第34話「未消化の感情」アーユルヴェーダ小説HEALERS

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 土曜の昼下がり、沙羅は、子連れであかつきを訪れた。その目的は研修ではなく、料理動画の撮影会に参加するためだった。この後羽沼が来て、オンライン料理教室に向けた料理動画の撮影と編集を手伝ってくれるのだ。
 弱い日射しが届くあかつきの居間で、美津子と杏奈は沙羅とその小さな娘たちを迎えた。動画制作の間、美津子が子供たちの面倒を看ることになっている。
「一応、この子たちが時間潰せそうなおもちゃ持って来たんですけど…」
 沙羅はそう言いながら、腕に掛けている大きなカバンを下ろす。最終手段のテレビも、居間や応接間にはない。
「大丈夫よ」
 しかし、美津子は余裕ありげに頷いた。今はアーユルヴェーダを仕事にしている美津子だが、それ以前は、乳幼児育児・教育のプロ。沙羅は頼もしく感じながら、部屋の隅に荷物を置いた。
「スパイスの香りがしますね」
「お弁当納品の日だったので」
 たった今、昼食を摂り終わって、片付けに入ったところだ。
「じゃあ、小須賀さんもいるんですね」
 沙羅は「年始のご挨拶に」とキッチンへ向かった。
 キッチンでは、小須賀が水を張ったシンクに次々と洗い物を入れつつ、調理台の上を片付けていた。
「あ、おめでとうございまーす」
 ややかすれた声でそう言った小須賀は、年末年始、お正月が明けても、相変わらずもやしのように細かった。グレーのトレーナーに、ジーンズ、縦にストライプが入ったサロンを巻いている。
「旦那さん帰って来らしたんですっけ」
「はい。半年ぶりくらいに」
「へえ。久しぶりに、仲良くしました?」
 小須賀はなんのてらいもなく、お昼ごはん何食べた?と聞くような調子で訊いた。沙羅は、眉根に皺を寄せる。
「冗談です」
 小須賀は詫び入れる様子もなくつぶやいた。
 沙羅は履物を変えてキッチンの奥に入った。うろうろする沙羅を、内心ちょっと邪魔だなと小須賀は思ったが、言わなかった。
「仲良くしたかったんですけど…」
 小須賀はぎょっとして、沙羅を見た。「家族として」と、沙羅は付け加えた。その表情が曇っているのを読み取って、
「喧嘩したんですか?」
 さらりと、小須賀はそう尋ねた。
 沙羅は少し迷っているように、瞳を左右に動かしていたが、やがてぎゅっと目を瞑って、
「もう、聞いてくださいよ…!」
 絞り出すような声を発しながら、両手の拳をきつく握った。

 年明け、沙羅が出勤した時、夫の栄治と娘二人は栄治の実家にいたのだが、七瀬が熱を出した。熱があり、鼻水もよく出ていた。けれども、そのような不調は子供ならよくあることだし、あかつきの仕事を放り出して義理の実家に戻るわけにもいかないので、栄治に七瀬の看病を託した。足込町の家に帰って来る頃には、七瀬の調子は大分良くなった。
 沙羅は栄治に感謝を伝えつつ、あかつきでどんな仕事をしたのかを話した。あくまで、コミュニケーションの一環として、職場であったことを報告したまでである。しかし、栄治がだんだん不機嫌な表情になってきたのを察して、沙羅はどうしたのかと尋ねた。
─熱を出してる子供より、デブの体重を減らすことの方が大事なの?
 クライアントをデブ呼ばわりする非礼さも引っかかったが、沙羅は、普段育児より仕事を無条件に優先している栄治に言われたことに、腹が立った。
 沙羅は深呼吸した。怒りは敵と思えと、自分に言い聞かせた。
─母さんに、沙羅さんは子供が熱出しても戻って来んの?って言われたけど、そこは仕事だからって、フォローしておいたよ。
 恩着せがましい言い方だと、沙羅は思った。
─でも、まさかその仕事が、デブの体重減らすことだったなんて。
─仕方ないでしょ。それが仕事だもの。
 沙羅だって、クライアントの体にオイルを塗るより、子供に熱冷ましシートを貼ってあげたいと思わないでもなかった。
 けれど、幼子と暮らしていたら、熱、鼻水など日常茶飯事。可哀そうだとは思うけれど、それでこっちの予定を全部変えていたら、いつまでたっても子育てしながら働くことなどできない。栄治はなぜ深刻な事態に妻が遊んでいたかのように言うのだろう。
 それに、沙羅の仕事の目的は、太っている人を痩せさせることではない。たまたま今回のクライアントがそう望んでいただけだ。第一そんな言い方は、人を痩せさせるのが仕事である人に失礼だ。しかし、沙羅がいくら主張したところで、栄治は首を傾げるばかりだった。
─おれの仕事と沙羅の仕事では、社会的影響度が違う。
 栄治は、普段まったく育児をしていないことに対して、大義名分があるとばかりに、そんなことを言った。
 栄治の勤め先は、沙羅の元勤め先でもあるのだが、石油会社である。インフラを担っているおれの仕事がなくなれば、多くの人に深刻な影響があるが、沙羅の仕事はそうではない。沙羅は仕事だったと言うが、実際に沙羅たちがこの家に住まい、なんの心配もなく生活しているのは、自分の給料があるからに他ならない。つまり…
「旦那さん、沙羅さんを見下してるんすね…」
 小須賀の片付けの手は止まっていた。
─仕事の有用性なんか、天秤にかけていいものじゃないと思うけど…
 だがしかし、いかにも、高学歴・高収入の男の考えそうなことだなと、小須賀は小須賀で偏見があった。
「旦那さん、ひどいこと言うね…」
 表情を歪めながらそう言った。小須賀がそう言ったことは、沙羅の気持ちを幾分軽くした。
「で、仲直りしたんですか?」
「仲直りもなにも、喧嘩ってほどでは…」
 沙羅は、むすっとした表情で、手を揉んだ。
「でも、雰囲気良くなかったんでしょ?」
 小須賀の言うことは、図星だった。栄治が海外赴任先に戻るまで、沙羅は明るく振舞っていたが、心の中では、栄治と楽しい時間を共有することが少しもできなかったと感じている。夫を送り出しながら、どこかほっとしている自分を否めない。
 栄治は、ヨガやアーユルヴェーダに理解がない。沙羅が育児と家の管理を引き受けているからこそ、自由に仕事をできていることを一応汲んではいる。だからこそ、普段は何も言わないものの、沙羅のやっていることを理解しているわけではない。
「沙羅さん、旦那さんに気持ちあるんすか?」
「え?」
 沙羅は小須賀の問いに即答しかねた。
「信頼…してますよ」
 はにかんだような笑いを浮かべつつ、返事を見繕った。けれども、その信頼というのも、経済的な案定性をもたらしてくれることへの信頼であった。
 小須賀は沙羅を見ずに、うんうんと頷いた。
「僕は、気持ちがない相手と一緒にいるなんてできないなあ」
 片付けを再開する小須賀を、沙羅は不思議そうな顔で見やった。
「小須賀さんは、だから結婚しないんですか?」
「へ?」
 小須賀は、口をぽかんと開けて沙羅を見た。
「だって、結婚したら、付き合っている頃のような気持ちがなくなったからといって、浮気な気持ちをもつわけにはいかないでしょ。ましてや、子供がいたら」
 小須賀の手は、またもや止まった。小首を傾げて、うーんと唸っている。
「そうっすねぇ…もうちょっと遊びたいっすね」
 そう言って、ふふっと笑った。
「彼女とは結婚したいと思ってるけど、別に急いでないしね。ましてや子供を持ちたいとか、考えたこともないよ」
「そうなんですか」
 意外な発言に、沙羅は目を大きく見開いた。
 小須賀は、長年付き合っている今の彼女と、クリスマスにもデートをした。時々しか会わないし、会っても短時間だ。だらだらとおうちデートをして、そのまま一晩を過ごすというようなこともない。でも、だからこそいつまでも新鮮な気持ちでいられるし、彼女を可愛いと思えるような気もしている。
「一緒にいて楽しい人と、いつまでも一緒にいたいし」
「そうですけど…それは別に、子供がいたって、実現可能じゃないですか」
「でも子供って、喧嘩の大きな種でもあるじゃないですか」
 小須賀はトントントン、とつま先で床を踏んだ。
「それに、子供がいると、自分の気持ちに正直になれないじゃないですか」
 子供のために、自分の気持ちを我慢しなければならない。
「そうですよ」
 そんなこと、世間ではありふれたこと。
「けれど、子供がいるからこそ、衝動的な行動を取らずに、相手との関係性を見直すことができるっていう面もあるんです」
 子育てという、難しい仕事をどのように二人で協力して乗り越えられるか。紆余曲折しつつも、喧嘩しつつも、協力し合う過程で、それまでとは違う夫婦の新しい絆が生まれるのだ。一旦関係が崩れたとしても、ポジティブな言動を取ることができれば、そこで自分も相手も人間的な成長を遂げられる。そうであると、沙羅は信じている。
 小須賀はふふっと笑った。
「多くの夫婦は、それができるかもしんないっすね。でも、稀にそうじゃないケースもありますよ。いったん相手のことを批判的な目で見てしまうと、その眼鏡はなかなか外せるもんじゃないですからね」
 経験したことがあるかのようなことを言う。小須賀は、沙羅をまっすぐに見ていた。 
「子はかすがいって言うけど、子はかすがいになるために生まれるんじゃない」

─あれ?
 キッチンに入ると、片付けが思いのほか進んでいなかったので、杏奈はおかしいなと思った。奥を見れば、小須賀は手を止めて沙羅と話し込んでいる。
 杏奈は履物を変えて、片付けに取り掛かった。午後からの予定のために、早くキッチンを綺麗にしなければならない。鍋の中は空になっているが、洗い物はまだ水に浸けられたまま。
 小須賀は杏奈の姿を見ると、シンクに移動して洗い物を始めた。
「ちっちゃい頃に両親が離婚したんすよ」
 しかし、その口はまだ動いていた。
「そうだったんですか」
 沙羅が、ちょっと申し訳なさそうな顔をした。杏奈も、心の中でそうだったのかとつぶやいた。沙羅との話の流れでそのような話をすることになったのだろうか。杏奈は思いがけない展開に驚いた。二人は何の話をしていたのだろう。小須賀はよく、聞かれてもいないのに自分の女性遍歴を話すことはあるけれど、今日は自分の身の上話なのか。
 話が聞こえる位置に杏奈がいても、全く気にすることなく、小須賀は話を続ける。
 小須賀の両親は、小須賀が小学校低学年の時に離婚し、以後、姉とともに母親に育てられた。高校卒業後、小須賀は料理人として働くようになった。小須賀が社会に出るのを見送り、母親は、その後まもなく病気で他界した。
「料理人って、どこでも生きていけるんすよ」
 汚い、低賃金、重労働というイメージはあるかもしれない。だが、最初のバイト先の店長に、この仕事さえしていれば食いっぱぐれることはないと言われた。小須賀も、そうだなと思った。
「一人暮らししてから、寝るだけみたいな狭くて安い部屋に住んでたけど、職場に行けば、賄いはしっかり食わせてもらえる。一日に一食でも質のいいものをたくさん食べられれば、とりあえず生きていけるじゃないですか」
 ラーメン屋、フレンチ、イタリアン、結婚式会場、キャバクラ。小須賀の経験した職場は両手の指で数え切れないほどだ。
 早くに結婚して家族を持った姉とは、今ではほとんど連絡を取り合わないという。
「二十歳になった時に、親父から連絡が来て一回だけ会ったんですけど」
 小須賀は、なんでこんな話をしているのか分からなくなっていたが、勝手に口が動いた。
「抜けてんのかって聞かれて」
 杏奈は、小須賀の言っている意味が一瞬分からなかった。
「その時まだ若かったから、抜けてるって答えたんだけど」
 杏奈は、そういう話か…と、ようやく言っていることの意味が分かった。沙羅も小須賀の話の意味は分かっているようで、微妙な表情をしていた。
「今思うと、神妙な顔して」
 話をする小須賀からは、恥じらう気配は全くない。
「それが…抜けてなくて…とか言えば、もっと金くれたかもしれない」
 しんみりと過去を振り返られるかと思ったら、冗談みたいな口ぶりである。
 沙羅は反応に困った。杏奈は、なるべく小須賀とは離れた位置で、片付けを続けた。
「姉とかは、もっとうまいこと言って、高いもの買ってもらってたのかも」
 小須賀の目は、遠くを見ていた。
「おれも意地張らないで、利用すればよかった」
 沙羅も杏奈も、絶句した。小須賀の話に、どう突っ込みを入れたら良いのだろう。
「杏奈」
 とその時、デシャップ台の向こうから、美津子が声をかけてきた。
「羽沼さんたち、いらっしゃったわよ」

 杏奈は履物を変え、急いで出迎えに行った。羽沼はすでにホールまで上がっていた。彼一人ではなく、月小学校で教師をしている安藤が一緒だった。
 羽沼は午前中、野球部の外部顧問として野球をしており、安藤はその様子を見に来ていた。安藤曰く、「しょっぱなから中学生に痛めつけられてたんじゃ、紹介したこっちも胸糞悪い」ということで、様子を見に行ったのだそうだ。その後彩で昼食を摂っている時に、動画撮影会があることを知ってあかつきに同行したらしい。小学校でもちょっとしたムービーを作ることがあるので、安藤も動画編集には興味があったようだ。
 撮影場所である調理台とコンロ周りが綺麗になり、使う食材や調理道具の準備が終わると、杏奈は応接間に二人を呼びに行った。
「こんにちはー」
 シンクの中と周りを拭いていた小須賀は、キッチンに入って来た二人の男に挨拶をした。名乗り合うのも束の間、小須賀はお勝手口の向こうへ消えた。一服しに行ったのだ。
「すごい数のスパイスだね」
 羽沼はスパイス棚を覗き込んだ。優に五十種類はあろうかというスパイスが、雑多に置かれている。
 調理台の上で、杏奈は作りたい動画の概要を説明する。今日撮影するのはキッチャリーの動画。誰が見るものなのか、どのくらいの長さに仕上げたいのか。
「レシピサイトにのっているような、手順だけが簡単に分かる動画でいいんです」
 結果的に、杏奈は自分が撮りたい動画のイメージをそのように伝えた。
 オンラインレッスンでは、最初に作り方の流れを大きく把握するために、その動画を使う。料理動画を共有すれば、オンラインレッスン後もその動画を見て復習できる。作り方を知るためであれば、長い尺は不要。
 動画の撮影は基本的には杏奈が行い、羽沼はスマホスタンドの高さの調整や、スマホの取りつけと向きなど、基本的なアドバイスをした。
「おれ、帰るね」
 小須賀が再びキッチンに入ってきたのは、ようやく撮影が始まった時だった。
「あ、はい。片付けありがとうございました」
 杏奈は小須賀に返事をした。
「しゃべっていいの?」
 キッチン中に聞こえる声で帰宅宣言をしておきながら、小須賀は沙羅にこそっと尋ねた。
「撮影中の音声は後から消すんですって」
 だから、声を出すのは問題ない。小須賀は「ふーん」とあまり関心がなさそうな返事をして、サロンを取り、帰り支度を始めた。
 杏奈は小須賀が去っていくのを聴覚だけで把握した。
─そうだったのか。
 作業を続けつつ、杏奈の意識は別のところに向く。
─小須賀さんには、もう、何かあっても受け止めてくれる親はいないのか…
 それも、ずっと若いころから。
 それを思えば、自分などはずっと、何かあった時には親を頼っている。決して仲の良い友達親子のような関係ではないけれど、アーユルヴェーダ料理教室の運営が成り立たなくなり、体調を崩して帰って来た時も、両親は何の条件もなく受け皿になってくれた。心の安定につながればと金銭的な援助までしてくれた。
 何かあったら帰るところがあるということは、根本的な安心材料だ。普段意識しているかどうかは別として…
 でも小須賀には、何かあった時、帰るところはないのだ。

「やっぱり小さい頃から英会話練習させたほうがいいんですかね」
 沙羅と安藤は最初こそしっかり動画撮影の様子を眺めていたものの、次第に手持無沙汰になり、小声で雑談をし始めた。話題は幼児、および小学校での英語教育について。
「さあ…英語教材使ったり、ラボに通ったりさせてた人もいますけど、その子たちが飛びぬけて成績いいかっていうと、そうでもないよ」
 乳幼児の頃の教育が、どれほど功を奏するのかは分からない。
 二人の会話を聞いている杏奈は、沙羅の娘たちなら大丈夫ではないかと思う。沙羅は、四か国語ほどを喋れると聞いたことがある。娘たちも、きっと地頭がいいだろう。
「英語教室の体験くらい行ってみようかなと思いつつ、行けないまま数年が過ぎちゃいました。瑠璃子さんも祥子さんもまだ子供たちに習い事をさせてないし、いいかなーなんて」
「あーあ。街中ではインターナショナルスクールに通わせている親もいるというのに」
 都会の意識の高さに比べ、足込町の親たちはのんびりしたものだ。
「瑠璃子と祥子さんとはよく会うんですか?」
「ええ。普段はお迎えの時間帯が違うのであまり顔を合わせないですが、時々ママ友同士でお茶しますよ」
 安藤はふうんと唸った。
「瑠璃子、最近ちょっと元気になりましたよね。こっち戻って来たばかりの頃は、子供の時とはずいぶん人格が変わったように見えたけど」
 安藤の言葉に、杏奈と羽沼は作業途中ながらも顔を上げた。
「あ…瑠璃子さん、離婚して、実家のある足込町に戻ってきたんです」
 沙羅は二人がこちらに注意を向けていることに気が付いて、こそこそと事情を説明した。
─瑠璃子さんは、やっぱり、離婚していたのか。
 羽沼は心の中で独りごちた。結婚指輪の不在は、最初に会った時から気が付いている。
「しかも旦那の不倫とは驚きだよね。当時は、やたらトゲトゲしい態度取るから、公務員試験の勉強でストレス溜まっとるんだろうなーって思ってたけど」
 沙羅は目を瞬いた。
「そうなんですか?」
「うん?」
 今度は安藤が、沙羅の顔を見て目を瞬いた。杏奈と羽沼は撮影箇所を調理台からコンロに移しているところだったが、一旦手を止めて、後ろを振り返っている。
「…あれ?聞いてませんでした?」
 沙羅が呆然とし、安藤がうろたえた様子になっているのを見て、杏奈と羽沼はどちらも軽くため息を吐きながら、作業に戻った。
「えー…よく会ってるって言うからてっきり知ってたのかと」
「そんな込み入ったところまでは話してませんよ」
「そうなの?しまったなぁ。もうこの話は終わりにしよう。羽沼」
 知らんぷりして背を向けていた羽沼は後ろを振り返った。
「悪いけど、次に瑠璃子に会っても、おれがこの話してたことは絶対に内緒だよ」
「ん…?」
 羽沼は、おもむろに頭をひねった。
「ごめん、こっちの作業に集中してて、ほとんど聞いてなかった」
「本当かよ」
 安藤は頼むぞ言わんばかりに厳しい表情をしてみせた。

 四人は書斎に移動し、撮った動画の編集作業に入った。
 美津子の部屋から移設したテレビモニターに、杏奈のパソコンの画面を投影する。みんなが編集の様子を見える状態を作った上で、杏奈は自分のパソコンの画面を見ながら編集をした。
 動画編集に使っているのは、オンラインで使える無料の画像・動画作成ツール。ブログに乗せる写真やインスタの画像編集に、既に活用しているツールであった。が、動画編集をこのツールで行ったのは初めてである。作業自体は至極簡単であった。
「これ、全部無料の機能だけで仕上げてるの?」
 安藤が誰にともなく聞いた。
「はい」
 杏奈が返事をした。有料メニューを選べば課金されるが、それをしなければ無料である。
「へえ。これで十分だな」
 有料の動画編集ソフトをダウンロードする必要があるかと思っていたが、無料のツールでも問題なさそうだ。
「あかつきさんは、インスタにあまり動画上げてないよね」
 羽沼は杏奈に尋ねた。
「はい。時々ストーリーにのせている程度です」
「ショートムービーが流行ってるから、インスタにあげる動画の撮影もしておくといいかもね」
 SNS上の風潮や流行を、羽沼はすかさずキャッチしているらしい。
 インスタへ画像をアップするだけでも、様々な準備が必要だが、次は動画となると、さらに手がかかる。あまりにSNSに凝り過ぎると、本命の仕事がおろそかになりそうなのだが。
 杏奈は、しかし、この分野に手を付けるなら今がチャンスだとも思っている。そのうち施術を学ぶようになり、セラピストとしての仕事が多くなったら、SNSにかけられる時間は少なくなるかもしれない。今のうちに慣れて、短時間でいろいろなコンテンツを作れるようになっておくべきだ。
 沙羅は杏奈の隣からパソコンの画面を覗き込んでいた。同じ画面がテレビモニターに映っているというのに、沙羅はそれを失念しているらしい。ぼーっと何かを考えているようだった。
「沙羅さんは動画を作ってますか?ヨガの動画とか」
 杏奈に尋ねられ、沙羅ははっとして、
「いえ…私はまったく…」
 と、のろのろと答えた。
 羽沼はモニターを見ながら、たびたび部屋の中を見渡した。大正建築を思わせる、雰囲気のあるアーユルヴェーダのリラクゼーション施設だ。クラアントは、自然豊かな秘境のような土地で、アーユルヴェーダの生活を送りながらの宿泊体験ができるのだという。バリエーション豊富なトリートメントと、スパイスをふんだんに使った未知の料理…
─あかつきには、ネタがたくさん転がっている…
 今よりももっと効果的に情報発信することで、この場所に興味を持つ人はいくらでも増えるだろう。
「沙羅」
 居室から娘二人を連れて出て来た美津子が、沙羅を呼んだ。
「クライアントとの約束があるから…そろそろいいかしら」
「はい!ありがとうございました」
 七瀬はじたばたして美津子の腕から解放されると、一目散に沙羅のほうへ駆け出した。

 キッチャリーの作り方動画の編集は意外なほどあっけなく終わった。
「ちょっと中を見学させてもらってもいいかな?」
 羽沼はそう言うと席を立った。杏奈もつまむものを作るために、再びキッチンへ向かった。
 快と七瀬は床の上にタッチペンと絵本を広げ、一緒に遊んでいる。絵本の中の絵をペンでタッチすると、「パン」とか「牛乳」とか、タッチしたものの名前が読み上げられた。
「安藤先生は、どこまで知っているんですか?」
 二人がいなくなると、沙羅は待ちかねたように安藤に尋ねた。上体を乗り出すようにして、声を落としている。
 安藤は、幼馴染のタブーネタを聞き出されているのだと分かった。瑠璃子は友人に、離婚したことは話していたが、その原因については黙っていたのだ。それを知った今となっては、瑠璃子がいないところで彼女の事情を話すことに、少なからず抵抗を感じる。
「おれも詳しい事情は分からないんですよ。第一、不倫が理由だったってを知ったのも、たまたま…」
 東京に住んでいた瑠璃子が、なぜだかある時足込町に帰って来た。
「小さな町だし、家がすぐ近くだから、偶然会うこともあって…」
 小さな子供がいるから、瑠璃子が家の近くを散歩することもある。瑠璃子は祥子の長男と変わらないくらいの歳の娘を連れていた。
 安藤は二人を遠巻きに見つけては、遭遇を回避するため、迂回して家まで戻ることもあったほどだ。しかしある時に遭遇してしまい、話の流れで万里子の父親のことを聞いてみた。その時に、離婚していたこととその原因を知ったのである。
─まあ、瑠璃子ならそのうち、いい人できるよ。
 安藤はごまかすようにそう言ってみたのだが、その言葉は却って瑠璃子の気を害させたらしい。
 当時の瑠璃子は腫物に触れるようだった。意固地になっているようにも見えた。だから安藤は、なるべく瑠璃子と接触しないよう気を付けたものだ。
 沙羅は真剣な表情で聞いていたが、眉間には深い縦皺ができていた。
「それに比べれば、今は大分落ち着いとるよ。新しい生活にも慣れたんだろうね。ママ友もできたみたいだし」
 安藤は沙羅を励ますように言った。
「そうでしょうか」
 沙羅は両腕を組み、難しい顔をした。
「未消化になっている感情があるんじゃないんでしょうか」
「それは、離婚したことのある人は、たいていそうですよ…」
 安藤は、自身には結婚の経験も離婚の経験もないはずだが、妙に見知ったようなことを言う。もしかしたら、小学校教諭という職業上、様々な親と会ってきて、特定の経験がその人の人生にどんな影響を与えるのか、垣間見ているのかもしれない。
「とにかく、おれが知ってるのはここまでなんですからね。それから、おれがこの話をしたっていうことは、瑠璃子には黙っといてください」

 あかつきの至るところに飾られている鏡餅。一月十一日を過ぎた頃から食べ始めていたが、杏奈と美津子だけでは、とても消費が追い付かない。餅はトンカチで割った後、カビが生えてしまわぬよう、ジップロックに入れて冷凍している。杏奈はその餅を電子レンジで少し温めた。
 この鏡餅は、十二月下旬から、あかつきを訪れた何人もの客が持って来たものだ。たとえば、柳老人。
─今年もお世話になりました。
─いいえ。お世話になっているのはこちらの方です。
 ぺこぺこ頭を下げる美津子に、柳は二段に重ねられた丸餅を、お盆に乗せたまま渡した。
─これを置いときゃあ…
 柳は日に焼けた顔をくしゃくしゃにし、屈託のない笑顔になった。
─あかつきさんとこには来年も福が来てくれるで。
 次にあかつきを訪れたのは、加藤僧侶。
─今年も大量に作ったから、おすそわけ。
 さりげなく差し出された二段の鏡餅は、しかし、柳に負けず劣らずの大きなものだった。
─ありがとうございます。
 美津子は、それを恭しく受け取った。
 最後に鏡餅を持ってきたのは、ぐう爺。
─いつも、珍しい食べ物を恵んでくださるお礼に…。
 玄関先で、杏奈は美津子と一緒にぐう爺に相対した。
 美津子と杏奈は、よく花神さまに供物をしに行っている。それらがさも、自分に供えられていたかのような言い方だった。
─来年も健康で歳を重ねられますように!
 そう言って、三方(餅を乗せる木製の台)の上に乗せた大きな鏡餅を差し出した。
 ぐう爺はかつて、足込町には、味方にしておくと何かと良い三大老爺がいると述べていたが、その三人が、美津子のところに鏡餅を奉納する。これはどうやら、毎年のこと。
 ということで、あかつきには今、餅がたくさんあるのだった。
 杏奈は餅をトースターで焼いている間、きなこを作り、お茶を淹れた。

 羽沼はあかつきの中をぐるりと見て回った。和洋折衷の、落ち着いたたたずまいの邸宅。整然と片付けられており、どこで撮影をしても、写真映えがしそうだ。
 ネタは豊富にある。しかし、ここのオーナーもスタッフたちも、様々な業務を兼業していて時間が割けないのか、単に知識がないからなのか、この癒しの館の魅力を動画で配信し、認知度UPにつなげるには至っていないようだ。
 再び書斎の方に戻ろうとする羽沼の耳に、先ほどのオーナーらしき女性の声が聞こえてきた。
「そのお客さまが亜美さんを担当から外してほしいと言ったのは、亜美さんのせいではないですよ」
 応接間の扉は開け放たれており、声は、その応接間から聞こえてきた。壁の傍に近寄ると、話声はさらに鮮明に聞こえた。
「子供を産むことは自然な営みですけれど、当たり前に叶うことではありません。妊婦さんや子供を見るだけでも辛くなる人もいます」
 オーナーは電話をしているらしい。何の話をしているのだろう。それからしばし、間があった。
「ええ、原因がパートナーにあるとすれば、その方はなおさら、納得ができないのかもしれません。そうですね…男性の不妊症も増えていますから…」
 また少し、間があった。オーナーは何度か相槌を打ち、
「確かにアーユルヴェーダは、不妊についても一般とは異なる観点から見解を提示してくれます。男性にとっても役に立つものだと思いますが…」
 羽沼は壁に張り付き、息を潜めた。
「でも、亜美さんの口からこちらを紹介したところで、お相手の方は聞く耳を持たないかもしれません」
 羽沼は音を立てないように壁から離れた。とても個人的なことを話しているようだ。
─アーユルヴェーダの滞在施設…
 そこに滞在したり、興味を持ったりするクライアントは、どんな悩みを抱えている人なのか。羽沼はその一端を見た気がした。
 心臓の鼓動が早くなっていることに気が付いて、羽沼は、胸元の服をたぐって、握りしめた。
「羽沼さん?」
 その時、背後から小さく声が聞えた。振り返ると、杏奈が両手にお盆を抱えながら、こちらに近づいてくる。
「どうしました?」
「いえ、なんでもありません」
 羽沼は小声で言い、手を胸元から離した。 
 杏奈がおやつとお茶を持って書斎に入ると、
「わあ、きなこもちだぁ!」
 快はおやつにありつけることを敏感に察し、転がるようにテーブルまで駆け寄った。杏奈はテーブルにお茶ときなこ餅を置き、沙羅にバナナとみかんを渡した。七瀬用のおやつだった。
「いただきます」
 それぞれ、湯呑や匙に手を付けた。
「よく噛んでね」
 快に注意する沙羅は、思案顔というか、難しい表情をしていた。七瀬はそんな沙羅の膝の上でバナナ一本を手に持ち、思いっきりかじりついていた。

「どうする?予定通り行く?」
 あかつきの門を出ながら、安藤は羽沼に尋ねた。元の予定では、これが終わったら足込温泉に行こうという話になっていた。
「ああ、そうだね」
 久しぶりに野球をして、心なしか筋肉疲労を起こしている気がする。
 門扉を閉め、二人はあかつきの駐車場と思しき場所に停めたバイク、スクーターの方へ移動した。
 羽沼は、あかつきの敷地を囲んでいる槙の木を通して、あかつきの建屋を眺めた。
─子供を産むことは自然な営みですけれど、当たり前に叶うことではありません。
 クライアントにオーナーが語り掛けていた言葉を思い出して、羽沼は、ふと歩みを止めた。
 この大きな邸宅を訪ねてくるクライアントは、体や顔を美しくすることを主目的とした人ではないのか。
─アーユルヴェーダは、不妊についても一般とは異なる観点から見解を提示してくれます。
 その教えを求めて、ここへやって来る人もいるのかもしれない。
「羽沼」
 安藤は自身のスクーター・ホンダPCXにまたがりながら、母屋を眺めたまま立ち止まっている羽沼を呼んだ。
 駐車場には、彼らの二台の単車の他に、沙羅のミニと、あかつきの社用車と思しきエヌボックスが停まっていた。
「どうした?」
「なんでもないよ」
 羽沼はジャケットのファスナーを一番上まで閉め、バイクまで歩み寄ると、ヘルメットをかぶった。

 男たちが帰った後も書斎で遊んでいた快と七瀬だが、途中で七瀬のほうがぐずぐずしだした。
「眠くなったのね」
 美津子は、沙羅に抱かれる七瀬の頭を撫でた。張りのある、つるつるのほっぺが可愛らしい女の子だ。
 美津子は二人を車に乗せるところまで手伝い、母屋に戻ってきた。客人に出したお茶菓子の片付けを終えた杏奈は、キッチンから出てくると、
「美津子さん、亜美さんとはどんなお話をされたんですか?」
 と、さっそく尋ねた。亜美が電話で相談を求めているという話は今朝がた聞いた。妊娠中の身に何かあったのかと思い、気になっていたのだ。
「ジムで個別指導をしていた会員が、亜美さんに担当から外れてもらいたいって」
 上司を通して、そう伝えられたそうだ。今まではとても親しくしていたのに、急に態度が翻った。
「亜美さん曰く、自分が妊娠したのがきっかけだろうと…」
「じゃあ、亜美さんの身を慮って…?」
「いや…そもそも亜美さんは今、トレーニングではなく生活面の指導しかしていないそうだ」
「そりゃ…妊娠してたら筋トレの指導は難しいですものね」
「でも、指導力ばかりが問題ではなさそうなの」
 その会員は、長年不妊治療していたらしい。今までは、子供がいない亜美のことを、同士、仲間という目線で見ていた。それなのに、亜美が妊娠したことで、亜美は同士でも、仲間でもなくなった。その会員は、妊娠した亜美を羨ましいと思う気持ちを飛び越えて、妬ましくなったのだ。
「そういうことって…ありますよね」
 杏奈にも、覚えがなくはない。二十代半ばあたりから、前の会社の同期や友人の多くが、結婚したり、妊娠したりするようになった。それを、手放しでは喜べなかった自分を、よく覚えている。
「亜美さんは、その会員の方も、癒しが必要だと考えているようなの」
 それで、あかつきを紹介しようとした。しかし、やっかみの対象となっている亜美の口から、何かを勧めるのは芳しくないだろう。美津子は亜美にそう言った。亜美は、それも分かっている。
「その方は、不妊の理由はパートナーの方が大きいと見ていたらしい」
「旦那さんの方が子供ができにくい体質だったということですか?それではなおのこと、子供のことは諦められなかったでしょうね」
 自分ではコントロールしにくい理由で諦めなければならなかったと思えば、その会員も不憫に思える。
「不妊症の場合、西洋医学の介入が必要な場合もある。アロパシーの医者は、不妊治療のその先の心のケアを、どのように、どの程度されるのでしょうね…」
「アロパシー?」
 杏奈は、その用語には聞き覚えがあった。
「西洋医学のことでしたっけ?」
「簡単に言えばそうね」
 原因を根こそぎ排除するのではなく、症状や病変部位を、薬物・手術・放射線などで改善したり除去したりする「対症療法」に対して、そう呼ぶことがある。平たくいえば、二十世紀に発展した近代西洋医学のことだ。
「体の不調も、心の不調も、その根本的な原因が解決されなければ、別の形で、別の症状として現れることがある。害を及ぼす感情も、そのままにせずに、都度消化することが必要なの」
「はい」
「亜美さんが、うちを勧めようとしてくださったのは嬉しいことではあるけれど…」
 悲しいかな。生徒の準備ができていなければ、教師は訪れない。
 前向きな気持ちをもって、自分から門戸を叩いた人にしか、この教えは伝わらないのであった。

 

 


 

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