第35話「現代女性の受胎」アーユルヴェーダ小説HEALERS

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「咲子さん、よろしくお願いいたします」
 応接間で、美津子と杏奈は向かい合う定位置に座りながら、テレビモニターに映る女性にお辞儀をした。モニターに映っている女性も頭を下げる。
 顔はやや丸顔。目は少し垂れ目で、中くらいの大きさ。年齢は三十八歳だが、年齢よりも若く見える。胸まで届く、やや茶色みがかった髪。ハーフアップの髪型が女性らしい印象を与える、可愛いという形容が似合う女性だ。
 この女性・咲子は、約一か月後、あかつきへの滞在を決めている。そのための事前コンサルが始まるところだった。
「滞在の目的は、妊娠しやすい体づくり…ということでよろしいでしょうか」
『はい』
 杏奈は、すぐにタイピングできる位置にパソコンを置き、手元の健康に関する質問票を覗き込んだ。愛知県岡崎市出身。同市在住。
「アーユルヴェーダを学んだことはありますか?」
『初めてです。趣味でヨガの教室に通っていて、そのつながりで知りました』
 趣味はヨガ、料理、読書、旅行、温活、アロマなど。週に二回ほど、常温のヨガクラスに通っている。家でのヨガの練習は、気が向いた時に週に一回程度、youtubeを見ながら。
『妊活に良いことは、とにかくなんでも取り入れてきました』
 ヨガ、温活、アロマ…趣味の項目に書いてあったことは、妊活の必要上から取り入れるようになった。
『食事法も、グルテンフリー、マクロビ、薬膳などを学んできました』
 八年間妊活しており、四年前から、不妊治療をしている。しかし、未だに子供をもつ夢は叶わず。
「お仕事について教えてください。仕事上の大きなストレスはありますか?」
『いいえ。人間関係も、仕事の内容も、可もなく不可もなくというところで…大きな満足もないですが、ストレスになるようなこともありません』
「立ち仕事、接客がメインですか?」
『はい。仕事の内容は、主に接客、品出し、陳列、レジ打ち、商品の発注などです』
 今の咲子の仕事は、大型ショッピングモールの、和食材を扱う店舗の店員。パート勤務である。
「シフト制とのことですが、基本的には日勤で、生活のリズムが大きく狂うことはないようですね」
『はい。規則正しい生活を心がけているので、シフトも、午後五時までしか入らないようにしています』
 長年、咲子は妊活を成功させるための生活をしている。今の仕事は、やりたくてやっているというより、妊活しやすい環境を生み出すためのものだろう。週三、一日に長くても七時間の勤務。
「その前は、中学校の英語教諭だったのですね」
 質問表によると、三年前に仕事を辞めたようだ。
「辞めた理由を教えてもらえますか?」
『教員は、妊娠しにくいと聞いたんです』
 自然妊娠を試みて四年、その後不妊治療を一年。それでも子供ができないため、咲子は、自分の仕事の特性が原因ではないかと疑った。
『体調不良で仕事を休んだとたん、妊娠した人もいると聞いています。それまで逆子だったのに、産休に入ったら逆子が治ったとか…』
 教員は、ほぼ一日中立ち仕事で、常に学生に気を払っていなければならず、保護者とのやり取りもあり、時間外労働も多い。
 咲子は教員の仕事が好きで、誇りにも思っていたが、長年子供ができずに悩み出すと、教師という仕事の特性が、自分の妊娠力の妨げになっているのではないかと疑ったのだ。
『仕事のストレスが、妊活の妨げになることってあるんでしょうか…?』
「影響度は、個人差があるものですけれど、影響がないとは言い切れません。咲子さんの場合、どの程度影響していたのかは計りかねますが」
 美津子の言葉を、杏奈はパソコンに入力していった。
 出生前の母親のストレスは、母親と胎児の健康、および生涯にわたるその子供の発達に影響する。
「残念ながら、現代は非常にペースが速く、ストレスが多いです。特に女性は、稼ぎ手と母親、両方の役割を果たすことを余儀なくされています」
 かつて、多くの女性は育児と家事に専念していた。
 しかし、今日では多くの女性が、家事や育児・介護といった家の中での役割に加え、家の外での役割や責任を果たすようになった。
 妊娠には副交感神経が優位となっている状態が必要という説もある。これを妨げるストレスは、古くから不妊の原因の一つであると主張されてきた。もっとも、これは男性の生殖能力についても同じである。
「結婚十年目になるのですね」
『はい』
「旦那さまとは、どこで知り合ったんですか?」
 咲子の夫・大樹は、咲子より一つ年上の三十九歳。自動車部品メーカーの社員である。
『友人の紹介で知り合いました』
「夫婦仲はいかがですか?」
『良好だと思います…けれど、なかなか子供ができないので、私がだんだん焦ってきてしまって…』
 妊活のことが話題になると、時々喧嘩することがある。子供づくりがスムーズに進まなかったことで、その前よりも、夫婦の気持ちにすれ違いが起きているように思える。
「どんな風に?」
 美津子は、具体的な夫婦の気持ちのズレを探った。
『私は小さい頃から子供が好きで、絶対に子供がほしいと思っているんです。子供なしの人生なんて考えられない…』
 それは、今も同じであるようだ。
『けれど、彼は最終的に子供ができなくても、夫婦二人の生活でもいいって。私が妊活で神経をすり減らして、イライラしてしまうくらいなら、子供のことは自然に任せて、穏やかに過ごした方が良いって』
 それを聞く分には、妻からプレッシャーを取り払おうとする、優しい夫のように思えるのだが。
『でも私はずっと子供がほしくて、頑張っているから、夫にも同じくらいの努力を求めてしまって』
 大樹は、太ってはいないが、これという運動はせず、仕事の帰りが遅くなって生活が不規則になることもしばしば。食べるものにしても、咲子ほど気を遣ってはいない。
「不妊の原因について、担当医はなんと仰ってますか?」
『特定の原因は突き止められないと。夫も私も、体内年齢はほぼ、年齢相応だと…。もう若くはないので、正直、焦っています…』
 杏奈はテレビモニターに映る咲子の顔を見た。あからさまに、打ちひしがれた様子は見せていないけれど、藁にもすがる思いで、コンサルを受けているに違いない。
 好きでしていた仕事を辞め、趣味に使うお金も時間も、妊活のためになることにつぎ込んでいるということは、本当に本当に、子供がほしくてたまらないのだろう。
『夫は私に、本当に子供が欲しいの?って聞くことがあります』
 咲子は、困り果てた表情で言った。
『子供を持ったこともないのに、どうして?って。周りの友人や同僚に子供がいるから、自分も、当然もてるはずだ、もたなきゃならないって、執着になってるんじゃないの?って…』
 美津子は、ペンを持ってはいたが、何かをメモることはなく、ただペンを握ったり、傾けたりしていた。
「そう言われて、咲子さんはどう思われます?」
『分かりません…執着と言われれば、そうなのかも。罪悪感、劣等感があると、子供に執着するようになるって、ネットで読みました。本当は子供が欲しいんじゃなくて、自分には子供をもつ能力がないっていう劣等感や、子供を世に送り出せないという罪悪感…それを見て、私もそうかもしれないと』
 美津子は、それを聞くとふっと頬を緩めた。
「ネットの記事などを読むと、いろいろな気づきがあるものですが、一方で本当の気持ちを歪めることにもなります」
『ええ…そうですね。私、何度も、どうにかして諦めようって、いろんな理由をつけて自分に言い聞かせていたようにも思います』
 夫に不妊の原因がなさそうということは、自分に原因があるのではないかと、咲子は思っている。女性の不妊の原因は、男性よりもずっと複雑だから。
 とすれば、子供は諦めても良いと言ってくれている大樹を、無理に付き合わせているみたい。咲子は、それに対しても罪悪感もあるという。
『明らかな原因が分かっていれば、打つ手もありますが、それが分からないということが、より不安をあおって…』
 咲子は、時が経つにつれ、プレッシャーを大きく感じるようになっている。
『アーユルヴェーダ的に見ると、三十代後半は、妊娠しにくい時期なのでしょうか?』

 三十代は、女性が子供を持つことに最もプレッシャーを感じる年代であろう。多くの女性が、自分はもう若くないという危機感をもっている。
「三十代は、若いのか若くないのか、実に微妙な時期です」
 美津子は、直接的な回答を避けた。
「通常、三十五歳以上で妊娠・出産することはハイリスクであると言われます」
『はい』
「身体的にも心理的にも、全く問題ないと思っていても、高齢出産という名前がつけられると、少し不安になるかもしれません」
 咲子のように、なかなか妊娠しない場合は、不妊に関するデータを読むようになる。そして、心配し始める。これが平均的な年齢です、という数字を提示されると、可能性を見なくなり、数字だけを見始める。
「ですが、これは重要なことなので覚えておいてください」
 咲子はそう言われて、居ずまいを正した。
「大切なのは、年齢より、その女性がどのように自分をケアしているか、どのような環境にいるかです」
 年齢は確かに重要だが、その人が実際に老化しているかどうかは、個人の体質やライフスタイル、環境などによる。
「女性は皆、同じ年齢で生理が始まるわけではありません。閉経を迎える年齢も人それぞれです。そして、妊娠しやすい時期や、その期間も違います」
 年齢に目を向けるよりも、自分の体、つまり組織の質、治癒力や再生力、髪や肌、爪の質、睡眠、消化、月経周期、感情的な感じ方などを研究するほうがずっと良い。
「大切なのは、自分の体に目を向けることです」
 咲子も、その夫の大樹も、体内年齢は年齢相応だと言った。不妊治療の過程で医師にそう言われたのか、機械で計測したのか、それは分からない。しかし、自分の感覚的にも、それが真実であるならば、妊娠しやすいとは必ずしもいえないかもしれない。かといって、すでにチャンスを逃しているとも言い切れない。まったくもって、微妙な段階にいる。
「今は、体外受精を試みているのですか?」
『少し前に試みて、ダメだったので、少しお休みを設けようと思っているところです』
 その間に、アーユルヴェーダを通して自分の体を整えたい。
「自然妊娠を試みる予定はありますか?」
『はい。自分の心と身体の状態に、納得がいった段階で…』
「そうなんですね。女性の自然妊娠の旅には、もう一人、とても特別な人が関わっていますが、それが誰だか分かりますか?」
 咲子は、目を瞬いたが、その問いを大して難しいものとは捉えず、
『夫ですね?』
 ほとんど間を空けずに答えた。美津子は軽く頷いた。
「パートナーが健康であることは、妊娠するためにも重要です」
 新しい命のために良質な種を作り、届けるためには、男性の生理機能も正しく機能しなければならない。
 咲子は、眉根に皺を寄せて、首をひねった。
『夫は、その…行為自体には、協力してくれると思います。けれど、いろいろな健康法に対して、私ほどには、前向きに取り組んではくれないかもしれません』
 健康上の問題があるならいざ知らず、大樹自身には、その素因もないのだ。
「健康診断でひっかかる項目がないということが」
 美津子は、モニターの中の咲子の顔を見つめて言った。
「健康を意味するわけではありません。もし小さなことでも、不調を感じているのであれば、旦那さまもご自身の心と身体に向き合っていただくことは、重要だと思います」
 妊活は、男女の生殖経路が健康であることが必要であり、それを支えるのが体全体の健康だ。男性も、女性と同じように健康に気を配ることが大切である。
『そうですね…』
 咲子は、同意はしたものの、その言葉には力がなかった。気持ちがない人を巻き込むことの難しさを、すでに、経験的に知っているのだろう。
「よく感じる感情に、不安、恐れ、イライラ…とありますが」
 美津子は、別の話題に移った。
「どのようなことに対し、不安や恐れ、イライラを感じるのですか?」
『妊活です』
 咲子の生活は、もはや、それ一色に染まっているらしい。
「怒りの対象は?」
『主に自分。それから、時々夫にも…この状況自体に、イライラします』
 自己嫌悪、現状への否定感。
『とても後悔してることがあります』
 咲子は苦々しい表情を浮かべた。
「教えてください」
『結婚して最初の二年間、真面目に妊活していなかったことです』
 まだ時間があると思っていたし、咲子は自分の仕事に熱心だった。
『自分の妊娠力が弱いって知っていれば…』
 もっと若い時から、妊活を始めるべきだった。
『今もし、あの頃に戻れるんだったら、何よりもまず、妊活に力を入れると思います』
 そうすれば、もしかしたら今頃…
『妊娠するかもしれないから、仕事をセーブしよう、これは妊娠に良くない活動かもしれないから、やめておこう…そんな風に自分に制限をかける生活が何年も続いたことで、私は何年も狭い部屋にいるような…四方に壁があって、その中で動けないでいるような感覚に見舞われて…自分の人生を自分で狭めてしまったようで、悲しいんです。普通の人なら、もっと簡単に妊娠・出産ができて、自分の可能性を狭めることはなかったのだろうにって…私は何をやっているんだろうって』
「咲子さん」
 美津子は、毅然とした、しかし優し気な声で言った。
「妊娠・出産で悩んでいる女性は、大勢いますよ」
 美津子はそのような何人もの女性に、今まで向き合ってきたのだ。
「その時その時で、ご自身が望むものに近づくために努力をしてきたのですから、そんな自分を責めないであげてください」
『は…はい…』
「自己嫌悪は、全ての感情の中で、最も自分を傷つける感情です」
『はい…』
「現代では、女性は自分の体の深い知恵やそれを読み取る方法についてあまり教えられていません」
 咲子が若い頃、自分の知性を発揮する方向に力を注いでいたとしても、咲子に罪があるわけではない。
「現代の多くの女性は、女性の生殖器官について、ほんの少ししか学校で教えられていません」
 美津子のその言葉で、杏奈は、自分が小学生だった頃を思い出した。
 小学五年生くらいの時、なぜかその単元だけ、男子と女子が別々の教室に分けられ、保健体育の授業が行われた。今後数年間で体に起こる変化や、赤ちゃんが作られる方法について説明された。そんな気がするが、記憶がとても曖昧だ。印象に残っていることもほとんどない。とても、さりげない授業だったのだろう。一方、仕事しらべや将来の夢を発表する授業は、男女まぜこぜで、積極的に、多くの時間を割いてなされた。
「もし妊娠したら何が起こるのか、学校では、ほとんど言及されなかったことでしょう」
 多くの場合は女性がキャリアをいったん中断しないといけないこと。
 仕事復帰が容易な場合とそうでない場合があること。
 女性の生殖能力は、男性よりも早くリミットがくること。
 年齢を考慮に入れて、子供作りとキャリアを天秤にかけないといけない時期が訪れること。
 これらの事実は、ネガティブな要素と捉えられているのだろうか?子供に考えさせるには、夢がなさすぎると思われているのだろうか?いったい、どのくらいの女性が、この事実を意識した上で、仕事や、結婚して子供をもつ時期を計画できているというのだろう?
「と同時に、女性が内に秘めている魔法のような、神秘的な力について教えてくれる機会も、学校に期待することはできません」
 家庭にも、その機会は少ないだろう。
 もし、十代の頃、自分の体が宝物であることを徹底的に教えてくれた女性がいたとしたら、それは幸運なことだ。しかし残念ながら、若い女性がそのことに気が付く機会は少ない。
「現代では、女性の創造的な力をあまり称賛しません。女性が社会で、何かを成し遂げることは称賛されます」
 そのため、多くの若い女性が、賞賛してもらえることにエネルギーを割きたいと思うのは当然のこと。 環境的な流れに乗っていただけだ。
「自分を責める必要はありません」
 咲子は、目を潤ませながら、何度か頷いた。
「今からできることを、粛々としていきましょう」
 過去はさておき、今は、女性の創造性を発揮させることに注力する準備ができているのだから…

 健康に関するアドバイスをするにも、咲子の生活習慣、食習慣は、一般的に見て、とても健康的なものだった。改善点という改善点がない。しかし、明らかなドーシャの乱れと、消化力の弱さがある。
 美津子は、生活習慣や食事に関するいくつかの質問をした。そして、滞在までの約一か月の間、心がけてほしいことや、いくつかのプラクティスを伝えた。
 事前コンサルは、一時間といいつつ、一時間以上に及ぶことはざら。今回も長かった。コンサルが終わると、どちらからともなく、美津子と杏奈からため息が漏れた。
「これだけ健康に気を遣っているのに、妊娠できないのは、悔しいでしょうね」
「そうね」
 こっちとしても、改善点を挙げるにも、重箱の隅をつつくようなことになってしまい、大きな効果が期待できない。
「杏奈」
 美津子は背もたれに身を預けて、体を休めながら、杏奈に問うた。
「彼女へのアプローチ、どんな方針を立てられる?」
 美津子は、妊娠するためにどうしたらいいと思う?とは尋ねなかった。それが杏奈に分かったら、不妊治療の専門医も苦労しない。
 妊娠する方法を探るのではなく、もっと大きな次元で、人の心と身体を健やかにする方法。これについて熟考する機会を、美津子は杏奈に与えたいのだろう。
「プラクリティもヴァータが優勢ですが、ヴィクリティも、ヴァータが優勢です」
 咲子が抱えている、小さな、しかし重大な疾患につながる可能性がある不調は、いくつかある。冷え、よく夢を見る、眠れない、思考がまとまらない、疲れやすい、めまい、耳鳴り。さらに生理前はお腹の張り、気分の浮き沈み、やや便秘がちになる。このどれもが、主にヴァータの乱れと関連している。
「生理は三十六日周期。血量は乏しく、茶色っぽい。月経血は、最初の体組織であるラサの副産物であることを考えれば、咲子さんはラサダートゥの時点で、栄養の消化吸収がうまくいっていないのかもしれません」
 アーユルヴェーダでは、七つの組織が、順番に形成されると考えている。ラサは最初にできる組織。
「消化力が弱そうです」
「何が消化力を弱くしている?」
「不眠や思考のまとまりのなさ…精神的なことが影響しているのかも。けれど、食事の量は適量で、健康的で…正直、消化力を弱くする原因があまりありません」
「あまりないということは、少しはあるということだ」
「はい。でもそれが、妊娠する能力を上げるほどのインパクトがあるものなのか…」
「杏奈。妊娠を望むクライアントに接する時は、まず大前提でこのことを思い出して」
 美津子は、表情を引き締めた。
「子供をもつためには、妊娠するための方法を実践するのではなく、本来の自然な自分とのつながりをもつこと…心、身体、魂全てのレベルにおいて健全であることが重要なの」
 杏奈は全神経を集中させて、その言葉を聞く。
「私たちは、子供をもつための方法を教えるのではない。本来の自然な自分とのつながりをもつ方法を教える」
「はい」
「ほんの小さなことでも、自己とのつながりを阻むことはある」
「分かりました」
 美津子は、ふうと吐息をもらした。とは言ったものの、今回のクライアントは、確かに、対応が難しいかもしれないなと思う。
「美津子さん、あと一つ教えていただけますか」
「何?」
「咲子さんが自然妊娠を望む前にしていた、ペッサリーという避妊方法についてです」
 美津子は、質問票に視線を下ろした。咲子たち夫婦が避妊をしていたのは、結婚前と、結婚後約二年程度だった。
「避妊方法によって、妊娠する能力に影響が及ぶことはあるのですか?」
「それが決定的な影響を及ぼすとは、考えにくいけれど…」
 そんなことを言って、避妊を否定していると誤解されるものも、よろしくない。
 現代の女性は、キャリアを築き、お金を稼ぎ、旅行するなど、自分の人生で他のことをするために、子供を産むのを遅くまで待つことが多くなっている。妊娠を望まないのならば、避妊しなければならない。当然、何らかの避妊法を取る期間も、多くなる。
「避妊方法は多岐にわたるけれど、アーユルヴェーダでは、エネルギーが流れるためにはチャネルを開いておく必要があると説いているわ」
 細胞の移動をミクロのレベルで阻害する薬剤や、精子や液体の通過を阻害する物体を埋め込むことは、生体機能を阻害したり、特に体液が定期的に流れるように設計された部位に刺激を与えるリスクを常にはらんでいるという。
 また、人為的にホルモンを変化させることは、経口投与か皮膚からの投与かにかかわらず、局所的な影響だけでなく、全身的な影響を及ぼす。
「避妊法は、生殖器組織の乱れや炎症、ブロックの原因となることはある」
 物理的に体内に物(チップ、リングなど)を長期間埋め込んだり、置いたりすると、炎症を起こしたり、体液が自然に行くべきところに自由に流れなくなることがある。
 さらに、月経周期の自然なプロセスを化学的に阻害することは、意図せず体の他の部分に変化を与え、全身的な変化を引き起こし、それが生殖組織に影響を与える危険性もある。
「つまり、ある目的を達成するために、正常で自然な生物学的プロセスを阻害することは、大局を見失うことになり、より広い範囲に何らかのアンバランスを引き起こす危険性が常に存在する」
「でも、なんらかの避妊法を取ることは、避けられないですよね…」
「そうよ。だから、これはここだけの話に留めて。誤解をする人がいるといけない。咲子さんに話す必要もない。けれどあなたは、リスクがあるということは知っておいて」
「はい」
 現代では多くの女性が、子供が欲しくなるまで待ってから、避妊具を外す。しかし、自然な妊活に移行する時期が早ければ早いほど、バランスを取り戻すのは簡単だろう。
「あと一か月後…」
 咲子は、あかつきへやって来る。
 美津子は、杏奈へ新しい仕事を与えた。
「あ、小須賀さん」
 コンサル後の美津子との話し合いが終わると、杏奈はコップを下げにキッチンに入った。小須賀はいつもの位置─調理台とコンロの間─に立って、スマホを触っていた。
「来てたんですか」
「うん」
 小須賀はスマホの画面に食い入ったまま、素っ気なく答えた。懇意の女性とやり取りでもしているのだろうか。

 正月の間、滞在客がいたため、あかつきでは大掃除ができていなかったのだが、この日、ようやく掃除をすることにした。二階の施術室は、早朝美津子が掃除を済ませていた。二階の残りの部分を杏奈が、一階を美津子と小須賀が掃除する。キッチンは、後日に回す。
 マスクとゴム手袋を装着して、杏奈は客間の窓を開けた。窓のサッシを水拭きし、その上からからぶきをする。押し入れに閉まっているふとんを一階に持っていく。
「はいはいはいはい」
 杏奈が布団を持って階段を降りている時、しわがれたおばあさんの声が階下から聞こえてきた。
 布団の後ろから下を覗き込むと、シルバーヘアのおばあさんが、せかせかと杏奈に近づき、布団を横取りする。杏奈はびっくりして、目を大きく見開いた。
「あら~、こんにちは」
 おばあさんはにっこりと杏奈に微笑みかけた。
 杏奈よりわずかに背が高く、ほっそりとした体つき。白いブラウスに、黒のスラックス、その上からエプロンをしている。さっぱりとしたショートカット、耳にはイアリング、胸元には華奢なネックレス。
─誰?
 おばあさんはドタドタとガニ股歩きで、布団を玄関のほうまで運んだ。
 杏奈は無言でそこに立ち尽くしていた。ほどなく、ドタドタと音がして、おばあさんが戻って来た。
「はじめまして」
 名乗るのを忘れてた、と言わんばかりに、おばあさんは手を振って、茶目っ気のある笑顔になった。
「大鐘です~」
「…は、古谷です。どうも」
 杏奈は何が何だか分からないまま名乗り返した
「まだいっぱいあるでしょう?順番に外に出すから、とりあえず二階から降ろしてね」
 そう言うと、大鐘と名乗ったおばあさんは、またドタドタと音を立てて、お風呂場のほうへ消えていった。
 応接間では、美津子と小須賀が床の拭き掃除をしている。机や椅子は隅に移動されていた。杏奈は客間に戻らず、そのまま応接間にいる美津子に声をかけた。
「あのう、美津子さん。今、大鐘さんという方がいらしたんですけど」
「ああ」
 美津子は床に膝をついたまま杏奈を見上げ、マスクを少し下にずらした。
「大鐘さんはね、スポットであかつきの掃除をしに来てくれてた方」
 昔のスタッフだったのか。それも、掃除専任の。
「大鐘さんと永井さん、お掃除を手伝いに来てくれているの」
「永井さんも…」
─いや。
 床を拭きながら、小須賀は心の中で言った。
─二人ともただお茶を飲みに来たんだと思うけど…
 美津子に巻き込まれただけだ。
 杏奈はあのおばあさんが、何かの間違いであかつきに紛れこんでしまったのではないことを確認すると、再び客間に戻り、布団を一階に下ろした。掃除機の音がお風呂場の方からかすかに聞こえる。
 ドタドタドタ…
 杏奈が三枚目の布団を下ろした頃、またあの特徴的な足音がした。
「はいはいはいはい、外に出しますよ~」
「はい、邪魔でーす」
 元気な大鐘の声を打ち消すくらい、威勢よく声を出しながら、小須賀が布団に近づこうとした大鐘を追い越した。
「老人に布団運ばせないで」
 自分に言っているのか。杏奈は、大鐘が勝手にやろうとしていることなのにと思いながらも、それを主張することはしなかった。
「あら、老人って、失礼ね」
 大鐘は腰に手を当てる。
「物干しがいっぱいになるから、これ以上持ってこないで」
 小須賀は面倒くさそうに言った。あとは、他の日に干してほしい。
「はい」
 杏奈は素直に頷いた。
 小須賀はしっしと大鐘を追い払いつつ、布団を持って外へ出た。

 はたきでそこかしこの埃を落とした後、掃除機をかけ、備品を元の位置に戻す。ようやく客間の掃除が終わり、これから廊下に差し掛かろうという時、急に階下が騒がしくなり、小須賀と永井が階段を上って来た。
「あ、永井さん。今日はありがとうございます」
 杏奈は永井に会釈した。今年に入ってから、顔を合わせるのは初めてだ。
「こんにちは」
 永井は、杏奈の姿をつま先から頭の上まで、なぞるように見て、
「で?」
 小須賀に尋ねた。
「私、この子と変わればいいの?」
「はい。杏奈、ご飯の準備するよ」
「あ、はい」
 先輩の指示に杏奈は従順だった。
「私、お茶しに来たのよ…」
 永井は、何かある度に一回は文句を言わないと気が済まない。掃除機をかけながらぶつくさ言っている永井に背を向けて、小須賀と杏奈は一階に降りた。
「一、二、三、四…」
 小須賀はキッチンに入ると、何かを指折り数え出した。
「五」
 最後に、杏奈を指差す。
「五人分の賄いか。何食べたい?」
「最近、お通じが悪いのよ」
「わっ!」
 杏奈は、いきなり背後から声がして、びっくりして心臓が飛び出そうになった。振り返ると、デシャップ台に身を乗り出すようにして、大鐘が口をすぼめている。
「聞いてません」
 ぴしゃっと小須賀は言った。大鐘は全く意に介さない様子で、乙女のように両手を握りしめ、頬に当てる。
「楽しみだわ、久しぶりの小須賀さんのまかない」
「仕事してください」
 大鐘は、小須賀にはべえっと舌を突き出し、杏奈には、にこっと愛想笑いをして去って行った。またまた、癖強めのスタッフの登場である。

 杏奈は畑に行き、大根を一本引き抜いた。最近は、収穫するくらいなら、軍手を持たずに畑に行くこともある。畑の傍にある水道で、大根についた土をあらかた落とす。水は氷るように冷たかった。お勝手口からキッチンに戻ると、小須賀がスマホをいじっていた。
「杏奈、梅流しって試したことある?」
「梅流し?」
 杏奈は大根を流しに置きながら、首をひねった。
「ないですね」
「SNSでバズってるよ」
 小須賀はスマホをじーっと見ている。
「お通じめっちゃ良くなるんだって」
 杏奈は流水で大根を丁寧に洗いながら、小須賀を振り返った。なんだかんだ、大鐘のリクエストに応えようとしている。この人には、そういうところがあるのだ。
「あ、でもこれ、空腹時にやらないとだめみたい」
 大鐘は、朝ごはんを食べてきているだろう。
「めっちゃ効果あるんだって」
「そんなに効くんですか?」
「うん。食べて十分後から、七回くらいトイレ行ったとか、食べてる途中にもよおしたとか」
「へー…」
「あ、でもこの人は一晩寝て、翌日やっと効果が出たみたいだな」
 どんなものにも個人差があるものである。
「やめた。あんな棺桶に片足突っ込んでそうなおばあさんに食べさせたら、ヤバそうだ」
 小須賀の言い方ときたら。
「白菜たくさん余ってるので、白菜を使いたいです」
 杏奈は言った。
「白菜ね」
「あと、鶏ひき肉がたくさんあります」
「じゃあ、八宝菜か、中華丼だね」
 杏奈は頷いた。この大根は、みそ汁に使う。
 正午になる頃、大鐘が台所に顔を出した。
「ここのキッチン、綺麗にしてるわねえ」
 杏奈は、丼とお椀を調理台に運びつつ、横目で大鐘を見た。この人は、常にニコニコ顔である。
「うちは、やたら物があって片付かなくてねえ。食器棚もいっぱいあるのに、棚に収まりきらないお皿が剥き出しになってるのよ」
 杏奈はちらっと小須賀を見たが、小須賀は鍋に向かって、大鐘に背を向けたままである。
─無視!
 杏奈は小須賀の代わりに、
「そうなんですね」
 と何の身も入らない相槌を打った。
「息子が時々帰ってくると、こう言われるのよ。お母さんッ。何このガラクタの山は!そろそろ終活しなきゃだめでしょ!って」
 大鐘は、息子の声を真似した。初対面のこのおばあさんの息子に会ったことはないが、絶対に真似できていないだろうと思われた。大鐘の大声が、頭にキンキン響く。
「そりゃそうよね。棺桶に片足突っ込んでるようなおばあさんなんだから」
 素の発言なのか?地獄耳なのか?小須賀と同じ表現をする大鐘に、杏奈はどう相槌を打ったらいいやら分からない。しかし大鐘は、小須賀と杏奈の反応がイマイチなのは気にもせず、今度は鼻をクンクンと動かした。
「あら…香辛料の香りがするわね」
 今日のまかないにスパイスは使っていないから、おそらく、キッチンに染みついているスパイスのにおいだろう。
 杏奈はごはんを丼に盛り、小須賀はそれを受け取って中華あんをかけた。
 後ろでずっと大鐘が喋っている。杏奈はその声は耳に入っているのだが、なぜだか、まったく頭に入らない。
「大鐘さんッ!」
 小須賀が、珍しく大声を上げた。
「はいぃっ」
 大鐘が、びしっと気を付けしているのを杏奈は見た。思わず、丼を落としそうになる。
「どんぐらい食べるの!?」
「いっぱい!」
 杏奈はおばあさんのいっぱいってどのくらいだろうと途方に暮れながら、自分にとっての適量より多めに、ごはんを盛った。

 五人そろっての昼食の間、主に口を動かしているのは、大鐘と永井だった。美津子は時々笑いながら相槌を打ち、小須賀と杏奈は黙々とご飯を食べた。
 片付けに入る頃、キッチンの出入り口のあたりをウロチョロしている大鐘に、
「邪魔です」
 小須賀は注意するように言った。
「あら、ごめんなさいね」
 謝りながらも大鐘はニコニコ顔を崩さなかった。小須賀は、応接間から空になった食器をキッチンに運ぶところだった。
 杏奈は調理道具をシンクにおいて、ゴム手袋をつけようとした。小須賀はそれを制して、
「油もんはいいよ」
 いつものように、洗い物を買って出てくれる。
「それよりも、あのおばあさん追い出して」
 小須賀は顎で大鐘をしゃくった。かなり年上の人を相手に、結構な態度だ。もっとも、大鐘はそれで気を悪くした様子はなく、
「私も手伝うことあるかしら?」
「掃除に戻ってください」
「いいじゃない。私も時々若い人と話したいのよ」
 一体いくつくらいの人なのだろう。杏奈は別のシンクで、コップ類を洗い、水切り台に次々に置いていった。
「ふきんはどこかしら…」
 大鐘は、キョロキョロと周囲を見回す。
「いいです、まだ拭かなくて」
 小須賀は奥のシンクから、ちょっと面倒臭そうに言った。
「いいじゃないの。ねえ、ええと…ええと…」
「杏奈です」
 杏奈は、皆が自分を名前で呼ぶので、今度は名を名乗った。
「ごめんなさいね~、もうおばあさんだから。人の名前がなかなか覚わらなくて」
 大鐘はせかせかと足を動かしてキッチンから出て行った。しかし五分もするとキッチンに戻ってきて、
「棚に並んでいる香辛料。あれは、どれがなんていう香辛料なの?」
 コンロ周りの拭き作業に移っていた杏奈は、後ろを振り返って、それから視線を棚に移した。
「いいんです。大鐘さんはそんなこと聞かなくて。どうせ覚わらないんだから」
 大鐘は小須賀から、かなり雑な扱われ方をしている。杏奈自身も、雑に扱われていると思うことがよくあるが、大鐘はそれ以上かもしれない。
「小須賀さん、そんなこと言っても仕方ないじゃない。おばあさんだから覚えは悪いわよ。でも、ちょっと練習すれば、私にも扱えるようになるかしら」
「なりません」
「昔、ここの賄いはお米がパラパラしていた気がするけど、今日は普通のだったわね。パラパラしたお米を食べると、平成の米騒動を思い出さない?」
「思い出しません」
「ここに来る方は、みんなああいうのを喜ばれるの?うちの主人が見たら、あんな雑穀みたいな貧しい米は食えないって言うかもしれないわ。まあうちの主人はもう死んでるからそんなこと言えないけれど」
「知りません」
「あっ、あの黄色いスパイスは見たことがあるわ。ええと…ええと…」
「はい、ここはボケ防止のトレーニング場じゃありません」
 小須賀は鋭い声で言ったが、大鐘ときたら変顔をして聞こえないふりをした。
「杏奈」
 小須賀に呼ばれて、杏奈は顔を上げた。
「このおばあさんの相手しといてくれない?」
「やーだ、老人ってこうやって邪険にされていくのね」
 キュッ。
 小須賀は、蛇口をひねって水を止めた。そしてスマホとタバコをつかむと、さっそうとお勝手口から外へ出て行った。まるで漫才をしているような二人だった。

 杏奈は急に大鐘の相手を押し付けられて、途方に暮れた。
「…えと、とにかく、そろそろ拭きものをしましょうか」
 杏奈は、大鐘に仕事を与えた。
「まーあ、ありがとう。あなたは優しいのね」
 大鐘は杏奈からふきんを受け取ると、コップから拭き始めた。
 スキッパーカラーの白シャツを着た大鐘は、黙っていれば、おしゃれで上品なおばあさんである。
「大鐘さんはどちらにお住まいなんですか?」
「野郷よ。出身は豊橋なんだけど、主人の実家がこっちでね。まー、嫁いだばかりの頃は、何にもないところでがっかりしたわよ。なーんで私がこんな田舎に嫁がなきゃならないのかって。もう五十年くらい前のことになるけど」
「五十年前…」
「そうよ!もう今年で七十五になるわ。七十六だったかしら。何の取り柄もないばばあだけど、時々雇ってくれてた美津子さんには、感謝してるわよ」
 杏奈は食器類を拭きながら、適当な相槌を打った。
「私はね、公民館で時々子供食堂をしているの。っていっても、なんとことはない、子供相手に簡単なお菓子作って遊んでるだけの託児所みたいなところよ。そこで時々子供たちの相手をしているというか、相手をしてもらっているというか…」
 杏奈は苦笑いした。
「でも、それ以外は基本、暇でしょ!?」
 自分が暇であることを、こんなにも堂々と話す人を、杏奈は初めて見た。
「そしたら、永井さんって、あのおばさんがね。お掃除おばさんの求人があるよって教えてくれたの」
「そうだったんですか」
 あかつきに頻繁にクライアントが出入りしていた頃のことだろう。
「ここは、いいわね~。働いている人たちも若いし、元気な人たちが来てるし」
「そうですか?」
「そうよ。あのね、私、三回お腹を切っているの。二回の帝王切開、三回目は病気で手術をして。怖かったわ~。その時つくづく思ったの。病院って、嫌よね」
 大鐘は壮絶な体験をさらっと話した。杏奈は食器を拭きつつ、大鐘の話を真面目に聞く。
「私、ここの話を聞いた時、病人の相手や老人の相手をするよりも、絶対に面白いはずだって思ったの」
 コップを拭き終わった大鐘は、もはやふきんを置き、ただ演説を続けた。
「病気が治るか不安だなあ、治療を受けるの怖いなあ、っていう気持ちは、この施設には漂ってないわ」
 そう言われれば、そうかもしれない。中には手術を控えているクライアントも来ていたかもしれないけれど、この施設では何か痛いことをするわけではない。
「もっと元気になりたい、もっと綺麗になりたいってポジティヴな人が来るところじゃない」
 大鐘は急に、納得感のあることを言った。
「だからいいのよ」
 あかつきには、自分で自分の心身をなんとかしようという人が訪れる。
─このおばあさんは、いいかげんに見えて、物事をよく見ている人なのかもしれないな。
 と、杏奈は思った。
 
 午後から、小須賀と杏奈の掃除の持ち場は外になった。
 小須賀が垣根の槙の木を剪定する。槙の木は、小須賀の背丈よりも高く、上の方を切る時には脚立を使った。杏奈は落ちた葉や枝を拾い集め、ゴミ袋に入れる。
 あかつきの敷地を覆う槙の木全てに手に入れるのは、相当な労力だった。最初の頃は慎重に剪定していた小須賀も、最後の方はやや作業に繊細さを欠いたのを否めない。杏奈は土埃をかぶり、今からすぐにでもお風呂に入って髪を洗いたい気分になった。
 大きなゴミ袋をいくつも屋根下に置いた後、杏奈はエプロンについた土埃をさっとはたいた。
 玄関から母屋に戻った二人は、書斎から聞こえてくる賑やかな女たちの話声に、顔を見合わせた。
「本当に失礼しちゃうわ」
「集会があった後に大鐘さんとお茶すると、だいたい話題は久保さんになるのよ」
「そりゃそうよっ。この前なんてあの人なんて言ったと思う…?」
「掃除終わったんですか?」
 永井、大鐘、美津子の三人は、書斎のテーブルにお茶菓子を広げ、くつろいでいる。
「だいたいね」
 美津子は、くたびれた様子の二人に、気遣うような視線を向けた。大方、ちょっと休憩とか言いながら、永井と大鐘が書斎のソファに居座り、美津子はその相手に足止めを食らったのだろう。
「ねーえ、前から思ってたんだけど、そのエプロン大きくない?」
 ぺちゃくちゃ話を続けている大鐘を無視して、永井は杏奈をもう一度足の爪先から頭のてっぺんまで、舐めるように眺めた。
 先ほど土埃を払ったばかりだが、杏奈は薄汚れた自分のエプロンを見て、
「そうかもしれません…すみません、私、汚れたまま」
 庭でエプロンを脱いでくるべきだった。
 永井は貸してと言って、杏奈のエプロンの裾に触れる。
「直してきてあげるわ」
 思いがけない発言だった。杏奈は、意見を求めるように美津子を見る。
「すみません、永井さん」
 それは、お願いしますという意味だった。
「永井さんは、裁縫が得意なのよ。セラピストの着物も永井さんが」
「そうだったんですか」
「ちょっと丈を測らせて」
 美津子は頷いて、ソファから立ち上がった。
「美津子さん、僕、もういいですか」
 書斎を出ようとする美津子に、小須賀は声を掛けた。
「ええ。ありがとう。お疲れ様」
 剪定ばさみを持ち上げた状態が長く続いたためか、小須賀は肩のあたりに疲労感を覚えている。肩を回しながら、「お疲れさまでーす」と言って、書斎を出て行った。
「洗ってからでなくていいですか?」
 美津子が持って来たメジャーで、永井が寸法を取るのに身を任せながら、杏奈は尋ねた。
「私がここに来る機会もそうないから…」
 永井はささっと測り終わると、適当なメモ用紙に寸法を殴り書きした。小言は多いが、面倒見が良いようだ。
「美津子さん、私シャワーを浴びてきますね」
「ええ。今日はこれで上がって。お疲れさま」
 杏奈の今日の業務は終了となった。
 杏奈が書斎を出て行くと、大鐘が、カチャカチャと茶器の音を立てながら、紅茶を啜った。
「久しぶりに若い人たちと喋れて面白かったわ」
「大鐘さん、もっと若い子たちと子供料理教室で会っているじゃない」
 永井は杏奈のエプロンをビニール袋に収めながら、淡々と突っ込んだ。
「それはそうね。でも子供料理教室に来る子供たちには、話が通じないから」
 美津子と永井は、どう突っ込んで良いやら分からなかった。大鐘に対しても、話が通じないと思うことは多々あるのだが。
「特に、小須賀さん。彼と話してるとなんだか…」
 大鐘は思いっきり息を吸いこみ、胸を膨らませた。
「生きてる…!って感じがするのよね」
 吐く息とともに、大鐘の体はしぼんでいった。
 美津子は苦笑する。
「あのお嬢さんは、新しい子ね」
「杏奈です」
 やはり、大鐘は名前を覚えるのが苦手だ。
「そう、杏奈さん。あの子は、真面目そうな子ね。私の話も、うんうんって聞いてくれるのよ」
 大鐘のおしゃべりはまた、止まらなくなった。
「小須賀さんは、私が変なことを言うと、バカにしたり、相手にしなかったり、とにかくぞんざいに扱うでしょう。でも、あの子は真面目に返事をするのよ。こっちがなんか尋ねると、冷静に教えてくれるの。諭すように!私がバカみたいに思えてくるけど。今の子ってみんなああいう感じなのかしら。なんていうの…?悟り系!?」
「あの二人、性格は全然ちがうけど」
 永井は大鐘の話を適度に聞き流しつつ、適度にひろった。
「意外と、相性悪くないのね?」
 永井は残ったみかんを親指と人差し指でつかみ、口に入れながら、同意を求めるように美津子を見た。同僚として…ということであるが。昼の準備から後片付け、槙の木の剪定…。思い出してみれば、今日の仕事はほとんど、二人セットだった。息が合っているように思えなくもない。
「さあ…」
 少なくとも最初の頃よりは、お互いの性格を理解し合っているように思える。
「あの女の子は、セラピストにしないの?」
 永井としては、それが気になるところだった。何しろ、あかつきにセラピストが足りなければ、駆り出されるのは永井なのだから。
「今はまだ、料理番です」
「小須賀さんがいるのに」
「そうですね。でも、料理番が二人いると何かと心強くて」
 どの役割も、心強い担当者が複数いるに越したことはない。
「それに…あの二人の料理は、どちらも私は好きで」
 美津子は、小須賀が、あるいは杏奈が、キッチンに立っている時の様子を思い浮かべる。
─あの二人が料理をすると、料理にポジティヴな気がこもる。
 料理が好きだから。料理の状態に気を払い、最高の瞬間を狙って、食べる人に提供する。鍋の中の様子を嬉々として覗き込み、加える食材の量を微調整し、ひと手間を加える…
 その熱心さは、自分にはない。でも彼らは、それをするのが好きだ。
 料理が好き。人に食べさせたい。料理で人を喜ばせたい。そう思っている者が料理した方が、おいしいに決まっている。
 無心で料理をする彼らの様子を見るのが、美津子には心地よかった。
「永井さんには、もう少し助けていただかないといけなさそうです」
 と、美津子は布石を打っておく。
「杏奈には、他の仕事もさせているので、施術の習得は急がせないつもりです」
「気が長いのね」
 永井は、ソファの背にゆったりと身を預けて言った。
「羨ましいわ。私なんて、死期が迫ってるもんだから、常にせっかちよ」
 大鐘は話ながら、煎餅を咀嚼するのに忙しい。
 永井は隣に座る大鐘の方を見もせずに、またまた冷徹な突っ込みを入れた。
「大鐘さんのせっかちは生まれつきでしょう」

 

 


 

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