 安藤は、眉根に皺を寄せて羽沼の顔を見た。
「なに…そんな申告したの?」
「うん。大分前だけどね」
 保険料の減額を申告したということは、所得が一定の基準より低いということだ。こんな丸太小屋に住んで、悠長な生活をしているから、会社を辞めたとはいえ収入があるのだと思っていた。食べて行けるほどの広告収入はなくとも、頭がいい奴だから、投資とかにも手を付けて、それで儲けているのかもしれないと…
「不安じゃない?」
 自分だったら、いくら動画で儲けたくても、収入が伸びない間は副業をすると思う。いや、むしろ本業を探して、副業で動画を作る。
 心配そうな面持ちをする安藤を見て、羽沼は笑った。
「不安だよ。だから、新しい仕事しようと思ってる」
「そうなんだ」
 それが、普通の人間の思考だと思う。友人に普通の人間の感覚があることを確認して、安藤はちょっと安心した。
「休みを取ることが必要だと思ってたけど…休んでるだけじゃ、何も変わらなさそうだしね」
「…前の会社で、何かあった?」
 珍しく気遣うような面持ちで、安藤は羽沼に尋ねた。安藤は、仕事のストレスが、羽沼をこういう状況に追い詰めたのだと思っているらしい。それはそうだろうな、と羽沼は思う。男が大きなストレスを感じる原因は、仕事か、仕事上の人間関係、経済的なものであることが多い。
「おれも、いつ潰れてもおかしくないと思う時があるから」
 安藤は、自分ごとに話を置き換えた。
「今は落ち着いた学校にいるから大丈夫な気はするけど、それでも、たった一人の児童やその親との関係で、来なくなっちゃう先生もいるし」
「そうなんだ…先生は、当たりがきつそうだもんね」
「うん。荒れた学校で、相性の悪いクラスの担任になって、学級崩壊するようなことがあれば…自分がつぶれる前におれは休職すると思う」
 安藤はそうと決めているようだった。
「…自分の精神を守るためなら、それもやむを得ないよ」
 羽沼は肯定的な言葉を発した。そうすれば、自分も仕事関連の事情で休職していると肯定しているようなものであり、自分の事情を話すことから免れるような気がしたのかもしれない。
 でも、本当は、ちがう。
─どうして、安藤には話さないんだろう。
 同じ境遇にいないからなのだろうか。
─誰になら話せるんだろう。
 羽沼はお茶のコップを両手で包むように持ちながら、自分自身に尋ねた。
 すると、羽沼の脳裏に、人ではなく、ある場所が思い浮かんだ。重厚な造りの、和洋折衷の邸宅。広いホールに、赤い絨毯敷の階段。日が当たる、ぬくもりのある書斎。何らかの悩みを持った人が訪れる場所。そこにいるスタッフたちは、その悩みを受け止め、より良い方向へ歩む手助けをすることを仕事としている。
─僕はクライアントとして…
 あの場所に立ち寄ることを望んでいるのだろうか。だが、サービスの内容から考えて、女人専用のような気がした。
 それに、あの場所にいるのは、沙羅であり、杏奈であり、美津子なのだ。
─やっぱり、話せないな。
 その理由は、以前杏奈に言ったとおり。
─かっこ悪くて…
 とても話せない。

「おにはぁ、そと!ふくはぁ、うち!」
「痛い、痛い!こら。叩くの止めなさい!」
 沙羅は、左手で頭をかばいながら、右手にスマホを持って、耳に当てていた。
 二月三日。快は、幼稚園で作ってきた鬼のお面をかぶり、ラップの芯で沙羅の頭を叩いている。
 沙羅はスマホを耳に当てたまま、立ち上がった。
「ごめんなさい、美津子さん。ちょっとバタバタしてて」
 美津子はスマホの向こうから聞こえてくる子供たちの騒ぎ声を聞いて、電話したことを後ろめたく思った。こんな相談をしたら、沙羅を葛藤させ、苦しめるだけかもしれない。
『おにがくるよー!』
 スマホを通してでさえ、快の絶叫は耳に響く。美津子は、スマホをちょっと耳から遠ざけた。
『やりたい気持ちは山々です』
 次には、沙羅の申し訳なさそうな声が聞えてきた。
『でも、早朝に出勤することはどうしてもできません。かといって、子供たちをあかつきに連れて行くのも…』
「沙羅、分かったわ。大丈夫よ」
 美津子は、努めてのん気そうな調子で言った。
『すみません、美津子さん。あの、他にできそうな方は…』
「大丈夫。それに、まだ来るとも決まってないから。忙しい時間にごめんなさいね」
 二人の電話はそこで終わった。
 沙羅は電話が終わった後も、暗くなったスマホの画面をしばし見つめていた。
─また、機会を逃しちゃった…
 沙羅は浮かばれない表情をする。
「ママぁっ、つぎはママがおにだよぉ!」
 沙羅は机にスマホを置き、ゆっくりと振り返った。獲物を捕らえるような目で、快を見る。快と、隣にいる七瀬は、沙羅の目つきを見て、笑いながらも後ずさりする。
「鬼が…来るぞ~!」
「きゃー!」
 子供たちは後ろを向いて逃げ出したが、すぐに捕まった。沙羅は後ろから二人を抱きしめると、二人と一緒にきゃはははと笑った。
「ねえ、ママ。きょうね、としのかずだけまめたべた!」
「え?いくつ食べたの?」
「ろっこ!」
「そうか~!食べられたかぁ」
 七瀬は両手を胸の前でぱたぱたさせると、「まめ!まめ!」と叫びながら部屋の中で走り出した。
 歳の数だけ食べるという節分の豆。
─数え歳と、満年齢、どっちを基準にするんだっけ…
 と、沙羅は疑問に思った。快は、今年の四月から年長。六月で六歳になる。
─もう、六歳か…
 七瀬は次の十二月で三歳だ。沙羅の育児歴も、子供の年齢だけ長くなっている。しかし、それでも余裕はまだない。
 あかつきに仕事をしに行く時も、朝、バタバタと子供たちを幼稚園に送り、その足であかつきに向かい、すぐにカウンセリングや施術に入る。でも、本当は、当日担当するクライアントのことに意識を向け、気持ちを整えた上で、クライアントに向かいたい。
 沙羅は気持ちの切り替えが下手なわけではない。カウンセリングは丁寧に、クライアントのことだけを考えて行うし、施術の時だって集中している。だけど、今よりほんの少しだけでもいいから、クライアントを迎える前に静寂の時間があった方が、より精度が上がるに違いないと思う。
─パーソナルヨガをするなら、なおさら…
 先ほど沙羅は、美津子から、とあるクライアントに合ったヨガを考え、指導できないかと尋ねられた。それも、早朝に。
 カウンセリングや施術は、美津子が作り込んだマニュアルがある。セラピストのウォーミングアップができていようが、できていまいが、とにかく決まった流れを踏んでいれば、大きな間違いはない。しかし、自分でクライアントに合ったヨガシークエンス(一連のポーズの流れ)を考え指導するとなると、多くの準備が必要だろう。
─今の状況で、私にはそれはできない… 
 美津子に、大丈夫ですと答えたかった。けれど、それは沙羅が無理をすれば大丈夫という意味であり、沙羅が無理をしてうまくいかなかった場合、しわ寄せを食らうのは、我が子であり、クライアントなのかもしれなかった。
─これでいいんだ…
 時には、退くことが、相手のためになる。自分の力を発揮したいとか、スキルアップしたいとか、そんなのはエゴなのだ。沙羅は自分にそう言い聞かせた。
「ママ、きょうごはんなあに?」
 快は沙羅に抱き着いて、にっこりと笑う。
「何が良い?」
「オムライス!」
「オムライスかぁ。じゃあ、卵買ってこなくちゃね」
 嬉しそうに歯を見せて笑う快に、沙羅も思いっきり笑ってみせた。

 美津子の電話の声は、書斎にいる杏奈にも漏れ聞こえてきた。キリのいいところで手を止めると、杏奈はパソコンを閉じて、応接間に向かう。そこには美津子の姿はなかった。美津子は、夕食の準備のため、キッチンに立っていた。
「沙羅さん、難しそうでしたか…?」
 美津子は割烹着を付けているところだったが、振り返って頷いた。
「そのクライアントは、太極拳では嫌だと…?」
「いや、ある程度役に立つと思う。けれど太極拳は、私や、あなたにも知識がなくて、その後のクライアントへのフォローができない」
 そのクライアントは長期滞在を検討していたが、仕事の都合もあり、滞在期間を短縮したいと最近になって打診してきた。
「彼女は側弯症で、胃下垂でしたね」
 美津子は頷いた。だからこそ、滞在期間は短くなったとしても、その後も家でヨガを続けてほしい。
「確かに滞在中、毎日のように指導をしてくれるヨガ講師がいたら心強いですよね」
 美津子はまた頷いた。
「側弯症と胃下垂には、食事や一時のマッサージよりも、日々の姿勢やワークの指導の方が大切かもしれないからね」
「足込町でヨガ講師できそうな人探してみたんですけど…」
「何を見たの?」
「ジモティーとか、インスタとか、ネットで」
「どうだった?」
「介護施設で時々ヨガを教えているフリーのインストラクターさんはいると思います」
「そう…実際どの程度のスキルは分からないけれど、手当たり次第声を掛けていかないといけないね」
 美津子はボウルにお米を入れ、流水を入れてとぐ。
「できれば長くお付き合いできる人がいいんだけど…」
 そう都合よく見つかるだろうか。
 美津子が最近になってヨガ講師の必要性を強く感じているのを、杏奈は察している。それは、年末年始にあかつきへ長期滞在した、仁美のデータを見てのことである。キッチャリークレンズに挑戦し、夕食断食にもチャレンジすることで、測定器で測定している多くの項目について、数値が改善した。しかし、筋肉量の変化だけが、芳しくなかったのである。
─栄養を補うために、脂肪ではなく、まず筋肉が使われてしまったということか…
 キッチャリークレンズと断食の期間を、もう少し縮めるか、筋肉を作る食材をもっと取り入れるべきだったと、美津子と杏奈は反省した。
 筋肉組織は、アーユルヴェーダではマンサダートゥと呼ばれ、三つ目にできる組織である。マンサが形成されるには、ラサ(体液、血漿)、ラクタ(赤血球、血液)の形成がうまく進んでいること、マンサを形成するような食品を食べることが重要だと考えられている。
 さらに、ヨガは筋肉を鍛え、ストレッチする手法に長けたプラクティスである。食事療法に加え、ヨガ療法を取り入れることで、クライアントはより健やかに若返りを遂げられる。
 しかし問題は、そのヨガ講師があかつきには不在である、ということだった。
「連絡先が分かる人には、声をかけてみます」
「お願いね」
「けれど、咲子さんをお迎えする頃には…間に合わなさそうですね」
「そうね」
 美津子は土鍋にお米を入れながら答えた。
 杏奈は美津子の後ろ姿を見ながら、
「あのう、美津子さん。咲子さんがいらっしゃったら、また柴崎先生を呼ばれますか?」
 と、気になっていたことを聞いた。美津子は鍋に火を入れつつ、うーんと唸った。
「どうかしら。今のところ呼ぶつもりはないけど…必要があるなら、電話で相談することもできるしね」
 それに、順正が来るか来ないかは、こちらがコントロールできるものではない。彼は松下クリニックの近くから動けない日も多い。順正がタイミングよくこちらに来た時に、咲子が産科医の見解を求めるようなことがあれば、相談に乗ってもらおうと思うが…
「どうして?」
 美津子は杏奈の方を振り返った。杏奈はほっとして、ちょっと気が抜けていたところだった。
「いえ、あの…咲子さんのお悩みは先生の専門分野に関連するので、またいらっしゃるのかと…この前も、何か相談されていたのですか?」
「この前…」
 美津子は先日、畑を耕していた時のことを思い出す。
「いいえ、何も」
「そうなんですか」
 その答えは、ちょっと意外だった。あの日、咲子のことで相談があって、美津子が順正を呼んだのだと思っていた。しかし、そうではないらしい。
 ではなぜ、順正はあかつきにやって来るのだろう。
─どうして?
 しかし、杏奈はなぜか、その理由を訊けなかった。

 

 

 


 

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