第36話「重圧」アーユルヴェーダ小説HEALERS

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「なにあんた」
 永井は、次女が住む上沢のアパートに入るや否や、娘・恵里の恰好を見て、鞄がずり落ちた。もうそろそろ午前九時になろうというのに、まだパジャマ姿のまま。もこもこのパーカーを着込んで、髪はぼさぼさ。その状態で、もうすぐ生後三か月になろうという娘の日葵─永井にとっては孫娘─に、授乳をしている。
「髪、ぼさぼさじゃない」
「昨日夜泣きがひどくて眠れなくて」
 今起きたばかりのようだ。
「イタタッ!」
「大丈夫?」
 恵里は顔を歪ませて、日葵を胸から離す。日葵はおっぱいを取り上げられて、うぎゃーと泣いた。
「開通した?」
「まだだよ」
 昨夜から右のおっぱいが詰まってしまっている。一番の解消法は、赤ん坊に飲んでもらうことだと聞いているが、痛いし、吸っても吸っても母乳が出てこないと赤ちゃんは泣くしで、途方に暮れている。胸は痛く、気が滅入り、家事も進まない。そこで、恵里は隣町の足込町に住んでいる母親を呼んだというわけだ。
「あんた私を家政婦だと思っとったらいかんよ」
 私にも仕事があるんだからね、と永井はつぶやきながらも、満足に母乳を飲めず、腹を満たせない孫娘のためにミルクを作ってやる。
「飲ませといたるで、あんた顔洗ってきたら」
「うん…」
 恵里は洗面所に立ち、髪をしばり、まず顔を洗った。
 初めての育児は想像以上に大変だった。この頃は、日葵は抱っこしていないと泣いてばかり。母乳分泌量が十分でなく、ミルクとの混合栄養。今日のように、母乳が時々詰まると、恵里は世界が終わったような気持ちになる。鏡に化粧をしていない顔を映してみると、目の下のあたりのシミが気になった。
「この間良さん、ひどいこと言ったんだよ」
「は?」
 良さんとは、恵里の夫・良助のことである。
「シミ増えたんじゃない?って。私はお風呂から上がったら、すぐ授乳、日葵の世話なのに、自分は高いマスクなんか使っちゃってさ!」
「なあンだ」
 永井はため息交じりにぽつりとつぶやいた。顔を家事を手伝いに来いと言ってきたかと思えば、今度は愚痴か。
「使わせてもらえばいいんじゃない」
「使わせてはくれるよ。むしろ私も使ったら?って言ってくる」
「優しいじゃない」
 恵里は拍子抜けした。恵里にとって、その夫の言葉は嫌味であり、大きなお世話でしかなかったというのに。この母は、いつだってのほほんとして、娘の気持ちに寄添おうとしない。体をゆらゆら揺らしながら、日葵にミルクをやっている。
「失礼しちゃうよ!平日は私に育児丸投げで、セルフケアの時間なんかないのに。休日だって、自分はだらーんとしちゃってさ」
 そのくせ、自分の外見は棚に上げて、恵里には子供を産んでも美容に気を付けろという。
 恵里は良助の悪口を言いながら、髪を櫛でとかした。出産前に、肩にギリギリつくくらいの長さに切った髪。出産後、抜け毛がひどく、ハリがなくなった。
「なあに?あなたたち。喧嘩してるの?」
「喧嘩っていうほどでもないけど…不満?」
 日葵がミルクを飲み終わると、永井はトントン、と日葵の背をたたく。ほどなくして、日葵はうぷっとげっぷをした。
「自分に不満がある時、相手にも不満があるもんだよ」
「そうだけど…不満が募ったらどうなっちゃうんだろうって思うよ」
「離婚すれば?」
「簡単に言うね」
「まあね。一回くらい結婚してもいいんじゃない?とは思ってたけど、あんたはもう結婚を経験したわけだし」
「極端なこと言わないで…イテテ」
 胸が痛む。
─母乳育児って、こんなに大変なんだ。
 子供を産むまで、知らなかった。考えもしなかったことだ。
「母乳マッサージ受けたら?」
「え?」
「お姉ちゃんも、母乳詰まった時、母乳マッサージ受けに行ったら、痛みもなくなって、母乳の出も良くなったって言っとったよ」
 そんな施術があるとは、知らなかった。恵里は近くの母乳相談室をスマホで検索した。上沢には一件、母乳育児相談とベビーマッサージができる個人経営らしい施設がある。
「え…!今日休みじゃん…」
 よりによって、今日は定休日だった。恵里は、肩を落とす。
「あんたが出産したクリニックは、母乳マッサージやっとらんの?」
 永井に言われて、恵里は松下クリニックのホームページを開いた。母乳マッサージのことは書かれていない。しかし、試しに電話してみると、母乳外来も受け付け可能とのこと。恵里は電話を切ると、いそいそと洗面台に向かった。
「お母さん、クリニックに行ってる間、日葵を見ててくれる?」
「うん…しょうがないわね~」
 永井は、日葵のかわいい顔を見つめながら、体をゆすゆす揺すった。日葵はとろんとして、このまま抱っこしていれば、大人しく寝てくれそうではないか。
 今日は足込温泉での勤務はお休み。自宅サロンで施しているよもぎ蒸しを、温泉のリラクゼーション施設でもやってほしいという話をもらっているので、今日はその計画を立てようと思っていた。新しく仕入れたよもぎをあかつきへ届けに行く予定もあった。ちょうど杏奈から預かっているエプロンもできたので、それと一緒に。しかし、この分では当初の予定を変更しなければならなさそうだ。
 永井は日葵を抱っこしたまま、「よいしょっと」と言って立ち上がって、部屋のなかをうろうろ歩いた。思いのほか、大人しく寝てくれない。
「なあに?」
 洗面所まで歩いたところで、永井は恵里が化粧をしていることに気が付いた。
「クリニックには化粧して行くのかね」
「しょうがないでしょ…身だしなみ」
 何せよ、松下クリニックに来ている患者はみな、綺麗にしている人が多いのだ…

 ちょうど去年の、このくらいの時期から、恵里は松下クリニックに通い始めた。
 自宅から通える距離にある産院で出産するには、自宅出産や助産院での出産を除けば、考えられる施設は二つ。足助病院と、松下クリニック。といっても、足助病院は遠い。通えなくないが、通うのは一苦労だ。クリニックの方が断然近いし、出産後、入院中のごはんが豪勢だと聞いている。そんな理由で、恵里は松下クリニックを選んだ。
 初めて松下クリニックを受診した時、恵里は自分が本当に妊娠しているのかどうか、期待と不安でドキドキしていた。問診票を受付に提出してから待合室で待っている間、ふと恵里は、周りの外来患者が小ぎれいな恰好をしている人ばかりなのに気が付いた。市内のクリニックに、車で行くだけだし…と軽く考えて、化粧をせずに出てきたのが、なんだか恥ずかしい。
─竹内さん。
 名前を呼ばれて、中待合に移る。それからもう一度名前を呼ばれて診察室に入ると、恵里のドキドキは頂点になった。
─妊娠検査薬で陽性だったんですね。
─はい。
 パソコンに目を向けている医師に、恵里は答えた。その医師の顔がこちらを向いた瞬間、恵里は別の意味でドキドキした。
─では超音波で見てみましょう。
 シャープなフェイスラインに、鼻筋が通った高い鼻。唇は薄い。艶のある黒い前髪は目元にかかるくらい長く、前髪の下には形の良い切れ長の目。
─えっ?
 助産師だか看護師だかに導かれるまま、内診室に入った恵里は、いよいよ動揺した。医師は意外にも若く、そして、驚くほど顔が良い。内診台に上がった後も、恵里の心臓はドキドキと鼓動を打っていたが、もはや、なんのドキドキか分からなかった。内診台に上がるのは、今回が初めてではない。過去に生理不順があった時や、子宮頸がん検診の時にも、別の病院で内診台に上がったことがあった。その時、痛い思いをした覚えがあるので、痛みに対して警戒をしていたのかもしれない。
─息を吸って。
 カーテンの向こうで、あの医師の低い声が聞えた。
─吐いて…
 医師の誘導通りに呼吸を意識する。おや?と恵里は目を開いた。内診は、驚くほど痛くなかった。
─妊娠していますね。
 再び診察室に入った恵里に、医師は口早に伝えた。
─妊娠五週目。初めての妊娠ですね?
─は、はい。
 医師の声色は温かい感じだったが、別に祝福するような笑顔を見せることなく、
─この後助産師から今度の生活について説明があります。次は四週間後。
 流れるようなスピードで話をする。恵里はぽかんとした。
─何かご質問は?
 妊娠していたという事実と、目の前の顔が良すぎる医師に内診されたことに対する羞恥なのか、戸惑いなのかで、恵里の頭は真っ白になっていた。その場で医師にするような質問は、何も思い浮かばなかった。
─あれ?おかしいぞ。
 松下クリニックの医師は、初老のおじさんだった気がするが…待合室に戻って、クリニックのホームページを開き、診療時間を確認すると、
─なるほど…
 あまり気にしていなかったが、今日は院長ではなく、別の医師が担当であったようだ。ホームページには、院長の顔写真はのっているものの、先ほどの医師の写真はのっていなかった。医師の名は柴崎といった。
─なんでこんなことを調べてるのっ。
 恵里は頭を振って、ラインを開き、良助、それから母親に、妊娠していた旨を伝えた。
 あの頃がすでに懐かしい。松下クリニックの待合に座りながら、恵里は名前が呼ばれるのを待った。母乳外来は、医師による診察を受けることなく、最初から最後まで、助産師が対応した。
「固くなってますね」
 担当したのは、恵里より一回りほど年上に見える助産師だった。
 このクリニックでは、助産師はバーガンディまたはラベンダー色のスクラブを着ており、看護師は白衣にエプロンをしている。そのため、スタッフが助産師なのか、看護師なのかは、服装から判断できた。この助産師はラベンダー色のスクラブを着ている。くっきりとした二重瞼に、長いまつ毛。マスクをしているので、顔の全貌は分からないが、目元が涼やかな、クール系の美人だろうと思われた。
 母乳マッサージは三十分ほどで終わった。まだ胸は痛く、完全に開通というところまではいかなかったが、あとは赤ちゃんに頑張ってもらうしかないとのこと。
 再び待合室に戻って精算を待っている間、恵里は再びあの若い医師の姿を拝めないものかと期待していたが、それは叶わなかった。

 恵里が自宅に戻った頃。
 順正は、正午過ぎの回診を終え、松下クリニックの三階の廊下をエレベーターに向かって歩いていた。三階には、入院している妊婦たちの個室に、シャワールーム、ちょっとした応接ルームがある。
 エレベーターは二階で止まり、扉が開いた。二階はナースステーション、分娩室、手術室、相部屋と個室などに加え、スタッフたちの休憩室があった。休憩室では、院長の松下と、助産師の森と鈴木が、昼食を摂りながら談笑していた。順正が入って来ると、話声は一旦収まり、静かになったが、すぐに会話は再開された。
「温活がらみで薬膳を習ったのに、森さんったら、漢字が覚えられないからいやだ~って」
「気が変わるの早いなぁ」
 松下と鈴木はくすくす笑っている。
 順正はスタッフたちが向かい合って座るテーブル席には座らない。作業用の机の前にある、キャスター付きのオフィスチェアに腰掛けると、背もたれに身を預けた。机の上には、書類や書籍、文房具などが雑多に置かれている。
「柴崎先生」
 松下は順正の後ろに回り込み、そっと話しかけた。
「あの妊婦さんが訪ねてきたらしいね」
「はい」
「どうだった?」
「中絶すると」
 松下が次の言葉を継ぐまでの、ほんの二呼吸ほどの間。順正と松下の間だけ、時間が止まるような沈黙が流れた。
「そうか。ご苦労さま」
 順正は、ほんの少しだけ身体を松下の方に向け、頷いた。
 彼女のお腹の中の子が、無脳症(大脳皮質形成不全症)であるという説明は、前回の検診時に伝えた。無脳症の場合、多くは死産。赤ちゃんを助ける術はないということも、伝えた。妊娠を継続しても、リスクが大きくなるだけだ、ということも…。彼女はその時には決断を下せなかったが、今日、もう一度彼女の母親とともに、説明を求めにここを訪れた。そう遠くないうちに、彼女に陣痛促進剤を打つことになる。
 松下は順正の肩をポンポンと叩くと、ソファ席に戻った。
 松下と順正は、親と子ほど年が離れている。松下は、もう若くはないが、髪の毛はふさふさとしており、白髪と黒髪が半々程度である。うっすら口ひげとあごひげがあり、やはり白と黒が混合していた。眉尻はやや下がり、目も少し垂れている。体の割に顔が大きく、ふくよかな頬をしている。体は太ってはいないが、痩せてもいない。
「僕はこれで帰るけど、なんか相談ある?」
「いいえ」
 順正は素っ気なく答え、わずかに首を振った。
 松下は心の中で苦笑した。相談があれば、順正のほうからしてくるだろう。それにしても、相変わらず愛想がない。けれども、この男が来てからのクリニックの評判を思えば、朴訥すぎる態度も、大目に見てやらなければならないと思う。
 順正を松下クリニックに誘ったのは、松下自身。一昨年の秋頃、順正は松下クリニックの医員となった。当時は感染症がまだ流行しており、クリニックとしても、感染症対策としての新しい取り決めなどを始めて久しかった。それまでは服部という医師が勤務していた。服部は現在、足助病院と松下クリニックの両方に非常勤医師として在籍している。松下と順正のどちらかが何らかの理由で動けなくなった場合、彼に診察などをお願いしていた。が、二人とも風邪を引くことは滅多になく、服部の出番は少なかった。
 出生数は、毎年のように、過去最少をたどる一途。それでも、人口が少ない愛知県東部奥三河の、この小さなクリニックに通う妊婦はいる。松下クリニックができるまで、上沢、足込には分娩を扱える施設がなく、新設した頃、両市町の住民たちは喜んだものだ。やっと家から気軽に通える範囲に、産婦人科ができたと。それまで住民たちは、足助市民病院まで通院しなければならなかった。
 産科診療所が年々減少し、産科を扱う地域の一般病院が集約化される中で、過疎地域に新しい産婦人科ができたことは、まさに奇跡。
 そして、順正が診療をするようになってから、このクリニックに通う妊婦の様子は、明らかに変わった。妊婦の中には、つわりなど、不調に苦しみながら通院する者も多い。身だしなみに気を遣う余裕もなく、脱ぎ着しやすい適当な恰好で、髪の毛を無造作に結び、化粧をせず通院する女性などざら。しかし、一昨年の秋頃から、通院している妊婦たちは小ぎれいな恰好をしてくるようになった。よほど体調が悪いのでなければ、ちゃんと化粧もしてくる。
 しばらくすると、足助病院に通う妊婦と婦人科の患者が減った、と関係者の中でささやかれるほど、松下クリニックに妊婦と患者が集まった。見た目の美しさもさることながら、順正が内診をすると痛くなく、対応が早く説明が明確で、執刀医としての技術も高く丁寧だったと、口コミが広がっていたのだ。
 もし、順正が見てくれだけで、産婦人科医師としての能力や技術が劣っていれば、ここまでは評判にならなかっただろう。
「先生は、よく絵を描かれるんですって」
「どんな絵を?」
 助産師の森と鈴木は、さっきから最近ハマっている趣味について話している。話を振られて、松下は頬を掻く。
「いや、最近はめっきりだけど、水彩画をね」
「へえ~!すごい」
 子供がいない松下は、クリニックから徒歩圏内の一軒家に、妻と二人暮らし。休みでも当直の日には、クリニックから呼び出しがあることもしばしばだが、それもなければ、悠々自適な生活を送っている。
「ええっと…」
 助産師たちは松下ごしに、椅子に座って何かを凝視している順正に視線を送った。
 様子が変わったのは、妊婦たちばかりではない。スタッフたちも同様。髪型、化粧、身だしなみに、今までよりいっそう気合いが入った。声のトーンさえ、順正の前ではワントーン上がったし、仕事中でも、様々なしぐさに、女らしさを垣間見せるようになった。未婚の助産師、看護師ばかりでなく、松下と同じくらいの世代の者たちまで。
 恐る恐る、助産師たちは、順正の顔色をうかがおうと身を乗り出している。順正にも話題を振りたいが、出来かねている。松下は、彼女たちの様子からそれを察して、
「柴崎先生は、休みの日は何してるの?」
 代わりに聞いてやった。助産師たちは、声を立てないように顔を見合って、好奇心を顔いっぱいに広げる。
「…え?」
 返事といえない返事が聞えるのに、少し、間があった。順正は、再びやや椅子を動かして、体の向きを後ろに向けた。
「休みの日。趣味とか、あるでしょ」
「…」
 仕事ができ、顔も良く、背が高く、今年三十四歳になる順正は、まさに男盛り。モテないはずがないのに、女の影がまったく見えない。そんな順正が休みの日に何をしているのか、助産師たちも気になってしょうがなかった。
 クリニックのスタッフは、医師を除けば女性ばかりであるので、互いに牽制し合い、人間関係上の理由で、この若い医師と特別な関係を持とうと思う者はいない。だからといって、興味がなくなるわけではない。
 森も鈴木も、顔には出さなかったが、内心、交際関係など聞けるのではないかと、好奇心を高まらせた。このスペックであれば、クリニックの外の女性も放ってはおかないだろう。
 しかし、順正は沈黙していた。本人の感情が反映されているのかいないのか分からないが、眼光が鋭い。この眼光を浴びると、まだ何も言われていないのに、助産師たちも恐縮しきってしまう。
─そんなに聞いちゃまずい内容だった!?
─機嫌悪くなっちゃったの?
 順正が言葉足らずなばかりに、助産師たちが勝手な想像を浮かべて、顔色を変えるのはいつものこと。内心慌てる助産師の隣で、松下は苦笑いを浮かべるばかりだった。
「犬の散歩」
 やっとのことで、順正の口から発されたのは、あまりにも拍子抜けするような回答。助産師たちは一瞬で顔も体も硬直させた。
─先生、犬、飼ってたの?
─真面目に答えてるの?
 回答があったらあったで、助産師たちは胸をざわつかせてしまうが、順正はそれきり何も言わず、くるりと背を向けた。
 松下はやれやれと、額に手を当てた。
─この朴訥とした性格。
 けれども、妊婦に繊細な、重い話を伝えた後で、ともすれば順正は助産師たちに手厳しい態度を取るのではないかと危ぶんでいた松下は、少しほっとした。
 順正は仕事はできるが、少なからず、性格上の難があった。特にスタッフに高いレベルを求める節があり、助産師や看護師には手厳しくものを言う。患者には、割と温厚に接するのだが。
 相手の成長を慮っての発言でもあるのだろうが、言葉少なで、なかなかそれが伝わりにくい。
 松下は、ソファの背に背中を沈めて、周りに聞こえないように小さくため息を漏らした。
 
 松下クリニックのスタッフたちは、順正が働き始めた当初、この男の扱い方に、ひどく苦慮した。
 基本的に無表情。笑うことはほとんどない。常にイライラしているとか、不機嫌だとかいう感じもしないけれど、気軽に話しかけられるようなオーラではなかった。
 コミュニケーションを取るのが苦手とか、女性の前だと緊張してしまうとか、そういうことならまだ可愛げがあるのだが、順正は誰が相手であっても、緊張したり恐縮したりしない。業務上、コミュニケーションに支障はない。むしろ、うかうか仕事をしていると、若いスタッフだろうが熟練のスタッフだろうが、容赦なく厳しい指摘が飛んだ。普段は朴訥としているが、ミーティングやディスカッションの時には、明確に、理論的に、滑らかに口が動いた。
 こんな不愛想な男では、どういう評判になることやらと心配したが、患者には、それなりに温厚な態度で接するし、診察も説明もすみやかで、かつ丁寧だった。
 産婦人科は、悲しい現実に直面することがある場所である。ここで働くスタッフたちは、そういう中でも仕事に向き合う、使命感が強い者が多かった。それでも時には、悲しみや恐れのあまり、精神的に不安定になったり、愚痴を吐いたりすることもある。しかし、順正はあまり感情的にならない。淡々として、ただ処置を進めていく。沈んでいる様子は見せない。喜怒哀楽が顔に出ないのであった。
 そのため、順正のことを冷酷非情だと思うスタッフもいる。特に、ささいなことでも叱責された後は。
─この男の父親は…
 協働するようになって間もないころ、松下は順正のことを見ていて、松下の友人であった彼の父親のことを思い出したものだ。
─どちらかというと、情が深い方だったが…
 その要素は、順正からは感じにくかった。プライベートの話もしないし、スタッフたちと飲みに行くこともない。順正は自分から好んで、人と関わりを持とうとしないようであった。
 自分が招いた医師が、周囲に馴染もうという努力をしないので、松下はスタッフたちの手前、心苦しく感じたものだ。
 しかし、仕事にかける静かな熱意は、皆も感じ取っているのか、クリニック内で順正の悪口を言う者は、あまりいない(時々、スタッフからの苦情を聞くのも松下の仕事であるのだが)。
 順正は他人に厳しいが、自分には、もっと厳しい。通常診療とオペに当たりながらも、隙間時間に勉強に励む姿を見るのは常のこと。去年の夏には、学会発表も行っている。だからこそ、スタッフたちは、順正を変わり者だと思ってはいるけれど、尊敬もしていた。
─情報をアップデートしない医者は藪医者ですよ。
 それが彼の口癖である。
─こんな田舎に呼び寄せたのは間違いだったかな。
 松下は、時々順正に対してそう思うことがある。
 大きな病院に勤めたほうが、彼のキャリアとしては良かったのかもしれない。けれど順正からは、そういう意味での葛藤を抱えている様子はなかった。彼はここで働くことに、何らかの理由で納得しているようなのである。
 その順正は、今、何をすることもなく、誰と喋ることなく、ただ椅子に座っている。
「柴崎先生って、いつも何を考えてるんだろう…?」
「さあ…?」
 助産師たちがぼそっと囁き合った。高尚な考え事に違いない、と言わんばかりの助産師たちの横で、松下はもう今日何度目か、苦笑いする。
 松下には、だんだんと分かってきたのだ。こういう時、順正はたいてい…。
「柴崎先生」
 順正の後ろに、背の高い、ラベンダー色のスクラブを着ている助産師が立った。先ほど、恵里の母乳マッサージを担当した助産師・岡本だ。
「どうぞ」
 岡本は順正に弁当を渡した。クリニックの者が、希望制で注文する、近くの弁当屋のものである。
「どうも」
 順正は岡本の顔を見ることもなく、弁当を受け取ると、作業机にそれを広げた。
 休憩室は狭い。岡本が弁当を持って休憩室に入ってくると、先に弁当を平らげていた松下と鈴木は席を立った。
「母乳外来に人が来るの、珍しかったですね」
 一人残った森が、岡本に言った。
「そうね」
 岡本は、きちんと膝を揃えて座って、袋から一つ弁当を取り出す。
「開通しましたか?」
 詰まりは取れたのか、という意味である。
「完全にではないかもしれないけど、太い乳管が開通したから、大分良くなったはず」
「へえ、すごいなぁ。私、母乳マッサージって苦手で…」
 と言ってから、森はしまったという顔をして、背を向けている順正を見た。助産師ならば母乳相談にも対応できるようにしておけ、と叱咤されそうであったが、順正は今完全に休憩モードに入っているようだった。
「経験することが大事よ」
「はい」
 岡本は三十代後半の、中堅スタッフ。気が利くし、仕事が早い。後輩や先輩と慣れ合うこともないが、かといって全く話の輪に入らないわけでもない。絶妙な距離感を保ち、このクリニックの誰をも敵にしない。看護師長とアドバンス助産師の草壁がバチバチと張り合っている時など、若いスタッフは圧倒されてしまうのだが、岡本はそういう場面でも常に冷静だ。
「先生、だめですよ」
 落ち着き払った岡本の声が後ろから聞こえて、順正は顔を後ろに向けた。気が付けば、一人残っていた森もいなくなっている。
「若い子の質問に、真面目に答えてあげなきゃ」
 上から諭すような口ぶりである。どうやら、先ほどのやり取りを聞いていたらしい。岡本はすまし顔で弁当の蓋を開け、手を合わせる。
「産婦人科はチーム戦ですよ。先生一人がどんなに優れていたって、スタッフとの信頼関係を常に作っておかなきゃ、回りませんよ」
 順正はもう、岡本の方を見てはいなかった。
「真面目に答えたよ」
 岡本はちらりと順正の後ろ姿を見やった。それきり会話はなかった。
 順正は、ゆっくりしたペースで弁当を食べつつ、今日のおかずを見下ろした。メンチカツと、コロッケがメイン。おかずは日替わり。選ぶ面倒がないことはいいが、揚げ物の頻度が割と多いのが気に入らない。
 順正は消化に重いものは好まない。午後、眠くなってしまうからだ。
 
 午後は休診。順正は午後五時近くになって退勤するため、エレベーターの前に立った。
「あ…」
 扉が開くと、抱きしめるようにリュックを抱えた、一人の女性がエレベーターの中にいた。午前中、順正が対応した患者であった。
 流産手術。
 女は順正の顔を見て、はっとした表情になり、それからすぐに目を逸らした。髪を一つ結びにした、線の細い女。厚着をしているか、それでも寒いようで、肩がこわばって見える。順正が隣に立つと、エレベーターの隅に身を寄せた。
「お迎えは来ましたか?」
 順正は横目で女を見下ろし、口早に尋ねた。
「は、はい…」
 女は、少し動揺して見えた。
 エレベーターで一階まで降りる、わずかな間だったが、狭いエレベーターの一室にはなんともいえない微妙な空気が流れた。
「どうぞ」
 エレベーターの扉が開くと、順正は先に女を通した。女はぺこりと頭を下げると、たたっと小走りに玄関に向かい、靴を履いた。
 順正は建物の裏、従業員用の駐車場に向かい、黒いランドクルーザーに乗り、帰路に着いた。
 上沢市内に借りているアパートは、一棟にたった四部屋しかない。二階建ての二階、南側の部屋が、一昨年の秋から順正が借りている部屋である。間取りは1Kで、部屋にはベッド、作業机のほか、背の低い本棚がいくつか。机の上にはパソコンと、文房具に、いくつもの本、ノート。本棚も、本でぎっしり埋め尽くされている。
 順正は黒い上着を脱ぐと、ドアハンガーにそれを掛けた。身に着けているものを全て脱ぎ、最初にシャワーを浴びる。先に身を清め、いつ寝ても良い状況を作っておくのだ。
─どう扱っていいのか分からない感情があるのなら、今こそ、それに向き合う時です。
 シャワーを浴びながら、順正の頭には美津子の声が鳴り響いていた。ふとした時、記憶がフラッシュバックするのはよくあることだ。
─感情を解放できる機会があるなら、積極的にそうすべきだと思います。
 今度浮かび上がった言葉は、しかし、美津子の発言ではなかった。美津子につかず離れず、あかつきで教育を受けているらしいスタッフのものだ。
 たとえば、先ほどエレベーターに乗り合わせた女が、どういう感情でいるのかというようなことに、思いを馳せることはむろん、よくある。しかし、患者の感情をなんとかできると思ったことはない。それは、こちらの仕事の範囲からはもう離れている。
─僕たちには子宮がついていない。
 体を拭き、部屋着に着替えていると、いつか聞いた、松下医師の言葉が脳裏に蘇ってきた。
─本能的に発生する感情を、僕たちは身をもって体験することはできない。
 だから、想像しろと。
 順正は肩にタオルをかけ、髪を乾かす前に、机の前まで歩み寄った。読みかけの本を、無意識にパラパラとめくる。
 苦悶の表情を浮かべる患者を目の前にすれば、母性は分からずとも、その患者の感情は否応なしに伝わってくる。想像するまでもない。
 だからこそ、そういった患者にかける、ふさわしい言葉を探してきた。より良い選択をさせるために。より早く心を癒してもらうために。どのような声掛けと態度が適切か、専門外の分野からの知見にも常にアンテナを貼っているし、古巣の職場の医師たちと会えば意見を交換し合う。
 けれど…考えても考えても、模範解答など、分かり得ない。
 たとえば、先ほどエレベーターに乗り合わせた女に、どういう言葉をかけたら、どういう態度を取ったら、彼女の気持ちを癒せたというのだろう。
─大丈夫ですか?
 などと、優し気に声をかければ、患者は報われるというのか。大丈夫でないと分かっていながら、そう声をかけるだけで、優しいまなざしを向けるだけで、幾分かは救われるのだろうか。
 精神状態があまりに悪いのであれば、精神科や心療内科、ソーシャルワーカーを紹介することはできる。そして、それが全てだ。現代医療の世界では、一つながりで一人の医師が患者の全てを把握し、対処することは少ない。分野が分かれている。
 順正は、本を置いた。
 助産師や看護師の中には、現場でいろいろなことを見聞きした結果、児童養護施設に転職したり、グリーフケアや、教育機関での指導に携わったりする者もいる。
 この仕事は、おそらく、誰かの喜びと共に、誰かの悲しみや苦しみを目にすることも、多すぎるから。
─悲しいことに対する感受性が強いと、人よりつらい思いをするかもしれないわね。
 また美津子の言葉を思い出した。順正は、自分はそうではないと思う。だからこそ、現場に長く立ち続けることになるだろうとも思っている。
 洗面所に戻り、ドライヤーで髪を乾かすと、順正は再び机に向かった。こんな早くに帰宅できた日には、まとまった時間がなければできない勉強をするのが良い。
 そういえば、夜ごはんを食べていない。が、空腹かと腹に問いかけてみると、そうでもない。今日は昼食が重かった。
 ピコン。
 ラインの通知が入って、順正はちらりとスマホを覗く。
─蓮。
 順正は、誰からの通知であったか確認すると、スマホをベッドに放った。

 朝八時過ぎ。美津子と杏奈は、連れ立って栗原神社へと歩いていた。
 栗原神社へお参りに行くと言ったのは、美津子だった。朝食後に散歩すると、消化が促進される。それもあって、杏奈は同行を願い出た。
 美津子から頼まれて、畑から大根を二本引き抜いてきている。今日のお供え物だった。
「宮司さまは、素材そのものより、アーユルヴェーダっぽく加工した料理をお供えした方が喜ばれるのだけど…」
 それは、お供え物をそのままお下がりとして、神社の者が口に入れるからである。たとえば、ゴツコラジュースのような、非常に美味しいとは言えなくても、効能がありそうなものも、ぐう爺は好んだ。新しいもの、スパイスやハーブが効いたものも、あまり抵抗がないらしい。しかし、今日は素材そのままの、大根である。
「長期滞在を検討中というクライアントがいてね」
「長期滞在…どのくらいですか?」
 美津子の方を見上げると、杏奈は眉毛のあたりに、目深にかぶっているニット帽の感触を覚えた。
「二十日前後」
「すごい」
 美津子は、閉じていたカレンダーを開いたのだ。
 長期滞在も可能というお知らせを通知して数ヶ月。おそらく、最初に興味を持った潜在顧客の何人かが、ようやく、本格的に滞在を検討しだしたのだろう。
 もともと、心と身体の浄化は、数日で達成されるものではない。インドやスリランカのアーユルヴェーダ施設も、効果を生み出すために長期滞在を推奨している。
「ここは田舎だから。あかつきには、定期的に少しずつ通うより、一度にまとまった日数滞在した方が良いと考えるのは、当たり前よね」
「それでも、二十日も休みが取れるなんて、会社員ではない方なんでしょうね」
 あるいは何らかの事情で休息をしているか…
「感染症の前から、パソコンを持ち込んで、仕事をしながら長期滞在する人も多かったわ」
「そうなんですか」
「リモートで仕事できる人も増えているでしょう」
「確かに…」
 仕事をしながらでも、あかつきに滞在しようと思えばできるものなのだ。
 杏奈は大根をおさめているカゴを、反対の手に持ち直した。誰もいない参道を歩く二人の吐息は、白く見えた。
─長期滞在が決まれば、問題はヨガ講師なのだけど。
 美津子は、それが気がかりだった。いつまでも加藤に頼るわけにはいかない。太極拳がいかに、ドーシャを鎮めるプラクティスとして優れているとしても、アーユルヴェーダ施設に滞在するクライアントが求めるのは、やっぱりヨガなのだ。
 杏奈にヨガ講師をさせるのは、本人も自覚している通り、適性がなかった。させるとしても、再教育が必要だ。美津子自身にはヨガ講師の経験はない。体の構造を見て緻密な指導ができるほどの、解剖学的知識もない。とすれば、頼みの綱は沙羅なのだが…
 手水舎で、二人は手袋を取り、手と口を清めた。まだ誰もいない社務所を横切り、本殿を通過し、花神殿の扉を開ける。杏奈は祭壇の前にスペースを作り、風呂敷を敷く。その小さな後ろ姿を見ながら、美津子は今、自分にかかっている圧を、改めて感じる。
「大根はこの上に、横向きに置けばいいですか?」
「ええ」
 むしろどうやって、立てて置くというのだろう。杏奈の質問に心で突っ込みを入れつつ、美津子は祭壇の前に進み、杏奈と並んで立った。
 花神さまにお供えものをし、手を合わせている間、杏奈は何を思っているのだろうかと、美津子は考えた。この行為自体が、サットヴァを養うものと信じて、無心に手を合わせるのだろうか。
 美津子が手を合わせると、その右手の薬指には、ダイヤモンドの指輪がきらめいている。
 美津子は無心になろうと努めながら、目を閉じ、いつもの詩を唱える。
─闇から光へと導いてください。
─偽りから真実に導いてください。
─死から生へと導いてください。

 供えられた大根に最初に気が付いたのは、常勤の巫女である小夜だった。こんな早い時間からここにお供え物をしていくのは、またもやあかつきの人たちだろう。それに、大根の下に敷いている、この曼荼羅の風呂敷には見覚えがある。
「今日は、大根かぁ…」
 どうせなら、甘くておいしいお菓子がよかった。
 美津子たちが敬虔な気持ちで捧げるお供え物だが、神社の者たちは、割と俗世っぽい感情を持ってそれを下げに来る。 
 小夜は大根を回収するべきか一瞬迷ったが、そのままにしておくことにした。寒い屋外に置いたままでも腐ることはないだろう。大根だし。それに、まだ供えられて間がなさそうだ。花神さまの近くにあったほうが、これをお供えしていった人々の気持ちも安らぐだろう。
─気持ち、か。
 巫女の装束のままで長く外にいると、身が凍りそうになる。小夜は社務所に戻りながら、
─このお供え物をする人たちは、何を祈っているんだろう…
 ふとそんなことが気になった。
 社務所の窓口に座り、小夜は退屈な時を過ごした。お正月にはバイトの巫女が増えて、社務所から参拝客を観察してはくすくす笑い合っていたのだが、彼女たちは臨時の日雇いバイト。今は参拝客もほとんどおらず、暇だった。
 社務所での受付を神職と交代したのは、十一時前だった。
 十一時から、舞いの練習がある。もう一人の巫女と二人で舞いをする。小夜は筋が良かった。
 その後、昼休みまでの間、小夜は参集所の掃除をした。机とソファの間を縫うようにして、赤い絨毯に掃除機をかけていた時に、何か厚みのある柔らかいものを踏んずけた。
「いったぁ…」
 ふと足元を見ると、袴姿のぐう爺が転がっていた。
「あれ、じいちゃん。そこにいたの」
「いたのじゃないわっ」
 ぐう爺は立ち上がって抗議した。先ほどまでほふく前進をするような状態で、床に這いつくばっていたのだが。
「何してたの?」
 ぐう爺は答える前に、やつれた表情で、はあ~とため息を吐いた。小夜は祖父に対し、ため息を吐く癖は直した方がいいと思っている。
「この間の戌の日に、参拝客の中にいた子供が、おもちゃを落としたと…」
 そのため、栗原神社のボスである宮司が、床に這いつくばって探していたと。
「どういうおもちゃ?」
「指輪だ」
「あー、ちっちゃい女の子好きだよね、そういうの」
 小夜は小さなおもちゃの指輪が落ちていないか探しながら、掃除機をかけた。
「じいちゃん」
「なんだ」
 時々掃除機の音が止んで、小夜の高く透き通った声が響く。
「じいちゃんは、今年の花祭はお休みなの?」
「表向きはな」
 祝詞(のりと)を上げる役は、神職と神主に任せるつもりだ。花祭には、テレビ中継や新聞記者も訪れる。祝詞を上げる役は注目の的なのだが、意外にもこのおじいさんは注目を浴びることには興味がないらしい。
「先生の写真、どのアングルから撮ったやつが好き?」
「アングルって角度のこと?うーん…というよりか、ちょっと雨に濡れて、前髪から水が滴ってる時のが…」
 そこまで言った後で、ぐう爺は顔を上げ、小夜を睨みつけた。
「何を言わせとる!」
「あっ!あったよ~!」
「え、うそぉ!」
 ソファの座面と背もたれ部分の隙間に、プラスチック製と思われる小さな指輪のおもちゃが挟まっていた。
「こんな小さな、安そうな指輪を探すのに、時間を使っているじいちゃんの時給っていったい…」
「お前、喧嘩売っとるのか」
 ぐう爺は拗ねたような目で小夜を睨みつけた。と同時に、ぐう~とお腹が鳴る音がしてしまうので、どうにも決まらない。
「腹減ったなぁ」
 今度はしょぼくれた顔をする。ぐう爺は顔の変化が忙しい。
「今日の昼めしはなんだろうなぁ…」
「大根だよ、きっと」
「なんで?」
「大根のお供え物があったから」
「昼めしが大根とは…」
「うーん、大根を使うかもしれないけど、全部が全部、大根じゃないと思うよ」
 小夜は慰めるように言った。
「そんなこと分かっとるわ!」
 どうも小夜とは、とんちんかんな会話になってしまう。彼女の兄である神職は、もう少しまともなのだが。
 参集所の奥にある炊事場から社務所の方へ向かって歩いていた神主は、二人の様子を遠目に見て、目を細めた。
─何やっとるんだ、おやじは…
 通りすがりに、息子が呆れた目を向けているとは知らずに、
「それにしても、また美津子さんだな。毎回花神さまへのお供えもの、ご苦労なことだ」
 ぐう爺は心の中でそう思ったつもりだったが、声に出ていた。
「ねえ、じいちゃん。あかつきの人たちはどうして、花神さまにお祈りしに来るの?」
「はあ?なぜそんなことを聞く」
「うーん、何を祈ってるのかなぁと思って…」
 この神社からほど近いところにあるあかつきという屋敷が、アーユルヴェーダの癒しの館だということは小夜もよく知っている。だが、インドエステのサロンの人々が、薬祖神の化身と言われる神さまに、なぜ祈りを捧げるのか分からなかった。
「家族に病気の人がいて、治りますようにって願ってるのかなぁ?」
 商売繁盛を願ってのことなら、花神さまではなく、その東方に祀られる栗原稲荷社に詣でれば良い。そうではなく、花神さまに祈るということは…小夜は、そう推測した。
「だとしたら、なんだかちょっとかわいそう」
「かわいそう?」
 ふん、とぐう爺は鼻を鳴らした。
「どこがかわいそうなんだ。病にかかった者が身近にいることか?病を治すために自分たちにできることは祈りしかないということが、か?」
 小夜は、目を見開き、しばらく答えが出なかった。どうしてかわいそうだと思ったのか、理由はわからない。ただ、ふとそういう感情が浮かんだだけだ。
「人が何かに祈る時、祈りの対象から加護があるとは思っとらんよ」
 だから、無力ゆえ祈るのではない。
「むしろ、意志を強化するために、祈っておられるのだろう」
 ぐう爺は、珍しく深淵な表情をしている。
 そんなぐう爺を見ながら、小夜は、空腹を感じた。

 ホールの階段の、西側にある物置。
 美津子はスリランカから輸入しているアーユルヴェーダオイルや、サプリメントなどのプロダクトを、その物置の中の所定の棚に納品した。アーユルヴェーダオイルはきちんと化粧品として登録をしている。あかつきの創立を考え始めた頃、美津子は薬機法はじめ、様々な法令を理解するのに苦労した。けれど、そこをおざなりにしなかったおかげで、自信をもってクライアントに勧められ、販売することもできる製品を扱えている。
 これらは、輸送コストを下げるため、船便を使って仕入れている。発注から到着までに、一か月ほどを要することもあった。そのため、今回はどれも多めに発注した。今後、たくさんのお客を迎え入れることになるという予想と、覚悟の上で…であった。
─といっても、感染症が広まる前のレベルにはほど遠いけれど…
 美津子は、新しいオイルを棚の後ろにしまいながら、このオイルの量だけ、背負うものが増えるのを感じる。
 感染症拡大のため、事業を縮小していた頃、美津子は気持ちが軽くなったと感じた。クライアントの期待、要望、不満、怒り…そういったものから、解放されたのかもしれなかった。
 そして、思ってしまった。このまま、あの重圧から解放されていたいと…。
 美津子は、物品を全て納品すると、スリランカで製造されたらしい分厚い段ボールをたたんで、物置の隅、他の段ボールが溜まっている場所に置いた。
 物置を出て、ホールからふと書斎の方を見ると、杏奈が机に向かいながら腕組みしている。日曜日でも、業務外でも関係なく、日々こうしてここで、勉強をしたり、美津子の出した課題に取り組んだりしている。今日に関していえば、おそらく、美津子が指示した新しい仕事をしているのだろう。
 感染症で、あかつきから仕事がなくなっていった時、打開策を打ち出そうとするスタッフはいなかった。あの頃、多くのサロンは、感染症対策をした上で営業を続けつつ、補助金を頼り、さらにオンラインでの教育や物販に力を入れ、苦しい時期を乗り越えようとした。
 美津子は、しかし、一人でできる範囲で営業を続けながら、事業規模を縮小することを選んだ。幸い、地元のお客の足は遠のかず、自分一人が生きていくくらいの見通しは立っていた。何より、肩の荷が下りることに魅力を感じてしまった。
─そんな時だったか。
 杏奈があかつきで働きたいと言ってきたのは。
 初めて会った時、死んだような目をした子だと思った。生気がなく、もう一生、自分に楽しいことは起きないと思っているかのような、暗い表情ばかり。
 けれども、まとっている雰囲気とは裏腹に、杏奈の頭と手はよく動いた。地道にルーチンをこなし、意外にも積極的に、あかつきの事業を推進するための案を出し、即実行している。
 その努力ができるのは、あかつきで働く先に、彼女自身の願望が満たされると信じているからに他ならない。その一縷の望みを持って、美津子のところに来た。
 しかし…
─お前は分かっているのか。
 美津子は、遠巻きに杏奈の様子を見ながら、心の中で杏奈に問わずにいられない。自分の感情を解放することと引き換えに、人の感情を背負う重圧を…
 深い思案に入ると、杏奈は外界の気配や物音に、ちょっと疎くなる。こちらが様子を見ているのにも、気が付いていないようだ。
 美津子は居室で野良着に着替え、玄関から外へ出た。
 現在、あかつきの畑の半分ほどは、休耕としている。育てているのは、カブ、大根、白菜、小松菜、ブロッコリーくらい。今のうちに、寒起こしをして、春の種蒔きに備える。
 美津子はくわで土を掘り起こした。旬の野菜は、それ以外の時に採れた同じものと比べて、栄養価が高いという。どれだけ良い野菜を作れるかは、休耕の間の、畑への手の入れ方にもよる。
─来年は、カリフラワーも育てようか。
 カリフラワーなど、茹でるくらいしか調理法を思いつかなかったが、杏奈が好んで使いたがる野菜なのだ。
─アブラナ科の野菜は、ピッタに良いんです。
 胃に良いとかなんだか、言っていたっけ。食材を見るにも、アーユルヴェーダの料理人ならではの目線があるのだろう。
─アーユルヴェーダの料理人とは、おかしなものね。
 と、美津子は思う。
 食べ物を美味しくするだけが、アーユルヴェーダの料理人ではなかった。時には、食べる者の健康を慮り、美味しさを二の次にした料理を作る。また時には、食べるという行為自体を、止めさせもする。仁美のケースがいい例だった。
 一列耕して、次の列に移る。畑を耕す作業は、無心になれてよかった。
 キィ…
 鈍い音がして、門扉が開いた。集中すると、外界の気配や物音に疎くなるのは、杏奈だけではないようだ。
「ミツ」
 低い男の声がして、美津子は初めて、順正と南天丸があかつきの敷地に入ってきたのを知った。

「順正」
 後ろを振り向いて呼びかけながら、こんな時間に珍しい、と思った。いつも、早朝に南天丸をピックアップして、あかつきへは午前中のうちに寄ることが多いのだが、もう昼下がりだ。
「侘しい畑だな」
 春には、色鮮やかな野菜がすくすく育っていたが、今の畑は灰色みを帯びた土ばかりの一帯と、くすんだ色の野菜が、こじんまりと実っているばかり。
 美津子は、皮肉っぽい順正の言葉に構うでもなく、再びくわを振るう。
「南天丸にお水を飲ませる?勝手にお皿を取ってきていいわよ」
 美津子はそう言ったが、順正は書斎に電気が灯っているのを見て、
「客がいるのか」
 そう訊かれて、美津子は顔を母屋に向けた。人気があるように感じたのだろう。
「ううん。杏奈がいるから」
「ふうん。客がいないのにスタッフを置いてるなんて…」
 ずい分経済的な余裕があるものだ。
 順正は和風庭園を囲う土留め用の石材の上に腰を下ろした。今日も山用のジャケットを着ている。
「常駐しているのよ」
「常駐?」
 美津子は、顔を上げて離れの方を指差した。順正は後ろを振り返る。
「まさか…離れに住まわせてるの?」
「そうよ」
「常駐させるほど賑わっているとは…意外だな」
「ずい分と皮肉ってくれるわね」
「春にここに来た時、ミツは仕事を辞めそうな雰囲気だった」
 美津子が土を耕す手は、一瞬緩んだ。
 見ている者は、見ているのだ。
 南天丸は主人の傍にすり寄って、そのまま大人しく座っている。
「あの子をここに置いているのは、教育のためよ」
 美津子は規則正しい速度で、くわを下ろす。
「忙しい?」
 今度は、美津子が順正に訊いた。順正は両肘を両膝の上に置き、やや前かがみになる姿勢で、少し前の地面を見つめていた。
「普通だよ」
「そう。オンコールは多いの?」
「いや、時々」
「頻繁じゃないならよかった。不規則な生活だとヴァータが乱れやすいから。今日は当直じゃないのね?」
「それならここには来ないよ」
 それもそうか。
 それにしても、順正の低く、つぶやくような声は聞き取りにくい。
「ちゃんと食べてる?ラジャスっぽいものやタマス的なものばかりじゃダメよ」
 順正はため息を吐いた。
「どうだかな」
 弁当は、ベストではない。しかし、中途半端に自炊するよりはマシだろう。栄養的にも、経済的にも、時間的にも。
「なんなら、夕飯を食べて行く?」
 順正は首を振った。美津子は視線を土に向けていたが、視界の上の方で、順正が首を振るのがかろうじて見えていた。
「侘しい畑だけど、この畑で採れた野菜は、プラーナ豊富なのよ」
「ミツ」
 順正は、眉根に皺を寄せた。
「アーユルヴェーダの言葉を使うのはやめろ」
「何?もう少し、大きい声でしゃべってくれない?」
 順正は、背筋を伸ばし、はあ…と息を吐いた。
 天を仰ぐと、一面灰色の空が広がっていた。北東の方角から微風が吹いている。風とともに、明神山のほうからかすかに森のにおいがする。しかし、美津子には、もっと濃い森のにおいを、順正から感じていた。
─森林浴をして、サットヴァを養ってるのね。
 それはいい方法だと、美津子は思う。
 順正は、見るともなしに畑の様子を眺めている。ただ、そうしているだけ。あかつきに来た時の、放心したような彼の状態。松下クリニックの医員となるため、順正が上沢に引っ越し、休みの日にあかつきに訪れるようになった頃、美津子は順正のぼうっとした様子を不可解に思っていた。少しだけ心配もしていた。
 でも、今はなるほどな、と思っている。
「順正」
「なんだ」
 美津子は土を耕すのをやめ、くわを置いて、順正と一つ間隔をあけて石材に座る。
「患者さんたちからきつく接せられることはない?」
「…」
 順正は、苦々し気に、目を細めた。
 今までにこにことして検診を受けに来た妊婦が、急に鬼のような形相になる。夫が殴り込みに来る。胎児や母体に何かあれば、いくらこちらが、丁寧に、正しく対応していたとしても、一瞬にして患者の態度は豹変する。
「…今までよりは」 
「そう。順調なのね」
「母数の問題だよ」
 前に勤めていた大学病院や市民病院では、今よりも多くの患者を相手にしていた。その分、いろいろなケースに当たってきた。重いケースも、稀にあった。
 松下クリニックでもそれは同じだ。ただ母数が異なるため、それに当たる回数が少ないというだけ。
「常に生死に向き合う仕事は、大変でしょう」
「…」
「私も、あなたほどではないと思うけれど、重たく感じることもあってね」
「…」
 美津子は、唇を噛んだ。
 話した後で、話すべきことではなかったと、軽く後悔の念に苛まれた。順正はきっと、放電しに来ているのだろうから。
 順正が沈黙するのは、沈黙を守れば話が続くことはないと考えてのことなのかとさえ、美津子は考えた。
─野暮だったか。
 無心になろうとしている男の邪魔をするのは。美津子は、やはり少し後悔した。
「思いが弱くなったのか、ミツ」
 意外にも、穏やかな声が聞えて、美津子は隣に座っている男を見た。加藤のようなことを言う。
 順正は地面を見ながら、少し嘲笑するような笑みを浮かべていた。 
「今までの実績で満足か」
「え?」
「それなら無理に続けず、引退して畑を耕していればいい」
「ずい分な言い方ね」
 言いながら、順正に嘲笑されたことで、美津子はむしろ気が軽くなった。この男に言わせれば、そんなことは、問題にならないということか。
 重圧など…強い思いでもって、乗り越えるだけのことだと。
 ふう、と美津子は息を吐いた。
「まだ、やらなければならないことがあるわ」
 そう呟きつつ、自分に言い聞かせているように聞こえなければいいのだが…と美津子は思った。
「あなた、少しは手伝うって言ったらどう?」
 美津子は順正に向き直り、くわを指差した。
「スタッフがいるんならスタッフに耕してもらえ」
「掃除と畑仕事は社長がやると決まっているのよ」
 順正は首を振りながら、心の中で独りごちた。美津子は甘すぎる、と。
「運動したほうがアグニが喜ぶぞ」
 順正と南天丸は、すでに二時間以上も山を歩いてきた。この後、同じ時間をかけて山を越えていく。労働よりも、あらゆる意味での休息を求めていた。
「あなたったら、こういう時ばっかり…」
 アーユルヴェーダの言葉で、仕返しをされてしまった。美津子は文句を言おうと思ったが、やめた。立ち上がり、再びくわを持ち、土に向かい合う。
 順正は少しの間その場に佇んでいたが、何の前触れもなく立ち上がり、母屋に入った。

 ホールに足を踏み入れた途端、いつになくまた、スパイスの香りが濃いと感じた。春頃に来た時は、ここまでではなかった。どうもこの家にはスパイスの香りがしみついている。
 時々、カタカタッとタイピングの音がする。このスパイスのにおいは、この音を出している者の仕業だろう。
 順正は、静かに歩みを進めると、書斎の奥に視線をやった。そこには杏奈がいた。重そうな前髪、地味な印象は今までと同じ。今日は長い黒髪は結い上げておらず、背中のほうへ流れていた。時々指を口元に当てながら、ずい分と真剣なまなざしをパソコンに向けて、カチカチと何かを入力している。
 誰かが入って来た気配に気付いたのか、ふと、杏奈はホールの方へ顔を向けた。美津子が戻ったのだと思っていたのに、別人がそこに立っているのを見て、杏奈は口をふさぐように片手で口元を押さえながら、
「あ…」
 と、明らかに狼狽した表情をする杏奈とは対照的に、順正は涼しい顔のままホールから立ち去った。その体格の割には軽い足音が遠のいていく。
─先生?
 見間違いではないだろう。この男と顔を合わせることは、杏奈にとって遭遇という言葉がふさわしい。
 無意識に順正から遠ざかる方に、体が動いていた。咄嗟に取った行動だけれど、それほどまでに、彼を警戒しているということだ。せっかく培ってきたなけなしの自信が、にべもなく覆されてしまうことを言われたら、たまらない。
 再び足音が近づいてきて、杏奈は身構えた。しかし、順正は今度は書斎に視線を投げることなく、ホールを奥に進んで、ホール側からキッチンへ入った。
 順正はキッチンで水を飲むと、給水器を手に取り、そのまま足早に母屋を出て行った。
 順正が通り過ぎるたびに、杏奈は例の心配によって体を硬くしていた。が、心配は杞憂で終わった。玄関の扉が閉まる音がすると、杏奈はほっと胸をなでおろして、カーテンを開けて外の様子を見た。
 美津子は、まだ屈んで畑仕事をしている。
 さっき出て行ったばかりなのに、順正はもう敷地の南側、水道がある場所まで歩んでおり、逞しい中型犬が跳ねるように主人に走り寄った。
 杏奈は、ふう…と息を吐きながら、あと何回遭遇すれば、自分はこんな風に身構えずに済むのだろうと思った。

 

 

 


 

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